鏡の中の「彼女」
必死に堪えていたのに、それは何とも呆気なく決壊した。
ぽろぽろとこぼれ落ちるそれを、手のひらで受け止める。
隠すように強く握りしめて、そっと席を立つ。
大丈夫。きっと誰も気付いてない。
駆け出そうとする足を押さえつける。どうにか平静を装って、私は部屋を出た。
下瞼に溜まった涙が流れないように、少しだけ視線を上げて。
私という存在なんて始めから無いかのように、すれ違う人は誰も気付かない。
トイレの個室に籠城して、ようやく息をついた。
呼吸の度に小さくしゃくり上げて、それが誰もいないトイレの中に響く。
明確な理由なんて、たぶん無いんだと思う。
どうしようもない程の不安感と、押しつぶしそうな自己嫌悪で頭の中はぐちゃぐちゃと混乱している。
小さなスイッチひとつで意とも簡単に壊れる心は、見えないけれどきっと傷だらけ。
小さなひっかき傷から、大きな切り傷と青く変色した打撲痕。
知らないうちに傷ついて、自分ではもう、どうしようも出来ないところまで来てしまった。
壁に背中を押しつけて、ずるずると屈み込んだ。
止めようのない涙をトイレットペーバーで拭っては、便器の中に投げ捨てる。
『コン、コン』
私のたてる音ではないそれに、はっとして息を潜めた。相変わらず涙は眼からこぼれ落ちている。
『コン、コン』
もう一度。
いくら耳を澄ましても、トイレの中にあるのは換気扇が回る音だけ。
でも、確かに聞こえた。
『コン、コン』
また。
そして気付いた。心の内側から誰かが何かを知らせようとしていることに。
涙は止まっていた。
『大丈夫だよ』
私には、そう言っているように聞こえた。
鏡の中に「彼女」がいた。
泣きはらして真っ赤になった瞳で「彼女」は言った。
『泣かないで。私はずっとあなたの味方だから』
鏡の壁をすり抜けて、「彼女」はそっと手を伸ばしてくる。
指先がの頬に触れた。私のそれとは違って、柔らかく温かい。
じわりと温もりが広がって、心の痛みが僅かに和らぐ。
「彼女」は安心したように、小さく首を傾げて微笑んだ。
気が付くと、私は鏡の前に立っていた。
長く伸びた前髪の中で、真っ赤になった瞳と目が合う。
幼い表情の「彼女」は、昔の私によく似ていた。
鏡の中の「彼女」