ア太は幼い頃、駄菓子屋のおばさんに誘拐された。
駄菓子屋は公園の近くに建っていた。子供たちは遊具で遊ぶ事は普通のことであり、遊び疲れ腹が減ると駄菓子屋に当然、砂糖をまぶしたドーナツを買いに行くのである。時にア太はまだ幼く親に手を引かれて歩く年数であった。しかしア太は親の目を盗んで子供たちの声のする方向へと誘われて向かい、甘い香りのする場所へと辿りついたのである。
 だが、この出来事はア太にとっては些細な事であり、それは問題ではない。ア太の名前はその後『直』と変わり、ある大企業のサラリーマンとして働いていた。裕福な少年期を送り、良い教育から知識を得たので難解と言われる大学にすんなりと入学した。もう一つ付け加えるのならば、容姿にも恵まれていた。これには勿論の事ではあるが異性も放っておく筈がなく、甘い汁に誘われた虫の様にしてあつまってくるのである。皮肉にも彼は全てが順調に行き過ぎた所為で、興味、興奮、が欠如してしまい、心の中では、勘弁してくれ。と願った。しかしア太がその様に望んでいても周囲の居る人間が本来持ち合わせている、衝動による行動によって愉しむのだ。ア太が欠如した歯車を他人はまるで、歯車を軸にして回転した。それは男女がS極とN極の磁気に引き付けられて創られているからだ。いやそれ以外にもある。夢や希望と言った、将来に対する志。まさに若い者に許された明日への喜びに関する青春の会話である。まさにこれから羽ばたき、飛び立つ若鳥の様にしてだ。その輪を崩さない、ヒビを入れてない様にしてア太は、その中に潜んでいた。彼らと成長していく節々、当たり前の姿に、当たり前の時の流れに、理解出来なかった。まず恐怖が刺した。最初の恐怖は彼らは一つ努力し、手に入れた物に手を叩いて笑顔を作った。非常に喜んだのだ。目標を達成した時の嬉しさである。パッと明るくなる表情。ア太には分からなかった。何故、笑う。訳が分からなかった。ア太の不運は目標を持たずとも全てを成し遂げていく事であった。そうした事で幼少期から青年期へと進むにつれて優秀な能力はア太の大切な部分の発達を妨げた。大学に進学して二つ目の恐怖を得てしまう。ただこれまでとは違う、内面の能力とは対比して外面の外皮に注目する絶頂期が訪れたのだ。この時、初めてア太は自分の姿を呪った。もし自分が普通の一般の凡人であったならば、まだ少し静かに傍観者の振る舞いを装って立場を定める事が許されたのであろうに。
 それで、ア太は駐車場を通ると決まって自動車のガラスを見た。黒く反射するガラスを好んで覗いた。ア太の顔も黒く反射して中途半端な薄い影が返答をする。ぼんやりとした輪郭がア太の意識を逃がす。そして思う。彼女たちが観ているのはこの、黒い影なんだ。本当の僕を観ている人はいない、哀れ、また僕も哀れだ……数分後には其処から立ち去った。携帯が鳴って、名も思い出せない人から『次の講義まで空いてるでしょ? それまで図書館に行こうよ』と、正直に言うと断りたい、しかしその不名誉な優しさは首を縦に頷く。周りには誰もいないのに。
 苦しいと募るカスは沈殿して体内の底に溜まる。何処へ行っても喜ばれる微笑みと、嫉妬のない誉の言葉が同期から注がれる。
 ア太は空洞の金細工の大人になっていた。

 燕が低く飛ぶ日であった。ア太は突如として思い立った。ア太は綺麗に整頓されて置かれている資料をゴミ箱に捨てた。パソコンの中にあった書類と図面を捨てた。携帯を開いて全てのアドレスを消した。約丸三桁する腕時計もゴミ箱に捨てた。そしてスタスタと歩いて部長の前に立った。
「部長、退職届をお渡しします」
 眼鏡を掛けた賢そうな顔をした男が瞳孔を開いて「君、何を言っているんだ。職を捨てるのか? 君は将来を約束されているんだぞ? これからどんどん昇進していくし、社会的地位も他の人から見て羨ましく思われ、高い収入も得られるんだぞ? 会社だって、大きなプロジェクトを君に任せているんだ。何が不満なのかね?」
「はい、不満はあります。この地位です。僕は捨てたいのです」
 ア太はそう言ってネクタイと背広を脱いで床に投げ捨てた。
 次にア太は高級自動車を解体屋に持って行った。この時、解体屋の職人が「兄ちゃん! この車を捨てるのかい?」と歯の抜けた口を大きく開けて聞いてきた。他にも高層マンションの一室も売り払った。すると不動産からの帰り道に背後から「直くん! 一体どうしたっていうの? お父さんから聞いたわ、会社をいきなり辞めるって部長に言ったんでしょ? もしかして、趣味を優先するの? そうなのね? 絶対そうよ」
 彼女はア太の婚約者で、社長令嬢でもあった。容姿端麗、品のある、まさに非の打ち所がない女であった。その婚約者に向かってア太は首を横に振った。
「僕は仕事を捨てたんだよ。そっか、これも捨てないと」そう言ってア太は右手の指をボキ、ボキと折りはじめた。その光景を観た社長令嬢は「ひっ」と言って「な、なにをしているの直くん! 貴方には絵の才能があったのに、それも棒に振るの!」
「別に僕が望んだ才能じゃないんだ。捨てても構わないだろう?」
「きっと、疲れているのよ直くん……わかった、私の家に帰りましょ、そこで休んで……」
「いや、僕は君と別れる。婚約は解消だ。それじゃ」
 そう言ってア太は婚約者を捨てた。
 ア太は続いて考えた。次は何を捨てることが出来るのだろうか? それで、ア太は考え付いた事柄を捨てた。学歴、職歴、名前、国籍、捨てたのだ。大金はマッチを擦って燃やした。そうした後、灰を集めて捨てた。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-15

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