静香のこと

夫は焼き魚を食べるのがうまい。

うまいというよりも
もう芸術といえるような箸さばきで
静かに確実に身をほぐし
黙々と口に運び咀嚼する。

そのさまは
とても美しく
わたしは
この人と生活を共にすると決めたのは
間違いではなかったと思う。



夫とは
見合い結婚である。

20代から30代にかけて
必死にしがみついてきた
人生一度きりの大恋愛に
無残にも 燃え尽きたわたしは
お決まりのように引き篭もり
それを心配した親戚に斡旋されて
あれよあれよと
ある由緒ある和食の店の個室にいた。

後に夫となるその人は
つるりとした頭にかいた汗を
しわひとつないハンカチで拭いながら
わたしを待っていた。

部屋に入って
その姿を目にしたとたん
あの人 ではない
そう思って
わーっと泣いてしまいたい衝動に駆られる。

まだ完全には平気にはなれない。
なれるのかどうかもわからないけれど。


それでも
わたしは生きてゆかなくてはならないのだ。


とはいえ
お見合い であろう この窮屈な会食で
すぐさま
決めてしまわなくてはならないわけではない。

美味しくて上等な料理が食べられるのだからと
わたしは ともかく食事を楽しもうと思った。


誰かと外食など
本当に久しぶりだった。

その人の食事のしかたは
とても静かで美しく
育ちの良さが滲み出ていた。

芸術作品のような懐石料理や
窓から見える手入れされた庭は
会話のない私たちを救ってくれる。


「もう秋刀魚の季節なんですね」


秋刀魚が飾り切りされた
小さな一口サイズの寿司を食べながら
その人は ようやく口を開く。


「こんな秋刀魚、初めて食べました。
綺麗ですね。」

「わたしも、滅多に食べませんよ。
秋刀魚は塩焼きが一番です。
普通 がいい。
普通が一番いいんです。」


その人は
そう言って恥ずかしそうに笑った。


また しばらく無言での食事が続いた。
食事は終わりに近づいてゆく。


わたしは
ゆっくりと料理を味わい
外の緑を眺め
目の前の その人の食べる姿を見た。


ちょうど そのとき
その人は
ちょっとだけ空気を固くして
一息に 言ったのである。


「わたしと生活を共にしてくれませんか?」


あまりの唐突さに
何を言われたのか わからなかった。



「生活…ですか?」

「はい。普通の生活を。」

「普通…ですか…」

「はい。」


おうむ返しのわたしと
ばちり と目が合って
その人は 箸に挟んでいた お新香を落とした。


生活。
普通。

その言葉が
すとんと胸にぶつかって
ふわりと膝の上に乗った。


その どちらも
あの恋では得られなかったことに気づき
これは まったく別なことなのだと思った。



彼がテーブルに落とした胡瓜の御新香を
わたしは
ひょいっと手でつまみ上げ
ぽりぽりぽり と食べた。

彼は驚いた顔で
胡瓜を咀嚼する わたしを見ていた。


「いい音で食べますね」


そう言って
彼も
白菜の御新香を
手でつまんで口に入れたが
白菜は胡瓜のような音はしなかった。


しばらく
御新香を食べ
互いの食べる音に耳を澄ませた。

御新香がなくなったところで
ふたりで
改めて目を合わせて笑った。


「よろしくお願いします。」



気付いたら頭を下げていた。

自分でも よくわからない。
その人のことが好きだとか嫌いだとか
自暴自棄になっているのかとか
今すぐ結論を出すこともないのに
なぜか わたしは頭を下げていた。

慌てて
彼も頭を下げた。

「こちらこそ。」

下げた頭のてっぺんはつるりとしていて
汗が光っている。


「え?…ほんとに…?」


つぶやく彼を放ったらかして
庭に目をやる。

美しく手入れされた隙のない庭。


庭も もっともっと普通でいい。


デザートのわらび餅と
熱いお茶が出てくる。

ゆっくりと
それを楽しみながら
少しだけ 心が ざわざわと揺らめく。


どうなってしまうのかわからない
自分の人生を。

自分で選んだとはいえ
流れに逆らわずに
ただただ流れてゆくように決断をした。

今まで
必死に流れに逆らって泳いでいたのに。

たくさん水を飲んで
ぶくぶくと沈んでしまったから
もう余計な力や思考能力は働かず
ただ ぷかりと浮いて
ゆらりゆらりと川下に流されてゆくのだ。


もう それしかないような気がした。

静香のこと

短編映画で
静香 という女性になりました。

彼女について
あれやこれや
日々 考えていたときに
こんな話が やってきました。

せっかくなので
残しておきたいなぁと思いました。

静香のこと

役作りから生まれた 小さな小さな お話です。 静香のこと。 静香が 結婚を決めたとき。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-15

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