座席
一
迎えた朝を車で拾いに行く約束を思い出した日は,午後からますます慌ただしくなり,ミスをしないように注意しながら,雑用も一つ残さず済ませた頃にはすっかり日が暮れていた。外を眺めれば,窓ガラスに写る室内の景色と自分に出会える,例の時間だ。気恥ずかしい感じを乗り越えて,向かいのビルの明かりを見ると,懐かしいパズルゲームを思い出すし,各フロアが一丸となって,意味深な文字のメッセージを発信しているようにも見える。そういう単純な発想の気晴らしが,心地いい時間でもある。パソコンの電源を落とす前に,カップのコーヒーを淹れて飲みたくもなる。ほっと一息,なんて口にしたくなる。けれど,そうしている余裕はない。しなきゃいけない準備がある。整えなきゃいけない身支度が待っている。さっぱりした気持ちで迎えたいのだ。僕も朝も,そしてニワトリも。
僕より一足先の出かける用意を整えたニワトリは,その赤い鶏冠に今風のアレンジを加えて,姿見の前を行ったり来たりして入念なチェックを続けていた。その後ろ姿を見ながら,風呂上がりの夕食として,サンドイッチを頬張っていた僕は,九時を伝える天気予報をチェックして,朝が綺麗にやって来ることを確認して,柄にもなくドキドキした。ニワトリに負けず,僕も気合いを入れなければ。そう思い直し,サンドイッチの残りを熱々のコーヒーとともに飲み込みながら,予定していたコーディネートをイメージし直して,腕時計をもっとシンプルなデザインのものにしようと決めた。それと,朝を迎えた後で,一緒に食べる最初の朝食には,口コミサイトで人気のあの店でとることも決めた。そうして食器を片付けた僕は,洗面所の鏡の前に立って歯磨きを済ませ,うがいをし,伸び始めていた髭を剃り,髪を乾かして自然な感じに整えた。あちらも忙しそうなニワトリと入れ替わる形で自室に入り,用意していたシャツの袖に腕を通しながら,壁に掛けられた思い出の写真を視界に収めた。どの写真にも,僕と朝とニワトリがいる。うち二枚は,僕とニワトリがそれぞれに撮影者の役を交代で務めてシャッターを切った,大切なツーショットが色違いの額縁で仲良く並んでいる。ブルーは私のラッキーカラーであり,赤はニワトリの自慢の色だ。そこに輝く朝は,どちらを取っても眩くて見惚れる。どこまでも照らす笑顔の先に,僕もニワトリも居たのだから。そこから次々に浮かんでくる思い出の数々に気を取られて,二個も掛け違えたシャツのボタンを最初からやり直すところをニワトリに見られても,今夜は何の問題にも発展しない。僕もニワトリも,大事なことを見逃したりしない。待ち合わせの場所まで車で数時間,遅刻は絶対に厳禁だと双方が自覚している。僕らは立派なチームである。だからニワトリが車のキーを嘴で咥えて玄関に向かうし,僕が忘れずに最後の戸締りを終わらせる。軽く羽ばたくニワトリによってドアは間違いなく開き,僕の手によって無言で消された灯りたちは,その出発を静かに見送ってくれた。回した鍵は,楽しみに待っていると伝えていた。行ってきます,と僕は言った。一足先にニワトリは,短い階段を飛んで下りていた。小走りになった僕は次第に駆け足になって,階段を下りていった。駐車場はすぐそこだ。運転は流石に僕の担当だ。車のエンジンを入れなければ。それから走り出して,街を抜けて,長いラインを海沿いに流していって,朝を迎えに行かなければならない。
選曲はニワトリに一任したので,ニワトリが即席で作り上げたプレイリストが車内の空気を乗せ,安全運転で世界が進んだ。時々,僕のリクエストにニワトリが答えてくれたので,僕は朝が好きだった曲を毎回,口頭で伝えた。勿論,どの曲も必ず流れたし,僕もニワトリも一緒になって歌った。ニワトリの声量と高音は相変わらず見事で,僕も負けずに,自慢の低音を聴かせてやった。奇跡のハモリも生まれた。僕ら以外に観客がいない事が残念に思えて仕方なかった。そうこうしているうちに,待ち合わせの海岸が見えてきた。僕らは静かにボリュームを下げて,いつも止めている地点へとタイヤを進めて,ゆっくり,ゆっくりと止まっていった。
車内のデジタル表示は,僕らが少し早く着いたことを知らせた。遅れずに済んだことにホッとした僕とニワトリはシートベルトを外して,それぞれにドアを開けて,外に出た。風も吹いたり,止んだりしていた。僕らは黙って待っていた。そうして,夜が明けるのを待っていた。
僕らはお互いの気持ちを知っている。それを改めて口にするのも,僕らの大事な儀式だった。
ニワトリは僕に言った。僕はニワトリに言った。
過ぎる時間は意外に遅いことを,毎回ここに立って思い出すのは,やって来た朝を迎えることと,その後で過ごす時間にあまりにも夢中になっているために,すっかり忘れてしまうからなんだろう。ということは,こう思ったことも,きっとすっかり忘れてしまうんだろう。何の変わりもなく,いつものように,時間通りにやって来た朝を見つけて,朝を迎えて,また一緒の時間を過ごせることがもう決まってしまったのだから。僕もニワトリも。
相変わらず元気そうで,何よりなのもお互い様だ。
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