車椅子独り旅【博多編】

車椅子独り旅【博多編】

「 車椅子一人旅。博多編」施設暮らしの障害者が一人車椅子で旅した記録です。
昨年の私は、良い事が無かった。 でも良い思い出ばかりです。
今年日本に台風が来ないうちに、旅行の計画を立てて速4月に実行です。
 行く先は?「テレビを見てたら博多ラーメンを美味しそうに。ある女優さんが
食べているのを見ていて 即、九州博多に決めました。」

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「 車椅子一人旅。博多編 」
       
(プロローグ)▼
昨年の私は、良い事が無かった。 でも良い思い出ばかりです。
 今年日本に台風が来ないうちに、旅行の計画を立てて速4月に実行です。
 行く先は?「テレビを見てたら博多ラーメンを美味しそうに。ある女優さんが
食べているのを見ていて 即、九州博多に決めました。
  1月の中頃から 屈伸・腹筋で体調を整えてお腹周りも軽やか]になりました。    その年4月園にインフルエンザが流行して、利用者の3分の1以上の人が風邪をいて面会謝絶・外出禁止となり。毎年恒例の家族との花見会も中止と言う開園以来初めての出来事が、【緊急事態発生】起こりました。◆振り返りますと私も『昨年沖縄へ旅行の計画を立て船の切符も旅館も申し込み。大阪南港まで出かけましたが』 出発の2時間前に台風2号の接近で中止になったのです。  そして秋には又台風23号で園は全滅寸前でした。 私はその時毎年恒例の同窓会で(昨年14回目となります。) 神戸の「しあわせの村」に出かけていましたが大雨で何処へも行けず。 そこでバーベキューの予定でしたが中止。おまけに大風邪をひいて、(14年目で最低最悪の同窓会となりました。)  10月の20日のお昼前和田山に帰ろうと激しい雨の中を三ノ宮駅に向かいます。 そこで少し早めの食事をしていると、なんだか外が騒がしいのです。 店の中も騒がしくなりました。 
 台風で風と雨が凄いので、店を閉めたいと言われ、 急いで食べましたが、 まだ時間があるので地下街で買い物して帰ろうとブラブラと時間をつぶしました。2・3ヵ所の店を見てまわっていると、急に周りが慌ただしくなりシャッターも閉まり、大勢の警備員さんの姿が見えました。  閉まったシャッターを頼んで開けてもらい外に出ると凄い雨と風です。 (傘は疎か立っていられない状態です。)列車は止まっていると聞いていたので、  取り合えず今日の宿泊場所を探さなくては、 携帯電話を調べると  
アドレス帳に愛生園のスーパー事務員大島さんの電話番号がありました。
   早速電話すると、引き受けてくれました。(やはり神様はいるんだ。大島さんが神様に思えました。ありがとう) 凄い雨と・風の中をリフトバスで1時間以上かけて須磨区の兄弟施設愛生園に死ぬ思いでたどり着きました。 事情を話し別棟の友愛館に泊めて頂くつもりでしたが台風の雨風で雨漏りがひどく泊まれる状態じゃないからと、本館のショートステイ専用の居室に泊めて頂きました。 翌日、午前中の列車で帰るつもりで   
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園に電話をかけると、昨日の台風で施設の裏山が崩れて土砂が流れ込み。 大変な状態になっているから帰って来るなと、副施設長の習田さんにスゴイ剣幕で怒鳴られました。「愛生園の方には頼んであるから心配するな」と電話を切られましたが、園の様子が心配で落     ち着きません。 その日は一日放心状態でどう過ごしたのか憶えていません。
  とにかく大変な出来事です。でも利用者の吉井さんと2人なので頑張れました。 (吉井さんありがとう)3日目ぐらいから。神戸から応援に出かけていた。   職員さん達から。被害の様子・情報やら・災害の結果を聞き落ち着きましたが、とにかく20日間お世話になりました。 避難している私に見知らぬおじさんが(私は何も出来ないけど、身体だけでも暖めて上げると、暖かい缶コーヒーを買ってくれました。)
  〈私は思わず涙が流れましたが人を救うのは人の心なんだと改めて感じましたが〉     これが昨年の私です。    

(俺、森下善和です。↑)         「 出 発 進 行 」

  本題に入ります。4月になり。乗車券も・博多・熊本・神戸の宿泊場所に予約を取り準備は総て整いました。でも園に風邪が流行して64人中3分の1以上の利用者が咳き込んでいます。「季節はずれ?」いえ、昨年の台風の被害で新館の1人部屋に2人。2人部屋に3人。ある人は新館の2階ホールに6ー7人の人達が約5ヶ月生活していましたが、復旧工事が終わり本館の居室が元に戻り、 災害を受ける前の昨年10月以前の生活に100パーセント戻れたとは言えませんが、(どこか心に陰があります。)園が元に戻り少し安心して気持ちが緩んだ。そんな時に季節外れの風邪が流行したのです。 男子寮・女子寮食事は別々に食べています。開園以来初めての出来事です。  面会禁止、外出も禁止、家族会も中止しました。だから今年のお花見の会も中止しました。 職員は全員マスクをはめてうがいをして手を洗い介護にあたります。 一つ 二つの居室に風邪の人達を集めて広がるのを防いで食事は居室で、女子は女子寮のローカで、男子も居室で、元気な人は食堂で、新館の人は新館ですから。 厨房さん初めみんな大変でした。 そんな時に私が旅行の計画を立て行く日が近づいたのですから。    もう大変です。  〈事件です。〉
「風邪をひいたら中止やで、」と課長に言われて「今になって中止すればキャンセル料は取られる。切符はダメになる自分が風邪ならアキラメもつくけど自分は元気で周りの人が風邪だから行けないなんて納得出来ないと思っていました。」出発の前日あたりから。
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良くなる人が増えて来ました。 副園長が「みんなが良くなっても今度お前が風邪をひいて行けなくなったら。笑ってやる。」と言われ、快食・快眠と規則正しい生活を心がけました。

(死んでも行くんだ。↑)
「そしてもう一つは出発の10日ぐらい前から新館に避難していました。」 だから行けたのかも、(南療主任さんの配慮です。)そして4月18日タクシーで 和田山駅へ。8時07分の(はまかぜ)で姫路に向かいます。列車の中で(前和田山町長)の森本さんと会い、「おい、森下君今度は何処へ行くんだ。」  「はい、九州方面に行きます。」 「ほう九州に元気やナー。」 「これしか出来ませんから。」 「元気な者でも出来んのに君はー、」 「どこに行かれるのですか、」 「姫路の方まで」と言いながら自分の席へ。 前から2両目の入り口から3列目の通路側です。隣の席のおばあちゃんと話します。 「お兄ちゃんどこまで行くのですか、」 「九州の博多まで行きます。」 「向こうには誰か待っているのですか、」 「誰も居ませんけど、誰か人がいますから。」 「知り合いも居なくて、まして知らない場所に1人で行き不安では無いのですか、」 「そりゃあ不安で怖くて心細いですよ。でもそんな事を考えていたらどこへも行けません。何も出来ませんから。」  「凄いですね。」 「凄くないですよ。自分の好きな事をしているだけです。だから今が一番幸せです。」 「そうですか、息子が商社に勤めていて今海外にいます。遊びに来いと言いますが1人で行けません怖くて、、、」  「おばさんはどこから。」 「豊岡の泉町です。用事で寺前まで行きます。竹田の真生園には良く行きましたよ。バザーが無くなり寂しくなりました。」 「バザーも行事も無くなりました。寂しい事ですが、時代ですかね。人に奉仕をしたりお手伝いする事は、近頃はビジネスになり。金儲けになりました。寂しい事です。」 「そうです。どこかが間違っていますよ。」 「でも、こうして1人で旅しているとみんなが助けてくれますからどこでも行けます。だから旅が出来るのです。有り難い事です。」 「あなただから皆さんがお手伝いするのですよ。」 「そうですか、」と話していると放送があり、  寺前で降りていかれました。            
       

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         『 博多でラーメンを食べたよ。』
今朝早く起きたせいか知らぬ間に眠っていまして、駅員さんの言葉に目覚めて   姫路で新幹線に乗り換えて博多まで (やっぱり早いわ!播但線とは全然違う。)
11時55分博多着。にぎやかでスゴイ人です。さすが九州の大都市博多です。
お昼ご飯を食べようと食堂街を移動するのですが、何処も満員御礼で食べられる状態ではありませんから時間をずらそうと近くを見て回りました。(珍しい物ばかりが眼に付き約2時間。田舎者です。ハイ)、食事を済ませて、駅前R&Bホテルへ行こうとするのですが、(方向音痴の私です。)道に迷い汗ブルブルのどはカラカラ1時間40分。疲れた。  くたびれた。人混みの中を元の場所に戻りタクシーを呼んで探しました。 1メーター    620円西口から行かないで私は北口からウロウロとしていたようです。 2分も乗ると  到着しました。行くと綺麗なお姉さん達4人が出迎えてくれました。          
        
        (博多R&Bホテルプラザの女の子とハイポーズ。↑)
部屋に案内されると、10階のバリヤフリーの部屋でした。普通の部屋より少し広めでトイレは車椅子のまま入れて・風呂場に段差は無く、湯船の深さが5センチでシャーワーを使用して入ると言うのか、打たれ湯と言う感じのお風呂でした。
  6時過ぎ外に出ます。 車で近くまで行き。後は車椅子で中洲の夜をウロウロする  つもりでしたが、すごい人でウロウロ出来る状態ではありません。それに雨が降り出しました。仕方なくホテルに帰り。なにか食べようとレストランを探してもありません。フロントの女の子に食事したいので食べる場所は何処にありますかと訪ねると、
 「近くにコンビニがございますので買って参ります。」と言われ頼みましたが、    ( 博多へ来てコンビニの弁当を食べるなんて思いませんでした。)?  ほかほかの焼き肉弁当とにぎり弁当 缶ビールおつまみと食べて満足。 大満足です。 じゃー今夜は弁当食べて寝ます。 「今朝早かったので眠いというと、」   「何かございましたらフロントにお電話下さい。」   「ありがとう。。。」
 缶ビールを飲んで、もう一度お風呂に入り野球を見てその日は寝ました。
   翌日、6時に起きて着替え洗面をして8時過ぎ下に降りて朝食です。
 手作りのパンとコーヒー紅茶を頂き。又、博多の繁華街に行きました。 魚市場や野菜
          『R&Bホテルプラザで、』
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や果物その他の店を見て回っているとやはり女の人に元気がありますが、決していばってない親切で優しくて働き者。 ▼『男を立てる。』▲  現在の女の人が忘れている賢さを見つけました。と言うのは『男の人を立てると言うのかおだてて上手に使う。』
 男はみなアホですから。★女の人から言われたら。まして自分が好きな人から頼まれたり。頼りにされたら出来ない事でもやりますよ。出来ます。 ★ 『それが男です。九州男児だとか言いますが、』 女の人が偉く賢いのです。 ★本当にそう感じました。
(これが博多人形ですが、↓女の人もこんな感じでした。)
商店街を車椅子で走り回り。少し早めの昼飯です。今回の旅の目的。『屋台のラーメンを食べます。』2・3軒見て回り、【瑞客】と言うお店で頂くことにしました。 「お邪魔します。まだ早いですか、」 「もうエエケンここへ来ないさい。」とそこの女将さんが案内してくれました。「なんば食べるとね。」 「博多ラーメン1つおねがいします。」 「博多1。」店の奥で「あいさ。」2分ほどして、あの夢に見た博多ラーメンが眼の前に運ばれて来ました。熱い事も忘れてドンブリにかぶりつくと『熱いー』飛び上がりました。 それを見ていたおばさん「今煮けたばかりやけ
熱いは?、アンタ手が使えんのか、付き添いはおらんの」、 「ハイ1人で旅しています」。 「あいや1人でどこから来やった。」 「兵庫県です。」                                                    
 (夢にまで見た。↑博多のラーメンです。)
「あんな遠い所から」と言いながら食べやすいようにと皿に移し替えたり・お水を酌ん
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         『 夢に見たラーメンの味。』
だりして結局食べさせてくれました。「すいません博多にラーメンを食べに来た証拠に写真を1枚撮ってもらえませんか、」と言うと、「店の奥からご主人を連れて来てくれて御主人にカメラのシャッターを頼むと、真っ赤な眼をして泣いています。」 「どうかされましかと聞くと、」 「兄ちゃんありがとう。兄ちゃん儂の記憶に残ったよ。忘れないよ。車椅子で博多まで来て手が使えなくてもドンブリにかぶりつき儂の店で麺バ食べてくれた儂の記憶に死ぬまで残る。」  「そんな大袈裟な私が珍しいだけですよ。」 「記録を残す事もスゴイ事だけど。 兄ちゃんは儂の記憶に残る人だ。」 と誉めたり泣いたりして、駅前の名店街を車椅子押して案内してくれました。  ☆知らない場所で知らない人にお世話になると言う事はスゴク嬉しい事です。☆(だから旅をするのですが、誰でも自分が主人公になれます。) 午後3時過ぎにホテルに戻り、汗をかいたのでお風呂に入ります。 シャワーの打たれ湯です。(5センチぐらいの浴槽です。 洗面所も・トイレにも車椅子のまま入れます。) 5時過ぎお腹が空いたのでエレベーターの前に行き(ここは10階です。)宿泊している人にボタンを押してもらいフロント行き預けていた食料。(今日は買って来ました。弁当にビールおつまみ・明太子まんじゅうなど、)フロントに預けていたので取りに来ました。重いのでお姉さんに部屋まで運んでもらい。もう1人の人に車椅子を押して送ってもらいました。部屋に帰りお弁当食べてビールを飲んでホロ酔い気分で寝ました。 20日。今日は『火の国』熊本に行こうと早めに起きて、ヒゲを剃り、着替えも済ませてタバコを一服していたら。『震度5の地震です。』「ゴーッと大きな揺れに顔面蒼白」で 
もうダメだと覚悟しました。そして、この部屋は10階です。凄い揺れが、、、      側には倒れたり落ちそうな物はありませんが、    もう死ぬと思いました。
       <?福岡県西方沖地震?>
福岡市中心部など震度5強 21人けが、41戸破損    
(近くの公民館に避難している。↑住民の皆さん)         (↑地震で壊れたブロック塀です。)
(最初に思った事は生命保険を今回は掛けてないのです。死に切れません?)       先にも書きましたが、承知の通り。4月初めから真生園はインフルエンザが流行して3分
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             『 私は不死身ですか???』
の1以上の人が寝込み介護に当たる職員はうがい・手洗い・全員マスクを使用すると言う事で外出・入出禁止と言う事で生命保険をかける事が出来ませんでした。だから死んでも葬式代はありません。「良く考えてみると地震で死んでも生命保険は出ません。 だから。無駄死にです。」そう思ったら死ぬのはバカバカしく思えて来ました。 部屋のハンガーはまだ揺れています。地震は収まり館内放送があり。「只今福岡地方を震源とするM5
弱の地震が発生しましたが建物から外に出ないで下さい。建物は大丈夫でございますから、
慌てないで下さい。只今エレベーターが動きませんので非常階段をご利用下さい。」と  放送がありました。車椅子はどうするんだ。とひとりブツブツ言っているとフロントから電話がかかり。「大丈夫でございますか、」 「なんとか生きていますと答えて、今日の列車はダメですか、」と聞くと「只今不通です。まだ余震がありますから。外の様子も分かりません。」 「エレベーターが止まっていて車椅子では移動が無理なのですが、」  「降りられるのでしたら私達がお手伝いしますが今はお部屋の方が安全でございます。」と言われて部屋にいる事にしました。   部屋の窓から周りを見ると道路には何台もの車が渋滞しています。ガソリンスタンドやビルの看板は壊れたり折れ曲がったりして大変な状態です。でも私は生きている。大丈夫だ。助かったんだと思うと嬉しくなりました。     思い出して見ても(昨年春の台風から始まりお盆帰省での大雨。秋には園の裏山が崩れて私のいた居室は水に浸かっただけでした。 運が良いと言うのか、守られている。と言うのか今回は嬉しく思いました。『小さい頃、祖母に良く言われました。(お前は神様に選ばれた子なんだよ。この子なら重度の障害を与えても それを乗り越えて生きて行く)と神様に選ばれた障害者なんだ。)と 「選んでくれなくも良いから普通の身体が欲しいと泣き叫んだ事もありました。」そして祖母が死ぬ時に(私が死んだら。お前を見守ってやる。死んだら神様になりあの世から見守ってやる。) と言ってましたから守ってくれているのだと思います。  『そう言えば昨年からの私の生き方は奇跡だと思えるからです。』
雨にも負けず風邪にも負けず災害にも負けずオマケに地震にも、そして不自由な身体ですが生きているのが楽しいです。  △障害は私の個性で、  私の誇りです。▽
話が少し逸れましたが、その日はR&B博多ホテルに宿泊して。明日熊本に移動する事にしました。(列車が動けばの話ですが、) エレベーターが使えないのでフロントの女の子がハーハーと息を切らしながら部屋に訪ねて来また。近くのコンビニは地震大丈夫だと聞いたので、お昼のお弁当にお茶。お菓子その他の買い出しをお願いしました。   お弁当食べながらテレビのニュースに釘付けです。 
 (兵庫駅で松田夫妻とヘルパーさんと俺。↑ハイポーズ)
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           『 火の国 熊本へ。 』 
 明日はダイヤが無事に復旧するようにと祈り寝ました。 そして【火の国熊本です。】
朝8時過ぎにフロントの女の子達に別れを告げて駅に向かいました。 少し時間をつぶします。駅の階段を上がろうとするのですが段差があり、 車椅子では上れません。誰か通行している人に頼もうとするのですが忙しそうで誰も聞いてくれそうにありません。周りを見ると、ホームレスの人達が駅前で寂しそうにしているので、「あのーすみません。あの段を上がりたいので手を貸して頂けませんか、」 「俺、1人ではダメだ。」  「他に誰か3・4人頼んで来ますのでお願いします。」そして回りにいる4・5人に頼んで階段を上げてもらいました。 「ありがとうございました。」とお礼を言うと、「お兄ちゃんなんで俺達に頼むんね。他の人に頼めば良かたい、」 「私が頼むのです。私の頼みたい人にお手伝いを頼んではいけませんか、」 「オイ達はホームレスたい。」 「知ってます。」 「断わられたらどうすると、」 「他の人にお願いしてみます。」 「他の人が断ればどうするとね。」 「又誰かを頼みますが、誰かいるでしょう親切な人が、」  「1人のおじさんが兄ちゃんアンタは偉い、頑張れや」と言われて。ホームに入り。 9:15分の(有明)で熊本駅へ。宿泊するホテルは駅前にある。ワシントンプラザホテルです。「インターネットで今日と明日の2泊で宿泊の予約をしました。 兵庫県の森下と申しますが、宿泊出来ますか、 (不審者ではありません??!車椅子の変なおじさんです。↓)

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          『 甘い物が好きな人は心が綺麗な人? 』 
「地震は大丈夫でございましたか、昨晩キャンセルされて今日と明日の2泊で承っております。 「そうなんです。地震で足止めになり今日と明日の2泊お願いします。」 「4階でございます。ご案内いたします。」と言われましたが、「ホテルに食堂はありませんか、まだお昼食べてないのでお腹が空いて、」 「そこに喫茶がありますが、食事は出来ません。」「なにか食べる物があれば良いです。」と入り。「すみません。」 「いらっしゃいませ」と優しそうなお姉さんがお水とおしぼりを持って来ました。「あのストローを頂けませんか、」 「かしこまりましたとコップにストローをセットしておしぼりの袋を破り前に置いてくれました。 「ありがとうございます。」と言いながら水を飲んで横を見るとコーヒーの凄く良い香りがします。 聞いて見ると【裏山の渓谷から水を引いた。〈天
然水です〉がそこを渦巻きのようにゆっくりと流れ、時間をかけて沸かして沸騰させコーヒーを沸かす。】そこに生クリームと黒砂糖を好みで入れて飲む。甘党の私はお姉さんにミルクたっぷりと黒砂糖を3個入れてもらいました。すると「お客様甘いコーヒーがお好きですか、」 「ハイッ甘い物は大好きです。」  「私も甘い物が大好きで甘っ子ちゃんとアダなが付いているほどです。」 「そうですか身体に悪いと言われますが自分の好きな物を食べたい、甘い物が好きでアンコとか蜂蜜きんつばが大好きです。」 「私もおまんじゅうとかヨウカン・ドラヤキとか甘い物は大好きです。」甘い物の話で盛り上がったと言うのか、凄く仲良くなりました。  部屋に入って見ると、お風呂は普通の高い浴槽でトイレも車椅子では使えません。 なにか疲れた少し休もうと横になりました。4時間ぐらい寝たんでしょうか、       眼を覚ますと夕方の6時前です。
 夕食を食べに行くと8階の日本料理の店でした。 (場違いだと後ズサリしましたが、仕方ありません。) 高価そうな日本料理のレストランでした。(ウエイトレスと言うのか女の人はみんな着物を着て板前さんも着流し姿です。 琴の伴奏が聞こえて、お客さんは背広や着物を着た。男の人や女の人ばかりです 私は汚いTシャツに汚れたGパン姿でオマケに車椅子です。) 「いらっしやいませと男の人がスロープを持ってきてくれました。」「ありがとうと窓際の席に付きました。」「いらっしゃいませ。女将さんがお品書きを見せ
てくれたのですが、高い物ばかりで食べる気持ちになりません。お品書きを見て3、800円の【おとわ御膳】がありましてそれを注文しました。 (それが一番安いから。) 「お酒はいかがですかと言われましたが、高くて聞いた事も無いお酒ばかりで安いお酒で3、200円也。飲み物コーラーを注文しましたが、(350円でした。)【おとわ御膳】を食べましたので、中身を紹介しますと、御飯は1膳で、刺身・天ぷら・お吸い物・竹の子の和え物・焼き魚・溶き卵と木の芽のお汁・それに漬け物でした。美味しく総て頂きました。(雰囲気でしょうか偉くなった見たいです。)部屋に帰りテレビを見ながら缶ビールを飲んで寂しく寝ました。 翌日6時に目覚めて8時前に散歩に出かけました。『ワシントン通り』と言う通りを車椅子でトボトボと散歩。途中でマクドナルドを見つけて、 店
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          『 不振者ではありません。変なおじさんです。』
に入りそこで朝食です。(そこの女の子に声かけて、「すみませんハンバーガーとセ?クを下さい。」 「どのマクド?どのセークをご注文ですか、」(背広や着物ドレス姿私はこの姿↓)

 「よく分かりませんので、適当でお願いします。」ハイお待たせしましたと言われまして、台の上に置いてもらいかぶりついて食べようとするのですが分厚いので1枚1枚食べていると、ナイフを待ってきて食べやすいように1口サイズに切ってくれました。
  「忙しい時にすいません。ありがとう。」 「気にしないで下さい。この時間帯はヒマですからお手伝いします。」と食べ終わるまで話しました。 タクシーを呼んでもらい、熊本城へ行きました。観光バスが何台も駐車して乗用車も多く駐車場は一杯です。     午後の3時に迎えの車を頼み。車椅子で見学します。『入場門の説明書きを書きますと,,,』 
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『明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、 難攻不落の城として真価を発揮しました。しかし薩軍総攻撃の2日前、原因 不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年 (1960)、熊本市によって再建されたものです。』▼と言うように案内板に記載されてました。▼  曲がりくねった砂利道を車椅子バックで(汗かきながら息をハーハー・ゼーゼーで上がります。砂利道を登ったと思えば下る為。 何度かひっくり返りました。 見学している人達に「車 椅子を押して上げようかと言われて頼もうかと何度も思いましたが、」1人でここ熊本城まで来たのですから自分の力で上がりますと断りました。(意地っ張りですいません。でも、一つ甘えたら自分に負けそうで、)120?程行くと障害者トイレもあり
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          『 車椅子で熊本城へ入城します。』
少し急な坂ですが長いスロープがありました。(汗かきながらハーハーと息を切らせて上がります。↓)

周りの人達が、手拍子で応援してくれます。
  ハーハーゼイゼイ言いながら汗をかいて無事に上がった時見ていた人達はみんなで手を叩いて万歳三唱してくれました。 「スゴク恥ずかしかったですが、反面嬉しかったです。」(ありがとうございます。) 売店を見つけてお茶を飲み。お土産を買いました。    
見ると側に(メダルに今日の日付を刻む記念のキーホルダーとかペンダントを創る機械)がありますが私はには出来ません(手が使えませんので)、誰かに、、、
誰かを頼もうと周りを探しますと、向こうに中学生のグループがいました。 「あのー、すみません。と声をかけてもこちらを見るだけで返事もしてくれません。仕方なく大きな
声で、【そこの中学生】!と呼ぶと恥ずかしそうに側にやって来ました」。 一人の男の子に「今日の記念のメダルを造りたいんだけど手を貸してもらえないかなー、」と頼むと

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  (熊本城をバックに1枚ポーズ↑)      (障害者トイレもあり段はスロープで車椅子でも行けますよ。↑)

名前と今日の日付を入れてもらいメダルを2っつ造りました。その後子供達と仲良くなり20分余り一緒に見学しました。「おじさん天守閣に上がろう。みんなで車椅子を持ち上げてあげるから。」と2・3人の男の子が言いましたが、
「階段が狭いし両端から車椅子を支えると他の人が通れないから。止めとくよ。それに落とされたらイヤだから上がらないよ。」と言うと「バレたか、落とさないけど。おじさんを怖がらせようと思ったのに、」と(冗談を言うようになりました。)「怖いナーッ訴えてやる。」子供達は大笑いしていました。 「それよりお腹空いたけど、お城の近くに食堂は無いのかナー何か食べよう、」と言うと車椅子を押して公園の中を探してくれましたが見つかりません。午後2:00時になり迎えの観光バスが来ました。  時間です。   「おじさんさようなら元気で、僕の家の方にもおいでよ。」 「私の家にもおいでよ。」 「ありがとう又いつか会いたいなーァ。と手をふり別れました。」 
 そして周りをウロウロしまして、 午後3時の迎えのタクシーを早く呼んでホテルに帰り。お昼御飯を食べてないので、お腹がペコペコです。コーヒーとサンドイッチを注文して遅めの昼食です。  「お昼召し上がって来られ無かったのですか、」  「お城があり観光地なのに食べるお店は1軒もありませんでした。」 「皆さんそう言われますので今年中に飲食店が出来る筈なんですよ。」 「そう言えば工事をしてました。」 昼食を済ませて今度は駅前通りを散歩です。しばらく行くと大きな百貨店が見えました。行こうと進むと階段が3段ほどあり車椅子の私は上がれません。コマッテいると通行している人が


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            『 お手伝いするのも大変ですが、』
「向こう側にスロープがありますよ。」と教えてくれましたが、 「すみませんここから上がりたいので、お手伝いお願い出来ませんか、」と言うと不思議そうな顔をして、「私1人では無理です。」と断られました。 〈普通の障害者ならそうですかとアキラメルと思いますが、あつかましい私は、 「他の人も2・3人頼んで来ますので、お願いしますと5・6人呼んで来て車椅子を持ち上げてもらいました。」 アツカマしくくなりました。  でも初めは頼めなかったです。声もかけられなかった事を思い出します。  でも1回勇気を出して頼めれば言えます。 初めだけです。「でもそれが大変なんですが、1度出来たら。言えたら。後は簡単に頼めます。」勇気を出して下さい。1人でどこでも行けて何でも出来ます。知らない場所で知らない人に頼めむ事は1度だけで、2度と頼む事はありませんから。。何でも頼めるのかも知れませんね。
    (出会いは職員でしたが現在は兄弟以上の関係の佐原君です。↓)

   そう考えると何でも言えるのです。 こんな話を聞きました。 「家に30年間寝たきりのおばあちゃんいて、私が毎日の世話をしているんだけど、これから何年も続き私が病気でもしたらと思うと不安になりイヤになる。ノイローゼになり、「思い詰めてこの人を道連れに私も死のうと何度考えた事か、」と、でも近年はヘルパ?さんに1日でも頼めるようになり。ヘルパーが来てくれるようになってから自分の時間が出来たり、家族みん
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         『 神戸にお礼を言いたい。』
なで協力して世話をする事で、」〈自然に家族に絆が出来た。〉と話してくれた人がいましたが、 ▼自分で出来ない人は頼む勇気を持ち▼ ▲出来る人はして上げる親切を持つ▼     人を助けられるのは人にしか出来ない事なのですよ。  と声を大にして叫びたい。。。。。、
初めての町は時間が経つのも早い気がします。   (方向音痴の私ですから。)     熊本での2日目も夜になりました。   明日の9;06分の列車で帰ります。    4月22日早めに熊本駅に行き。特急有明で博多まで。新幹線に乗り換えて明石で降りて神戸の須磨に 昨年の土石流の時お世話になりました。「神戸愛生園」にお礼に伺うつもり です。  新幹線が止まる駅で、「神戸愛生園」 に近い場所は西明石駅です。            
そこで降りて須磨駅まで長い階段を駅員さんと乗客の人4人で持ち上げて運んでもらいました。そばに2?3人の電動車椅子の人がいましたが、ポカーンと口を開けて見ていました。(数年前にこんな事がありました。電動車椅子の人達が5・6人駅の階段を上げてもらう為職員が来るまで待っていましたが、私は手動の車椅子です。乗客の人に頼み階段を上げてもらいました。 そのあと数台の電動車椅子に囲まれて、「君は恥ずかしくないのか自分さえ良ければ良いのか、」と「私は電動じゃないから軽い。駅員さんを頼むより。そばに人がおられるから。その人達に頼んだだけです。いけませんか、」  「俺達は長い時間待っているのに後で来て先に行かなくても、」と怒られました。 「すいませんこれからは気をつけます。」と謝りました。ゴチャゴチャ言っていましたが急いでますからとその場から逃げ去った事がありました。(関係ないですが、私は障害者は嫌いです。自分も障害者のくせに、、、)と言われますが、(自分が障害者だから嫌いなんです。自分のイヤな所も不便な所も分かりすぎるぐらいに知ってますから。)
(昨秋村岡町バリアフリー調査でバネラーに参加して。↓)


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          『 又、命拾いしました。』
 須磨駅で降りてタクシーに乗り換えて「神戸愛生園の《友愛館》に2泊宿泊しました。4月25日明石駅から(はまかぜ)に乗り帰ります。鷹取の駅までタクシーで行き。快速に乗り地下鉄で明石まで行きました。明石に着くと凄い人です?パトカーのサイレンと救急車のけたたましいサイレン凄い野次馬でごった返していました。何事かと聞いてみると、
JR西日本福知山線列車脱線転覆事故はなぜ起きた。
   

↑(2005年4月25日。福知山線のJR列車脱線転覆事故の写真です。)↑
「皆さんご存じの福知山線列車脱線転覆事故。近くのマンションに列車が突っ込み100人以上の人が亡くなった事故です。
 又、私は助かった。人ごとで済んだ。 祖父と祖母が私を守ってくれたのかナー。 丁度、愛生園で事務所に宿泊費を払おうと行くと事務員さんが「今から朝礼があるから朝礼が終わる待って。」と言われて明石駅に行くの予定していた時間に遅れて1列車遅い列車で帰る事にしたのです。 もし予定の列車に乗っていたら。死ぬ事は無いとしても駅で何時間も停止したままかその日の内には帰れなかったと思います。 福知山線はダメなので、姫路で播但線の列車に乗せてもらい無事に帰ることが出来ました。 明石で次の列車が来るまで時間が40分余りあるので駅の中にある。デパートを見て回りました。 寝具売り場の前を通ると、 『バラバラ死体が??それも女の人の下半身。』が見えたと言うのか陳列してありました。 (心を落ち着かせておそるおそる近づいて)、  よくよく見ると女の
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人の下半身を現した。 『膝枕です。』 (デレーー、) 即、私は買おうとしましたが、
       『刺激があり、ご機嫌な旅でした。』

(この写真はバラバラの女の人の下半身ではありません。↑【癒しの膝枕です。】ハイ、)
在庫が無くなりまして、これは売約済みの商品です。御注文を頂きましたら。お作りしますので出来上がり次第に発送致しますと言われて即、注文しました。 右の方にに進むと
 上手そうなニオイ。誘われて行くとお総菜と煮物の試食コーナー。があり
 鯖寿司を昼食に買いましたが、美味しそうな焼き肉のお弁当も見つけたので 買って近くで食べようかと思いましたが、列車の時間が来たので心を「鬼」にしてグーッと我慢しましたが、『腹減った。』! 快速電車で姫路まで行き。姫路から播但線で和田山駅に無事たどりつき(2時間以上かけて)和田山着。 駅よりタクシーに乗り継いで無事に帰り。  即、鯖寿司にカブリ付くとすぐにたいらげて美味しく頂きましたが、    買う事の出来なかった焼き肉のお弁当がいつまでも脳裏に浮かんで来ますが、 こうして命がけの旅行が無事に終わりました。満足していますが、、、、。又 次回を考えています。         北陸への旅を。。。   本当に自分にご苦労さん。  いろんな事がありましたが、    これはこれで何もない旅より刺激があり面白い旅行だったと思います。
 私の人生山あり・谷ありで面白いかも、、、。元気で帰れたから。こんな事が言えるのかも知れませんが、外に出るって楽しいよ。私が言うのですから。間違いありません。

車椅子独り旅【博多編】

本当に自分にご苦労さん。  いろんな事がありましたが、 これはこれで何もない旅より刺激があり面白い旅行だったと思います。 私の人生山あり・谷ありで面白いかも、、、。元気で帰れたから。こんな事が言えるのかも知れませんが、外に出るって楽しいよ。私が言うのですから。間違いありません。

車椅子独り旅【博多編】

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-04

Copyrighted
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