桜の花の咲くころ

 桃子が大叔母を尋ねるのは半年ぶりだった。
 父が定年後の再雇用で不慣れな仕事に就き、今月はとても郊外の施設まで大叔母の様子を見に行けないからと、大学生の桃子が代役を頼まれたのだ。
 駐車場に車をとめ、施設の中に入ろうと桃子がドアを開けると、入れ違いに誰かが出てきた。大叔母と同じ年齢ぐらいの白髪の老女だった。
「どうもお世話になりました」
 その言葉が自分に向けられたものではないことは、すぐにわかった。老女を追うように職員の制服を着た若い男が走り出て来て、「篠原さん、出ちゃだめですよ!」と言いながら老女の腕をつかんだのだ。
「その手を放しなさい。早く帰らないと、息子が待っているのよ」
「篠原さんの住む家はここですよ」
「バカなことを言わないでちょうだい。お願いだから、帰らせて!」
 それ以上は気の毒で見ていられず、桃子は中に入った。今の時間、入口の係は先ほどの若い男だけらしく、受付には誰もいない。来館者用の記録簿に入館時間を記入したものの、桃子は大叔母の部屋番号が思い出せずに困った。
 一旦外に戻って聞いてみようとドアを開けようとしたが、ロックが掛かっていた。中からは自由に開けられない仕組みらしい。先ほどの老女は、外来者がドアを開けるタイミングを待っていたのだろう。
 桃子は仕方なく、スマホで電話をかけた。
「ああ、小夜子おばちゃん、桃子です。下に来ているんだけど、部屋は何号だっけ?」
 不機嫌な声で「303号よ」と告げられた。
 談話室を通り抜け、ストレッチャーがそのまま入る縦長のエレベーターに乗った。
 三階に上がり、桃子がドアをノックすると、すぐに大叔母の声が聞こえた。
「カギなんか掛かっちゃいないよ」
 引き戸になっているドアを開けて中に入ると、背後でゆっくりドアが閉まった。
「小夜子おばちゃん、元気にしてた?」
 返事がない。大叔母はベッドに横向きに腰かけたまま、口をきつく結んで窓の外の景色を見ていた。
「ごめんね。父さん忙しくて、今月は来れないんだって」
 そう言いながら、桃子は入口近くのスツールに座った。
 ようやく桃子の方を向いた大叔母は、皮肉そうな笑みを浮かべていた。
「ほう、そうかい。おまえの父さんの新しい勤め先は、休みもないんだね」
「いえ、そういうわけじゃ……」
 桃子はそれ以上弁解するのをやめた。こういうときは話を逸らす方が賢明だ。
「そうだ、下で家に帰ると言って騒いでいる人がいたの。確か、篠原さん、って言ってたわ」
「ああ、いつものことさ。真下の203号の人だけど、しょっちゅう間違えてここにも入って来るよ。まったく、部屋にカギもかけられないんじゃ、おちおち寝られやしない」
 高齢者の安全に配慮してのことだろうが、今は正論を言うべきではなかった。
「そりゃ、困るわね。まあ、とにかく、おばちゃんが元気そうで安心したわ」
 だが、最後の一言が大叔母の逆鱗に触れてしまった。
「何が元気なものか。体中痛いところだらけだよ。おまえの父親の家族を養うために、若いころ無理して働いたせいさ!」
 返す言葉がなかった。
 桃子が父から聞いた話では、父が中学生のときに死んだ祖父に代わり、父の家族を経済的に支えたのは独り身の大叔母だったそうだ。そのため父は、いずれは大叔母も家に同居させてあげなければと考えていたらしいが、祖母や母に気兼ねしているうちに、ずるずると月日が流れてしまったという。昨年、大叔母がついに九十歳を超えたため、考えた末に、父は退職金を割いてこの施設に入れたのだった。
 桃子が気まずさに視線をさまよわせていると、窓際にある古びた写真立てが目に入った。セピア色になったその写真の人物は、軍服を着た凛々しい青年だった。大叔母が、たった一ヶ月だけ嫁いだ相手と聞いていた。その人は、「桜の花の咲くころには必ず戻る」と言い残し、散華したという。
 そのまま窓に目をやると、桜並木のつぼみが膨らんでいるのが見えた。父がこの施設を選んだのは、せめて桜の花の咲くそばに大叔母を居させてやりたいからだと言っていた。そのことを話そうかとも考えたが、藪蛇になる可能性が高かった。
 居たたまれない沈黙を破ったのは、遠慮がちなノックと老人の声だった。
「小夜さん、いるかい?」
 大叔母が返事をするより早く、桃子は立ち上がってドアを開けた。
 そこに立っていたのは上品そうな老人だった。まぶしそうに桃子を見ている。
「おお、すみません。お孫さんがいらしていたのですか」
「あ、いえ、わたしは甥の娘にあたる者です」
「そうでしたか。小夜さんと談話室でお茶でもご一緒に、と思ったのですが、それでは出直します」
「すみません。長居はしませんので、後ほど大叔母をお誘いくださいね」
 笑顔で去って行った老人のことを尋ねようと桃子が振り返ると、驚いたことに大叔母の頬がうっすら桜の花の色をしていた。
 桃子はそんな大叔母を慈しむように見て、微笑んだ。
「小夜子おばちゃん、桜の花、早く咲くといいね」
(おわり)

桜の花の咲くころ

桜の花の咲くころ

桃子が大叔母を尋ねるのは半年ぶりだった。父が定年後の再雇用で不慣れな仕事に就き、今月はとても郊外の施設まで大叔母の様子を見に行けないからと、大学生の桃子が代役を頼まれたのだ。駐車場に車をとめ、施設の中に入ろうと桃子がドアを開けると......

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-14

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