八咫烏(4)
第四話「幽霊なんて怖くない!」
東橋(吾妻橋)を真ん中ちかくまで渡ると、隼助のまえを歩く烏平次が足を止めた。
「桜が咲いたな」
欄干のまえに立って川岸のほうを見ながら烏平次が言った。大川(隅田川)のほとりにつづく桜並木。雷蔵も烏平次のとなりで腕組みをしながら目を細めている。
「見事に咲きやしたね」
隼助も雷蔵のよこに立って撫子色にほほ笑んだ。
「天気もいいし、絶好の花見日和ですね」
そよ風が運んでくる桜の香り。そして、炭火のようにやわらかい日差しが心地よかった。橋を行き交う人々も、満面の笑みを顔いっぱいに咲かせているのであった。
「隼助」
「なんです、カシラ」
「昼めしが済んだら、ダンナのところにカネを届けてくれ」
「ダンナって、寺子屋の?」
浅草の街はずれにある寺子屋の師匠、橘刀九郎のことである。刀九郎は火事や病気で親を失った孤児を引きとり、親代わりになって養っているのだ。
「毎年、桜の花が咲くころに千両届けることになっている。そのことは、おめえも知ってるだろう、隼助」
「へい。それは知ってますが、いつもはカシラが直接お届けになっていたじゃないですか」
隼助は雷蔵越しに話している。雷蔵は腕組みをしたまま、だまって桜をながめていた。
「おれと雷蔵は、ちょっと野暮用でな。深川に用事があるんだ。なに、夜までにはもどってくるさ」
烏平次も、雷蔵とおなじく桜のほうを見たまま話している。
「まあ、そういうわけだから、頼んだぜ。隼助」
「へい」
隼助が返事をすると、烏平次は桜を見たまま、だまってうなずいた。
隼助は大工の格好で刀九郎の寺子屋を訪れた。肩にかついだ道具箱には小判が入っているのだ。怪しまれずに千両という大金を運ぶためである。途中で町方とすれちがったが、呼びとめられることはなかった。
隼助は表の門ではなく裏口から入って庭のほうにまわった。さほど広くはないが、よく手入れの行きとどいた庭である。
「あの、ごめんくださいまし」
隼助は少し緊張しながら訪ないをいれた。
「どなたかな?」
障子の向こうから返事が返ってきた。
「へ、へい。隼助です」
「おお、隼助か」
静かに開いた障子から、着流し姿の浪人、刀九郎が現れた。
「カシラの代理で参りました」
「そうか」
うなずくと、刀九郎は隼助の肩に乗せた道具箱をチラリと見て静かに吐息をもらした。どこか悲しいような、空しいような、そんな眼をしている。
「おまえたちのおかげで、子供たちは路頭に迷わずに済む」
「いえ、オレたちのような盗っ人にできることといえば、こんなことぐらいで……」
隼助はぎこちなく笑ってあたまをかいた。刀九郎も、静かに微笑を浮かべてうなずいた。
「ろくなもてなしはできんが、ささ、上がられよ」
「へい」
刀九郎が茶を入れている間、隼助は開け放った障子から庭をながめていた。なにもないが、大人の背丈より少し高い板塀の手前に、一本の柿の木が立っていた。春なので、実はおろか、まだ葉すらつけていない。
「メジロが来ておるな」
茶を出しながら刀九郎が言った。柿の木の枝に、メジロが一羽、留まっている。
隼助は刀九郎と話をするのが苦手だった。侍というのは、どうも堅苦しくて話づらいのである。
「あ、これをカシラにたのまれまして」
座布団の上でひざを折ったまま道具箱をもち上げると、隼助は刀九郎の座布団のまえに差し出した。
「山吹色の菓子にございます。どうぞお納めを」
まるで芝居の一幕を演じるように節をつけた口調で隼助は言った。しかし、刀九郎の表情は変わらない。この男には冗談が通じないのだろうか。隼助は苦笑すると、マゲを指ではさむように撫でつけた。
刀九郎が吐息をついて、庭のほうに視線を向けながら立ち上がった。
「隼助」
障子のほうに向かいながら刀九郎が言う。
「正義とはなにか」
「正義、ですか」
「まことの正義とはなにか。わしにはわからんのだ」
寺子屋の師匠をしている刀九郎にわからないことが、自分にわかるはずもない。
隼助に背を向けたまま刀九郎がつづける。
「義賊といえど、所詮おまえたちは盗っ人」
「ですが、それはけっして自分たちのためにやっているんじゃありません」
刀九郎の背中を見ながら隼助は言う。
「ここの子供たちのように、その日の生活に困っている人たちのために、オレたちは――」
「たしかに、その金で子供たちは救われた。そういう意味では、おまえたちの行いは正義と言えよう。だが、盗みは盗み。やはり、人の道にはずれているのだ」
刀九郎は穏やかな口調で静かに話している。相手と口論するときでさえ、こんな調子である。刀九郎は、けっして感情的になることはないのだ。
「隼助」
腕組みを解いて刀九郎がふり向いた。
「おまえたちのやっていることは、まちがっている。だが、おまえたちのようなやつがいなければ、貧しいものは救われないのも事実」
座布団にもどってくると、刀九郎はもういちど千両箱を見てため息をもらした。
「おまえたちは悪を装っているだけで、その心は清く澄んでいる。けっして悪に染まるでないぞ、隼助」
刀九郎は哀しいような、しかし優しい眼をしてうなずいた。隼助は、刀九郎の眼に無言でうなずいた。
「この千両、子供たちのために役立てよう」
刀九郎が座布団のわきに千両箱をさげると、隼助はホッと胸をなでおろした。
「ところで、ダンナ」
「うん?」
「ダンナは浪人。いちおう、お侍でございます」
「それが、どうかしたのか?」
刀九郎は何事もない表情で茶をすすっている。
「いえね。つ つまり、そのぅ……」
隼助は、いったん言葉を切って咳払いをした。
「いや、お侍なら、やっぱりマゲ……は、あったほうがいいんじゃないかな~、って……」
じつは、刀九郎も烏平次とおなじく〝ヅラびと〟なのだ。しかも、刀九郎は堂々とハゲあたまをさらしているのであった。
「ヅラ、か」
刀九郎は真顔でうなずくと、ハゲあたまをピカリと光らせた。
「へ、へい。せめて、表を歩くときぐらいは……」
「蒸れる」
刀九郎の返事はそれだけだった。
刀九郎はヅラが嫌いなのだ。だが、刀九郎のように開き直ってくれたほうが、かえって気をつかわなくて済むのである。こういうところは烏平次も見習うべきだ、と隼助は秘かに思うのであった。
「それにしても、静かですね。子供たちはお昼寝ですか?」
「うむ。たっぷり昼寝をしているはずなのにな。夜も、よく眠るのだ」
ひざの上で湯呑を手に包みながら刀九郎がほほ笑んだ。
「寝る子は育つ、ってやつですね」
隼助も笑みを浮かべながら茶をすすった。
「しかしな、隼助。子供はただでは起きんのだ」
刀九郎がそっと湯呑の中に目を落とした。
「と、おっしゃいますと?」
隼助は妙な顔で尋ねる。
「かならず寝小便をするやつがおる」
湯呑から目を上げると、刀九郎はくちもとでフッと笑った。
「なるほどね」
刀九郎もこういうことが言えるのか、とおどろきつつも、隼助は肩をゆらして笑った。
「なかには、ひとりで厠(便所)に行くのが怖いと言ってな。夜中に起こされることもある」
刀九郎がひざの上で湯呑を包んだまま障子の外に目を向けた。
「子供を育てるというのは、なかなか大変なものよ」
刀九郎は庭をながめながら、穏やかな表情で目を細くしていた。
隼助も刀九郎と一緒に庭をながめた。
「自分にも、覚えがありますね。お化けが怖くて、じっと布団の中で小便を我慢してました。いまになって思えば、本当にばかばかしいことです。お化けだの幽霊だの、そんなものいやしねえのに」
そう言って笑うと、隼助はぬるくなった茶をひと口すすった。
「たしかに、お化けや妖怪などはいないだろう。だがな、隼助」
畳の上の茶托に湯呑を置くと、刀九郎は腕組みをしながら静かに顔を上げた。そして、真顔でこう言った。
「幽霊は、いる」
刀九郎の眼は真剣だった。それに、刀九郎は冗談を言うような性格ではない。
隼助の背筋に冷たいものが走る。
「ま、まさか」
隼助はゴクリとつばをのみ込んだ。
「だっ、ダンナは見たことがあるんですか? ……幽霊」
隼助はむりやり笑顔をつくりながら、鳥肌が立った腕をさすった。
「うむ。見たぞ」
当然のことのように刀九郎は真顔で言うのであった。
隼助は落ちつきなく体をゆらしながら笑った。
「ほっ、本当ですか~? オレを脅かそうとしたって、そうはいきませんよ? なにせ、盗っ人は夜の商売。幽霊が怖くちゃ務まりませんからね」
「隼助」
刀九郎が隼助の顔を見てほほ笑んだ。
「幽霊はいる」
刀九郎は断言した。
「はい。おります」
隼助には否定できませんでした。
「ところで、ダンナはどこで見たんですか? その……幽霊を」
「そこだ」
刀九郎が庭のほうを指差した。
「その柿の木のまえに立っていたのだ」
「ぇ」
隼助は柿の木をちらりと見てブルブルッと体をふるわせた。
「それは……いつごろの話で?」
「あれは、ちょうど十年まえのいまごろ……満月の奇麗な晩のことだった。わしが部屋で書物を読んでいると、庭のほうで人の気配がしたのだ」
まるで他人事のように刀九郎は語りはじめた。
隼助は庭のほうを見ないように目を伏せながら刀九郎の話に耳をかたむけた。
「だが、それが盗っ人ではないことは、すぐにわかった。気配を消そうという気がまるでないのでな」
刀九郎は寺子屋の師匠だが、剣術の腕も相当に立つのだ。そこらの貧乏道場の師範ぐらいでは相手にならないだろう。少なくとも、この江戸で刀九郎にかなう者はいないのではないか、と隼助は思っていた。
茶をすすりながら刀九郎がつづける。
「こんな夜更けにだれかと思い、そっと障子を開けてみると、柿の木のまえに男がひとり立っていた」
そっと湯呑をもどすと、刀九郎は柿の木に視線を向けながら腕組みをした。
「女の幽霊はよく聞きますが、男の幽霊……ですか」
隼助も柿の木を見ながら刀九郎に訊ねた。
「男の名は進藤数馬。わしの親友だ」
哀しい眼で柿の木を見たまま刀九郎がつづける。
「今時分どうしたのだ。そんなところに立っていないで中に入れ、と声をかけたのだがな。やつは、なにも言わずに立っているだけだった」
刀九郎はいちど言葉を切ると、腕組みを解いて茶托の湯呑に手を伸ばした。
「数馬は、なにも答えない。ただ、だまって、かすかにほほ笑みながら、じっとわしの顔を見ているのだ」
「ぜんぜん、しゃべらないんですか?」
「うむ」
小さくうなずき、刀九郎が茶をすする。
「なにもしゃべらず、こちらの問いに返事もしない。数馬は口数の多いほうではないので、さほど気にはしなかったのだがな。しかし、やつはだいぶまえから床に臥せっていると聞いていた。それが、あの夜の寒空の下にひとりで……。これはどうもおかしいと思いつつも、わしは庭に降りようとした。すると、そのとき……」
隼助はゴクリとつばをのみ、刀九郎のつぎの言葉をまった。
「金縛りにあった」
やはり真顔で刀九郎は言うのであった。
「な……なるほど」
幽霊より刀九郎のほうが怖い、と隼助は思いました。
「そこで、ようやくわしは気づいたのだ。もしや、数馬はすでにこの世のものではないのかもしれぬ、と」
刀九郎は神妙な顔になって湯呑の中に目を落とした。
「数馬は……別れのあいさつに来たのだ」
「し、しゃべったんですか?」
「いや、しゃべりはせん。いちど軽くあたまをさげて、な。ほほ笑みながら、ゆっくりと消えていった」
両手で湯呑をつつんだまま静かに目を閉じると、刀九郎は小さく吐息をついた。
「翌朝、やつの長屋を尋ねてみると、案の定、数馬はすでに……」
「不思議なことも、あるもんですねえ」
隼助も柿の木を見ながら吐息をもらした。枝に留まっていたメジロの姿は、もうなかった。
「やつは……おまえたち八咫烏に、いちど世話になったことがあるのだ」
数馬は労咳を患っており、床に伏せがちだった。妻のお志津は数馬を看病しながら内職で日銭を稼いでいたが、暮らし向きはきびしく、薬を買う金はおろか、長屋の店賃もだいぶ滞っていたらしい。数馬の病は悪くなるばかりで、一向に改善の兆しが見られない。しかも、このままでは長屋を追いだされてしまう。そんなとき、救いの手を差し伸べたのが八咫烏だった。
「あのころは、まだ養生所もなくてな」
湯呑から顔を上げると、刀九郎は寂しそうな表情で柿の木に目をやった。
「それに、街医者のほとんどはヤブやタケノコの類ばかり。それで烏平次たちは、長崎からもどったばかりだという若い蘭方医を見つけてきたのだが……」
あと半年早ったら、なんとかなったかもしれない。若い蘭方医はそう言ったらしい。
「そうですか。そんなことが……ねえ」
幽霊の正体が刀九郎の親友で、しかもカシラとも縁のある方だと聞いて、隼助は怖いと思ったことが、なんだか申し訳なく思えてきた。
「ん?」
柿の木のすぐうしろ、板塀の上に一匹の白い猫がいる。行儀よく前足を立てて座りながら、黄色い眼玉でじっとこちらをうかがっている。ひょっとしたら、化け猫かもしれない。隼助は数馬の話を思い出しながら、茶をひとくちすすってゴクリとのみ込んだ。
向島はのどかな田園地帯だが、料亭や別荘などもある。そして八咫烏の隠れ家も、この向島にあるのだ。堀切村のはずれにある、大きな山。めったに人が立ち寄らないので、山道すらない。その山奥、竹林を抜けたところに、古い荒れ寺がひっそりと佇んでいた。そこが八咫烏の隠れ家である。
「なるほど。幽霊ねえ」
隼助が刀九郎から聞いた話をすると、どんぶりで酒を呷りながら烏平次が笑った。烏平次は大酒飲みなのだ。お猪口やぐい吞みではなく、いつもどんぶりで飲むのである。
「おめえさんは、からかわれなすったのさ。隼助」
囲炉裏の向こうでぐい吞みを呷りながら雷蔵も笑った。
「ダンナは真剣に話してました。とてもからかってるようには見えませんでしたよ」
そうは言ってみたものの、隼助も幽霊など信じてはいなかった。やはり、からかわれたのだろうか。隼助は閉めきったうしろの障子を肩越しにチラリと見て首をかしげた。
「幽霊なんて、いるわけないよな」
隼助は口の中でつぶやきながら手酌でぐい吞みを呷った。
寺のいちばん奥から二番目、六畳ほどの、囲炉裏のある小さな部屋。障子は閉めきってある。三人で囲炉裏の火を囲み、酒を飲んでいた。
「あのダンナは、いくつぐらいなんですかね」
どちらに尋ねるともなく隼助が訊いた。
「たしか、四十七って言ってたな」
答えたのは烏平次である。
「四十七、ですか。ところで、あのダンナはいつからハ……」
ハゲているのか。隼助がそう言おうとしたとき、雷蔵が大きな咳払いをした。マユがハの字になっている。余計なことを言うな。血走った雷蔵の眼は、そう語っていた。
「どうした、隼助」
烏平次がマユをひそめた。
「い、いえ、いつから寺子屋をやってるのかな~、って」
隼助は、あわててとりつくろった。
「さあ。そいつァおれも知らねえなあ」
小首をかしげて烏平次がどんぶりを呷った。
烏平次のまえでは、額から上の話は絶対にしてはいけないのだ。冷や汗を手の甲で拭うと、隼助は気を取りなおしていなり寿司を頬張った。夕餉は大抵、屋台の寿司で済ませることが多いのである。
「そういや、カシラたちは深川にどんな用事があったんです?」
「うん?」
烏平次が雷蔵と顔を見合わせた。
「なに、大した用事じゃねえよ」
意味ありげな笑みを浮かべながら烏平次がどんぶりを呷った。雷蔵も、おなじ顔でぐい吞みを呷っていた。
どうせ芸者遊びでもしていたのだろう。ふてくされながら、隼助は手酌でぐい吞みを呷った。
「う!」
――人の気配。隼助の背後。障子の向こうである。井戸のあるほうだ。烏平次と雷蔵も鋭い目を障子のほうに向けている。
「隼助」
雷蔵が確かめろ、というように目で促した。
隼助は素早く立ち上がって障子に向かい、そして勢いよく開け放った。
「だっ、だれでぃ!」
闇に向かって隼助は叫んだ。月は出ていない。庭の奥、暗闇のむこうにぼんやりと佇む井戸。そこに、何者かが潜んでいる。気配がするのだ。
「どうだ、隼助。なにか見えるか?」
烏平次が声をひそめる。
「いえ」
烏平次の声にはふり向かず、辺りを警戒しながら隼助は答えた。
姿は見えないが、まちがいなくいる。隼助は縁側から降りると、井戸のほうにじっと目を凝らした。
「あっ!」
井戸の上で、なにか小さな丸いものが光っている。蛍の光のような、小さな丸いものがふたつ。
「どうした、隼助」
雷蔵の声。
「な、なにか光ってます」
井戸のほうに目を凝らしたまま隼助は答えた。
「井戸の上で……なにか小さなものがふたつ、光ってます」
「なにが光ってるんだ?」
隼助は烏平次に答えず、石畳の上を井戸のほうへ向かって歩きはじめた。足元から井戸まで、四角い石畳が三十個ほど、飛び石状につづいている。隼助は井戸のほうに目を凝らしながら、一歩一歩、慎重に、ゆっくりと足を運んでいた。
小さなふたつの光は、井戸の上から動かない。人魂にしては小さすぎる。いったい、なにが光っているのだろうか。ちょうど石畳を半分ほど進んだところで、隼助は足を止めた。
「あ」
一瞬にして緊張がほぐれた。井戸には、竹の葉などのゴミが入らないようにフタがしてある。そのフタの上で、白い猫が一匹、香箱座りになっていた。
「ねこ……猫でした」
部屋のほうをふり返ると、隼助は苦笑混じりにため息をついた。
「猫?」
雷蔵がマユをひそめながら烏平次の顔を見た。どうも納得できないといった表情だ。
「猫の気配にしちゃあ、ちょっと、な」
烏平次も腑に落ちないというように首をかしげた。
「気に入らねえな」
雷蔵も首をかしげる。
隼助は井戸のほうに向き直った。
「そういえば、この猫。どこかで見たような……」
隼助は「はっ」とした。刀九郎の寺子屋で見た猫である。
「まっ、まさか……数馬……さん?」
――バタン!
いきなり背後で大きな音がした。隼助は鳥肌を立てながら部屋のほうをふり向いた。
「あ」
隼助が勢いよく開けたせいだろう。はずれた障子戸が、茣蓙の上にあぐらをかく烏平次のあたまに倒れている。破れた障子からあたまだけだしながら、酒のどんぶりをもったまま固まっていた。
「カシラ、大丈夫ですかい?」
雷蔵が立ち上がって、一歩踏み出したときである。
――バキバキッ!
雷蔵が床を踏み抜いて顔面からカベに突っこんだ。
隼助は全身に鳥肌が立った。ここの床は張りかえたばかりで、腐ってはいないはずだ。常識で考えても、こんなことはありえないのである。
「はっ」
もしや、数馬の仕業では――隼助は恐る恐る井戸のほうをふり返った。
「あ……」
白い猫は、もういない。怪しい気配も、もう感じない。
「ばっ、ばかばかしい。幽霊なんか、いるわけが――」
部屋をふり向いたときである。屋根から一枚の瓦が落ちていくのが見えた。瓦は部屋のまえに落ちて、ガシャンと音を立てながらくだけ散った。ちょうど、さっきまで隼助が立っていたところである。
「ゆっ、幽霊なんて……こっ、ここ、怖かないさ……」
しかし、隼助の体からは滝のように冷や汗が流れているのであった。
次回、第五話「オレたちの正義」
おたのしみに!!
八咫烏(4)