ドッジボール (下)

# 15

 別に何か決定的なことがあった訳じゃない。少しずつ、少しずつ、ちょっとした恥が積み重なって、耐えきれない居たたまれなさに変わっていく。これまでだって同じだ。
 だから、人とつき合える期間というのは、有限なのだ。

 別に、この間の稽古が、とてつもない、取り返しのつかない大失敗だったなんて思っている訳じゃない。あれくらいの失敗、学生の頃いくらでもあったし、周りの失敗も数え切れないくらい見てきた。
 きっと後藤さんやみんなは、私のことを、なんて打たれ弱い人なんだと思ったんだろうな。でも、もうゆーとぴあの人たちと関わることもないだろうから、悔しいけど仕方ない。どうせ、サークル関係の人たちと関わることも、もうないだろうし。
 それに、今回は特に、自分ひとりだけの問題じゃない。志波(しば)ちゃんを守るためでもあるんだ。
 志波がスカウトしてきた奴が使い物にならない。これなら兼役で済ませておけばよかった。志波の奴、なんて余計なことをしてくれたんだ。そんなことは、言わせない。

 ゆーとぴあのLINEからは、退出した。ホームページも、ブックマークから削除した。
 志波ちゃんからのLINEには、申し訳程度の社交辞令で返した。それに対する志波ちゃんからの返信は、未読のままにしてある。
 大貴(ひろき)くんからも、「姉貴が心配してる」とLINEが来ていた。それすらも、同じように無視した。毎日のちょっとした逃げ場を失うことになるが、仕方ない。
 繋がりをひとつ消すごとに、肩の荷が下りたような、すがすがしい気持ちになった。
 けれども、次第に、罪の意識が襲ってきた。
 なんで私は、こんなことばかり繰り返しているんだろう。どうして私は、こんな性格なんだろう。
 こんなことをしているのは自分だけなんだろうか――
 すがるような気持ちで、Googleに思いつくままの単語を入力してみる。
 いろんなまとめサイトやら何やらを眺めているうちに、あるパーソナリティ障害の名前に辿りついた。いくつかのチェック項目を見てみると、多くが当てはまるように思える。関連するページを夢中で読み漁る。
 けれど、ふと冷静になり、救い主を見つけたような顔をしている自分に気がついた。
 何がしたいんだろう、私は。病名を見つけて、自分が異常だというお墨付きを得て、安心したいのか。
 言い訳を作ってもしょうがない。自分がしてきたことには変わりないんだから。
 スマホを置いて、横になった。
 志波ちゃん、後藤さんやみんなから怒られてるかな……。


 現実逃避で芝居を始めたのに、芝居が現実となると、仕事に打ち込むことが現実逃避となる。
 店長のいない土曜日。心を無にするように、仕事に集中した。
店長不在時はいつも残業時間になってからようやく発注に取り掛かれるのに、今日は業務時間内に発注の半分を終えていた。思い切って追加したおでんも順調に売れているし、バイトの子が答えられなかったお客様からの質問も、スラスラと答えてお礼なんか言われちゃうし。
 私、結構やるじゃん。
 時間になってバックヤードに入ろうとしたところで、レジに若い女性が近づいた。他のレジは埋まっている。
「いらっしゃいませ」
 レジを開けて目を合わせると、女性は私の名札を見て、視線を逸らした。
 私も気がついた。化粧の雰囲気は変わったが、見覚えのある顔。高校の同級生だった。1年生のときに、一緒に図書委員をやったクラスメイトだ。
 彼女も戸惑っているのか、私のレジから遠ざかり、レジ横のチキンの前に立ち、商品を選ぶ素振りをしている。
「レジ代わります」
 アルバイトの男の子が売り場から戻り、私に声を掛けた。彼がレジに立ち、私が今度こそバックヤードに戻ろうとすると、彼女は安心したのか、レジに商品を置いた。
「ご一緒にチキンはいかがですか?」
「大丈夫です」
 そんなやり取りを聞きながら、バックヤードに戻った。

 高校の委員会は、全員参加でなく任意だった。
 委員を決めたときのことは、よく覚えている。委員はそれぞれ2人ずつ。まず学級委員を決めてから、順番に他の委員の希望を、挙手で募っていった。最初が図書委員だった。図書委員は中学のときもやったことがあったし、興味があったので真っ先に手を挙げた。挙手したのは私だけ。まずは私だけ確定ということで、順番に他の委員の希望を募っていく。美化委員、保健委員、選挙管理委員……順番に挙手を募るのを見て、私は大きな間違いに気がついた。みんな仲の良い2人組を作ってから立候補しているのだ。中途半端に1人だけが立候補してしまった図書委員だけ、あと1人が決まらないまま、クラスに沈黙が流れた。
 最終的に、委員に就かなかった人たちでじゃんけんをして、負けたのが彼女だった。
 私が立候補しなければ、もっとスムーズに決まったのだろう。私なんかが手を挙げたから。1年間私と組まされた彼女にも、申し訳ない気持ちで一杯だった。2年、3年では、何の委員もやらなかった。

 いけない。集中しなきゃ。
 現実逃避とばかりに、私は発注画面に集中した。

# 16

 月に一度の廃品回収はまだ先だけど、親にうるさく言われる前に、古い雑誌を片づけないと。 
 といっても、毎月ファッション誌を買っていた営業時代ほど、捨てる雑誌もないのだが。
 けど、これは捨てておいていいだろう。
 台本と演劇雑誌を、いらないカタログと一緒に縛った。


 上級試験。
 オーナーから渡された資料に、目を丸くした。
 ネイバーマートの本部には資格制度があって、試験に受かるたびにランクが上がっていく。
 コンビニに行ったときに見てもらえば分かるが、店員の名札についている星の数の違いだ。星5つの上級は、なかなかお目にかかれない。といっても、うちのところじゃ、3店舗の店長と蛭田(ひるた)くんが取得済みだが。
「もうですか? この間中級試験受けたばっかじゃないですかあ」あえて軽い口調にするよう努めながら、オーナーに抗議した。
「頼むよ。中村だけが頼りなんだよ」オーナーも軽口を叩く。
「来週の月曜、勉強会ね。もうシフトは谷に動いてもらってるから」
 こうなると、私には選択権はない。まあ、ちょっとだけ、まんざらでもない気持ちもあるんだけど。
「社員なんだから、前向きにね」
 この人に言われちゃあ敵わない。
「がんばります」

 勉強会当日。
 本部の研修施設の、会議室のような部屋に入ると、既に1人の男性が座っていた。
「おはようございます」
 挨拶をして、入口に近い席に座った。
 私と同年代くらいのその男性は、スーツにネクタイ姿だ。一方私はというと、ユニクロのカーディガンに、花柄のスカート。
 やっぱりスーツで来るべきだったか。でもスーツというと、就活用の真っ黒いのしか持っていない。営業時代のスーツやジャケット、取っておけばよかったな。
 続けて、中年の男性が部屋に入ってくる。やっぱりというか、彼もスーツ姿。大股を開いて席につくと、バサっと音を立ててビジネス用の大きな手帳を開き、ハンカチで汗を拭き始めた。
 場違い感を感じていたところに、講師の中年の女性がピンク色のカーディガンで登場した。少し救われた気持ちになった。
 自己紹介で知ったが、若い方の男性は店長になって1年目で、中年の男性は将来独立を目指しているという。
 やっぱり上級試験ともなると、それなりの立場の人が多いんだな。そんな2人と一緒で大丈夫だろうか。
 けれども、講師の女性は、そんな私の気持ちまで見透かしたかのように、ひとりひとりに向けてにこやかな笑顔で言った。
「みなさん、今日はそれぞれの立場で、それぞれの目的があってお越しだと思います。けれどもまずは、お客様のために何ができるか、という基本に立ち返って、なぜ上級試験を受けるのか、一緒に考えて行きたいと思います。今日学んだことを、試験のためだけでなく、明日、お客様や他のスタッフの前で、何かひとつでも実践してみてくださいね」
 中年の男性は、メモを取ろうと構えていたペンを手帳の上に転がして、ハンカチで額を拭った。私は姿勢を正して、彼女の話に聞き入った。
 勉強会の2時間は、とても充実した時間だった。途中、講師から当てられて、中年の男性が答えに困窮していた質問でも、自分の考えで答えることができた。普段店長やオーナーから言われていたことが、こんなに普遍的で意味のあることだと思わなかった。もちろん、普段の仕事では出会わない考え方も学ぶことができた。
 我ながら単純だと思うが、来てよかった、明日からも頑張ろうと思えた。
 そう、別に、変わったことをしたり、無理やり趣味を見つけようとしたりしなくても、退屈な日常は充実したものにできる。
 いま居る場所で、いまやっていることを頑張ればいいのだ。

# 17

「きょうは元気?」

 ここのところ毎日、大貴くんからこんなLINEが来る。
 そのLINEに、元気だよ、とだけ返した。これも最近の日課になりつつある。
 ゆーとぴあを辞めてから、関係者の連絡はすべて絶っていた。最初は大貴くんのLINEも、ひたすら無視していた。そうすれば、そのうち途絶えるだろうと。
 それでも連絡は途切れなかった。内容は大したことなくて、挨拶や、スタンプばかり。
 ブロックしてもよかった。けれど、どうしてだか、返事をしてみる気になった。そしていまに至る。

「げんきならデートしましょー」

 またか。私は苦笑した。連絡が来るのはいいが、デートと言われると話が違う。まあ、どこまで本気なのか知らないけど。

「大貴くんはデートしてくれる子いっぱいいるでしょー」

「えー、いないですよー。皐月さんだけです」

 まったく困ったものだ。

 次の日。
 仕事の休憩中にスマホを見ていると、大貴くんからLINEの通知が入った。

「デートなう」

 私は食事の手を止めて、無言でスマホの画面を見つめた。
 続けて画像が流れてきた。大貴くんと、志波ちゃんのツーショット。
 なあんだ。少しほっとした。でもほっとしている自分が恥ずかしくなった。

「あれえ? もしかして、ちょっと淋しいとか思いましたー?」

 何も返せずにいると、立て続けにメッセージが来る。

「ね、遊園地のチケットもらったんだけど、明日にでも行きませんか?」


 別に淋しいとか会いたいとかそういうのじゃなくて、今日はもともと稽古の予定で、家のカレンダーには午後出勤って書いてしまったから、家に居るにしても説明が面倒だと思ってたから、出かけちゃえば丁度いいって思っただけだから……
 なんて、ごちゃごちゃ考えながら、次の日、私は上り電車に乗っていた。

「皐月さん、こっちですよ」
 声のする方を振り返ると、志波ちゃんによく似た男の子が立っていた。人混みのなかでも目を惹く顔立ちに、細身の体型。背は案外高くない。
 そっか、大貴くんってこんな人だったっけ。思えば、毎日アイコンの風景写真は見ていたけど、実際には夜の車中で姿を見ただけなのだ。
「ほんとに来てくれたんだ。嬉しいです」大貴くんはそう言って、微笑んだ。
「こちらこそ」
 何がこちらこそなんだろう。言いながら自分でそう思った。
「実は不安だったんですよ? 本当に来てくれるかどうか」大貴くんはいたずらっぽく言う。
「まあ……常葉園(ときわえん)以外の遊園地なんて来たことなかったから、丁度いい機会かなって。いままで人様の話題にもあまりついていけなかったから」
「そうなんですね。じゃあ、今日は楽しみましょう」

 コーヒーカップ、メリーゴーラウンド、ジェットコースター……
 休日ということもあって、人気のアトラクションにはそれなりに列ができる。普段LINEでの会話は弾むものの、実際に顔を合わせると、はじめはどんな話をしていいのか戸惑った。
 いろいろと話をしているうちに、大貴くんも居酒屋でアルバイトをしているから、仕事の話が案外共通の話題であることが分かった。
「最近どこも人手不足ですよねー」
 大貴くんのところも、世間のご多分に漏れず、人が足りないらしい。
「皐月さんも、いつも忙しそうですよね」
「そうだね。けど最近は、やけに面接で人採ってて、逆に研修で大変なんだー」
「ふーん、でも人が多いのはいいなあー。うちなんか、こないだ熱出たときでも、自分で代わり見つけるまで、休ましてもらえなかったんですよ?」
 うーん、それは、うちも同じようなことしてるからなあ。私は苦笑いで返した。

「つぎはあれ乗りましょう」
 そう言って、大貴くんは観覧車を指差した。
 なんとなく、ゴンドラのなかで2人きりになるのは気が引ける。考えすぎかもしれないけど。
 でも、観覧車なんて久しぶりだ。単純に乗りたいという気持ちの方が強かった。

「うわあ……」
 夕陽に照らされる街並みを眺めながら、自然と感嘆の声が洩れた。
「皐月さん、楽しそう」
 大貴くんに言われて、慌てて目を伏せる。
「大人げないよね。実は観覧車、1回しか乗ったことないんだ。常葉園にはないからさ」
「いいですよ、そんな言い訳しなくても」
「えっ?」
「楽しければ、楽しいって言っていいんですよ」
「うん。……楽しい」
「よかった。今日は、皐月さんに楽しんでもらえて」
「こちらこそ」
「姉貴に聞いて、心配してたんですよ。姉貴言ってました。皐月ちゃん戻ってきてくれないかなーって」
 ああ。やっぱその話が出たか。
「ヒロイン役の人が兼役してるけど、うまくいってないんだって」
 本当に? 星川(ほしかわ)さんが?
「皐月さん、本当に舞台乗らないんですか」
 ああ。やっぱその話なのか。
「……それが聞きたくて、今日誘ったの?」
「違います! 俺は本当に皐月さんとデートがしたかったんです」
 大貴くんは、まっすぐに私を見つめた。私はドキリとして、慌てて目を逸らす。
「それはそれで困るんだけどな」
「なんか、皐月さん、自分は相応しくないみたいに思ってません? 恋愛も、舞台のことも」
 全身が、かあっと熱くなった。
「自分なんかには相応しくない。他に相応しい誰かがいるなら、その人がやった方がいい、って」
「…………なんで、分かったの?」
「毎日LINEしてたら分かります。てか、今日一緒にいただけでも分かる。俺がこんなに口説いてるのに、いちいち遠慮しちゃうんだもん。ま、そういう娘はだいたい、押し続ければ落ちるんだけどね」
「ちょっと、最後の一言は余計」
 眉根を寄せると、大貴くんはクスクスと笑った。
 観覧車は、ゆっくりと上昇する。
「皐月さん、ちょっとだけ昔の姉貴に似てるかも。演劇部入ったとき、こんなおっきいホクロのある顔で舞台に出ちゃいけないんじゃないかーって、死ぬほど気にしてたんだ」
 嘘みたい。あの明るくて、きれいな志波ちゃんが。
「だから俺言ってやったんだ。そんな小さなホクロ、客席から見えませーん、って」
 大貴くんは、おどけて言った。
「気にしてるのは自分だけなんだよ。残念ながら、周りは思ったほどあなたのこと見てません」
 そして、真面目な顔に戻って、私を見た。
「大事なのは、周りがどう評価するかじゃなくて、自分がやりたいか、やりたくないかだよ。だから、舞台に出たいなら、やればいいじゃん」
 強い風が吹いた。ほんの少し、ゴンドラが揺れた。
「それが分からないんだよ。本当に自分がやりたいのかどうか。志波ちゃんに誘われて、必要とされてるから引き受けただけで、自分が本当にやりたいことなのか……」
「ふうん、じゃ皐月さんは、やりたくもないことのために、シフト調整して、稽古出てたの?」
「それは……」
「やりたくもないことのために、夜遅くまで、台本読んでたんだ?」
 何も言えなかった。
「それだけのことができるなら、充分『やりたいこと』って言っていいと思うよ?」
 そんなこと、思ったこともなかった。そんな風に、考えることもできるんだ。

 観覧車を降りた頃には、日が暮れていた。
「じゃ、考えといてね。舞台のことも、俺のことも」
 そう言って、大貴くんは、意外にもあっさりと解放してくれた。

# 18

 とは言ってもなあ。
 あんな逃げ方しておいて、のこのこ戻れないよなあ。
 兼役がうまくいっていないというのも、どこまで本当のことなのか。
 おそるおそる、スマホの検索ウィンドウに、「劇団ゆーとぴあ」と入力する。HPには、相変わらず「団員募集」の文字があった。
 稽古のブログは、当たり障りのない内容だけで、順調なのかどうかは見てとれない。
 とは言ってもなあ。

「中村、元気ないね。なんか悩み事?」
 休憩中、事務所で廃棄の弁当を食べていると、オーナーに訊かれた。
「えっ? いえ、特に……」
「そっか。そういえば、舞台の練習、うまくいってる?」
 しまった。
 そういえば、オーナーへは舞台をやめたことも何も話してなかった。いや、もしかしたら店長から話がいってるかもしれないが。
「すみません、ご報告が遅れたんですが、その話、ナシになったんです」
「なに、クビになったの?」冗談めかしてオーナーは言う。
 ははは、と私は笑った。
「自分から辞めたの?」
「まあ、そんな感じです」
「ふーん、舞台の方は大丈夫? 他に代役いるの?」
「さあ……」
「さあ、って……そんなことでいいの?」
 私は愛想笑いで答えた。
「もしかしてだけど、うちに気ぃ遣ってたりする?」
「そういう訳じゃないですけど……」
「じゃあどうして。まだ数回しか行ってないじゃん」
 正直、このやり取り、面倒臭いなと思った。私の個人的なことなんだから、ほっといてほしいのに。
 でも、こういうときにその場しのぎの答えを考えても、ボロが出るだけだと分かっている。
「やっぱり、自信なくて」
「……なるほどね」
 そうだ。言ってしまってから、改めて自覚した。自信がない。その一言だ。
 大貴くんに言われて、考えてみようと思えても、いまから稽古に戻って、本番までのあと1ヶ月で自分に何ができるのか。「とは言っても」の続きは、それに尽きる。
「自信ないって言っても、向こうから誘われたんじゃないの?」
「そうです。でも……」
 でも、なんだろう。
 買いかぶられたからこそ、期待を裏切って、がっかりされるのが怖いんだろうか。
 それも、ちょっと違う気がする。言葉にして表現してしまうと、何だか安っぽい理由になってしまう。
「舞台、学生のときからやってたんでしょ?」
「まあ、でも、学生のときは、所詮ただのサークルでしたから。掛け持ちしてる人もいたりして、みんな気楽な気持ちでしたし」
「うん」
「だから私もうまくやっていけたんです。たまたま、うまくいっていたんです」
 そうだ。だから、志波ちゃんも、後藤さんも、私の「うまくいってるとき」しか知らない。
 世間話ひとつできない、忘れっぽくてどんくさくて、何度も同じミスを繰り返すような姿は、多分知らない。就職もうまく行かなくて、こんな底辺みたいな仕事をしている姿も、知らなかった。
 何とかボロが出ないまま、「お芝居のうまい中村さん」のままで4年間逃げ切ったと思ったのに、こんなことでメッキが剥がれるなんて。
 こんなことなら、引き受けるんじゃなかったと思った。志波ちゃんと再会した、あの夏の終わりまで、時間が巻き戻ってほしかった。
「じゃあ、うまくいかなかったら、もう終わりなの?」オーナーが訊いた。
「終わりだと思ってました」
 そうだ。うまく行かなかったらそれまでだ。ずっとそう思ってやってきていた。
「けど、もし、まだ受け入れてもらえるなら、戻ってみようか迷ってます。でも、またうまくいかなかったらと思うと……」
「うまくいかなかったら、またやめればいいんじゃない?」オーナーはあっけらかんと言った。
「ええ? そんな無責任なことできませんよ」驚いて私は言い返した。まあ、そんなこと言える立場にないので「もう、1回してますけど」と付け加えて。
「じゃあ、今度うまくいかなかったら、俺のせいにしていいよ」
「はい?」
「職場の上司に、仕事に差し障るからやめろって言われたって」
「そんな……それじゃあ、オーナーが悪者じゃないですか」
「うーん、そうだなあ。じゃあ、そうなったら、代わりにうちの娘にでも出てもらうよ」
「ええ? 娘さん演劇経験者なんですか」
「うん、小学校の学芸会で、風の役でね」
「だったら私がやった方がマシです」
 2人で笑った。

 家に帰ると、真っ先に、雑誌の束を紐解いた。
 間に合ってよかった。あと数日後だったら、台本は跡形もなくなっているところだった。
 間に合ううちに決心がついたんだ。それだけでも、もう一度やってみる理由になるだろう。

# 19

 とは言ったものの。
 やっぱり、志波ちゃんとのLINEを開こうとするものの、あと一歩の勇気が出ない。
 本当に情けないけど、代わりに大貴くんに

「あれ以来、志波ちゃん、なにか稽古の話してる?」

と訊いてみた。
 すぐに既読がつく。けど、なかなか返事はない。
 そういえば大貴くんも志波ちゃんだったか、なんて思いながらぼんやりしていると、しばらくして、スマホの画面が光った。画面を見ると、それは大貴くんではなく――

「ねえ! ごめん! うちの弟が迷惑掛けて! 私のLINEの管理が!」

 志波ちゃんだった。私は目を丸くした。躊躇うのすら忘れ、私はLINEの画面を開いていた。
 どうやら、さっき大貴くんに送ったメッセージが、志波ちゃんの目に留まったということらしい。
 あーあ、大貴くん、この様子だと、ひどく怒られたんだろうなぁ。かわいそうになって、私はメッセージを返した。

「志波ちゃん、そんなに怒んないであげて?」

 返事が来る前に、もう1通送った。

「ねえ、私にも謝らせて?」


 志波ちゃんに連れられ、ドキドキしながら、公民館の多目的室へ入る。
「おはようございまーす。皐月ちゃん連れてきましたよー」と、志波ちゃんが呼びかける。
「おっ」
 長身の男性が、こちらを振り向いた。
「待ってたよ」
 私は頭を下げた。
 部屋の端に座って台本を読んでいた黒河内(くろこうち)さんが、立ち上がった。
「助かったよ。星川さんのマーシャは正直、元気過ぎて白けてたんだ」
 私は、何て返していいか分からず、頭を下げた。
「んんー? なんだってー?」
 後ろからアニメ声が響いた。
 振り返って驚いた。背中から黒い羽根が生えた黒パーカーに、棺桶のイラストがプリントされたワンピース。それに球体関節ストッキング。そっか、明日ハロウィンだからか。
「お前その格好で稽古すんのかよ」
 そう言った黒河内さんには答えず、星川さんは、私の目の前に立った。そして、深々と頭を下げた。
 思わず「えっ」と声が出そうになるのを、ギリギリのところで飲み込んだ。
 顔を上げると、星川さんは、いままで見たことのない笑顔を、私に向けてくれた。

「そうか、それは南の魔女の呪いじゃな」
 この中でいちばん若い宮坂(みやさか)さんは、お婆さん役がよくハマっている。
「南の魔女? 北の魔女の間違いじゃねえか?」
 “カイ”も、前よりずっと役を自分のものにしている。
「はっはっは、ここは、北の、北の、北の果てじゃ。ここからじゃあ、魔女の住処でさえ、はるか南さ」
 カイは、弾かれたように立ち上がる。
「なあ、お前、魔女の住処を知ってるのか。どこなんだ! 魔女はどこにいるんだ! そいつに会って聞いてやる! 俺はどうすれば元の世界に戻れるんだ!」
 その迫力に気圧される。やっぱり、この人と一緒に舞台に立てるだろうか。

「私は、どんくさくて、何をやってもうまくいかない!」
 椅子を前にして、田中さんは力強く声を張り上げた。
「あ、ちょ、田中さん」見かねた後藤さんが口を挟んだ。「頑張ってくれてるのはいいんだけど、それ、そんな自信満々に言うことじゃないから」
 みんな笑った。田中さんも笑った。
 なあんだ、田中さん、いまだにそんな感じか。

「つぎ、36ページ、カイとマーシャのところから。マーシャ、いってみようか」
 私は無言でうなずいた。
 早足で舞台の中央に向かうカイを、少し遅れて追いかける。舞台の中央でカイが止まる。私も立ちどまる。
「お前、なんでついてくるんだよ」
 答えを言葉に乗せることはできない。代わりに、身振りと、口の動きで、カイに伝えようとする。
「ん?」
 カイは、私に一歩近づく。マーシャの言いたいことを、読み取ろうとする。
「わたし、あなたを……なんだって?」
 おずおずと両手を伸ばし、カイの手を取る。口をぱくぱくと一生懸命に動かす。
 伝わっているだろうか。きっとマーシャならそう思っただろう。
「……たすけたい?」
 私は笑顔で、何度もうなずいた。
「いいね」後藤さんが、小さくつぶやくのが聞こえた。


「どうだった?」

 稽古の後、スマホを見ると、大貴くんからLINEが来ていた。
 懲りてないなあ。そう思いながら、私は親指を立てたスタンプを返した。

# 20

 午後の稽古になんとか間に合う時間で職場を出て、電車に飛び乗った。オーナーから店長に話が行き、シフトを調整してもらえたのだ。
 本当にギリギリのスケジュールだから、最寄り駅から小走りで向かっても、2、3分は遅れるだろう。
 汗ばみながら公民館に入る。今日は体育室だったはずだ。早足で階段を上る。
「あ、おつかれ」
 体育室のドアの前に、みんながいた。どうやら遅刻ではないらしい。
「まだ前の人がいるみたいなんだ」と志波ちゃん。
「もう時間過ぎちゃったじゃん、つまみ出すぞ」と後藤さん。
「それが、声掛けても、みんな熱中しててさ」と朝倉さん。
 どういうことかと思い、半開きになったドアの間から中を覗く。
 中にいたのは、小学生たちだった。男の子が水色のボールを投げようとすると、向かい側にいる子どもたちは一斉に後ろに下がった。
 ドッジボールか。懐かしい。私も小学校で、よくやったなあ。あの大きなボールが怖くて、一生懸命逃げてたっけ。
 室内を見回すが、先生らしき人は見当たらない。朝倉さんの言う通り、みんな対戦に夢中になっている。
 そのなかでたったひとりだけ、こちらをチラチラ見ている女の子を見つけた。女の子は、ボールを投げようとしている男の子に、何か話しかけていた。けれども男の子はお構いなしにボールを投げる。
 相手チームの子が、受け取ったボールを女の子に向けて投げた。女の子は身を縮こめて、頭を両腕で覆ったが、背中にボールは当たった。
 女の子は小走りで外野に回った。その表情は、少しほっとしたように見えた。けれども、もう一度振り返って、申し訳なさそうにこちらを見た。
「言ってくるよ」
 私はそう言って体育室に入った。子どもに気を遣わせる訳にはいかない。
 私は声を張り上げた。
「ねえ、ごめんね。もう時間なん……」
 その瞬間、ボールが私の頭に直撃した。一瞬遅れて、子どもがコントロールを誤ったのだと気づいた。
「ごめんさない」と、男の子が駆け寄ろうとしたそのとき……
「おまえら、なにしてんだー!!」
 男の人の、野太い声が響いた。
 先生らしきその男性は、子どもたちを一通り叱りつけると、茫然としている私のところに寄ってきて、何度も頭を下げていた。
 彼らが去ってからも、私はぼんやりと立ち尽くしていた。志波ちゃんが心配そうに私を覗き込んだ。
「大丈夫だった? ボール痛くなかった?」
「ああ、うん……」
 痛くなかった。拍子抜けした。
 小さい頃、あんなに怖がって逃げていたボールは、柔らかくて、少しも痛くなかった。

「じゃあ、次は48ページのところからだけど……」
 後藤さんが、台本をめくりながら指示を出す。
 例の場面だ。自然と身体が強張る。
「中村さん、最初の台詞のとこ、ちょーっと溜めてみてもいいかも」
「本当ですか」
「うん。タイミングは任せるわ。1回試しにやってみよ」
「はいっ」

「俺はすぐに元の世界に戻って、君のことなんて忘れてやるよ。だから怖がらないで、君の声を聞かせて」
「……これが私の声よ」
 思っていた以上に、自然な声が出た。確かに、数年ぶりに出す声なんて、大層な力のこもったものじゃなくて、マイクテストみたいなものかもしれない。
「きれーな声だ」
 “カイ”も、自然な感じで合わせてくれた。
「ありがとう」
「なあ、マーシャ、このきれいな声を、他の人に聞かせないとは勿体ない! お兄さんたちのところへ行こう! いますぐに」
 カイに手を引かれ、“舞台袖”までハケる。
 後藤さんはうなずいた。続けてという合図だ。
 舞台には、黒河内さん演じる“お兄ちゃん”が座っている。私はカイに手を引かれ、舞台の中央に向かう。
「おかえり、マーシャ。カイくんと一緒だったんだね。……どうしたの?」
 お兄ちゃんは私の顔を覗きこむ。カイが肩を小突く。
 ここまで来たらしょうがないよなあ、マーシャならそう思っただろう。私は口を開いた。
「ただいま」

# 21

「どうだった?」
「できた気がしませんよー」
 上級試験の第一関門、小論文の試験を終え、報告のために店に戻ると、丁度オーナーが事務所にいた。
「そうなの? 無理にカッコいいこと書こうとしなくても、普段の中村の考えが出せてれば大丈夫だよ」
「うーん、試験の後に言われましても……」
「まあ座んなよ」
 オーナーはパイプ椅子を広げた。促され私は座る。
「あのさ、来月、新店オープンするんだ」
「えっ? またですか」
 唐突な話に思わず声が裏返った。しかも去年1店舗オープンしたばかりなのに。
「コンビニ業界なんてそんなもんだよ」
「場所はどこですか」
「隣の中村台駅って分かるよね。その北口」
「そうだったんですね」
 だから最近やけに人採ってたのか。何人かはオープニングスタッフとして連れていくんだろうな。
「で、中村、異動ね」
「えっ!?」
「中村台駅の中村マネージャー、ってなんかいいじゃん」
 そんな、なんかいいじゃんで異動させられましても。
「本当は中村店長でもよかったけど、それじゃ蛭田がかわいそうだからね」
「店長は蛭田くんですか」
「うん。たださ、蛭田はやる気だけは誰にも負けないけど、まだ若いし、やる気が空回りして心配なところがあるんだよ。だから、中村がサポートしてあげてね」
「はあ……私にできるでしょうか」
「できるできないじゃなくて、やって。そのために上級も取らせてるんだよ」
 そうだったんだ。いきなり試験とか言い出したけど、そのためだったんだ。
「蛭田が突っ走っちゃいそうなときに中村が止めようとしても、中級のくせにってなるんだよ。だから、中村には早く資格取って、同じ立場で助言ができるようになってほしいんだ」
 そういうことだったんだ。
「分かりました。がんばります」
「まあ、うまくいかないこともあると思うよ。けど、中村はまだ、先が長いから」
 ああ、やっぱりこの人には敵わない。
「頼むね。じゃ、帰ったらゆっくり休んでね」
「はい」返事をして、私は席を立った。
「そういえば、稽古はどう?」帰りがけに訊かれた。
「順調です。あと2週間、がんばります」
「ああ。よかった」
「余暇活動に打ち込めるのはいまのうち、ってそういう意味だったんですね」
「ん、何のこと?」
「いや、何でもないです」
 私は苦笑した。

 仕事をしていると、ときに、自分の意志とは関係なしに物事が進むことがある。
 でも、流されているんじゃない。自分の意志でここに立っているんだ。

 家に帰ると、鞄から上級試験の資料を取り出した。
 もう少し、やってみるか。
 机の端には、医療事務のテキストが積み重なっている。うっすらと積もっていた埃をはらって、その上に資料を重ねた。

# 22

 この頃、勤務時間が終わると、ついLINEを開いてしまう。
 落ち込んだときや嫌なことがあったとき、つい大貴くんに寄りかかりたくなってしまう。
 顔が見えないからこそ、気楽に何でも言えるのかもしれない。彼は、大変な仕事や、舞台のプレッシャーからの、唯一と言っていい逃げ場だった。
 4つも歳下なのに、志波ちゃんの弟なのに、どうかしてると思う。
 ただ、いま以上に親密になるのは、なぜか気が引ける。

 勤務時間が終わって、バックヤードで、鞄の中に手を入れてスマホの通知を確認する。

「楠アキラの舞台、チケットゲットー。一緒に行こっ」

 胸がザワザワっとした。どうしよう。
 とりあえず、なんて返すかは後でゆっくり決めよう。まだ店長も事務所にいるし、私も発注が残ってる。
 けれど、発注なんか全然集中できなかった。大丈夫だったかな。いつもの手順通りやったけど、ひとつくらい、どこかおかしいところがあったかもしれない。
 駅のホームで、改めてLINEを開く。どう返すかは、駅までの道で決めておいた。

「お姉ちゃんと行きなよ。私より大ファンだぞっ(笑)」

 これでいい。そう思ったところ、すぐに返信が来た。

「チケット、木曜の昼間だもん。姉貴は週末に行くって」

 そうだったか。
 ってか、木曜って、ちょうど休みだわ。もしかして、この間「今月木曜ばっか休みで木曜定休の歯医者に行けない」って話したの覚えてたのかしら。

「皐月さん、木曜日休みでしょ? 行きましょー」

 ああ、やっぱり。どうしよう。

「俺もその日、バイト休みだし」

「もちろん授業もないし」

 ずるい。
 大貴くんは、ちゃんと、誘いに乗ってもおかしくない理由を用意してくれる。

「そうね。楠アキラ好きだし」

 どうしよう。2人で遊びに行くのも、2回目か。
 大貴くんはどこまで本気なのだろうか。もし、ないとは思うけど、もしも、付き合ってほしいなんて言われたら、どうしよう。
 いまのままでいてほしいのに。なんて、勝手だよな。
 多分、これはあまり、健全な関係じゃないんだろう。

 木曜日。天気予報のアプリでは降水確率30%だけど、どんよりとした雲が広がる。
「傘持ったの?」
 玄関で母が聞く。持っているのが当たり前のような言い方だ。
「いいよ。予報曇りだったし」
「持ってきなって。こんなに外暗いんだから」
「いいってば!」私は声を荒くした。
 母はびっくりしたように黙ったが、「濡れて風邪引いても知らないからね」と吐き捨てた。
 ちょっと子どもっぽかったかな。でも子どもみたいに言い返したことなんて、そんなになかったんだもん。だからこれでいいや。
 すっきりとした気持ちで、家を出た。

 楠アキラの舞台、という割に出番は少なかった。内容も、どこかで見たような作りだ。
 煙草臭い喫茶店で、なかなか来ないコーヒーを待ちながら、チケット代を出してもらった舞台の感想をどこまで率直に話していいものか迷う。
「最後、下手側にいた役者さんがさー」
「待って、下手ってどっちですか?」
「えっと、下手ってのはー……」
 うーん、やっぱり、志波ちゃんと話すときみたいに、マニアックな話はできないかあ。けど、まさか上手下手も分からないとは。
 やっと来たコーヒーに、大貴くんはミルクも砂糖も入れずに口をつけた。私は、白い陶器に入ったミルクを注ぎながら、ここで私が目一杯ミルク入れたら大人気ないかしら、なんて思った。
 しばらくの間、大貴くんが話を続け、私が笑顔で相槌を打っていた。大学のテニスサークルの話、友だちと旅行に行った話、バイト先の恋愛事情……。
 隣のテーブルでは、若い男性2人が、テレビの俳優さんがどうとか話をしている。
 隣に座っていた2人が席を立つと、ふっと静かになった。私は、もうほとんど中身が残ってないカップに口をつける。
「ねえ、皐月さん、考えてくれました?」
 私はカップをソーサーに戻した。一瞬考えて、明るい声を出した。
「稽古なら、お陰さまで順調だよ」
「そうじゃなくて」
 カップを持つ手に、大貴くんが触れる。
「分かってるでしょ。俺のことですよ」
 どうしよう。胸がザワザワする。少し迷った後、訊いた。
「……本気なの?」
「本気ですよ」
 真剣な顔で、大貴くんは答える。私はカップから手を離す。
 大貴くんは行き場のない左手で頭の後ろを掻いた。
「うーん……やっぱ、第一印象よくなかったかなあ。あの日は本当たまたまで、俺、皐月さんが思ってるほど、遊び歩いてないですよ?」
 本当かどうか分からないけど、本当だとしたらそれはそれで困る。
「俺、皐月さんのこと、本気で想ってます。もう、ほっとけないです」
 大貴くんは、まっすぐに私を見た。まっすぐすぎるその目に、心が疼いた。
 もしも付き合ったら、きっと、それなりに楽しいんだろうなあ。
 でも、いつかきっと「付き合わなければよかったのに」って思うんだろうな。本当は、ずっと、LINE友だちのままでいられたらよかったのに。
 でも、ここまで来てしまったら、もう、そうもいかないんだろうね。
「大貴くん、私は、年齢的なことも考えると、そんな単純でもないのよ。ただ楽しいだけで恋愛できる歳じゃないの。こんなお姉さんと将来を約束して、数年後には所帯持ってるとか、考えられないでしょ?」
「ずるいですよ。今時、26なんてまだ若いじゃないですか」
「とにかく、大貴くんはまだ若いんだから。もっといい人がいるって。ね、もう出よ? 他にお客さんいるし、恥ずかしいよ」
「嫌です。その理由じゃ納得できません。俺のことが嫌ならともかく、また自分は相応しくないとか思ってるんだったら、俺は絶対に納得しません」
 さっきよりもずっと、胸がザワついた。どうしよう。その言葉に甘えてしまいたくなる衝動に駆られる。
 こんなことなら、今日、来なければよかった。
 あ。そう思っちゃうってことは、そういうことなんだな。ひとりで妙に納得がいった。
「もう、なにカッコつけたこと言ってるの。出るよ」
 私は笑って、伝票を手に取った。

 最寄り駅に着いたときには、ポツポツと雨が降っていた。
 予想外の雨に、傘をさしている人は少ない。けど、「風邪引いても知らないからね」という言葉が、呪いのように頭に浮かんだ。
 コンビニに寄って、折りたたみ傘を買った。ついでに、珍しく缶チューハイも一緒に。
 家に帰ると、部屋のドアを閉め、静かにプルタブを開ける。
 ああ。これでもう、大貴くんとLINEしたりできないのか。
 我ながら惜しいことをした。心はもう、持っていかれてた。
 でも、価値観が違いすぎる。大貴くんみたいな、生きてるのが楽しそうな人とつき合っても、自分が惨めになるだけだ。
 それに、4歳の歳の差に、志波ちゃんとの関係。自分の年齢と将来。
 それに、それに――何よりも、「逃げ場」が「居場所」になる恐怖に、耐えられなかったのだ。

# 23

 本番まで、あと3日。
 緊張感をもって、家を出た。今日は通し稽古、ゲネプロだ。
 本番と同じ衣装を身につけ、本番と同じホールに入る。
「ちょっと緊張してる?」と志波ちゃん。
「大丈夫、ここまで来たんだから」と私は返す。
 そういえば、志波ちゃんは大貴くんとのこと、どこまで知ってたんだろ。ふと思った。
 まあ、どうでもいいや。

「もう、生きていてもしょうがない」
 暗く、でも決然とした声。田中さん、上手になったなあ。
 ここまで、長かったんだなあ。

 カイと2人、スポットライトを浴びる。言葉を取り戻したあとの、数少ない台詞に思いを込める。
「あなたも私と同じ。呪いをかけているのは自分自身なのよ」
「どういうことだ?」
「あなたは、自分が身近な人を傷付けたことを知って、心を痛めた。もう大切な人を傷付けたくない。でも自分が変わるのは嫌だ。だから、自分の大切な人がどこにもいない、遠い世界に行ってしまえばいい。その心が、あなたをこの地に飛ばしたのよ」
「俺の、心が……」
 カイは崩れるようにしゃがみこみ、がっくりと項垂れた。私は、彼の隣にしゃがんで、そっと背中に手を当てた。
「逃げないで、怖がらないで、向き合うのよ。でも大丈夫、そんな大層な覚悟は必要ないわ」
 私は声に笑みを混ぜた。
「私だって、あなたに無理やり手を引かれて、仕方なくお兄ちゃんのところに行ったんだもの」
 カイは、ゆっくりと頭を上げ、立ち上がる。
「あなたなら、きっと元の世界に戻れるわ」
 私は、カイの顔を見つめて、言い放った。
「もう、お別れね」


「中村、喉の調子悪いの?」
 マスクをして、控えめの声で接客をしていたら、オーナーに気づかれてしまった。
「すみません。セーブしてました。明日に向けて」
 きれいな声だ、という台詞に恥じないよう、前日に声を枯らす訳にはいかない。店員として褒められた行為ではないが。
「そっか。明日、がんばってね。俺は行けないけど」
 それだけ言い残すと、オーナーは店を後にした。いろんな意味で拍子抜けした。


 眠れなかった。予想外に身体が重い。
 なんとかしなきゃ。駅前のコンビニで栄養ドリンクを買った。
 でも、一気飲みしたのが良くなかった。ただでさえお腹が弱いのに。慌てて駅のトイレに駆け込んだ。
 乗り換えの駅の薬局で、お腹の薬を買った。
 今度は、その副作用で、口が渇く。
 会場近くの駅で、ガムを買った。それをずっと噛み続けている。
 けど、「一度に多量に食べると体質によりお腹がゆるくなる」の表示を見て、慌てて吐き出した。
 なにをやっているんだろう、私。
「別にいーじゃん、アンタ台詞少ないんだからさあ」
 星川さんに笑われた。私も笑った。

 気がついたら、舞台袖にいた。
 魔女が舞台袖に戻る。もうすぐマーシャの出番だ。
「志波ちゃん」ひそひそ声で、呼び掛けた。
「ん?」
「いままで、いろいろありがとね」
 魔女は志波ちゃんの顔に戻った。そっとほほ笑んで、私の肩をぽんと叩いた。
 さあ。
 ここまで来たら、もう逃げも隠れもできない。
 私は、ステージに向かって、一歩を踏み出した。

エピローグ

 やっと書き終えた。
 大きく息をついて、私はパソコンを閉じた。この日記は、ここで完了だ。別に舞台に乗ったあとの話に、大した価値はない。
 こんな記録を残して、何になるというのだろう。都合のいい言い訳か、それとも、志波ちゃんやみんなへの懺悔か。
 それでもあえてここに載せたのは、きっと私と同じ思いをしている人が、どこかにいると思ったから。
 実際はそうじゃない人がほとんどだと思うけど、その人たちには「訳の分からない行動を取るあいつ」の頭の中を知るのに役立ててほしいと思う。
 私の経験が、誰かの救いや、ヒントになったら嬉しいな。
 さて、ここで私の物語は、一旦終わり。
 読んでくれて、どうもありがとう。

<完>

ドッジボール (下)

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。私からもお礼を言います。
 主人公への共感は期待していませんが、作品に込めた思いは、主人公に代弁させた通りです。
 最後に、構想の参考にした参考文献を記載します。

成井豊(2000)『成井豊のワークショップ―感情解放のためのレッスン』演劇ぶっく社
鈴木理映子+編集部(2016)『〈現代演劇〉のレッスン―拡がる場、越える表現』フィルムアート社
岡田尊司(2016)『生きるのが面倒くさい人―回避性パーソナリティ障害』朝日新書

ドッジボール (下)

積み重なった恥が、自らの居場所を奪ってしまう。うまくいかなかったから、もういいや。現実と逃げ場が入れ替わる。彼女の呪いは解けるのか。そして、恋の行方は―― ドッジボール3部作、ついに完結。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. # 15
  2. # 16
  3. # 17
  4. # 18
  5. # 19
  6. # 20
  7. # 21
  8. # 22
  9. # 23
  10. エピローグ