仕事屋宗次郎(1)

  仕事屋宗次郎   其ノ一
              花のとき
                              古山健行
               (1)

 秋晴れの爽やかな日であった。江戸の町は活気に溢れていた。午の刻を少し過ぎた頃である。今の時代で言えば昼少し過ぎである。40歳がらみの立派な武士が、何か探しているらしく当たりをきょろきょろしていた。渋みのある気難しそうな武士である。
 路地に入って、小首をかしげながら、まわりを不思議そうに見回している。立派な黒塀の前で立ち止まって考え込んでいた。塀の中から三味線や笛の音が聞える。菊園と書いている看板が微風に揺れていた。「端唄・小歌・踊り、鳴り物教えます」と書いてある。町人の屋敷にしては、かなり広く、豪勢な庭が垣間見える。
 三人の女が談笑しながらやってきて、今まさに黒塀のその家に入ろうとしていた。
「ちと物を訊ねるが・・・」
 その気難しそうな武士は、三人の女に声を掛けた。町人の町には、あまり来たことがないらしく、少し場違いな感じがする。
「何でしょう?」
 不思議そうに女達は足を止めた。女はいずれも18・9歳くらいの若い娘達であり、化粧の香りが鼻をくすぐった。町家の娘らしい。着ている物から裕福さが感じとれた。
「この辺りに、仕事屋宗次郎と言う者がおると聴いて来たが、どこに住んでいるのか、わからなくなった」
「仕事屋・・・?」
 女達は不思議そうな顔で首を傾げた。いつも稽古に通っているが、仕事屋などという言葉は聞いたことがなかった。
「仕事屋って何ですか?」
 女は不思議そうな顔で、その気難しそうな武士を、物珍しそうに眺めていた。
「仕事屋かどうかはわかりませんが、宗次郎さんなら、この家の離れに住んでいますよ」別の女が答えた。
「宗次郎さん・て、この家の居候でしょう」
 三人目の女が、おかしそうに口元を押さえ、笑いこけながら言った。何でも可笑しい年頃なのだろう。
「居候・・・・?その者と会うには、どこから行けばよいか?」
 気難しそうなその武士も、当てが外れたのか、居候と聞いて、意外な顔をしていた。
「そちらの、細い路地に入ると、別の入り口があります。そこからどうぞ・・」
 三人の女たちは口に手を当て、おかしそうに笑った。その武士は言われた通り、屋敷の横手に回り、小さなくぐり戸から中に入った。敷石が敷いたあり、その両側に植え込みがあった。その石畳みを歩きながら、その武士は場違いなところに来たように感じていたが、取り敢えず、
「たのもう!」
 あまり大声をあげず、中に聞こえるように声を落として言った。
「どなたかな?」
 少し間があって、中から若い侍が顔を出した。その若い侍は、年の頃は二十歳前後。若いが身のこなしは理にかなっていた。
「ここのご主人かな・・・?」
 その武士は怪訝そうな顔で、若武者を見上げた。
「主人ではござらぬ。ご用件は仕事の依頼でござるか?」
「そうだ。仕事屋宗次郎殿は御在宅かな・・・」
「御在宅などと大袈裟なものではござらぬが、のんびりと間伸びしたのが一人おります」
「お会いしたい」
「どうぞ。ここでは何です。取りあえず、おあがり下さい」
 若い侍は、訪れた立派な身形の武士を案内した。
「御免!」
 訊ねて来た武士は、見るからに幕府の偉い人に見える。若い侍は、こんな立派な武士と親しく会話したことはないので、少し臆していた。
 狭い部屋に通されると30歳前後の少しだらしのない侍が、正座して座っていた。入り口での若侍との会話が聞こえたのだろうか、姿勢を正して待っていた。だらしなく見えるのは、胸がはだけ過ぎているからだろう。
「そなたが仕事屋宗次郎殿か?」
 その武士は、部屋に通されても、立ったまま不審そうな顔で、相手の顔を眺めた。想像とはまるで違っていたからだ。
「立ち話はなんです。まずはお座り下さい」
 仕事屋宗次郎と名乗った男は、落ち着いた物腰で、相手の武士の品定めをしていた。
「以外に若いのう・・・」
 その立派な武士は、宗次郎の顔を見ながら、まだ疑り深そうな顔をしていた。
「能力と年齢は関係ござらぬ。以外にとは、幾つくらいの歳と考えておられましたか?」
「そうな。40歳は過ぎていると思ったが・・・・」
「そうですか。しかし人間は、32・3歳の頃が一番能力を発揮する年代だそうです。現在その年代の者が活躍できないのは、年寄りがのさばり過ぎているからです」
「・・・・・・?」
「ちなみに、今いる年寄りがいなくなるか、一線を退けば、この年代の者が台頭し、今より数段素晴らしい政(まつりごと)を取り仕切るでしょう」
「そのような問答をするために、ここに来たのではない」
 その気難しそうな武士は、憮然とした表情で、宗次郎を眺め、それから刀を脇に置いて、やっと腰を下ろした。
「そうでしょう・な。それに年齢を当てに来た訳でもない・・・」
 宗次郎は笑いながらその武士が腰を下ろす姿を見詰めた。その武士は、
「当たり前だ」と少し不愉快そうな顔をした。
「それでご用件は・・・?」
「仕事の依頼だが・・・」
 その武士は、まだ不審そうに宗次郎を見ている。
「そうですか。仕事に関してはお任せいただきたい。但しケチな仕事と、殺しはやりません。それと悪事には加担致しません。それ以外の仕事であれば、一応相談には応じますが、仕事を引き受けるかどうかは、内容を伺ってから決めたいと存じます」
「ケチな仕事とは・・・?」
「使い走り程度の仕事、誰でも出来る簡単な仕事でしたら、他に頼んで戴きたい」
「難しい仕事だ」
「それなら結構です。まずは話を伺いましょう」
 気難しそうなその武士は、本題に入る前に、
「ここを探し当てるまでに、大層時間がかかった」と苦情を言った。
「でもございましょう。表看板を掲げているわけではございませんから・・・・」
「何人かのつてを頼りに、やっとここまでたどり着いた」
「たどり着けた方は幸せでございます。たどり着けない方も沢山おられますから・・・」
「なぜこんなところに居候をしている」
 先ほど女に聴いたことを言った。
「居候ではございません。間借りです」
「なぜ、こんなわかり難いところに住んでおる?」
「仕事屋と表看板を出している訳ではございません。邸宅は別にございますが、こんな仕事ゆえ、居場所を固定すると、逆恨みでいつ襲撃されるかもわかりません。ここなら、いつでも引き払えます。もっとも今までそのようなことは、まったくございませんでしたが・・・」
「・・・・・・?」
「それにもう一つ便利なことがございます。別宅でこの若いのと二人で暮らしていますと、朝晩の食事、洗濯、風呂と、何から何まで自分達でやらなければなりません。ここにいますと、女が沢山おります。師匠の内弟子もおります。家賃を十分払えば、それらを総てやってくれますので・・・」
 宗次郎は言葉の後、手を鳴らした。誰かを呼んでいるのであろうか。それを見て、若い侍が壁に垂れ下っている紐を引いた。紐を引きながら、
「それに、ここにいれば、仕事屋と言うことは、誰もわかりませんので・・」と補足した。
 立派な武士は、若い男に目をやり、
「こちらの若者は・・・・・?」と訊ねた。
「行く当てもないので、半年ほど前に拾って参りました。しかしあまり役には立ちません・・・」
 役に立たないと言われた若い侍は、宗次郎を睨みつけたが、宗次郎は別に気にした風もなく若侍の視線を無視して、
「行く当てもなさそうなので、仕方なく一緒に住んでおります」
「いい男前だが・・・」
 立派な武士は、若い侍をしげしげと眺めた。間違いなく二枚目である。役者と言っても通りそうな顔立ちだった。
「男前以外に、何の取りえもございません。もっとも腕には自信があるようですが、殺しはやりませんので、宝の持ち腐れとなっております」
 若い侍は、更に宗次郎をキツイ目で睨みつけた。
「それで、どのような仕事を・・・?」
 宗次郎は本題に入るよう促した。
「本題に入る前に、そなたは、部下はどのくらいおるのか?」
「部下・・・?部下と言える者は一人もおりません。この若いのは言わば相棒とでも申しましょうか・・・」
「部下はいない?それで仕事は出来るのか」
「部下はいなくとも、仕事についてはご心配なく」
 心配するなと言われても、これでは心もとない。事は重大だと思っている。立派な武士は疑わしそうに宗次郎を睨みつけた。頼む相手を間違えたかも知れないと後悔した。もともと仕事屋などと聞いた時から、多少疑ってはいたが、主人である水野様が、藁にもすがる思いで、僅かな可能性に掛けたのだ。それを無碍にする訳には行かないと、ここまで訊ねて来たが、やはり後悔はしていた。
「ところで、そなた江戸は長いのか?」
 その武士は疑い深そうな眼で、宗次郎をしげしげと眺めながら言った。
「10年ほど前から、江戸に住み着いております」
「そんなに長くなくても良いが、最近江戸で若い娘が、行方不明になっていると言う噂は聞かないか・・・」
 その時、廊下で足音が聞えた。部屋の前でぴたりと止まった。宗次郎は廊下を隔てている襖に目をやった。しかし会話はそのまま続けた。
「聞かないか・・・、ところの話ではございません。町に出ればその噂ばかりでございます。御役人様が毎日必死で探していると聞いておりますが・・・」
「そのことだが、幕府の要職におられる水野様のご息女も、行方不明になられた」
「聞いております。貴殿はその水野様・・・?」
「いや。拙者は水野様の家来で大村梶之輔と申す」
「なるほど、それでご主人の依頼を受けて・・・」
「見るも耐えがたいほど水野様は憔悴しきっている。何とかお嬢様を探し出さなければならない。仕事とは、お嬢様の消息を探って欲しいのだ」
「お待ち下さい。そのお嬢様の消息を調べ、結果を報告すると言う仕事ですか。お嬢様の所在は、分かりましたと報告しても、せいぜい5両程度の仕事でしょう。そんなケチな仕事は致しません」
「ではどのように・・・?」
 頼めば良いのかと、その武士は眉間に皺をよせながら確認した。
「行方不明となっている娘さん達は、これから20日までが勝負でございます。20日過ぎれば、二度と再び、親子が対面することは無いでしょう」
「どう言う意味だ?」
「娘さん達は、20日過ぎれば、別の場所に移されます。ですから、それまでに助けださないと間に合いません」
 言いながら宗次郎は廊下を隔てている襖に目をやった。襖の向こうを意識して、時折声は落としているが、客の声は大きい。
「それまでに、助けだせると言う意味か?」
「勿論でございます。その為に御足労なさったのでしょう」
「それはそうだが、そんなに簡単に見つけ出せるのか。江戸中の役人が血眼になって探しているのだぞ」
「承知しております。15日以内に何とか致します」
「何ともならなかった場合は、只では済まんぞ」
「必ず、何とか致します」
 言いながら、襖を見詰め、話を止めた。
 その時、襖があいて、一人の若い女が、盆に茶と菓子を持って入って来た。先ほど手を鳴らした音に反応したか、それとも若い侍が、紐を引いたからであろう。
 稽古が無くて静かな日ならば、手を鳴らしただけで、通じることはあるが、稽古のある日は鳴り物が煩くて、手を叩いたくらいでは聞えないこともある。それで若い侍が、念のために紐を引いたのだ。その紐の先には鈴が付いていて、稽古場で鈴が鳴るようになっている。
「お芯、そなた今立ち聞きしていたな・・・」
 客の前に茶を置いている娘の背中に、宗次郎は言葉を浴びせた。
「立ち聞きしていた訳ではございません。話が佳境に入り、入りにくかったので、暫く外で待ちました。立ち聞きなどと失礼な!」
 娘は臆することもなく、宗次郎を睨みかえした。年の頃は17・8歳か。若い娘である。「失礼な!」と言われて、宗次郎は不味かったと思い目を逸らせた。
 娘は茶と菓子を客の前に置きながら、
「今、江戸の町では、その噂で持ちきりでございます。特に美しいおなごは一人歩きも出来ないと・・」
「・・・・・・」
 宗次郎は、やはり立ち聞きしていたなと、娘の方を睨んだが、目が合いそうになって、慌てて目に戻した。
 この娘はお芯と言って、ここに内弟子として寝起きをしているが、れっきとした武家の娘だそうである。武家の娘が、踊りの師匠の所に内弟子として寝起きをしているというのは、それなりの事情があるからだろう。しかし宗次郎も、若い侍もその事情までは知らなかった。
 基本的には琴や笛、踊りなどを習っているのだが、礼儀作法も勉強のうちに入っているらしい。ここの師匠のお蝶という女も、元は武士の妻だったようである。何かの事情で家が断絶して、夫も病死し、生きて行くために習い覚えた踊りと鳴り物で生計を立てていると聞いている。元々琴に関しては、超一流の腕を持っているらしく、踊りもかなりのものだと聞いたことがある。しかし宗次郎は、踊りや鳴り物にはまったく興味がなかった。
 ここの内弟子はお芯ばかりでなく、他にもお涼、お扇という同じ年頃の娘が寝起きしているが、いずれも武家の娘だという。よほどの事情がない限り、年頃の娘を外に預けたりはしないから、相当な事情があると推測されるが、そのことについては何も知らなかった。  
 ただその三人の娘が、驚くほど気が強い上に実に煩い。
 大村梶之輔は、その茶菓子を持ってきたお芯という、うら若き娘をしげしげと眺めていた。色白で美しい娘である。
「それで私達も、外出する際は、出来るだけ友を誘い、数人で出歩くように心掛けております。しかも陽が暮れたら、一切外には出ないように致しております」
 言いながら、宗次郎の前、そして翔馬の前にも茶と菓子を置いた。
「そなたは、大丈夫じゃ。心配はいらぬ」
 お芯は美人ではあるが、女としての色香は無いと言う意味で、宗次郎が娘の背中に言った。娘は振り返って宗次郎にキツイ目を向けて、
「それはどういう意味でございますか?宗次郎様、失礼でございましょう」
 まるで茶碗でも投げつけそうな勢いであった。若い翔馬は後ろを向いて、背中で笑いを堪えていた。
「翔馬様も失礼ですよ」
 お芯は背中で笑いを堪えている翔馬も叱った。
「いや。こちらの娘さんも実にお美しい。気おつけられよ」
 大村は失礼な物言いの宗次郎に、苦言を呈するように言った。実際に水野様のお嬢さまと甲乙つけがたいほどの美人である。少なくとも大村はそう思っていた。
「お武家様はよく分かっていらっしゃる。本当にこの二人は失礼なのですから、もし不明のお嬢様方を見つけられなかったら、この二人の首を即刻お刎ね下さい」
 言いながら娘はくるりと宗次郎の鼻先でわざと背を向けて、脇で笑いを堪えている翔馬を蹴飛ばして部屋を出た。
「おのれ・・・!」
 翔馬は蹴られたことに腹を立て、立ち上がろうとしたが、客がいることに気付き、慌てて座りなおした。客がいなかったら、その場で捕まえて、ぶん殴っているところだった。
 それから暫く沈黙があった。

「噂では、若い娘さんは5人ほど行方不明になっていると聞いております。その5人を15日以内に全員無事、親元に届けたら、その時は一人100両お支払い戴く。これで如何でござるか」
 当時の1両とは、最近の銀行の調べでは、30万円から40万円だという。現代と比較する時、何を基準にするかで、かなりの違いはある。米を基準にするのか、贅沢品を基準にするかでもかなり違う。また比較する時代によっても、かなり違うから、一概に幾らと決めつけるのは難しい。仮に1両は30万円だとすれば、100両とは3千万円相当であるが、当時と今を、感覚的な見方でとらえれば、1両は10万円くらいと考えて良いのではないか。だとすれば、100両は1千万円相当と見るべきだろう。
「一人100両?15日以内に、全員を無事親元に届ける?」
 その立派な武士は、すこし呆れたような顔をした。たった一人でそんなことが出来る筈がなかろうと思ったからである。100両は高くないとしても、何よりもそんな簡単に事が運ぶのかと、にわかには信じられないことであった。
 江戸では一カ月も前から、南北の両奉行所が総出で捜索に当たっている。それでもまったく見通しが立っていない。それをいとも簡単に15日以内に全員を探し出し、しかも無事親元に届けると言うのである。それはにわかには信じられないことであった。
「今、江戸中が大騒ぎで、しかも両奉行所も総動員で娘達を探している。それでも手掛かりすら掴めていない。それなのに、娘たち全員を、無事に15日以内に親元に届けると言うのか?」
 大村梶之介は、到底信じられないといった眼(まなこ)で、宗次郎の顔を穴のあくほど眺めていた。
「左様でございます」
 大村梶之輔は呆れていた。両奉行所総出となれば、大変な人数である。それでもまったく見つからない。それをたった一人で、15日以内に助け出し、しかも無傷で親元に届けるという。こ奴、大法螺吹きなのかも知れないと思った。
 大真面目な顔をして座っている仕事屋宗次郎なる人物を見て、この男、頭がおかしいのかも知れないと思った。何百人もの役人が、日夜必死で探しているにもかかわらず、手掛かりすら掴めない。それなのに、どうしてそんなに簡単に見つけて、親元に届けると言うのか。
 もし本当に親元に15日以内に戻せるなら、梶之介としても、一人100両が高いとは思わなかったが、あまりにも簡単に引き受けるので、大村梶之輔は、つい、
「一人100両は高い。半分の50両でどうか」と言ってみた。
「折角お越し戴いて、大変失礼ではありますが、どうかお引き取り下さい」
 宗次郎は問答しても始まらないと判断してそう言った。
「折角の仕事、断っても良いのか?」
 仕事屋などと言っても、仕事など殆どなく、その日暮らしをしているのだろうと、鷹を括っていた。だから大村梶之輔も強気だった。
「ご心配なく、今まで蓄えた報酬で、数年間は遊んで暮らせるだけの余裕はあります。仕事の安売りは致しません。もっとも人一人の命、100両でもかなり安売りではありますが・・・」
 宗次郎は悠然と構えていた。最終的には、大事な娘・・・、100両でも安いと判断する筈だと読んでいる。
 現代流に言えば、可愛い我が娘を、無事助け出すのだから、一人一千万円出せと言うのである。しかも行方不明となっている娘達は、大身の娘か、大店の娘である。いずれも大金持の娘達ばかりである。それが一人100両出せないというのなら、帰って貰おうと思っている。
 貧しいところの娘というなら、一人100両などと吹っ掛けない。貧しいところの娘なら、場合によっては、1両でも引き受けることは有るが、行方不明になっている娘達の親は、100両などいとも簡単に出せる親ばかりである。それを渋るようなら帰って貰うより仕方がないと思っている。
 幕臣水野様の側用人は、わざと難しい顔を作って考える振りをした。
「いいですか。お嬢様は、今役人が総出で、必死に探しております。しかし必死に探そうとも、御役人さんの力では、最後まで見つけ出すことは出来ないでしょう。しかも、先ほども申した通り、ひと月もたてば、娘さんとは、二度と再び生きて会うことは出来ないのですよ」
 どういうことなのかと、大村梶之介は不思議そうな顔をした。
「親とすれば可愛い娘のためです。娘が無事戻るなら、一人千両出しても惜しくはない。そんな親ばかりではありませんか。一人100両程度で、何を考える必要があるのですか・・・」
 宗次郎も強気である。
「本当に探せるのか?」
 それが問題であった。大村梶之輔は金子のことより、本当に探し出せるかを疑っていた。
「探します。そして15日以内に、全員無事親元に無事に届けます。大村様で決断が出来ないのなら、もう一度戻って水野様とご相談下さい」
「いや。その必要はない」
 全権委任されているのだと、大村梶之介は胸を張った。
「よろしいですか。水野様が5人分の500両を払えと申している訳ではございません。行方不明になっている親御さんから100両ずつ出してもらうのです。安いものでしょう」「・・・・・・・」
 この仕事屋宗次郎と言う男、行方不明となっている娘達の親は、総て知っているのかと、大村梶之輔は疑わしそうな顔をした。
 金額は確かに総ての親が支払える額だ。無事助けられるのなら、100両では安いかもしれない。側用人大村はそう思っている。ただこの男信用できるのか。それだけが心配だった。
 仕事屋とは、もう少し組織立った連中の集まりかと思ったが、たった一人だと言う。それで役人が総出で探しても埒のあかない娘たちが、こんな男で探し出せるとは、到底思えなかった。それでまだ考える振りをしていた。
「大村様は明日からでも、行方不明になっている娘の親御さんの処に行き、100両出してもらうよう交渉をして下さい。娘が死のうと生きようと、二度と再び会えなくても、金は出せないという親がいたら、その時は、その娘の分は水野様がお立て替え下さい。拙者としては500両耳を揃えて頂ければ、いつでも仕事に取り掛かります」
 側用人大村梶之輔は、ここを訪れたことが、無駄な時間であった様な気がしてならなかった。それでまだ首をかしげていた。主人水野様が、どこからか仕事屋の噂を聞きつけ、大村に仕事屋と会って来いと命じたのだが、水野様の判断誤りであった様な気がする。
 仕事屋とは、只の大法螺吹きで、まったく役に立ちそうにありませんでしたと報告した時の、主人の落胆ぶりを想像すると、そんな報告も出来ないような気がして、大村梶之輔は悩んでいた。
 宗次郎はまだ考え込んでいる側用人の顔を見ながら、
「あと20日もすれば、最愛の娘達とは、永遠に会うことはできなくなります。それでも100両が高いと思うのでしたら、どうかお引き取り下さい」
 大村梶之輔が、悩んでいるのは、金銭の問題ではない。本当にこんな男に頼んで良いのかの判断であった。
「いいですか大村様、この仕事は成功報酬です」
「成功報酬・・・・?」
「そうです。15日以内に無事娘さんを親元に届けられなければ、報酬はびた一文戴きません」
「・・・・・?」
「成功した場合のみ、一人100両戴くと言うことです」
「成功した場合のみ、100両支払うと言う事か・・・?」
「その通りです。これは仕事屋宗次郎が請け負った仕事は、総て成功報酬と言うことになっております」
「なるほど・・・」
 それだったら、怪しげな男に金だけ騙し取られた事にはならない。水野様にも説明はつくかも知れない。
「ところで、成功しないことはあるのか?」
「例え話でございます。引き受けた仕事は必ず成功させます」
「わかった。500両揃えよう」
 とは言ったものの、この仕事屋宗次郎なる者が、江戸中の役人が必死で探し、手掛かりすら見つけられない水野様のお嬢様を、15日以内に無事助け出し、5人全員を親元に連れ戻すなどとは、到底信じられないことだった。
 だから500両揃えると回答しても、不安はあった。もし別に頼む者がいれば、それらに依頼した方がよさそうな気もする。
「水野様とご相談しなくてよろしいのですか」
「拙者を甘く見るな。拙者は水野様の側用人じゃ。総てを任せられておる」
「左様でございますか。それでは500両揃えて下さい。揃い次第仕事に取りかかります」「揃い次第・・・?成功報酬ではないのか・・・・」
「幕府御用達の呉服問屋、越前屋に500両お預け下さい。それを確認致しましたら、早速仕事に取り掛かります」
「成功したら支払うのだろう。何故に事前に500両、越前屋に預けるのだ」
「用心のためです。相手が町人の依頼でしたら、そんなことは致しません。しかし幕府のお偉方となりますと、いざお嬢様が無事に戻ったとなると、途端に金が惜しくなって、支払う段になってから、用意できぬので暫く待てと引き延ばされた挙句、支払いを拒否されることも考えられます。水野様がそうだとは申しません。しかし用心のためです。まずは500両、事前に揃えて頂きたい」
「・・・・・・?」
「仕事が成功もしないのに、越前屋から金だけ受け取る様な真似は致しませんから、ご安心ください。それに越前屋が勝手な事をしたら、幕府御用達の仕事もふいになります。事前に金を用意して戴いても、それを越前屋から引き出す時には、大村様の了解を取りますので、どうかご安心のほどを・・・・」
「わかった。しかし江戸中の役人が血眼になって探しても見つからない娘達が、どうして、そなた達二人でそんなに簡単に探し出せるのか?」
 大村梶之輔には、到底納得できないことなので、念のため確認した。
「二人?確かに相棒はこの男だけです。しかしいざとなれば、手当さえ払えば、あっという間に100人や200人の人数は集められます。今回はそれほどの人数は必要ありませんが・・・」
「金子さえ出せば、人は集められると申すのか?」
「いかに金を払おうとも、悪事への加担ということになれば、協力は出来ないという者はおります。しかし拙者は、悪事には手を染めません。あくまでも世のため、人のため、そうとなれば沢山の仲間が、すぐに集まります。腕の立つ者、忍びの心得のある者、人材は自由です」
「そうか。すると二人だけでやるのではないのだな」
 大村梶之輔は仲間がいると聞いて、少し安心した。しかしそれとても、本当かどうかは分からない。ただの大法螺吹きかも知れない。
「今回は、100人もの人数は必要ありません。せいぜい2・30人もいれば十分でしょう」
「しかし例え人数を掛けても見つけられないのではないか。現に数百名の人数を掛け、役人は必死で探しておるが、まだ糸口すら見つかっておらぬ」
「仕事屋の命は情報でございます。江戸中の情報は常日頃集めております」
「情報と・な・・・・・?」
「江戸で何か起これば、拙者の所に情報が直ぐに集まるようになっております」
「何故じゃ・・・」
「情報には、どのような些細な情報であれ、価値に応じて金を払います。だからいろいろな情報が集まります。情報の9割りは仕事とは関係がございません。それでも情報を持ち込んでくれた者には、情報の軽重により、礼金を払います」
「仕事に関係の無い情報にも金を払うのか・・・?」
 大村梶之輔は不思議そうな顔をした。
「先ほども、申した通り、仕事屋は情報が命です。情報に支払う金をケチったりは致しません。従って役に立とうが、立つまいが、情報は集まって来るのです」
「つまり、お嬢さまの失踪に関しては、既に情報は入っていると言うのだな」
「当然です。娘さん方が行方不明となった最初のころより、情報は入っております」
「すると、下手人はわかっておると申すのか・・・?」
「いや。そこまでは、しかし仕事が入ったとなれば、情報と情報をつなぎ合わせれば、何となく事件の概要は見えてきます。これからそれらの情報を、つなぎ合わせをしてみます」
 これは嘘である。情報が入ったころより、娘達がどこに連れ込まれたかの報告が入っている。だから娘達をかどわかした張本人はわかっている。しかし仕事柄、下手人は誰の誰ですと、この場で話す訳には行かない。
 それに情報を知られて、役人が突っ込めば、恐らく証拠隠滅・口封じのために、娘たち5人は殺されてしまう。親がやって欲しい第一義は、下手人捕縛ではなく、娘を無事取り返すことである。役人の使命は、下手人捕縛である。娘の安全は二の次である。ここでどこに囚われていると教えたら、まず娘の命はない。それで嘘を言ったのだ。
「つまり、これまで入った情報を元に、お嬢様を助け出せると言うのだな」
「左様でございます」
「しかし、役人は何故その情報が掴めないのだ」
「奉行所に情報を持って行ったところで、奉行所からはせいぜいお褒めの言葉と、茶菓子程度の金子でお茶を濁されます。しかし仕事屋に情報を持ち込めば、情報の軽重により、文銭から小判まで、何がしかの金額が受け取れます」
「・・・・・!」
「そうなれば、情報を握った者は、奉行所に届けるより、金になる仕事屋の方に届けます。しかも奉行所に情報を持ち込んで、それが事実と相違したりすると、きついお叱りを受けますが、こちらに持ってきた情報は、仮に事実と相違しても、金を返せとは言いません。情報の真偽はこちらで確かめます」
 大村梶之輔は、少し納得した。
「ですから奉行所に情報を持ち込むより、仕事屋に情報を持ち込んだ方が、金子の面でも有利なのです。しかも情報が事実と相違しても、お叱りを受けることもなく、奉行所から睨まれる危険性もございません。握った情報は、こちらに持ち込んだ方が断然有利なのです」
「なるほど、奉行所に届けても金にはならんか・・・。しかし仮に事件の概要がわかったとしても、下手人とおぼしき人物を調査し、無事に娘達を助け出せるのか?それが心配だが・・・」
「ご心配には及びません。蛇の道は蛇。お役人様には立場というものがございます。勝手気ままに他人の屋敷に踏み込んで調査など出来ません。調査するにはそれだけの手続きと確証が必要です。そこへ行くと我々は、必要があれば、いつでもどこにでも、調査の手を入れられます。表からだけではございません。天井裏から、縁の下まで、どんな方法でも調査できます。そこがお役人様とは違うのです」
「なるほど・・・・・。娘達に関する情報収集の方法は、多数持っておると言うことだな・・・」
 水野様の側用人は、多少は信用できるかも知れないと思い始めていた。
「数ある情報の幾つかを組み合わせれば、何が起こっているのか大凡見当はつきます。その調査方法は、お役人様と違い多数持っております」
 それから宗次郎と梶之輔は暫く真剣に話し合ったが、幕府要人水野様の側用人大村梶之輔は、一応主人には報告できると判断して、帰ることにした。
「翔馬、お客様のお帰りだ。案内致せ」
 迫水翔馬は大村梶之輔を玄関まで見送った。そして暫く見送った後、部屋に戻った。 戻ってくるなり、翔馬は、
「よくもまあ。いけしゃぁしゃぁと、いい加減なことを喋り撒くって・・・」
 と呆れ顔で、宗次郎に毒づいた。
「何がいい加減な事か。娘をこのままにしたら大変だろうが・・・」
「それはそうだが、江戸中の役人が、昼夜を問わず必死になって探しても、見つからない娘達を、いとも簡単に探し出し、挙句の果ては、15日以内に無傷で親元に連れ戻す。良く言えたものだ。わしは知らんからな」
「翔馬の足りない頭で考えても無理だ。任せておけ、但し言われたことは忠実に守れ」
「やかましいわい」
 翔馬はむくれていた。
「よいか。礼金が欲しいなら、わしの言う通りに動け・・・」
「どうやって探すと言うのか。本当にあんたの無責任さには着いて行けない」
「そう言えば、翔馬がここに来てから初めての仕事だったな」
「あんたのことは、最初会った時から無責任な男だと思っていた」
「馬鹿者。言われた通りに動けばよい。早速鳴海屋に行って、紋次と言う男がいたら、わしの処に直ぐ来るように伝えよ」
「あの鳴海屋だな。わかった。しかし娘達を期日までに親元に帰せなかったら、大変なことになるぞ。お芯は二人の首を刎ねろと言っていたが、俺は何も約束などしていない。約束したのは宗次郎だからな。俺には責任はない。約束が守れなかったら、宗次郎だけの首を刎ねるべきだ」
「やかましい。お前の考えは、いつも後ろ向きじゃ。たまには何とかしなければと、無い頭でもよいから、必死で考えてみろ」
 言いながら、宗次郎は怒っている訳ではなく、目は笑っていた。それが翔馬には、馬鹿にされているようで余計に腹が立った。
 翔馬としては、ここで宗次郎と問答していても始まらないと思い、仕方なく、
「うるさい。とにかく鳴海屋に行ってくる」
 そう言って翔馬は、刀を鷲掴みにして表に出た。

                (2)

 翔馬は、表通りに出てから、考えていた。お芯の言い草ではないが、宗次郎と言う男、娘達を約束通り助け出せなかったら、首を刎ねられたらいいのにと思ったが、そうなると翔馬自身、明日からの生活にも困ることを思い出した。
 宗次郎のことは嫌いではなかったが、何かにつけて頭が悪いだの、馬鹿なりに考えろと言われて、癪に障っていたのだ。
 確かに宗次郎は、頭の回転はいいと思う。しかし元々は腕を見込まれて、相棒になった筈なのに、人殺しはしないと、まったく腕は期待されず、頭の回転だけを問われるので、得意分野ではないだけに頭に来る。そんなことを考えながら歩いていると、鳴海屋に着いてしまった。
 鳴海屋は不思議な店である。確かに料理はうまく、それほど高くもない。それなのに客の入りは、いまいち・なのである。場所が良くないのか。
 親父は、自分では「俺の料理は超一流だ」と言うが、その真偽はわからない。しかし店は、客の入りのわりに奇麗だし、立派な店だった。
 鳴海屋は、一流の料理から、簡単な蕎麦まで食わせる。酒も出す。ごはん・うどん・饅頭・丼物、何でも出す。甘味も出す。江戸前の刺身も出す。何でも屋だ。その割には客の入りは少ないと思う。それでも店が立派なのは不思議に思う。
「これは珍しい。宗次郎さん処の若いの・・」
 親父が元気よく声を掛けた。
「宗次郎の飾りものみたいに言うな・・・」
 翔馬は不満そうな顔をした。
 鳴海屋の主人は料理人にしては目が鋭い。以前は何か別のことをやっていたのではないかと思わせる風貌だった。客はまばらだったが、それでも数人いた。店の中も結構広い。とても客の数では、採算が合わないような気がする。
「それで今日は?」
 食事に来たとは思えないので、鳴海屋の主人は翔馬に用件を訊ねた。
「紋次と言う男はいるか?」
「紋次。今はいねえ。夕方になったら帰ってくると思うよ」
 それを聞いて、この店の働き手ではないのだなと思った。鳴海屋には数人の者が料理や食べ物の準備をしている。年増の女もいる。ただ残念なのは、若い娘はいないことだった。
「そうか。夕方でも何でもいい。兎に角戻ったら宗次郎の処に、来るように伝えて欲しい」客が食べていた蕎麦がうまそうだったので、翔馬は蕎麦を食べてから帰ることにした。
「伝えておくよ」
 親父はそう言ってから、店の奥に引っ込みそうになったので、
「蕎麦を一杯くれ」と頼んだ。
「わかった。ところで翔馬さんは、腕が立つそうだが、一度見てみたいものだ」
「武芸は見世物ではない」
 翔馬は憮然とした態度で、店主を睨みつけた。
「そりゃ。分かってまさぁ。そう言えば毎朝、庭で木刀を振るい、稽古三昧だそうで・・・」「・・・・・・・・・!」
 何の話かと思った。見てきたような事を言う。
「稽古はいいが、朝っぱらから、気合いがうるせえと・・・」
「誰がそんなことを・・・?」
「師匠のところのお芯ちゃんと、お涼ちゃん。それにお扇ちゃんが・・・」
「あの餓鬼め・ら・・・」
 こんなところに来てまで、勝手なことを言いおって、翔馬は憤慨した。

 その頃大村梶之輔は、さっそく水野様に報告していた。
「信用できそうか」
 開口一番言われた。
「成功報酬だから、成功した場合に限り、一人100両合計500両を払ってくれと言っております。一応信用するしかないかと・・・」
「うーん。成功報酬か・・・」
 水野忠興(ただおき)は腕組みをして考えた。
「水野様、信用できるか否かはともかく、可能性があれば総てに懸けるべきかと・・」
 大村梶之介は、否定されるのを恐れてそう言った。
「それはそうだが・・・・・」
「それに成功報酬なら、騙される心配もないのではないかと・・・・・・・」
「金銭の問題ではない。その者が娘を助け出せるのかじゃ。信用できなければ、可愛い娘の身が心配で夜も眠れない」
「それはわかりますが、殿のお身体も大事です。我々家来も出来るだけ、必死に探してみます」
 娘救出に関しては、大村梶之輔がまったく、期待されていないことはわかっている。
「で、その仕事屋とか言う男、期限までに娘が探し出せなければ、どうなると言っておるのじゃ?」
「まだ推測の域は出ないそうですが、恐らく一カ月も過ぎてしまえば、二度と再び、生きてお嬢様と会うことは出来ないと・・・・」
「一カ月過ぎれば、娘は殺されると言う意味か・・・」
「よほどのことでもない限り、殺される心配はないと言っておりました」
「生きていたら、いつかはまた会えるではないか?」
 水野忠興は不思議そうな顔をした。
「噂では、行方不明となった娘達は、いずれも町一番の器量よし。それらの娘が行方不明となったのは、まとめて異国に売り飛ばすためだと言うのです」
「異国に売り飛ばす・・・?わしの娘を・か・・・」
 水野忠興は腰を抜かさんばかりに驚いた。幕府の要職にあるわしの娘を、よりによって異国に売り飛ばすとは何事かと、怒りが爆発しそうになった。
「その仕事屋なる者が、申すには、もし異国に売り飛ばすのでなければ、美しい若い娘の生き血を飲んで、長生きをするとか・・・」
「・・・・・・・?」
「もしそういう手合いだとすれば、既に今頃は、お嬢さまは生きていないと・・・」
「生き血を吸う・・・・?」
 水野は驚いた顔をしていた。
「そんな変な奴等も世の中には居ると申しておりましたが、今回はそのような手合いではないと・・・・」
「娘は生きていると申すのだな」
「その仕事屋の言うには、お嬢さまは間違いなく生きていると・・・」
「助けだせるのか」
 問題はそこであった。
「今回の事件は、お嬢様を異国に高く売り飛ばすためだから、殺すことは無いと・・」
「異国とはどこじゃ?」
「遠い・遠い異国だそうです。シャムとか言っておりました。お嬢様が異国に連れて行かれますと、異国との通商を禁じている我が国としては、二度と再びお嬢様と生きて会えることは無いと申しております」
「可愛い娘を異国に売り飛ばす・・・・」
 水野忠興には到底信じられないことであった。
「遠い過去にも、行方不明になった娘は沢山おります。その時も恐らく、女郎屋か異国に売り飛ばされたのだと申しております。しかし今回の場合は同じ異国でも、今までのそれとは、ちょっと違うそうです」
「どう違うのか?」
 忠興は眉をひそめたが、顔色が怒りに変わっていた。
「女郎屋に叩き売るなら、せいぜい受け取る金子は2~30両、それ以上の金を払っても、稼ぎから逆算して採算は合わないと・・・・」
 女郎屋と聞いて、忠興の怒りは頂点に達していた。顔が赤鬼の様に真っ赤になり、眉間には青筋が立っていた。
「それで、今までの行方不明とは、どこがどう違うと言うのじゃ」
 水野忠興は近くにあった茶碗を叩きつけた。
「異国には王様と言う者がおるそうです」
「王様、何じゃそれは・・・?」
「仕事屋の申すには、異国の最高権力者とのことでございますが、我が国の将軍や、天皇と同じだそうですが、天皇や将軍と違うのは、その者が独裁者なのだそうです」
「独裁者・・・・?」
 聞いたことのない言葉に、水野は少し冷静さを取り戻した。
「その王様と言うものが、世界各国から美しい若い娘を集めて来いと命じれば、金に糸目はつけず集めるのだそうです。恐らく一人千両くらいは出すのではないかと・・・・」
 一人千両にも驚いたが、その前に王様という聞き慣れない言葉にも、水野忠興は耳を疑っている。
「その王様とか言う者が、何故にわしの娘を・・・・・・?」
「特にお嬢様と言うわけではなく、若くて美しい娘を集めて、その王様のかたわらで、はべらすのだそうです」
「なんじゃ、それは?」
「それ故、若くて美しい娘を集めた者には、謝礼として一人千両以上の金品を与えるのだそうでございます」
「千両の金品とは何じゃ・・・・?」
「異国ですから、小判などありません。金(きん)で直接払うか、品物で千両相当を払うかということでございましょう」
「本当に助けだせるのなら、500両はわしが一人で払っても構わん。もっと出しても構わない。どんなことをしても、娘を助けだせ!もし助け出せなければ、娘は異国で何をされると言うのか?」
「お嬢様が異国に連れて行かれれば、言葉も通じず、生活習慣も違い、一生泣いて暮らすのではないかと、仕事屋は言っております」
 水野忠興は拳から血が出るほど堅く握りしめた。大村梶之輔は、仕事屋宗次郎から聞いた話を更に続けた。
「遠い異国で、毎日、日本の山河を思い浮かべ、泣きながら暮らし、最後は年老いて死んでゆくのだそうです。一体江戸の役人共は何をしているのでしょうか。お嬢様が可哀そう過ぎます・・・・」
 大村梶之助も徐々に昂奮して、怒りをあらわにしていた。
 下手人を捕まえたら、即刻首を刎ねるとしても、問題は娘を助け、下手人を捕まえられるのか、それが問題であった。
「お嬢様が異国に売り飛ばされた後では、その異国がわかったとしても、親の力ではどうすることも出来ないのだと、仕事屋は言っております。相手は異国の絶対的権力者、娘を取り戻すなど不可能なこと」
 水野忠興は唇から血が出るほど、強く噛みしめた。
「もし腕ずくで取り戻すなら、10万以上の軍勢でその国を攻めなければなりません。しかし異国との交易を禁止している幕府が、そんなことを許すわけがございません。結局どうすることも出来ず、日々を送ることになるのだと申しております」
「それで、その仕事屋は異国に売り飛ばされる前に、助けだせると言うのか・・」
「15日以内に、娘達全員を無事、親元に届けると言っております」
「信じるとして、他に仕事屋のように、娘を助けだせるものはおらんのか」
「今のところおりません。我々もそう言う者がいたら、必死に探してはみますが・・・」
「仕事屋の前に、役人が探し出すことは出来ないのか」
「もし、役人が仕事屋より先にお嬢様を助け出せたら、この話は無かったことで良いな、と申したところ。御役人様では、絶対に生きてお嬢様を助け出せることはないと申しておりました」
「役人では、不可能・・・・・?」
 水野忠興は、首を傾げた。役人では助けだせないとはどう言う意味か。にわかには理解できなかった。
「仮に、役人が仕事屋と同様の情報を得たとしても、下手人捕縛に向かえば、浚った娘達を別の場所に移動させるか、移動できないと見れば、証拠隠滅・口封じのため、娘達を全員殺すだろうと言っております」
「証拠を残さないために、娘を殺す・・」
 水野の血走った目がぎょろりと光った。
「お嬢様を浚った下手人共は、役人の動きは日夜、見張っておるとのことです。役人が下手人の見当を付けた時点で、その動きによって、先手を打つのだと言っております」
「奉行所に、下手人の手の者が紛れていると言う事か・・・」
「そうではなさそうですが、今や役人の動きなど、その気になれば、一般庶民でもわかるとのこと、下手人捕縛に向かえば、証拠を残さないためにも、娘達は殺した上で、身元の分かるような物を剥ぎ取り、遠い海に捨て、魚の餌にするか、或いは江戸から遠く離れた山の中に、地中深くに埋め、発見された頃には、骨だけになって、どこの誰かはわからないようにするだろうと言っております」
 何とも、残酷な言い方である。親にとっては聞くに堪えないことであった。
「役人の仕事の第一は、下手人を捕縛すること、お嬢様を助け出すのは二の次、従って役人が動いた段階で、お嬢様は殺さる運命だと申しておりました。だから役人では、下手人は捕まえることは出来たとしても、お嬢様を生きて助け出すのは、不可能だと申しております」
 水野忠興は考え込んだ。そして血が出るほど拳で畳を叩いた。
「これはまさしく、仕事屋の仕事。我々に頼む以外に生きてお嬢様を助け出す方法は無いと断言しております」
「たいそうな自信だな」
「そうです。あまりの自信に、まさかこの事件に、そなた達も一役買っているのではあるまいな、と確認致しましたが、悪事は働かないとのこと、仕事屋を信じて、ご安心下されとのことでした」
「それで、事前に500両を越前屋に預けておくのだ・な」
「何でも、越前屋は幕府御用達の呉服屋。水野様を裏切るようなことは致しますまいと申しております。かと言って、仕事屋を裏切ることもないそうです」
 越前屋のことは知っている。江戸城に出入りしている商人(あきんど)である。特別悪い噂を聞いたことも無く、大奥に出入りしていると聞いている。
「そうか・・・・・。成功報酬か・・・」
 水野忠興は、安心した訳ではないが、その仕事屋なる者に掛けるしかないと、思い始めていた。
「それから、もうひとつ・・・」
「何じゃ?」
「大村様とは、これで顔見知りとなりましたが、事件が無事解決したなら、その後はお互い知らぬことで、お願いしたいと・・・。水野様にも、その件はよしなにとのことでございました」
「事件が解決したあかつきには、仕事屋のことは無かったことにせよとか・・・・」
「左様申しておりました」
「わかった」
 水野忠興は言ってから、
「北町奉行と南町奉行を呼べ」と大村梶之輔に命じた。
「わかりました。直ぐ連絡します。恐らく政務の最中でしょうから、こちらに来るのは夜になるかもしれません」
「いかなる時間でも構わん。娘のためじゃ・・・」
「分かりました。早速奉行所に人を走らせます。それから奉行に伝えた後、娘をかどわかされた大店の所へ行って参ります」
「商人の所・・・、何故じゃ?」
「うまくお嬢様を連れ戻した折りには、他の娘の親からも、一人100両払って貰わなければなりません。その交渉に行って参ります」
「娘さえ無事に帰れば、わしが500両全額出しても構わぬ。問題は本当に娘が無事戻るかどうかじゃ・・・」
「わかっておりますが、一応は交渉をしてみます」
 大村梶之輔は水野様に報告が終わると、命じられた通り両奉行所に人を走らせた。大村が行かなくとも、水野様の名前を出せば、奉行は飛んでくる筈であった。

 夜になって、南町奉行と北町奉行が肩を並べて、水野邸に向かっていた。護衛の侍は、両奉行の前後に、少し離れて警護をしていた。
 北町奉行と南町奉行と言うが、別に江戸の町を南と北に別けて管轄している訳ではない。北町奉行も南町奉行も、見ている地区は同じである。ただ交代で今月は北町、翌月は南町の管轄となっているだけで、大きな事件となれば、当然合同で対応にあたる。
「何か報告できるような、新しい発見はあったか?」
 北町奉行である。
「特にない」
「我々は必死で捜査している。今さら直接呼び出されても・・・」
「可愛い娘がかどわかされたのだから、気持ちはわからなくはないが、呼び出されても解決が早まる訳ではない」
 そんなことを話しながら水野邸に着いた。ちなみに町奉行と言うと、白洲での裁判が有名で司法長官のようなイメージだが、実際の奉行所の仕事は、司法もあるが、司法・行政・立法とにわけると、行政が主な仕事で、司法の仕事もあるが、お白洲の裁判だけが仕事ではない。この時代の少し前に、大岡越前守忠相という人物がいて、白洲でのお裁きが有名であるが、実際は忠相が裁いた裁判事例はさほど多くない。むしろ庶民の味方として、行政の長官としての業績が大きかった。特にいろは四十八組の火消の整備や、建物を建てる際、延焼を防ぐため、家と家の間を、一定の間隔を開けるよう定めるなど、行政の長官としての功績が大きかった。つまり司法の長官であると同時に、県知事や都知事等のように、行政府の長官としての仕事が多かった。大岡越前守忠相の裁判事例がさほど多くなかったのは、平和な時代となり、事件そのものが少なかったと見るべきであろう。
 大岡裁判が多数描かれているのは、その後講釈師や物書きによって作られたものである。
 両奉行は、立派な客間に通され、神妙な面持ちで、水野忠興の前に座った。
「事件のこと、お嬢様のこと、ご心痛はお察し申し上げますが、こちらも必死で行方を追っております」
 北町奉行の言葉に水野忠興は小さく頷き、
「ところでそなた達、仕事屋宗次郎と言う名前を聞いたことがあるか」
 奉行二人は顔を見合わせた。意外な言葉が懸けられたからである。
「噂では聞いておりますが・・・」
「信用できると思うか」
「噂でしかございませんので何とも申し上げられませんが、奉行所の仕事を邪魔立てしたことはないとのこと、それゆえ役所と致しましては、特にことを荒立てたことはございませんが、それが何か・・・」
「いや。実はその仕事屋と言う者に、娘の捜索を依頼した」
「我々では信用が出来ないと・・・」
 南町奉行が不快な顔をした。
「そうではない。信用はしているが、総ての可能性に懸けたい。ただその男に頼んで、その男がとんでもない食わせものだったりすると、わしが物笑いの種になる」
「奉行所に取っては、可もなく不可もないと言うことでしょうか」
 北町奉行はそう答えた。北町奉行所の中に、その仕事屋宗次郎という男と繋がっている者がいるらしい。そのことは薄々感じていたが、特に問題にすべき事項もなかったので、放置してある。
「奉行所の邪魔にはならぬ・な」
「特にはなりません。それに我々の前の奉行とは、多少知り合いだったとも聴いております。確かに貴重な情報も入れているようで、奉行所の中には、以前からその男と通じている者がおるようです。一度会ってみたいとは思っておりましたが・・・・」
 北町奉行は慎重に言葉を選びながら、そう言った。
「それならよい。胡散臭い人物に頼んでと、後で物笑いにならなければそれでよい。何としても娘を探し出して欲しい」
「その男は、何か掴んでいるのでしょうか?」
 南町奉行が聞いた。
「それはわからん。ただその男の言うには、一月もたてば、娘とは二度と生きては会えぬと申しているらしい」
「何故に・・・、でございますか?」
「遠い異国に売り飛ばされるのだと、申しておったそうじゃ、だから異国に売り飛ばされたら、二度と生きては会えぬと・・」
 異国と言う言葉に、両奉行は顔を見合わせ反応した。抜け荷をやっている者が、下手人と言う事か。密貿易をやっていると噂のある商人は何人か聞いている。そこに踏み込むか。
「何か確証が・・・?」
 南町奉行が聞いた。
「知らぬ。あくまでも推測だと言っておったそうじゃ。もし言葉も通じぬ異国に、娘が売り飛ばされたら、わしは夜も眠れず、死んでも死に切れぬぞ・・・」
「分かっております。一度その宗次郎とやらにも会ってみます」
「それはよせ。お互いの分野で、お互い邪魔をしないようにやれ。目的はあくまで娘の安全と無事じゃ。つまらぬ意地の張り合いは致すな」
「承知・・・・」
 水野忠興が、会うのはよせと言ったのは、奉行所が踏み込めば、娘の命はないという言葉だった。仕事屋が胡散臭い人物でなければ、その男に掛けて見るしかないと思っていたのだ。
 それから暫く雑談をして、奉行二人は水野邸を後にした。帰り道、
「その男、信用できますかな?」
 南町奉行が北町奉行に言った。
「見当もつかぬ」
「抜け荷をやっていると言う噂のある商人はいる。確証もないのに踏み込むのは、些か難儀ではあるが、背に腹は代えられぬ」
 北町奉行依田和泉守は、沈痛な面持ちで言った。
「踏み込むのか?」
「調べてはみるが、場合によっては、確証がなくとも、踏み込むのも、やむを得ぬかも知れぬ」
「抜け荷の噂のある商人は、掴んでいるのだな?」
 南町奉行土屋大隅守正方は、北町奉行の顔を覗いた。
「数人いる。しかし抜け荷の噂のある商人が下手人とも限らん」
「慎重に事を運ぶべきだ」
「しかし、本当に異国に売り飛ばされたと後でわかったら、只では済まんな」
 依田和泉守はため息をついた。
「確かに、二人とも、役職を解かれる可能性も十分ある。何しろ水野様のご息女だからな・・・」
「それは大いにある。それにしても、仕事屋との面会に、釘を刺されたのは不味かった。いつか会ってみようとは思っていたが・・・・」
 北町奉行依田和泉守は、仕事屋と繋がっているらしいと、噂のある部下の顔を思い浮かべていた。
「この事件が終われば、今後のために一度会っておく必要はあるな」
「そうだな。会ってみよう」
 二人の奉行は、護衛の役人に守られながら帰宅した。
 
 大村梶之輔は、娘を浚われた大店の主を集めていた。話の終わった後、
「もし本当に助けてくれるのでしたら、100両でも千両でも出します。どうか助けて下さい」
 大店の一人が、真剣な面持ちで大村梶之輔に懇願した。
「私も、千両の持ち合わせは、今はございませんが、借金してでも娘を助けたいと思います」
「それでは、100両は出すのだな」
 大村梶之輔の言葉に、皆は頷いた。どの親も必死だった。4人の娘は、いずれも大店の娘で、武家の娘は、水野様のご息女のみであった。
「100両くらい、お安いご用です。何としても娘を助け出して欲しい」
 大店の主の一人が必死に食い下がった。
「それは水野様も同じゃ」
「本当に助けて戴けるのでしょうか・・・・?」
 別の大店の主人が泣きそうな顔で言った。
「それは何とも分からん。少しいい加減なところがあるのが気になるが・・・」
「その仕事屋とか言う者と、是非会わせて下さい」
「会って、金を積み上げ、抜け駆けは良くないぞ」
 大村梶之介は釘を刺した。みな大金持ちの大店である。抜け駆けしないとも限らない。それで念を押したが、
「抜け駆けしても、助かるときは、全員皆一緒でしょう。例えもっと積んでも、助けて欲しいのです」
 皆は一斉に声を挙げた。
「会わせるわけには参らぬが、その仕事屋なる者に、もう一度念のために、そなた達の気持ちは伝えよう」
「お役人様はここまで来たら、まったく当てにはなりません。聞けばまだ何もつかめていない、そうではないですか。そのお方は、異国に売り飛ばすと言うことだけは、既に掴んでいるようです。期待してよろしいのでは・・・。異国に連れて行かれたら、言葉も通じず、その苦労を考えたら、私は生きてはいられません」
「だから気持ちは分かると言ったであろう。とにかくその仕事屋なる者に、任せるしかない。仕事屋と一人一人の親が会って、結果として仕事屋の邪魔をしたら元も子もなくなる」
 議論は尽きない。今さらながら、可愛い娘のためなら、幾らでも金は出しそうだ。そう考えると仕事屋の言うとおり、一人100両は、良心的な金額なのかもしれないと思った。それにしても合計500両、今の金に換算すれば、5千万円。銀行流に換算すれば、1億5千万円から2億円。大金であることは間違いない。

 夜になって、紋次と作蔵が連れだって、宗次郎の住まいを訪れた。まだ隣の菊園は、稽古の真っ最中なのである。琴、三味線、笛や太鼓の音が聞こえる。若い娘が帰るには、少し遅い気がするが、遅くなれば師匠のところに泊まるのだろう。師匠の家は大きい。
 それにこの時間になれば、若い娘はいない。事件が江戸中の噂になってからは、若い娘は、日が暮れてからの外出はしない。いるのは住み込みの内弟子が中心だ。お芯もお涼もお扇も内弟子だから、この同じ屋根の下にいる。
「遅くなって申し訳ございません」
 紋次も作蔵も忍びの心得がある。伊賀者である。二人とも仕事屋の仲間であったが、表看板は、別の職業を持っている。紋次は簪職人。作蔵は研ぎ師であったが、調理師としても一流だった。作蔵は鳴海屋で働いている。
「紋次の情報が、やっと陽の目を見ることになったぞ」
 宗次郎が笑いながら二人の顔を見た。
「例の娘の事件、仕事として入りましたか?」
 紋次は嬉しそうな顔をした。最初に娘がかどわかされて、どこかに連れて行かれたという情報は、20日ほど前に、紋次からもたらされていた。
 その時、「それは大変な情報だ。役人に報告しても褒美の言葉と、些少の礼金で終わりだ、帰りに団子を食ったら終わるだろう」そう言って、情報だけで、紋次は宗次郎からは2両貰っている。
2両と言えば今の金に換算して、約20万円強だ。間違っても、奉行所ではくれない金額だ。その情報が生きた。
 その後、連れ去られた場所を徹底的に調査した。
「15日以内に娘全員を助け出す」
 宗次郎は言い切った。
「15日以内・・・?」
 紋次と作蔵は驚いて顔を見合わせた。その時、迫水翔馬は壁に寄りかかり、三人の会話を退屈そうに聞いていた。
「大野屋の者には、一切手は掛けない」
 宗次郎は眠そうな目をこすりながら、そう言った。
「それは無理でしょう」
 さすがの紋次も呆れていた。そんな方法はない。人手を集めて強引に救出すれば、大野屋としてもただでは済まない。大立ち回りになるのは必定。怪我人や死者も出る。それなのに、大野屋の者には手を出さず、15日以内に娘達を全員助け出す。紋次も作蔵も開いた口が塞がらなかった。
「大野屋は、腕のたつ浪人を10名ほど集めています。その内の3人が恐ろしく腕が立つそうです」
 紋次の腕が立つと言う会話に、翔馬が反応して身を乗り出した。それに対して、宗次郎は、
「強引に大野屋に押しかければ、証拠となる娘達の命の保証はない。真っ先に口封じのために殺される」
「確かに・・・」
 翔馬が、身を乗り出して、
「どれほどの腕が立つか知らないが、面白くなってきた」その言葉に、
「お前の出る幕はない。もっとも刀を抜きにして、手伝って貰いたいことは起こるやもしれんが・・・」
 宗次郎の言葉に、
「ちぇ。刀抜きかい」と翔馬はふてくされて、また壁に背をもたれた。 
「殺しはやらない。だから刀は不要だ」
 宗次郎は頭を使って考えろと言った。
「その凄腕の浪人、翔馬様に斬れますか」
 翔馬の反応に、作蔵が翔馬の顔を覗いた。
「ちょろいものだ。いつでもやってやる」
 翔馬は自信に充ち溢れている。危ない目に会ったことはないのだろうか。紋次と作蔵は根拠のない翔馬の自信に、多少は呆れていたが、
「それは頼もしい」と作蔵は翔馬を煽てた。
 最悪娘を助け出すために、翔馬の腕は必要になる可能性はある。紋次も作蔵も、そう考えていた。いざとなった時、翔馬に逃げ腰になられては困るのだ。
「15日以内とは・・・・?そうか・・、20日も過ぎれば、娘達を積みだす外国船が来るからです・な」
 紋次は15日以内の意味を悟った。
「情報から、そう判断した」
「しかし全員無傷で助け出すのは・・・?」
 至難の業ではないと、紋次と作蔵は首を捻った。
「無理と言うな。ここが知恵の出し所だ。何としても15日までに、全員娘達を無傷で助け出す。方法を考えてくれ」
 その言葉を聞いて、翔馬が、
「おいおい。その方法は宗次郎が考えるのではなく、他人任せかい」
 翔馬が身を乗り出し、呆れ顔で宗次郎を見た。相変わらず、刀を抱えている。
「そんな物騒な物は離して、お前も少しは頭を使え・・」
 宗次郎は横目で翔馬を見て笑っている。
「やかましわい。そんな頭があったら、浪人などしてはいないわ」
「浪人はしていても、食うには困らん・だろう・・」
 宗次郎は冷やかした。翔馬にとって、今回の仕事は初めてだが、毎月の手当の面倒は見てもらっている。若い翔馬が、楽に暮らせるだけの生活費は、宗次郎から出ていた。そのことを言っているのだ。
「御蔭で・な。しかしこの腕を認められた上で、どこかに士官がしたい」
「その頭では無理だ」
「やかましい」
 その二人の会話を聞きながら、紋次は、
「翔馬様は、宗次郎様よりずっと年下でしょう」
 言葉遣いについて言った。
「確かに宗次郎は俺より年上だが、頭から俺を馬鹿にしている。だから売り言葉に買い言葉で、つい・・・」
 言ってしまうのだと、翔馬は弁解した。
「翔馬様も、決して頭が悪いとは思っていません。もっと自信を持って下さい」
 紋次と翔馬の会話を、宗次郎はおかしそうに聞いている。
「宗次郎様も何故、若い翔馬様に、あのようなぞんざいな口のきき方をされているのですか・・・」と紋次は二人の関係に首を傾げた。 
「あやつは、俺の命の恩人と勘違いしておる」
 宗次郎は笑った。確かに、旅の途中で翔馬に助けられたことは事実だ。もっとも宗次郎が助けてくれと頼んだ訳ではない。
「勘違い・・・・。よく言うわ。俺がいなかったら、あの時にズタズタに殺されていたろう」
 翔馬はむきになって言った。
「単に旅先で、不審な浪人共に取り囲まれただけではないか。金目のものが欲しかっただけだろう。その時、翔馬が突然現れ、その5人の浪人を、あって言う間に斬り捨てた。あれはまさしく人殺しだ」
「やかましいわい。もし俺が助けなかったら、今頃は、なますの様に斬り刻まれて、あの世に行っている」
「だからわしの命の恩人だと、勝手に解釈しているのだ」
「宗次郎は、命を助けられたのに、感謝の気持ちもなく、俺を馬鹿にするから・・・」
 翔馬はむきになっていた。
「だから、ぞんざいな口を利くのだそうだ。もっとも翔馬の言葉を、俺は気にはしていないが・・・。むしろ面白いと思っている。翔馬が俺に気を使うようになったら、ここから追い出す」
 宗次郎は目上、目下の区別はあまりしない。だから若い翔馬の言葉づかいもまったく気にしていなかった。
「その時助けられなかったら、本当に殺されていたのですか?」
 紋次が確認した。翔馬はもっと感謝しろと言いたげに、宗次郎の顔を覗いた。
「頭を仕え。あんな痩浪人。いざとなれば逃げればよい。足には自信がある。あんな痩せ浪人では追いつけない。奴等はあの時、既に腹が減って、息があがっていた」
「負け惜しみの強い男だ・・・」
 ふてくされて、翔馬は呆れ顔で宗次郎を睨みつけた。
「まあまあ。仲良くやって下さいよ。そんなことより、どうやって助けるのです・・・・」
「それをみんなで知恵を出し考えて欲しい」
「知恵にも限界があります」
「そこを何としても考え抜く。それが仕事屋としての真骨頂なのだ。修羅場を作り、刃傷(にんじょう)沙汰になって、助け出すなんて、下衆(げす)のやることだ」
「しかし悪人は、時としては天誅を下し、成敗するのも、世のため人のため、人の為と思いますが・・・」
 紋次が、事と次第によっては、人を斬ることも已むなしと言いたげに、宗次郎に進言した。
「殺しを売りにしたら、もしもの場合。下手人のわからない殺しがあったら、関係なくと
も我々が疑われる。殺しはやらないと売りだせば、殺しがあっても疑われない。そこが大
事なところだ」
「そんなものですかね」
 紋次と作蔵はお互い顔を見合わせた。大野屋には手を下さず、娘だけを無事助け出す。神業に等しい。翔馬ではないが、紋次にも作蔵にもそんな知恵はなかった。
「礼金は弾む。いざの時には人を集められるようにしてくれ」
「2・30人はいつでもかき集めます」
「大野屋には潜り込めるか・・・」
「いつでも・・・」
「よし分かった。頭(かしら)とも相談して、5人の娘を無傷で救出する方法を考えてくれ。参加した者には、軽重によって礼金は弾む」
 紋次も作蔵もまた大金が手に入ると密かに喜んだ。しかし紋次は、
「5人と言いましたか。娘は6人ですぜ・・・」
「6人・・・?」
「へい・・・」
「どこで一人増えた」
「最初から6人です。ただ、5人の娘の出処ははっきりしていますが、一人はどこの娘なのか、まったく分かりません」
「美形なのか」
「そうですね。出所ははっきりしませんが、美人だから拉致されたのでしょうね」
「そうか。金にならないからと言って、その娘だけを外すわけにも行くまい。それにどの娘が、誰の娘かも区別はできない。こうなれば6人一緒に救うしかないか・・・」
「だから救うのはいいが、どんな方法で・・・?それが問題だろう。それに大野屋は警戒厳重なのだろう」
 具体的救出方法に話が行かないので、翔馬は少し苛立っていた。翔馬は初めて大野屋の名前を耳にしたが、どのような商売をしている男なのかも、実は知らなかった。
「翔馬でも、少しは頭も動いているな」
 宗次郎の言葉に翔馬は、
「馬鹿にし腐って・・」とまた、ふてくされた顔をした。
「翔馬様、もう少し考えましょう」
 紋次は翔馬をなだめた。それにしても二人の関係はおかしい。翔馬は、宗次郎の世話になっている筈だ。しかも年上、もう少し丁寧な言葉を使っても、良いのではないかと思っている。
「明日の夕方、もう一度ここに集まろう」
「了解しました。ついては、佐吉もここに加えたいのですが・・・」
 紋次の言葉に、宗次郎は、
「佐吉か。構わないが・・・」
「元々この情報を最初に知らせてくれたのは、佐吉ですから」
「情報源は佐吉なのか・・・。最初にこの情報を持って来た時に、紋次に2両渡したが・・・」
 佐吉に情報料を払っていないことを言った。
「確かに情報料として2両戴きました。ですからその後はちゃんと佐吉にも1両渡しております」
「そうか。佐吉にも金子は渡してあるのか。佐吉なら大野屋には忍びこめるだろう」
「佐吉は気配を消す名人です。天井裏や床下、どこからでも自在に出入りできます」
「そうか。それは頼もしい」

                  (3)

 翌日すがすがしい朝を迎えた。宗次郎は庭で少しばかり考えことをしていたが、暫くすると、いつもの宗次郎に戻っていた。悲壮感はまるでない。
 垣根に仕切られた隣の庭を眺めながら、のんびりと腕を伸ばし欠伸をしていた。娘達は花などに水をやっている。
 翔馬は、上半身をはだけて、剣術の稽古をしていた。いつもは鋭い気合いを掛けるのだが、娘達から、うるさいと陰口をたたかれているので、無言の稽古だった。それにしても、かどわかされた娘達を助けられなかったらどうするのだろう。のんびりしている宗次郎を眺めながら、翔馬は勝手に苛立っていた。
 娘達は稽古が始まるのか、皆家の中に入った。今日も一日無駄に過ぎる様な気がして、翔馬としては、心配でならなかった。
「それにしても、あの娘等何か言いたそうだったが・・・」
 部屋に戻る娘達の後姿を見ながら、翔馬は言った。恐らく翔馬がいたので声を掛けなかったのだろう。理由はわからないが、隣の娘達は、翔馬を嫌っている。もっとも翔馬は町に出れば、「翔馬様!翔馬様!」と黄色い声を掛けられる。二枚目としてもてるのだが、隣の娘達とは、どうも気が合わないらしい。
「あの娘達は苦手だ。声を掛けられなくて良かった」
 宗次郎も、娘達に声を掛けられなくて良かったと胸を撫で下ろしていた。
「宗次郎は、何であの娘等に、言いたい放題を言われているのか、理解に苦しむ」
 翔馬は、宗次郎が自分で頭がいいと自慢するなら、あんな小娘に、勝手放題を言わせないで、なぜギャフン言わせられないのかと、いつも不満だった。娘はいずれも17・8歳で、翔馬から見れば餓鬼だった。
 翔馬はよく20歳前後と間違われるが、本当は26歳で、もうすぐ27歳になる。しかしあの娘等は、逆に翔馬をガキ扱いにする。それが許せなかった。
「それにしても、試合がしてぇ」
 翔馬は腕をさすっていた。
「本当は人が斬りたいのではないのか。でも人を斬れば人殺しだからな。それだけは肝に銘じておけよ」
 宗次郎は腕が立つと言う翔馬が、揉め事を起こすのを一番嫌う。それで翔馬に釘を刺したのだ。
「ところで・・・、宗次郎は、本当は強いのか?」
 翔馬が、何事にも自信満々な宗次郎を見て、ふと気になって訊ねた。
「弱い。しかし逃げ足は天下一品だ」
「そんなの自慢になるか」
 そんな会話をしていると、
「宗次郎さん。食事の支度が出来ましたよ」
 家の中から、お扇の声が聞えた。こんな時、娘達は決して翔馬には声を掛けない。あくまでも翔馬は、宗次郎の添え者なのである。
 朝餉である。今日の当番はお扇らしい。お扇もお芯も、お涼もみな美しい。これだけ美しいおなごが一か所に集まるのも珍しい。ただ口の悪さも天下一品である。
「大の男が、何もせずに朝から、ぼーっと庭で時を過ごすのもいい身分と言えば、いい身分なのですね」お扇の嫌みである。
 この家に住む者は、宗次郎が仕事屋と言うことは誰も知らない。昨日お芯に、立ち聞きされ、仕事屋について、何か掴まれたのではないかと心配していたが、そのことについてお扇は、
「昨日お見えになった立派なお武家様は何者なのですか?」とそのことについて訊ねられた。
「何者と言うほどの者ではない。ちょっと知り合いでな」
「娘さんがかどわかされたことを話していた様ですが、世間話でしょう?あの御武家様も暇なのですか。世間話をしにわざわざ、こんな所まで来るなんて・・・」
 情報は早い、昨日のことは、もうお芯から、お扇とお涼に伝わっている。
「あの御仁も暇なのだろう」
 宗次郎は仕方なくそう答えた。
「類は類を呼ぶ。暇な人の周りには暇な人が集まるのですね。でも宗次郎さん。そろそろ仕官するなり、仕事をきちんとしませんと、嫁も貰えませんよ」
 ご飯をよそりながら、お扇は言った。
 脇で翔馬が、本当のことを言ってやれば良いのにと思った。昨日500両の仕事を引き受けたばかりだと言えば、この娘等も、少しは二人の存在価値を認めるに違いないと思ったが、お扇はさんざ嫌みを言って帰った。
「嫌みが無くなればいい娘だと思うが・・」
 翔馬は食事を口に運びながら独り言のように呟いた。この当時日本人の食事は朝と晩の二食が主流だった。

 その日の夕方、紋次・作蔵それに佐吉が集まった。それに何故か鳴海屋の主人もいた。翔馬が後で知ったことは、紋次や作蔵達の頭が鳴海屋の主人だと知った。一方佐吉は一匹狼らしい。鳴海屋が、料理の味は悪くないが、客の入りがよくないのに、商売は繁盛して見えるのは、別の収入があるからだと知った。別の収入とは、宗次郎に情報を売っているほか、宗次郎の依頼で、殺し以外に頼まれた仕事を仕切っているからなのだ。
 過去にどのくらいの仕事をしたのかは、翔馬は知らない。また鳴海屋の主人の配下が、どのくらいいるかも知らなかったが、表看板の鳴海屋以外の商売をしていることだけは確かだった。
「色々考えたが、宗次郎さんの注文は難しい」
 鳴海屋の主人孫兵衛が口を開いた。
「一番手っ取り早いのは力押しで、大野屋に奇襲をかけ、娘達を強引に奪還するのが、一般的な方法ですが、そうなると、大野屋の雇った浪人共と斬り合いになるのは必定・・・・」
 鳴海屋の主人は、皆の意見をまとめる立場から、一般的奪還方法を説明した。恐らく娘達を助ける方法を、仲間内でいろいろ議論していたのであろう。その意味では沢山の英知を集めている筈である。
「しかし宗次郎さんが心配するように、力押しの場合は、口封じのために、形勢不利となれば、大野屋は娘達を殺害することも考えられます。そうなると、娘達を生きて親元に届ける約束は失敗に終わる」
 宗次郎は、目を瞑って黙って聞いている。
「奉行所に届けて、役人に突っ込ませる方法もあるが、それでは役人の手柄になるだけ、500両の仕事はふいになる。それに役人の仕事は、下手人を捕縛することで、娘達を無事助け出すことではない。役人に突っ込まれたら、間違いなく娘達は殺される」
 孫兵衛はいろいろ考えたのだが、万策尽きて頭を抱えた。
 そんな様子を翔馬はじっと眺めていた。孫兵衛が江戸の忍びの総元締めだと聞いたのは、後日のことだった。それを教えてくれたのは紋次である。
 孫兵衛はおもむろに、
「当然・・、他にもいろいろ考えた。佐吉から説明しろ」
 佐吉は孫兵衛の直接の配下ではないが、宗次郎から仕事の依頼があった時、共同で事に当たる。しかし基本は一匹狼である。
「色々考えました。しかし娘も無傷で、大野屋とは斬り合いにならず娘を奪還するのはかなり難しい。一応考えたのは、深夜皆が寝静まった頃、大野屋に火を放ち、どさくさにまぎれて、娘達を救い出す。うまくやらないと、大騒ぎになります。下手をすれば斬り合いにもなります」
「火か・・・」
 宗次郎は念のために翔馬の顔を見たが、翔馬は斬り合いになるのは望むところと考えているようだった。
「火をつけるのは深夜。事前に油を撒いて、寝入りばなに火を放てば、敵は混乱することは間違いありません」
「確かに、その方法はある。人間火を見ると冷静な判断はできなくなる。うまくすれば、娘も助け出せる。しかし火はこちらの自由にはならない。風向き、風の強さによっては、大火になる危険もある。江戸の3割近くを焼け野原にすることだってありうる。それに付け火は重罪だ。火付盗賊改方の役人と真っ向から勝負になる。娘は助けても、重罪になる可能性もある」
「確かに、火事といってもボヤ程度、しかし間違えば大火になることもありえます」
 孫兵衛も考え込んだ。確かに宗次郎の言う通り、火は人間の自由にはならない。皆が考え込んで悩んでいた。宗次郎がおもむろに、
「佐吉は地下の座敷牢にも忍びこめるのか?」
 救出策とは別に腕組みをしながら、佐吉に聞いた。
「自在に・・・」
「佐吉が忍びこめるのなら、逆にそこから娘達を助け出せないか」
 紋次が脇から口を挟んだ。
「身軽でないと無理です。一人二人は助け出せても、全員は無理でしょう。その間に見つかってしまいます」
 佐吉はそのことも考えたと言い、無理なことを伝えた。
「女は尻が重い。とても地下牢の天井裏から音も立てずに逃がすのは無理」
 女は尻が重いという言葉に、皆は苦笑した。
「地下牢に忍びこめるなら、佐吉に後で頼みがある」
 宗次郎は、まだ考えは固まっていなかったが、一つの実験として、佐吉がどの程度、地下牢に忍びこめるのか、予め確認しておきたかった。
「わかりました」
「他に救出に関する案は無いか・・・?」
 宗次郎は紋次の顔も見た。
「異国船を乗っ取る方法もありますが・・・」紋次の答えに、
「異国船を乗っ取る?」と宗次郎は聞き返した。
 方法として、ない訳ではない。宗次郎はその案について考えてみた。
「異国船には、どのくらいの乗組員が居るのか?」
 鳴海屋孫兵衛は紋次に確認した。孫兵衛も何か思いついたのかも知れない。
「戦闘員が30人くらい。他に20人ほどの乗組員が・・・」作蔵が答えた。
「それらを全員拘束するのか?」
 翔馬も議論に加わった。
「そうです。拘束して、衣服をはぎ取り、我々が異国人に化けるのです」
 紋次の回答に、翔馬は、
「言葉は・・・?」と確認した。
 異国の人間は、日本の言葉は話さない。そのことを言った。
「適当に訳のわからないことを言えばいい。どうせ相手もわからない。大野屋と直接会話するのは通訳だ。誰かが通訳に化ければいい。通訳は日本人のままでいい」
 作蔵が答えた。
「海上で大野屋と、娘達の交換をして、大野屋が去った後、別に用意した船で、娘達を陸に連れ戻す」
 紋次が補足説明をした。
「なるほど、大野屋の手勢によっては、大野屋を海上で襲撃してもいい・・・」
 鳴海屋は、紋次と作蔵に言った。
「人殺しはやらねぇ。大野屋と渡り合えば、こちらにも死者が出る」
「そう。襲撃はやらねぇ」
 宗次郎の言葉に、鳴海屋は慌てて訂正した。
「娘を引き取るだけでいい」
「問題は50人もの異国船の戦闘員と船乗りを、どうやって拘束するかだ」
 人手のかかることを宗次郎は言った。
「夜中に船に忍び込み、食事に眠り薬を混入させる。異国船の連中が眠っている間に、全員を縛り上げる」
 作蔵の言葉に、
「これならどうだ。宗次郎・・・」
 鳴海屋は胸を張った。
「面白い。一つの方法だ。しかし短時間で食事に眠り薬を混入させるとなると、船に忍びこむのは、何人くらいが必要だ」
「5・6人は必要だ」
「佐吉はどう思う」
「陸地なら、天井裏、縁の下、出入りは自由だ。しかし異国の船となると、勝手が違う。船の様子なんて、はなからわからねぇ。船の上で迷子になったら、笑うに笑えねぇ。それに作蔵は船酔いする」
 佐吉は作蔵の顔を見た。
「船酔いか。そいつはまずい」
 宗次郎も作蔵の顔を見た。
「とにかく、いろいろな考えはわかった。いずれも貴重な案だ。参考にする。まだ時間は十分ある。わしも考えてみよう。今日は遅い、このくらいでお開きとしよう」
 宗次郎は疲れた顔をしていたが、眠くなったのだろう。
「わかった。そうしよう。しかし宗次郎さん。時間は十分有ると言ったが、そうでも無いぞ。あっという間に時は過ぎる」
 鳴海屋の孫兵衛は心配そうに言った。宗次郎は孫兵衛の言葉に頷きながら、佐吉を見て、「佐吉。大野屋の地下牢に忍び込み、娘達に安心するように伝えてくれ。必ず助けると・な。但しイザとなったら、我々の言うことを忠実に聞くように伝えてくれ。いいところのお嬢さん方だ。半分は我儘娘だろう。肝心なところで、我儘を言われては困る。脅しも入れても構わないから、兎に角我々の言うことをよく聞くように伝えてくれ」
 宗次郎の言葉に、佐吉は、
「わかった。任せてくれ」と立ち上がった。
 それを潮に皆はその場を立ち上がった。今日の会合は終わりの印である。

 翌朝眠い目をこすりながら、宗次郎が庭で手足を伸ばしていると、お芯、お涼、お扇の三人娘が、宗次郎を見詰めていた。
 この三人娘は、日本舞踊、お琴、鳴り物・礼儀作法を習う内弟子である。事情はさまざまで、訳あって、師匠のところに寝泊まりしている。
 舞踊(ぶよう)や鳴り物の師匠と言っても、歳はまだ若い。ここの師匠は宗次郎と同じくらいの歳だ。内弟子となっているこの娘達は、正直美しいのだが実に口煩い。
「宗次郎さん」
 垣根越しからお芯が声を掛けた。男子禁制だと、勝手に庭に竹の柵を作り、行き来出来ないようにしたのはこの娘達だ。宗次郎も翔馬も一度も、それ以来垣根を越えたことはなかった。その必要もないと思っている。しかし娘達は勝手に垣根を作って、男共が来ないようにと、仕切りをつけた。その癖、扉を作って、娘達は勝手に、二人のいる庭に自由に出入りしている。何なのだと言いたくなる。
「宗次郎さんは、私達に日頃お世話になっているでしょう。たまには何か御馳走しても、罰(ばち)は当たらないと思うけれど・・・」
 お芯が垣根から顔だけ出して、宗次郎に話しかけた。
「世話になっている・・・?」
 身に覚えのないことだ。宗次郎は納得しがたい顔をした。
「世話になっているでしょう。宗次郎さん達の毎日の食事、洗濯そしてお風呂を沸かしたり、風呂場の掃除は誰がやっていると思っているの・・・」
 脇から、お扇が口を尖らせて、文句を言った。風呂は二つあり、宗次郎達の風呂と、師匠や女達の入る風呂は全く別だ。確かに宗次郎達の入る風呂を掃除したり沸かしたりしているのは内弟子の三人である。そのことは十分わかっている。
 しかし、その言い草はそもそもおかしい。宗次郎は大人げないので反論したかったが、もともとここに寝泊まりするについては、師匠・・・。つまりこの家の主、すなわちお蝶には、そうした下働きの女中を雇うだけの十分な家賃は払っている、それを下働きの女を雇わず、その仕事を内弟子の娘達にやらせているのはお蝶の勝手である。
 下働きの女を雇う金を浮かしているのは、師匠のお蝶なのである。文句があるなら師匠に言って欲しい。しかし金銭の絡んだことを言うのは、何ともさもしい感じがして、宗次郎は口を噤んだ。
「確かに、日頃世話になっている。それについては感謝している」
 仕方なく宗次郎は心にもないことを言った。
 しかし今は、娘らに御馳走するどころではない。江戸で騒ぎになっている気の毒な娘達を、一日も早く、助け出さなければならない。お芯、お涼、お扇などと遊んでいる暇はないのだ。そう言いたかったが、娘達は宗次郎の仕事は知らない。それどころか宗次郎は無職で、ただぶらぶらしている居候だと思われている。
 しかも許せないのは、師匠は人が良く、宗次郎や翔馬に無償に近い形で部屋を貸しいると誤解している。冗談ではない、通常の数倍以上の金子を払っている。その他に下働きの女を雇うだけの費用も負担し、更には実際の食費より高い額を払っている。しかしそんなことを力説しても仕方がないので黙っていた。いずれは分かってくれる日もあるだろうと、
宗次郎は気長に待っているのだ。
 娘達は宗次郎達が単なる無職の浪人者と勘違いしている。しかし実際は、師匠のお蝶には、法外な金子を渡している。だから生徒が少なくなっても、やってゆけるのだ。しかしそんなケチ臭いことを言う訳にも行かない。そこの所を十分説明していないから、宗次郎が舐められている原因なのだが・・・。仕事屋のことを説明する訳にもゆかない。それで宗次郎は仕方なく黙った。
「言葉ではなく、具体的行動で示しなさいよ」とお芯に噛みつかれた。
 そして勝手に垣根の扉を開けて中に入って来た。更に宗次郎達の部屋の様子も窺っている。翔馬の様子を探っているのだ。
「翔馬は散歩と称して出掛けている。暫くは帰るまい」
 この日は、既に宗次郎と翔馬は朝食を済ませている。この三人娘は、翔馬のことは嫌いだと公言している。翔馬は有る場所に行けば、若い娘達達からは絶大な人気者なのだが、この娘三人は大嫌いだと言う。翔馬と会うと、その日一日気分が悪いと公言してはばからない。嫌い嫌いも好きのうちかと最初は思っていたが、どうも本気で嫌いらしい。  
 翔馬の考えは、女は男の付属物。女は男の言うとおり従っておればよいという考えである。この娘達は、意思が強いと言うか、我が強いと言うか。いずれも武家のいいところの出である。事情があってここにいるが、強い意思と、女の意地を通してきた者ばかりである。生半可な男の言う通りにはならない。確かに根性もある。並み男なら、鼻づらを、引張り回すような女達なのである。
 もっともこの娘達、本当の恋をしたことがないから、本当の恋をしたら、もう少し男を立て、しおらしさ、優しさを見せるのだろうと、師匠のお蝶は言うのだが、実際のところどうなるかは疑問である。
「具体的行動とは何だ・・・・」
 宗次郎は仕方なく聞いた。
「江戸前においしい魚料理を食べさせる店があるの。たまには奮発して私達を連れて行ってよ・・・」
 無職と思われている。そんな浪人に金など有る筈がない。そう思わないのだろうか。その辺がこの娘達の勝手なところであり、理解しがたいところであった。娘達は自分達の矛盾に気が付いていないのだろうか。この娘達は馬鹿ではないのだから、考えたら浪人なんて、金がないと気付くだろう。宗次郎は首を傾げながら考えていた。
「ねえ。連れて行って下さいよ。場所は知っているから」
 お涼も木戸から入って来た。翔馬がいないと分かって、お扇も続いた。
「どうせ暇でしょう。今日こそは、連れて行ってもらいますから・・・」
 お涼である。皆同じ年の筈だが、お涼が一番年上で落ち着いているように見える。
「お前達な。俺が無職であることは知っているのだろう。浪人だよ。普通考えたら金などないと、わかりそうなものだが・・・・」
「師匠が、宗次郎さんは小金を貯めているから、あんた達が月に一度くらい、たかったとしても大丈夫だと言っていました」
 お涼が真顔で言うので、お蝶の奴め、余計なことを・・・。と宗次郎は渋い顔をした。この娘達、今日は稽古が休みらしい。そうなると、この娘達から逃げられそうもない。
翔馬は当分帰ってきそうにない。そんな呑気なことをやっている暇はないのだが。娘達の救出に行き詰まっている。このまま一人で悶々としても始まらない。こんな時は気分転換が必要だ。地下牢の娘達を助け出す期限には、まだ10日はある。頭を休める意味でも、仕方がないから、この娘達に付き合うか。と覚悟を決めた。
 しかし翔馬が知ったら、何と悠長なことをと怒るだろうなと思った。
「宗次郎さんと言う名前からして、長男ではないでしょう」
お芯が歩きながら言った。
「長男なら宗太郎とか、宗之介とか、そんな名前になるでしょう。宗次郎と言う名前からして、次男でしょう。そして長男か父上様は幕府の偉い方で、父親かその御兄さんから、毎月小使いを貰っている。だから小金をためているのでしょう」
 お芯が勝手なことを言いだした。
「よく口が減らないな」
 宗次郎は呆れていた。
「この間、暇そうに世間話をしにきたお武家様、父上か、そのお兄様の家来でしょう」
 勝手な想像である。宗次郎は、そんな邪推に付き合っている暇はないので、話題を逸らせた。
「師匠に了解をとらないとまずいだろう。大事な娘達を連れだすんだからな・・・」
 お蝶に相談すれば、止めてくれると、かすかな希望を持っていた。
「さっきの話、聞いていなかったの。師匠には了解は取っています。ゆっくりと行ってらっしゃいと言われています」
 お芯の言葉に娘達の服装を見ると、そう言えばよそ行きの奇麗な格好をしていた。それにしても、お蝶はけしからん女だと思った。お蝶はある程度宗次郎に収入があることは知っている。仕事屋のことはお蝶も知らない筈だが、確かに金は持っている。だから部屋を借りるに当たっては、十分すぎるほどの家賃を払っている。むしろたまにはお蝶がこの娘達を御馳走すべきだろうと思っている。
 この大事な時に娘達と食事をしていたら、鳴海屋などの仲間達は、何と思うだろう。いたって呑気だと思うに違いない。その時は気分転換だと言い訳するつもりでいたが、この姦しい娘達と一緒では、気分転換になるのか疑問である。
 4人は連れだって、海の見える方向に向かった。
「もし私達が襲われたり、かどわかされそうになったら、身体を張って助けてくれるのでしょう」
 突然のお扇の言葉に、
「当然でしょう」
 とお芯が勝手に答えた。
「逃げ足は速い。普通の人間では追いつけない足の速さを持っている」
 宗次郎は涼しげな顔で言った。
「なによそれ!私達を置き去りにして逃げるつもり・・」
 お芯がキツイ目を向けた。
「そういうことにはならんと思う」
 襲われる心配はないと言う意味だ。不細工だからという意味ではない。こんな真昼間、襲う馬鹿は居ないと言う意味である。確かに物静かなおなごであったら、間違いなく美人だ。
「逃げたら承知しないから、私達を置いて逃げたら、食事も洗濯も、もうしてあげないから・・・」
 お扇が言った。馬鹿な、あそこから宗次郎が去ったら困るのはお前達だ。お蝶の店は、間違いなく潰れる。勿論生徒は十分いるが、それ以上に豊かな生活ができるのは、俺のお陰だ。しかし娘達はそのことを知らない。知らないことは幸いなのかも知れない。
 結局娘達にあちこち連れまわされた。こんなことをしている暇はないのにと都度、宗次郎は情けなくなってきた。
 颯爽と歩いていると、娘達の若さと美しさには、すれ違う江戸の町人たちは、皆振り向いて通り過ぎる。若くて美しいからだろう。
 鳴海屋にしても、仲間の忍びにしても、この娘達が、大野屋の標的にされなかったのは、不思議なくらいだと言っている。今回かどわかされた娘達は、いずれも江戸では美貌を謳われた娘達であるが、或る意味この三人の娘達の方が美人だと思っている。ただこの娘達が標的にされなかった最大の理由は、あまり外出しないことだった。外出しても昼間の人通りの多い時間、それも一人ではなく、常に数人で行動している。もしそんな娘を誘拐でもしようものなら、大騒ぎをされて、たちまち御用となってしまう。
 この娘達は、標的にされていたのかも知れないが、誘拐は不可能だったに違いない。この娘達に、恋仲の男がいて、夕方人気のないところを、二人で密会などすれば、誘拐されることはあったかもしれないが、幸か不幸かこの娘等には、恋仲の男はいない。だから人気のない寂しいところを歩く心配もないのだ。
 誘拐された娘の中には、恋仲で、二人で夕暮れの寂しい境内などを散策していて、連れの男は殺され、誘拐された娘もいる。しかしこの三人の娘は、人混みの中ばかりをこのんで歩く。
 人でごった返している繁華街で、勝手にかんざしなどを買ったり、装飾品などを買って、宗次郎に金を払えと言う。ケチくさい男と思われたくないから金は払ったが、本当に勝手な娘達である。
「宗次郎さんは、何で嫁を貰わないの。もう遅いくらいの歳でしょう」
 お涼が宗次郎を上目使いで見上げながら言った。
「無理でしょう。士官もせず、無職では、嫁を貰っても食べさせて行けないでしょう。それに兄上からいつまで仕送りが続くやら」
 お扇が代わりに答えた。
「やかましい」
 勝手に兄から仕送りを受けていることになってしまっている。本当に失礼な奴らだ。
「もし宗次郎さんがきちんと士官が叶い、嫁を貰えるようになったら、私達の誰かが嫁になってあげてもいいわ」お芯が言った。
「但し、その時は三人でくじ引きするけれど・・・・」
 くじ引きで人の嫁を勝手に決めるなと、宗次郎は呆れて三人を見た。
「海の見える、“よ志の屋”と言う店なの。知っている?知らなければ私が案内する」
 お涼が言った。
「知っている」
「へー。知っているの。じゃ案内して・・」
 お芯の馬鹿にしたような言葉に、すこしムッとしたが、大人げないと反省した。
「あの店は高い・・・」
 宗次郎は不機嫌そうに言ったが、
「借金しても、私達のために御馳走しなさいよ。それが日頃の私達に対する、感謝の気持ちでしょう」
 お扇である。何故借金までして、お前達に御馳走する必要があるのか。そう言いたかったが、黙っていた。それまでにさんざ江戸中を連れまわされた。二刻(ふたとき)ほど歩かされたのだ。今の4時間程度である。
 流石に歩いてお腹は空いた。それで“よ志の屋”に向かった。店の前まで来ると、皆は急に立ち止まった。
「凄く立派な店・・・」
 お芯とお扇が驚いている。
「子供の頃、親に連れられて来た時は、こんな立派な店ではなかった」
 お涼が言った。
 お涼は昔来たことがあった。最近とにかく美味しいと評判を聞いた。それで案内するつもりだったが、想像したより遥かに立派になっていて、流石にお涼も少し臆した。
 この店は夕方になると、幕府の偉い方。藩邸の偉い侍や、藩主すなわち江戸にいる大名や、旗本・成功した商人などで店はごった返すのだが、この時間はまだ外は明るく、こんな時間から食事に来る者は少ない。またこんな若い娘が来ることもなかった。
 もっとも金持ちの大店の旦那が、若い芸子を連れてくることはあったが、芸子・芸者以外でこんな若い娘は初めての客だった。 
 店に入ると、転がるように店の者が案内に来たが、だれもが宗次郎の連れの客に驚いていた。こんな若い娘が来たことはないからだ。
 宗次郎は、この店に取って一番大事な客だから、粗相のないようにと、いつも女将から言われている。その宗次郎が、とんでもない若い娘を3人も連れていたので、店の者は皆驚いていた。
「なんでこんなに、皆びっくりしているの・・・」
 お芯が不思議そうな顔をした。
「お前らの様な若い娘が来る店ではないからだ。恐らくこんな若い娘が普通の客として来るのは、初めてなのだろう。だから驚いているのさ」
 宗次郎は事実と違うことを言った。 
 店の者が驚いた本当の理由は、あの宗次郎がこんな美しい若い娘を、三人も連れてきたことに驚いているのだ。宗次郎と言えば、女気のないことで、この店では有名なのだ。それを若い娘を三人も連れてきたことがまず驚きであり、しかも芸子や芸者ではない。どこからどう見ても、立派な武家の娘なのである。それが驚きの理由であったが、それを宗次郎の口から言う訳にはゆかない。
「お二階になさいますか・・・・?」
「二階が空いているの?」
 お涼は眼を輝かせている。
「今日の口開けのお客様ですから・・・」
 番頭らしい男が言った。そして娘達に向かい、
「二階は海が一望で来て、素晴らしい景色です」と付け加えた。
 二階に案内され、座敷の障子を開け放つと広い江戸湾が一望できた。
「素敵・・・!」
 お芯も、お涼も、お扇も外の景色を眺め、思い切り深呼吸をした。俺はこんなことをしていて良いのか。宗次郎は自問自答をしていた。
 料理が運ばれてきた。最初に船盛である。タイなどはまだ尻尾が動いている。サザエ、煮魚、焼き魚、アワビの蒸し物、イセエビの焼き物、次々と料理が運ばれてくる。一口口に入れると、舌がとろけそうなうまみが伝わってくる。
「こんな美味しい料理生まれて初めて・・・」
 お扇が感極まって言った。
「凄い。噂には聞いていたけれど、こんなに美味いとは思わなかった」
 イセエビを頬張りながら、お芯も感激していた。冗談じゃない。この料理代、誰が払う・・・。「噂以上。昔とは比べようのないほど美味しい」
 お涼も魚を油で揚げて、さらに煮物にした魚の料理を口に運びながら、感動していた。にぎりずしも海苔巻きも用意された。後の鉄火巻きである。その酢飯の味は絶妙で、誰もが美味しさに顔を見合わせた。普段食べている寿司ではない。根本的に味が違うような気がした。
 世の中にはこんな美味しい食べ物があるのかと、三人は一様に感激していた。 
 娘三人は、寿司の酢飯が気に入ったようである。
「持ち帰れないのですか」
 お芯が宗次郎の顔を見た。
「生ものは無理だ。腹を痛める。ここだけにしなさい」
 季節的には、持ち帰っても、直ぐに食せば、問題はなかったが、あえて宗次郎はそう言った。
「師匠に食べさせたかった・・・」
 無理に持って行けないことはなかったが、そうなると、食べきれないほど、沢山の物を持ちかえりそうだ。そうなったら、眼玉が飛び出るほど高くつく。俺はこんなことをしている場合ではないのだが、宗次郎はそう思った。

                  (4)

 そのとき女将らしい女が、部屋に飛び込むように入って来た。宗次郎が来ていると聞いて確かめずに飛び込んできたのだ。そして連れが、若い娘三人と知って更に驚いている。
「あらまあ。美しいお嬢様方を三人も連れ、どうしたことでしょうか・・・」
 女将は大仰に驚いて見せた。
「師匠のところで、世話になっている娘達だ」
  宗次郎は無愛想に説明した。誤解はされたくない。
「宗次郎さんとは、お知り合いなのですか?」
 お芯が不思議そうに女将に訊ねた。宗次郎さんが単独でこんな店に来るとは思えないからだ。
「当店の大事なお客様です」
「違う!こんな店に客として来たことはない」
 三人娘達に誤解されるとまずい。こんな高級な店に客として来る筈がない。そう言いたかったが、それではなぜ?と言う疑問を娘達に与えてしまった。
 女将が、宗次郎が来ていると聞き、慌てて飛び込んできたのには理由があった。この店は3年前に倒産寸前であった。その時、宗次郎に助けてもらったのだ。いや助けてもらったと言うより、借金を含め丸ごとこの店を買い取って貰ったのだ。その上で、この店をどうするか、総てを宗次郎が仕切ったのだ。
 宗次郎は大金を投じて店の大改修を行い、最高の調理人、最高の板前を探し出して、ここに据えたのだ。宗次郎は料理には詳しくはなかったが、どんな美味しい料理を出しても、一度味わえば終わりという調理人は一流ではない。一流の料理人は、一度食べたら何度でも来たくなる料理を作る。それが一流だと言い、そのような料理人を全国から探したのだ。それからは、店は大繁盛した。噂を聞きつけ次から次へと客は増え、一度食したら、また暫くするとあの味が恋しくなり、食してみたくなると大評判になった。
 この時代に適当な言葉はなかったが、今流に言えば、この店のオーナーは宗次郎なのである。だから女将が転がるように入って来たのだ。
 店は超一流の調理人以外は、総て前からいた店の者を使っている。女将もそうだ。但し御もてなしの心構えは、専門の人間を頼み、再教育をしている。だから店の客あしらいも、超一流と言われている。
 オーナーと言っても、店の利益に対して幾らよこせとは言っていない。女将が勝手に今月はこれだけ儲かったので、幾ら納めますと報告するだけである。宗次郎としては店の儲けの分け前を期待はしていない。総ては女将に任せている。
 何も文句を言わない宗次郎に対して、女将は多少の恐怖心はあった。何か言ってくれれば、改善のしようもあるのだが、宗次郎は何も言わずまかせっきりになっている。宗次郎にしてみれば、女将のお登勢に、店の総て任せている以上、何もいいたくなかった。それが任せると言う意味だと思っている。
 だから、女将とすれば、いつ首にされても文句は言えない。首にならないようにするためには、儲けを偽って懐に入れる様な狡い考えは持っていない。買い取られた時から、何でも任せてくれる宗次郎には感謝している。店はそれ以来繁盛している。誤魔化して首になりたくはない。一度は倒産の危機に追い込まれ、宗次郎のお陰でここまで来たのだ。お登瀬としては、今の立場に満足し、最高に幸せだと思っている。この幸せを手放したくないから、売り上げを誤魔化すようなことはしない。その意味では、宗次郎とお登瀬の心理戦でもあった。
 料理人は宗次郎が探した。焼き物なら天下一品の料理人、煮物なら右にでる者はいない料理人、包丁さばきなら天下に並ぶ物なしと言われた調理人。魚一つ、イカやアワビ、それらは包丁を入れる角度で味は変わると言う。それらの料理人を駆使して料理を出す。それが素晴らしい味を出しているのだ。勿論ネタは江戸前である。
 ちなみにこの料理屋以外にも、宗次郎は大店のオーナーも幾つかやっているが、そこのオーナーとして、直接宗次郎が表に名前を出しているのは、この店と、師匠のところの菊園それに両替屋ぐらいで、造り酒屋や油屋その他の店は、鳴海屋がオーナーとして表に出ている。名前を表に出しているとは言っても、世間に名前を公表している訳ではない。店の主人に対して、こっそり名前を出しているだけで、店の主だけが知っていると言う意味である。
前に話しの出た越前屋と言う呉服屋も、実は宗次郎が投資と言う意味での共同経営者なのである。
 つまりこの店以外の多くは、鳴海屋が表向きのオーナーになっている。しかし当時としては、そういう組織は珍しかった。
「奇麗なお嬢さま方なので、特別安くしておきますから・・・」
 女将は愛想を言ったが、余計なことを言うなと宗次郎は思った。安かろうが高かろうが娘達は一銭も払わない。
「聞いた。宗次郎さん。安くしておくって・・・。良かったね」
 お扇が嬉しそうに言った。
「それにしても、江戸の美しい娘さん達は、皆誘拐されたと言うのに、よくもまあ。これだけ美しい娘さん方が誘拐もされずに・・」
 女将のお登勢は感心したように、まじまじと娘達の顔を見た。
「・・・だって、宗次郎さん。私達美しいのよ。わかった」
 お芯の言葉に、宗次郎は煩いと渋い顔をした。
「宗次郎さんて、おなごに関しては美的感覚が無いのですよ。美しいおなごがわかっていないですから・・・」
 お涼も負けずに言った。
「ホホホ。そうかも知れませんね」
 女将もおかしそうに笑った。そんな女将と娘三人に向かって、
「お前ら、兎に角やかましい」とだけ言ったが、目はだらしなく笑っていた。
 女将が下がった後も、娘達は出される料理を美味しい美味しいと腹に詰め込んだ。御蔭で、「帯が苦しい」と三人ともお腹を突き出して座った。
「これ以上もう食べられまい」
「そうね。堪能した。最高。また連れて来てもらおうね」
 お涼の言葉に皆も当然と言うように頷いた。冗談ではない。こんなところに何度も来られるかと思ったが、これからも、たかられる可能性は高い。閉めに吸物や、果実を搾った飲み物が届けられた。ちなみにここの女将と宗次郎の間に男と女の関係はまったくない。  
 1年ほど前、女将が役者と付き合いたいと相談があった。大人同士。祝言をあげるもよし、あげないで付き合うのもよし。大人同士なのだから任せるとだけ言ってある。それ以来、店の者は女将が役者と付き合っていることは、皆知っている。ちなみに、この店の実質的オーナーが、宗次郎であることを知っているのは、女将以外にいない。
 料理人も使用人も、この店は女将の物と信じている。
 娘達は腹一杯になったせいか、少しだらけた格好で、
「宗次郎さん。もしこの三人の誰かと祝言をあげるとしたら誰にする?」
 とお芯が真顔で言った。冗談ではない。この娘の誰かと一緒になったら、5年は寿命が縮まる。
「歳が離れすぎているだろう。お前達に相応しい年頃の男達がごまんといる」
 宗次郎は言ったが、まんざらでもないと言う気持ちが顔に出てしまっている。
「だから、仮にと言っているでしょう」
 お芯が怒ったように口を尖らせた。
「仮であっても、無い・・・」
「照れているの。可愛い。でも三人一緒なんて駄目よ。男は美しいおなごを見ると、皆自分物にしたがるのだから・・・」
 勝手なことを言っている。
「馬鹿。三人も一緒になったら、20年は寿命が縮まるわ」
 本当に口の減らない娘達だと少しばかり呆れた。どだいこんな悠長なことをしている暇
はないのだ。かどわかされた娘達を助けなければならない。
 その時、突然、唐突にあることを思い出した。娘達を助ける方法である。宗次郎は考えが行き詰まり窮地に立つと、突然良い考えが浮かぶことがある。今回も娘達にたかられ、時間的な窮地に立っていた。そんなとき突然ひらめいたのだ。
 人間には、顕在能力と潜在能力がある。よく例えられるのが氷山である。氷山はほんの一部だけが姿を見せ、大半は海の下である。人間の顕在能力も氷山の様に、ほんの一部が現れているだけで、大半は潜在能力として、使われていない。多くの凡人は、一生の間で、使われていない能力は、永遠に海の中に沈んだままである。宗次郎は、その潜在能力が、何の脈絡もなく、突然に顕在能力として現れてくる。特段に超能力と言う訳でもないが、潜在能力として、眠っているものが、突然顕在能力として、海面に浮かび上がってくるのだ。
 それを人は、宗次郎さんは頭がいいと言う。確かに多くの人は、潜在能力として眠っているものは、死ぬまで眠ったままなのだが、宗次郎は潜在能力として眠っている意識が、突如蘇って来ることがある。
 特に窮地に陥った時、その傾向は強い。潜在能力に眠っている意識は、過去に見たこと、聞いたことが、意識の底に眠ったままになっていて、普通の人は、それが意識として戻ることはないが、宗次郎は何の脈絡もなく、突然戻って来るのだ。これは一般的には、勘と言われるものも、その能力の内の一つだろう。
 宗次郎は、娘達を無事助ける方法について、良い考えが浮かばず、窮地に陥っていた。だから、唐突に考えが浮かんだのだろう。これを人は閃きと言う。 
 そうだ娘を助け出せる方法はこれ以外にない。思わずこぶしで自分の掌を叩いた。その様子に三人は不思議そうな顔をした。
「宗次郎さんどうしたの?」
 お扇が不思議そうな顔で訊ねた。
「いや。こちらのことだ。いまちょっとだけいいことを思いついた」
「どんなこと・・・・?教えて・・・」
 お涼も興味深そうに宗次郎の顔を見上げた。
「お前等に関係の無いことだ。興味のあることでもない」
「教えなさいよ。どんなこと・・・?」
 お芯も執拗に迫って来る。まさか行方不明になっている娘達を助ける方法だとは、間違っても言えない。仕事屋などと言う商売をやっていること自体話したことはない。娘3人は、宗次郎は無職だと思っている。
 もし仕事屋の話でもしようものなら、どんな仕事をやっているのかとか、仕事で幾ら貰っているのか、など執拗に聞いて来ることは間違いない。恐らく際限なく聞いて来るだろう。それが面倒なのだ。宗次郎の全財産を掌握するまで、聞いて来るだろう。
「明日は、どこか静かなところで、ゆっくり休みたいと思っただけだ」
「何だ。くだらない、そんなこと・・・」
 お涼とお芯は馬鹿にしたように笑った。本当のことは言えない。思いつきを言っただけのことだが、3人から一斉に馬鹿にされた。
 食事を十分堪能して、暫くしてから宗次郎は、
「そろそろ引き上げるか」と言った。
「そうね。今日は大変美味しかったし、楽しかった。またお願いしまーす」
 皆が口を揃えて言った。
 宗次郎は海の方向の空を見上げた。秋の陽は沈むと早い。陽が沈めば、偉い人たちが、客としてたくさん見える。遭遇したくなかった。二階から中庭を通り、代金を支払い帰るつもりであった。 
 三人の娘達は、宗次郎の後に続き、楽しそうに話しながら、階段を降りた。そして満足だったことをお互い話していた。
 中庭の石畳を渡っていると、5人の立派な武士がこちらに向かってきた。旗本らしい。娘達に道を開けるように目で指示した。その侍達はこちらに関心なさそうに、喋りながら通り過ぎて行く。その時、最後尾を歩いていた、目つきの良くない武士が、急に立ち止まった。その男は、最近まで浪人をしていたのではないかと思われる無精髭が印象的だった。その武士が、お涼の前で立ち止まって、
「こんなところで会うとは・・・」と声を掛けた。
「ああ・・・!」
 お涼も驚いている。まずい人間とあったと言う表情がありありと出ていた。
「暫くぶりだな、お涼・・・・」
「その節は・・・」
 お涼は曖昧に頭を下げた。お芯もお扇も驚いている。宗次郎は何だろうと不思議に思って、その武士の顔を見たが、初めて見る顔だ。
「そなたのことはずっと探していた。江戸にはもういないと聞いていたが、やはり江戸にいたのか」
「・・・・・!」
 お涼は一人立ち止まって身を固くしている。
「弟が世話になった。その礼は必ずさせてもらう」
「弟さんのことは、気の毒に思います。でも・・・」
 私のせいではないと言いたかった。
「弟はそなたを恨んで死んだ。俺は必ず敵は打つと約束した。今日は仕事中だ。見逃してやる。いずれ改めて・・・・」
「弟さんの死と、私は関係ありません」
「純粋にそなたを想っていた。その純な気持ちを、そなたは踏みにじった。許せん。しかし今日のところは見逃してやる」
 旗本らしい侍から、
「角井!どうした?」と声が掛り、その侍は、慌てるようにお涼の前を足早に通り過ぎた。お涼は固まっている。その武士の後ろ姿を目で追いながら、宗次郎は、
「なんだ・・・?」とお涼に訊ねた。
 宗次郎は危険な雰囲気がする二人の会話に、神経を尖らせていた。お芯もお扇も今楽しかった食事のことが、一気に頭から引いた。何かある。皆はそう思った。お涼の顔色は打って変って真っ青になっていた。そして、
「後で説明致します」とお涼は深刻な顔で答えた。
 お涼だけがすっかり冷え切った顔になっていた。会ってはならない人間と出会ってしまった。そんな表情がありありと出ていた。
 料理屋を出からも、お涼だけは暫く沈黙が続いた。
 やがてお涼が意を決したように話し出した。
「三年前のことでした・・・」
 宗次郎とお芯、それにお扇は耳を傾けた。
 三年前と言えば、お涼が菊園に来た頃だ。
「当時、薄汚れた妙な若い浪人に、まとわりつかれておりました」
「・・・・?」
「そう言うのって、気持ち悪いわよね」お扇が口を挟んだ。
「その若い浪人さんから、付き合ってくれだの、兄を紹介するだの、嫁になって欲しいなどと言われるようになりました。でもその時私は15歳でした。男女の機微などわからない年頃でした。ただ気持ちが悪くて・・・」
「その男、お涼のことが好きだったのか・・・」
 宗次郎はぽつりと言った。
「桜祭りの日、沢山の花見の見物客が出ておりました。若い御武家様も沢山おり、何となく侍達の溜まり場、町人たちのたまり場に分かれておりました。その時少し酒を飲んでいたその若い浪人が、いきなり好きだと言って、抱きついて来たのです」
「気持ち悪い」
 お扇とお芯が気持ち悪そうに身を縮めた。
「私はその時、父や母や兄や親戚の人達と桜の木の下で、花を愛でていていたのですが、突然好きだと抱きつかれたので、思わず悲鳴をあげてしまいました」
 よ志の屋での元気はどこへ・やら、お涼はかなり落ち込んでいる。重そうに話を続けた。「そうしたら、周りにいた若いお武家様達が、狼藉者、不埒者などと言って、その若い浪人さんの刀を取りあげるや否や、殴る蹴るの乱暴を働いたのです」
 お涼は思い出すのも辛そうに、考えながら話していた。他の二人も先ほどの元気が嘘のように深刻な顔になっていた。
「恐らくその若い浪人を襲った花見見物のお武家様達は、10人くらいはいたと思われます。やっと止める人がいて、乱暴は止まったのですが・・・・」
 そんな理由(わけ)があって、菊園に来たのかと、宗次郎は話を聴いて思った。
「それから10日ほどして、その若い浪人は死んだと知らされました。どうやら身体の中で骨が折れ、内臓に刺さっていたそうです。兄弟二人で生活していたようですが、浪人暮しで、医者にもろくに見せられず、亡くなったと聞きました」
「それは大変だった・・・・」
 宗次郎は慰めるように言った。
「勿論そのことで、何かお咎めがあった訳ではないのですが、その後亡くなった浪人の兄と名乗る武士が訪ねてきて、お涼を出せと父と揉めたのでございます」
「・・・・・・」
「今の男です。確か名前は角井又兵衛と言ったと思います。凄腕の浪人として、評判は高かったそうです」
「・・・・・・・・」
「角井又兵衛は、弟の敵は必ず打つ、と家の周りをうろつくようになりました」
 宗次郎とお芯、お扇は顔を見合わせたが、掛ける言葉がない。 
「ところが、その後花見をきっかけに、私を助けてくれた若いお武家様達の親から、正式に嫁に欲しいと言う方が何人も訪れまして、父や母は困り果てておりました。一方を立てれば、一方が立たずの状態で、娘はまだ若いからと断っていたのですが、私は恐怖と、若い浪人が死んだことで、心が痛み寝込んでしまいました」
「・・・・」
「父は、ほどほど困っておりました。嫁にと言う人の中には、父の上役筋の方もおられまして・・・」
「15歳では嫁として早すぎることはないが、難しい年頃だから・・・」
 宗次郎はあいの手を入れるように言った。
「世間では15歳で嫁に行く方もたくさんおりましたが、私はとても、その気にはなれませんでした。ひどく落ち込んでいたのです。嫁になどと浮かれた気分にはなれませんでした。父としても、どの縁談も、あちらを立てればこちらが立たずの状態で、困っておりました。そこで母が、母の実家である甲斐に娘を静養させるという名目で、菊園に預けたのです」
「それで師匠のところにおるのか。要するにお涼はモテモテだったと言うことだな」
「そんなことを言っている訳ではありません」
 お涼は怒って宗次郎を睨みつけた。その顔がぞくっとするほど奇麗だった。
「ですから、近所の人は、お涼は甲斐の国にいると思っています。でも甲斐の田舎に行くのも不安で、同じ江戸でも北と南で遠く離れた師匠のところに厄介になっていたのです」「それは気の毒に・・・」
 言ったものの、先ほどの男が、今後どう出てくるのか、気掛かりであった。終わった訳ではない。これから始まるのだ。宗次郎は思案した。
 もっとも、お涼のことも気になるが、宗次郎の立場としては、そんな悠長なことを言っている暇はないのである。何としても牢に繋がれた娘達を、期日までに助けなければならないのだ。二つの問題を抱えるのは辛い。そんなことを考えながら、先ほどまでの華やかさとは、打って変わって静かな帰宅となった。

 その頃、地下の座敷牢では、娘達が肩を寄せ合い、毎日泣いていた。不安なのだ。自分達がこれからどうなるのか。まったく見当もつかない。先の見えないことは恐怖でもあり、不安でもあるのだ。しかも自由は全く効かない。
「これから先どうなるのでしょうか?」
 一人の娘が、涙に頬を濡らしたまま、不安そうに言った。
「生きて帰れることはないと思います」
 別の娘が絶望的に答えた。
「まだ死にたくありません」
「死ぬより辛いことが、待っているかも知れません」
 一人の娘がきつい言葉を投げかけた。それでまた皆は声をあげて泣いた。
 誰の目にも涙が乾くことはなかった。もし言葉の通じない異国に売り飛ばされると知ったら、何人かは、舌を噛み切って死ぬかもしれない。しかし今の時点ではそこまでは知らなかった。 
 異国に連れて行かれると言うことを知らないとは、結果として幸いなのかも知れない。その時、小さな物音が聞えた。一瞬皆は怯えて、一斉に音の方向に目を凝らした。恐怖は暗さのせいもある。厠の利用のため夜は小さな蝋燭が灯っていたが、場所によっては真っ暗だ。昼間でも薄暗い。それが地下牢なのである。不衛生であることもこの上ない。皆は物音に恐怖心が募って、肩を寄せ合った。
 すると天井から、「しーっ」と言う男の声が聞えた。声を出すなと言う意味だと直ぐに分かった。すると天井板が外され、頭巾で顔を隠した男が、身軽に音も立てずに、ふわりと降りてきた。娘達は仰天したが、声は立てなかった。
 男は、娘達の前に飛び降りると、
「数日後には全員助ける。我々はある方に頼まれて、あんた方を助けることになった」
 佐吉である。佐吉も伊賀者である。それもかなり腕の良い忍びだった。
「助かるのですか?」
 一人の娘が、不安そうに訊ねた。
「助ける。だから、これからは我々の言うとおりにして欲しい。どんなことでも、言われた通りにしてくれ。そうしないと助けられない」
「どんなことでも致します」
 娘の一人がしっかりとした口調で言った。
「役人は血眼になってあんた方の消息を調べている。しかし残念ながら役人ではあんたらを助けられない」
「ご指示ください。どんなことでも致します」
 別の娘も、身を乗り出して男を眺めた。
「今日の話ではない。数日後に指示を出す。今外は深夜だ。心配で眠れないだろうが、必ず助けるから、これからは安心して眠ってくれ。どんな方法で助けるかは、決めていないが、体力は必要だ。睡眠不足は間違いの元になる」
「役人では見つけられないとのことですが、役人が見つけられないのにどうして・・・?」あなたは、どうしてここがわかったのかと聴いた。牢番は寝ているらしく、少しくらい
の物音では目を覚まさない。深夜なのである。
「この中の一人が、かどわかされた時、その後をつけて来た者がいる。そして大野屋に連れ込まれるところを確認した。最初は好奇心と言う奴だ」
「わかりました。助けて戴けるのなら、何でも致します」
 すると別の一人が、
「もし助けられなかったら、我々はこの先どうなるのでしょうか?」
 先行きの不安を確認した。
「遠い・遠い異国の地に売り飛ばされる。言葉は通じない。そんな異国で一生を過ごすことになる」
「えっ!異国に売り飛ばされるのですか」
 皆は恐怖で一斉に顔が引きつった。
「そうなれば、二度と再びこの国に戻ることはない。そしてこの国の人間とも、二度と再び会うことは出来ないだろう。勿論親とも、朋輩とも会うことはない。そんな異国の地で一生過ごすのは辛いだろう。だから我々が何としても助ける」
「もしそうなら、異国に売り飛ばされる前に、舌を噛み切って死にます」
 一人の娘が気丈に言った。佐吉はこの娘は使えると咄嗟に思った。
「異国に連れて行かれたら、死ぬよりも辛いかもしれない。だから何としてもその前に助ける。安心してくれ。我々の棟梁はすこぶる頭が良く、引き受けたことで失敗したことがない。だから安心してよろしい。数日中には必ず助ける」
「どんな指示でも受けます。なんなりとご指示ください」
 その気丈な娘が言った。この娘の頬には涙はなかった。強い性格の娘なのだろう。佐吉は頼もしいと思った。
「あの・・・。何でもしますが、例えば裸になるとか・・・」
 一人の娘が訊ねた。どこの娘だ。別の娘が何でもやると言ったので、何か勘違いしているらしい。そんな好色な話はしていない。佐吉はおかしくなって、おもわず噴き出しそうになったが、必死で笑いを堪えた。
「ところで、幕臣の水野様のご息女はどなたかな」
「私でございます。桔梗と申します」
 泣き腫らしていた娘の一人が答えた。
「桔梗殿か。俺は佐吉と言う。但しこの事件が解決して、無事皆さんが親元に戻れたら、その後は我々のことは忘れて欲しい」
 我々と言うのだから仲間は他にも沢山居るのだろうと娘達は想像した。
「助かった後は、江戸の町のどこかで会っても、お互い知らぬ振りをして欲しい」
「・・・・・?」
 言っている意味は理解できなかったが、皆は黙って頷いた。
「それではまた来る」
「こんどいつ来られるのですか?」
「救出方法が決まり次第、伝えに来る」
「・・・・・・・?」
 6人はいずれも心細そうな顔をして佐吉を見送った。佐吉は天井にふわりと飛び上がり、また天井裏から姿を消した。

 宗次郎は、一見やることがなさそうにのんびりしている風に見える。
「そんな状況ではないだろう」と、翔馬は食ってかかったが、別に気にした様子もなく、
「翔馬、何か助け出す方法は考えついたか?」 などと、呑気なことを言っていた。
 宗次郎は助け出す手順を考えていたのだが、傍から見ると、暇そうに見える。それで翔馬は一人苛々していた。
 やがて紋次達を集めた。他にも新たな者が加わっている。大野屋を徹底的に調べ上げるための増員だ。昼頃である。集められたのは、鳴海屋、紋次、佐吉、作蔵、その他の忍びが多数集められた。
 大野屋は今をときめく、江戸で最大の材木商であった。屋敷は近隣の土地を買い占め、武家屋敷とみまごうほどの大きさと、豪華さを誇っていた。雇った浪人とは別に、屋敷を警護する者も多数いた。
噂では大野屋は、日本各地に山を持ち、そこから安く材木を江戸に運び入れているのだと言う。陸路、船、河川から次々と江戸に材木を運び入れ、材木の仕入れも他の材木商より、安く仕入れているのだと言う。
 数年前から、突然の様に大きな材木商になった。御殿の様な広い屋敷に住み、最近では幕府の使命も受け、益々巨大になりつつある材木商であった。
 
数日後、鳴海屋の二階に、また同じ仲間達が集められた。
「紋次。大野屋が病気になった時はどうしている。おかかえの医師はいるのか?」
 集まった数人の前で、宗次郎は確認した。この数日間、徹底的に大野屋を調べ上げていたのだ。
「お抱えと言うより、大野屋の専属の医師がおります。名前は康庵と言います」
「榊田康庵か・・・」
「ご存知で・・」
「元は広く江戸庶民の医師であったが、そうか数年前から羽振りが良くなったのは、大野屋のお抱えになったのか」
「2年ほど前からです」
「そいつを縛り上げて、その代わりをわしがやる」
「はぁ・・・?」
 集まった皆は一斉に驚いた。どうやって、身代わりをやるのか、それが疑問であった。身代わりをやると言っても、康庵の顔は知られている。代わりなどやれる筈はない。それで紋次達は首を傾げた。
「佐吉。揃えたか」
 佐吉には、事前に宗次郎の計画を話した。
「必要な物を必要なだけ揃えました。顔料を入れて、数種類の色も出せます」
「溶かすのは・・・?」
「熱湯を容器に入れ、それで溶かします」
「実験はしたか」
「驚くほどうまくゆきました」
「明日決行する。翔馬、お主も手伝うか。但し刀は置いて行くが・・・」
「刀なし・・・かよ」
 翔馬は不満そうな顔をした。
「嫌なら別の者に頼む」
「刀がなくとも、イザとなれば、相手の刀を奪っても人は斬れる」
「人殺しはやらんと言っているだろう」
「もしもの場合だ」
 翔馬はむくれたように、頬を膨らませた。
「手伝うのだな」
 宗次郎の有無を言わさぬ指示に、翔馬は仕方なく頷いた。宗次郎から、身代わりになる計画は説明された。そして再度夕刻集まった。

「作蔵、指示した通り康庵を締めあげる。手配り良いか」
「万端整いました」
「書く物ものは・・・?」
「総て準備致しました」
「何人いる?」
「康庵の診療所には7人おりましたので、一応同じ数を整えました」
 宗次郎は頷いた。これで総ての準備は整った。

                  (5)

 材木商大野屋の奥屋敷では、浪人数人と番頭等総勢6人が集まっていた。手代の一人に、
「どうじゃ。娘達の様子は・・」と、大野屋は余裕で、顎をしゃくって確認した。
 大野屋は50歳がらみの貫録のある男であった。江戸の建築機材を一手に引き受ける材木商で、今では豪商と言われている。地方に山林を所有して、多数の木材を江戸まで運び入れていると噂されている。大きな建物を立てる時は、必ず大野屋の世話になると言われているほどの巨大な材木商である。
「娘達は、毎日泣いておりましたが、ここのところ諦めたらしく大人しくなっております」
「諦めか。いいことだ。人間諦めが大事じゃ。皆元気で何よりじゃ」
「この状況では、陽気と言う訳には行きません。大人しいと言うか、元気がないと言うか。皆黙っております。後で確かめに行って参ります」
「シャムの船が着たら知らせよ。遠い異国からの船は、予定通りには到着せぬものだ。いつ着いても対応できるように、準備しておけ」
 番頭らしき男に言った。
「見張りの船が出ております。シャムの船が現れれば、知らせることになっております。幕府の見張りがうるさいので、夜を中心に、明かりをつけて、航行しています。見張りの船は、遠くに停泊しておりますので、我が国の漁船などに見つけられることもないと思います。それに見張りの船は、江戸からは出港しておりませんので、幕府に知られることもないと思われます」
「娘達に自害されぬように良く見張れ」
「わかりました。見張りにはよく言いつけてあります」
「それと、町奉行の動きはどうじゃ?」
「相変わらず、動きは鈍く、こちらに届くことはないと思われます」
「そうか。動きは鈍いか」
「最近。抜け荷の噂のある商人が、奉行所の取り調べを受けておるようにございます。どこから得た情報かわかりませんが、抜け荷の疑いのある商人に目星をつけたようにございます」
「目の付けどころは悪くはないな」
 大野屋は余裕で笑った。
「しかし、この大野屋様に抜け荷の疑いなど掛っておりませんので、ご安心してよろしいのではないかと・・・」
 そんな会話をしている時、一人の男が転がるように入って来た。
「どうした?」
 その男を見て、大野屋は不審そうな顔をした。
「旦那様大変でございます」
 周りにいた者もただ事ではないと、騒ぎに驚いている。
「どうした。何を慌てている?」
 番頭が男を叱るように言った。
「娘達が・・」
 その言葉に、浪人が反射的に立ち上がった。
「娘達がどうした?逃げたのか・・・」
 大野屋も男の慌て方がただ事ではないので、眉を潜めて男を見た。
「娘達が、皆苦しがって、今にも死にそうです」
「なんだそれは・・?」
 その言葉に浪人達は顔を見合わせた。牢破りかと思ったのだがそうではないらしい。
「顔が腫れあがり、手足が水膨れの様になり、顔はまるで化け物の様です」
「化け物・・・?」
 大野屋も信じられない顔をした。
「腫れあがったり、腐り落ちたり、しかも地下牢は獣の腐ったような臭いで、息もしていられません。何かの病でしょうか」
「病・・・・?」
「とても売り物にはなりません」
 浪人達や番頭も牢に向かおうとしたが、敵が襲ってきた訳ではない。牢に向かってもやることはない。それでどうしたものかと大野屋の顔を見た。
「それは、病なのか?」
 大野屋は男に確認した。
「そうとしか思えません。ある者は顔が紫色に腫れあがり、ある者は喉が赤くただれております」
 男は必死に説明をしている。
「いつからそうなった?」
「昨日の朝は特に異常は有りませんでしたが、今朝見た時には全員荒い息をしており、後ろ向きに寝ておりましたので気が付きませんでした。あの時からなっていたのかも知れません。兎に角今は鼻が曲がるほどの悪臭が漂っています」
「誰か一人連れてきなさい」
「連れて来てよろしいのですか?」
「医師に診せる。連れてくる以外に方法は有るまい。まさか地下牢に康安を案内して、診させる訳にもゆくまい」
 娘をかどわかしていることは、医者の康安には内緒だ。
「わかりました」
「康庵に診させる。誰か康庵を呼びに行かせなさい」
 大野屋の指示に何人かが慌てて部屋を出た。暫くして、娘が一人連れて来られた。その様子を見て、皆はのけぞるほど驚いた。顔がまるで化け物のように変形している。額は紫色に腫れあがり、目は半分ただれたようにふさがり、鼻には赤く膿んだように、押しつぶされ、唇は黒くめくれている。顔半分は完全にただれている。喉も腫れたところが半分腐りかけたように、そげている。とにかくその悪臭が凄い。
 男が一人、慌てて布団を取りに行き、娘のために布団を敷いた。
 大野屋も流石に息がとまるほど、驚いていた。娘は布団に寝かされた。話しかけても声にならないほど、苦しそうにもがいている。
「これはまずいな」
 流石に大野屋も顔を曇らせて、思案顔をしていた。これでは船が入っても、売り物にならない。大野屋も部屋にいる者達も、医術に詳しくない。何の病か、まったく見当が付かない。途方に暮れた状態になっていた。
 浪人達も臭いから、逃げるように遠くに離れた。臭いを少しでも軽減するため、障子と襖は総て開け放たれた。

 半時ほどして、手代が戻ったが、手ぶらであった。半時とは今の1時間程度である。
「康庵はどうした。何故連れて来ない」
 大野屋は我慢しきれず手代を怒鳴りつけた。
「康庵様は、高熱に犯され、身動きが取れないと言うことです」
「担いででも連れて来い。よい。わしが行く」
 大野屋は使いの者を怒鳴りつけてから、不機嫌に立ち上がった。あれほど面倒を見ているのに役立たずめが。心の中でそう叫んだ。お付きの者、浪人数人が大野屋の後に従った。 
 そして庵に着くと、いきなり大声で、
「康庵はどうした!大野屋が参った」
 そう叫びながら、つかつかと部屋に入ろうとすると、誰かが袴を引いて止めた。
「大野屋様。康庵様の処に行ってはなりません」
「何!何故じゃ・・・?」
 大野屋は立ち止まり、袴の袖を引いた男を睨みつけた。
「康庵様の病は、流行り病で人にうつります」
「何!うつる・・・?」
「今、浪速や筑前の方で大流行の、痛い・痛い病でございます。この襖を開けて次の間に入った途端、病は大野屋様にもうつってしまいます」
 大野屋文兵衛は、病がうつると言われて、急に臆して足が止まった。
「次の間に行かれたら、たちどころに大野屋様は病気に罹ってしまいます。それでも行かれますか?」
「ここなら大丈夫なのか?」
「ここなら取り敢えず、大丈夫だと思います」
「思う・・・?」
 その間にも痛い・痛いと康庵の声が聞こえる。すでにここでも数人がうつって、別の場所に隔離致しました」
 そう言いながら、大野屋を止めた男は襖に向かい、襖の向こうにいるであろう康庵に声を掛けた。
「大野屋様が直接お見えになりました」
 襖の向こうに聞こえるように大きな声を張り上げた。その間も康庵は、痛い・痛いを連発している。そして、康庵の声で、
「大野屋様が来られても、わしは行けぬ」と苦しそうな返事が戻って来た。
 大野屋の袴を引いた男は、
「如何なさいますか」
 と大野屋に確認してから、襖の向こうにも、
「康庵様、これから、どうしたらよろしいので・・・」と声を掛けた。
 その間も康庵の声で、痛い・痛いが連発されている。その康安が、
「わしの弟分として、何でも言うことを聞く医者がいる」
 大野屋は眉を潜めながら、叫んでいる康庵の声を黙って聞いていた。間違いなく康安の特徴ある声だ。
「その医者をわしの代わりに行かせなさい・・・」
 そしてまた痛い痛いと叫んでいる。
「その医師は、宗達と言う。わしにも劣らぬ名医じゃ。その医師を代わりに行かせなさい」康安は今にも死にそうなくらい悲痛を挙げている。
 襖の向こうでは、裸で褌一丁の康庵が縛りあげられ、畳針で身体中の至る所を突(つつ)
かれている。突(つつ)いているのは、宗次郎の仲間二人である。その仲間は一人が畳
針で康安の身体を突き、もう一人が、大きな紙に書いた文字を、康庵の前に一枚一枚掲げ読ませている。一枚一枚大声で読む様に脅されているのだ。従わなければこの場で殺すと書いてある。
「大野屋様。如何なさいますか?」
 袴を引いて止めた男が言った。その男は、診療所の人間になり切っているが、作蔵であった。無精髭をつけている。
「その宗達と言う医師は?」
 どこにいるのかと、大野屋は確認した。
「ただいま呼びに行かせておりますので、おっつけ来ることでしょう」
 そう言っている間に、玄関の方で、音が聞えた。そして一人の男が案内されてきた。
「宗達様。こちらにおられるのが大野屋様です」
 と宗達と大野屋を引き合わせた。宗達と言う医師は、顔じゅう髭だらけで、人相すら良くわからない男であった。つけ髭をつけた仕事屋宗次郎である。
 宗達と言う医師は、
「噂はかねがね窺っております。ぜひともこれを期に御贔屓にしていただきたいもの・・」と大野屋に慇懃に頭を下げた。
 隣の部屋からは康安が、
「大野屋様。その男は信用できます。何でも言いつけて下さい」
 痛い痛いと叫びながら、康安が途切れ途切れに言った。うつる病でなければ、大野屋は襖を開けているところだったが、病がうつると言われては、おいそれと開けられない。
「そなたが宗達か・・」
 大野屋は、宗次郎に向かって、上から見下ろす様に言った。
「はい。宗達にございます」
「病が発生した。何の病か不明だ。来てくれぬか」
「伺います。どんな症状で・・」
「顔がただれ、各所が水膨れのように腫れあがっておる。なにしろ臭いがきつい」
「わかりました。直ぐ仕度をしてまいりましょう」
 そう言って宗達は薬の入った箱を大事そうに抱え、大野屋の後に従った。
「康庵は大丈夫なのか?」
 大野屋は、ついでに康庵のことも心配した。
「さあ。運が悪かったのでしょう。直す薬がありません。うつったら最後、毎日痛い痛いとうなされ、高熱が出て、10日もすれば、治るか死に至ります」
 医者の宗達こと、宗次郎は無責任に言った。
「わしにうつる心配はないか・・・?」
 大野屋はそのことが気掛かりだった。
「恐らく大丈夫でしょう。うつっていれば、もうどこかが痛くなる筈です。見掛けたところ、どこも痛くなさそうなので・・・」
「別にどこも痛くはない」
「それなら、ご安心ください。うつってはいません。襖を開けたら、間違いなくうつっていましたが、襖を開けなくて良かったです」
 宗次郎こと宗達は、いい加減なことを答えた。
「康庵の病は、治せないのか」
「取り敢えず、薬は与えております。しかし薬で、直ぐに治ると言う訳のものでもありません。掛ったら最後運が悪かったと思うしかございません」
 宗達にとって、医者の康安のことなどどうでも良い。娘達を助ける以外のことは頭にない。それで大野屋の言葉はいい加減に受け流した。
「わしには、なぜうつらん?」
 大野屋はまだ心配そうに医者の宗達を見た。
「空気感染です。襖で空気が遮断されておりますので、よほどのことがない限り安心です。それに、大野屋様は健康でいらっしゃる」
「・・・・・・」
「健康な方は、病気に掛りにくいのです。一方不健康な状態では、僅かな病原菌でも、病になってしまいます。特に不衛生な場所では、いろいろな病原菌が蔓延致しております」
 これは、地下牢に繋がれた娘達の病気発症のことを暗に言っていた。既に娘奪還の前哨戦は、始まっていた。
 宗達は、終止根拠のないことを無責任に言っていた。若い見習いの男が付いていた。翔馬である。町人の恰好をしているが、紛れもなく翔馬の変装である。
 大野屋は5人ずれである。大野屋の連れも納得したように頷いていた。7人は急ぎ足で大野屋に向かっていた。  
 大野屋に入ると部屋に案内された。宗達こと宗次郎は、早速布団に寝かされている娘を見て、そのすざましい顔に、流石の宗次郎ものぞけるほど驚いた。何もここまで顔を崩さなくても・・、「佐吉・め・・」そう思った。
 何の匂いか、悪臭が部屋中に充満している。宗達こと宗次郎は驚いた振りをしてから、大野屋の者に、
「布団をかぶせておけ」と命じた。
 とても見られた顔ではない。ここまでやらなくても良いのにと、佐吉を恨んだ。そして、
「やはり・・・」
 納得したように頷いた。その様子に大野屋は、
「病名は分かるのか?」と身を乗り出した。
「勿論わかります。これは腐れ病です。専門用語ではライ病と申します」
「腐れ病?」
「この病に掛ったら、残念ながら治すことはできません」
 ちなみに、これから話す宗次郎の話は、総て出鱈目である。翔馬が聞いていたら口から出まかせと非難するだろうが、翔馬は別の間で待つ様に指示されていた。
 翔馬は刀がないので心細かったが、それでも宗次郎に危険が迫れば、相手の刀を奪ってでも、宗次郎を助けるつもりでいる。
 この時代、ライ病ことは、あまり一般的には知られておらず、詳しい情報はなかった。現在なら学校などでも正しい知識を教えるが、当時はそうした教育の場もなく、あったとしても正しい知識を教える者などいなかった。しかし恐ろしい病気であることは、噂程度には、誰もが一度や二度は聞いていたが、正確な知識は教えられず、恐怖心を煽るだけの噂であった。
 戦国時代の武将、大谷良継等も、この病気と言われているが、宗次郎が説明するほど感染力は強くない。
「康庵の病は10日もすれば治る可能性もあります。しかしこの病は発病したら、まったく治せません。この者に触れた者も、いずれは発病致しましょう」
 その言葉に、大野屋の者達は、浪人も含め、皆顔を見合わせた。うつると言う言葉が、皆の恐怖心を煽った。
 宗達は落ち着き払って、水を一杯くれと大野屋の手の者に言った。水が届くと、宗達は小さな紙包みを広げ、わざとらしく薬を飲んだ。部屋にいた者は何事かと、一様に心配そうな顔をして、宗達の髭面を眺めていた。宗達は、髭を撫でながら、
「この病は、掛ったら最後、治すことは不可能です。しかも感染力が強く、人にうつるため、この病に掛った者は、人里離れた山奥に隔離しております。生きたまま腐って行くのです」
 勿論口から出まかせである。
「隔離・・・?」
「この病は、全国の至る所、どこにでもあります。江戸でも発生していますが、うつるのを防ぐために、山奥に連れて行き、一般の者とは完全に切り離した状態で生活をさせます。しかしそのことがあまり知られていないのは、発病した家族が、一様にひた隠しにするからです」
「どの程度にうつるのじゃ」
 大野屋は急に心配になった。場合によっては自分にもうつる。もううつっているのかもしれない。何よりも、今までの生活が出来なくなると言うことが、恐怖だった。病に掛ったら最後、治せないと言うのも皆の恐怖心を煽りたてた。
「ここにいる皆さんは既に全員うつっております。家族や使用人など、総ての方にうつっていると考えた方がよろしいでしょう」
「なに!」
 大野屋他皆も驚いている。
「この病は、生きたまま腐って行きます。死ぬまで腐って行きます。症状がおさまったとしても、顔や手足は、元には戻りません」
 ここで落ち着いている宗達の言い分に、部屋にいた者は全員驚愕し、宗達に食ってかかった。
「待て、皆にうつっているとはどういうことじゃ!」
 浪人の一人が宗達の胸倉を掴みかからんばかりに、近寄って来た。
「一月もたてば、皆さまも発病致します。そして皆さまも同じように生きたまま腐ってゆきます。残念ながら治すことはできません」
「ふざけるな!我々はどうなるのじゃ。何とかならないのか」
 大野屋も他の者も全員慌てている。
「ご安心ください。今私が飲んだ薬は、発病を防ぐための薬です。発病するには一月ほど掛ります。その間にこの薬を飲めば、何も起こりません。しかしこの薬は残念ながら、6服しかありません。一服私が飲んだので、残りは5服ございます」
 勿論出鱈目である。らい病についての講釈は、根拠のない口から出まかせであるが、医学の知識に乏しい当時の時代では、医者の言うことは絶対である。それに生きたまま腐って行くと言う病については、誰もが一度は聞いたことが有るような気がする。恐らく子供の頃に聞いたのであろう。それだけに恐怖は倍加した。
 当時としては、医者がそう言えば信じるしかない。宗達の知識は若干の知識を元に出鱈目を言っている。しかしそのことを疑う者は一人もいない。現実にここに寝ている娘の姿は見れば、見るに堪えられないほどひどい状態になっている。しかもひどい悪臭である。いずれにしても、過去の経験の中で、見たことのない症状である。
 しかもそんな病があることは、噂程度には知っているからなおさら怖いのだ。僅かな知識があるばかりに、かえって恐怖心を煽る。医師の言うことを信じるしかない。
「但し、健康体の人なら発病までに一カ月以上は掛りますが、不衛生な場所で、しかも体力が落ちていますと、10日程度でも発病することはございます。ここにおられる方々は健康そうなので、症状が出てくるのは、一カ月ほど後になるでしょう」
「一ヶ月後には、我々もこの娘と同じになると言うことか!」
 部屋にいた一人の浪人が、大声で怒鳴った。こんな所で、怒鳴っても仕方がないのだが、怒鳴ったのは恐怖のせいだろう。
 一ヶ月後の発病を、稀に10日程度でも発病することがあると説明したのは、娘達をかどわかした時期と、発病の矛盾を突かれないように、注釈を入れたのである。
「この残った薬は、大野屋さんにお渡しいたします」
 大野屋はありがたそうに薬を受け取った。周りの者は、部屋にいた者の数をつぶさに計算した。大野屋には家族もいる。5服の薬をどうするのか。皆は一斉に薬の行方(ゆくえ)に関心が高まった。
「この薬をどうするかは、大野屋さんにお任せ致します。家族に飲ませるか、ここにおられる方々に飲ませるか、私が選択する訳には参りませんので、大野屋様にお任せ致します」
「この病はうつると言うが、どのようにしてうつるのだ?」
 先ほど康安の病は空気感染だと聞いた。それでこの病の感染経路を確認した。大野屋は薬を貰い少し安心したのか、比較的冷静になっていた。
 浪人も脇から熱心に耳を傾けている。切実な問題である。武士は切腹と言う作法があって、命を失うことの恐怖心はあまりない。しかし生きたまま腐ってゆくと言うのは、耐えがたい恐怖であった。
「うつる方法は二通りあります。直接感染と間接感染でございます」
 薬を飲んでいる宗達は落ち着いている。
「それは何だ・・・?」
 内容について早く、分かり易く説明しろと浪人は迫った。
「まずはこの娘に直接触れた者は、間違いなく感染しております。これが直接感染でございます。つまりこの娘に触れた者は、漏れなく感染致します」
 そこで宗達は一息入れた。相手が苛立つほど落ち着いている。
「それで・・・?」
 間接感染とは?と大野屋は迫った。大野屋は薬を受け取っているので、他のものよりは幾分余裕があった。
「次は、この娘が、触れた総の物に、菌は付着しております。従ってこの娘が触れた物に、触った者も、全員感染していると考えて良いでしょう。これが間接感染でございます」
「この娘が、この部屋までに来る間に触れた総ての物に感染していると申すのか・・・・?」「そう言うことです。この娘が触れた物に触ったとしたら、全員感染致します。例えば廊下を歩いてきました。その足跡の上を歩いただけで総て感染しております」
 嘘である。しかし娘の恐ろしい形相を見ていると、信じるしかない。娘は頭から布団かぶせられ、若干苦しそうである。時折、布団を持ち上げ空気を入れ替えている様な動きがあったが、誰もそんな事には気が付かない。醜い娘と同じような病気になる。それだけで、生きた心地がしなかった。
 娘を連れて来た手代に、皆の視線が走った。どんな経路でここまで来たのかを考えている。
「その他にも、例えば娘が食事をした茶碗に触れた者も全員感染しております」
 皆は顔を見合わせて、恐怖のために顔が引きつっていた。ここにいる醜くなった娘と同じになるのだと思うと背筋が寒くなった。しかも治ることはないと言うのだ。これほどの恐怖はない。
「食べた茶碗を洗い。その水で他の茶碗を洗えば、これも感染致します。つまり娘が触った物すべてに菌は付着しております。この布団も触れば感染致します。康庵の病は空気感染です。しかし腐れ病は、空気では感染致しませんが、直接・間接に触れた者は総てうつります。従って、大野屋さんにいる者は総て感染していると考えた方がよろしいのでは・・・」
「地下の座敷牢にいたのだぞ」番頭らしき男が言った。
「食事をするでしょう。その食器、箸、すべて感染します。厠のおぶつも、その後どうしたかによっては感染致します。だからこの病が発生すると、患者は遠くの人里離れた山奥などに急いで隔離するのです」
 皆は恐怖のあまり、目が点のように凍りついていた。
「この病は各地に有ります。各地で、人里離れた山奥に隔離しております。皆さまも発病すれば隔離されることになります。永遠に治ることはございません。ですから二度と再び、江戸に舞い戻ることは有りません。親兄弟と言えども、再び会うことは叶いません」
「発病前に治せばよいのだな」
 大野屋が落ち着き払って言った。
「その通りでございます。発病前にその薬を飲めば、発病は致しません」
 その言葉を聞くや否や、一人の浪人が立ち上がり、
「大野屋!その薬どうするのだ。大野屋の勝手にはさせぬぞ」
 その浪人が刀の柄に手を掛け立ち上がった。
「落ち着きなさい。そなた様には一服お渡し致します。しかし数に限りがあります。その後の薬の分配はこの大野屋にお任せ下さい」
 この浪人は一番腕の立つと言われている男である。浪人達のまとめ役でもある。この男を味方につければ、当面の混乱は避けられる。それが大野屋の読みであった。
「その薬は他にはないのか?」
 別の浪人が宗達に声を荒げた。
「極めてまれな病です。薬はそう沢山はございません。薬は商売のために作っておりますが、発病例が少ない病気のために、薬を作っても殆ど売れません。売れない薬をたくさん作っても意味がございません」
「では、この薬は他に無いと言うのか・・・」
「江戸の医師、薬師と言えども、この薬は有りますまい。いや全国を飛び回っても、大野屋さんの屋敷におられる方々全員を満たすだけの薬は存在しないでしょう」
「どうするのだ?」
 皆は一斉に不安そうな顔をして髭だらけの宗達を見た。5服の薬では到底足りない。
「ご安心ください。先ほど、一ヶ月後に発病すると説明致しましたが、その一か月以内にこの薬を調合すれば、間に合います」
 調合とは材料から薬を作ると言う意味である。
「薬は作れると申すのか・・・」
「私なら作れます。但し思いの他、金が掛ります」
「どういうことだ?」
「この薬を作るには、材料が必要です。この薬の材料は、全国の野山、谷や川などに出掛け、百種類以上の薬草、木の根、草の根などを探し、それを天日にさらし、粉末にして薬に調合しなければなりません」
 言いながら宗達は、皆の顔を見た。信じているかどうかを見定めるためである。一人でも疑っていると、この話はうまく行かない。皆の顔には恐怖心があった。疑っているものなど一人もいない。自分が病に移ったと言われると、疑う余裕など無いのだ。それより早く、この病から解放されたい。その一心で宗達の言葉を待っている。それを見て宗達は、安心したように話を続けた。
「その為には沢山の人を全国に走らせなければなりません。ただで薬草を摘んで来いと言っても誰もやりません」
「確かに・・・」
 大野屋は唇を噛んだ。
「それでどのくらいの金が掛る」
「ざっと見積もって、千両は掛ります」
「千両・・・・?」
「いいですか大野屋さん。100種類近い薬草を集めるのです。近場に有る訳ではございません。全国を飛びまわらなければなりません。一人で出来る仕事でもございません。
100人以上の人間が、明日から全国に向けて出発するのです。途中一人が倒れたからと言って、一種類の薬草が調達できず、薬の調合できませんでしたでは、ここにおられる方々は全員発病してしまいます。従って、二人・三人が一組になって出掛けます」
「・・・・・」
「しかも切り立った崖や危険な場所もあります。そうしたところに行く場合は、数人が行くことになります。崖から転落したから、薬は作れませんでしたと言う訳にも行かないでしょう。そのような危険な場所には、一か所に5・6人が出向きます。それらの者は、野宿と言う訳には参りません。旅籠に泊まり旅をするのです。金が掛ります」
 皆は宗達の話を熱心に聞いていた。詐欺に掛るのは、こんな心理である。宗次郎がもし詐欺師になったら、天下一品の詐欺師になるだろう。命に関わる病気と聞けば、誰もが信じる。しかも掛ったら最後、治すことは出来ないと知ればなおさら恐怖は募る。しかも現に、ここに寝ている娘が病にかかり、生きたまま腐って行く醜い姿を見せられたら、何としても病から抜けだしたい。藁をもすがる気持ちで聞いているのだ。
命を失うより恐怖である。娘の醜い姿と悪臭を嗅がされては、誰もなりたいと思う人間はいない。目の前にその恐怖の対象物が横たわっているのだ。想像しただけでも、背筋が寒くなる。
 娘は、頭から布団をかぶせられ、息が苦しいのか、時折もがいている。それが病により苦しがっていると、誰もが思っている。娘は言葉にはならない苦しそうな声を出している。演技としては、素晴らしいと宗次郎も感心していた。
「今から20日後には、総ての薬草や木の根などを揃えなければなりません。それから天日に晒し、干したり、煮たりするのです。期限がございます。いわば、数百人が全国に飛び立ちます。しかも割の良い仕事だからやるのであって、割の悪い仕事なら、誰もやりません。そう考えますと、どうやっても千両は掛ります。結果千両掛らなければ、残りは大野屋さんにお返し致します。千両以上掛ったとしても、追加をよこせとは言いません。宗達が負担致します。千両が無理でしたら、薬の調合は諦めて下さい」
「諦めろ・だと、ふざけるな」
 浪人が鞘の先を畳にドンと思い切り叩きつけて、いきり立って、立ち上がった。
「こんな病になったら、死んだも同然ではないか。死ぬよりひどい状態になる。こうなれば、大野屋を斬ってでもその薬は戴く」
「まあまあ。待ちなさい。千両掛っても仕方ないでしょう。薬はすぐ作りなさい。宗達殿、薬は間違いなく出来るのだな」
「千両そろい次第手を打ちます。薬は間違いなく作って見せます」
 宗次郎は自信ありげに言った。嘘の話だから、間違いも糞もない。
「千両の金は、帰るまでに用意する。それでこの薬を飲めば一生この病には掛らんのだな」
 5袋の薬の包みを一つかざして大野屋は言った。
「いいえ。そんなことはありません。この娘達から感染しての発病は防げます。しかし病が潜伏しており、数ヵ月後に誰かが発病したら、その時はまた薬を飲まなければなりません。もっとも薬がある限り、うつっても一月以内に薬を飲めば発病することはございません」
「そうだとしたら、千両惜しさに薬を作らなかったら、いつ発病するか分からないではないか・・・」
「そうなります。しかし薬があれば、仮に誰かが発病しても、一か月以内に薬を飲めば、病に掛ることはございませんので・・・」
 薬の必要性を説いた。
「わかった。しかしなぜこのような病が発生したのだ」
「一般的には、暗くじめじめした地下などで長く生活をし、しかも体力が落ちていますと、不衛生な場所では腐れ病が発生いたします」
 もっともらしい嘘である。皆は地下牢が不味かったと言う様な顔をした。

                  (6)

「この病はかかったら治ることはございませんが、進行を遅らせることは可能です」
 既に病に掛っている娘達の今後のことを言った。
「進行を遅らせても、治ることはないのだな」
 大野屋は未練ありそうに宗達に訊ねた。
「残念ながら・・・」
「治らないのなら、進行を遅らせても意味はない。同じ事だ・・」
 進行を遅らせようが、遅らせまいと、娘達が売り物にはならないことでは、同じなのだ。
大野屋はそう言いたいのだろう。
「進行を遅らせるには、お天道様の光を浴びれば、進行は遅らせることは出来ますが、逆にお天道様の光を浴びずに生活していますと、この様な病になり、また病の進行を早めます」
 宗達の口から出まかせであるが、不潔な地下牢のことを案に指摘した。言われれば、説得力は十分ある。
「問題は、この娘達の処分をどうするかだ・・・」
 もはや完全に売り物にはならない。今から別の娘を調達しても間に合わない。そんなことより、この娘達をどうするか、それが大野屋に取っての最重要課題となった。
「娘達と申しますと、この他にもいるのですか?」
 宗達はとぼけて聴いた。一人ではないのか、と言うように、一瞬驚いて見せた。
「この他にも娘は5人いる。全部で6人だ」
「なるほどそう言うことですか」
「医師として、この病の場合どうするのだ」
 大野屋は宗達に医者としての処置を聞いた。
「通常は幕府・・・。いや奉行所に届けます。幕府内では数は少ないのですが、この病気が出た場合の対処方法を知っている者がおります」
「幕府や、奉行所はまずい」
「そうですか。それは失礼いたしました」
「殺すしかないな」
 大野屋は娘を異国に売り渡すことを諦めてそう言った。
「そうですな。殺すしかないでしょう」
 宗達のその言葉に、布団の中で苦しそうにもがいていた娘がぴくりと反応した。刺激の強い言葉であったと、宗次郎は反省した。
「問題はどうやって殺すかです。首を絞めて殺しますか。首を絞めた場合は、間違いなく締めた者が発病します。運悪く薬が間に合わなければ、その締めた方は、一ヶ月後には自らも腐って行きます。気持ちが悪いでしょう」
 首を絞めて殺すことの不具合を言った。
「斬るのはどうか?」
「斬った場合は、その刀は二度と触れることはできません。それでも宜しければ・・・」斬ると聞いて浪人達の顔を見たが、浪人達は皆尻ごみをしている。
 斬って血飛沫(ちしぶき)があがれば、その血に触れた者もやがては腐ってゆくと言うのである。それが例え、地面に落ちたとしても、その地面から菌は繁殖すると言うのである。勿論脅しである。
「ですから、この娘を斬るにしても、どこか遠くへ連れて行ってから斬らねばなりません。この近くで斬って、血飛沫が飛び散った辺りは近寄れません。間違いなく腐れ病になるでしょう。どこか遠くへ運びますか」
 宗達は勝ち誇ったように言った。そして、
「問題は運ぶ場合でも誰かが、運ばなければなりません。6人を運ぶとなると容易なことではありません。運び手が居ないでしょう。それに運んだ先で誰が斬るかです」
 言いながら、宗達は浪人達の顔を見た。
「こんな気持ちの悪い娘達を斬るのは御免だ」
 浪人の一人が声を荒げて言った。なにしろ斬った刀もその後は使い物にならない。
「薬が今ここにあって、発病しないとなれば、斬ることもやぶさかではないが、薬が間に合うかどうかもわからない段階で、自分の刀では斬れない。それに斬った後、どうするのだ?誰が運ぶ」
 薬を貰う確約の出来た浪人が、それでも嫌だと言った。
「食事に毒を仕込むのはどうか?」
 大野屋は考えながら言った。
「ここに寝ている娘は喉をやられて、喋ることはできません。しかし耳は聞こえております。食事に毒が仕込んであることは分かったら、これから食事は一切口にはしないでしょう。他の娘達にも、そのことを何らかの方法で伝えるでしょう」
「我々の会話がわかっているのか?」
「会話全部ではございませんが、所々は聞えているでしょう。特に殺すなどと言う刺激の強い言葉は、聞えていると思われます」
「・・・・・」
 どうするのか、大野屋は必死に考えていた。この打ち合わせの間、この娘をどこかに移動させたいが、この娘と触れるのも危険だ。運び出すこともできない。運び出せるのは、薬を飲んだ者だけである。それを考えると、大野屋も、誰かに運び出せとは言えなかった。
「餓死するのを待つしかありませんが、餓死させるには、10日から20日くらいかかります。それまで娘達をここに置きますか」
 匂いだけでも閉口している。それを10日も生かしておくのはきつい筈だ。それで宗達はわざとそんな言い方をした。
「いや。直ぐ処分したい」
「そうでしょう。一日も早く処分すべきです。それともう一つの問題は、殺した後、どうやって運ぶかです。そこまで考えなければなりません。死体と言えども触れば確実に感染致します。どうやって運び出し、どこへ捨てるかです」
「・・・・・・」
 大野屋もこの部屋にいる者達も必死で考えているが、答えは出てこない。
「死体を大野屋さんの広い庭のどこかに埋めたとしても、数年後には菌が地上に出てきます。そうなりますと、数年後には大野屋さんの屋敷にいる者全員が、また発病してしまいます」 
 出鱈目である。しかし病のことを知らない者にとっては、医者の言葉は、凶器のなに物でもない。完全に宗次郎の術中に嵌ってしまっている。
「馬鹿なことを言うな。ここの庭になどには埋められん」
 大野屋は怒ったように言った。
「殺す方法も決まっておりませんが、殺した後、どうやって棺桶に入れるかです。誰かが運んで棺桶に入れなければなりません。誰がやりますか?」
 皆は尻ごみして目を伏せた。
「海に捨てれば、魚が突いて、数年間は江戸前の魚は食べられません」
「海に捨てるとは言っていない」
「幕府にも届けない。どうやって殺すか方法も決まっていない。殺したとしても、どうやって棺桶に入れるのかも決まっていない。またどこに捨てるかも決まっていない。処置なしですな」
 宗達は呆れたように言った。
「そなたは医者だ。何とか考えろ」
 大野屋は声を荒げている。
「とにかく、最低でも死体を棺桶に入れなければなりません。誰が棺桶に入れるかだけは決めませんと・・・」
「医者としての方法はないのか」
「勿論あります。医者としての見解は、生かしたまま、棺桶に入れるしかないと思います。その上で外に運び出すしかございません。明日棺桶を6個用意致します。その棺桶に誰の手も煩わさず、娘達に自分で入って貰うのです」
「棺桶に自分で入るのか?」
「地下牢にいるよりましと考えれば、自分で入るでしょう」
「その後どうするのだ」
「隔離している山奥に運んで行きます。そうなれば死骸を捨てる様な煩わしさはございません」
「しかし喋られる恐れはないか」
「隔離された場所ですから、一般の人間は近寄りません。例え大野屋さんのことを喋ったとしても、患者同士、一般の人の耳に届くことは万が一にもありません」
 暫く大野屋は考えた。番頭たちも医者の言うことを聞くしかありませんと忠告した。
「仕方がない。そうするか。宗達、棺桶と運び手は、手配できるのか」
「棺桶6個、それに担ぎ手は一つの棺桶を運ぶのに4人としても、24人。予備の人間を含めれば、30人くらいは必要でしょう。それに棺桶は空気穴を空けておきます。死なれると処分が厄介ですから」
「その人足達に手当は・・?」
 どのくらい払えば良いのかを聞いた。
「内容が内容だけに、一人1両は必要でしょう。1両出せば、人は集められます。それに病のことは、人足達には伏せておきますから・・・・・・・」
「病のことは言わない・・・?」
「言ったら、断る者も増えましょう。仮に運んでくれたとしても、金を吹っ掛けてきます」
「わかった。任せる。一人1両用意しよう」
「地下牢から運び出したことの口止めも含めて、1両も出せば御の字でしょう。但し病のことは絶対に知られないようにお願い致します。病のことが知れたら、運び手も尻ごみをしてしまいます。どうしてもと言えば、相当吹っ掛けて来ましょうから・・・・。ですから運び手の者には病のことは何も言わず、騙して運ばせるのです」
 宗達のその話に、この医者も悪い男だなと誰もが思った。自分達が騙されているとは、誰も気が付かない。
「仕方有るまい。それで話が漏れることはないな」
 大野屋は、医者の悪賢さに、少しは安心した。これなら今後仲間にも、なれると思ったのだ。
「話が漏れる心配は、まったくございません」
「分かった。ところでこの娘どうする?」
 指し当たって、布団の中で苦しがってる娘のことを言った。大野屋の連中は、病を知ってからは、恐れをなして誰も近づこうとしない。
「私が薬を飲んでおります。仕方がありません。私が運びましょう」
 宗達はそう言って、布団を剥いだ。大野屋も他の者も、誰もが一斉に遠のいた。あまりに醜い顔だからだ。宗達もさすがに、顔をそむけた。幸い鏡がないから良いもの、もし鏡で自分の顔を見たら、娘もそっ倒するのではないかと思われた。地下牢では光が薄い。気味は悪いが、それほどはっきりとは目に映らない筈である。
「誰かこの娘の居た地下牢まで案内してくれ」
 宗次郎は娘を背負った。案内する男は気持ち悪そうに、離れて先導した。
「この布団は庭で燃やした方が良い」
 宗達は残った者に命じた。布団に障るのもおっかなびっくりであった。結局布団を庭に運び出したのも宗達であった。そこで布団に油をしみこませ燃やした。
 その前に、娘を背負って、地下牢に案内させた。背負った娘の臭さに、宗次郎は、「佐吉め、何を仕込んだのだ」と恨めしく思った。それほど臭かった。だから娘達はもっとひどい悪臭に悩まされただろう。
 地下牢に着くと娘達の顔は、吐き気がするほどひどかったが、幸い地下なので、はっきり見えないだけ、まだ幸いだったが、薄気味の悪いほど妖気の漂う顔だった。

 大野屋を出る時、宗達は薬を作るための千両を渡されたが、それは千両とは分からないように、布でくるまれていた。千両箱を持ち歩いたら、襲われるからである。紋次達の仲間が、それが何か分からないまま千両箱を運んだ。帰りがけ、翔馬が、
「どうせまた口から出まかせを言っていたのだろう」と毒づいた。
「口から出まかせではあるが、多少の根拠は有る。大野屋にしても、ライ病に関する詳しい知識はあまり無いが、おそろしい病だと言う、うろ覚えの知識は有る。それを利用したまでのことだ」
「ライ病・・・?」
「そうな。翔馬の足りない頭では無理か。腐れ病のことだ」
「腐れ病・・・?」
「それも知らんか・・・」
 髭だらけの宗次郎は苦笑いを浮かべた。
「あの運んでいる布は何だ」
 歩きながら聞いた。
「翔馬は知らなくていい」
「ふん。また何か企んでいるな」
「仕事はまだ終わったわけではない。明日が勝負だ。棺桶を6つ用意いたせ」
「棺桶・・・?」
「娘達を運び出す」

 その日の深夜、宗達は再び大野屋にいた。丑三つ時である。棺桶を担ぎ、宗達が連れてきた人数は30名。皆仲間である。事情は知っている。しかし何も知らない振りを集まっている。
 宗達の手際の良さに、大野屋も感心していた。大野屋もことは重大である。寝ずに待っていたのだ。
「大野屋さん。棺桶はどうします。この者達に地下牢まで運びこませますか。堅く口止めは致しておりますが、大人数。誰が喋らないとも限りません。大野屋さんの手の者が、棺桶を地下牢まで運びいれますか・・・・」
 大野屋は暫く考えていた。
「口は固いのか」
「1両戴けるのですから、信用は出来ると思いますが、万が一を考え・・」
「わかった。大野屋の手の者に運ばせる」
 庭に並べられた棺桶は、大野屋の手の者で、薬を飲んでいる者が中心となって、棺桶を地下牢まで運んだ。その大野屋の手の者に、
「私は医者だ。娘達には私から話す。皆は一旦戻ってくれ。自ら棺桶に入るよう説得する」そう言われると、大野屋の者達は助かったと言うように、棺桶を地下牢の前に置いて、
逃げるように一目散に地下牢から上がった。
 牢の鍵を開け、宗達は娘達に向かって、
「これより棺桶に入る。空気穴は開けてある。窒息する心配はない」
「助かるのですね」
 一人の娘が小声で言った。
「シーッ。これより一言も喋るな。そなた達は、病で喋れないことになっている。わかったな」
 娘達は小さく頷いた。それから横にした棺桶に、それぞれ一人ずつが入った。それを宗達が、棺桶を立て、蓋をした。棺桶は牢の周りに6個並んだ。大野屋の3人を呼び、宗達も含め、4人で担ぎ、一つずつ大野屋の庭に置いた。6回の往復である。流石に肩が痛かった。大野屋の3人も肩をさすっていた。
 その間、宗達が連れて来た30名は、別の場所で待機していた。そして担ぎ手の30名に、大野屋から一人一人に1両ずつが渡された。深夜、6個の棺桶が、大野屋から運び出された。集められた30人は皆無言であったが、数人が気持ち悪そうに棺桶を担いだ。単なる演技である。
 棺桶の中にいるのは、健康な娘達である。闇の中から、棺桶が運び出される様は、異様であった。
「それでは大野屋さん。ご安心ください。人里離れた山の中に運び込みますので・・・」宗達は安心させるように言った。
「薬の調合は遅れるなよ・・・」
「わかっております。あれから直ぐに手配いたしました。十分間にあうでしょう。ご安心ください。それと地下牢でございますが、処分したいのは山々でしょうが、今取り壊しのために、誰かが地下牢に行きますと、感染する恐れがあります。薬が出来次第。取り壊しましょう。薬さえ出来れば、感染しても発病の心配はございませんので・・・」
「わかった。薬の調合急げ、くれぐれも頼んだぞ」
 宗達は丁重に頭を下げて、大野屋を後にした。

 棺桶は、大きな寺に着いた。寺の広い庭に棺桶は置かれ、直ぐに蓋が外され、中から娘達が姿を現したが、担ぎ手の、鳴海屋から手配された男達は、娘達の顔を見て、のぞけるほど驚いていた。到底見られた顔ではない。正しく6匹の化け物と言った感じである。幸い辺りはまだ薄暗い。少し離れれば、はっきりとは見えない。それでわざと棺桶と棺桶の間は、離して置いた。娘達が驚かないようにである。
宗次郎は棺桶から出た娘達に向かい、
「これでそなた達は助かった。しかし直ぐに親元に帰り、親と会う訳にはゆかん」
 宗次郎は髭面のまま、皆を見回した。
 棺桶を担いできたのは、鳴海屋の配下の忍び達である。兎に角臭い。鼻が曲がりそうだ。
「懐の匂い袋。出せ。臭くてたまらん」
 宗次郎は言った。娘達は匂い袋を懐から取り出し、紋次達に渡した。紋次も、顔をそむけながら匂い袋を受け取ると、既に掘ってあった穴に埋め、土をかぶせた。
「助かったのなら、なぜ親元には・・・」
 一人の娘が言った。
「助かった以上一刻も早く親元に帰りたいだろうが、その顔を見たら親も腰を抜かす。まずは風呂に入り、身体を清め、それから汚れた衣装を着替えよ。どうせ何日も風呂に入らず、着ている物も取り替えていないだろう」
 宗次郎は娘達にそう言った。それについては娘達も納得した。確かに匂い袋を外しても、臭い感じがする。言われてみれば、まずは風呂に入りたい。
「2・3日後に親と再会する。その前に一仕事が残っている。それに食事が喉を通らず、やつれた者もおる。今日からは、美味しい物を沢山食べ、体力を戻して欲しい。そなた達を無事戻すと約束したが、その約束の日までには、まだ十分間がある」
 ひと仕事とは何だろうと、娘達は一様に思ったが、兎にも角にも助かったのだ。そのことが心から嬉しかった。
「ここまできたら慌てることはない。ゆっくり静養してくれ。最後の仕上げだ。我儘は言わないでくれ」
 宗次郎の頼みに、皆は納得した。それで娘達は思い切り手足を伸ばしたが、他の娘達の顔が怖くて見られなかった。これが昼間の明るい中だったら、恐ろしくて腰を抜かしたかもしれない。
 地下牢は昼間でも薄暗くてよく見えない。それが幸いしている。それほど酷い顔をしていた。風呂場で蝋を落とし、久しぶりの風呂に手足を伸ばした。湯上りは別に用意された清潔な浴衣である。皆は元の美しい娘達に戻っていた。もっとも化粧はまだしていない。  
 化粧道具もお蝶に頼み用意してもらったが、お蝶も宗次郎の仕事は知らない。だから不思議そうに、化粧道具を揃えただけであった。
 外が白み始め、皆にもゆとりが出始めたと同時に眠気が襲ってきた。
 宗次郎は、ゆとりの出た娘達に向かい。
「一応ゆっくり休んだら、来ていた着物と似た物を用意してある。同じものはない。着ていた着物は、洗濯して仕立て直すには数日はかかる。それで親元に帰る時は事情を話した上で、似た着物で親元に帰ることにする。仕立てが終わったら、親元を通してそなた達に返す」
「着物などどうでもよいです。それよりあのまま地下牢にいたら、異国に売り飛ばされると言うことでしたが・・・」
 一人の娘が質問した。
「異国に売り飛ばされ、言葉の通じない国の、国王の側室として、一生を過ごすことになる。外国と通商の無い我が国としては、連れて行かれたら取り戻すことは出来ない。従って永久に、異国で暮らし、二度とこの国に戻ることはない」
 やはりそうかと、娘達は身を固くした。そうなったら生きて行けないと思った。そしてそうならなくて良かったと、皆は抱き合って喜んだ。

 宗次郎は娘達を残し、次の仕事のために、寺を後にした。娘達にもまだやって貰うことがある。寺には紋次達十人ほどが、警護のために残っている。ここまで来れば心配はない。後は大野屋の処分である。
 家に戻ると又八という男が待っていた。
「どうした又八・・・」
 この男は鳴海屋の配下の忍びではなく、単独の忍びである。
「この前調べた武士のことですが・・・」
 気になって、お涼のことについて調べてもらっていた。今回の仕事とは、まったく関係なく、別に手当を払って調べさせている。
「あ奴、昨日主人である長久保様を斬り、止めに入った郎党数人も斬り倒し、逐電致しました」
「なに!主人を殺した・・・・?」
 ただ事ではない。主殺しは大罪である。
「昨晩奉行所にも届けが出され、役人も必死で行方を追っております」
「こんな時に・・」
 役人も、かどわかされた娘のことで手いっぱいの筈なのに、その上、そんな事件が起きては、大変である。
「既に、江戸から逃げたのか」
「いえ。まだ江戸に潜伏しているようです」
「・・・・?」
「そんなことより、大変なことが起こりました。その男がこともあろうに、お涼ちゃんに文を届けさせたのです」
「お涼に・・・・手紙を・・」
「呼び出しの手紙です」
「・・・・?」
「それによると・・・」
「読んだのか・・・」
 読まなければ、内容まで説明できる筈はない。どうして手紙を読めたのか不思議に思って聞いた。
「お涼ちゃんが町人風の男から手紙を受け取ると、蝋燭に照らして手紙を広げ・・・」
 それを天井裏から読んだと言うのである。
「何と・・・」
 書いてあったか、内容を訊ねた。
「明日の朝、寄居の境内に来いと書いてありました。もし来なければ、今いる菊園に押しかけ、そこにいる者共、全員を斬ると書いてありました」
「それでお涼は・・・?」
「皆に迷惑は懸けられないと、出掛ける決意をしたようです」
「行ったら、ただでは済まんのだろう」
「間違いなく殺されます。既に浪人は、主人を斬っております。郎党も切り捨てております。お涼を斬った後、江戸から逐電する覚悟かと・・・」
「止めるしかないな。浪人がここを襲うと言うのは単なる脅しだ。こんな町中(まちなか)に姿を晒す訳にはゆかないだろう」
「そうですが、お涼ちゃんは相当思いつめております。止められないでしょう。枕元に白い着物も用意しておりますので、最悪のことも覚悟の上です」
「面倒な・・・。やることがまだ沢山ある。そんな逐電男を構ってはいられないが、お涼が斬られるのを知って放置しておく訳にもゆかん。地下牢から娘達を助けて、お涼のことは知らぬととぼけるのも、気が引ける。それにしても面倒な・・・」
 宗次郎は渋い顔をした。そして、
「又八、貴重な情報ありがとう」と銀の粒を渡した。
「これは仕事ではございません。礼金は不要です」
「情報はいかなる時でも、いかなる内容でも大事にする。それがわしのやり方だ。取っておけ・・・」

 一方お涼は、一睡も出来ず朝を迎えた。どう考えても理不尽なことである。あの浪人の弟が死んだのは私のせいではない。その理を説けば分かってくれる様な気がした。逃げたら、こちらが悪いと永遠に追いかけられそうだ。私は悪くないと堂々とすれば、分かってくれる様な気がした。身支度を整え、一人でこっそりと師匠の家を出た。
 最悪殺されることも覚悟の上だ。だから下着も奇麗な物に取り換えた。しかし死ぬと言う実感はまだない。何とか説得できる様な気がしている。人通りのない角を曲がると、
「どこへ行く」と突然声を掛けられた。
 一瞬驚いたが、それが宗次郎だとわかり安心した。
「宗次郎さん。どうして・・・?」
「どこへ行くつもりだ」
「・・・・・」
「例の浪人に呼び出されたのであろう」
「どうして、それを・・・?」
「あの浪人は、主人である長久保様を斬り捨て、更に郎党三人も斬り殺した。その上でお涼を斬って、江戸を逐電するつもりだ。のこのこ行ったらお涼も斬られるぞ」
「でも、このままでは他の人達に迷惑が掛ります」
「いや。あの浪人にそんな余裕はない。無視すればそれで終わる。二度と江戸には戻るまい」
「もしものことがございます。宗次郎さんは逃げるのが速いと言っておられましたが、お涼もいざとなったら逃げます。行かせて下さい」
「どうしても行くのか」
 決意は固いようだ。それで宗次郎も覚悟を決めた。
「このままでは一生枕を高くして眠れません。他の人達にも迷惑を懸けます。決着をつけたいのです。いつまでもびくびくして逃げているのは嫌でございます。あの方の弟さんが亡くなったのは、決して私のせいではありません。そのことを必死に訴えます」
「無理と思うが致仕方ない。わしも供をする」
「でも、それでは宗次郎さんに迷惑が掛ります」
 そなたらからは、迷惑は十分掛けられている。今さら迷惑と言っても新たな物ではない。そう思ったが、言う訳にはゆかなかった。そんなことを話しているうちに、さびれた境内に来てしまった。人っ子ひとりいない早朝の境内である。
「待っていたぞ・・・」
 角井又兵衛の無精髭姿に出くわした。
「弟さんは気の毒なことを致しました。しかし弟さんを・・・」
 お涼の言葉を遮るように、
「お涼。よく来た。褒めて取らす。しかし弟の敵は討つ」
「お涼、言っても始まらない。この男は主人を斬っている男だ。このままで済む筈がない」「ほー。それを知っているとは・・・。益々生かして返す訳にはゆかない」
 腕には相当自信があるらしく、宗次郎を見ても何も変化はなかった。例え誰が来ようと、斬る自信があるのだろう。
「お涼。少し離れておれ・・」
 宗次郎は、お涼を手で離れる様に指示した。
「宗次郎さん。逃げるのでは・・・?」
「基本的には、人は斬らん。しかしお涼を守るためには止むを得ん」
「面白い。わしと斬り合うとはいい度胸だ。褒めて取らす」
「褒められても何の値打もないわ」
「抜け・・」
 角井又兵衛は、普通より長いのではないと言う大刀を払った。そして宗次郎にも刀を抜けと指示した。しかし宗次郎は柄に手を掛けただけで、抜かなかった。
「抜かねば斬る」
 そう言うと、問答無用とばかりに、気合いもろとも斬り込んできた。お涼が瞬きをする一瞬の出来事だった。宗次郎は角井又兵衛の脇をすり抜けた。いつの間に抜いたのか、宗次郎の右手には刀があった。角井の身体から夥しい血飛沫が舞い上がった。そしてゆっくりと倒れた。
 そして、苦しそうに、「き・さ・ま・・・。居合か・・・」言いながら、角井の身体は地面に激突した。
ほんの一瞬の出来事であった。お涼は驚いて身動きできずに、その場にへたり込んでいた。人が目の前で殺されるのは、初めて見た。夥しいどす黒い血が地面を覆った。そんな光景を身じろぎ一つせず、へたり込んで怯えているお涼に、
「お涼。帰るぞ・・・」
 そう言うと宗次郎は、お涼の手をとり、体を起こした。そして死体も確認せずに背中を向けた。お涼は我に返って、慌てて宗次郎の腕にしがみついた。
「よいか、二人はここには来なかったことにする。分かったな・・・。今のことはなかったことにする。よいな・・・」
「・・・・・!」
 お涼は小さく頷いたが、言葉が出なかった。人が斬られると言うことが、こんな恐ろしい光景とは想像もしていなかった。宗次郎は後も振り返らず、歩きだした。
 角井又兵衛と言う男は、お涼が何を言っても斬るつもりでいる。しかも長久保殿を斬ったことを、知っている宗次郎も生かして返す訳にはゆかない。そんな男を斬ったのはやむを得ない処置だと宗次郎は思っていた。
 どの道この男は、役人に捕まれば、獄門磔、江戸から逃げ仰せたら、その為に多くの役人がこの男を追いかける羽目になる。それを思えば止むを得ないことだと自分に言い聞かせた。
「お涼。今あったこと、今目にしたことは、忘れるのだ。わかったな。角井などと言う浪人とは会わなかった。良いな・・・」
「はい。よく分かりました」
「このことは誰にも言うな」
 斬り合いと、宗次郎の腕前のことである。
「わかりました。誰にも言いません。大切な秘密と致します」
 そして震える身体で、宗次郎の腕にしがみついて来た。

 その頃、奉行所では大騒ぎになっていた。何しろ旗本の長久保様が最近雇い入れた郎党に斬られたと言うのだ。しかも止めに入った郎党三人も斬って逐電したと言うのである。行方不明になった娘達の事件も解決していないのに、次の事件である。そのことがあってから、役所の人間は寝る間も惜しんで、郎党の行く方を探していた。
 一方では娘達の消息についても必死で探していたが、こちらも要として娘の行方はわからないままだった。
 ところが翌日の明け方、と言っても昼に近い頃、人気のない神社の境内で、長久保様を斬った下手人、角井又兵衛が殺されていると言う報が入った。
「なに!角井又兵衛が殺されている。だれが殺ったのだ」
 奉行は報告に驚いて、目を丸くした。
「斬った者は分かりません。目撃者もおりません」
「手間は省けたが、一体誰が殺ったのか・・・」
 奉行は腕組みをして唸った。
「皆目見当がつきません。長久保様を斬った後、直ぐ江戸から逐電しようとした筈ですから、逃げる途中で、何者かと喧嘩になり・・・」
「斬られたと申すのか。しかしその角井と言う男、相当腕が立つのではないのか」
「剣の達人と聴いております。しかしその角井が、一刀の元に斬られ絶命しております」
「角井とか言う男、捕まえるのに、相当な犠牲も覚悟していたが、そうか。一人の犠牲も出すことがなかったのは、幸いであった」
「江戸から出る前に斬られたことは、追手を掛ける手間も大幅に省けました」
「よしわかった。娘達の発見に全力を尽くせ」

                    (7)

 その日、宗次郎は水野忠興の家中、大村梶之輔に呼び出されていた。
「お嬢さまは、一体どうなったのか?」
 大村は必死の形相である。
「期限にはまだ間があります。慌てなさんな・・・」
 宗次郎は必死の形相の大村がおかしくなって、笑いをかみ殺していた。
「助け出す目途はついたのか。助け出す手立ては・・・・。どこにいるのかはわかったのか?」
 大村は必死の形相で、宗次郎に噛みついてくる。
「事情があり、もうしばらく待っていただきたい。期限内には、必ず親元にお届け致します」
「勝算はあるのだな。なかったら承知せんぞ。昨日役人に聞いたが、まったく目星も付いていないと言っていた。本当に間に合うのか」
 大村梶之輔は必死であった。焦っているのだ。無理もない。中間報告もまったくないのだ。悪戯に日にちが過ぎている。水野様は毎日のように、どうなったと大村を攻め続ける。それで思い余って、宗次郎を呼び出したのだ。それまでは、宗次郎の邪魔をしては不味いと思い、控えていたが、もう我慢できない。そんな感じであった。
「役人では探せません。仕事屋が引き受けた以上、必ず期限までには親元にお返しします。ご安心ください」
 そう言われても、大村梶之輔にとっては、なんの根拠もない。只信じて待つ時間は過ぎ去ったのだ。
「水野様は、すっかりやつれ、気の毒なほどだ。もし助け出せなかったとなったら、水野様は間違いなく病に倒れる」
 あまりの大村の形相に、宗次郎も仕方なく本当のことを話す決心をした。
「それでは水野様にお伝え下さい。既にお嬢さまは助け出し、去る場所におられるから、ご安心して下さい・・・と」
「なに!既に助け出したと言うのか!」
 大村梶之輔は信じられないほどの大きな声を出して、宗次郎を穴のあくほど見詰めた。大村としては、既に助けたという言葉が信じられなかった。江戸の町はいつもと変わらず、華やいだ町に、娘達が助け出されたと言う噂は一切なかった。
「期限にはまだ間があるので、もう暫く待って欲しいのです。最後にまだやることが残っているからとお伝え下さい」
「助け出したと言うなら、なぜお嬢様と会わせない!」
「お気持ちはわかりますが、水野様のご息女だけを会わせて、他の娘は我慢しろとは言えません。ただ安心してよろしいとだけ、お伝え下さい」
「水野様はお子が少ない。嫡男とお嬢さまだけ、それゆえ特に可愛がっておられる。わしだけでも会わせてもらえば、水野様を安心させられる」
 大村梶之輔は徹底して粘る。
「大村様、お嬢さまがこれから安心して過ごすには、お嬢様をかどわかした悪人共を捕まえなければなりません。そうしないと、またいつかどわかされるかも知れません。安心のためには、最後の仕上げとして、悪人達を捕縛しなければなりません。それが終わりませんと、本当の意味で事件は落着したとは言えません。これから先もどんなに警護しても、危険は付きまといます」
 宗次郎は大野屋を捕縛するまでは安心できない。それは娘のためばかりではない。宗次郎自身も、大野屋を捕縛しない限り危険な存在なのである。なにしろ大野屋を騙している。大野屋が騙されたことを知ったら、宗次郎の命が危ない。その為の仕上げとして、娘と会うのは待って欲しいのだ。
「お嬢様は、本当にもう危険はないのか?」
「まったくございません」
「お嬢さまは、本当に助け出されたと考えて良いのだな」
「そのように考えてよろしゅうございます」
「仕方がない。信じよう。それにしても、役人はまったく目途が立たぬとは、どういうことだ・・・」
 まだ納得できず、大村梶之輔は独り言を呟いていた。
「大村様、このことは水野様以外にはご内密に願います。他の親達に知られたら、騒ぎの元になります。娘達が無事生きていると知れば、下手人達も黙ってはおりません。証拠隠滅のために、命の危険に晒されます。それゆえどうか事件が落着するまでは、内密に願いたいのです」
「・・・・・・・」
「それさえ、守って戴ければ、必ずや下手人は捕縛して、安心して過ごせるように致します」
「わかった。期日までにはお嬢様を無事にお届けできるのだな」
 大村梶之輔は、少し落ち着いて来た。
「御心配には及びません。それと事件が落着した暁には、仕事屋のことは一切お忘れ下さい。そのことは、お嬢様達や親御さん達にも、くれぐれも宜しくお伝え下さい」
「仕事屋のことは忘れろと言うのか・・・」
「宜しくお願いします」

 南町奉行所の門前に、怪しい男がいた。よく見ると作蔵であった。作蔵と言う男、一見すると気難しそうに見えるが、別の角度から見ると実に怪しく見える。ただ、奉行所との連絡役は作蔵の仕事であった。門番に、
「宮永左近様にお会いしたいのですが・・・」と声を掛けた。
 宮永左近は南町奉行所の与力である。奉行所内で唯一宗次郎と面識のある男である。その意味では、仕事屋宗次郎とも少なからず、縁のある役人であった。
「宮永様は忙しい。いま調査のために、これから出掛けられるところだ」
 門番は不審そうな顔で言った。
「兎に角、作蔵が来たと左近様にお伝え下さい」
 それで、任務のため奉行所を出ようとしていた役人に、門番は、
「宮永様はおられましたか?」と確認した。
 聞かれたその役人は、
「今で掛けるところだ」と不思議そうな顔で、門番に答えた。
「この者が、宮永様にお会いしたいと・・・」
「怪しい奴だな」
 その役人は作蔵を一瞥して、品定めをするように上から下までじろりと見た。
「大切な情報をお伝えしたいのです。取り次いで下さい」
 作蔵は、その役人に、どうしても宮永様伝えて欲しいと、半ば強引に言った。言われた役人は、もう一度作蔵を一瞥してから、仕方なさそうに引き返した。
 与力の宮永様と言えば、北町奉行所内では、実力を認められていた。その宮永様に会いたいと言う男を、無視する訳にもゆかなかったのだ。
 前の北町奉行の時代から、よく連絡を取り合っていた。この下っ端役人より、宮永様の方が上と見て、胸を張った。この役人は同心であり、宮永様の方が格は上だった。
「作蔵が来ただと・・・!」
 宮永左近と言う与力は、驚いたような顔をしていた。勿論知っている男だ。しかし奉行所が忙しい時に何だと言いたげな顔をしていた。
 宮永左近は中年の男で、年の頃は40歳がらみ、貫録のある侍であった。妻と母親、それに子供が3人いた。
「怪しい奴です。追い返しますか?」
「いや。外で待っているのであろう。待たせておけ」
 言いながら何だろうと思った。今はかどわかされた娘の救出で、それどころではないのだが、作蔵なら会わない訳にはゆかないだろうとも思っていた。仕度が終わり、門を出ると、
「宮永様・・・・。こちらへ」
 作蔵が袖を引いた。
「何だ。忙しいのだぞ」
 宮永左近は不機嫌そうに作蔵を見た。
「わかっております。娘達の所在がわからなくて、焦っておられるのでしょう」
「その通りだが・・・・・、作蔵に奉行所内の混乱がわかるか」
 何かそのことに関して情報があるというのか。宮永左近は、時折貴重な情報を持ち込んでくれる作蔵を一瞥した。
「そりゃ分りますよ。江戸では今大評判です。役に立たない奉行所の奴等と評判は、がた落ちですから・・・」
 作蔵は薄く笑った。
「奉行所としても、昼夜をわかたず探しておるのだぞ・・・」
 作蔵の顔を見て、勝手なことを言うなと、言わんばかりに渋い顔をした。
「それもわかっております」
「しかも、御旗本の長久保様と、その郎党が斬られたと、大騒ぎになって、二つの事件を追いかけるのは、きついと思っていた矢先だ」
「そちらの事件はどうなりました?」
 作蔵達は、旗本を斬った角井又兵衛が、宗次郎に斬られたことは知らなかった。
 宗次郎も、そのことは誰にも言うつもりはない。知っているのはお涼だけである。お涼は自分を助けてくれた宗次郎を、裏切ることは無いと信じている。
「下手人は死体で発見された」
「死体で・・・・?どこのどなたが・・・?」
 斬ったのかと、作蔵も驚いている。
「そんなことは知るか。今はそれどころではないのだ。何としても娘達の居所を探し出さなくてはならない」
「そのことで、耳寄りな話がございます」
「耳寄りな話・・・?」
「ここだけの話ですが、娘をかどわかしたのは、材木商大野屋でございます」
「大野屋・・・?娘をかどわかした下手人は、抜け荷の疑いのある商人だ。大野屋は抜け荷の疑いはない」
「抜け荷の疑いのある商人と言う情報も出どこは我々です。娘達をかどわかしたのは、間違いなく大野屋です。大野屋に踏み込み、全員を一網打尽に捕縛して下さい」
「その情報は、仕事屋宗次郎なのか・・・?」
「ですから、確実な情報でしょう」
「待て、証拠もなしに奉行所が大野屋に踏み込めると思うか・・・」
「そこを何とかお願いしますよ」
 作蔵には余裕があった。娘達は既に助け出している。下手人が大野屋であることもわかっている。
「お奉行様に話しても信用はされまい。今度のお奉行様は、仕事屋などと言う得体の知れない男のことなど、認めてはおらぬからな」
「そうでしょうが、大野屋が下手人に間違いはないのですから」
「根拠もなしに、大野屋をひっ捕えられると思うか」
「そう言っている間に、証拠を隠滅されますよ」
「わしでは、奉行を説得できん。それほど言うのなら、そなたから直接話せ・・」
「いいのですか。折角宮永様への御手柄と思って報告したのに・・・」
 作蔵は不満そうな顔をした。
「それはわかるが、お奉行を説得できん」
 それではと、宮永左近の計らいで、奉行と作蔵が直接会うことになった。

 作蔵は罪人でもないのに、白洲に待たされた。暫く待って、北町奉行が現れた。
「そなたが仕事屋の手の者か」
「へい。作蔵と申します」
「それで娘をかどわかしたのは、大野屋だと申すのだな」
「そうです」
「大野屋は抜け荷の疑いはなかったが・・・」
「大野屋は全国に山林を持ち、そこから木を伐採して、江戸に届けていると言う触れ込みですが、材木の半数以上は異国から安く仕入れたものです。異国から買った材木は、紀州やその他江戸から遠く離れた港に積み上げし、そこから江戸まで運んでいるのです。異国との取引は遠い外洋で取引を完了させていますので、抜け荷とは見破られていませんでした」
「・・・・・?」
「ある時、異国から、一人千両で若い娘を買いたいと申し入れられて、大野屋が美しい若い娘達をかどわかしたのです」
「その話、真か・・・」
「元々娘をかどわかした下手人は、異国との密貿易の疑いある者と言う話も、仕事屋が水野様の側用人に話したことでしょう。大野屋は以前から異国の安い材木を仕入れて、それで巨利を得ていたのです」
「作蔵とか申したな。仕事屋と言う男と一度会ってみたいと思うが、がどうか・・?」
「事件が解決する前にお会いしますか。それとも事件が片付いた後に致しますか。お奉行様のお心のままに、但し今は仕事屋と会うより、大野屋捕縛の方が先でございましょう」
「しかし・・・」
 証拠の無い大野屋を捕縛するのは、些か危険が伴う。
「この事件は、あくまでもお奉行所の手柄にして頂きたいと思います。娘達もお奉行様が救い出したことにして頂ければ・・・何よりでございます」
「奉行所の手柄・・・?それでは仕事屋が満足するまい・・・」
「仕事屋が必要なのは金だけです。手柄はお奉行所にして頂いて、仕事屋の話は一切伏せて戴きたいのです」
「それは何故じゃ」
 納得が行かず、奉行は白洲の作蔵に確認した。
「仕事屋が手柄を立てても何もなりません。何よりも逆恨みを買うだけで、仕事屋にとって得なことはございません。それよりこの事件で、地に落ちた奉行所の権威を回復させて戴きたいのです」
「それで、幾らよこせと・・」
 褒美の金のことを言った。
「褒美は、既に娘達の親から戴いておりますゆえ、奉行所から一銭も戴くつもりはありません。そんなことより、証拠を隠滅される前に、どうか大野屋の捕縛をお急ぎ下さい」
「大野屋だと言う証拠は・・?」
「大野屋の地下牢から、既に娘達は助け出しております」
「なに!娘達は既に助け出したと言うのか・・・・」
 奉行は目をむいて、驚いていた。脇に座っていた宮永左近も信じられないと言うような顔で作蔵の横顔を凝視した。 
「必要なら、水野様のご息女の顔を知っておられる方が、お会いになったら、信用できるでしょう」
「水野様のご息女の顔は知っている。どこかにいるのか」
「ご案内致します。お奉行様が、出張らなくとも、どのたかお役人の方で、知っている方がおられれば、私とご一緒していただければ・・・」
 それから作蔵は、大野屋の悪行を更に詳細を説明した。
 
 翌々日、南北両奉行所総出で、大野屋を取り巻いた。江戸を揺り動かす大取物であった。
南北の奉行所総出の取物に江戸の庶民は驚いた。やがてその取り物は、若い娘をかどわかした下手人の捕縛だと噂が立った。
「大野屋が若い娘をかどわかしたらしい」
 噂は一気に江戸に広がった。こうした噂の伝達は早い。中には、役人が大野屋に踏み込んだら、証拠隠滅のために娘達を殺すのではないかと言う噂も立った。それで商家の娘の親達は気が気ではなかった。
 そんな噂は無視するように、大量の役人が次から次へと大野屋を取り巻いた。
大野屋も驚いていた。あまりに急な出来事で、大野屋も頭が真っ白になっていた。大野屋は、手の者を奉行所の見張りとして、常時数人着けていたが、突然奉行所に役人が大勢集まりだし、しかも番所には直接伝令が走り、番所から直接大野屋に結集したのだ。奉行所に役人が集まりだしたとの情報は、大野屋にも入ったが、何のために集まったのか、わからぬままに、あっという間に、大野屋は捕り方に包囲された。
 大野屋は旗本の長久保様が斬られたことは知っていたから、その下手人の大取者かとも考えていた。まさかそれぞれの場所で集まった役人が、大野屋を取り巻くとは思わなかったのだ。大野屋は手を打つ暇もなく、屋敷を役人に取り囲まれ、右往左往していた。
 ただ心配はない。なぜなら娘達は既に、病を発症して、大野屋の地下牢にはいない。つまり証拠は何もないのだ。
 奉行の号令で、役人が一斉に大野屋になだれ込んだ。抵抗する者も若干はあったが、なにしろ役人の数は半端ではない。一人に何十人もの役人が束になって襲ってきたために、あえなく全員捕縛され奉行所に引きたてた。そして大野屋を筆頭に、数人の者が白洲の前に引き出された。
「大野屋、そなたは異国から材木を密貿易して巨額の利益を得ていたな」
 大野屋としては何が何だかわからなかった。突然奉行所の役人が集まったと思ったら、いきなり屋敷を取り囲まれたのだ。手を打つ暇もないほどの迅速さで大野屋は取り囲まれ捕縛されたのだ。大野屋にとっては信じられないことであった。
「何を根拠に、まったくあずかり知らぬことでございます」
 大野屋は胸を張って白を切った。
「その上、異国から、若くて美しい娘を集めてくれと依頼され、江戸で娘をかどわかし、その娘達を異国に売り飛ばそうとした罪は断じて許しがたい。更には、娘を浚う時に、一緒にいた者を何人か殺害した罪も許しがたい。全員即刻、斬首の刑と致す」
「お奉行様、何の証拠があってそのようなことを・・・」
「大野屋は以前より、異国から材木を安く買い入れ、それを我が国で高く売っていた。そして密貿易の噂が立つのを恐れ、漁船などに見つからない外洋で取引を済ませ、それを清水港や、遠くの紀州などの港から陸揚げし、木材を我が国のどこかの山から切り出したように見せかけ、陸路で江戸まで運びいれた。相違あるまい」
「そのようなことは一切ございません」
「そうでなければ、短期間のうちにあれだけの巨額の利益は生むまい」
「お奉行様。お言葉を返すようですが、商売にはいろいろなやり方がございます。大野屋は商才に掛けましては、他の商人より遥かに能力がございます。その商魂を密貿易などと飛んだ濡れ衣でございます」
「黙れ。証拠はある」
「では、密貿易の証拠をお見せ下さい」
「やかましい。盗人猛々しいとはこのことじゃ」
 北町奉行依田和泉守政次は、大野屋を睨みつけた。
「お奉行様。証拠もなしに捕縛したのですか。それでは天下の正道が泣きます・る」
 大野屋も証拠などないと思っている。胸を張って開き直った。
「やかましい。いま大野屋が流した材木の一部を調べておる。その一部には、日本の山々では自生していない木材が含まれておる。今にわかる」
「それでは、調べがつくまで、我々は自由ではございませんか」
「黙れ!大野屋。こ度捕縛した罪状は密貿易ではない。江戸の娘達をかどわかした罪じゃ」
「江戸の娘をかどわかした?その噂は聞いており、我々も心配していたところでございます。それをよりによって我々がかどわかしたとは、笑止千万。どのような証拠があって・・」
「大野屋。異国には王様とか言う権力者がおって、世界中から若い奇麗な娘を集めておるそうじゃな」
「さあて?そのようなことは全く存じません」
「聞けば、その王様とやらは、国中の財を集めて、大金持じゃそうだな」
「そんなことまったく知りません。異国のことなど、この大野屋全く存じません」
「その王様の使者とやらに若い娘を数人・・・。一人千両で集めるよう頼まれたのであろう」
「そのようなことは、まったくもって知りません」
「大野屋は、若い娘を6人集め、後日外洋にて娘達を引き渡すつもりであっただろう」
「まったく知らぬことでございます。何か証拠でも・・・」
「あくまでも白を切るつもりか」
「白を切るも何もございません。まったく大野屋のあずかり知らぬことにございます」
「だまれ!大野屋。見苦しいぞ」
 奉行は大野屋とその一派に活を入れから、
「娘達をこれに・・・」と大声で怒鳴った。
 奉行が言うと、若い娘が白洲の横にある幕の裏から、ぞろぞろと6人が、白洲の脇に勢ぞろいし静かに座った。
 その姿を見て、大野屋は腰を抜かすほど驚いた。腐れ病に掛り、見るも無残な姿になっていた娘達が、今は奇麗な元の姿で、勢ぞろいしていた。
 大野屋文兵衛をはじめ、浪人や手代たちは、見る見る顔が青ざめた。
「娘達。そなた達は、大野屋の地下牢に閉じ込められていたのだな」
「間違いございません」
 娘の一人が凛とした声で言った。動かぬ証拠である。さすがの大野屋も、あの宗達とか言う医者に、一杯食わされたことに気が付き、臍を噛んだ。
「宮永左近。大野屋の地下に牢屋はあったか」
 奉行は与力の宮永左近に声を掛けた。
「地下牢は間違いなく、ございました。薄暗くてじめじめした地下牢でございます。異臭が強く、鼻の曲がる様な匂いを発しておりました」
「娘達はその地下牢に閉じ込められていたことは間違いないか」
 南町奉行は、今度は引き出された若い娘達に声を掛けた。
「間違いございません。6人一緒でした。毎日泣いて暮らしました。昼間なのか夜なのかわからず、何日閉じ込められていたかすらわかりませんでしたが、かなり長い間閉じ込められておりました」
「大野屋。この娘達が動かぬ証拠だ」
 大野屋をはじめ捕縛された者達は観念したのか、全員首をうなだれた。
「大野屋以下、全員を引ったてよ」
 抵抗する大野屋以下浪人達を、役人が強引に引きたてた。縛られているので、抵抗できず役人のなすがままであった。
 娘達の親は奉行所に集められていた。そこで正式に親子は対面を果たしたのである。但し水野様だけは、親の代理として大村梶之輔が来ていた。
 親子は皆抱き合って泣いていた。

 北町奉行依田和泉守は部屋に戻ると、待たせておいた作蔵と向かい合っていた。
「その仕事屋という男と会いたいが、どうか・・・?」
「仕事屋は表看板を出してはいません。いずれお会いすることもあるかと存じますが、今回は顔を晒すのは待って欲しいと・・・」
「・・・・・?」
 理由が良くわからなかった。奉行とすれば、なぜ会うのがまずいのか。理解できなかった。
「仕事屋は、今すぐにでもお会いしたいのは山々なれど、まだお互いがわからない状態。出来れば数カ月後にお逢いしたいとのこと、仕事屋の生き方は、奉行所に逆らうことはなく、また幕府にも逆らうこともございません。むしろ奉行所のためにお役に立つよう動きたいと申しております。今回の事件でも奉行所の手柄にして頂いくことにしたのは、仕事屋で意思でございます。仕事屋の表看板は出しておりませんので、大野屋捕縛にしても、娘達の救出にしても、奉行所かやったこととして戴いて結構でございます。奉行所の権威が落ちるのは、江戸の庶民に限らず、仕事屋としても不味いと申しております」
「別に手柄のことを言っている訳ではない。よく大野屋だとわかったなと思い、そのことについて、少し聞きたいことがあるだけだ。いずれにしても奉行所にたてつく訳ではないから、別に取り調べをするつもりはない。それに今回のことでは、礼も言いたい・・」
「左様で・・・。実は前任のお奉行様とは、一年後には会見しており、その後奉行所との関係は良好に保たれておりました。近いうちに必ずお目にかかる日もあろうかと存じます。それまでは、もう暫くお待ちを、とのことでございました」
 奉行と会わないのは、特別に意味があってのことではない。しかし相手の人物像もわからないままで、会うのは得策ではないと判断している。つまり時間を置いて、奉行の人となりを調査しようと言うのだ。その点宗次郎は用心深い。人間には相性というものもある。宗次郎と合いそうもない人物なら、永遠に会うつもりはない。
 それに、この大きな事件の後、奉行と会っては、周りの役人から、いらぬ噂が立てられるのを恐れていた。いらぬ噂は、時として、大野屋捕縛は、仕事屋の仕業ではないかと思われるのはよしとしない。それに斬りたくもない角井又兵衛とか言う男も斬っている。暫くはそっとしておいて欲しいと言うのが、宗次郎の願いであった。
「宮永左近から、そなたのことも聞いておる。そなた作蔵と申したの。わしの配下にならぬか・・・・」
 北町奉行の誘いに対して、作蔵は、
「申し訳ございません。奉行所の数倍の手当を戴いております。しかも行動は自由です。役所勤めとなるとそうはゆきません。ご容赦願います」
 作蔵は苦笑いを浮かべた。奉行としての精一杯の褒美の言葉のつもりなのだろうが、その手には乗らない。作蔵はそう思った。
「そうか。無理か。仕事屋とやらに宜しく伝えてくれ」
「陰ながら、常にお奉行様のお役にたてるよう考えておりますれば、どうか仕事屋の仕事はお見逃し下さい。必ずお役にたちます」
「どうかな。これで我々役人では、役に立たないことを証明した様なものではないか」
 奉行は自嘲気味に苦笑いを浮かべた。
「そのようなことはございません。現に大野屋を捕縛したのは奉行所です。江戸の庶民は、流石はお奉行所と、もろ手をあげ拍手喝采でございます」
 確かに事情の知らない江戸の庶民は、遂に奉行所が娘達をかどわかした下手人を探し出し、南北両奉行所総出で捕縛したと喜んだ。
「流石は奉行所だ。調査は着々と進んでいたのだ。奉行所の悪口を言っていた者は謝るべきだ」
 などと、江戸の庶民や一部の幕府の者達まで、奉行所の手柄を褒め称えた。
 
 一方、宗次郎達は、大野屋を捕縛し、娘達を無事親元に帰した時点で、越前屋から500両を受け取り、この仕事を手伝った者達に、過分の褒美を渡した。手伝った者達は、数か月は遊んで暮らせるだけの手当である。もともと手伝ってくれたもの達は、本来の仕事を持っている。生活に困ることはないが、仕事屋のお陰で更に生活の質は高まった。それで皆は宗次郎に特別な感謝していた。鳴海屋が礼に訪れた。
「皆、過分なる手当に喜んでおります。私からも礼が言いたくて・・」
 鳴海屋はことの他喜んでいる。
「別に礼には及ばぬ。皆が良くは働いてくれたおかげだ」
 隣の娘達が菓子を持って入って来た。それで鳴海屋は慌てて、口を噤んだ。娘達は口々に、浚われた娘達が無事戻ったことの噂を口にした。
「いずれにしても、お芯ちゃん、お扇ちゃん、お涼ちゃんが浚われなくて何よりでした。これで江戸の町も落ち着くでしょう」
 鳴海屋は娘達が来たので、宗次郎との話は諦めた。
「これでやっと、江戸の町も安心して歩けます。それにしても大野屋が犯人なんて想像もしていませんでした」
 お芯は嬉しそうに自分達のお茶と菓子も持ってきて、どっしりと腰を下ろした。翔馬は金を握ったので不在だった。もし翔馬がいたら、娘達はこんなに腰を落ち着かせなかっただろう。
「鳴海屋さん。宗次郎さんて、酷いんですよ。お前達は誰にも浚われないなんて言うんですから・・・」
 お扇が口を尖らせて言った。
「いやいや、浚われた娘さん達より皆さんの方が数段美しい」
「ですよね。宗次郎さんに言ってあげて・・・」
 お扇の言葉に、宗次郎は、
「そんなことは言っていない。皆は美しい。ただ煩いから、浚った後が大変だと思って・・・」
 宗次郎は菓子を頬張り、茶をすすった。お涼だけが、珍しく黙っている。
「ところで鳴海屋さん。旗本の長久保様を斬ったお侍は、その後死体で見つかったと聞きましたが、何か聞いています」
 お芯である。
「ああ。それね。詳しいことは聞いていないが、江戸から逃げる途中だったのでしょうか。に斬られたらしいと噂は聞きました。御蔭で奉行所も娘さんをかどわかした事件に、集中できたみたいですよ」
「実は、その侍お涼ちゃんと知り合いだったらしく」
 お扇が言った。脇で宗次郎は余分なことをと、お涼の顔を盗み見た。お涼はその話はしたくなさそうに、逆に宗次郎を見た。
「へえー。角井とか名乗っていたようですが、お涼ちゃんと知り合いだったとは・・」
「知り合いと言っても、会いたくない相手です」
 お涼が不機嫌に言ったので、その話題はそれで終わりになった。結局帰って欲しいと思ったが、鳴海屋が腰をあげるまで、三人娘は宗次郎の部屋にいた。
 鳴海屋が帰っても、三人娘は腰を上げようとしない。
「お涼ちゃん。これで家を離れなければならない、憂いは取り除かれた訳だけれど、これからどうするの」
 お扇とお芯が、お涼の今後の事を聴いた。お涼が、菊園に来た理由は聞いた。門井とか言う浪人に追われていたからであり、もう一つは嫁に欲しいと父親の知り合いから頼まれ、それで病気を理由に、実家を離れたのだ。取り敢えず一つの憂いは取り除かれた。実家に帰るのかどうかを心配していた。
「家に帰っても、お嬢さま暮らし、勝手な振る舞いも出来ません。ここにいれば自由で楽しい」
「じゃ。今まで通り残るのね」
「残ります。ここは楽しい。それに・・・」
「それに・・・なに・・」
 宗次郎さんを好きになったみたいと言いたかったが、それは言えなかった。
 そんな事とは知らない宗次郎は、菓子を口に頬張っていた。
「実はねぇ。今度のことで、師匠が、お涼ちゃんは帰るのではないかと心配していたの」
 お芯が言った。
 結局内弟子が一人少なくなると、実入りが少なくなるので、お蝶が心配しただけのことかと、宗次郎は苦笑いを浮かべた。
「話は尽きないようだが、お前等いつ帰るのだ。鳴海屋は帰ったぞ」
「鳴海屋さんは何故来られたのですか」お扇が聞いた。
「暇だから、世間話だろう」
「鳴海屋さんとは親しかったのですか?」
 仕事仲間とは言えない。
「まあ、親しいと言えば・・・」
「今度鳴海屋さんで、甘味を頼む時は、安くしてくれるでしょうか」
 何を言っている。親がかりで金に不自由はしていない癖に・・。宗次郎はそう思って、娘達の顔を見た。

 翌日、宗次郎は佐吉に呼び出された。それで近くの境内に足を運んだ。何故そんな所に呼び出すのか不思議に思ったが、佐吉のことは信頼している。家では話せないことでもあるのか。宗次郎は不思議そうに境内に来た。
「宗次郎の旦那・・・」
「おう。佐吉か。娘達は無事親元に帰ったであろうな」
「手分けして調べましたるところ、どの親も、娘との再会し、涙・涙の感動ものでございました。但し親達にも、仕事屋のことは忘れて欲しいと頼んでまいりました」
「そうか。娘と無事会えて、喜んだであろうな・・・」
「言葉の通じぬ異国に売り飛ばされると聞き、100両では安すぎたのではないかと。もっと出すべきと言う親も多数おりました」
「そうか。そんなに喜んでもらえれば何も言うことは無い」
 それから佐吉は少し考えるように間を置き、
「ところで一つ御願がございます」
「願い事・・・?」
 佐吉にしては珍しいと思った。同時に何か嫌な予感がした。
「実は当初、娘は5人と噂されておりましたが、実際は6人おりました。この6人目の娘は、父親と二人暮らしでしたが、かどわかされる時に、父親を殺され、天蓋孤独となってしまいました」
 益々嫌な予感がした。
「娘に今後どうするのかと訊ねたところ。もし助けて頂けなかったら、異国に売り飛ばされ、一生言葉も通じぬ異国で暮らすことになります。それを考えたら、あのまま異国に売り飛ばされたら死んだも同然」
 佐吉は言葉をつづけた。宗次郎は益々いやな予感がした。何が言いたい。
「そうならずに済んだのですから、助けてくれたお方のもとで一生を過ごし、少しでもお役に立ちたいと申しております」
「馬鹿な・・・」
 嫌な予感は的中しそうだった。
「うちの旦那は、若い娘を使う仕事など無いと言うと、それでは出来るだけ近くで暮らしたいと言うので、お蝶さんのところに頼むことに致しました」
「待て、お蝶はそんな話には乗るまい」
「いいえ。内弟子として、授業料や生活費をキチンとお支払い下されば喜んでお預かりしますと了解を得ました」
「誰が授業料と生活費を払うのだ」
「それは勿論、宗次郎さんです」
「俺が・・・・?何で俺がそんな費用を・・・」宗次郎は慌てた。
「その娘が、灯篭の後ろに控えております。良く話し合って下さい」
「待て、娘は何も師匠のところでなくてもいいだろう。働きたいのなら、知り合いの商家もある」
「その娘は、浪人とは言え、武士の娘です・・・」
 そして佐吉は、灯篭の陰に身を隠していた娘に向かい。
「そなたからもよくお頼み致せ」
「佐吉待て、わしはそんな話には乗らんぞ・・」
 冗談ではない。今でもやかましい娘が三人もいるのに、またそこに若い娘が加わる。絶対に承服することはできない。しかもなにゆえに、生活費の面倒まで拙者がみなければならない。どう考えても理不尽ではないか。
「では、後は娘さんと二人で・・・」
 そう言うと佐吉は、さっさと姿を消した。身軽な男である。
「喜久と申します。助けて頂いた御恩は一生忘れません」
「忘れても構わん」
 宗次郎は慌てた。三人に負けず劣らずの美人だ。しかも同じように年は若い。このような若い娘は苦手である。
「これからは末永く宜しくお願い致します」
「・・・・・・?」
 末永く?嫁になる訳ではないのに、言葉の選択を間違えているだろう。
「まて、娘。まだ了解した覚えはないぞ」
「宗次郎様。折角助けて頂いたのに、死ねと仰せですか」
「いや・・・。死ねとは言っていない。ただ仕事なら他にもあるだろう。そなたを隣の師匠のところで預かると言うことは、費用もかかる」
「それでも千両は掛りません」
「千両・・・?」
 宗次郎は目をむいた。
「大野屋からうまい具合に千両だまし取りましたね。その千両がある筈・・・」
「そなた、何故そのことを知っている?」
「大野屋とのやり取りを布団の中で一部始終を聞いておりました」
 あの時、酷い顔で病を演じていたのは、この娘か。今はぞっとするほどの美しい娘に変貌していた。
「あの千両、私が管理致しましょうか」
「馬鹿な・・」
 これは拙い。千両のことは、誰にも知られていないと思っていたが、この娘に知られたか。それに、菊園の師匠お蝶も、お芯も、お扇も、お涼も宗次郎が仕事屋であることは誰も知らない。この娘が隣に住むと言うことは、宗次郎の仕事を唯一知っている娘と言うことになる。それは拙い。  
 しかも内緒の千両、知っているとなるとそれも拙い。それで仕方なく口止めとして、
「わかった・・・・。兎に角わしからも師匠に宜しくと頼んでおく・・・」
 この娘、いずれ何か手を打たなければならないと思ったが、方法があるわけではなかった。
 宗次郎はひどく慌てていた。あの千両は誰にも知られていない金である。仕事仲間すら知らない金子だ。勿論翔馬も知らない。
「大丈夫です。私しか知りません。他言無用でしたら、二人の秘密に致します」
 娘は余裕で笑っている。
このお喜久とやらが、隣のお蝶の処に住むとなると、飛んでもない娘が、また一人新たに加わったことになる。宗次郎はやれやれと、冷や汗を拭った。
                      
                  おわり

仕事屋宗次郎(1)

仕事屋宗次郎(1)

ケチな仕事はしない。殺しはやらない。悪には味方しない。仕事屋は頭で勝負します。受けた仕事で失敗はない。成功報酬です。成功しなければ、礼金は戴きません。これで駄目ならお引き取り願いたい。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-03

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