物欲センサー

 彼は大学生だった。大学生は大学へ行くものらしい。最近出てきたネット通販みたいに、家に居ながらボタン一つで単位を宅配してもらえないものだろうか。手早く髪のセットを終えると、ショルダーバッグを肩に掛けて家を出た。
 数分歩けば最寄り駅。動く歩道を行き交う人々はみな忙しなく、(おそらくは仕事の)電話をしながら彼を追い越していった。都会の日常とはこういうものなのか。地元はひどく辺鄙な田舎だったから、自分だけが流行の先端を行っているという矜恃があったが、ここに居ると時代に置いていかれているようだ。
 そう、自動改札というのもここに来て初めて見た。定期はどこにやっただろう。そういえば、そもそも定期を買った記憶がない。今から買いに行ってたら大学間に合うのか? 反射的にポケットの中を探ると、ICカードが触れた。助かった。自動改札にかざして満員列車に身を埋める。

 授業開始十分前だというのに、階段教室は学生で埋め尽くされていた。大学の日常はこういうものなのか。想像とだいぶ違う。大学生といえばとりま飲み会で「それな」と言っておけばコミュニケーションが完成するのではなかったか。いや、それは雑誌の読み過ぎか。それにしても、学生みな六法全書のような分厚い本をうずたかく積み上げて、いかにも苦学生という出で立ちで行儀良く坐っている。入る教室を間違えたと思いたかったが、やはりこの教室だ。小走りで駆け上がって一番後ろの席を確保した。
 隣の席には女の子が居た。この子は一般的なゆるふわ女子大生とおぼしき人物だった。机には辞典のようなものが一冊だけ。ひとまずマトモな感じだ。うっす、と取り留めのない挨拶をして、
「おっはよーケン、遅いから心配したよー」
 彼女の声が教室にこだました。いやいやいや、やめてくれよ。前言撤回、マトモじゃなかった。声大きいよ、ささやき声でそう伝えると彼女は不服そうに頷いた。周りは何事もなかったかのように集中して勉強している。
「教科書の1,184頁から5,208頁までが小テスト範囲だからね」
 彼女は親切にささやいてくれたが、テスト範囲広すぎないか。教科書4,000頁というのは、小テストの規模ではない。頑張ればできるよ、と付け足してくれたが、素直にそうだねと言えるほど単純な人間ではない。そもそもそんなもの持って――いないと言いたかったが、ショルダーバッグの中には例の分厚い教科書があった。教壇に先生が現れた。もう、やるしかないようだ。
 もちろん撃沈した。出題範囲も広かったが、出題数も半端なかった。「3,003頁のまんまだったね」などと感想戦が聞こえるが、本気なのか。
「ケン、どうだった?」
 アメリカンなジェスチャーで答える。
「あたしも1,500点はあると思うけど、微妙ね」
「みんなそんなにできるんだね」
「今回はみんな頑張ってたからね、負けちゃったかも」
 黒板には先生が次のテスト範囲を書いている。ふいに反対側から呼びかけられた。
「ケン、ごめん。テスト範囲を教えてくれるかな」
「あー、5,208頁から8,992頁だね」相変わらずものすごい桁数だ。よく分からない笑いがこみ上げてくる。
 しかし黒板に書いてあることを尋ねるなんて、彼は目が悪いのだろうか。不審そうな顔をしていると、彼はありがとうと一言置いてから、「義眼だからね」と苦笑いで教えてくれた。
「カイは頑張り屋さんだよね、もう取り戻せるんじゃない?」
「まだ足りないみたいなんだ」
「ふーん、ちょっとトイレ」
 彼女は授業中だというのに席を立って行ってしまった。
 ケンの中にはカイの「義眼」という言葉が引っかかっていた。辺りを見回してみると、義手や義足をしている学生が目立つ。すっかり馴染んでいて気がつかなかった。あるものは機構がそのまま見えていて、あるものは人間の肌と見紛うのほどの質感だった。さらに、満員かに思えた教室にはいくつかまばらに空席があることに気付いた。あれほど律儀な人間(彼女を除く)なら前から詰めて坐りそうなものだ。
 彼女の席の反対隣りにはカイという青年が静かに坐っていた。カイと彼女とケンはどういう関係なのか。まずケンは彼女の名前すら知らなかった。手始めに彼女の名前を聞いてみるとしよう。
「なあ、カイ。サチの名前って何だっけ?」
「何を言っているんだい。サチはサチだろう」
 カイに呆れられてしまったが、ケンも自分自身に呆れていた。サチはサチじゃないか。そんなことは言葉に出す前から分かっていた。そう、分かっていたのだ。つまりだ。
「もしかすると俺、超能力者かもしれない」
「いま授業中だよ。また後でね」
 カイは真面目な奴だった。

 十二時の鐘が鳴ると講義が終わった。昼食の時間らしい。講義は高校と変わらず退屈で、しかし宿題の量が尋常ではなかった。そして先生が質問を投げかけたときには我先にと手が上がった。小学生でもあるまいに。いったいここの学生は奇妙だ。
 カイが昼食にしようと声を掛けてくれた。右手には弁当箱。サチはいつ注文したのか知らないが出前のピザを嬉しそうに抱えていた。ケンは久しぶりにカレーライス――が食べたいなと思った瞬間には、目の前にほかほかのカレーライスが出来上がっていた。
 一つ仮説が生まれた。先ほどの推理より進んだ、「この世界の法則」だ。朝のICカード、分厚い教科書、サチの名前、そしてカレーライス。これらが成り立つためには、
「あのさ、ちょっと馬鹿みたいな話なんだけど、人の心を読み取る、物欲センサーってあるんじゃないかな」
「あるよ」
「あるね」
 深刻に言ったつもりだったけれど、二人同時に即答されてしまった。どうしたの、面白くないよと言われてしまう始末。二人の話によると、欲しいと思ったらその場に届く。願えばたいていのものは手に入るそうだ。
「昔はお店まで貨幣を持って取りに行っていたらしいけどね、無駄な時間よね」
「欲しいと思ったら結局手に入れるのだし、その間に面倒な手続きをする必要はないね」
 常識というものはすぐに掌を返す。
「お金は払わなくていいのか?」
「お金? 貨幣時代じゃあるまいし」
 そういうものらしい。
「いったいその物欲センサーはどこにあるんだ?」
「マザーに関する問い合わせは禁則だからね、それは誰にも分からないよ」
 カイは冷静に答えてくれたが、マザーとは何なのか、訊きたいことたくさんあって目が回る。だからこんなことを言ってしまった。
「何でも手に入るなら、そんなに頑張って勉強しなくてもよくない?」
 三人の間に突如として冷たい時間が流れる。これはマズってしまった。笑ってごまかせそうもない。回避不能。舵を手放すしかなかった。
「本当に何でも手に入るなら、両眼を取り戻せるし、ここに来ていないよ」
 カイが強い語気でそう言い放つと、三人の机から立ち去っていった。サチはさっきまで陽気に振る舞っていたのに、急に無表情となり、放課後別館の踊り場で待ってると短く言ってどこかに行ってしまった。何が悪かったのか、理解するには何もかもが足りなかった。

 放課後、言われた通り踊り場に来ると、サチがモルタルの壁に寄りかかっていた。ケンを見つけて軽く反動を付けて歩きだす。
「願えば手に入る、というのは競争率が低いときだけなの」
「え」
「お昼の話の続き。有限のもの唯一のもの、競争率の高いものは、どれだけそれが欲しいかという思いの強さで決まるの。ほら、テストも競争でしょう?」
 サチは、ケンが戸惑うのも構わず続けた。
「テスト範囲が何千頁だって何万頁だって、思いの強さで点数が決まるのだから関係ない」
「ちょっと待って、思いの強さって何なの?」
「さあね。時間の速さとかと同じたぐいかもね」
 小さな声で呟いてから、再びサチが口を開いた。
「さて問題です。何でも手に入るようになった人間は、どう生きたらいいでしょう?」
 話が跳躍しすぎている。ケンはサチのモノローグにに耳を傾けるしかなかった。
「仕事を作るしかないの。電車だって学校だって、本当は要らない。でも、生きる意味が見いだせなくなってしまった人は、一時でも死を考える。願えば叶う。だから必死で仕事や勉強を作って生きているの」
「願えば叶う。もう一つ悲しいことがあるの。あなたは事故で脚を失ったとしたら、何を願う? 脚が欲しいでしょう。自分にぴったりで、機械じゃなく、人に近い、いや、人そのものの脚が」
「でもね、考えてみて。自分の手足を失いたくないと片時も欠けることなく願い続けながら生活するのはとても難しいことなの」
「ここでは何かを奪われた人がそれを取り返すために学んでる。あたしもその一人。あたしはあたしの右手を取り戻すために、ここに居る」
 そう言って振り返ると、サチはケンの胸元に収まった。そういう仲だったのか。手をどう回したらいいか分からない。
「ケンはそれを手伝ってくれるって約束してくれたんだよ」
 いい話じゃないか。しかし顔を上げたサチは今にも泣きそうだった。そして、懇願するように言った。
「ねえ、あなた誰?」

《了》
 

物欲センサー

物欲センサー

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-11

CC BY
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