遺光
真っ白でぼんやりとした光の玉をよく見かけるようになったのは、母が亡くなって初七日を過ぎたあたりからでした。あの時の私はまだ幼くて死という概念すら曖昧なものだったと記憶しています。光の玉はごく自然に風景に溶け込んで、その場に留まり続けたり宙を漂ったりしておりました。もちろん触れることもできないですし、なんら匂いもありません。ただ、手をかざすとすこしだけ暖かい気がするのです。
「ねえ、ここに何か見える?」
宙に浮く光を指さしながら私はよく人に聞いてみたりしたのですが「うん。」という返事を聞いたことはありません。いや、そういえば一度だけ同級生の男の子が酸っぱい顔で曖昧な肯定したことはあったけど、あれはたぶん私に気を使ってくれたのかもしれないですね。
母が亡くなったのはチェッカーズが解散した年の夏でした。今年は数字の組み合わせが素敵な2002年。つまりあれからもう10年も経ってしまったということです。月日の流れとはなんて早いのでしょうね。私は地方でひっそりと大学生をやっています。
ここで光の玉に話をもどしましょう。実をいうとその光の玉を見かける頻度は年を経るにつれて少なくなったのです。そしてついには、ある日を境にぴたっと見えなくなりました。それについては後述しますね。
小学校を卒業するまでは毎日どこかに浮いていた気がします。授業中にぼんやり窓の外の遊具やらを眺めていると、いつの間にかジャングルジムの中にくるまれていたり、運動会の徒競走の時にいたっては私の前をついてきたりするのです。当時は少し怖かったこともありますが、今思えばきっと私のことを心配してくれていたのでしょうね。夕焼けの帰り道なんかには、道しるべみたいに私の前方にふわふわと浮いていたりしたものです。
高校生にもなるとその光にもすっかり慣れ、それに向かって時々話しかけたりもしてみたのです。もちろん一人きりで部屋にいるときにですよ。大抵は近況報告が多かったのですが、私が話終えるといつの間にかふんわりといなくなっていたから、一応は最後まで聞いてくれていたのかもしれません。
「なあ、さっき誰かとしゃべってたか?」
「うん。友達と電話してた。」
一階のリビングに降りるとよく父親に心配されたものでした。
まあそのころには一週間に一度見かけるか、時によってはひと月ほど姿を現さないこともありました。長らく見かけないときはなんとなく寂しい気さえしたのです。
私はその光に一度だけ包まれたことがあります。あれは確か、誰にでも一度はある多感な時期の幻惑みたいな厭世感に身も世も憂う休日のことだったきがします。雨は降りやまず、遠くのいなびかりがベッドに横たわる私を打擲していたり、もうどうにでもなれという、いささかやけっぱちな心持ちでもありました。
横たわる目線の先に光はいつものように浮いていたのです。
「消えて!もう、うっとしいの!あんたも!」
それでも光は消えてくれません。それどころかふわふわ近寄ってきたかと思うと、私の小さな身体包み込んだのです。そのぬくもりに触れた私はなんというか、胎児になったような気持ちでした。人間の記憶とはなんと不思議なのでしょうね。開いた窓からは、雨上がりの生ぬるさに陽光まじりのやんわりとした空気入り込んできました。
人も気候も全てがおだやかく感じられる春のこと、地方の大学への進学を決めた私はよくあるドラマのワンシーンのように、駅のホームで一日数本しか走らない電車を待ち続けていました。線路向こうには青々とした菜の花がわんさか咲いて、遠くにみえる家々はかすかにぼんやりと光っていました。
涙もろい父は、数分置きにほろほろ涙をながして私は少し恥ずかしくもありました。まあ私たち以外に誰もいなかったのですけどね。
少し遅れて到着した電車に乗り込んだ私はホーム側の席に座ると、窓を開けて父親に別れの言葉を掛けました。ごとんと動き始めた電車に早足でついてくる父に手を振っていますと、気づけば父の隣にあの光はそっとよりそっていました。思わず私は涙しました。
「お父さんをよろしくね。」
遠ざかっていく父の隣には母がいて。
閑散とした車内で一人、私は手元のみかんをひらりとむくのです。
遺光