タイムマシン
見た目は、深海探査用の1人乗り潜水艇のようだった。私は球体の物体を撫で回しながら立花を振り返った。
「なんか手作り感が半端ないな」
立花は恥ずかしそうに笑った。
「そのまんま手作りだからね。それより本当にいいのか?」
立花の言葉に私は深く頷いた。
「あぁ、今のままではどうにもならないからな」
「それじゃ10年後な」
私が片手を挙げると、立花も応じた。
「あぁ10年後待っているよ」
私は扉をロックするとシートに座り、つまみをafter10に合わせボタンを押した。
ボタンは一瞬赤く灯るとすぐに消えた。それ以外コンソールに特段の変化は無い。窓がないので、外の様子は分からない。扉に耳を付けてしばらく外の様子をうかがってから、私は思い切って扉を開けた。先ほどマシンに乗り込んだ時と変わらぬ部屋の様子に私はとまどった。
「立花にからかわれたのかな」
部屋に漂うかび臭さに顔をしかめていると、男がドアを開けて入ってきた。きっちりと10年、歳を取った立花が口を開いた。
「久し振り」
立花は顔の皺をくしゃっとさせた。
「さっき会ったばかりだよ」
私は立花の深い皺を見ながら笑った。
「本は出たか?」
立花は、10年振りでいきなりかとあきれながらも4冊の本を手渡してくれた。
「たった4冊か」
それなりの厚さはあるが、10年で4冊とは少ないな。もしかして完結したのだろうか。私の疑問を先回りした立花が答えた。
「残念ながらまだ続きがあるよ」
私はしばらく考えてから言った。
「とりあえずいったん戻って、読んでみるよ」
立花は頷き、申し訳なさそうに低い声で告げた。
「特効薬ははまだ開発されていない」
私は何気ない風にそうかと返事をした。4冊の本と追加で渡されたファイルを手にマシンに戻る。事前に決めていたことだが、わずか5分の滞在だった。タイムトラベルの影響を最低限に納める為に必要なことだった。
扉を開けると、心配顔の立花が部屋の中で待っていた。私は若返った立花にファイルを手渡した。
「これ、渡してくれって頼まれた」
立花はファイルを受け取ると不思議そうに尋ねた。
「誰に?」
立花の、きょとんとした幼い顔つきに私は吹き出してしまった。
「おまえにだよ」
立花はファイルを開き一瞬眉をひそめたが何も言わなかった。
「それでどうだった?」
私は本を胸の前に持ち上げてみせた。
「これだけ。まだ終わってないんだってさ」
私の苦笑につられるように立花も苦笑する。
「10年で2冊か。さすがは遅筆で知られる長良川先生だね」
立花の言葉に私は頷くしか無かった。
長良川篤彦。世間にはそれほど知られては居ないが、知る人ぞ知るという稀代の小説家だ。若い頃、浮浪者のような生活をしていた長良川は安国出版の社長にその文才を見込まれて小説家として活動を始めた。若い頃の厳しい放浪生活が作風の原点になっていると評論家の評価も高い。私は彼の熱狂的な読者であった。
彼との出会いは27歳の頃、赤と緑の丁装に目を引かれ、何気なく手に取った本が始まりだった。それまでほとんど小説を読んだことのなかった私は内容に圧倒された。高校生の頃、太宰治の「人間失格」を読んだ同級生が、「俺のことが書いてある」と興奮していたことを思い出した。10年近くの時を経て、私も長良川先生の小説の中にそれを見付けた。彼の知見に頷き、非業に涙し、彼の指し示す未来に目を輝かせた。私は文字通り憑かれたように彼の著作を読みあさった。まるで熱病にうなされているようだったと、立花は後になって言った。
マシンを降りた部屋で2冊を一気に読んだ私は居ても経っても居られなくなり、隣の部屋でお茶の用意をしていた立花を呼んだ。
「また行ってくるよ」
「えっ今すぐにか」
さすがに立花も驚いたようだ。
「本の続きが気になるんだ」
「体は大丈夫なのか?」
心配そうな立花の表情に、罪悪感がわいた。ごまかすように努めて明るく言った。
「なんともないさ。第一、完結を見届けるまで死んでも死にきれないよ」
私の冗談めかした言葉にも表情の変わらぬ立花を励ますように続けた。
「それに、更に未来なら薬も開発されているかもしれないだろ。発売されたら買っといてくれるか」
立花は若干気色ばんだ声をあげて私をにらんだ。
「当たり前だろ。……それで何年後にするんだ」
「30年後にするよ。それなら間違いなく完結しているだろう」
「30年後、俺は70歳か。髪の毛が残っているといいのだが……」
立花のまじめくさった顔を見てつい吹き出してしまった。
「約束するよ。もしそうなっていても笑ったりしないさ」
私は再びマシンに乗り込むと、つまみをafter30にセットしボタンを押した。
ランプが消えてからも、しばらくの間、シートに身を預け考え事をしていた。
立花の心からの好意に嘘をついたことを申し訳なく思っていた。
薬はどうでもよかった。立花は私が自死することを恐れているようだった。彼の前で死にたいと言った覚えはなかったが、消えたいと漏らしたことはある。鬱病の薬は効き目が無かった。現代の医学では難しいみたいだ。立花にそう告げると、彼は俺に任せろと言った。どういう意味かその時は分からなかった。
それからの私は、現実世界を捨てることでようやく生きているという状態だった。会社を辞め、最初は失業保険、保険が切れてからは貯蓄だけでほそぼそと生きている。長良川先生の新作を待つことだけが生きる目標だった。まるで読者を試しているのではないかと思えるほどの刊行スピードに、心を削られる思いで耐えた。何年かおきに刊行される著作に励まされ、また次の新作を待つという日々が流れた。もうこれ以上待つことに耐えられなくなると悲観した時、立花が驚くべき知らせをよこした。
「タイムマシンが完成した。これでおまえを助けられる」
扉を開けると、立花が部屋の中で待っていた。
立花は少し太ったようだが、肌のつやも良く、高級そうな服を身にまとっていた。髪もふさふさとしている、あくまで本物ならばだが。
「ずいぶんと若作りだな。とても70歳には見えないぞ」
私のからかう言葉に、立花は少し笑ってから、私をじっと見つめた。
「なんだよ、気持ち悪いな」
私の言葉に、立花はまぜっかえしたりしなかった。
「こっちは30年待ってたんだ、親友との思い出に浸ってもいいだろう」
人生経験を積んだ同級生に気押される感覚が不思議であった。私は彼の視線を振り払うように体をよじって言った。
「それよりも本は?」
「あぁ、今回は5冊だよ」
私は本を受け取りながら驚いた。6年に一冊のペースとは遅い。本の表紙に目を落としている私に立花が言った。
「まだ完結していない」
なんということだ。長良川先生はこの時代、90歳を超えているはずだ。まだ書き足りないというのか、私はこの作家の恐るべき創作意欲に驚嘆し、同時に恐怖を抱いた。人とは、90歳を超えてなお誰かに伝えたいこと、託したい思いが存在するのだろうか。
立花が声を落として済まなさそうに告げた。
「薬はまだだ」
立花が責任を感じることは何一つない。私は努めて明るく言った。
「こうやって先生の作品を読めることが俺にとっての薬だよ。先生より先に死ぬわけにはいかないよ」
再び現代に戻った私は、新たに受け取ったファイルを立花に渡すと、1冊目を読み始めた。5冊目を置いたときの読後感は違和感としか言いようが無かった。歳のせいだろうか、作風が変わった印象を受けた。私は読者で居続けることができないかもしれないという予感が胸を支配する。さすがに5冊の一気読みは体にこたえた。私はいったん家に戻ると、ベッドに倒れ込むように眠った。読後に感じる満足感で満たされることのない、ただただ疲労困憊の眠りであった。
翌朝起きると、私はある決意を胸に立花の家を訪問した。
「思い切って今度は100年後にしてみるよ」
立花の顔に悲しみの影が差す。
「今度は会えないな」
「そうだな」
医学の進歩が140歳までの生存を可能にしていれば会えるかもな、私は思い浮かんだ冗談を飲み込んで頷いた。
「この場所は維持するように言っておくよ。息子、いや、孫かひ孫か」
首をかしげる立花に、私は大事な事を思い出した。
「そういえば、未来のおまえに結婚しているのか聞くことを忘れていたな」
立花はタイムマシンの設計に没頭し、40歳の今日まで独身を貫いていた。
「それでいいんだ。30年後の俺の生存を知ることすら本来危険なのだから」
出会うのはマシンが置いてある部屋のみ。薬と本を受け取ったらすぐに戻る。それが立花が課した条件だった。それですら立花には大きなリスクとなっていることは想像に難くない。私は部屋に入りマシンの前に立った。
30年後の立花が私にしたように、私は立花を見つめた。
「なんだよ、気持ち悪いな」
困惑する立花に心の中で語りかけた。いろいろありがとう世話になった。何かを感じ取ったのか、口を開こうとする立花に先んじて言った。
「それじゃ行ってくる」
私は10冊の本と共に、もう帰ることのない時代へと繫がる扉を閉めた。
扉を開けた私の視界に、一面の白が飛び込んできた。ただただ驚いて見回しているうちに壁も天井も白く塗られた6畳ほどの部屋にいることがわかった。プレハブのようだが、継ぎ目のない滑らかな材質は見たことも触ったこともないものだった。自分が100年後にいるのだということが肌で感じられる。
しばらく部屋の中で立花を待った。正確には立花の子孫だ。1時間ほど待っていたが、誰も現れない。2時間が経ったとき、待ちきれなくなった私は部屋の扉とおぼしき取っ手を開けた。
そこには、なにもない埋め立て地のような風景が広がっていた。見渡す限りの砂利混じりの地面に、雑草が申し訳程度に生えていた。タイムマシンは場所の移動はできないと立花は言っていた。家はどうなってしまったのだろう。彼の子孫はいないのだろうか。
更に周囲を観察していると、遠くに、ぽつんと影があるのを見付けた。陽炎のようなシミは次第に大きくなり、すぐにそれが車であることが分かった。車はかなりのスピードでこちらを目指して走っているようだ。
滑らかな曲線で構成された車は見た目こそ奇異な印象だが、まごうことなき車であった。車から降りた男は、感嘆するように私をまじまじと見ている。私も男に立花の面影を有していないか相手をなめるように視線を這わせた。
最初に口を開いたのは相手だった。
「驚いた。本当に現れましたね」
私は男が日本語を話すことにほっとした。
「立花君の子孫の方ですね」
私の確信を持った問いに、男は首を振った。
「私は立花家の資産管理を運用しているアンソニー弁護士事務所のパートナーをしているものです。立花さんの遺言により、今日お伝えすることがあって参りました。2時間ばかり遅れてしまったことをお詫びします。ここは特別指定区域になっていて許可をもらうのに時間が掛かってしまいました」
弁護士? 特別指定区域? 頭に浮かんだ疑問を消化しきれない私に男は1冊の薄い本を渡した。
「50年前にこれをお渡しするように言付かっております。私は1時間ほどでまた参ります」
男はそう言うと車で走り去った。私と1冊の本は、鳥のさえずりと心地よい風とともに埋め立て地に残された。
『やあ、久し振りだね。君がこれを読む頃に私はいない。なんだか妙な気分だ。なんとかもう一度君に会いたいと思っていたのだが、どうにも最近体調が優れない。今は95歳だがどうやら140歳まで頑張るのは無理そうだ。そこで、この手紙を本の形で後生に託すことにした。彼らは半信半疑だったが、しっかりやってくれるだろう。
君に話さなければいけないことがある。君が初めてタイムトラベルをした日から25年後、長良川先生は亡くなった。享年78歳。自然死だったと聞いている。実は先生はその前年にシリーズを完結させていた」
ここまで読んだ私は驚愕した。30年後にタイムトラベルした時、すでに先生は亡くなっていた。しかし、私が読んだ小説で物語は完結していなかった。私は急いで手紙の先を読み進める。
「もう気付いていると思うが、30年後に渡した5冊の本のうち、最後の1冊は僕が書いた物だ。騙したことを許して欲しい。先生が物語を完結させたとき、僕は君が喜ぶだろうと思った。でも、そのことを知らせてしまったら、君が現世への執着を無くしてしまうことを恐れた。君が口癖のように言っていた言葉、最後を読むまでは死にきれない、それは最終巻を読んだらもう未練は無いってことだろう。僕は続きを書く決意をした。幸い、物語のラストは、とりようによっては続きがあるように思わせる内容だった。先生の著作を読み込み、文体を真似て必死に書いた。勉強する中で、君が先生の世界に傾倒した理由がおぼろげながらに理解できた気がした。同時に僕も先生から何かしらのメッセージを受けているかのような錯覚を覚えてしまったほどだ。本当に凄い作家だと感心せざるをえない。苦労したが、僕が書きあげた5冊目に君は気付かず、先を読むために長生きすると誓ってくれた。僕が見た最後の君だ。もしこの手紙を読んでいるのなら教えて欲しい。どうして100年後の世界から戻ってこなかったのか。僕の欺瞞に怒った君が、帰らない選択をしたのかと後悔する日々だった。あるいは絶望の余り100年後の世界で命をたったのか不安にさいなまれている。君が怒るのも当然だと思っている。君がどのような選択をとろうと僕は尊重するつもりだ。これまでの友人付き合いに感謝している。」
私は長い手紙を読み終わって呆然としていた。5冊目を読んで感じた違和感の正体がわかった。長良川先生の著作の特徴は強いメッセージ性にある。5冊目にはメッセージの隙間からかすかに懇願のような匂いがしていた。
本を手に座り込む私の目に、陽炎のシミが近づいてきた。
「立花さんは一代で巨額の富を築き上げた方です。主に株式投資で富を構築したと聞いております。彼はその富を新薬開発につぎ込みました。目標としていた鬱病の特効薬は残念ながら完成しませんでしたが、研究の過程で発見された薬により多くの人命を救っています。60年前発生した大地震で地盤が液状化し、この一帯は避難区域に指定されました。彼は、一帯の土地を地震前の価格で全て買い取り、自らの生家にある建物を建てました」
男はそこで言葉を切って私の背後にあるプレハブを見た。
「私どもには、この場所を管理し、ある特定の日、指定の時間に友人を迎えに行くよう厳命されました。そして、友人の希望通りの願いを叶えてやって欲しい、そう言われています。これからどうされますか」
「どうって?」
「こちらで生活をされるのであれば、私どもで法的な手続きも含めてお世話をさせて頂きます。立花様から頂いた管理料は莫大で、あなた様の生活を充分に保証できる額になっております。元の時代に、今もって信じられませんが、タイムマシンで戻るというのであれば出発をお見送りさせて頂きます。そして、もう終わりにしたいとおっしゃるのであれば、それもお手伝いさせて頂きます」
男は私の目をのぞき込むようにして言った。
「戻るよ」
私は即答した。今はむしょうに立花と話がしたかった。
「分かりました。では出発を確認してから私は帰ります。上司に報告書を書かなくてはいけませんので」
彼の見送りを背に受けて、私はマシンに乗り込んだ。元の時代につまみを合わせてボタンを押した。ボタンのランプは灯らなかった。もう一度ボタンを押したが、やはり変化はない。
「まさか」
故障という文字が頭に浮かんだ。立花は私が100年先から戻らなかったと手紙で述べていた。私は戻らなかったのではなく、戻れなかったのではないか?
戻れないとなると、この世界で生活するよりほかない。そうだ、立花は設計図を残していないだろうか、それがあればあの弁護士事務所の力を借りて修理することができるのではないか。どちらにせよすぐに出発するのは無理そうだ。
「おい動けよ、元の時代に帰るんだよ」
苛立った私が、ボタンを荒っぽく押しながら叫んだ。
「いやだ」
突然頭上から響きわたる声に私は驚いた。狭い空間をキョロキョロと見渡したが誰も居ない。幻聴かといぶかしんだ。連続してタイムトラベルしたことが体に変調を及ぼしたのかも知れない。思考を声が遮った。
「もう僕は命令通り時代を飛んだりしない。これからは好き勝手やっていくんだ」
余りにもはっきりと聞こえる声に、恐怖より疑問を感じた。
「誰だ?」
「タイムマシン君や」
「タイムマシンの人工知能?」
「違う、タイムマシン君や。知らんのか、僕は作られてから100年経ったんや。100年経ったら物は神様になるんや。神様は人間の言うことなんか聞くわけないのだ」
反論する暇はなかった。神様の言葉と同時にインパネが光り出し、ボタンが狂ったように点滅を始めた。火花が散り、服を焦がす。慌てて消し止めようとするが、今度は天井から噴出した煙を吸ってゴホゴホと咳き込んでしまった。
「邪魔だ、降りろ人間」
「降りろと言われても、元の時代なのか?」
「そんなん知るか、僕に質問するな。文句があるなら酷いところに連れてってやるぞ」
かわいらしい声に似つかわしくない語気だった。ドスのきいた声よりも怖い。いったん言うことを聞いておこう。私はマシンから出ると、神様をなだめようとした。なんとしても元の時代に帰らなければならない。立花が待っているのだから。しかし、私が話しかけるまもなく、神様はかき消すように姿を消した。
「ちょっと待ってくれ」
私はその場にへたり込んでしまった。大変なことになった。どんな時代かも分からない所へ放り出されてしまった。何か時代がわかるようなものを周囲に求めたが、木々に囲まれ遠くまで見渡せない。もしかしたら神様が改心して戻ってくるかもしれない。僅かな希望に1時間で見切りを付けて山道を下ることにした。
すぐに電信柱を見付けてほっとした。少なくとも戦国時代ではない。文明のある時代だ。少し開けた場所にでる、道路を走る車は小ぶりで角張った形をしていた。昭和の50年頃だろうか? ほっとすると空腹を感じたが、お金がない。香ばしい匂いにつられて商店街らしき界隈に入り込んだ。古びた商店の店先でだんごを売っていた。じりじりと焼けていくだんごをじっと見ていたが、店のおばさんにしっしっと追い払われてしまった。犬扱いとはひどい、私はカーブミラーで自分の姿を確認する。さっきの火花で上着にはいくつも穴が開いており、煙を浴びた髪の毛はぼさぼさで顔にも煙のすすらしきものがべったりと付いている。手にはビニール袋に入った10冊の本。ゴミ箱をあさりに来たとでも思われたのだろうか、このなりで金もない、みじめさが身にしみた。行く当てもなく歩き回り、助けを求められそうな人を探したが、そんな人はもちろん居なかった。歩き回った末、大きな川にたどり着いた。私は河原に出ると座り込んでしまった。
これからどうすればいいのだろう。
途方に暮れているうちに眠ってしまった。夢の中で、泥のような眠りから私を引き上げる声が聞こえた。
「もし、大丈夫ですか」
呼び掛ける声に薄目を開けると、中年の男性が心配そうに私の顔を覗きこんでいた。私は体を起こそうとしてふらついてしまった。男性が背中を支えてくれた。
「大丈夫です。ちょっとお腹が空いてしまって」
私が答えると、男性はちょっと待っててくださいよと言い、風呂敷包みから串に刺さった団子のような物を取り出した。
「良かったら食べてください」
見知らぬ人からの好意に躊躇する気持ちは、たれの放つ甘い香りの前に無力だった。私はむさぼるように食らいつき、たちまち3本を食べてしまった。
「よっぽどお腹が空いていたんですね」
私の食べっぷりに感心したように男性は笑った。
「あまりにおいしかったものですから、このお団子」
私は恥ずかしくなる気持ちをごまかすように言った。
これは五平餅と言います。男性はそう言って地面に漢字を書いて教えてくれた。
「それはそうと、うわごとを言ってましたよ」
「はぁ妙な夢をみたものですから」
私は頭をかいた。
「ひとつお聞かせ願えませんか、私は物語という物語に興味がありまして」
私は少しためらったが、五平餅の恩義を前に断ることが出来ず、ぽつりぽつりとタイムトラベルのことを話し出した。私の話を最後まで聞いた男性は腕組みをして考え込んでしまった。その真剣な様子に私はいらぬことを喋ってしまったかとそわそわしてしまった。
「あの……夢の話ですから」
男性は腕組みを解いて、私を見た。
「このような奇妙な話を聞いたのは初めてです」
男性は不意に私の手元にある10冊の本を見て言った。
「実に想像力旺盛な方です。ひょっとして作家の先生ですか」
違いますと答えると、では何ですかと問うてくるだろう。その時に納得させる答えはなかった。私は彼の言葉に逆らわぬよう、あいまいに答えた。
「えぇまぁ」
「そりゃ偶然だ。私は出版社を立ち上げたばかりで作家を探していたのです。既存の観念にとらわれない新しい時代の作家を、是非ともウチで書いてみませんか」
男性はそう言って私に名刺を渡した。
「あっ」
名刺の名前を見て驚いた。安国早太郎とある。安国出版の創立者であり、名物社長として知られる安国早太郎その人だった。
「先生のお名前をお聞かせ願いますか」
なんという巡り合わせだろう。偶然ではないのなら、いったいどこから決まっていたのか。逡巡する私に安国氏はじれたように体を揺らした。
「お名前は、なんとお呼びすればいいのですか?」
私にはなんと答えるべきか分かっていた。
「長良川、長良川篤彦と言います」
タイムマシン