袋

「仕草が優雅なのよ」
亜弥香は美奈にそっと耳打ちをした。
 美奈は目の前に座る男性をあらためて見直した。駅のホーム、街の本屋、夜のスーパー、どこにいても周囲の風景に溶け込んでしまうような男。最初、どこかで見たことがあると思ったのは間違いだった。どこかで見ても、心にわずかなさざ波すら立てることのない、記憶に残らない平凡な若い男。というのが正解だ。もちろん初対面だった。
「すてきなバッグですね」
じろじろと見る美奈に困惑したのか、男は無理に笑顔を作りながら言った。美奈は無言でテーブルの上に置いていた巾着袋を、膝の上に避難させた。
「まだ持ってるの、それ?」
亜弥香が耳元でささやいた。
 男は困惑を深め、隣に座った亜弥香に視線を移した。美奈は顔を伏せて巾着袋のひもを引っ張り、袋の口ギュッとを閉める。
「この子、昔から持っているのよ」
亜弥香が取りなすように言うと、男はほっとしたようだ。
「中学生からの友達って言ってましたね。僕は転校が多かったからそういうのうらやましいな」
「へぇ、私なんか逆に転校生って憧れます。何カ所くらい転校したんですか?」
男が県名を挙げる度に、亜弥香は大げさに反応している
 奈美はうつむいたまま、袋の紐をいじり続ける。巾着袋の口が閉じられた段階で、美奈の役割は既に終わっている。占う価値もない男。もう奈美がこの場にいる必要はなかった。
 おいとましようと顔を上げる。ランチプレートのグリンピースをつまむ男の箸の動きを見た美奈の背中に、稲妻のような衝撃が駆け抜けた。まるでグリンピースのほうから箸に引き寄せられているように見えた。その優雅な仕草から目を離すことが出来ない。なんということだろう、美奈は男の手を見ている間、ずっと息を止めていた。

その夜、夢を見た。
 男の手はひらひらと舞う蝶のごとく、美奈の目の前を踊るように飛んだ。手の向こうに顔はなく、手だけが美奈の網膜を絶えず刺激している。
 男の手は私の髪を撫でまわし、首筋の産毛をにそっと手を這わせる。美奈はぞくぞくするような喜びの声を必死にこらえる。男の手が頬を伝い、美奈の唇に到達した瞬間、美奈は夢の中で歓喜の悲鳴を上げた。

男からあの喫茶店に呼び出された。
「僕のポケットにこれを入れたでしょう」
男はそう言って小さく折りたたまれた紙片を私に差し出した。
『別の日に会いたい』
美奈にはこんな物を書いた憶えも、彼のポケットに入れた記憶もなかった。でも、この筆跡は美奈のものに間違いない。少し角張った右上がりの字。女らしくないとからかいの対象にもなった学生時代の記憶が騒ぎ出す。
 私は無意識のままこれを書き、彼のポケットにしのばせたのだろうか。
膝の上に置いた巾着袋がもぞもぞと動き出す気配がした。
(ダメ、まだわからない。お願いだからじっとしていて)
美奈は必死に袋の紐を締める。
「少し、驚いたけど、光栄だな」
男が言葉を発する度に、袋の中身が動く。今までにない動きの激しさに中身が飛び出してしまわないかと不安になった。
「僕に興味があるってことなのかな」
男は袋の様子には気が付かず、口角を持ち上げた。私は袋を押さえつけたまま曖昧に笑った。男は私の笑顔に満足したように椅子に背を預け、煙草を取り出した。
「つかないと思いますよ」
美奈が言うと、男は、え? と聞き直すように美奈を見つめた。
「火、つかないと思います。風が強いから」
男はオープンカフェテラスの周囲を見渡して、いたずらっ子のような笑みを見せた。
「大丈夫、つきますよ」
「絶対の自信を持っているのね」
美奈の言葉に男は妙な顔をした。勢いよくかじりついた肉まんに、砂が混じっているのに気付いた、そんな顔だった。男は美奈の言葉を咀嚼し終えると、自信に満ちた声で宣言をした。
「そうですね、必ずつきますよ」
不意に袋がピタリと動きを止め、おとなしくなった。美奈は安堵すると、再び男の右手から目が離せなくなった。
 彼の右手は今日も美しい。夢の中で見た幻想的な美しさとは別の、生命力の強さを感じさせる美しさに満ちあふれていた。
「今日もそれ持っているんですね」
男がようやく美奈の膝上に置かれた巾着袋に気が付いた。
「私を完成させないためなの」
美奈の言葉は半ば独り言のようだった。完成した瞬間から、崩壊が始まる。美奈の好きな言葉だ。男は返事をしなかった。代わりに左手を伸ばし、巾着袋に触れた。
「触らないで」
美奈の言葉の強さに、男は驚いたように手を引っ込めた。男は驚いた顔のまま自分の左手を見つめている。まるで何かに噛まれでもしたように。男の目に戸惑いと疑問の色が浮かんでいた。
「やっと見付けた」
美奈は男に分かるはずもない言葉で疑問に答えた。

美奈は血で染まったシーツに触れないよう注意深く、男の手を巾着袋に入れた。袋は新しい仲間の到来をキーキーという声で歓迎した。その様子を見ていると美奈の良心がちくりと痛んだ。ごめんね、また違っちゃった。今度こそはと思ったんだけどな。
 美奈はそっとホテルの部屋を出た。従業員と顔を会わせる必要のないホテルで良かった。フロントを通り抜け、外に出る。早朝のひんやりとした風が美奈の首にまとわりついたが、寒くはなかった。駅へ向かう途中、コンビニに入った。
 崩れた感じの店員がこちらを見ることなく事務的な声でいらっしゃいませと言った。美奈は何気なく店員を見た。きれいな手をしていた。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted