フラグメント ー断片ー 


 気づいた瞬間、何処かの大草原と思われる開豁な地が目に飛び込んできた。
 ふわりと春風のように温かく包み込むような風が頬に触れた。 熱を纏った空気は今もなお生きていた。
 辺りを見渡すと柔軟な繊毛を彷彿とさせる、翡翠色の草原が周囲を埋め尽くしていた。 新緑のにおいが鼻孔をかすめる。
 上空はピンセットで細々と千切り取るように疎らに点在させた灰色の叢雲が余すところなく満天に拡がっていて、陽光が幾多の雲間から溢れながらも叢雲は驚異的な速さで彼方に領域を伸展している。 
 数少ない記憶の中で幼い頃、叢雲を見た記憶が残っていた。 その頃自転車の補助輪を取り外した状態で練習をしている時だった。 自転車の練習は思うように進まらず、要領が悪いことが窺えた。 早昼を摂ってからの練習は、結局夕暮れ時まで続き、苦労しながらもなんとか漕げるようになった。 達成感からか空を振り仰ぎ、内包していた疲労の淀みを吐き出していた時だった。 夕空の叢雲が始終不細工な練習の様子を周章と見降ろしているように視えた。 その絶遠の彼方にある叢雲は当時幼いながら素直にきれいだと感じてしまうほど魅力的な光景であると同時に、奇異的なものに遭遇したと物怖じしてしまう魔性的な景色でもあった。
 映像はそこでぷつんと途切れ、その思い出は今の今まで記憶の片隅に置き去りにされていた。 いや、忘れていたという点については不正鵠だと思う。 なにせ記憶が無いのだから。
 息吹のような風が吹き、髪が靡く。 つい目を塞いでしまう風もたまに吹く。
 草たちが活き活きとその身を絶え間なくうねりみせている。  その姿は漣を興す大海原を連想させた。
 周囲には誰も居ないようだった。

 気がつくと前方の位置にそこだけ異様に堆い丘が視えた。
 いや、最初からそこには存在していたのかも知れない——この眼でそれを確認したはずなのに、それが事実かどうか確信を持てなかった。
 左右均一に整った半円型の頂辺りに添えるほどの藍紫色が見られる。 そんな不可解な丘を前に、気づけば無心になって歩き始めていた。
 それが自然で当たり前で道理であるかのように、一歩また一歩と丘に迫った。
 本然な翡翠色の草地を踏みしめる音、足底に平伏する下草の這い上がろうとする抵抗力を底から感じた。 緑の草地が靡き、一帯の草たちは呼応するように律動よく乱舞する。
 空風の鼓舞に答えているかのように思えた。
 頭の中を自転車練習の記録が再度流れていた。
 自転車の補助輪なしの練習を一人でこなせるほど、その頃運動に自信があった訳でもなく、必然自転車の後ろ部分を抑えて一緒に走る役と指示応援役を担う相手が一人居るはずだ。 居るはずなのだが、相手が思い出せない。
 何故だろうか。 叢雲の事やその日食べた油じみた料理の品は憶えているのに、相手の顔が自然と浮かび上がらない。 記録を消去されたかのように忽然とそこだけ欠落していた。
 近くで見てみると予想以上に丘は高くまるで山のようだった。 それでも山らしく草木が有象無象と乱立しているわけでもなく、草地を底から無理矢理にでも隆起させたように窺えた。
 それまで居た距離からして半時はかかるだろうと予想したその山に、ものの数分足らずで到着していた。
 時間を忘却させるほど思い耽ていた訳ではなかった。
 なんとも掴めないが、ここは時間軸が本来の住む世界と異なるような、離別されているような気がした。
 いや、そう思う時点で、ここはもうあるべき世界ではないことが判別出来ていた。
 山路の其処彼処に藍紫色の花弁と同色の曼珠沙華が草地の上を点々と彩らせていた。
 驚いたことに今度は意思とは関係なく、山頂めがけて足が操られているように勝手に進みだした。 とても不気味で鈍くぎこちなく気味が悪かった。
 
 登り進めるほど藍紫色の花弁と同色の曼珠沙華はその数を増していたが深く考慮せず踏み進めながら、それでもまた自転車の練習の相手を想起した。
 しかし見えそうなのにそこだけ眩く照らされる。 それは日輪の光のように、捉えようとする眼をぎらぎらと躊躇なく焼き消されてしまうようだった。
 結局、思い出せなかった。
 喉元まで来ている意識はあるのに、そこに重点を置くとその時だけ頭蓋を抓られる疼痛さを感じた。
 そして何故、今の今まで記憶の片隅に埋伏してそれさえ忘れていた些細な出来事をここに来て思い起こしてしまったのだろうか。
 答えはやはり顕在化しなかった。 地面は草色よりも藍紫色の方が視界を彩らせていた。
 この先、つまり頂上に大樹が木立してるのだろうか。
 

        *


 程なく登頂した。
 脚は多分その時自然と止んでいただろう。
 思い出せないほど情景が鮮やかな変貌を遂げていた。 ひらひらと舞い散る藍紫色の花弁が地面を侵し、正対して藍紫色の花を満開に咲き誇らせた大きな桜の木がただ一本、たった一本だけがここの主のように我が物顔で陣取っていた。
 狂うように夥しいほど藍紫色の花が乱れ咲いていた。 その【死】 を連想させる色合いは、草の生命を無作為に根ごと吸い込み、それを糧に自生する獰猛さを感受してしまう。
 大樹は燦々と照らす太陽の光を贅沢に独占し生き生きとしている。
 桜の木の裏側から何かが動いた気がした。
 そっと羽が落ちるような、そんな軽量の立ち振る舞いで女性が現れた。
 いつの間に居たのだろうか。
 髪は腰まで届くほど長く、それを束ねる必要はないくらいきれいに纏まっている。 やや橙色と茶色が混ぜ合わさった暮色の髪。 整った顔立ち。 淡い紅色の唇。 石けんのような滑らかそうな肌。 下手に強調しない幻惑の睫毛。 随所思わず見惚れてしまうほどの妖艶さだった。
 声を掛けるべきなのだろう。
 そうしなければ何も進まないということは判り切っているのにどうやって口を切ればいいのか判らない。 未だに状況の整理が着いていないこの状態で何をどう話せばいいのだろうか。
 「鷺森……せつなくんですね?」
 女性は不意に言葉を発した。
 「……え、あ、はい……そう、です」
 流麗な声質に暖かみが微かに、しかしそれがちょうどいい加減に流れ込んで、浮き立つ気持ちが全身を溶解してしまいそうだった。
 ここに来て、生の実感を再認知してしまう
。 
 感覚がない。 例えば痛みを感じないというのは、有限の根源的生を否定すること。
 痛みを体現出来ないのは虚無の一言に尽きるだろう。 生きているのに死んでいる生きる屍のようだと誰かがそう言った。
 風が着衣の中に入り込み、こそばゆく肌をくすぐるような感触。 太陽に照らされて感じる柔和な暖かさ。 耳朶には桜の花や梢同士が空風に吹き、さわさわと音を立て心に懸かる猜疑心という塵埃を事無げに霧散霧消していくようだった。 
 「あの……なんと言いますか、その……全く判らないんです。 ここの事だけでなく、自身のことですら……。 ああ、いいえ、なんでもないです……あの、正直言って困惑しています。 ここは何処なんですか?」
 女性の目線が微かに下を向いた。 何かを切り出そうと会話の節々を整然と繋いでいるのだろうか。
 突然の事だったので思わず忘れていた事をそのまま口に出した。
 「……あの、貴女は、誰ですか?」
 女性は、はたと見開いた目を遇わせ小さなその口から、ああ——と吐息混じりの感情を現しながら顔が弛緩しだした。 その言葉が出てくるのを永劫待ち続けていたかのように、今にも泣き出しそうな表情をしていた。 
 事実目元はうるうる濡れていた。
 女性は胸に手をあて数拍措いてから、大切な事柄を懇切丁寧に言い訊かす母のように切り出した。
 「ええ……私は——」


        *

(土曜日)
 少し日焼けした天井を見つめながら、寝ぼけまなこでベットから躯を起こす。
 ——ああ、頭痛がする。 きっとあの変な夢が原因に違いない。
 頭痛だけじゃなく身体全体が静電気みたいにビリビリして体温の生温さがいつもより鮮明に感じてしまうせいか、身体が重く感じる。 時計をみると時刻は正午を少し過ぎていた。
 窓から外光が差し込む室内に黒い物体が視界に入った。 ピャンは大きな黒い鞠のように体躯をくねらせて、たまにぷすぷすと小さな寝息をたてた。 猫は微かな物音に過敏に反応する動物だと思うのだが、こいつを見ると嘘なんじゃないかと訝しんでしまう。 そもそも猫というか生き物の括りにこいつが含まれるかどうかも判然としない。
 広めのワンルームの角で寝ていた俺と違って、太々しい様で部屋の中央に熟睡しているピャンを跨ぎ、洗面台へ向かう。 寝癖が悪く足にあまり血が通わなかったからか、部屋が寒かったのか、足首が冷えていた。 風呂に入るか考えたが、億劫だったので厚めのダブルライダースジャケットを羽織って外から身体を温めようと考えた。
 靴紐を結び、美智香が勝手に上がり込むのを防ごうと二重に施錠をかけ、外に出た。
 木造アパートの二階からの景色を一瞥すると全体的に少し灰色の雲が懸かる窮屈そうな空模様が一面に伸びていた。 
 何故か判らないが週末は決まって降雨が続き、次週の切り替える気持ちが滞る鬱屈とした週末になる。
 明日はまた雨なのだろう。
 立春を既に越したというのに外は未だ冬の寒さが従横して階下辺りで首回りが少し物寂しいと後悔したほどだった。
 桜の開花は例年より延々しているそうで、きっと朱実さんは今か今かと満開の桜の下で生麦酒片手に宴を催す準備を頭の中であれよこれよと想像しているに違いない。
 しかしいくら周りが志気盛んな意気込みだろうと俺からしたら野暮ったいことこの上なかった。
 あの世界でのあの桜を見てしまった、魅せられてしまったから。
 今まで当たり前のように眺め見ていた春の桜が今ではどこか懐疑的懸念を抱いて仕方なかった。 もちろん常人からしたらこの考えを抱く俺の頭がおかしいと思われて当然だろう。 否定はしないし、それに会う度々に変人と浴びるほど言われ続けているので何とも思わない。
 それでもあの現実味のある夢に出てきた藍紫色の桜こそが本当の桜だと言う思いが頭から離れなかった。

 タキ先生云く、「健忘症のひとつに分類され、その中でも過去の記憶の内、思い出せる記憶と思い出せない記憶が混ざり合った状態の部分健忘性」 という枠組みに俺の症状は当て嵌まるそうだ。
 タキ先生の言う事は口先三寸が常で十中八九信憑性に欠け、天の邪鬼も「大概にしろ」
 と激昂するだろうが、医学的解説となるや途端に能弁と説明する。 一応歴とした医者なんだ、とその度得心する。
 俺の場合、その記憶の弁別が割り方劃然としていて、自身の名前や生年月日、自然言語や往時学んだ知識全般は記憶に残っているものの、それを除いた記憶全体がきれいに、洗い流されたように真っ白なのだ。
 当時しらこばと橋下の河川敷で倒れていた俺を通行人が見つけてくれて、すぐさま病院に担ぎ込まれた。
 目を覚ますと、白くて殺菌された息苦しい室内のベッドに横になっていた。
 腕には点滴の針が刺してあり、廊下から僅かに響き渡る機械音や靴音に耳を澄まして聴いていた。 他に何をすればいいか方法が思い付かなかった。
 それから一週間後、怪我という怪我は膝の擦りむきと頭部に動物の小さな噛み痕という大事がない程度の擦り傷で、他に目立つ外傷はなく、会話の疎通が出来る状態になったところで、担当医の認可を得た警察官二名による重苦しい半ば詰問のような事情聴取が始まった。 
 しかし、自己に関する最低限のことしか記憶にない俺に、何故橋の下に居た? 何か見なかったか? なんて投げ掛けは実体のない霧に話しかけているようだった。 
 途中から質問の導く答えが重複していると気付き、俺はわかりません、と言い続けるのに疲れて頭を振る事だけに労力を注いだ。 
 無理にでも何か有益な情報を引き出そうとしている姿勢に嫌気がさしてわざとそんな態度を取ったのかも知れない。 
 しばらく黙座していた警察官が、本当に何も覚えてないんでしょうか? と投げやりな問い掛けに医者は機械のような動作で頷いていたのを覚えている。
 後に知人から知り得たと言う真耶さんから、俺が記憶を失った約二年前の当時、埼玉県内各地で連続通り魔殺人事件が発生していたことを聞いた。
 底冷えするほどの外気の夜、仕事帰りの会社員が三郷市内の住宅街に設けられた集合ゴミ捨て場で腎臓部位を抉り取られた女性の遺体を発見し警察に通報。
 さらにその現場から車を使い高速を経由しても三時間は要する秩父市内の山中に同様の手口による女性の無惨な遺体が発見された。
 二人の女性の死亡推定時刻はほぼ同時刻だったそうだ。
 真耶さんからの端的な情報を聞いただけで充分異常、且つ不可思議な事態だと伝わる事件だった。  
 
 死体発見から三日後の早昼、羽生署内の大会議室に秩父署との合同捜査本部が展開された。
 この際に署別課長同士の軋轢が顕著に垣間見える場面があったものの、捜査範囲拡大と警察官増員による可及的事件解決が期待視され、その度量は余すところなく管外にまで矛先は向けられた。 捜査員の誰もが犯人逮捕も時間の問題だろうと期待していた。 
 ちなみにどうやらこの時期に俺は橋の下に倒れていたらしく、事件と関係がある可能性の一人、あわよくば容疑者の一人だったと推測する。 難儀なことだ。
 事件発生から五日目。 捜査線上に浮かび上がる容疑者数名いずれも死亡推定時刻に他者からの明け透けのない供述、コンビニや路上の柱に設けられた監視映像カメラにより確固たるアリバイが共々成立していた。 思わぬ停滞と一向に進展のない迷走状態の中、畏怖と難渋に拍車を懸ける続報が捜査本部全員の耳朶に入った。
 越谷市の人通りの少ない道のとあるグラウンド。 早朝のジョギングをしている男性がそのグラウンドを通りかかっていたところ、ある異変に気付いた。 グラウンドの中央辺りに誰かがうつ伏せのような仰向けのような不自然な体勢で倒れていた。 近くまで歩み寄るとそれは首から上がない人間であった。
 驚いた男性はさらにそこから五m先の膝下ほどの草叢に隠れていた女性の遺体も発見した、腎臓あたりを抉り取られていたとのことだった。
 ある捜査員がそれとなく、羽生市と越谷市、秩父市を結ぶと大きな三角形に形作られると口上したが、誰も耳を傾けようとはしなかった。
 全員の心が掻き暗れていた。
 当時の情景を知人はそう物語っていたと真耶さんは物語った。


        * 


 志々枝家の門前に辿り着き、インターフォンを押すと、しばらくして柔らかい声で志々枝さんが迎えてくれた。
 おはようございます、と挨拶をするともうお昼だけどもね、と笑いながら返した。
 玄関を開けた瞬間、香ばしいソースのにおいが鼻孔をくすぐった。
 起きてから水を一口も入れてないだけあって喉は乾き、お腹は……そういえば昨日の夜から何も食べていなかったっけか。
 「光、せつなくんが来たよ、こっちいらっしゃい」 と志々枝さんが框を上がってすぐの上階へ声を発した後、奥の台所へ促してくれた。
 食卓には昼餉のオムそばが三人分並べてあった。
 蛍さんと響は不在のようだ。
 この家での俺の仕事は志々枝さんに代わりお茶汲みをすることを思い出し、台所を借りてお茶を三人分淹れているところで光ちゃんが上階から降りてきた。
 「こんにちは」
 「こんにちは、せつなさん。 今日はおはようございますじゃないんですね」
 やけに明るい声で光ちゃんが話す。
 「さっきあたしが言ったんだよ。 もうお昼だよって」
 二人がくすくす笑いあった後、席に着いて手を合わせた。
 食事中も和やかに会話が弾んだ。
 ベランダの木戸の立て付けが悪いから今度せつなくんに直してもらおうかねえと頼む志々枝さん、庭の雑草取りもお願いしようかねえと言い出す志々枝さん、そうだ外の物置にある古机もついでに処分してもらおうかねえとみそ汁を啜る志々枝さん。
 ——あれ、なんだろう、目から涙が出てきた。
 「おばあちゃん、そんないきなりじゃ、せつなさんがかわいそうだよ」 と光ちゃんが弁護してくれた後「少しずつお願いしてもらわなくちゃ」 と志々枝の血をきちんと受け継ぐ志々枝家末女がそこにいた。

 昼食後、新しく淹れたお茶を二人に出し、即実行できそうな庭の草むしりを始めた。
 「あらあら、本当にやってくれるの?」 と志々枝さんが縁側から遠慮がちな顔を出した後「じゃあせつなくんの好きな芋ようかん買ってあるから、終わったら手洗ってこっちいらっしゃい」 と志々枝さんの予定調和な運び具合の巧さに再度畏敬した。 この大家には敵わない。 いや勝つつもりは端からないが。
 
 庭の雑草は目立つほど蔓延ってはなく、ごみ袋一つに収まる程度だった。 途中、前庭の草を刈り取っていると錆びれた小さな鍵を見つけなにがなしポケットに入れた。
 洗面所で爪に入った黒土とつんのめる雑草の茎から溢れた液体が思いのほか取れず、食卓に戻る頃には光ちゃんが俺の分のお茶と芋ようかんを用意して席に着いていた。
 「お疲れさまです。 おやつにしましょう」
 光ちゃんは俺が雑草取りに精を出している間に外着に着替えていた。 偏見かも知れないが、赤、黄、緑色の刺繍が施された絹生地のワンピース、茶色のジレを羽織る民族衣装を基調とした服装、同学年から抜き出るほどの高身長且つ、整った顔立ちと相乗して中学三年生にしてはやけに大人びて見えた。 
 志々枝さんは夕食の買い出しに近くのスーパーへ出かけたらしい。 
 再度席に着いて芋ようかんに黒文字を立て口に放り込み数十回噛みくだきお茶を流し込んだ。
 志々枝さんはああ言っているが実際はそこまで芋ようかんは好きではなかった。 俺自身あまり味に感心を持たない質らしい。
 「受験勉強は捗ってるの?」
 無言が苦になり適当に話題を振ってみた。
 志学である光ちゃんは受験勉強真っ只中だと聞いた。
 「まあまあ、だと思います。 あ、そうだ聞いてくださいよせつなさん。 この前、響お姉ちゃんに勉強教えてもらおうとしたら蛍お姉ちゃんに聞け、の一点張りで、あれ絶対判らないから誤摩化したんですよ。 それで蛍お姉ちゃんに聞いたら、人に頼るような癖を持ってはならない、とかなんとか言ってそのまま煙草持ってそそくさと外へ出ちゃったんです。 もう、なんでうちのお姉ちゃんたちはああなんでしょうか」 と頬を膨らませ大きく黒文字で切った芋ようかんを頬張っていたが、言うほど呆れた表情ではなかった。
 「ちなみに、結局その後どうしたの?」
 「えっと、仕方ないから違う参考書を引っ張りだして、時間が掛かった気がしましたけど、問題自体はなんとか解けました」
 ——ああ、そういうことか。 蛍さんの言いたい事が何となく頷けた。
 
 タキ先生云く。
 例えば俺が群を成す会社組織の歯車と化したと仮定して、その会社の社長が「この先我々が会社共々飛躍していくにはどうしたらいいか部署ごとに分かれて皆で話合い発表してほしい」 とパネルディスカッション形式を用いた趣向を全社員に伝令したとする。
 組織という肉眼で判別できない大きな箱に閉じ込められ、さらに全社員の意見を総合的に出し合うとなると、脳は懸案された物事の探究や解明を自身では行わず他人につい依託してしまおうと無意識に考え、とどのつまり上げ膳据え膳状態になる傾向があると言う。
 あくまで傾向らしい。
 何人かは知らないが全社員なんだ、俺一人考えなくても誰かがきっといい案を出してくれるだろう。 と、脳の【思考する】 という機能を大幅に減退させてしまうのだ。
 タキ先生が説く、より効率的な方法としては適当に見積もって一週間ほど前からその明確な内容を全員に伝えさせ、個人でまず議題とする事柄を理解し、熟慮に熟慮を重ねた案を最大でも四つあげるらしい。
 人は物事を理解する際、端的な方をつい優先して選んでしまうらしい。 それは脳がそう判断するからだ。 そうだろうなと俺も考えてしまう。
 でも今回の件だとその端的さが却って危険らしい。 誰でも考えられる簡単な回答を脳が用意してしまうという事だ。
 脳の性能の根幹は【思考すること】
 事前に予告し、思考させる準備期間の確保、熟慮すること、案を予め制限しておく事が重要な点らしい。 
 人間という生き物は生きていく過程で常にある絶対的なモノが憑きまとっている。
 それは時間だ。
 時間という抗えない縛りに人は簡単に翻弄、中毒のように依存し、精神面や肉体的に神経を摩耗してでも思わぬ微細な事象で顕然な思考を保てない場合が幾度も現れる。 
 熟慮する事により脳は意識的に神経細胞を活発に発火させ、より効果的、効率的な案を選定する。 それを何度も思索させる猶予を一週間に定める。
 案を制限する事はこれと同じ意味があるようで、無作為の思考という事は考え尽くせる限り思想出来る反面、考えに考え抜いても底もなければ頂もない虚無そのものなのだそうだ。 一見してそれは同じように解釈してしまい、詰まるところいい意味合いに受け取ってしまう事だが、社会に生きる人間にとってこれはストレスの起因に繋がる。  
 人は大小関係なく何かを成し遂げる事に形容できない愉悦を覚える。 これにより欲を感受する、生を実感する、明日を依存するというには生命体の中でも唯一偏屈な存在だ。
 でも逆を言えばその全てを一つも得られない状態が断続して起こればどうなるか。
 ここが生き物の中で人間という種族が持つ一種の呪い、行き過ぎた本能の違い、末路らしい。
 それは失敗ばかりで達成感を得られず、欲求もなく、生も実感出来ず、明日が訪れる事を恐れるということ。
 タキ先生の論理が帰結に差し掛かり、その問いの回答を振られたが俺はその時何故か赤ん坊の蜘蛛を追いかける母蜘蛛と夕焼けを見る親子プレーリードックが頭に浮かんでいた。
 全然判んなかったんだ。
 首を傾げると、タキ先生は数拍措いてからゆっくりと口を開いた。
 「それはね、死を選ぶ。 死を連想する。 
 死に至るという事なんだよ」
 窓の外から完熟した柿が梢の嵩張りを通して、ごとっと地面に落ちた。
 肌寒さを感じた、秋の吹き荒ぶ昼頃だった。


        * 


 皿と湯飲みを洗い流す光ちゃんにタキ先生から聞いた話をだいぶ噛み砕いて教えた。
 「つまり、分からないことはすぐ人に聞くんじゃなくて、まず自分で考える事が大事なんだ。 そうすると頭が学習して脳が活性化するんだ。 蛍さんは光ちゃんを思ってのことだったんだと思うよ」
 洗い終えて手を拭きながら、そうだといいんですけどねえ、とある程度は理解してくれた台詞を吐いた。
 「庭、だいぶ綺麗になりましたね」
 俺と光ちゃんはベランダに移動して庭先を一望していた。
 「掃除してくださったお礼に、今度は私がせつなさんのお家をお掃除してあげます」
 ん?
 「……え、外着に着替えたのってもしかして、俺の家掃除するためだったの?」
 光ちゃんは円満な相好で首肯した。
 「で、でも今受験勉強中でしょ? わるいよ」
 「今日はずっと机に齧りついていたんです。 気晴らしだって必要だと思います」
 俺は困惑顔を表出していたのかも知れない。 実際困惑はしているが。
 「もしかして……ご迷惑でしたか?」
 光ちゃんは俺の表情を伺い察した。
 一変して曇天な表情に変貌を遂げた光ちゃんを見て、良心が五寸釘に刺されたような衝撃を受けた。 男が女を泣かすなどあってはならない、ましてやこんな幼気な子を——
 などといった台詞が頭を過り、考えもせずに、いやお願いします、と深く平伏しながらそれを請けてしまった。
 
 戸締まりを済ませ、志々枝さんに置き手紙を残した光ちゃんは俺と一緒に志々枝家を出た。
 外はまだ曇り空のままで、やはり明日は雨なんだろうと思った。
 対して光ちゃんは少々躍然としていて数歩先に進みながらも時々こちらを振り向いては屈託のない笑顔をみせた。
 互いに含蓄のない会話をしながらも、そんなに掃除が好きなのだろうかと光ちゃんの特徴に新たな情報が更新されたところで抱懐した別の念が浮かんだ。
 そうだ、ピャンだ——あいつのこと忘れていた。
 背を汗の雫がたらたらと垂れた。 
 入居時、確かペットに関する注意事項は記載されてなかった気がするが——いやそんな用紙あったっけか——いくらあのボロアパートという枠組に入る我が要塞に限ってペット可という好条件は到底考えられないものだった。
 俺が立ち止まった場所は遅かりし自宅アパートの塀沿いに差し掛かる道路だった。
 数歩先の光ちゃんは振り向き様に気付いて歩を止めた。
 「どうかしたんですか?」
 首を傾げ訝る光ちゃんに俺は「や、や、やっぱりやめよう。 うん、そうしよう。 駅前の喫茶店で珈琲飲もう、奢る奢る」 と目を逸らし逡巡しながら答えた。
 横から吹き付ける空風が首辺りをなぶり、辺りは静寂と化した。
 反応がなかったので光ちゃんをそろりと窺うと、人を見る眼差しとは到底思えないほど眼力が鋭く、見合った者の動悸を一刻早める緊張感が付随した睨みを発していた。
 俺は、情けないことに中学生相手に慄いていた。
 一瞬真耶さんと蛍さんが脳裏を過った。
 何故俺の周りにはこれほど眼力のある人ばかり揃うのだと煩悶していると、光ちゃんは無言で俺の方に歩み寄るので動物的恐怖から俺はぷいと左を向いた。 光ちゃんは俺と目線を合わすようにさっと顔を向けた。 俺はそれを瞬時に察し、向かい合う一瞬の隙を突いてぷいと右を向いた。 光ちゃんは再度俺と目線を合わすようにさっと顔を向けた。 俺はそれを瞬時に察し、向かい合う一瞬の隙を突いてぷいと左を向いた。 光ちゃんは再度俺と目線を合わすようにさっと左に顔を向けた。  
 この動作を何度も繰り返しているうちに、光ちゃんが渋々諦めて、口約束通り喫茶店に行く事を了承してくれるか、何かしらのアクシデントが起こって今回の自宅清掃の件が有耶無耶になる事を祈った。 結構本気で。
 十回ほど繰り返していた時だ。
 何かガラスが割れた音がアパート側から聴こえた。
 俺は、はっ、と声を洩らした。
 光ちゃんはアパートと俺とを見回すと颯爽と髪を靡かせながらアパートの方に走った。
 その手にはきちんと鍵が握りしめてあった。
 光ちゃんは明敏な聡い子だった。
 俺は走りながら舌を少し噛みピャンとの回線を繋げた。 『早く逃げろ!』 と告げると同時に金切り声のような劈く音が頭に響いた。 驚いて頭を右に大きく振りかぶり回線を切り、二階自宅へ急いだ。
 戸口前の外回廊を踏む頃には光ちゃんは自宅前に辿り着いていたが、戸口を開けようとはしなかった。
 心臓をなでおろす感触がした。 
 「せつなさん……これ……」
 さっきの鋭い眼力は何処かえ消え去り、転じて怯えているような、怪訝そうな、判然としない表情を呈していた。
 指先は外出する際、施錠したはずの二つの鍵元を指していたが、無惨にもその箇所は何者かに破壊されていた。 
 再度緊張が走る。 今度は現実味のある恐怖だった。 輪郭が不透明な化け物が横切る映像が脳裏で描かれた。
 ここ最近中々な危険を踏み越えて来たのに誰かが傍に居るだけでこんなにも緊張してしまうものなのか……自己責任以外の責任を感じたのはこれが初めてだっただろうか。
 光ちゃんを背後に移動させ、ゆっくりと玄関扉を開けるとテレビの音が途切れ途切れに聴こえた。 ザッピングを繰り返しているのだろう。
 光ちゃんが腕にしがみ付いていた。 華奢なわりに意外と力強い。 光ちゃんは何度も頭を振るが大丈夫、と小声で囁いて外に待機させ、音を立てずゆっくりと自宅に入った。
 電気が付いているおかげで奥まで覗くことが出来た。
 玄関脇に置いてあった自転車の空気入れを手に、奥の部屋へ進んだ。
 そろそろと忍び足で這い歩き部屋まであと間もなく、という所で踏んだ箇所から床が軋む音を発した。
 物音に気付いたのか、死角から闖入者がひょこっと顔を出した。
 瞬発力を生かして手持ちの心もとない武器を闖入者に振りかざしかけた一瞬——目を見合った。
 無下に扱うように空気入れを降ろす。
 「あ、お帰り。 せつな」
 「あ、お帰り。 じゃない、美智香」
 鬼の子、近衛美智香がテレビに向かい合い、その手元からなんとか抜け出そうと藻掻き抗う奮闘中のピャンがいた。
 

        * 


 外回廊であたふた狼狽していた光ちゃんに端的に説明し自宅へ招き入れた。
 「本当に大丈夫なんですか?」
 それでも光ちゃんは語気をやや荒げて確認してきた。
 確かに。 家鍵をぶち壊して上がり込む人間に俺はつい今し方出逢った事がなかった。
 健忘症じゃなくても生まれてこの方なかっただろう。
 「大丈夫。 凶暴だけど見た目は野獣性に満ち溢れていないし、確か動物占いだとゾウさんだったから」
 「それ全然説得力ありません」
 青ざめながら適切なツッコミを受け入れた所で美智香が出てきた。
 「お、こんにちはー」
 美智香は手を振った。
 「こ、こんにちは。 志々枝光と言います。 せつなさんの管理人をしています」 と緊張しながら礼儀正しく低頭した。
 え、俺専属。 と内心でツッコミを入れた。
 「志々枝光ちゃんね、よろしく。 あたしは近衛美智香って言うんだ。 適当に呼んでくれていいから」
 美智香はおざなりに手首を項垂れて振っていたがもう片方の手には華奢と思えないほどがっちりとピャンを押さえ込んでいた。 さながらアメフトのボールだ。 
 鎖骨あたりまで伸びた茶髪が靡き、白黒の斑点模様のキャミソール、黒のレギンスを履きこなす姿は何処にでも居そうな一人の女性だ。
 俺は回線から聴こえたのがピャンの悲鳴だと理解した。 あいつの目元が艶々滲んでいたからだ。
 軽く舌を噛み『ご愁傷さま』 と伝えると『今後回線は切らずにしてもらえるとこちらは助かる。 何度も連絡を取ったのに応答が無かった』 と丁寧な言葉遣いに反して鋭い睨みをこっちに向けた。
 「あの……お邪魔しちゃいけないので、やっぱり帰ります」
 光ちゃんは結局上がり框を踏まないまま半ば強引に戸口を開け放ち外へ出て行ってしまった。
 慌てて光ちゃんを追って外へ出た。
 『ま、待て、我を助けてからに——』 とピャンのノイズが聴こえたが、無視した。
 光ちゃんは外回廊に背を向けて立ち竦んでいた。
 さっきの歩速なら階を降りている頃かと思ったが何か言いたいことがあるのだろうか、そんな顔をしている。
 「どうしたの、いきなり帰るだなんて」
 近くまで歩み寄ると、光ちゃんは「……いるならいるって言えばいいじゃないですか」
 と振り返り様にか細く呟いた。
 「え、……あ——」
 美智香の闖入で思わず忘れていたが、そうだ、そもそもペットの事で焦りだしたんだ。
 俺は再度慌てた。
 手を使って何かしらの陶芸品を作っているような我ながらそれはそれは無様な様子だった。
 「いや、あれは嫌々しょうがなくというかですね。 勝手に移住してきたというかですね——」
 光ちゃんの表情は一転して青ざめ始めた。
 「ど、同棲……」
 「いや、そんな大層な響きでは——」
 なんとか論破しようとしかけたが、それを遮るように高らかな響きとともに光ちゃんの左ビンタが俺の頬に炸裂した。
 「イッ——」
 「もう知りません! せつなさんは……せつなさんならって思ってたのに……信じてたのに!」
 今にも泣きそうに相好を崩しだした光ちゃんはそのまま階を下った。
 俺は頬に名残のある痛みをとにかく振り払い、追走しかけた刹那、背後から頬の痛みを比ともしない、気を失う衝撃を受けた。
 事実ほんとに気を失った。


        * 


 目を覚ますと見慣れた電灯が目に留まった。
 ——あれ、うち……だよな?
 躯を起こそうとすると後頭部が痛みだした。 痛みの箇所に触れると少し膨らんでいた。
 えっと、どうしたんだっけか。
 さっきの出来事を想起させる。
 光ちゃんが自宅前で待機していた。
 家鍵が壊され誰かが侵入していた。
 誰かとは美智香だった。
 光ちゃんと美智香が挨拶を済ましたところで、光ちゃんがそそくさと帰った。
 俺が後を追うと、光ちゃんが外回廊にいて
ペット飼うな! と叱咤ビンタ。
 光ちゃんが帰りそうになり、追走しようとしたらへんで記憶が途切れた。 
 いや、待てよ?
 自宅を背にしていた訳で、つまりそれは自宅内の誰かに何か衝撃のあるもので殴打なり何なりされた訳で、打ち所悪ければ撲殺なんかもされてた訳で、つまりこれは……
 「あ、起きた?」
 声の源の方向へ顔を向けると美智香とその手元には悶絶しているピャンが部屋の中央に座っていた。
 「俺殴ったの、美智香?」
 「うん」
 美智香は握りこぶしの仕草を見せた。
 「いや、うんってあなた——」
 「それよりせつな、あれはないんじゃないかな。 せつなは常々女泣かせだとは思ったけどほんとに泣かせてるとは思わなかったよ。 しかもあんな幼気な子を……」
 美智香はおよおよ泣いている仕草をした。
 「いや、いくらなんでも黙ってペット飼っていただけであそこまでされるとは思わなかった。 実はあの子のおばあちゃん、ここの大家さんなんだよ。 しかし困った。 どうしよう、ペット飼っていることがバレた。
 もしかして、これが原因で追い出されたりするのかなあ?」
 「……は? ペット?」
 狼狽する俺を余所に美智香はぽかんと口を開けていた。 その瞬間ピャンが脱出したがそれにさえ気付いていないほど驚いていた。
 「……え? ペット、だろ?」
 事態を飲み込んだのだろうか次第に美智香の表情が呆れだした顔に見えた。 
 「……ああ、なるほどね。 わかったわかった。 そうじゃないよせつな、あの子は——光ちゃんだっけ? 光ちゃんは猫のことじゃなくてあたしに対してあの反応をとったわけ」
 「……ん?」
 どういうことだ? 問題はペットのことじゃなくて美智香のこと? 
 考えようとすると後頭部の腫れがじんじん痛みだしてきた。 ピャンに聞こうにもさっきから『どうすれば奴を打ち負かせられる。
 どうすれば、どうすれば——』 とばかり呟いていて、それは聞くに堪えないほどのトラウマを植え付けられたのだと想像した。
 「よくわからん、降参だ。 教えてくれ」
 「んー……だめ、教えない」
 「なんで」
 「だってせつな、あたしに散々言うじゃん。 タキ先生曰く、わからないことは直ぐ人に聞くんじゃなくてまずは自分で考えることって」
 「……お、おぅ」
 初めて美智香に論破された。 なんという屈辱だ。
 
 俺は自宅に美智香を残したまま、志々枝家までの往来を走った。
 町は疎らな街灯に照らされながらも静かな夜に包まれようとしている。 冷風が躯を煽るが頭を冷やすにはちょうどいい加減だった。
 走りながら辺りを見渡すと家並みの所々に門灯が灯り出していた。
 それは志々枝家も例外ではなかった。
 インターフォンを押すとしばらくしてから志々枝さんが玄関の向こうから現れた。
 「あの、光ちゃんはいますか」
 「あら、やっぱりせつなくんだったのかい。 中々降りてこないから部屋のドア叩いて呼んだのに、なんでもないの一点張りで、あたしが買い物中に何かあったのかと思ったんだよ……」
 俺は玄関前で事のあらましを伝えた。 あらましなので、この際ペットというか動物のようで動物じゃないものを飼ってる事は美智香が飼っていることにした。 許せ、美智香。 正直悪気はないが。
 「ああ、なんだ、そういうことかい」
 志々枝さんはころころと笑い出した。
 顔がぽかぽか温かくなりそうな微笑ましい笑顔だった。
 「その友人に聞いても、自分で考えろと言っていて教えてくれなかったんです。 あの、これどういうことなんでしょうか?」
 美智香に考えろと言われたものの早急に答えが気になり出して志々枝さんに聞き出そうとした。
 「その友人の言うことは確かに正しいのかもね。 そうだね、自分で考えとくんだねえ。 光にはあたしからちゃんと言っとくから心配しなくていいよ。 とりあえず今日のところは帰って、また気が向いたときにいつでもいらっしゃいな。 光もそんころにゃあ、すっかり忘れているよ」
 志々枝さんがまた笑った。
 全く整理がついていないまま、俺は門口まで志々枝さんに送り出された。
 納得出来ていないが、とりあえず大丈夫と言う志々枝さんを信じる事にして、俺は家路に就いた。
 『これから帰るわ』 とピャンに伝えると『早うせぬか愚者よ。 カーテン裏にしがみ付く我の気持ちを何故汲み取れぬ』
 忍者か。
 
 アパート前でジーンズのポケットに入れてある携帯が振動した。 アドレス帳の登録件数は一件なので必然その人物からだ。
 新着メール一件と表示されボタンを押すと思わず頭を抑えしゃがみ込んだ。

 宛名;織部真耶
 件名;
 本文;明日、午後九時にいつもの場所で。

 これも仕事だ生きるためだと自分を鼓舞しそそくさと真耶さんに了解の旨を伝えた。
 空を見上げると雲が翳る先に不気味な月光が俺を嘲笑うように見えた。


        * 


 「あ。 思い出したっ」
 「おっ、急に声上げんな。 ほら見ろ、びっくりして冷奴が落ちた」
 番を任せていた美智香と自宅で夜食をつついていた時、急に美智香が声を上げた。
 「あ、ごめん。 ってか、おかずが冷奴一丁ってどんだけ困窮した生活してんの? だからそんな半端でなよなよな筋肉なんだよ、せつなは」
 「うっ、気にしていることをずけずけと……。 いいか、フリーターっていうのは言わば社会のヒエラルキーという階級構造の最下層に位置し、常に金銭に飢え、将来の見えない自分に怯えている生活的にも将来的にも破綻した弱者だ。 ここで勘違いしちゃいけないのが底辺だからって社会を底から支えている訳ではなく、むしろ社会を根本から崩している食物連鎖でいう草と同じ位置ながら草以下って言う……ってかなんだよ大事なことって」
 簡素なテーブルに落とした冷奴を箸で丁寧に拾い上げ口に放り込み、美智香の話の内容を促した。
 「その自虐、言ってて悲しくなんないの?」
 美智香は冷奴とめんつゆのかき混ぜご飯を頬張っていた。 美智香は何故か混ぜご飯を好む気味があった。
 「昨日まで京都の比叡山の森で鍛錬してたんだけどさ——」
 お前は最終的に何処に辿り着きたいんだ。
 「うまく説明出来ないんだけど、京都の地に踏み込んだ時から違和感を感じたの。 修行中もそれが肌にはり付いたように離れなくて、気晴らしに毎晩市街の喧噪に触れて誤摩化したりしてたんだけど、街によって精神的に少し平気だったり気持ち悪かったりばらばらだったの。 それでもやっぱり圧迫されてる感じっていうのは拭いきれなくて、躯が変に重かったり頭痛も少ししたり、京都だけど全く違う所にいるみたいで正直気分が悪かった」
 「それは——」
 変に鋭いところが美智香にはある。 その研ぎすまされた神経は半ば野生じみた感知能力と言い換えた方が的を得ているのだろうか。
 俺が言うのもなんだが、もうほんと、何者だあんた。
 こうして美智香と自分を天秤にかけると、いくら人外の力を誇示しているとはいえ、美智香には遠く及ばないと諦念してしまう自分がいる。 それに近くにいるようで実はとてもかけ離れた彼岸でこっちを見ているのではないかという感覚にさえ嘖まれる。
 不思議な女だ。
 そんな不思議な女が不思議と公言しているならそれはまさにその通りなのだろう。
 「——まるで京都が異界の地だと?」
 「うーん。 あたしもよく判んないんだけどね。 異界というか、境界というか、結界というか……でも昨日京都から帰ってきてみて、ああやっぱりって改めて感じたことがある」
 「なにを」
 「京都も違和感あったけど、やっぱりこの町の方がおかしい。 負っていう視界を覆い尽くすほどの密度がこの町に充溢してる。 こんなの異常だよ。 敏感な人間ならいずれ耐えきれなくなって精神が崩壊するのに、みんな平静としている。 多少違和感を感じても、きっとこれが平生の世界なんだろうとか、体調が悪いとかって誤解しているんだよきっと。 もうその時点でだいぶ負に浸かって麻痺してる。 淀みに浸かり過ぎて精神の安定バランスの嵩がずれているみたい」
 美智香は一定に整えた語勢で述べた。
 少し冷めたご飯を食べながら始終耳を傾け考えた。
 奇異——
 名状できない美智香の感受したものを当て嵌める鋳型に、それはあまりにもズレなく収まる言葉だった。
 いくら本人が体内機能を正常に扱っていたとしても、この環境下に長く溶け込んでいれば、体ないし精神が萎凋しかねないだろうか。 それなら長寿を全うするのは叶わないだろうか。
 長寿……
 寿命……
 そうだ、こんなことがあった。
 自室の窓から覗ける真夜中の闇空を見つめながら当時の出来事を思い出す。

 二年前、市立中央病院の個室で目が覚めた時、その奇異的な違和感に即座に気付いた。
 どろどろ解けた異物を身体行き来している気持ち悪さだ。 回廊で誰かの微かな笑い声が聴こえる。
 どうして笑えるのだろう。
 どうしてこの圧殺まがいの空気にこの院内の人達は平静を保てるのかと疑問に思った。   
 入院生活の日々は平凡と過ぎ去り、奇異的な違和感はいつの間にか日常として慣れていった。
 外的な怪我は頭を三針縫う程度で済み、精神的の方はまだ快癒しきっていない状態で突然医師から転院を勧められた。
 記憶障害を専門とする医師が埼玉県に小さな診療所を構えている。 そこに転院してきちんとした環境下で治療に専念すればどうか、と。
 散々院内中をたらい回しにされ軽く人間不信に陥った挙げ句、最後の担当医からそう言い放たれた。 ようは厄介払いだ。
 拒否権を行使しなかった理由はそれまでの入院費、治療費、食費、設備費もろもろをその医師が全額負担してくれる手厚い待遇があったからこそだ。
 いや、それか、何か漠然とした好奇心に導かれたが為だったのかも知れない。 今となってはそれは記憶に留まっていないただの思念のひとつとなった。
 数日後、市立病院から診療所に移動した。
 タキ先生とはそこで出逢った。

 「美智香の言う、負の密度とは関係ないかも知れないけど、この県は平均寿命が全国規模観測でも短いらしい。 原因は不明のままらしいけどな。 研究者みたいな人たちが調査して一年は経ったけど、別段進展はなかったと思う」
 「……それ、どうやって調べたの?」
 美智香は訝しげに問いだしてきた。
 「調べた、というか新聞の記事にちょこんと書いてあった大まかな記事をタキ先生が解説してくれたんだよ」
 「……ふーん」
 美智香が物思いに耽るかのように蕭然と空いた茶碗を見つめていた。
 「寿命……死……」
 続けざまにそう独白する美智香をよそにガラス窓に、たん、と聴こえたかそうでないかの微々な音が不律動に聴こえた。
 雨音だった。
 「あ、雨だ……」
 今週末も雨らしい。


        * 


(日曜日)
 何処からか漏れ聴こえる雨滴で、目が覚めた。
 ベットの側面に凭れ込むようして寝ていた。
 室内は冷えて、起き上がろうとすると腰と尻の辺りに激痛が走った。
 冷えきった体を均しつつ、部屋中を見渡すと美智香の姿は見当たらなかった。
 代わりに昨晩美智香から逃げるように消えたピャンが毛繕いをしている最中だった。 
 「美智香は」
 『知らぬ。 室内に愚者の他に感知しなかったので早朝入り込んだ』
 ってことは早朝のうちに帰ったのか。 同じ市内に住んでいるという美智香の住居を未だに判らなかった。 上がり込む理由はなかったし、決まって俺の家に立ち寄っていたから、さして考える事はなかった。
 時計の針は十一時五十分を指していた。
 『愚者よ』
 ピャンは猫特有の鋭い眼光で俺を睨みつけた。 
 『会う度思うことがある。 近衛美智香は何者だ? 身体能力や感覚情報が人間のステータスを遥かに逸脱している。 全身狂化時の愚者と同様、いや……』
 「あいつは出逢って早々自分の事を、鬼の子だって言ったんだ。 ああそうか、お前に会う前の事だから記録にはないんだな」
 『左様……しかし鬼人か。 なるほど。 的確な名称だ。 鬼も愚者同様、人外だからな』

 冷えた体は特に末端に集中した。 気怠くシャワーを浴びた。 靄の懸かった鏡に映る自分の顔がぼやけて見えた。 手で拭い、酷く死んだ顔だ、と悲しむ。
 後頭部を擦ると昨夜の腫れが無くなっていた。
 ピャンとの契約を交わしてから傷の治りが驚くほど早くなったり、身体機能が向上したり、有り得ないことばかりの異常が身体中で起こった。
 「無茶苦茶だよな?」
 その独白に鏡の中の人外は悲しい顔のまま一切答えなかった。
 
 夜まで決して止まないのが週末降雨の特徴だった。 先週は暴力みたいな雨風だったが、今日は幾分かましだった。 それでも傘を開いて歩くうちに脚や靴が濡れて、やっぱり気分を害した。
 「何故、毎週雨の中、外に出なきゃならない」
 不思議と独白する魔法のような力が雨にはあった。
 中途半端に遠いコンビニに向かう。 途中道路工事に行き当たり、いつもより歩道の幅が窮屈になった。 狭いと考えていると正面から自転車に乗るお婆さんたちと危うく接触しそうになったが、お婆さんたちは素知らぬ顔で通り過ぎていった。 
 約十分後コンビニに辿り着き、弁当と菓子類、先月の公共料金も合わせて支払った。
 本来なら自宅の鍵穴の修理費用を優先すべきだが、そもそも支払う余裕がない。 結果、自宅を守る頑丈な鍵穴よりも、生きていく上で必要不可欠な食を優先した。
 帰路に就く際、先ほどの道路工事でのアクシデントを思い出し、少し気乗りしないが普段は利用しない別の道から帰る事にした。 そこは登戸でも大抵の人は知っている浜野という屋敷を通る経路だった。

 短期のアルバイトで配達の仕事をしていた際に浜野という家を訝しんでいたことがあった。 同じ配送地区の先輩から聞いた話によると、浜野というものは簡単に言えば土豪であった。
 その敷地面積の広さは地図で見た限り校庭とさほど変わらなかった記憶がある。 それは別にどうでもよかった。
 ただ気になるというか、そもそも訝しがる起因になったのが、二ヶ月配達の仕事をしていながら、一度も浜野の家の者と対面した事がなかったことだ。
 そんなことは他の家でもある事だ、と自分に言い聞かせても「荷物はこちらへ」 という立て看板と大きな口の荷物入れが玄関前に置かれた家なんて、浜野の家以外経験がなかった。
 ポストに入りきれない小包郵便物などは盗難を避けるため直接その家族の誰かに渡すのが常識であるが事前に先輩から、書いてある通りにしなさい、と釘を打たれていた。 理由を聞いても結局最後まで教えてはくれなかった。
 そう昔を思い返しながら足を運ばせているとすぐにその浜野の土地が左手に見えてきた。 よくよく考えたら自宅アパートからコンビニまでの距離を上から俯瞰するとしてみると菱形を横にしたような整った形をしていることを頭の中で描かれ、菱形を正三角形に分割するとしたら、その一つが丸々浜野の土地となる事が判った。
 浜野の土地の特徴は敷地全体を防風林で覆い隠していて、強風から家を守る為なのか、人の目を避ける為なのか、それが余計に懐疑的心理を煽らせた。
 さざめく梢と葉同士が重なり合った音を聞くと、どこかの森に迷い込んだ気がした。
 右手には墓地と幼稚園が隣同士に立てられている。 霊的な存在を無意識に捉える事に長けている純真無垢な子供と墓地とを隣り合わせにするのが不思議でしかたなかった。
 烏の劈く鳴き声が近くで響き渡り、その発信元の墓地の方に首を傾けた。 高い塀が立ちはだかり塀の点々と穿たれた箇所から墓が覗けた。
 正面に顔を戻しかけた瞬間、何かが割れたようなきれいな音、新鮮で肌が痺れそうな快楽音が聴こえた。
 浜野の方角、左手の方からだった。
 防風林で視界を遮られているが、葉と葉を縫うように墓地と同様に中が所々見る事が出来た。
 その先に映る光景を受け入れるのには、そう時間が掛からなかった。
 記憶が欠落している俺でも感情を司る扁桃体の恐怖という概念をきちんと残していた。   
 視界が映るものは体の部位という部位を歪曲された人間が血だらけで倒れ伏せている姿だった。
 全身が無骨に曲がりくねっていて、それが仰向けかうつ伏せか判別出来なかったが、その顔はこちらを向いていた。
 何処かで烏の劈く鳴き声が聴こえた。 濡れ羽色の一羽の烏が雨空の中、健気に羽撃いてたかと思えば艶々とした烏はその哀れな死体の傍らに着地した。
 舌を軽く噛んだ。
 『ピャン、スクリプタルが現れた』
 草の擦れる小さな音が聴こえた。 目をそっちに向けると、敷地の奥へ走りながら死体を一瞥する少女を目撃した。


        * 

(月曜日)
 予定していた日時と待ち合わせ先を変更した翌日の昼過ぎ。 埼玉県警第三取調室内。
 取調担当刑事と調書担当刑事を有無を言わさず足蹴りで追い払った真耶さんと対面していた。
 簡素なデスク一脚にパイプ椅子が二脚中央に置かれ、角に同様のデスクとパイプ椅子が一脚ずつ置いてあり、壁に取り付けられてあるのはマジックミラーだろうか。 テレビで観た通り紛うこと無き取調室だった。 第三取調室内に入るのは初めてだった。
 「手間が省けてよかったです。 昨日の二十一時まで特に用はなかったですし、雨の中あの喫茶店行くのも億劫だったんで」
 手先が冷えたので出された湯飲み茶碗に手を当て暖めながら答えると、真耶さんが判りやすく呆れた顔をした。
 「私は第一発見者がお前だと柿荒から聞いて、遂にあいつも犯罪を犯したか、と現場を見るまで思ったぞ」
 「俺の能力はあんなにめちゃくちゃじゃなくてもっと単純なだけです。 まあ、あの死体を見れば判ると思いますが」
 「どうだかな?」
 言いながらパイプイスに背中を預けた。
 「案外屈曲させる能力を隠しているか、会得したか、お前の言うその単純な能力で力任せに遺体を屈曲させたように見せかけたのかも知れん。 どうだ?」
 摩耶さんは左胸の裏ポケットから煙草を出し了解なく煙草に火をつけた。 煙草という存在は好ましく思わないが、吸わねばやっていけない事情も各々あるだろう。 煙草が好きだからという理由もまあ頷けよう。
 思えばそう、一年前。 カフェモルダウでの勤務時、俺はスーツ姿の女性が煙草を吸う仕草は見て自分の好みというものを発覚したのだ。
 状況的に合致する真耶さんを鑑みて、やはりいつ見ても様になるものだと、それは見惚れざるを得ない理想像だった。
 皺一つない黒いスーツ姿の摩耶さんは八面玲瓏で鮮麗さがあり、美人でスタイルの整ったモデルという形式に見事に当て嵌まり、尚且つその若さで警部というエリート。
 全ての点に擱いて、俺とは雲泥の差にある人だ。
 「うわー。 相変わらず信用されてませんね、俺」
 向いの柳眉が動いた。
 「何を言うか。 お前のような得体の知れない化け物、きちんとした標本にでもならん限り信用なんぞするものか」
 甚く不満顔の真耶さんは淡泊な白色の煙を吹かせ、思わず咽せ返した。 副流煙という概念は真耶さんの中ではさほど意識していないだろう。
 真耶さんの唯一の欠点と言うか、もはやこれが持ち味なのかも知れないと最近飲みこんだが、真耶さんはとかく口が悪い。 もう出逢い始めはとにかく辛かった。 忘れたい記憶ほどどうしても忘れられない傷のようだ。
 近頃タキ先生の診療所に向かう深意は真耶さんに関する相談が大半を占めていた。
 「一応言っときますけど、俺じゃないですからね。 いや、なんて顔してんですか、ほんとですから。 ほんと信じてください」
 真耶さんは俺に対する狐疑の眼差しを向けながら、デスクの抽き出しから灰皿を取り出し、煙草の灰を落とした。
 抽き出しに灰皿入れてあるのか、普通。
 真耶さんは冷たいデスクに整然と並べられた写真と資料を挟んだ用箋挟を片手で持ちながら、やや侮蔑的に眺めその口を開けた。
 「遺体は浜野景一邸唯一の住人、浜野景一 七十歳。 死因は全身を絞りとるように曲げられた、螺旋骨折と粉砕骨折が原因の失血性ショック死だそうだ。 後庭で殺害されていたが、服装と遺体周辺にあった道具からどうやら庭の手入れをしている最中に殺害されたらしい」  
 聞き慣れない言葉が出てきたが、つまり、全身を螺旋状に折られた挙げ句、引き千切られた出血多量死ということだろう。 聞いてるだけで首筋を冷気が吹き付けてくる感覚がした。 嫌な死に方だ。
 真耶さんは煙草の持ち手とは反対の手で後ろ髪を掻き出した。 髪を触る行動は、沈静しようとする行動の顕れの場合と苛立の顕れの精神的行為の現れだと聞いた事があるが、きっと後者だろう。
 「この死体を形成させるには回転機能のある重量級のものが必要だ、と鑑識からの速答だ。 だが殺害現場の後庭に進む一本道の裏門は、人ひとり分入る幅だし、事件当日は雨が降っていて浜野景一の後庭の地面が泥濘んでいたため、そのような重量感のあるものが通った大きな窪みの痕跡がない。 端的に言えばこの線は否。 第一、そこまでやる意味が私には判らん。 もしその重量級のある何かで殺害せずとも、ナイフか何かで心臓なり首なり刺せばそれで事済む。 普通の人間がただ一人殺すにしては殺害方法があまりにもリスクが有り過ぎる一手だ」
 今の段階ではそれが限度なのだろうか、用箋挟から手を離し、ぱん、とデスクに落ちる音が室内に響いた。 再び正面の眼光が鋭くきつくなった。
 「で、お前は何を見たんだ」
 本題だ。
 俺は警邏隊に伝えた発見の状況を再度説明すると同時に、警邏隊には伝えていない事実を真耶さんに伝えた。
 「……それを早めに言わぬか阿呆!」
 一瞬、徳の高いお坊さんの法力みたいな眼光を放った。
 「ふん。 しかし敷地内に高校生ほどの女か。 浜野の謄本にその歳ほどの女が該当するかどうか部下に調べさせよう。 聞く限り不自然だな。 現状その女が怪しい。 いや、怪しすぎるだろ。 お前はその女と目が合い、スクリプタル特有の瞳孔に顕れる歯車の形を視認したのだろう? ならばそいつがスクリプタルであることにまず間違いはない。 あいつらの道徳には不殺という概念が欠如しているからな」
 道徳と社会から排他された人間にはとかく厳しいレイシズムを浴びせる真耶さん。
 両々兼ね備えた俺とこうして対面しているから、真耶さんはこんな粗暴な態度のかと時々精神の彷徨に落ち入るが、直属の部下という渋澤さんと樫浦さんその他の方々が暴虐、あ、真耶さんにいいように扱われるさまを鑑みると「よし、次は頑張って怒られないようにしよう」 と言う精神の劣化を凌ぐことが出来る。 もはや彼ら人柱が居なければ事実上、「真耶恐怖障害」 という名目で長期入院していただろう。 今日も彼らが生存していることを切に願う。 いやほんと。
 「鑑識を呼んで似顔絵を描かせる。 それまで大人しく待機していろ」
 真耶さんは、そう言い放つと煙草を灰皿に擦り付けて立ち去った。


        * 


 鑑識による仔細詳らかな質問から解放され、そのまま署を後にした。 午後十時を少し過ぎ、雨は上がっていたが月は仄暗く陰りを見せていた。 近くのコンビニで適当に夜食を買おうと道程を歩いた。 暗い夜の外気はしんとした静けさと、じわじわと末端を冷やす寒さが地上から夜空から囲繞させていた。 
 散在する常夜灯が視界を照らし、それが却って闇を一層浮き立たせているように思えた。
 なんとなくズボンのポケットに手を入れ込んでいた。 左手に何か違和感を感じ、紙切れのような手触りがした。
 気になり常夜灯下で立ち止まり、くしゃくしゃした紙切れを取り出して開いた。  

 「あいつに関わるな」

 何の事か全く見当がつかなかった。
 この紙切れがいつからポケットに入っていたか覚えがなかった。 舌を少し噛んだ。 
 『ピャン、この紙切れ、いつから入っていた』
 『……妙だな、我の記録にはない、状態からしてまだそう日は経っていないものなら尚更記録に残っていてもおかしくないが……』 
 『珍しいな、ピャンの記録にないものなんて。 まあでも、取り敢えずこの紙切れの記録を頼む』
 了承と同時に文章とその筆跡、形状をピャンに記録されたことを確認し、その紙切れを道ばたに投げ捨てた。
 この動作を踏めば、例え俺の記憶から物事が消去されたとしても、ピャンという媒体を通してマザーと呼ばれる大型記録装置に保存され、引き入れが可能とピャンが言っていた気がする、逐一自ら記憶する必要がなかったのでこの機能はだいぶ重宝していた。 
 
 扉の性質が破綻された自宅に帰り、家内を見渡したが、荒らされたり何か盗まれた形跡はなかった。 ボロアパートに闖入する物好きは居ない証左だった。
 ピャンは優雅に俺のベッドに横臥していたが、俺を気配で感知したのか、それとも唐揚げ弁当のにおいで気付いたのか、その黒い体躯が起き上がった。
 俺は玄関から入り込む冷たい外気から逃れるようにベッドカバーに包まりながら弁当を食べ始めた。
 布が擦れる音がして、いつの間にかピャンが入り込んでいた。 その双眸は唐揚げ弁当から離れなかった。 二つ買っておけば良かった。
 腹は満腹にはほど遠かった。


        * 


(火曜日)
 事件から二日後、再び真耶さんと会うことになってしまった。 なってしまった……
 午後三時、新越谷駅を北に五分ほど歩いた「白兎」 という名前の真意が不明な喫茶店前で待ち合わせをしていると真耶さんはけたたましい音ととも時間通り現れた。
 遠くからでもその地響きが伝わり、一時的に聴覚がおかしくなるほどの駆動音と振動。
 疾走する真耶さんの愛車、漆黒のポルシェ カイエンターボだ。 深くは聞いてないがどうやら改造に改造を重ねたため、何処ぞのマッハ某と呼んでもあながち間違いでもない。
 というかそのマッハ某を前提にしているのは確かだった。 おい警察。
 愛車を店舗横の駐車場に停め、分厚いジュラルミンケースを手に持った真耶さんと連れ立って店内に入った。
 真耶さんは黒のストライプの入ったタイトスーツを優雅に着こなしていた。 店内の内壁及び天井、地面をコンクリートがむき出しているモダンシックを基調とする店だった。 
 どこか廃墟を連想させる趣だったが、俺はそれがむしろ無駄がないという点において十全だと感じられた。
 ヒールをかつかつと律動よく響かせる真耶さんは席に着く前に、近くにいたウエイトレスの男に気早に珈琲を二つ注文した。
 席に着くとしばらく無言が続いた。
 真耶さんは顎を下げながら目を閉じていた。
 数分後、珈琲が擦れた跡の鉄製テーブルに置かれた。 陶器との接触音が聴こえなかった。
 ジャズ調の音楽が微かに聴こえたが、注意して耳を澄まさなければ聴き取れないほど微弱だった。
 真耶さんは煙草に火をつけるや否や、ジュラルミンケースから事件現場で目撃した少女と覚しき写真をクリップで挟んだ数枚の資料を差し出してきた。 それを受け取る。
 「お前が話していたその女、部下に調べさせて昨日やっと身元が判明したんだがな、ちと面倒な事になった」
 「ん、面倒ですか?」
 珈琲を啜ろうと閉じていた口がつい開く。
 「ああ。 その少女、城山亜弥と言うんだが。 年齢は十七歳、私立聖アリア学院に通う二年生だ。 私が厄介と言うのはね、城山の家そのものを指している。 この聖アリア学院というのは言うなれば我々のような財力のある家々の令嬢令息が通う純度の高い学院なんだよ。 その親や親族は多彩な分野で今日、または過去に大いな活躍をしていたものばかりだ。 城山亜弥の家もまた然り。 こいつの父は四国の大手銀行の頭取を勤めている。 ついこの間この娘を任意で引っ張ろうとしたら、どこから嗅ぎ付けたんだろうな、署内の幹部クラス数名から、その娘に疑いをかけるなと怒鳴り散らされたよ。 この男はその地位と権力を利用し財政界列び多くの界隈に融資をして根を張っているようだしな。
 幹部どもは我々が城山に容疑をかけていると考えて、甘い汁が吸えなくなることを恐れたんだろう。 つくづくゴミだな、あいつら」
 さりげなく冒頭で、我々とか言わなかったか、この人。
 「つまり、テレビの刑事ドラマにありがちな、いいとこのボンボン捕まえたいけど政治家の息子で、その政治家から圧力かけられている……みたいなそんな感じですか、今の真耶さんたちの状況?」
 「……ああ。 任意でさえアウトだからな、決定的な証拠を見つけない限り城山亜弥を連行することは出来ん、私の実績にキズがつく。 しかしなんだ、貴様に言われると一層腹が立ってきた……おいそこの、そうだ、お前だ、メニューをくれ」
 足早に近づくさっきのウエイトレスからメニューを受け取り真耶さんはステーキとライスを注文した。
 真耶さんも珈琲を啜り、煙草を吸う。
 「城山亜弥と本件に関する資料をお前に渡す。 くれぐれも失くすなよ。 部外秘なんだからな、それ」
 なら渡さんでくれ。
 真耶さんの吐息からこぼれる白い煙が上へ上へと浮上していく様子は生者の魂を抜き取られたような幻想的な光景へと連想させた。 誰の魂かは言わずともがな、俺だ。
 資料をピャンに記録させた。
 最悪、殺さなければいけない相手の情報を知り、報酬を請け取ると言うのは、宛ら暗殺者と同一だ。
 「そういえばせつな、お前バイトはどうしたんだ」
 真耶さんは煙草を燻らせた。 煙は何かを形作らせていたがすぐに霧消した。
 「それが、マスターが急にお店を閉めるって言って、そんでクビっす。 今や収入源は真耶さんの紹介するこんな仕事のみです」
 「今やお前の生命の篝火を、こんな仕事とは失敬な。 しかしそうか、モルダウが閉店か。 タキにお前の働き先を紹介してもらうよう頼んだ手前、私も今度行ってみようか……。 しかしせつな、健忘症だからと言って、お前には歴とした戸籍謄本と住民票が与えられている。 だからタキや私には頼らず本来は自分から仕事を探すのが道理ではないのか?」
 「うっ……」
 その一般論は社会からぶらり途中下車した怠惰的俺に対してはあまりにも直球過ぎて受け止めきれない玉だった。
 決してめんどくさいからとかじゃない。 ただなんだ、せっかくのご好意を無下に拒むのも真耶さんの言う社会に対して非礼がどうとかこうとか思っていた訳であって……
 真耶さんの眼光は例えて言うなら、そう。
 陸に打ち揚げられた鯖を見るような目つきになってきた。 見たことがないのであくまで想像だが。
 「まあいい、いずれ理解するさ。 適材適所。 お前にはお前にあった仕事がある。 お前にしか成し得ないこともあるだろう。 これは概念や存在と同義だ。 それに気付けるものなど元来希有なんだ。 その点お前は幸福なのかもな……ああ、なんて皮肉だ」
 真耶さんの言ってる事は独白に近く、俺には全く理解が出来ない内容だった。
 微かな振動音を感じた。
 真耶さんが懐から折りたたみ携帯を取り出して開いた。
 「私だ……っつ、ああ……場所は……判った。 十分以内に向かう」
 点々とした語句からそれが事件性に関わることと予想した。
 「二人目が出た。 歪曲している遺体だ。 私はこれから現場に向かう。 注文したものはお前が食べろ。 ちょうどいい、その貧弱な身体に肉でも付けろ」
 立ち上がった真耶さんに一言返す。
 「女性に言われるとものすごい傷つくんすけど、それ」
 「そうなのか?」 と恍けた顔を作った真耶さんは微笑を浮かべて店を後にした。
 あ、あれ、ちょっとかわいかった……かも
 「お待たせしました」
 真耶さんが注文した料理がテーブルに置かれた。 然りげ無く伝票を添えて。
 あれ、支払い俺持ち?


        * 

(木曜日)
 「三日前に起こった事件当日、日曜ではあるが聖アリア学院は始業式を行っていたようだ。 だがその日城山亜弥は学院を無断欠席している。 クラスメイトの話ではそれから今日までずっと無断欠席を繰り返しているらしい。 お嬢様と言えど絢爛な毎日を送ってはいないようだな」
 学院から直接検分を行うと前回のように何処からか幹部に情報が漏洩する。 それを踏まえた上で真耶さん達外部は秘密裏に放課後の私立聖アリア学院生から情報を聞き出したらしい。
 「……はあ……」
 自室で真耶さんから支給された携帯を通して真耶さんとの通話内容を逐一ピャンに記録させた。
 「二人目の害者、都村徹吉の第一発見者は元妻だそうだ。 徹吉の悪癖が原因で離婚したものの情は振り切れていないようで、月に数回不定期で訪れていて、それが今日たまたま重なったそうだ」
 「いつ頃亡くなったんですか?」
 「三日前の月曜夕方、十六時から十八時頃だ。 浜野景一を殺害して日も浅い次の日に犯行に及んだようだ。 どうも殺し足りなかったのかな」
 恐ろしいことを無感情に平然と言う。
 「元妻がたまたま殺害当日に訪問したってのが気になりますがその可能性は?」
 「その線は消えた。 殺害時刻には新幹線で移動している最中でそれは乗車券と駅構内に設置された監視カメラで証明されている。
 さらに第一の犯行時も勤務先で働いており、距離的に計算して少し抜け出して殺害する、というには随分無理な場所にいる」
 まあそれは俺が言わなくても既に調べていることだろう。 事が単純だったら苦労しない。 通話先の真耶さんの声音もどこか重い、というか暗い。 そして、怖い。
 「共通点で言えば、人間ってところですかね」
 「阿呆。 それだけでは手掛かりと言えんし足取りを割り出す方が難しい」
 笑いを取り入れようとしたが一蹴された。
 空気を読もう。
 「容疑者は城山亜弥以外に居るんですか?」
 「第一被害者の浜野景一の時点では数名出てきたんだがな、今度の事件で殆ど消えた。
 その数名の容疑者には崩しようのないアリバイが有った。 犯人が歪曲のスクリプタルだということは間違いない。 あの遺体達が確固たる証拠だ。 だが人間とスクリプタルを判別出来るのは現状お前の持つ眼だけときた。 しかもその判別条件はスクリプト発動後から間もない時間と興奮状態のみと限られている。 正直このままではスクリプタルによる事件が出現しても解決するのに一苦労だ」
 珍しく弱音を吐く真耶さんだが、確かにスクリプタルというのは実像こそあるもののその実、輪郭が一切つかめていない機能性が限り無く逸脱された未知の可能性を保有した人種だ。 逸脱されたと言う点なら俺も同族ではあるが……
 「「はああ……」」
 珍しく真耶さんとの溜め息が合致した。
 「無差別に犯人足り得る可能性を取捨するとなると必然時間と手間が甚大的にかかり圧倒的に燃費が悪い……」
 もうめんどくさいと言っているようなものだ。
 「今はお前が見た城山亜弥が唯一の基点だな」
 「……」
 耳に携帯を翳しながら窓ガラス先の曇り空を見つめていた。 雲は延々遅々とたなびいていた。 ああ、なんならいっそ雲になりたい……
 「了解——」
 「ん?」
 「えーっと、これより城山亜弥調査の任に入ります」
 電話越しからこもる、溜め息混じりの女帝に嫌々敬礼を付け加え、携帯を閉じた。


        * 
 

 金曜午前九時に起床し、ピャンと一緒に外へ出た。 以前から行動を共にした方が状況整理がつきやすいとかどうたらこうたらとピャンが言い詰めていたのを嫌々ながら承諾したからだ。
 『愚者よ、思考がこちらに漏れているぞ』
 『おっと、すまん』
 自宅に面した道路を気怠さを包み隠さず逍遥と歩く。 ピャンに記録させた城山亜弥の家の地図を便りに伊勢崎線の線路に沿うよう北へ進む。
 ——にしても十七歳で一人暮らしか。 まあ頭取を親に持つ娘さんなら不思議でもないんだろうな。 記録した城山亜弥の情報に触れ改めて驚いた。
 ……親か。
 真耶さんの部下の樫浦さんに聞いたことを思い返した。
 本来俺のような身元不明者が出た場合、入院している間、警察が身元を調査し家族の元に帰すのが通例だそうだが、俺にはその家族が居なかった。 両親が行方不明だとか理解の出来ないことを述べていたのを覚えている。 退院後、住民票を便りに実家に行ってみたり、生まれ育った地を踏んでみたりしたが、何一つ実感が湧かなかった。 それは記憶がないからだと言われれば頷けてしまうが、心揺らぐような状況や場面は露ほど無かった。 雲の上を歩き、先の見えないどこまでも真っ白い雲の道程を見つめるかのようだ。
 今こうしている間に両親は何処で何をしているんだろうか。 いやそもそも……
  「……それはそれとして、どうして朱実さんが着いてきてんですか?」
 さておき現実的問題に着目した。
 「え? そりゃアレよ。 愛しのぼうやがこれ見よがしに幼女を舐め回すようないやらしい目つきで出歩こうとしているのを目撃したからには下の住人として見過ごす訳にはいかないでしょう」
 いや頼むから見過ごしてくれ、ってか舐め回すって。
 「夜、仕事じゃないんですか。 この時間いつも寝てるのに珍しいですね」
 「あらやだ、そんなにあたしに感心してたなんて朱実ちゃんびっくり。 今日はお休みよ。 まあ来週の金曜日に仕事仲間のバースデイパーティをお店で催すから、その準備ぐらいかなあ」
 朱実さんは焦茶色の皮ジャンパーに手を入れ込みながら答えた。 いったいどんな誕生日会になるのだろうかと少し興味があった。
 しばらく北に進み、小さな接骨院を左に曲がると住居を両隣に延々と並べた道に入り込んだ。
 「例えばどんなパーティーを模索しているんですか?」
 「んーとね、まずは従業員とお客さんがペアを組んでのドリアン投げバトルロワイアル

 「やめとけやめとけ! 本当に死者出す痛さだぞアレ!」 つい美智香以外の年上に対し敬語を解いてしまった。
 「じゃあ木綿豆腐投げは?」
 どうしても食材ネタから離れてくれない。
 「いやまあ、あれはあれで痛いけど、ドリアンよりかはだいぶ良心的になったなあ。 ってかその誕生日会、痛み必須な会なんですか?」
 「生きていく中で痛みっていう感覚情報を忘れると生きている実感ってのがゆくゆくと薄れてこない? 生と痛みは互いに支え合わなきゃ成り立てないもの、痛みがあってからこその生、生があってこその感情カッコ痛覚。 この催しはそれを実地で再確認する哲学の会なのよ」
 朱実さんは決めに利き手の人差し指で唇を擦って答えた。
 「なんかそれ、生に対する悟り拓いてません?」
 「それはぼうやがまだぼうやたる所以だからさっ」
 朱実さんはそう言う言下、ツンと俺の額を人差し指でつついた。 
 爪が伸びていてほんの気持ち、こそばゆかった。 つつかれた箇所を手で擦っていると朱実さんは微笑んだ。 その仕草は板にはまっていて綺麗だった。
 「んで、今日ぼうやは何処にお出かけかな」
 「えっと、友人の家に遊びに行くところですよ」
 「ネコ連れて?」
 女性と言うのはやけに敏感である。
 それでもって微妙に鋭い朱実さんに言い返す言葉が無かったので、ぶんと、効果音が出るくらい固く頷いて誤摩化すことにした。
 ふと、ピャンが気になり周囲を見渡すと背後でツテツテと着いてきていた。
 話を本題に戻した。
 「朱実さんこそ、本当に何しに来たんですか」
 閑話休題もいいところだろう。
 「いやー何となく。 でもあれね、それじゃああんま面白そうなイベントじゃないみたいだね」
 「前座でドリアン投げ構想するあなたの意欲に反して申し訳ないですが。 っていうか前座でそれなら本番はどんだけの修羅紛いを企画してるんですか」
 「それは、来てからの、お楽しみ」
 綿のように和らげて言い放つ朱実さんは俺に招待券と「ペアナンバー03 妃」 と書かれた名刺サイズのレタリング紙を渡した。
 「俺、金無いんですけど。 最近予想外の出費が出ましたし」
 「いいじゃんいいじゃん。 どうせ暇なんでしょ」
 年甲斐も無く頬を膨らます朱実さんを横目に、辺りはどんどん見知った地域から離れ、建物が町から俺たちを覆い隠す囲繞のような一帯に入り込んだ。 地元にはまだ踏み込んでない地が数多く存在した。 町というものは案外広いものなんだな。
 沈黙は途端に潰れた。
 「ああーお腹すいたー。 その友達朝ご飯出してくれるかなあ」
 「……そうだ。 そういえば朱実さんいつまで着いてくるんですか」
 思いっきり忘れていた。 朱実さんの空気に毒され過ぎて自分の奔流を反れ過ぎている。 ほんとに何処まで着いてくるんだこの人は。 朝ご飯なんて泊まる前提じゃないか。
 「いつまでって、そりゃあ、順境にあっても逆境にあっても病気のときも健康のときも妻として生涯愛と忠実を尽くし通すまでぼうやに着いてきますよ」
 朱実さんはこっちを向いて眼を瞑り、顎を少し上げた。 いかにもありがちな考える姿勢だ。
 「ひとりでとっとと婚礼の儀でもなんでも済ませて下さいコンチクショウ」
 俺は歩を速めた。

 『愚者よ、右手前方三十m先に視える六階建てのスクラッチタイル様式のマンション、六〇一号が城山亜弥の住居だ』
 弓状の道路を曲がった辺りで殿を勉めるピャンから通信が入った。 正面には確かにそれらしいのが聳え立っている。 横に梳った粘土タイルのようなものをスクラッチタイルと指すのは初耳だった。 長方形に造られた築五年以内と推測される建物は屋上に樹木が数本確認でき、屋上緑化設備という環境的な設備がこの町にも侵蝕してきたことに半ば感動した半面、建物から既にヒエラルキーの上流階級とワーキングプアとの鮮烈な格差が具現され面食らった。
 舗道から六階を窺うが深窓の先が覗ける訳もなく、位置的に監視には不向きだった。
 今日は金曜、平日だ。 なら学業を本分とする亜弥は学院に向かったのだろうか?
 玄関先の舗道から周囲を窺うとオートロック式で玄関前に設置された専用駐輪場に数台の自転車が並べてありママチャリなんて旧時代の残滓はここでは一蹴されていた。 いずれも見たことのない高価そうな自転車ばかり、隣接する駐車場にも値の張るお高いバイクや外車があった。
 「え、ここなの? ぼうやのお友達の家って。 はえーこりゃまたすごい友達持ったねー」
 結局最後まで同行した朱実さんは城山亜弥の住居を見るや否や感歎と声をあげた。
 俺と朱実さんの住居である築三十九年の木造アパートとではかけ離れ過ぎている。
 まあ当たり前ではあるがこんな地元にも富裕層というものは居て当然なんだよな。
 「どうやら留守のようです。 戻りましょう」
 俺は踵を返し元来た道を辿り返した。
 「え、もう帰っちゃうの。 少し待とうよー。 そだ、ぼうやの携帯で連絡したら?」
 少し離れた所で朱実さんが地団駄を踏み始めた。 ほんとに年甲斐もない。
 「あれは専用機なんです。 他者との連絡はしませんし、出来ません。 だからもう行きましょう。 じゃないと朝ご飯奢りませんよ——」
 「よし帰ろう、すぐ帰ろう、とっとと帰りましょう」
 朱実さんはとにかく切り替えが早かった。
 「っとその前に……」
 おもむろに携帯を取り出し着信履歴から真耶さんに連絡を入れた。
 ワンコールで繋がった。
 離れてじっとこっちを見る朱実さんに聴こえないよう手早く手配を頼むと投げやりに了解してくれた。
 通話は一分と保たなかった。
 「ねえねえ、今の電話誰よ、誰よ?」
 弧月の眼差しをきらきら光らせる朱実さんをよそに俺は来た道を引き返してファミレスに寄った。
 城山亜弥を監視するピャンを残して。


        * 


 ご苦労様です、と短く敬礼する警官を無視し、現場に踏み入れた。
 二度目だ。 
 浜野宅の玄関を上がると二階へ上がる階段、次にキッチン、最後にリビングと幾つかの個室に通じる三つの道に分けられており、最上階である二階まで吹き抜け構造の造りだった。
 私は定式に則りヒールから白のシューズに履き替え、その上からビニール袋を包み結んだ。
 「渋澤っ!」
 雑音の大声が屋内を反響した。
 「……はっ、二階であります」
 白の布手袋をはめ、遠くから届いた声の先、二階へ上がり込む。  
 螺旋階段を上る最中手摺に目が寄った。 長年手で擦った摩擦痕が数多く、年期のある建物だと外観から見立てた予想を改めて考えた。
 書斎と寝室を兼用していると推察される室内に向かうと奥で大柄の男が視界に入り込んだ。 
 「お疲れさまであります。 警部」
 渋澤は直立体勢で敬礼した。
 目元の下は黒く些か寝不足のようだった。 
 事実寝不足だろう。 渋澤は城山関連の調査を行っていた、それを指示したのは他ならぬ私だ。
 「ああ、お前もな」
 渋澤は一瞬目を見開いた。
 「は、はあ」
 三日前の火曜に一度拝見したが、ドア開けると十二畳ほどの室内が広がり、奥の隅にベッド、その隣に小さな木製の机が揃えてあった。 寝る際に水や本を置く為に使っていたのだろうか。
 正面の窓からは墓場が覗けた。
 確かせつなは墓場の辺りから裏庭を覗き見た、と言っていた。 位置的にせつなが居たであろう位置はここの窓から覗けるようだった。
 左奥は天井面に届くほどの書棚が二本とその書棚の間を机が置かれていた。
 そしてその机の下のスペースにちょうど嵌まるサイズの金庫は死体と同じく扉と四方を強いプレスによって押し曲げられており、中が空になっていた。 それは歪曲の底知れぬ力を物語るようだった。 金属製のものでこの威力、人骨など赤子の首を捻るようなものなのだろうか。
 「それで? あまり期待はしていないが、出てきたか?」
 その問い掛けに渋澤は半面を絞らせた、進展のない時の渋澤の癖だった。
 「いいえ、今の所は……」
 「そうか、まあそうだろう」
 家内を穿鑿させたところ、生活感が濃く、尚且つ貴重品や個人を特定する書類や情報が豊富なこの室内を重点に置いていた。
 入居者不在のガサ入れ後の部屋はある程度整頓されていた。
 金庫ばかりに目が入り、机上に設置された使用感のあるスタンドライトを見ると、前回は気付かなかったが笠の表面に埃が被さっていなかった。
 「害者は随分と潔癖だったのか?」
 「え、ええ」
 渋澤は背広の胸裏のポケットから急いで手帳を広げ、数枚飛ばしで捲った。
 「ええ、どうやらそのようです。 ベッドの下や窓枠、部屋の角の塵まで隅々に掃除の手が行き届いてご老体一人で暮らしているには随分と整理されています」
 「なら一層あるはずなんだがな……」
 「……ええっと、帳簿、ですか?」
 「ああ……」
 浜野の身辺を洗うとすぐさま気になる一面が浮き彫りになった。
 近隣の住民の聞き込みから得た情報によると浜野はどうやら隠遁生活の傍ら金貸業を働いていたらしい。
 帳簿のひとつでも探そうと試みたところ、帳簿と覚しきものは一つも出てこなかった。
 あからさまにその雲隠れのように消えた帳簿は怪しかった。
 「きっと住民の証言通り、机の錠付きの抽き出しにその帳簿は確かに有ったのでしょう。 それとは別に几帳面で神経質を窺わせる浜野氏が鍵を付けないのもどうも腑に落ちませんし」
 帳簿だけでなく、鍵もない。 これも証言によると浜野は全ての鍵を一括りにしていたようだった。 つまりその大纏めの鍵が紛失していた。
 すぐ横でそう言い放つ渋澤は最下の錠付きの抽き出しを中腰で引いた。
 抽き出し内は縦に半分区切られ、手前から奥に五十音順の顧客リストが閲覧しやすいようきれいにファイリングされていた。
 もう片方の区切られた箇所には何もなかった。 その部分だけが板底を露にしていた。
 最下の抽き出しに帳簿が保管されていたことは以前浜野から借金をしていた数名の住民からの証言ではっきりしていた。 そのひとり、都村も三日前に殺害された。
 左手で右膝を抑え、右手で顎を擦って話を少し戻す。
 「鷺森も言っていたが、浜野は外界との接触を極端に嫌っていたそうだ。 郵便小包の手渡しさえ、回避手段を用いていたそうだ。
 まあ周囲を林で覆われた家だけに不審者が居たとしてもそれを目撃するのは難しいだろう。 それが敷地内のものか、不審者か近隣の住民は判ったものではないからな」
 「ええ」
 犯人に取ってこの上ない殺害現場を害者自ら整えた訳だ。
 「遅れましたっ!」
 柿荒が背後で声高にあげた。 少し喧しかった。
 「……あれ、警部も居らしてたんですね」 
 「ああ、少し気になることがあってな……」
 「気になることですか?」
 柿荒は息を整えつつ目を屡叩かせた。 「犯人は城山亜弥という女子高生のスクリプタルで決まりではないんですか?」
 「おい誰が言った、そんなこと。 スクリプタルであることについてはまず間違いないだろうが犯人ではない、あくまで重要参考人——ああそうだ、城山で思い出したが、奴には先日から鷺森に泳がせている」
 シャツの擦れるような音がしたのでその音源の渋澤の方に首を傾けると、当の本人は額に手を当てて項垂れていた。 やはり睡眠不足だろう。
 「あの……ところで先ほどの納得がいかないと言うのは?」
 遅れて柿荒が手帳を広げ始めた。 
 少し思案する。 両手をスラックスのポケットに突っ込み、ひと呼吸した。
 「もし城山がこのヤマの犯人だと仮定するなら、ある疑問が残る。 浜野・都村両名と城山の関係性、金庫の中身を城山は手ぶらの状態でどう持ち去ったか、そして浜野殺害の時系列順だ」
 ん、もはや疑問ばかりだな。
 「確か、あの時警部は親しい間柄と仰っていた……あれ、ですか?」
 渋澤が混ざり込んだ。
 私は首肯で応えた。
 「我々は昨今スクリプタルという不可解な存在のせいで本来あってはならない捜査の基盤性と言うものが少しずつずれてきてしまっている。 故に常識内外の犯行を区別し捜査全体の難渋を避ける点も加味し、スクリプタルの犯行に対して我々独自による隔絶された捜査班、外事班が緊急に特設された。 だがこれもまた、否、むしろこちらの方が厄介となる。 我々は単純にスクリプタルの犯行という前提で捜査してしまっている。 それは本来正しい事でその為の我々外事だ。 たとえ一片の疑惑が見え隠れしているにも関わらず、スクリプタルの常識外能力の可能性につい多望してしまいその一片すら見限ってしまう。 今回の件がいい例だと言えよう。 浜野が後庭で殺害された時、城山は現場に居た。 これはせつなの証言だが信憑性は、まあまず高いだろう。 そして城山がスクリプタルだと発覚したその時点で既に我々の思考は、犯人は城山だ、と盲目的に決めつけ、半ばこじつけと言わんばかりに捜査をしてしまっているかも知れん。 だがその仮説通りに城山を犯人足らしめるとするなら、先ほど言った疑問が生じる。 第二被害者は室内、しかも玄関から距離があるリビングで全身を強く捩じ曲げられ殺害されていた。 玄関扉を曲げるなりして強引に押し入った訳でもない。 部屋が散乱された形跡がないと言うのは都村と顔見知りの人物による犯行と限定付けられる。 城山はどうだ?」
 渋澤は首を振る。 遅れて柿荒も同じ動作をする。
 「都村の交友関係の範囲に果たして括られるに至る人物だろうか? 都村は今年で三十九歳になる男で周辺の聞き込みからあまり好ましくない人間のようだな。 悪癖のギャンブルから幾度も浜野に金を借りていた証言もある。 対して城山は銀行取締役を父にもつ裕福な家の子、だ。 まるで線が結びつかない。 まあ、かといって可能性がゼロと言うわけでもないがな……」
 柿荒・渋澤・窓の外の順へ視線を流す。
 これは二日前に大雑把に話した内容であり、渋澤たちもこの点に気付いていただろう。
 動機がない。 関係性・繋がりが不透明。 
 喉が渇きを訴え始めた。 自然と下唇の裏側辺りが小刻みに震え出す、渇いた時の現象だ。
 続きを話す。
 「稚拙に無差別の線を辿るなら、浜野宅での殺害の件はまず成立する。 あそこは殺しの場に適しているし害者は外で殺害されている。 では第二被害者の現場はどうだろうか、わざわざ中にいる人間を殺さなくてもこの町には今もたくさんの人間が蔓延っている。 無作為に選り取り、見取り、屠り放題だ。 つまりこれは害者、都村が犯人を迎え入れたのち犯人が悠々自適にリビングで曲げ屠ったと推測する。 渋澤が先ほど言ったが、本件は無差別ではなく単純に顔見知りによる犯行ではないか、と考える。 あくまで憶測の域を出ない範囲で、な」
 「……ええっと、つまり……」
 柿荒は途中からペンを休めていた。
 「つまり、その……犯人は害者たちと親しい関係にあるスクリプタルだと?」
 柿荒が自信なさげに質問した。
 「あくまで推測だ……今のところそんな都合のいい人物も上がっていないしな——」
 ジャケットの胸裏のポケットに手を入れた。 手探りでパッケージ内の煙草の本数を数えようとしたが、空だった。
 思わず舌打ちをした。
 「そして金庫の中身、これは中々の数の札束だったと証言も有ったが、それが根こそぎ奪われているならさぞ大荷物だろう。 その金はどうやって持ち去ったか。 先も言ったがせつなは逃走する城山を目撃したと言う。
 手ぶらの城山をだ。 なら金はどうしたか? 敷地内に隠したのなら既に我々が見つけている」
 「三人目の靴跡の人物が盗んだとか、ですか?」
 柿荒がまた自信なさげに答えた。
 裏庭を起点に降雨から免れた箇所には三つの靴跡があった。 靴箱から検分して一つは浜野の靴に間違いなかった。
 もう一つは小幅なサイズ——女性のような、これは年齢とせつなの証言からも鑑みて城山であることは明白だった。
 そして三人目。 以上を除く靴跡、沈んだ土から推測される重量・サイズ・歩き癖から中肉中背で三十代から四十代前半の男性である可能性が極めて高いという鑑識からの報告を受けた。 勝手口の上がり框付近に泥が付着した靴跡が見つかったが、これも三人目のものと断定していた。 
 この三人目が、きっと本件の重要な、確信的……犯人。
 「ああ、それだろう。 最後に時系列順だ。 浜野を殺害後、金庫の金を奪取するのが当然と言えるが、城山は全くの手ぶらだった。 それでも実際金は無くなっている。 金庫を破壊した歪曲のスクリプタルが盗んだのだろう」
 「城山と歪曲のスクリプタルは共犯でしょうか?」
 渋澤が言う。
 「現状それが最もだが……だがあれだな、どうも城山という人間は今回の事件とは関係のない分類に思えてならない」
 なら、なぜ城山はあの現場に遭遇していた。
 「……稚拙な問題が多すぎるがとにかく、害者たちに共通するのは金だ。 金に困っていた人物、こいつに重点を絞る。 渋澤はその線で近隣の住民から再度地取りに廻れ、不在の住居や別の住人がいるだろうから入念にな。 柿荒は私とここをもう一度検索する。 
 手当たり次第捜せ」
 「「はっ!」」
 部屋に轟いた号令。
 「っしっかし、ここの害者はマメだなあ……」
 しばらく机の抽き出しを開け閉めして柿荒が覗き込みながら発した。 独白だったのだろうか、私の視線に気付いて慌てて畏まりだした。
 「いや、用途分けや内容別に道具やら書類やら振り分けられていて、小物なんかに箱詰めして名前が振られてある。 かなり神経質だったのでしょうか。 私とはそりが合わなそうです……警部、これをご覧下さい」
 柿荒の促しに答え、上から二段目の抽き出しを注視した。 レシートの束が月ごとに輪ゴムで分けられている箇所を指していた。
 「そのレシートの束ならもう見た。 確かに変わっている。 家計簿も見つかっているし、小煩くなければ使用人として出逢いたかったよ」
 「既にご覧になられていましたか。 自分は細かく見てはいなかったもので……」
 柿荒には証言の裏取りを行っていたのを思い出した。
 柿荒は他人の宝石を扱うようにその月別に振り分けられたレシート群の一つを丁寧に手に取っては、枚数を飛ばして見ていた。
 私はなぜかその光景を呆けて見ていた。
 自分でも判然とする癖が時々あるが、私がこうして何もせず一点を見つめているときは、見ている内容とは奔流が分かれる出来事が最終的に帰結に至る重要な道筋を脳が思考している最中なのだと理解していた。 高校生の時からその癖に薄々気付いていた。
 柿荒が最後のレシートを見終え、抽き出しの手摺に手をかける寸前で「待て」 と声を上げた。
 頭の中で何かが淀んでいる心地だった。 どうにか吐きだして一服吹かしたい気分だ。
 突然の声に驚いた柿荒は手を止め、少し不思議そうにこちらを目開きしていた。
 「今見たそのレシート、私にも見せろ」
 手渡されたレシート束を見ると、今年の2月のものだった。
 眉を顰めてこちらを覗く柿荒をよそに、1枚1枚レシートを素早く睨んだ。 何が私をこう突き動かすのか自分なりの解釈がいまいち出来ていなかった。
 ただ気になる。
 ただ何かを見逃している。
 その何かとは……何か。
 その手は二十数枚辺りで止まった。 そもそもレシートと今回のヤマとは全く関係のないものだった。 が、鷺森が発したなんとない台詞が脳裏で息を吹き返していた。
 いや、まさかな……しかし……
 その後も柿荒と手掛かり成り得る可能性の物を捜したが、当座はあのレシートから離れなかった。
 レシートの下の余分枠に手書きで
「-¥480」 と書かれ、横線を引いた下に「¥4'675'630」 という数字が書かれていた。
 気になって他の月のレシートを見回したが手書きで書かれた同一のものはそのお店のレシートだけだった。
 月を越すごとにその数字は減っているようだった。
 頭がぐるぐる回り始めてきた。 つい目頭を抑えてしまう。 どこかで見た図柄だった。
 踵を返す。 ドアを開き廊下へ出る。
 「少し気になることが出来たようだ。 私はこのまま都村の家へ向かう。 お前は引き続きここを調べていろ。 ああそうだ、それとは別に浜野のよく通うところも調べておいてくれ」
 「え、よく行くところですか?」
 柿荒の返答を聴かずに一階に下り、そのまま浜野宅を後にした。


        * 
 
(日曜 朝)
 約二日間城山亜弥の自宅マンション前で張り込んでいたピャンを少しは労ってやろうと、以前光ちゃんに教えてもらった登戸堂の白玉たい焼きを与えた。 我を忘れて黙々と食べ続ける満足顔を眺め終えた後、本題に入らせてもらった。 
 自宅の窓を開けると暖かい光と風が室内に入ってきた。
 ピャンは窓の下で口をもごもご動かしてしていた。
 『外出は二度、しかもコンビニエンスストアでのお弁当を購入しただけで、それ以外珍妙ことは……まあひとつも起らなかった』
 ピャンは髭に付いた粒あんを取ろうと苦戦を強いられながら答えた。
 真耶さんから借りた城山の資料を何度見ても状況把握に些か無理が生じた。 欠け過ぎている。 城山の周囲から城山自身の事件当時の仔細を調べるには、「知り合い」 と言う関係性の人間との接触さえアウトなのだから。 それを踏まえてピャンを差し向けたのにも関わらず——
 「じゃあ一昨日も学院には行ってなかったんだな」
 『そのようだ。 だが、それと今回の事件とは関係のないことであろう』
 「まあそうなんだけど……」
 そう言って黄ばんだ天井を見上げながら三秒間考えた。 言おうか言わないか迷った挙げ句、こいつに気を使うのが馬鹿みたいに思い、無遠慮に吐き出すことにした。
 「っていうかお前、つまりあれか? 何の成果も上げてねえってことだよな」
 ピャンはその言葉に驚いてベッドに寝転がるこっちに小さな首を傾けた。 
 『ぐ、愚考極めし隣人とて同然であろう!』
 脳に直接語りかけているのにも関わらず、「であろう!」 らへんで、くわっと口を開いた時にあんこが飛び出した。
 『妃嬢と会食しただけではないか! しかもなんぞや、地中海風エビピラフとは! 涎の滴りが抑えきれん響きではないか! 己等がのんびり懈怠に磨きをかけている間、監視していた我に対する褒美がこれだけとは、なんと嘆かわしい。 ああ無情。 ああ無情』
 「どんだけ僻んでんだ。 ってか、妃は源氏名で本名は朱実さんっていうんだよ、朱実さん……ったく、成果上げられなくて真耶さんに殺されんのはこっちの方なんだぞ」
 ピャンは、ふんと首を横に向いた後、たい焼きを再度頬張った。
 体の向きを変えベッドと相対する壁際に鎮座した十五型の中古テレビに薄らと映る横向きの自分が映ったがなんだか急に怖くなってすぐに目を閉じた。
 しばらくベッドに突っ伏したまま動こうとしなかった。
 頭の中でぼやけた濃霧を必死に掻き出すと金の額縁に歪曲された浜野景一の死体と、それを見つめる城山亜弥の姿を描いた油絵が浮かんできた。
 エメラルドグリーンの油絵の具に塗られた瞳孔は歯車の形をしており、死体を恐れることも哀れむことも無く、宛ら仏のような尊い双眼を放っていた。 
 実際は死体から逃げる後ろ姿しか確認していないのに脳内は空想上に描かれた嫌な情景を映してくる。
 あの子の姿を目にした瞬間何を思ったのだろう?
 あの子の目を見た瞬間何を考えていたのだろう?
 頭の中でいくつもの問いに疑問符が付随し始め、その回答を模索しているうち、どんどん仄暗く音さえ逃さない深淵の狭間に埋没してしまいそうだった。
 答えが出てこない。 答えなんてあるのだろうか?
 ——今まで何かに対してこんなにもややこしく考えなかった気がする——
 薄紫色の疑問の中で僅かにこの観念が筆頭に上がった。
 初めの疑問が随分と日にちを掛けて堆積の下に沈んでいたようだった。
 慎重に呼吸を整えた。 小さな答えが気泡のように水底から浮かんでくる気がした。
 ベッドカバー越しから空気に靡かれた塵が外の熱で独特のにおいを放っている。 もう暖かいんだ。 桜が開花するのはもうすぐだろう、ああでも今日は日曜、天気予報は見ていないから判らないが、もうすぐ雨が降るんじゃないだろうか。 この世界の桜を桜とは意識していないがあれが咲かないと悲しい気持ちになる人が多いんじゃないだろうか。 志々枝さんや光ちゃん辺りがきっとそうに違いない。 朱実さんなんか想像するからにうるさそうだ。
 未だ目を瞑りながらも想像して、つい綻びだした。
 それとなくピャンに週末の天気を聞いてみようか?
 三度呼吸を整えたが、さっきの答えが一向に浮かばなかった。 気泡はどこに行ったのだろう。
 躯を起こしピャンを捜すと、たい焼きを食べていた場から身動ぎせず、じっとこっちを見ていた。 俺もピャンをじっと見た。 ふいにあの異界での出逢いの場面を思い出した。  『どうした、愚者よ』
 しばらくしてピャンが訝しげ始めた。 脳に届くその電気信号の通信に珍しく俺は静電気の類いに似たびりっとする感覚を体感した。  『どうしたのだ、愚者』
 ピャンが語気をやや高めて再度訪ねてきた。
 「いや……何でもない。 いやなんだ、ただ小学生並みの言い訳を閃いたんだ」
 ピャンは片方の瞼をへこませ、しなやかに首を傾げていた。
 「俺は……城山亜弥が浜野景一を殺害した瞬間を目撃していない。 あくまで死体を背に逃げる姿を目撃したんだ。 第一発見者は俺じゃなくてもしかしたら城山亜弥なんじゃないかって……」
 『……なら何故城山亜弥はそう証言せず現場から逃走を図った。 愚者という目撃者もいると言うのに、そもそも何故現場に居合わせていた?』
 ピャンが連続で当然の追求を投げてきた。
 「そこなんだよ」
 俺はベッドカバーに包まった。
 「どうしてなのかなって、俺も不思議に思ってたんだけど、単純に怖くて逃げ出したんじゃないのかな。 居合わせた理由は……なんだろう、たまたま……とか?」
 『不完全だ』
 ピャンは一蹴した。 討論するに値しないと判断したのだろう。
 理由は確かに判らなかった。
 「ちょっとはお前も考えてくれよ、情報の塊。 お前のその力でどうにかならないのか?」
 『どうにか、とは?』
 「いや、例えば浜野邸の周囲に設置された監視カメラから事件発生前後出てきた不審人物の洗い出しとか、どうして城山亜弥が浜野邸周辺に居たのかとかを」
 『……』
 ん、この間は……なに?
 『監視映像カメラに写った人物から犯人を導きだす策は実に骨が折れる作業だぞ? それに事件当時は降雨。 傘をさす者ばかりで人相把握も完璧でない。 それでも構わないなら愚者の脳内に全データを転送させるが……』
 「いや、遠慮するわ」
 さっきの間は調べている最中だったのね。
 というか何故もっと早く行動に移さなかった。
 『ネットワークを駆使し、何故城山亜弥が浜野景一宅に居合わせたかだが、まず織部真耶が提供した資料から両名に関係性が無いことが予想される。 つまり無関係に城山亜弥が行動していたと捉えられる。 城山亜弥の携帯の送受信記録から、事件当日の三日前、四月五日木曜日に私立聖アリア学院の御学友と食事の約束を交わしている記録が残されている。 その期日は事件当日だ。 待ち合わせ時間は午後十三時。 指定場所は「ペペロ・ダ・モア」 という洋食店だな』
 「ん、それって——?」
 そのお店、あの事件現場から近いところにあるパスタ屋さんだ。
 『まだ終わっておらん。 当日正午、御学友からキャンセルの連絡が城山亜弥の携帯に残されている』
 「すっぽかされたのか……ん、じゃあ案外繋がってないか? これ」
 頭で考えるのは最低限控え、再び城山亜弥宅へ向かうことにした。
 よくよく考えればピャンが家まで来る必要は無く、俺がそのまま向かえばいいことだったことも忘れようとした。


        *

(金曜)① 
 誰かに見られている。
 それ自体は一昨日から感じていたし、それが警察だろうとも薄々感づいていた。 正直、警察の行動力の速さには驚いた。 すぐさま私のところまで辿り着いたのなら、事件の解明を時間の問題と言えよう。 ただし、警察は確固たる証拠を今も尚掴んでいないだろう。
 まだ、終わってはいない。
 私が捕まったと知ったら父さんはどんな心境だろうか。
 辛いのか、悲しいのか、そもそも私たちにそんな世俗に塗れた感情を持ちえるほど、環境を共有する時間があっただろうか……
 大方父さんが心配するのは娘の私のことではなく、他を犠牲に自身が血眼になって魂と生涯と金を滂沱のように注ぎ込んだ仕事のことだろう。
 掛け時計の秒針の音が部屋中に響く。 紅い皮のソファから窓の外を見る。
 やっぱり見られている。 
 今回のは、なんだか……堂々としている。 
 監視なのだからもう少しせせこましく身を潜めるべきなのでは、と気遣わしいほど下手くそに凝視されているとなんだか薄気味悪かった。 感覚を鋭敏に澄ませるとどうやらマンションの玄関あたり、大方路上ではないかと予想した。
 私自身の感知機能がここまで化生的になったり、自分の体が以前と別人のように思うように感じたのは小学生の高学年の頃だった覚えがある。 自分でも錯覚なんじゃないかと疑ってしまうほど、この感知は鋭敏で初めの頃は怖くてわなわな震えていたがいつしか慣れ、いや、諦めが先に廻って来た、どう逃げようがその運命からは逃れられないのだと。
 そして私はスクリプタルを逃れられない呪いという一部として飲み込んだ。
 注意しながら壁に沿い、窓辺から地上を俯瞰する。
 先日まで何軒か離れたところで張っていた紺のセダンは忽然と消えてなくなり、代わりに全身が真っ黒いネコがこちらを見上げていた。 黒い異物にも錯覚するその黒ネコはどこかいい知れぬ不思議な雰囲気を纏っていた。 それは生きているようで、かといって生きることを飲み込んでいるとも思えない。
 風や空気や音の音色を理解している上でそれを非道く嫌悪しているような、形だけ見繕ったニンゲンのようなネコ。
 第一印象は怖いネコだったが、第二印象はこいつは本当にネコなのか、という疑問だった。
 今日も学院に行くのが面倒だった。 少し躊躇った後、こちらを注視するネコを監視することにした。
 TVを視ているときや雑誌を読んでいる間も暇あるごとにネコを眺めている自分が居た。
 それは至極当たり前だった日常生活がほんの数日前から鮮烈に変貌したあの日をふとぶり返してくれるんじゃないかという淡い期待からの行動だった。
 汗が流血のようにどくどくと流れ出たある昼頃だった。 あのときほど私は冷静さを保たずにはいられなかっただろう。 なにせ、あんな体験は一度もなかった、起こるなんて誰しも思わなかったことなのだから。 目がくらくらして、脳に激発に溜まった混乱と焦りと怒りが呼吸とともに一緒くたに吐き出しながら惨めに逃げたあの雨の日、あのとき味わった未体験の麻薬じみた興奮と口内から炙り出た鉄のような味を狂になって吸い味わったあの余韻にいつまでもいつまでもとろけてしまうほど浸かっていたいと欲する自分がいることを黒ネコを通して目の当たりにした瞬間だった。
 今の私はきっと恐れと興奮が混ざり込んでいる。 感情が読み込めない。
 ああ、そうか。
 私はどうかしている。
 携帯にクラスメイトからのメールが届いていることに気付いた。 着信を知らせる携帯の外側のピンク色の電光色が、ぼう、ぼうと生き物の寝息のようなリズムを煌々と放っていた。
 メールの内容は、先日の食事をキャンセルしたことに対する詫びと学院を休んでいることに対する気遣いのメールだった。 今はネコに目が向いていたので返信をせず、そのまま携帯を閉じてテーブルに置いた。 何度も何度も覗き込む度、黒ネコはこちらを凝視し続けていた。
 ここは六階なのだからあんな小さなネコでは首が疲れるのではないだろうか、と心配ではなくあくまで興味が湧いていた。
 あのネコは路上に面する端側の各階の中で六〇一号室の部屋の私を見ている。 これも拭えない直感だった。
 夕方を迎え、晩ご飯を買おうと近くのコンビニまで足を運ぼうと思った。 寝室で着替えをしていてる最中、あのネコが脳裏から離れなかった。 
 エレベーターで一階に降り、重厚な玄関扉を開く。 空気に混ざった黴臭さが一瞬鼻を擦ったがもう一度嗅ぐ時にはそんなにおいが果たしてあったのかと思い違いをするように黴臭くなかった。
 やはりあの黒ネコが路上に居座っていた。 
 私は黒ネコに触れようとせずに歩を進める。
 駅前までの往来をしばらく歩きながら右腕に掛けてある腕時計をやや高い位置に正面から覗く。 時刻は十六時四十三分を指し、背景が薄紫色の腕時計の角度を少しずらすと、こちらをそろりと着いてくる黒ネコが光に反射して映りこんでいた。
 またあのネコだ。
 眼光の色など詳らかな形容が反射から把握出来ないのがなぜかしっくりきていた。
 偶然ではない。 確かに着いて来ている。
 この黒ネコは何なのだろうか。 西洋魔術の本に出てくる使い魔の類いとか?
 ——馬鹿な、と一笑しかけたがそうすると私自身の存在を否定しかねないので即座に否定をすることを躊躇った。

 駅前のコンビニでお弁当とサイダーを買い込んで、外へ出ると店前で見知らぬおばさんたちがさっきの黒ネコに鈴カステラを与えながら躯を揉んだり擦ったり指を押したりして戯れていた。
 黒ネコの方はさも嫌がってそうな気色だが、お菓子を与えられているからか止むなしにつき合っているようにも見えた。
 知性があると思えたがネコにもそういうものがあるだろうと逡巡した。
 ともかくおばさんたちが思いもよらない功を立てた。 位置によっては人壁になる。
 音を立てないよう気を配りながら後退し、徐々に黒ネコとの距離を広げていった。 店脇まで後退したところで裏手の駐車場まで走った。 閑散としている駐車場を従横無尽に走り、道路を跨いだせせこましい路地裏に入り込んだ。
 いくつかの民家を通り過ぎた後、視界は少し形を変えた。
 右手は同じ造りのコンクリート塀が長々と延び、左手は家並みの勝手口が揃うようにどこまでも続く裏道のような場所だった。
 まだ息は切れていない。
 包み隠すような塀と均一な高さを有する民家に囲まれているおかげで、全速力で走る私を不審がる住民はいない。 まあこれはこれで不気味だ。 こんなうそ寒い上で倒れ伏せたとしても誰も気付かないだろう。 「人口の森」 というフレーズが頭に連想してきてつい口が歪んだ。
 しばらく迷路のような複雑な道の出口はどこに繋がっているのだろう、と考えながら進んでいると、いつの間にか空が緋色から宵に近づき始めていることに気付き立ち止まった。
 腕時計の針を見ると驚いたことに十七時十分を指していた。
 空は今なお寝静まろうと坦々と準備をしている。
 そのなんとも複雑な色合い、淀みを阻害しきれていないまま繰り越す空気同士の移譲が自然と心を落ち着かせた。
 なんて幼稚じみたことをしているんだろう。 幼少の頃ならまだしも、この年齢になって——と呆然し後悔にも似た脚の疲労がどっと脹らみ、気落ちしそうになった。 
 ——もう、帰ろう。
 家に着いたらもう一度暖め直さなくちゃならない。 含み笑いながら、冷めたであろう弁当に一目しながら踵を返した直後、はっ、と声を漏らし、額なり背なりに冷ややかな汗が噴き出た。
 さっき振り切ったと思った黒ネコが道の真ん中に座り込んでいた。
 途端にふつふつと焼けるような苛立がこみ上げ、抑えきれなくなった。 
 「……お前はなんだ?」
 黒ネコは降下する夕焼けを背景に輪郭が不鮮明で亡霊のような影が虚ろく、どこか不気味に立ち塞がっていた。
 「……私に何かようか?」
 黒ネコは微動だにしなかった。 その反響のない静寂さが余計反感を買った。
 黒ネコを睨みつけながらつい親指の爪を噛んだ。
 頭の中は暴力的に黒ネコを焦がし尽す造形で染められていた。 苛立の対象を脳内で焼き殺すイメージを想像することで少しは猛り立つ感情を押さえ込んでいる気でいた。
 追い風が細々とした路地裏を蟒蛇のようにするする沿うように吹きつけ、はりつめた空気に体が包みこまれ、次第に冷静さを取り戻しつつあった。
 仮にただのネコじゃないとしてもネコには変わらない、そもそもさして気にすることじゃない。 癪の種は単なるネコだ。
 ほんの一瞬のような自問を続ける時にはもう完全に感情は沈静化していた。
 結局、中央に鎮座する黒ネコを避けるように塀に沿って来た道を引き返した。
 振り返らずそのまま家路を辿ると蟻の列のように帰路に就く列に行き当たった。
 私はその一群に紛れ込んで黒ネコのことを払拭しようと努力した。


        * 

(日曜)
 陰鬱とした雲が部屋にまで入って来たかのように室内は重苦しい空間と化した日曜の春宵。
 始業式から学院に顔を出していない。 そろそろ学生生活の進退を考えようと思想しているとインターフォンの機械音が室内を反響させた。
 あからさまに舌打ちをする私はドア越しの人物を確認せず玄関を開けた。
 迂闊だった。
 眼前に現れたのは私より年齢が少し上の若い男とその足下には一昨日の黒ネコがいた。
 「あっども、城山亜弥さん、ですよね? 鷺森せつなと申します。 こいつうちで飼ってる、ピャン」
 男は下手くそに微笑んだ。
 黒ネコは欠伸をした。
 男は黒髪であるが微かに茶色が混ざっているような不鮮明な色合いを呈していて、まずそこに苛立を覚えた。 服装は一見簡素で絹素材の白シャツを腕まで捲り上げていた。 青のデニムジーンズはビンテージ物だろうと推測され使い古された味が見て取れた。 分厚い黒のレザーブーツもビンテージだ。 白や黄色や赤の雫が点々と表面に拵えた趣向が膨れ始めたばかりの怒りを鎮めた。
 黒ネコに目を配るとやはりどう見ても一昨日の黒ネコだった。 単色の黒が全体に覆われた暗闇のようなネコだが、他の黒ネコとは見間違えようがないほど、どこか、やはり何かが別格だった。 一昨日までの鋭い目をこちらに始終向けていたのが嘘のようについと自室の方を見たままじっとしていた。
 「アンタか? こいつの主人は」
 判りきったことを指差しで敢えて聞いた。
 「まあ、ちょっと違うが有り体に言えばそうだな、こいつの主人は、俺だ」
 ところどころ覇気の消えた口調の玄関前に立つこの男にはあの黒ネコがひどく釣り合っているように思えた。 率直に言えば、この男と黒ネコは生き物でありながら生きているのかどうか怪しい雰囲気を醸し出している点が非常に似通っていた。
 しかし……あまりにも付け入る隙が滲み出ている様を見ると、右手でドアを押さえているこの状態でさえ、目下一組を殺すことは容易に出来そうだった。
 灌木のような軟弱な男だ。
 「そのおかしな黒ネコに一昨日、多少なりとも迷惑被ってんだ、家の前にずっと居るし外へ出ても金魚のふんみたいに着いてくるし、なんなんだソイツ?」
 「……」
 少しの間鷺森とピャンと名乗るものたちは反目していた。 勝手にそちらの世界に入り込まれても困る、と一度沈んだ熱が再びこみ上げてくる。
 「すまん。 こいつが出過ぎたまねしたそうで、俺から謝る。 ところでさ——」
 本当に軽く頭を下げた鷺森はデニムのポケットから一枚の写真を取り出した。
 「この人に心当たりはない?」
 それは庭で見たあの老体の生前の写真だった。
 「——イマ、ドウヨウシタデショ?」
 「え?……」
 鷺森の言葉を脳が翻訳するタイミングと、驚いたタイミングが重なって鷺森が何を言ったか理解出来ず、つい素を出していた。
 「この写真見て瞳孔が小さく狭まった。 驚いたり、動揺したり、心的状況に揺らぎがあった証拠だよ」
 「……私は知らない。 父の知り合いかと思って少し気になっただけだ。 それにどうやらそれも人違いみたいだ」
 「そうか……おかしいな……」
 男の声音が急に陰りを露にし、ニヒルに微笑んだ。
 私は少し寒気がしたがそれを悟られないように、弱みを見せつけないように、面変わりを見せる鷺森を黙って睨みつけた。
 なんなんだ、コイツ……
 さっきの暗い影とは打って変わって、鷺森がひと呼吸いれた時には、初めの様子に戻っているように見れた。
 「実はある事件について調べているんだ。 
 この市内の民家で殺人事件が二件続けて起こっていて、全身を強く捩じられた変死体なんだが、これがちょっと手こずっててね。 まだ犯人が捕まってないんだよ。 近隣の住人に話聞いたりして解決の糸口を見つけようと努力はしてるみたいなんだけど中々……それで今回城山さん家に来たのもその聞き込みが目的なもんで……悪いんだけど協力してもらえない?」
 「アンタ、もしかして探偵……興信所の人間か?」
 ケイサツではないことは見て判る。
 「んー、まあそうだね。 そう言ってくれると何かと判りやすくて助かる」
 違うのか?
 自然と体が後ろに退いた。
 「で、最初の事件ってのは、何月、何日の、何時頃よ」
 「えーっと、今月——四月七日の十三時頃だね。 日曜だから雨が降っていた日だよ」
 鷺森はほんの少し黙考した後、すらすらと答えた。
 「……その日、なら、家に居た」
 「なるほど。 あの悪いんだけど、それを証明してくれる人は——」
 「居ないよ。 ここ、一人暮らしだし、人を招き入れたこと、ないし」
 「なるほどなるほど……」
 鷺森は同じ言葉を繋ぎながらも……あまり
話の内容には興味がないようでどこか上の空だった。
 徐々にいらいらしてきた。
 「アリバイ確認みたいだな、実際そうみたいだけど。 私にアリバイはないみたいだね」
 それを聞いた鷺森はきょとんとした赤ん坊のような目をした。
 「え、ああ、いや、城山さんはアリバイがあるよ」
 「え?」
 「だって俺、事件現場で逃げる城山さんを目撃したんだもん」
 「なっ——」
 この男が、あの場所に?
 そう言えば居たような、いや居なかったような……あの時はどうしようか混乱していて感知するどころじゃなかった。
 気付かれないようにごく自然と生唾を飲み込む。
 コイツは私から事件の要諦を引き出すつもりだ——
 「でも知り合いの警官に聞いた話じゃあ、救急車や警察に連絡したのはどうやら俺だけみたいだし、それじゃあ先に死体を見つけた城山さんはどうして通報しなかったのかと思って。 まあそんなんだから警察も城山さんを重要参考人扱いにしてるそうなんだわ。
 でも決定打と言える証拠も何もないし、城山さんの親父さんと聖アリア学院が怖いから叩き上げることも出来ないそうなんだけど……あ、やべ、これ言っちゃいけなかったんだ、今の聞かなかったことにして」
 最後にジェスチャーで両掌を合わせて頭を軽く下げた。
 「……そういうことか。 あんたケイサツに雇われた犬か……待て、アンタどうやってこのマンションに入った?」
 「ああ、それか。 適当に番号打って、出て来た何処ぞの住人に俺もこのマンションの住人の知り合いだって装って入ったんだ。 これ不法侵入に当て嵌まんのかなー?」
 ——呆れた、なんて奴だ。 
 「証拠が無いんだろ? こうしてアンタがここに来る意味が判らない……用件は何だ?」
 「この写真を持って来た意味が無くなっちまったなあ……城山亜弥さん、あんたが浜野景一の遺体を前に逃走するところを俺は確かに見た。 あの遺体の形容は常人が大掛かりな道具を使ってでも形成出来るかどうかの犯行だ。 警察はスクリプタルの犯行と見て捜査しているみたいでさ……さっきは重要参考人って言ったけど、どうやらあんたをそのスクリプタルと断定した上でのようだ。 うん、有り体に言えば容疑者だ。 あの、怒んないでね?」
 私は深く溜め息をついて半ば呆れ返っていた。 さっきまでのスリルにトリップしていた自分が急に別人に思えて仕方がなかった。
 コイツに会って現実世界に引き戻された。
 「ここじゃ隣人の目も付くし迷惑になる。
 少し場所を変えよう」
 あ、そう、と気軽に答え、階段で下る鷺森と黒ネコを見下ろしながら後に続いた。


        * 


 『愚者よ、そもそも織部真耶は城山亜弥が事件に関係していることを悟られ、父君に告げられることを回避する為に無関係の市民カッコ無職である愚者に城山亜弥の内部調査を依頼したのだと我は思っていたのだが、先の会話では直接的に、貴様は渦中の人物だと警察どもは考えているぞ、と示唆させているものだが……』
 『あ、いや、まあその、あれだ……つい、口が滑ったんだ……やばいなあ、どうしよう。 城山、親父さんにちくったりしないかなあ……そしたら……真耶さんに殺されるなあ……』
 マンションを出て城山亜弥に誘導されながらしばらく沈黙の状態が続いた。
 市道に出たかと思うと足先はまだまだ北に向かい、縮こまった道路をさらに奥へと進んだ。
 不規則に車が出入りしている暗々と開口したトンネルが見えたと思えば、城山亜弥はトンネルに入らず、その右側、横に伸びる弓なりに反れた歩道に曲がった。 緩やかな勾配を上り、街外れの狭く陥没した舗道に辿り着いたとき、視界に映る雲は重く立ち込め今にも雨が降り出しそうな天気だった。 横伸びに垂れた灰色の雲を見つめるとその表情は今の俺のように鬱屈としているようだ。
 最近こんな天気が当たり前のように感じる。
 城山亜弥は正対して自然と距離を取っていた。
 左手は高さ四mほどの車が通れそうなトンネルの上を武蔵野線が通り、厳重そうな白亜のコンクリート塀が線路を囲っている。
 右手は背丈ほどの草が無造作に生い茂り視界を遮っている。
 繁茂する田園の近景に民家が一棟見えるが真っ暗でそこに人が住んでいるのかさえ怪しかった。
 一帯は漠然に寂寞としていた。
 「ここ、なんか変だろ?」
 常夜灯の下で照らされた城山亜弥が切り出した。 仄かにその表情に翳りを見せる。
 「周囲は車と電車の交通が激しくその全てが壁で覆われて隔絶としている。 去年そこのトンネルが完工してからこの道を利用するものはめっきり減り……と言うか私はここを通る人を見たことがない。 言うなれば、ここはまるで異世界の狭間みたいなところだ」
 一貫して崩れを見せない黒く鷹のような鋭い睨め付け。 波立つ凛々しい睫毛。 年齢とは裏腹に大人びて見え身長が低くなければモデルで重宝されるんじゃないだろうか。
 顔立ちがいいから異性に人気があるのかも知れない。 紅色と呼んだ方が正鵠を射る髪を首もとまで城山亜弥は、部屋着なのか外着なのか判断しにくい服装だった。 一言で言えばロック調だ。 黒の七分袖のインナーTシャツの上から蛍光色を鏤められた使用感がある灰色のペイントTシャツ、デニム地のホットパンツという風体。 手首に巻き付けた金属のトゲの装飾品もその種類らしくなんだか厳つい武装のようでなんとも刺々しい、
肉に食い込んだらさぞや痛そうだ。
 学院生だから清楚な奴と思ったが写真通りだな——ああ、また偏見だ。
 「ほんとに誰も通らないな。 確かに異世界ってのは合っている。 ここだけ穿たれたみたいに俗界から見放されて暗暗裏な話をする場としてはちょうどいいところだ」
 周囲を一回りしてみる。
 薄曇りの空は徐々に妖艶な黒色を深め夜陰を示唆させる。 ざわざわと冴えた草が乱れ舞いそれは涼感さえ感受させる。
 ピャンは俺の横で毛繕いをしている。 慇懃なやつだ。 大義を遂げたと思ってやがる。
 遠くから微かに警笛が聴こえた。
 さっきから気になって仕方なかったが、どうも城山は癇症持ちのようだ。 若さ故の過ちと解釈しておこう。
 しかし何をそんな苛立てているのだろうか、懈怠の俺には理解出来ない性格だった。
 怒らせないように丁寧にすべきだろうか、と思い悩んだがそれはそれでめんどくさそうなので即刻棄却した。
 「どうして私がスクリプタルだって判った」
 「え、ああ、判別方法は今判明している限りただ一つ、瞳孔だ。 スクリプト発動直後は瞳孔が歯車の形に変容するんだ。 理由はよく判らんが。 また、興奮状態時も同様の変化が確認されている」
 「そうか……そこまで進んでいたんだ……」
 その識別が可能なのは俺だけみたいだけどな。
 「さっきの続きだ。 ケイサツは何も手が出せない状態なんだろ? なのにアンタはこうして私のもとに来て、こうして私を苛立たせている。 アンタは何をどうしたいんだ? 私にはそれが判らない」
 苛立は関係ないと思うがな。
 「んー。 城山さんは癇癪が強いだろ?」
 「……あ?」
 鋭く睨まれた。 失言した。
 「俺はめんどくさがり屋なんだ。 深く考えるのが得意じゃない。 おまけに物覚えも得意じゃない。 これは考えるのがめんどくさいから覚えないだけなんだけどな」
 「……」
 ああ、この手に脱線は危険だ。 今にも血管が破裂しそうな顔をしている。
 「糊口をしのぐ為にちゃっちゃと仕事を済ませようとしたけども、それにしちゃあ今回の事件はちと不思議なんだよ」
 城山亜弥は黙って睨んでいる。 
 「警察はそのうちすぐ解決するよ、手詰まりなんて犯人からすれば一刻の猶予期間みたいなもんだ。 うちのボスはレイシズムだけど、なにより一等キレがいいし……これが城山さんに伝えたい用件のうちの一つ目だ。 もうひとつは質問として答えさしてもらう」
 城山亜弥は眉なり目の下の筋肉なりをひくひくさせていた。
 「さて質問だが、城山亜弥さん。 あんたはあの現場で何をしていた? 何があった?」
 「……」
 相変わらず相手の苦い表情は拭いきれていない。 さっきから押し問答をしているようで実りのある成果が出ている訳でもない。
 殷々と線路を駆ける音が悲鳴をあげる。 遮音塀の役割が皆無と言えるほど耳朶に騒音が傾れ込んだ。
 会話の間を埋めるにはちょうどいい。
 「答える必要はない。 アンタの生計なんて知ったことじゃない。 これは私の問題だ、これ以上部外者が首を突っ込むとあの死体みたいになるぞ」
 「……なるぞ?」
 城山亜弥の瞼が大きく見開いたと思ったら瞼を閉じた。 その一瞬は決して見逃さなかった。
 彼方で闇に堕ちる陽とそれを飲み込んでいる山々を目で流す。
 ここらへんが大事な場面だろう、次の展開を選定した。 
 「あの死体みたいになるぞ……か。 また不思議が増えた。 自身がもし物体を捻るスクリプタルならさっき言った【みたいになるぞ】 は不適切だ。 「する」 じゃなく「なるぞ」 って言うのは、まるで物体を捻るスクリプタルが自身じゃないと言っているみたいだ。 俺は浜野家の敷地内、と言うかあの後庭らへんで大きな音を聴いた。 あれは骨を何本も圧し折った、捩じ曲げたときに出る音だとしたら自然と納得がいく、そんな音だったからな。 あれ以降音が途絶えたってことは、あれが最後の、浜野景一を絶命に至らせた最後の骨の歪曲音だったってことは、その直後に逃走した人間が犯人だと結論づけた方が納得しやすい。 しかも条件としてその犯人はスクリプタルでなければいけないが、城山さんはこの二つの条件を満たしている」
 俺は無意識に両手をズボンのポケットに入れていた。
 「それを踏まえると犯人は城山さんだと結論付けそうだけど、城山さんはスクリプタルではあるが、浜野景一を殺したスクリプタルじゃない。 さっきの、死体みたいになるぞ、が決定的だからね」
 「何が言いたい? アンタは何が言いたいんだ」
 「俺は、城山さんは犯人じゃないと考えている」
 「な、なんで……」
 「学院の友人と食事をする洋食店の道筋に浜野邸は位置している。 予定は急遽キャンセルされたんですよね? あんたはその連絡を受けた時、現場近くに居合わせたんじゃないのかな、と。 あんたはたまたま事件現場に出会してしまったんだ」
 「アンタ……どうしてそれを——」
 「そうなら単純に、時間差からして城山さんと真犯人が接近していたことは間違いない。 俺が見たのは浜野景一を殺害した後、真犯人が先に逃走して、そのすぐ後を追うように逃げた城山さんの姿を目撃したんだと思う。 でも何故真犯人のことを警察に告げないのか? これが不思議だった。 もしかしたらその真犯人と以前から関係があったのかとか庇っているのかとか契約か約束か何かしているか、はたまた脅されているか、はたまた——」
 再度見開いた城山亜弥の瞳孔は緑色の歯車に変容していた。
 枝のようにしなやかな右腕の先端は歯車と同系色の炎が涌然と燃え盛り、サッカーボールほどの球形を瞬時に形成させた。 肩を落とし後方へ腕を撓りながら振り被り、前方へ向き出した左足を踏み堪えた。
 見惚れるてしまうほど鮮やかな炎のスクリプト。
 城山亜弥は屈曲のスクリプトじゃなかった。
 『奴め、放つぞっ!』
 城山亜弥は力任せに俺めがけて燃え盛る炎の球形を投擲した。


        * 


 車一台通るのがせいぜいだろうこの舗道で城山亜弥は無慈悲に緑色を成す火炎球を投げ放った。
 体を浮かせ前のめり、地面に這いつくばるような体勢で攻撃を回避した。
 真上を炎の塊が通るのを肌で感じた。
 運動神経が秀でているのか、素人目から見て投げ放つモーションに無駄が感じられない。
 誰も居ない場所を選んだのはこういう為だよな、やっぱり。
 流れた火炎球は弓状に曲がるコンクリート塀に衝突の炸裂音を響かせた後、その箇所に黒く煤色を残す。
 深く穿っていないが、問題は熱量か。
 再び周囲を確認しながら体勢を整え後方へ飛脚した。
 ——ピャンは何処に行った?
 周囲を見渡しても黒い塊が見当たらない。
 しかし、ここはどうも狭い。 弓なりの道と言ってもこの距離じゃあ直線に近い。 これじゃあ下手に距離をとっても避ける合間に次の投擲放たれていずれやられるのが落ち、か……なら——
 城山亜弥の爪先には同形の炎がぎらぎらと怪光していた。 歯車の瞳孔のように輝くさまは猛々しい獅子の貫禄さえ窺える。
 舌を少し噛む。 脳のどこかにピャンと繋がっていると言う独立回線を聯結する。
 『あいつを止めるぞ!』
 『是認した』
 身体の微細に連々と渉る神経が幽明を彷徨うほどの痛む毒針に突かれたと感得した時には、その感覚はすでに取り剥がせれている。
 
 痛覚を感じるその一瞬に人は生を感受する。
 確かに……朱実さんの言う通りかも知れない。 俺今、生きてる実感半端無く感じる。

 
        * 


 危険な気迫を感じた時、既に鷺森は変貌していた。 あくまで内面的な変貌であるが、それが余計危惧の念を抱いた。
 「速いっ!——」
 距離にして二十m弱離れていた間合いを駿足と駆け抜け、炎を放つより早く私の領域内へと侵入した。
 「——っ!」
 範囲内で近接投擲を放つも鷺森は声を潰しながら片足を蹴って火炎球を回避し、右手コンクリート塀上部を片手で掴み、首をこちらへと向ける。
 ——なんだ……あの速さは……
 地上からコンクリート塀上部までの高さは見積もって十五mそこいら、それをやすやすと飛び越えられる者はスクリプタルだけだ。
 「アンタも……スクリプタルか?」
 鷺森は空いたもう片方の手で頬を掻いた。
 「んー、その質問は難しいな。 実は俺もよく判んないんだ。 その点については説明してもらった気がするんだけど忘れたようで覚えていない。 まあスクリプタルとは別の存在だと解釈しているから……それより、もう止めにしないか?」
 鷺森は自然と声を張り上げていた。
 「……」
 止めにしないか、と言うその一言が私の心臓を強く引き絞らせ胸が苦しくなるほど重く穿らせた。
 本当はスリルなんか感じていない。
 怖くて怖くて仕方がなかった。
 鷺森の一言に、鷺森に穿たれたぽっかりとした大きな穴に、私は深く安堵していた。
 その一言を誰かが言ってくれることを久遠の彼方待ち望んでいた。 その歳月が今訪れた。 
 熱が冷めた後のような急な震えが襲って来た。
 「おーい、無視かー」
 「——とうなっ……」
 コイツはあのネコにやっぱり似ている。 どこまでもどこまでも私を追ってくる。 ぶんぶん尻尾を振りながら着いてくる。 いずれ気付く、辿り着く。 あの人の事に。 そしたらコイツはきっと……殺される。
 「え? なに? すまん、こっからじゃいまいち聞こえないんだ。 もう少し声大きくしてもらっていいか?」
 「っ、だからこれ以上私に付きまとうなっ! 本当に死ぬぞお前! もううろちょろすんなっ!」
 「……」
 ああ、なんて無様な醜態だ、しかも見ず知らずの、物覚えが悪くてスクリプタルかなんだか意味の分からない男に見られてしかも懇願までしてしまった。
 いやそもそも、どうしてこうなった。
 どこから……鷺森に出逢わなかったら?
 あの黒ネコに出逢わなければ?
 本当のことを素直に答えていたら?
 あの時あの人を目撃さえしなければ?
 あの時叫び声を聞いていなければ?
 あの時予定通り食事をしていれば?
 あの珈琲に心酔しなければ?
 父さんとの折が悪くならなければ?
 母さんが生きていれば?
 ——私が生まれさえ、しなければ?
 どこで私は踏み違えた。
 「やなこった。 それにもう関わっちまったよ」
 「……え」
 私の言葉は私でさえ聞き取れないほど微弱な音だった。
 「しっかし判んねえな、俺には。 いや、判るかも知れないけど、やっぱり今のままじゃ何も判んない」
 何を言っている。 何を判るって言うんだ?
 鷺森はコンクリート塀の上に素早くよじ登った。
 「俺やお前たちは力を得た。 不本意である者が大半だろうが得たと言う事実はどうしたって覆せない。 抗えない事実や結果は確信っていう魔槍で心臓を突き刺す。 ならまず、事実を受け入れることだ。 受け入れた上で対処をしなくちゃますます当惑して自分自身を見失うだけだ。 今のお前は揺らぎ過ぎている。 自分の帆を見失っている。 それじゃあ遂げるべき道筋を見迷うぞ、城山亜弥」
 「……何を——」
 鷺森は大きく息を吸い込んでそれから——
 「今のお前を見て誰も犯人なんて思う訳ねえだろっ! なあ、何をそんなに背負ってるんだ? それはお前だけが、お前が背負わなくちゃいけないもんなのか? お前だけがそんなに苦しまなきゃいけないもんなのか? それはお前が心の底で渇くほど望んだ願いなのか?」
 芯を突き刺す思い。
 また——穿たれた。
 心なり体なり蹌踉めいた。
 「私が……苦しんでいる?」
 それは自問でもあった。
 「どうして、そんなに辛い顔をする?」 
 それは確信的だった。
 「私……が?」
 自分の顔に手を当てる。 手が冷たい。
 わなわな震えている。 目元が濡れている。 生暖かい。 泣いているの、か? 
 私はそんなにも苦しい顔を表していたのだろうか。 それは見るに堪え難い相貌だろうか。
 どうして、こんな見ず知らずの男に私は愚直に自分を崩してしまうのだろうか。
 私は……この男に何を期待しているのだろうか……何を縋ろうとしているのだろうか……何を乞うと……
 返すべきたったその一言が中々思い出せなかった。 その言葉を私は未だ知らなかった。
 鷺森はまた口を開いた。
 自然と見ていたのではない。 見たいと強く思っていたから一挙手一投足が言葉で表せる。
 お願いだからもう喋らないでくれ。
 私をこれ以上壊さないでくれ……
 判るんだ。 コイツは事件よりもまず私を理解しようとしている。 その優先順位は俯瞰して見ても大方間違っているかも知れない。 でもその間違いのお陰で今私は罪を吐こうとしている。 救いに触れようと手を差し出そうとしている。
 堪えていた何かが頬を伝う、私はそんな自分を知らない。
 「俺は強欲で偽善者なんだ。 自分でも呆れるほどこれを誇っている。 世界の全ての人間が平和になっていてほしいなんて露とも思わないし、たった一人だけを守るとかそんなくさくて熱い台詞吐く度胸もねえ。 だから俺は俺の周りの、守れるものだけ、救いたいものだけを守る。 お前を見るとどうしてだかほっとけない。 城山亜弥、俺自身よく判んねえけど、お前をなんとかしてやりたい。 俺は、俺はお前を助けたい」
 「……」
 莫迦……だ。 正真正銘の莫迦だ。 こんな、こんな危険な男、生かしてちゃコイツの周りの人間がいつか痛い目を見る。 破滅する。 破綻する。 壊滅する。 
 危険だ、危険だ、危険、なのに……
 ——なのに私は……コイツに何かを予感している……
 「どうして、アンタはそこまで——」
 「ああもう、いけませんねえ城山亜弥さん。 嬰児のようにガタガタ震えるなんて貴女らしくもない。 見るに耐えない、お・す・が・た」
 耳元で囁く冷たい死体が出たと思って思わず背筋が凍るような殺気を感じ、瞬時に左を目視した。
 鷺森と歩いて来た道から女の声が聞こえた。 辺りが暗くて姿がいまいち掴めない。
 それでも声質や身長から比較的私に近い年齢なのではないかと読めた。
 正面を見上げて鷺森の表情を窺ったがひどく驚いていた。 アイツの知り合いではないのようだ。
 再度左を注視する。
 では、あの女は一体……
 次第にこちらに近づく女は深緑色のレインコートを頭まですっぽり羽織っていた。 渋色のローファーは学生と判断していいのだろうか。
 でもそれより——
 「仮面……」
 鷺森がそう呟いた気がした。 それは私も思ったからそう聴こえたのかも知れない。
 その紫色の仮面は非道く歪な表情をしていて、笑っているのか泣いているのか困っているのか飢えているのか捕え所のない不気味な仮面だった。
 鷺森の知り合いでないのは顔とさっきの呟きからしてはっきりした。
 「お前は、何者だ」
 代表して私が問い出す。
 外見からでしか読み取れないが、コイツはやばいと即断した。
 「何者だと仰られましてもねえ。 名前と言うものはないんですよね。 取り敢えず御二方と同族のものですよ」
 仮面の女は鷺森を一瞥したかと思えばまた仮面をこちらに戻した。
 「ある程度、と言いますか一部始終観察させてもらいましたし、会話も拾わさせていただきました。 それにしてもいけませんねえ城山亜弥さん。 危うくそちらの男性に口を滑らしてしまいそうではありませんでしたか? 口は災いの元、ということわざをご存知で?  それでは依頼主が深く悲しみます」
 「依頼……主?」
 仮面の女の言うことが理解出来ない。 何を言っている?
 仮面の女はレインコートからぬっと両手を横に突き出し掌を上に向けた。 十字を体現したその様が地面に突き刺さった案山子のようで私は余計恐怖を感じた。 両腕には厚い黒革が雑にぐるぐると巻かれている。
 「ああすみません。 依頼主と言うのはこちらの事情でした、申し訳ありません、忘れて下さい。 あなたには色々申し上げなくてはならないことが山積してるんですが、なにぶん事情が事情でして……部外者に聞かれるのも憚れるものですので……」
 再度仮面の女は鷺森に視点を移した。
 「部外者って俺のことか?」
 「ええ、率直に申し上げれば。 年上の方に偉そうに語るのは手前の品行上やや抵抗がありますが、これも仕事です。 何処のどなたか存じませんがここから先へ踏み込むことを固く強く禁じます。 貴方だって今ゆらゆら灯る命が惜しいでしょう? 今ならまだ間に合います。 正直言うと間に合いませんが貴方が今日まで城山亜弥さんに関わったこと全て、全てを忘れ下さるのでしたら、なんとか上には誤摩化してさしあげます」
 遠くから警笛が聴こえる。
 「お前、なにもんだ?」
 鷺森が改悪した状態を踏まえ再度問い出した。
 「その質問は重複しているので却下ですし、質問を質問で返す反問は些か常識不足ですよ、お兄さん。 失礼ながらこちらの質問にお答え願います。 関わるか、諦めるか。 歩み進むか、踵を返すか。 続けるか、辞めるか」
 「——生きるか、死ぬか」
 また微かな独白が鷺森から溢れた。 それは空気に混じり込む硝煙のような声音だった。
 空は暗闇に染まった。 辺りの寒さはこの仮面の女から滲み出ているかも知れない。
 私は自然と腕を拱いていた。

 
        * 


 『不確定だ……』
 ピャンが呟いた。 いやこいつが呟くことはそもそもあり得ないから俺に投げかけているのだろう。
 『つうかお前、今何処?』
 『田園に飛び込んで戦闘から一線退いていた』
 『ああ……そう』
 『この周囲一帯には我の感覚領域を張り巡らせている。 一縷の隙もないはずだ。 何者かが接近すれば即感知するはずなのだが……よもや我の監視網を掻い潜る者が居ようとは……』
 『いや、あれめっちゃやばい気がするんだけど。 この御時世に悠々と仮面被っちゃってるよ。 その時点で大分アウトだよ』
 『アウトとな? 具体的に何がアウトなのだ?』
 『いや今そこ掘り返すところじゃないだろ。 いやもうなんでもない。 とりあえず……』
 仮面の女はこちらを見ているようでその実視点が窺えない。
 ——どうなってる?
 てっきり城山亜弥は犯人を庇っているかと予想していたが盤上に新たな駒が登場した。
 仮面の女。
 その紫色の仮面は非道く歪な表情をしていて笑っているのか泣いているのか困っているのか飢えているのか捕え所のない不気味な仮面の口からは「依頼主」 と言ういかにも気になる言葉が出てきた。
 「上」 とも言っていた。 この仮面の女は組織的な何かに属しているのだろうか。
 そして同族だと言う——スクリプタル。
 『愚者よ、とにかくここは退くべきだ。 ただ与えられた仕事を遂げるにしては脅威を拭いきれぬし、くぐもった情報では正確な判断の仕様がない。 愚者の最終目的は記憶を復元することであろう。 ここで命を祖末にすることはない』
 『……駄目だ』
 『っ何故だ!』
 『助けるって約束した!……それに、何か判んねえけど……』
 眼下に広がる田園風景は薄ら黒く彩っていて不気味だった。
 「何か判んねえけど、お前が気にくわない。 だから俺は退かねえ」
 仮面の女は案山子の姿勢を未だ崩さない。 
 あの姿勢に何か意味があるのだろうか。
 しばらく沈黙があったかと思えば仮面の女はおもむろに動き出した。 ふるふる震えていて笑いを堪えている。
 「——く、くくくっ、くくっ…………はああぁぁ……ぃぃ、いいですよ、その答えだけで充分伝わりました。 構いません。 ただ殺すか殺さないかの問題ですから。 それにしても、どうして会ったばかりの人間にそこまで命を張れるんでしょうか? 手前には理解し難い難問です。 まあそんな大口叩くのなら嘸やご自分の力量に——スクリプトに自信がお有りのようですね?」
 突如仮面の女の暗い目元から眩い緑色の光の光波を放つ、次には爪が長く伸び腕の長さほどある艶やかな爪を形成させた。
 「……おいおい、爪女かよ」
 口を歪ませながら仮面の女を睨む。
 きっと仮面の女も睨んでいる。 いや、もしかしたら笑っているかも知れない。
 また警笛が鳴った。 今度は近くから聴こえる。 横目で睨むと色褪せた橙色の電車がこっちに向かっている。
 鋭い警笛が耳を貫く。 電車が真後ろを通過するその瞬間、俺は眼下を滑り落ちるように仮面の女に向かって奔り抜けた。
 警笛を合図と察した仮面の女もこっちに向かって駆け出す。
 しばらく城山亜弥の相手は出来そうにない。 その城山亜弥もどうしていいか窮まっている。 こっちと仮面の女を何度も目で追っている。
 「シュッ——」
 先制に地面を抉るように下から爪を振り上げて来た。 斜向いに高く跳躍してその攻撃を躱し地面に着地する。 正面は殺気に満ちた仮面の女。 その向こうで当惑する城山亜弥。
 『理解に苦しむ。 愚者のしていることはあまりにも不経済過ぎる』
 『戦闘中だ。 身悶えすんなら後にしろ。
 とにかく今は目の前の、敵さんだ』
 「先ほどのお話を聞いて察するにお兄さんは人の言うことを無視するのがお好きのようですね。 それなのに城山さんを深淵の底から救い出そうとしている。 まさに強欲の偽善者ですね。 どうです? 城山さんを救済するならご一緒に手前も救い出してはいただけないでしょうか? とても端的且つ明瞭です。 ここから退いて下さるだけで結構。 それが手前のなによりの救済措置であります」
 「はんっ、顔を見せない相手の言葉を、はいそうですかと安易に信じるほど俺は単純じゃないぞ。 それに聞いたはずだろ。 俺は、俺が救いたいものだけ守る。 てめえは枠外なんだよ馬鹿やろう。 その爪圧し折られたくなかったら、洗いざらい吐きやがれっての」
 「急に言葉を汚されましてどうなさったんですか? 何か気に障るようなことをしましたか?」
 仮面の女はまた案山子の体勢を取り始め、十指の爪を漣に打たれるようにくゆらせている。 相手に悪印象を抱かせるのを把握した上での無粋な処世術のようだ。
 『感情に流されるな愚者よ。 あれも奴なりの戦法だ』
 『判ってる』
 さりげなく流されたけどやっぱり内状は話してくれないみたいだな。 当然か。
 「言っとくけど、女に手を挙げないとか言う紳士的精神主義、俺は持ち合わせてねえかんな。 邪魔すんならぶん殴る。 それが俺なりの紳士的精神主義だ」
 仮面の女はおざなりに肩を竦め上げた両手を広げた。
 「あらら、あまりにも救世主らしからぬ発言ですねえ。 これじゃあどっちが悪役か判りません。 まあ敢えて口上させていただくあたり、多少の優しさを嗅ぐわせますが、仰ることは当然と言えば当然の所業です。 これは戦いであり殺し合いですから……そこに女だのなんだのと言う思想はあまりにも不要な芳恩です。 それよりも、そろそろスクリプトを発動しなくてよろしいのですか?」
 「……いや一応してんだけどな」
 「ああそういえば先の戦闘で仰っていましたね。 そうそう、瞳孔を見れば判るとかなんとか仰ってましたが、手前がお兄さんと城山さんの瞳孔を見る限り、別段変化は見受けられませんが、その話本当なんですか?」
 「ああ、事実だ」
 仮面の女は首を傾げた。
 「それは何か条件が含まれているのでしょうか?」
 「城山亜弥にもう関わんないってんなら特別サービスで教えてやってもいいけど?」
 「まあ。 それなら結構です。 ある程度痛めつけた後に吐いていただく手段を取りましょう」
 仮面の女の動きがぴたりと止まるや否や——「さような、らっ!」 地面を強く蹴飛ばした。
 「鷺森っ!」
 城山亜弥が俺の名前を言い放つ。
 駆け抜け様に、俺は笑ってやった。
 
 小生意気な口を叩けるほど仮面の女は戦闘慣れしていた。
 十数分経った今なお上下左右虚空を切る幾多の連撃は速さを一向に緩めない。 要所要所回避し急所を避けることに懸命を降り注いだ。
 避けたところで躯の細部を切り裂かれる。 
 痛みを堪える。 距離を取っても調子を上げて詰め走りまた斬りつける。
 これの繰り返し。
 視えない楔に繋がれているようだ。
 圧倒的長期戦不利の戦闘。
 「残念、やはり威勢だけのようですね」
 余裕を見せつけるかのように呟く。
 やや息切れしている。
 考えてはいたが、どうやらこの女が所属する組織って言うのはこういう血腥い仕事を専門とするようだ。 いかにも慣れと言うのを匂わせる。
 連撃を回避しようと大きく後退した途端、それに合わせるように飛びながら体勢を横に崩した仮面の女は鋭い刀身を上から斬りつけて来た。
 上半身を左に逸らしその攻撃をぎりぎりのところで回避する。 太刀風を聴いて汗が噴き出た。 隙をついて、斬りつけた手首を掴もうと裏から仕掛けたが、もう片方の五指の鋭利な長爪が適宜な槍のように襲いかかって来た。 喰らう寸前のところで左に飛びまた回避、仮面の女の後ろ首を狙い、腕を伸ばしたが——
 「——ちぃぃっ!」
 仮面の女は機敏に感知し距離を取り、避けざまに振り上げた爪が腕の皮肉を裂いた。
 「——っ!」
 俺の攻撃を未遂に終わらせた。 痛みがみしみし駆け回ってくる。 ああもうほんと痛い。
 「……ふ、ふふ、危ない危ない」
 「ああ、今のは我ながら惜しかったと褒めてやりたい」
 傷はほんの僅かながら再生し始めたが、その傷の痛みと強引な治癒に掛かる相乗痛痒で自然と歯を食い縛っていた。
 「それにしてもお兄さん、今しがた腕を掴もうとしましたね? しかしそれを中断して回避に移り、再度攻撃するまでの動作に寸毫の逡巡も見られませんでした。 もしかしてお兄さんも慣れていらっしゃるのですか?」
 「何に?」
 「枠外の暴力行為、です」
 「……」
 「隠さなくとも手前にはお見通しですよ。
 先ほどの振る舞いを観察させていただきましたが、必要以上の動揺や躊躇いが見受けられませんし、なにより……どことなく楽しんでいられるように見られます。 どうです? 当たっていませんか?」
 わお。 女の子って恐ろしや。
 「そりゃ気のせいだ。 視界が悪い仮面なんか付けてるから間違えるんだ。 だから取れそれ。 知り合いの寺で供養してやる」
 指差す俺を仮面の女は嘲笑うように無視する。
 「あらら、また無視ですか? どうやらお兄さんとは素行の違いからか話がいまいち噛み合いませんねえ。 ですがそれなら城山さんとは上手く釣り合いそうですね。 彼女とお兄さんはどことなく似ています」
 「……」
 「では、再び、参り、ますっ!」
 仮面の女が一直線にこっちに向かってくる。
 ん?——まただ。
 先制攻撃とその後、そして今も、初速が随分遅く感じる気がしたが、どうやらそれは気のせいではなかった。 距離はそこまで離れてはいないが仮面の女の初速は生来の運動神経か、長すぎる爪が原因か判らないが脚力を幾分も殺していた。
 初速の姿勢は両手を後ろに伸ばした後、しばらくして両手を斜向いに出す。
 この動作も同じだ。
 走り始めは遅い……ならそこに付け入る。
 逡巡はすぐさま振り払い、間合いを詰めるよう一気に加速する。
 瞬間移動さながら目先の位置に瞬時に詰め込んだ。 たったその間合いに詰めただけで内臓や筋肉がひーひーと悲鳴を上げた。
 心臓を握るとはまさにこのことだと瓦解する身体を必死に堪えた。 なんなら痛さのあまり笑ってさえいたかも知れない。
 まあ少し泣いたけど。
 微かな荒息が仮面を浸すのを感じる。 仮面越しから押し殺したような悲鳴が漏れる。 
 声さえ聞こえれば表情を覆い隠していても相手がどんな状態か察する事が出来る。 
 きっとこれが恐怖だ。
 ああ、なんだ……思えばこの女の奥底には人間という水が張っていたのだった。
 十指の手首を両手の甲で強く弾く。 仮面の女は仰け反った姿勢で倒れる自身を必死に持ち堪えている。
 目線が結ばれた。 鮮やかな緑色の歯車がぎこちなく蠕動している。 いや震えているのか? 怯えているから? それとも……
 左手でその視界を覆い翳し、もう片方の握り拳に一身の力を込める。
 この動作のひとときはまるで自分以外の時間が止まっているかのように儚く軽やかだった。
 「——まっ——」
 無視。
 右腕の引き金を弾くように仮面の女の腹に快心の一撃を放つ。
 「ガッ——」
 全身が虚空に浮いた仮面の女は草が乱雑に蔓延る田園の奥彼方に消えた。
 「きゃん」 と間延びして聞こえた。
 「あ……」
 慢心を象徴したような握り拳。
 「やばい! やり過ぎた!」
 加減というものは慣れから生まれる産物であるが、慣れというものもまた慣れから生まれる産物なのである。 敵ながらつい身の安全を心配してしまった。
 「……おーい……だ、大丈夫かあ?」
 さささと草を掻き分ける小さな音が聴こえる。 鬱蒼とした草畑から現れたのは——ピャンだった。
 『なんだ、お前——』
 『さすが愚者。 女子供に一切情け容赦ないあの仕打ち。 この上ない愚者の中の愚者の王』
 『止めて! 今そんなこと言われたら泣いちゃいそうだから!』 
 視線が気になり、その源へ流す。
 「……」
 「……」
 離れ向こうで城山亜弥と見合う。
 「……どうしよ?」
 逡巡した思いを纏めあげるとしばらくして、口を開いた。
 「知るか」
 せっかく、と言うか助けてあげたのに優しさの鱗片さえ見せようとしない。
 なにが「——それなら城山さんとは上手く釣り合いそうですね。 彼女とお兄さんはどことなく似ています」 だ。
 全く似てないじゃないか。
 「……まあいいや。 取り敢えず逃げよう」
 握りこぶしの状態から親指を突き立てこっち、と来た道を指した。
 「まあいいやってなんだ! おいっ!」
 城山亜弥は帰路に就く合間も俺に文句と言う罵声を浴びせた。 でも、その声質には気のせいかも知れないが、不思議と出逢った時に感じた苛立のような気配は拭き取られたように全く感じられなかった。
 なんというか……そう、生意気すぎる後輩。 そんな感じだ。
 夜になり雲が月を覆った。
 月が何かに化けていそうな気がした。
 怖くて月を見上げることが出来なかった。
 さささと草が擦れる音が聴こえたが、それがただ風に靡いただけなのか、何かが這いずる動作音なのか、判然としなかった。
 とにかく、今宵の月がどうしても怖くて仕方なかった。


        * 


 「——なるほど、それは大変だったな」
 「いや、心配してる気配が電話からでも驚くほど察せられないんですが」
 「今は運転中だからな」
 「いやあんたケイサ——」
 「ところでせつな、お前の周りで何か変化はなかったか?」
 「え、変化ですか? ええっと……仮面の女と戦った次の日に城山に呼ばれて無理した身体を押して近くの公園で少し喋って……それ以降ほぼ毎日家に勝手に来てはぼーっと本読んでます。 ああそうだ、あれから学院に登校しているらしいです。 あと親父さんには一切何も話してはいないそうです」
 「そうか、なら私にも被害が及びそうもないな。 他には?」
 「他っすか?……ああ、マスターがお店を再開するらしくてまた戻らないかって誘われました」
 「ほう。 で? お前はその誘いをどう返した?」
 「勿論了承しますよ。 真耶さんが紹介する闇バイトは命の保証ゼロですからね。 前回の仕事がまあ最後、と言うことで。 あ、でもたまには食事とかしましょうね」
 「随分と声に明るみがあるが、そんなに嬉しいか?」
 「いや、嬉しいとかそう言うんじゃないですが……とにかく、真耶さんの仕事が危険なだけでそれ以外の仕事ならましってことです」
 「まあ確かにな。 あれから仮面の女との接触はないのだろう?」
 「ええ、まあ。 一応強めに殴りましたから」
 「なら一段落だろう。 こちらも粗方判ってきたことがあってな、事件は無事解決しそうだ」
 「え、そうなんですか? じゃあ犯人は一体……」
 「——カイ隆文だよ」
 「……え? すみませんもう一度」
 「深井隆文だ」
 「……あ、はあ、まあ考えてみれば犯人の名前聞いたところで、俺はなんも知りませんでしたしね」
 「そうか? 聞いたことないか?」
 「あ、はい。 有名人かなんかですか?」
 「いや、ただのスクリプタルだ」
 「は、はあ……あの後城山は真耶さんに全部話したって言ってましたけど、あいつは何か罪に問われるんでしょうか? その、犯人を知っていたそうな感じでしたけど……」
 「ああ、城山亜弥は全て話してくれたよ。
 本来なら犯人隠避罪に問われるが、こちらの条件を飲む形で私が独断で不問にした。 とにかくこちらが落ち着いたら近いうち話そう。 お前も事件に関わったのだから、知る権利と義務が有る」
 「ど、独断ですか……は、はい、判りました。 それじゃあまた」
 通話を終えると同時に定位置に到着し、車を止めた。
 続いて渋澤に電話をかけるとワンコールもしないうちに出た。
 「今着いた。 準備はいいか?」
 「はっ。 全員所定の位置に着いています。 いつでも」
 「では十四時十五分に実行に移す」
 「はっ。 了解しました。 ご武運を」
 車から降りると春の熱のにおいと清風が全身に行き渡った。
 もう少し緊張感のある張りつめた空気だったらやる気が出るんだがな。
 腕時計を覗くと、開始時間まで4分弱余裕があった。
 歩きながら煙草に火をつけ吸い込む。
 今回は不効率な事件だった。 それは他ならぬ私の始末の悪さが原因だ。
 だが、それが却って成果があった。 せつなを襲ったという仮面の女——ただならぬ危険性を孕んだ組織を知ることが出来たのは濡れ手に粟だ。 それに自分を守った人間に多少は情を許すだろう。 結果、城山はせつなに事の経緯を話した。 まあせつなの話を聞くに事細かに話した訳ではなさそうだがな……
 店の前に立つと隣の車庫にシートに包まれた車があるのに気付いた。 咥え煙草のままシートを捲ると黒の軽自動車が姿を表した。
 再度店の出入り口に立ち、外壁に煙草を擦りつけ、ドアをノックした。
 「はーい」
 間延びした悠長な声の主がドアを開いた。
 「ああ、これはこれは織部さん。 どうもお久しぶりです」
 「お久しぶりです。 今、よろしいでしょうか?」
 「ああ、どうぞどうぞ。 といってもまだリニューアル準備で中が散らかってますが……ちょっと待って下さいね」
 そう言うとマスターはそそくさと中に戻り、嵩張った図面をどかしたテーブルと傍にあったイスを二脚向いに置いた後、こちらを促した。
 深緑色のシャツに黒のズボン。 髪を整髪料で固めていない状態だった。
 「失礼します」
 席に着いた。
 「すみません、お恥ずかしい限りですが、喫茶店なのにまだマシンを調製しきれていないんですよ。 インスタントでよければご用意いたしますが……」
 マスターの眉と眉が繋がりそうなほど申し訳なさそうだった。
 「いいえ、お気になさらず。 半月ほど前に鷺森くんからこのお店の閉店を知りまして、仕事先を紹介するようタキさんにお願いした手前、こちらも気になっていたもので」
 「ああ、それはそれは。 ご心配をおかけしまして申し訳ありません。 そうですね、彼には突然辞めてもらうような形にさせてしまって迷惑をかけましたからね」
 マスターは窓の外をそっと眺め、その時の情景を思い出しているようだった。
 「ですが、リニューアルされるようで、おめでとうございます」
 「ええ、お陰様で。 まだまだリニューアルオープンするまで準備はありますが、なんとか無事再開することが出来まして、そう、それでせつなくんにもまた働いてくれることをお願いいたしました」
 「ええ。 とても喜んでいました」
 「そうですか、それは良かった」
 会話がそこで中断した。
 時計の針が、かく、かくと店内に響く。
 木材を叩きながら削っているような音だと連想していた。
 「ところで、どうして一旦は閉店を余儀なくされたのに、この短期間で再開を?」
 「ああ、それは……まあ一身上の都合、というものでして、はい……」
 「そもそも閉店は経済的面が原因ですか?」
 「え、ええ、まあ、そうです……ね。 中々上手く事は運ばないものですね。 同じ鉄は踏まないよう粉骨砕身で心がけたいものです……」
 わざとらしく店内を目で一周した。 マスターを一瞥すると私と窓の外とテーブルを見回しているようだった。
 「よく資金を調達出来ましたね。 奥に見えるマシンも真新しいものばかりで、よく見たらこのテーブルやイスも新品だ。 これはさぞ費用がかかったことでしょう」
 「え、ええ……」
 次第に困惑した表情を露にしだした。
 「あ、あの織部さんは、今日は何か他に御用がお有りで……」
 「ああ、すみません。 実はこの界隈で殺人事件がありまして、部下が近隣の住民に聞き込みに廻ったのですが、この家だけ不在のままだったので、ついでがてら私自ら出向いた訳なんです」
 「……部下? 聞き込、み?」
 「あれ? タキさんから聞いていませんでしたか? 私、警察官なんですよ」
 それと同時に警察手帳を出したが、マスターは心底驚いていたのか大きく目を見開いたまま呆然としていた。
 「い、いえ、タキくんからは、公務員だとしか……そうでしたか、警察の方でしたか」
 「ええ。 それで、恐縮なのですが事件があった四月八日の十三時頃と九日の十四時頃、何か不審な人間、また出来事はありませんでしたか?」
 「え、ええっと……その頃は、リニューアルに向けて二階で手続き申請書やら発注やらで忙しくて、外の出来事には全く気付きませんでした。 そうでしたか、殺人事件なんてものがこの地域にも……物騒な世の中だと他人事のように思えていましたが、まさかここにまでそんなもの迫っていたとは……」
 「ええ、残念なことです。 住民の皆様が住み良い環境で過ごせるよう我々警察一同一日でも早い解決をする為捜査している所存です」
 「それは私たちにとって喜ばしい限りのお言葉でございます」
 マスターは再び申し訳ない表情を作った。
 「……ですがどうやらお力になれないようで、申し訳ありません」
 「いいえ、お気持ちだけで充分です……ところで事件当日は二階に居らしたのですよね?」
 「ええ、そうですが……」
 「どなたかそれを証明してくれる方は?」
 マスターはまた驚いた表情をした。 レパートリーの乏しい人だ。
 「あ、あのこれって、あの、アリバイ
というものでしょうか?」
 「申し訳ありません。 一応確認するのが規則でして……それで、どなたかいらっしゃいますか?」
 「い、いえ、ここは私一人で住んでいるので……証明する人は……でも、本当に——」
 「あ、いえ、ご心配なさらずに。 アリバイがないからと言って、容疑者になる訳ではないので。 それに容疑者も絞られています」
 「は、はあ、そうでしたか。 いや、脅かさないでください。 はははっ」
 緊張が解けたようにマスターは一定の固さを残しつつも微笑んだ。 先ほどの不健康そうな表情とえらく違う。
 「殺人事件の現場から逃走した少女から事情聴取した結果、どうやら犯人を庇っていたようなんです」
 「……」
 その先は? と言う欲した表情をしていた。
 「その少女は——城山という少女はその日たまたまある屋敷の表門辺りを通りかかったそうです。 その時、小さな悲鳴音と奇妙な音をほぼ同時に聴いたそうです。 不審に感じた城山はいけないと思いつつもやはり好奇心に負けて敷地内へ侵入しました。 しかし表の庭先から覗いても誰も居なかったようです。 もう少し判りやすいように説明をするので、縦長の長方形を頭の中で連想してみて下さい。 いいですか? それが敷地です。 下が表門として上を裏門としましょう。 その中央に収まる範囲の横長の長方形を置きます。 それが屋敷です。 その縦型と横型の左右には狭い通路がありました。 城山さんは下の表門から右側の小径を通って裏庭を覗いたそうです。 そこで城山はある現場を目撃しました」
 「……」
 マスターの焦点は定まっていなかった。
 「屋敷の主、浜野さんを捩じ曲げている深井隆文さん。 あなたをです」
 「……」
 その表情は少しも変容しなかった。
 正確にはリアクションを行うのをやめた、というのが正しいだろう。 先ほどからの表情はただ仮面の付け替えをしているように見えてしかたなかった。
 今この瞬間、マスターは——深井はどんな色を連想しているだろう。 それはきっと単色の黒ではなく、雑多な色がいくつもいくつもいくつも混濁させ、魅せる人間そのもののどす黒く禍々しい色なのだろうか。 名前をつけるなら、一体それはどんな名前なのだろうか。
 「……あなたが左側から逃げた為に接触は免れたようです。 死亡直後の浜野さんに近づいてそれが死んでいるということに一瞬した後気付き、怖くなった城山さんは感情の制御が一時的に不安定になり突発的に逃走を謀りました。 後から思い出したようなのですが、ほうほうの体で逃げる途中屋敷内から何か鈍い音を聴いたそうです。 ですがその時はそれどころではなかったようですし、外からその逃げる後ろ姿を目撃した男——鷺森くんにも気付かなかったようです」
 「……」
 視点がテーブル辺りをじっと見続けている。 それでも話を続ける。
 「この音というのは、きっと金庫を破壊した音でしょう。 浜野さんはズボンのポケットに鍵の束をいつも肌身離さず持ち歩いていたようですね? きっと殺害当日も所持していたのでしょう。 もちろんあなたはそれを理解した上で浜野さんを殺害後、鍵を奪い、まず屋敷内の勝手口から侵入、そして書斎にある机の最下の抽き出しから帳簿を全て奪った。 歪曲のスクリプタルをそこで使えば、帳簿にまつわる人物イコール犯人と我々警察に感づかれてしまうのを恐れた上での工作でしょう。
 あなたはその際書斎から、逃走する城山さんともしかしたら裏庭を覗いている鷺森くんも見ていたのかもしれません。 二階のあの部屋からなら可能です。 隣の車庫のあの車、盗んだ金や帳簿は浜野の家にあった適当な袋に詰め込んであの車で逃走したんでしょう……」
 「……」
 「何かご意見は?」
 「……ふぅ——」
 深井は深い溜め息をつき、とぼとぼと奥のカウンターに手をのせ女性の髪に触れるような手つきで丁寧に擦っていた。
 「あとは……」
 「はい?」
 「まだあるのではないですか? お話しすることが?」
 「ええ。 書斎から浜野さんが保管していたレシートの束を発見しました。 ご覧になられましたか?」
 「ええ、ある程度室内を確認しましたが、あれからは私が殺害したとは読み取れないだろうと踏みましたが……と言うと、あったのですね?」
 「ええ。 カフェモルダウのレシートには -¥480 とペン書きされていました。 これはその時頼んだ商品——カプチーノの値段¥480 を引いた金額と考える方が正しいでしょう。 そして横線を引いた下に書かれた¥4'675'000 と言うのがあなたが浜野さんから借りている当時の残高でしょう」
 「……ああ、全くあの方は、無駄に細かい性格していますね……」
 「お陰で城山さんから証言を受ける以前から我々はあなたに目を付けることが出来ました」
 「なるほど……」
 「次に第二の被害者、都村さんの件です」
 深井はカウンターに置いていた煙草のパッケージとライターを手に取り、そこから一本煙草を取り出して火をつけた。 
 「煙草、織部さんもお吸いになられますか?」
 煙をゆっくり吐いた後、力のない声で質問しだした。
 「いいえ、結構です」
 手を出して制するアクションをとって、再度話をする。
 「ご存知のようですがあなたと同じく都村さんも浜野さんから金を幾らか借りていました。 都村さんを殺害する理由があるとすればその点からでしょう。 都村さんは何処からかあなたも浜野さんから借りていることを知り、確信を得てか、ただの偶然かあなたを家へ招いたのではないでしょうか? 警察に通報しなかったのは……大方強請目的でしょう」
 「……その女の子の証言を除けば……どれも穴だらけの妄言ですね」
 「ええ。 すべて憶測です」
 「……いえ。 平たく言えばどれも正解です。 恐ろしいですね、織部さんの——直感」
 「……城山さんが警察にすぐさま証言しなかった理由、あなたは判りますか?」
 「……いいえ」
 眉一つ動かさない深井は抑揚のない声を出しながら暢気に煙草を吸い続けていた。 徐々に本性を表しているようだった。
 「城山さんは以前からこのお店を訪れていたそうです。 そこであなたからよくしていただいたとか。 平日のお昼も訪れていたそうなので、それを心配したからかも知れないとも言っていました。 城山さんは当時、いえ、最近までそれほどまでに優しくされたことはなかったようです。 一時世話になったある喫茶店のマスターに憐憫の情を感じ、何か理由があるのではないか、と勘違いして思わず庇ったようです……しかし——」
 「しかしその覚悟は枝のように脆く折れやすかった」
 「……ほう」
 カウンターに直接煙草を押し付け消した。
 「話は大筋合っています。 浜野さんを殺したのは……まあ深い理由はありません。 簡潔に言うとお金の返済の先延ばしの要求を拒まれ、その際泥をかけられました。 まあその振る舞い方もあちらの立場になれば判らなくもないですが……それだけで殺したのかと唖然としますが、事実気付いた時には私は浜野さんの右腕を折り曲げていました。 勢いと言うものは中々計算外なものです。 その時でしょう城山さんが表門で聴いたという音は……金庫から盗んだお金は店に充てる分と別の資金として充てました。 城山さん——というのは雇い先から知り得たのですが——ええ、証言を元に推測した織部さんの言う通り、私は二階から城山さんを見つけました。 もちろん鷺森くんも。 お金と帳簿を盗んだ後、急いで車で追跡したのですがその頃には彼女は姿を消していました。 あの時だけは焦りました。 なにせどこまで見ていたか想像出来ませんでしたから……自宅へ帰った後もそればかり気になって仕方ありませんでした。 綽々ならない状態が続いた次の日、都村さんから電話でお誘いがありました。 都村さんはお店にも何度かいらしていたので顔見知り程度ではありますが存じておりました——レシートか何かでうちの電話番号を知ったのでしょう……内容は、織部さんの仰る通りです。 都村さんはお金を浜野さんから借りる際、雑談の接ぎ穂として珈琲の話題を持ち掛けたそうです。 その流れで私のお店もお金を借りていることを話したようなのですが……信用も何もあったものじゃありませんね」
 そこで付け足すように帳簿は二階の部屋に保管していると述べた。 処理に困っていたようだ。
 深井は微笑んだが目は感情の色素を限りなく削ぎ落として漆喰のような色だった。 
 二本目の煙草に火をつけた。
 「これまた仰る通り都村さんは私を強請ってきました。 どうやらあの殺害当日に私の後、都村さんが訪れる予定だったのです。 都村さんは、私が訪問するから少し時間をずらして来るように、と事前に電話で浜野さんから言われたようなのでそこから浜野さんを殺したのが私だと考えたそうです」
 「で、殺したと?」
 「はい。 全身を捩じ曲げて殺しました。
 浜野さんの件から学習して今度は一度で殺しました」
 完全に先ほどの悠長さが消えているのがはっきりしていた。 別人だ。
 ならこのキャラを被る必要もない。
 こいつなら間違いなくやれる。 秀でたタイプだ。
 殺せる人間と殺せない人間の2種はこの世に存在しない。 まして殺す人間と殺される人間も存在しない。
 全ての人間が殺せる・殺す人間、殺しのプロセスを学んでいる。
 弱肉強食の世界である限り人は他者を蹴落とし、屠り、喰らい続ける。 それを道として踏みしめて生きている。
 そこに人間とスクリプタルの境界はない。
 「殺した数分後、都村さんの自宅の電話に着信がありました。 しばらくして留守番電話に切り替わると、その電話の主は私の名前を呼んでいました」
 思わず目を見開いた。 そのパターンは想像だにしていなかった。 家の主でもない深井がいることを知っていた人物……とは。
 「隠しても最早意味がないようだったので仕方なく受話器を取りました。 相手は名前を名乗らなかったのですが、どうやら今回の始終を見届けていたようで、雇わないか? と持ち出してきました。 先ほど言いました別の資金と言いますのはこれに当て嵌まります。 電話の主は城山さんの居場所を既に把握していたようでもし城山さんが警察に報告するような素振りをみせれば即刻殺害する、という提案をしてきました。 いくら聞いても声の主の素性と城山さんの住所は教えてもらえず、仕方なくリニューアルオープンするまでの期間雇うことにしました。 店さえ開ければまた城山さんはいらっしゃると踏んでいましたのでその時にゆっくり——おっと——」
 話の途中で深井は煙草を落とした。
 その煙草が落ちる瞬間を目で追っていると視線がこちらを凝視しているのを感じた。
 その漆喰の眼差しの中に淀んだ禍々しさを。
 同時に頭頂辺りが何かに触られている不気味さも感じた。
 「ショット——」
 言い終えるや否やガラスの割れる音の刹那、僅かに体を反り上げる深井。 その一連の動作は予定通りの運びとなった。
 向かいの住宅で待機していた笹部の撃った麻酔弾は獰猛な羆を一分足らずで昏睡状態に陥らせる。
 それが今さっき深井の右肩辺りに食い込んだ。 人間なら十数秒、下手をすれば死ぬほどの威力を込めた銃弾を。
 「ア、ツッ——」
 歯を食いしばった深井は撃たれた右肩を左手で抑えながら床に膝を着き、うつ伏せに倒れ伏した。
 裏の胸ポケットから煙草とライターを取り出し火をつけた。 煙を内部にまで入れるとそれは嬉々として肺と戯れるように思えた。
 私も仕事が片付いたこの瞬間が好きだから素直に喜びを共有出来た。 それは肺を汚さなければ味わえない対価のある幸福だったから。
 耳に装着したマイクに手をあて煙を吐き出した。
 「出来した」
 「いえ」
 いつ何を介して聞いても感情の隠っていない声質だ。
 「待機した救急車でいつもの——」
 吐き出した煙が歪んだ。
 突っ伏したはずの深井と目が合った。 
 その瞬間、足の底の床を強く蹴った。
 イス諸共後ろへ強引に飛び私は床に流れ落ちた。 先ほどいた辺りから視える奥の風景が捩じ曲がったように窺えた。 
 おいおい嘘だろ。
 「おどぅろいはぁ、よわふぁりまひぃたねえ」
 倒れたままの姿勢で白目を向いたり、焦点がいまいち定まらず、獣のように口から唾液をだらだら垂らしながら深井は何か口走っていた。
 「警部? どうしましたか? 警部!」
 今度は渋澤の怒鳴り声が耳元に響いた。
 「ええいっ、やかましい!」
 上体を起こし腰に装着したホルスターから拳銃を抜いて深井に銃口を向けたが、倒れ伏した状態では頭部以外狙いをつけられず、そう逡巡していると——銃口が歪みだした。
 「チッ——」
 すぐさま手を離すと宙に浮いた拳銃はものの見事に捩じ曲がり床に叩き着いた。 その波動で前髪が靡いた。
 「しょうこぉおおお——しょうこぉおぅぅ——」
 ぶるぶる震えながら立ち上がり泣いていた。 蹌踉めきながら誰かに、私に懇願するように嘆いていた。
 それは私を見下した姿勢でどうやら名を呼んでいるようだった。
 ショウコ、だろうか。 確か深井の亡くなった妻の名は……
 その十数秒の間の動作と言動は麻酔弾から引き起こる精神不安定の一時的な発作のようだった。 が、それが深井の枯朽する叫び、心を覗かせる隙間を作っているようでもあった。
 腰に装着したもう片方のホルスターに手をかけたその時——
 道路の車の通過に合わせて頭上をけたたましく重い銃声音と分割的なクラスター爆弾に近い爆音、轟音、怒号、それは雑多に混じり込んだ暴風雨のような一過性をもって、右から左へ通り越した。
 何かの道具を収納していた段ボールがだんだんと穴を空け、数段立てかけられたカップは方々へ飛び割れ、未使用のエスプレッソマシン、グラインダー、ソーサー、珈琲豆、その他陶器類はその数秒間の連弾により非道く散らかり、穿たれ、そして無惨に破壊された。
 立ち上がることが出来ず、ただこの嵐が止むことを待つしかなかった。
 狙撃はこの店のみに定めていたらしく攻撃は嵐よろしく鳴り止んだ。
 耳元で誰かが何かを必死に叫んでいた。
 「——カ——ケイ——」
 まだ耳が上手く機能していない。
 目の前の深井は下腹部を数十発撃たれ紅い鮮血をだくだく流しながら直立不動で垂れた口からは涎のように出血していた。
 深井は名状し難い表情を浮かべながら既に事切れていた。


        * 


 一帯の森林を伐採し下草も徹底的に引き抜き地面も平に均した山腹に建てられた診療所。 とてもじゃないが優雅な光景と筆を執れぬ県下。
 疎らに鏤められたネオンと乱立する施設群の明滅する照明、常夜灯の数々をその診察室から眺め待っていると——
 「——検査ならもっとまともな施設できちんと受けた方がいいと思いますがね。 しかも私はあくまで精神科医ですし」
 診察室の奥のシンクから心許無い声が聴こえた。
 「うるさい。 あなたにはそれとは別件で用があります。 耳の検査は次いでです」
 仄かに珈琲の芳醇な香りが鼻孔を掠めその瞬間だけでも覚醒している気分になった。
 「まったく、真耶ちゃんは昔からたくましい子だったけれど、いいかい? 怪我や病気は痛くなったり症状が出て来てからじゃ遅いんですよ?」
 「それはもう飽きるほど聞きました。 それで、何か問題でも見つかりましたか?」
 「はっはっは、なにもそんな詰問口調にならなくても。 大丈夫ですよ。 今のところ異常は検知されませんでした。 検査表、受け取りますか?」
 「いいえ、異常がなかったのならそれで結構。 では、そろそろ本題に入らさせてもらいますが宜しいですか? タキさん」
 珈琲を淹れたカップを両手に二つ持ちながらタキさんは戻ってきた。
 「ええどうぞ。 織部警部」
 落ち着いた微笑を見せた。
 その「どうぞ」 は了解の意味と提供の意味とをかけていたようで、それとなくカップを受け取った。
 シュガースティックを一袋開け、珈琲の中に入れながらスプーンでかき混ぜる。 渦を巻いた目がどくどくと光を吸引していた。 その闇は微かな艶を発光していて満足していた。 私の中でそれは肺に煙草の煙を吸い込んでいる一時の愉悦にどこか似ている気がした。
 一口飲み、脳を一時的に呼び起こす意識をとった。
 「越谷市内で起きた連続殺人の犯人は深井隆文さんでした」
 「ええ」
 「——ええ、とは?」
 「そうでしたか、と言う解釈で構いませんよ」
 また微笑んだ。
 「何とも思わないのですか?」
 「ええ、あまり思いませんね。 誰だって事情の一つや二つありますから」
 「……事情と言うとあなたは深井さんの殺害動機を知っていたんですか?」
 「大方経済面ではないのですか? 一年前確かその面で困っていたのを見かねて浜野さんを紹介しました。 本当は私が助けてあげたかったのですが、こちらもそれほど羽振りがいいと言う訳ではないので」
 「浜野さんを紹介したのはあなただったんですか?」
 「ええ、そうですよ」
 何が無し微笑の後珈琲を含み、しばしその余韻に浸っていた。
 むしろこんな離れ山奥の地に構えたこの診療所の方が経営に困窮しているのではないだろうか。 と言うか今の一度もここを訪れる者を見たことがない。
 「深井さんの奥さん——深井章子さんが亡くなったのは今から二年前の埼玉連続殺人の時でした」
 それは野に咲く花に語りかけるように滑らかに話し始めた。
 「交通事故、だったそうです。 歩行者用信号が点滅中に渡っていた章子さんを信号無視した車がはねたようで……経営があまり芳しくなかったのに追い打ちをかけるような事件でしたね、あれは……」
 カップをほんの少し揺らしたり、持ち手を変えてみたり、それは動作を加えながら過去の情景を呼び起こしている魔術の手つきのようだった。
 「その経営悪化状態でアルバイトとしてせつなを雇わせた理由は?」
 「何かしらの効果を狙っていました。 あわよくば相乗効果です。 まああまり意味がありませんでしたがね」
 「はなから判っていたんじゃないですか?」
 「ん、何をですか?」
 啜っている最中だった。
 「……いいえ。 なんでも」
 そうして温かい珈琲を啜るだけの時間が坦々と過ぎていった。
 
 幾分か時が流れ、白衣の院長は何かを思い出したかのような表情をしだした。
 「そう言えば……ええと、その耳はどうしたんですか?」
 「——ったく、今になって聞くんですか? 
 遅すぎます」
 「いやあ、まあなんとなくですね」
 そう言いながらポンポンと白髪を軽く叩いた。
 「部下からの話を総合した意見ですが、私が深井に襲われそうになった時、店の手前に差し掛かった黒のワゴンが急に減速をし始めたようです。 後部座席辺りにガトリング砲のような銃器を装備していて店の端から端まで百発近くも撃ち続けたようです。 私が聴いた音はその時の銃声音でした」
 「随分と物騒ですねえ、ここも」
 たったその一言で片付けられた。
 「差し詰め深井が浜野の金を使って雇った法外の組織でしょう。 多分せつなの遭遇した組織の者と同一です。 スモークフィルムで中まで確認出来なかったようですが……口封じが目的で行ったのでしょう。 しかし、まさかあそこまで大胆な手段に出るなんて……まったく——」
 「その組織は結局どうなったのですか?」
 「所轄を使って追跡したのですが上手く逃げられました。 網まで張ったと言うのに……他の仲間に走行を邪魔されたことも原因のひとつです。 東京郊外の山地で同様の車が放火後の状態で発見されましたが、そこから足取りを掴むことは難しいようです」
 「一本取られましたね」
 「そういうのはせつなにでも言って下さい。 私には効きませんよ」
 「ああ、そうだ、そう言えばせつなくんはどうしましたか?」
 「つい昨日までカフェモルダウに復帰出来ると考えていましたからね。 世話になった人物が殺人犯で、しかも自分を殺害しようと組織を雇った張本人ですから、まあ少しは落ち込んでいるようです」
 「ふふふ、なら真耶ちゃんが慰めてあげなければいけませんね」
 タキさんは片手で押さえるように曲げた口を隠して笑った。
 自然と頬が膨らみ口内に含んだ空気を無音で出しながら「なぜ私が?」 と質問した。
 「だって——」
 その目は人間味がどこか虚ろでどこまでも見続けていると吸い込まれそうになるほど魔力的な力を秘めていた。
 私はこの目を少時見続けていた。
 「真耶ちゃんはお姉さんじゃないですか」
 「な、なっ——」
 耳元が熱くなってカップが手からこぼれそうになり、つい手を力ませた。
 「な、慰め役ならもう手を廻してあります!」
 「ほお……して? どなたが?」
 「……渋澤です」
 「ああ、適任ですね。 彼もせつなくん同様、姫様に振り回されて苦労してますから」
 「……ん、姫?」
 タキさんはまた微笑んだ。
     

        * 


 「——くそっ焼き肉の煙でよく見えない。
 ん、あれっ? この木綿豆腐なんか臭くないですか?」
 「ええー木綿豆腐って大体こんなものでしょおー?」
 「やだっ! ゲホッ、絶対触りたくない! おっさん、私の分までやってよ!」
 「いや、なぜ私がっ? というか私は鷺森くんに用があるから来たのに、なんですかここは? っというかおっさんではありません、そもそも城山さん、あなたまだ未成年では——ゲホッゲホッ——」
 「いやぁんもうーお客さんったら固いこと言わないのー。 このお店、聖域にはそういう身分も性別も国境も堅っ苦しい外壁はなーーんも関係ありませーん」
 「いや、店の看板の聖域って字の上に小さくジ・ハードって書いてありましたが、と言うか、ゲホッ、固いも何も私けいさ——」
 「待て待て今オカマ混ざってなかったか、おい、何処行った! 真太郎! ちくしょう曇って奥が見えねえ!」
 「ダメよーぼうや。 ここ聖戦では私たちを夜の名前で呼びなさーい」
 「いや、せめて店の名前ぐらいは統一させようよ! どっち? え、聖域? 聖戦? わっ、ちょ、誰だ! 私に木綿豆腐投げたの——って、くさっ! やばいやばい臭すぎる! ちょ、おいおっさん、チーム組んでんだからちったあ私を守れよ!」
 「いや、先ほどから同じにおいのする人間に邪魔されてそれどころでは——」
 「いやぁんもうー魔子のにおいはオランダの秘境に咲く名も無きお花のにおいなんですー、お客さんったらシャイなんだからー」
 「——うっ……」
 「おっ、おっさん泡吹いた……」
 「ゲホッゲホッ、こら真太郎——っつか魔子ってなんだ? 名前の異様さより存在が凌駕してんぞ! もはや魔王だ、オカ魔王っ! 名も無き花ってどうせラフレシアかマンドラゴラあたりだろっ! 最後の砦の渋澤さんがオカ魔王に陥落しちまった!」
 「はいぼうやイエローカードー——っんちゅっ」
 「ぎゃーーー!」
 「わーーこの年増! せつなになにやってんだー!」
 「いやん、初心な亜弥ちゃんかわいっ! でもまだあたしはピチピチ姉さんでーすっ」
 「イタイっ、イタイ! 急に年増が私に狙い定めてきたっ! しかも豆腐の角で当たるように的確に!」
 「おうやめとけっ城山! その単語は禁句だ! ただの汚い聖戦になるぞ!」
 「おいっ! この店の責任者! 今すぐあの年増を止めさせろっ! この煙の中、確実に私を当ててるぞあいつっ! なにもんだ!」
 「責任者はあたしよーん」
 「おおお前かオカ魔王っ!」
 「はいぼうやレッドカードー。 魔子ちゃんによる、あまーいディープチッス!」
 「うおっ、おい、やめろ! 真太郎! ちょ、ちょ、いやタンマ! まじタンマ! 一生のお願—— い、い、いやあぁあぁぁ」
 真太郎の眼力は凄まじかった。


        * 


 ベッドから起き上がると自分でも驚くほど目が覚めていた。 それは久しぶりの感覚、麗らかな……金曜の朝。
 洗面台の前で昨晩の聖戦か聖域か結局不明のまま幕を閉じたパーティなるイベントを思い出し、つい髪や服や体のにおいを嗅いでしまう……
 手早くシャワーを浴びた。 
 重く濡れた紅い髪を小さな手で丁寧に梳る。 湯気で曇りだしたガラスに微笑んでいるように口を曲げている私がそこにいた。
 織部という女性警官は事の顛末を父、学院、私の周りには一切公表しないという名目で事情の開示を要求した。
 私は、結局あの人を売ったのだ。 自身が助かりたいが為に。 それは私が嫌う保身に縋る大人と何ら変わりなかった。
 あの人の優しさとあの人が淹れる温かい珈琲に何度心を安らがされたことか。
 雨滴に塗れる老人を殺害したあの人の横顔を垣間見た時、涓適に打たれ濡れそぼつ黒髪の下の表情は笑っていたように見えた。 泣いていたようにも見えた。 どちらが錯覚なのか判別出来ないほど自分は動揺していたのだけれど、その瞬間私は助けてあげたいと心で懇願した事実は間違いない。 それは覚悟とも言えた。 あまりにも薄っぺらい決断であった。 経営状態が富んでいないのは来店を重ねる度明白だったのも一押ししたのかも知れない。
 あの人は必然破綻することだろう。 なら目的も持たず父からも学院生からも逃げて無意味に生きている塵芥のような自分が恩返しに罪を背負おうと。 そうすることで、自分の存在理由を確立しようと、そうすることであの人を影で助けたのだと愚考に酔いしれようと……なんとかなる、と思った。
 その早計はなんて浅はかで、惨めで、愚昧で、自分勝手で、汚く、残酷なんだろう。
 一度は罪を被ろうと覚悟したはずだったのに、あの日、あの鮮明に残る夜気の中、あの男に諭され怖気付いた私は拭いようのない卑怯で正真正銘の偽善者だった。
 私はあの人を売ったと言う行為を畢生の罪と科した。 
 それが私の、私が自分で選んだ道であり、永遠に堕ろしてはいけない罪と言う胎児だった。 
 取調室まで出向いてなお、渋りを見せた私の背中を押したのは、やはりあの男だった。
 「……せつ、な……」
 確か昨日の夜、何かの節に下に名前で呼んだ記憶がある。
 あいつは……そう呼んでもけろっとしていた。
 何とも思っていないようなら、それはそれで……いいのだろう。
 浴室を上がり、髪を乾かした後、勢いそのまま制服に着替える。 勢いなんて言葉、実にいい使い回しだと思う。 真実の行動を直隠しにするのにうってつけの台詞だ。 そう、勢いで私はそう呼んだんだ。
 冷蔵庫に入れてあったアイスコーヒーをグラスに注ぐ。
 朝からアイスコーヒーを飲むと大体正午頃を境にお腹が痛みだすのが最近の特性だった。 なのに今日も今日とて口内をそれが潤していく。
 腹痛を押してまで神経を鋭敏に研ぎすます ——私の中での優先順位はそう確立付けていた。
 「いってきます」
 振り返り際主を無言で送り出す部屋にそう注げる。 勿論返事は返ってこない。 
 「あ……」
 玄関扉を開いてバス停留所までの道程、それは言葉を漏らしてしまう光景だった。
 桜だ。 それもこれは——
 昨晩、年増に満身創痍にされた中、自室へ戻る際は開花さえしていなかったはずだが、これはすごいと言うか多い、多すぎるだろう。
 停留所を境に歩道の傍らに太い桜が道路に沿って咲き誇っていた。 それだけでない、バスの窓越しから公園内や会館付近の街道、不明の土地、角地、介在する土地に挟まられた塀から満開していた。
 これほど多いと逆に不易ささえ想像してしまう。
 バスを経由すること二十分。 敷地面積県内第二位を誇る我らが私立聖アリア学院前に到着した。
 敷地を覆うようにここでも桜は繚乱に咲いていた。 辺りでは同学生と思わしき女生徒たちも恍惚と心を抜かれるように首を見上げながら連々と並ぶ大きな桜に心酔中だった。
 ふいに肩を一回叩かれた。
 「おはよう、城山さん」
 それは本能的に恐怖と驚愕が混濁した境地に忽然と立ち尽くされた感覚だった。
 冷たい氷の蛇が首を何十にも巻いている圧迫感さえ感じた。 息が止まるほど——
 首を横に向け下から上へ視線を流すとまず茶色いローファーが映り込んだ。 同じ学院の制服、首元の深緑のリボンは二年を示し、その褐色の眼差しは呆けた私を捉えていた。
 「——阪井、園香さん……」
 「良かった。 やっと会えた」
 阪井さんは驚いた後ゆっくり嫣然たる笑みを見せる。
 背丈は同じぐらいで私より少し長い茶髪が少し靡いた。
 私がこの学院内の学生と未だ打ち解けていないのは、単純に学生同士の付き合い、会話から滲み出る上っ面の関係を見るだけで吐き気がするからだ。 その桃色の——桜のような色と無理矢理温かく繕った空気が苦手だった。 お嬢様学校と言うのは本当に——私の体に害のあるところだ。
 しかしこの阪井園香は少し違った。 お嬢様ではあるが通例見るお嬢様とはどこか一線、いやそれ以上隔離して接している気がする。
 互いの利害を前提に友という薄い友好条約を結ぶ学院内の女生徒たちとは違って彼女はそう見せかけているだけ、彼女にはまだ私などでは到底理解出来ない隠然たる本質が見え隠れしていた。
 だから私は彼女を注意していたはずなのに。
 「八日に約束していたお食事の件、本当にごめんなさい。 私から約束したのにも関わらずキャンセルしてしまって……今度きちんと埋め合わせをするわ」
 「いや、いいよ。 平気だから気にしないで」
 阪井さんは、でも埋め合わせはきちんとするから今日の昼食をご馳走する、と言い寄り、たじろぎながらそれを了承してしまった。
 足並みを揃え二年用玄関へ歩を進める。
 「せっかく進級したと言うのに始業式から欠席続きだから皆さん心配していたんですよ」
 ああそうだ、すっかりそのことを忘れていた。
 「ああ、うん。 ごめん。 ちょっとお腹が痛くて入院していたんだ。 学院には親戚に頼んで連絡してもらったはずなのになあ……」
 我ながら苦しい説明だ。
 「お腹の具合、大丈夫ですか?」
 「うん、大丈夫。 心配しないで、もう平気だから……」
 学院の敷地内に入ると見知った顔数名が挨拶してきたのを体良く返す。
 室内履きは終業式後に移動したので、そのまま二年用の玄関口まで歩いた。
 靴を履き替えている最中、廊下から現れた知らない女生徒が彼女に話しかけていた。 どうやら彼女が所属する何かのクラブの仲間らしい。 阪井を仲介役に互いに自己紹介を軽く済ませたがあちらは私のことは以前から存じていたらしい。
 「——それで、お腹の調子はどう?」
 それは私に向けられた発言かと思われたが、女生徒は彼女のお腹を目で指し、気にしていた。
 その時の彼女の青ざめた表情がひどく目に焼き付いた。 彼女の視線は一瞬こちらの顔色を窺っているようだった。
 女生徒は次に顔をこちらに向けた。
 「阪井さん、今週の月曜からずっと顔を見せなかったんですよ。 なんでも日曜急にお腹を痛めたとかで——」
 「ええ、まあ——」
 女生徒の話を中断させながらまたこちらの顔を窺った。 気恥ずかしいとは違う——この動揺の類いは一体……
 HR前の予鈴チャイムが鳴り、女生徒とはそこで別れた。
 「——家の外廊下を降りていたら滑って転んでしまったの。 雨が降っていたから。 打ち所が悪くてそれで休んだの。 城山さんのこと、あまりとやかく言える筋合いではありませんでしたね」
 階段を上がり新しい教室へ向かいながら彼女は舌をぺろっとだして悪戯を注意された子供のように微笑んだ。
 私もつられて微笑むようにした。
 「2-B」 の教室に踏み込んだ瞬間、何かが紐解けた気がした。
 食事に誘ったのは彼女からだった。
 彼女はちょうど、私と並ぶほどの背丈である。
 出会い頭に見かけた靴は確かローファーだった。
 お腹——偶然にもそこはせつなが打撃を与えた箇所だ。
 日曜——と先ほどの女生徒は言っていた。
 その日、雨は珍しく降っていなかった。
 「どうしたの? 城山さん」
 慎ましく微笑するその表情はどこか笑っているようで泣いているのか困っているのか飢えているのか捕え所のない不気味さを秘めているようで、私はそんな彼女の後に続いて教室に踏み込んだ。

 二〇〇五年 四月

フラグメント ー断片ー 

フラグメント ー断片ー 

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-08-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted