フレンチトースト

小学生の頃、母が作ってくれるフレンチトーストが好きだった。ただトーストを焼くだけよりも多少手間がかかるから、1週間か2週間に一度くらい、朝ごはんで出してくれた。焦げ目があって、中はふわふわして、舌がとろけるような美味しさだった。
大学の講義を終えた平井佑は、次の講義を待つために大学内のカフェで暇を持て余していた。盗み聞きするつもりはなくても、大学生の安っぽい会話が耳に飛び込んでくる。
「俺さ、フレンチトースト好きなんだよね」
小学生の頃、母が作ってくれるフレンチトーストが好きだった。ただトーストを焼くだけよりも多少手間がかかるから、1週間か2週間に一度くらい、朝ごはんで出してくれた。焦げ目があって、中はふわふわして、舌がとろけるような美味しさだった。
大学の講義を終えた平井佑は、次の講義を待つために大学内のカフェで暇を持て余していた。盗み聞きするつもりはなくても、大学生の安っぽい会話が耳に飛び込んでくる。
「俺さ、フレンチトースト好きなんだよね」
「男なのに珍しい。お店とかも行くの?」
そこにはやけに丈の長いカーディガンのようなものを着た男、その向かいにはチークを塗りすぎた女がいた。
「行くよ。最近大学の近くに専門店できたの知ってる?そこ行こうよ」
男がそう言うと、女は行きたい行きたいと連呼し、発情したウサギのようにピョンピョンと飛び跳ねた。それが可笑しくて、佑は飲んでいたコーヒーを少しこぼした。

「佑くんってさ、加点方式で人のこと見てるでしょ?」
教室の前席にいた鈴木麗美が、身を乗り出して佑に尋ねた。
「え?」
「いやだからさ、加点方式。最初はマイナスからスタートして、良いところを見つけたら徐々に評価を上げてく。そうでしょ?」
一年半同じサークルで過ごしたというだけで何が分かるのだろうと佑は思ったが、あながち間違いでもない気がした。そのせいか、次の言葉が何かにせき止められてなかなか出てこずにいた。
「ど、どうして。どうしてそう思った?」
「いやー、そういう目をしてるから」
意味は理解できなかったが、定年間際で頭頂を禿げ散らかした教授が教室に入ってきたせいで、その続きを聞くタイミングを逃してしまった。

小学生の頃、佑は地域のミニバスケットボールクラブに入っていた。元から運動ができる方ではなく、後から入部した同級生や下級生にも追い越され、試合の日にはただただベンチを温めているだけの存在だった。レギュラー達はミスをするとガミガミと怒鳴られていたが、お情けで出してもらった試合で佑がヘマをしても、コーチは温かいような冷たいようなどっちでもないような目で佑を見つめながら、少し厳しめに諭すだけだった。佑は、その時のコーチの目が忘れられなかった。
人から怒鳴られないことが、子供ながら辛いことだと感じた。

その日の夜、佑は一人レトルトのカレーを温めていた。テレビの音声だけが流れる無機質な空間の中で、急に鳴り響いた携帯のバイブ音がさらにその部屋を渇いたものにした。
「もしもし、お母さんよ。元気にしとっと?」
「元気よ。なん?」
「なんって。何もなかけどさ。元気にしとーかなあと思って」
数ヶ月前に胃腸炎で寝込んだ時から、週に一度は実家にいる母親から電話がかかってくるようになった。佑は高校生になるあたりから家ではあまり喋らなくなった。そのため、電話口で喋るのは母親ばかりだった。それでも何故だか、部屋にこもる空気が少し暖かくなった気がした。

佑は全く使い込まれていない教科書をカバンにしまうと、誰よりも先に教室を出て大学の敷地内にあるサークル棟の部室に向かった。佑が在籍する大学には公式のものだけで200余のサークルがあり、10階建てのサークル棟には1年以上通い詰めても実態のよく分からない団体がひしめき合っていた。
佑が所属するサークルもその有象無象の一つで、週に一回喫茶店を巡って美味しいコーヒーを探し、その他の日はただただ部室でくだをまいているようなサークルだった。
部室のドアを開けると、鈴木麗美が一人でコーヒーをドリップしていた。佑が入ってきても特に挨拶するわけでもなく、麗美はただひたすらドリップされていくコーヒーを眺めていた。
「なんだかこのコーヒーって、私たちみたいだよね」
「は?」
「このセリフを言ってみたかっただけよ」
麗美は淹れたてのコーヒーをズズッと啜りながら、ボロボロのパイプ椅子に腰掛けた。
「この前話してた話、あれどういう意味?」
佑は向かいに腰掛けながら麗美に尋ねた。
「は?」
「ほらあれだよ。加点方式とか何とかってやつ」
「あーあれね。適当に言っただけだから聞き流してよ」
適当と言われても、こちらは気になってしょうがないのだからそう言われても困る、と佑は思ったが、「そう」とだけ言って手元の学内誌をパラパラと読み始めた。
「人って嘘つくとき鼻を触るらしいよ」
「へえ。あんたってそういうの好きよね」
「そういうのって?」
「そういうのはそういうのよ」
鈴木麗美はそう言って二杯目のコーヒーをドリップし始めた。


鈴木麗美は、おちょこの底に描かれた二重の輪をぼんやりと眺めていた。この輪っかに意味はあるのか。それともただのデザインなのだろうか、とさして今考える必要のないことに思いを巡らせていた。
「麗美ちゃん、日本酒好きなの?」
向かいにいる中肉中背のサラリーマンが声を掛けてきた。スリーピース・スーツを着た若いサラリーマンは信用するなと佑から言われたことをふと思い出し、麗美は少し身構えた。
「はい好きですよー。えっとあの」
「板垣だよ。ガッキーって呼んでね」
「おいお前麗美ちゃん狙ってんだろー。麗美ちゃんにアプローチするなら俺を倒してから行け」
隣にいた中肉中背サラリーマンその二がガハハと笑うと、麗美の隣にいた女性二人はキャハハと猿のように鳴いた。
三対三の合コンに躊躇しつつ参加したのは、大手飲料メーカーのサラリーマンと出会えるという安っぽい謳い文句にまんまと引っかかったからだった。来年からの就職活動に少しでも役に立てばと思い、高校時代の友人に誘われるがままに赴いてしまったが、麗美は再びおちょこの輪っかを眺めながら、それは失敗だったと痛感した。
「おい山田。お前も喋らんかい」
そういって背中を叩かれた山田は、麗美と同様に数合わせで来た同僚の様だった。
「ああ、ごめん」
山田はそう言って、鼻の頭を撫でた。

帰りの西武新宿線で、麗美と山田は一緒になった。同僚から背中を叩かれた後も、結局山田は喋ることなく、同僚の話にひたすら笑っているだけだった。
「今日はすみませんでした。全然喋れなくて」
麗美は急に話しかけられたことにビクッとし、思わず目の前に座っていたサラリーマンの足を蹴りかけた。
「いえいえ、私こそ。慣れないですよね、ああいう場は」
「そうなんですよね。女性は初対面で、同僚も正直言ってそんなに仲良いわけでもないし。なんか鈴木さんは少し喋りやすそうだなーとは思いましたけど」
「そうですか。ありがとうございます」
「僕ね、よく冷めてるって言われるんです。黙ってると、なんか喋れよとかね。別に冷めてるとか、つまんないとな思ってるわけじゃなくてね。僕だって考えてるんですよ。こう言ったら相手こう思うだろなーとか。傷付くかもなーとか。そう考えると、何も言葉が出てこなったりするんですよ」
佑と似ている、と麗美は思った。黙って人の目を観察して、気にして、そのあげく吐き出す言葉を見つけられない。山田はそういう男なんだと思った。
「もしかして、加点方式の人ですか?」
「え?」
「いや、私の友達にもいるんですよ。あなたみたいな人。怖いですよね、自分の言葉を相手がどう受け止めるのかって。そう考えると、言葉って出てこないですよね。それなのに、言いたいことあるなら言えよって言われるんですよね。なんか喋りなよって」
「はあ」
「すみません。なんかいきなりまくしたてる様に」
「いえ、こちらこそすみません。あ、僕ここなので降りますね」
山田は電車を降りて、こちらに軽くおじぎをした。麗美は今になって下の名前を聞きそびれたことに気付いた。山田を見ると、また鼻の頭を親指で撫でていた。

佑がタバコに火を点けると、ちょうど授業を終えた麗美が喫煙所に入ってきた。
「昨日ね、あんたみたいな人に会ったよ」
「ああ、例の合コン?てか俺みたいな人ってなに?」
「加点方式の人よ」
「ふーん。人に期待しない人ね」
「まあそう言う言い方もできるけど。でも、その人の良いところを積極的に探してるっていう見方もできるんじゃない?加点方式なんだから。加点よ、加点。減点じゃないんだから」
「そうねえ」
佑は気の抜けた返事をして、二本目のタバコに火を点けた。
「俺さ、子供の頃フレンチトーストが好きだったんだよ。母親が作るさ。でもそれはたまにしか出てこないわけ」
「そなんだ。それで?」
「それでさ、フレンチトーストじゃない日に、ああ今日はフレンチトーストじゃないんだって毎回落ち込むより、フレンチトーストの日に、やった今日はフレンチトーストだって喜んでる方が幸せだと思わない?」
麗美はフフッと笑ってタバコの火を消した。
「やっぱあんたと山田は違うわ」
「山田って誰だよ」
「山田は山田よ。じゃねー」
麗美が灰皿に放り込んだタバコはうまく火が消えずに煙を吐き続け、佑が吐き出す煙に混じってどこかへ消えていった。

フレンチトースト

フレンチトースト

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-08

CC BY-NC-ND
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