散髪屋さん
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スタイリストは客にマーキングする。
これは私なりの表現だが、要するに髪に触る仕事をする人は、その客の髪型が以前自分の作り上げたものかどうか分かる、ということだ。
「もしかして、別のところで切られました?」
いつも利用してくれている客の頭なら尚更。それは動物のマーキングに近いものなのだ。
「あっ、わかります? すぐそこの床屋で二か月前に切ったんすよ~」
すぐそこの床屋だと?
へらへらとした態度を取る男性客はここ数年常連として来てくれている客なのだが、何の気まぐれか、近くの床屋に行ったのだと言う。私が必死に切り盛りするこの美容院「パルコ」を差し置いて。
「えぇ、意外とわかるんですよー。技術も違えば使ってるはさみも変わりますからねぇ……」
頭めちゃくちゃにしてやろうか、という衝動を殺して、はさみをしまう。
「ど、どうしてあちらに行かれたんですか? 何か理由が?」
「付き合ってた子に浮気がバレちゃって。見せる女の子もいなくなったし安いところでいいかなーと」
「あ、あぁ、そう言えばお客さん、付き合ってる子いるのに別に好きな子ができちゃった、とかなんとか言ってましたね。うーん、交際時期かぶらしちゃダメですよってアドバイスした気も……」
「いやー、かぶっちゃいましたね」
こういう男にだけは決して引っ掛からない、と胸に誓う。
「で、またこっちに戻ってきてくれたのはどうしてなんです?」
嫌な予感はするが、聞かずにはいられない。
「新しい女の子ができたんで」
さいですか、と口にはしなかったが、営業スマイルは引き攣っていたように思う。
「ま、まぁ事情はどうあれまたうちに来てくれたならありがたいです。これからもどうかあんな小さな床屋なんか行かずにパルコをご贔屓に……」
「ああでも、向こうも安いわりに意外と悪くなくて」
「へっ?」
「サービスとかいろいろ差はあるんでそこはもちろんこっちの方がいいんですけど、髪を切るのだけが目的なら正直どっちでもいいかなーって」
「な、なんと……」
「だからしばらく比べようかと思ってます! 申し訳ないっすけど、これからは二か月に一回じゃなくて四か月に一回になるんで!」
「ま、まじですか……」
「まじでーす。あ、で今日の注文なんですけど……」
私の中では、嵐が巻き起こっていた。
宣言通り、男性客は四か月後に来店した。
平均より少しだけ恵まれた容姿を引っ提げて、またもへらへらと能天気な様子。
「おひさです。今日もよろしくお願いしまーすっ」
聞けば大手電機メーカーの社長息子で、コネ入社したのだとかなんとか。実務能力の方は知ったことではないが、この若さと容姿と気さくな性格があれば女には困らないのだろう。
「えと、今日はどうなさいますか?」
正直あまり関わり合いを持ちたいタイプではない。が、客が一人でも離れてしまうのは自らのポリシーに反す。
「うーんそうだなぁ、……あ、じゃあこんな感じにできます?」
雑誌を捲りながら、男性はモデルの一人を指して注文した。刈り上げグランジ。比較的短めに髪を整え、側頭部にかけては刈り上げるヘアスタイルだ。
「そうですね、似合うかと思いますよ」
正直、他人のマーキングを上からめちゃくちゃにしてやるくらいに、二度とその香りが漂ってこなくなるくらいに変えてやりたいが、そこは客の希望が優先。
「おっ、じゃあお願いします」
ニコニコと満足そうに承諾し、男性客は鏡越しに私の手つきを眺めている。
「お姉さん、結婚指輪とかしてないですよね。やっぱ仕事中は外してる感じっすか?」
「えっ、んーまーそうですねー」
返事がぎこちなくなってしまった。
「あれ、なんすか。まさか独身ですか」
うるさい、ほっといてくれ。
「お姉さん結婚適齢期って感じしますけど、彼氏とかいないんです? いたとしたらプロポーズしない相方さん酷すぎません?」
三十を過ぎれば、人は結婚しなければならない。それが、結婚適齢期という言葉で表される、社会の通例。バカにしないでほしい。
「彼氏いないです。まだこのお店も確実に軌道に乗ったわけじゃないですし、そういうの、もうちょっとだけ先でもいいかなって」
「えー、お姉さんかわいいのに。寄ってくる男はいるんじゃないんですか?」
「そ、そんなことないですよ。彼氏とかもう、しばらくいないし……」
一口で言って、困る。親に言われようが、法律に定められていようが、ましてチャラい男に助言されても、しないものはしない。
「じゃあ、あそこの床屋の店主さんとかどうっすか? 見た感じお姉さんと歳近いし、身長はあんま高くなかったですけど、スタイルもいいイケメンでしたよ」
よりによってか、こいつ。
「あそこの床屋ってまさか、近くのあの床屋のこと言ってます?」
「そうそう。先月も行ってきましたよ。相変わらずサービスは微妙でしたけど」
「それだけはないです」
笑顔が取り繕えていないのが自分でも分かる。
「あれぇ? なんかあったんすか? あからさまに拒絶してますけど」
分かってんなら空気を読め、とはさすがに言わない。
「この話やめません?」
しかしそれに近いようなことを言う。この男性客に対しては、それが墓穴だった。
「へ~、意外なつながり知っちゃったなぁ。これ、俺以外の客じゃ知りようがないっすよねっ。だって、二つの散髪屋さんを行き来する客なんて、他にいるわけないし!」
ししし、だか、へへへ、だか笑って、男性客は目を細める。正直、踏み込んでほしくはない。しかしこれを伝えるのは難しい。
「面白い話なんてないですよ。あっちを詮索したって、きっと何も話しませんから」
「あらあら強がっちゃって。素直になっていいんですよ!」
素直に話せるなら、どんなにいいことか。
鼻で溜息を吐いて、男性客に取り合ってはやらない。
「わかりました! 俺がお姉さんとあの床屋のお兄さんとの仲を持ちましょう! 任せてください、こう見えて俺、そういうの得意ですから!」
あなたに任せたら、余計こじれそうね。
「だ、大丈夫ですから、そういうの……」
しかし、男性客は聞く耳を持たない。
それから色々と詮索されたが、答えはしなかった。
「店長、お疲れ様です。さっきのお客さん、だいぶ絡んできてましたけど、大丈夫でした?」
対応に疲れきって休憩室で項垂れていると、バイトの女の子が心配してくれた。
「ちょっと、大丈夫じゃないかも」
「コーヒーとか淹れましょうか……?」
「あー、ごめんねーありがとー。次のお客さんが来るまでには回復するからー」
仕事に私情を持ち込んではいけない。次のお客さんは、こちらの事情など知る由もないのだから。
「会話、少し聞かせてもらっちゃったんですけど、近くの床屋さんって『髪~hair~きおる』ってとこですよね? 確か男性店長さんが一人で切り盛りされてる小さな床屋さんだったと思いますけど、店主の方とお知り合いだったんですか?」
インスタントコーヒーを準備しながら、何気なく聞かれる。――って、おまえも聞いてくるんかい!
「う、うん……」
「お店の名前が印象的だったのもあって、ずっと気にはなってたんですよねぇ。『きおる』って、なんなんですかね?」
「広島の方言か何かよ、きっと」
「へ、へぇ~? そ、それはどういう意味なんですか?」
「知らない」
そんな、生殺しな。と彼女は言った。ちょうど電気ケトルのお湯が沸き、ポク、とスイッチが戻る音がする。不服そうに顔を歪めながら、彼女はマグカップにお湯を注いだ。
「そんなこと言う前に、うちの『パルコ』って名前の意味わかってるの?」
「えっ」
我ながら、見事な返しだ。話題を逸らしつつ、バイトの意識向上にもつながる完璧な質問。
「す、すみません。知らないです……」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らしてみせる。
「イタリア語よ。つづりはparcoで、意味は……、まぁ、それくらい自分で調べなさい」
「えぇ~、店長のいぢわる~」
「意地悪じゃないわよ。これも勉強のうち」
最近の若い子は、勉強をしない。いや、私も充分に若いけど、私がハタチの頃は日本はもっと不況だった。実力がなければ就職もままならない、いわゆる就職氷河期の時代。それに比べれば今は、ずいぶんとぬるくなった気がする。就職ぬるま湯期だろう。
ぬるま湯は、平和ボケというやつを作り出す。危機感が足りない。緊張感が欠落している。自分がやってやるという熱意が感じられない。生き抜くためには、常にストイックに自分を磨き続けなければならないはずだ。
私は、そういう世間の雰囲気が嫌いだった。
大学や専門学校を卒業したら、若者はみな間髪入れずに就職しなければいけないし、三十頃には、早く結婚して子供を作れと縛り付けられる。日本人の正しい生き方はそこであって、それ以外の人間は変人、特殊な人という括りに入れられる。
きっともっと、人は自由でいいはずだ。色んな生き方が認められて、みんな自分の個性が好きで、何かに縛られることなく、日本人は生きていけるはずだ。
もちろん、縛られたい人は縛られればいい。新卒で大企業に就職して、大学からの彼女と結婚して、三十手前で子供を作る。それが自分の理想だと胸を張って言えるなら、そうすればいい。
ただ、世間の波に飲まれ、身動きが取れなくなる人を見るのは嫌だった。
だから、この「パルコ」を作った。
人が自分の個性を認め、伸ばし、生き生きと自由に過ごしていられる空間を、私は作りたいと思った。
そりゃあ、嫌な人もたまには来るけれど、そこはぐっとこらえて、その人の個性として受け止める。そうすればきっとその先に、その人の良いところも見えてくると思う。
「――店長っ」
コーヒーを飲むと、リラックスして思考が滑らかになる。
「……えっ、なに?」
「次の予約のお客さん、いらっしゃいましたよ!」
気の向くままに想いを巡らせていると、すっかり時間を忘れてしまっていた。
その年の大晦日。およそ六年ぶりの帰省をし、「みきも結婚とか考えてないの?」と母親に聞かれ、「この調子でみきまで嫁に行かれたら俺は……」と父親がうつ病を発症する。
みきとは私の名前だ。
先月、年子の妹が入籍し、これから二人で年末の挨拶に来るそうだ。
私は、「心配しなくて大丈夫だよ、お父さん」と慰めてあげる。
「もう、みきは。またそういう悠長なことを言う。お父さんのことなんか気にしないで、ちょっとは焦ってくれていいのよ。ほんとに、マイペースな性格は変わらないんだから」
母親が頬に手を当てながら言った。
マイペースじゃないんなら、何ペースになるんだろう? 結局、人は誰しも自分の歩幅でしか進めないんだから、マイペース以外の何かにはなるはずがないのに。
その辺りを、妹はよく理解している。
ピンポーン。
家のインターホンが鳴り、母親が玄関に走る。続いて、「ただいまーっ」と快活な声が響き、さらに「お邪魔します」と落ち着いた声音が聞こえてきた。
もう妹もインターホンを鳴らして帰ってくるようになったんだな、と考えて、舌を巻く。
「あ、お姉ちゃん、久し振り」
「ひさしぶり」
「こ、こんばんは。初めまして。花田健司といいます」
「た、貴乃花……?」
つい口をついて出た。いやだってあまりにも。
「ちょっと、お姉ちゃん!」
「ははっ、いいよ。……大丈夫ですよ、お義姉さん。言われ慣れてますし、僕たちそういう世代ですもんね」
第65代横綱・貴乃花の本名が、花田光司。確信犯だろうか。
「ほんとごめんね、健司さん。うちのお姉ちゃん、空気読めない人だから」
妹は合掌してへこへこと可愛らしく姉の代わりに謝ってくれる。少し緊張した様子の花田さんだったが、鉄板らしい貴乃花トークで和んだ。
ややあって、夕食代わりの年越しそばを全員で食べ、紅白のオープニングを見た後、私はなんとなくその場に居づらくなって立ち上がった。
「お母さん、洗い物しとこうか。食器が汚いまま年越してもあれだし」
「あら、ほんと? じゃあお願いね」
くつろぎ慣れたリビングに初対面の人が控えめながらも座っているのは、居心地が悪かった。
「あ、私も手伝う」
妹も手を挙げる。まぁいいけど。
リビングには、父と母と花田さん。もう何度も顔を合わせていると言うし、そちらは問題ないだろう。それより、
「お姉ちゃん、あんま健司さんに変なこと言わないでよ」
食器に手を付けながら、妹が唇を尖らせた。
「あ、ごめん。つい……」
「あとでちゃんと謝っておいてよね」
それだけ、大切にしていきたい関係なのだろう。
私が洗った食器を、妹に渡していく。妹は拭き取る係だ。どうしよう、話すことない。
「け、結婚式ってまだなの?」
まさか呼ばれてないだけなんてことはないはずだ。そこまで関係が冷え込んだ覚えはない。
「……うん、まだお金ないから」
食器を拭く手つきが少し鈍る。
「そっか。どうしてもだったら貸せるよ。私もお金あるわけじゃないけどさ――」
「それは嫌。そのくらい、自分たちでやんないと、これから全部頼っちゃいそうだもん」
眩しくて、顔が歪んだ。我が妹ながら、素直に育ちすぎて、こわい。
「でも健司さん、まだ婚約指輪もくれてないの」
「あぁ、ほんとだ」
妹の薬指に光るものはついていない。
「プロポーズの時も、お花はくれたんだけど、指輪はお金がなくって、って……。気持ちがあればもちろんいいんだけど、やっぱりちょっと不安なの」
妹は良い子だ。こんな嫁を貰えた花田さんは幸せ者だ。でも私は、妹のそういうところが苦手でもある。
「でも、結婚式は来年にはしようって話してるの。この前、式場探しにも行ったし。ジューンブライドなんて言わないし、仏滅でもなんでもいいから、そこだけは、ね……」
この子を見ていると、自分の特異性が浮き彫りになるようで――。
「……二人でよく話し合って、……うん、幸せにね」
それを願わないわけじゃない。もちろん妹の幸せを祈っている。ただ、こう思わないこともないのだ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
妹は微かに涙ぐんでいた。
「ちゃんと言えてなかったよね。……結婚おめでとう」
――少なくともこの子は私の恋を理解できない、と。
年が明けて、3月に入った頃、妹から結婚式の招待状が届いた。5月の半ばに地元でするそうだ。まだ仕事がどうなるか分からないから一旦保留しておく。
それより私には気になることがあった。
あの男性客が、前の来店から4か月を過ぎても一向に来る気配がないのだ。
今まではまるで生理みたいに、その月の決まったタイミングで来やがったのに、それがもう2週間は遅れている。さすがに心配にもなる。
しかし私は、楽観視しかできなかった。
また相手する女の子がいなくなって、そこにお金をかける必要性がなくなったと言って、ひょこっと再び現れるんだろう。
その予想は、悪い意味で裏切られる。
散髪屋さん