夢の彼方に見えるもの
『人を好きになれない』ことと、『人の命を大事に思わない』こととの間には繋がりがあるように前から思っていた。
神戸の幼児殺傷事件も、その根っこは同じではないかと思っている。
夢の彼方に見えるもの
「最近からお呼びがかからないな」
肉に食い込んでいたナイフが止まった。Aは顔を上げた。
「当分の間、中止だそうだ」
「もしかして、この前の騒ぎがまだ尾を引いてるのかい?」
Aは頷いた。先々月の《晩餐会》例会後、最年少メンバーのNがほろ酔い加減で帰宅の途中、お巡りに呼び止められ、荷物の中に混じっていた骨を見つけられたあの件だ。拾った骨だ、犬のものだと思ったんだと主張したNだったが、連続女性失踪事件が騒がれ始めた時期、見逃して貰えるわけもなく、その場で任意同行を求められ未だに戻ってこないらしい。翌日骨が人骨だと発表された瞬間からマスコミの狂乱が始まり、まだ犯人と断定されたわけでもないNは連続女性殺人犯、そして人食い人種として祭り上げられ、全国の注目の人となってしまった。
「Nの馬鹿め」Aは憎々しげに呟き、ナイフを握る手に力を込めた。いくらその晩の獲物が格別だったからと言って、会の後その骨を持ち帰るというルール違反を犯した揚げ句、警察に捕まるなど言語道断。警察の監視は一層厳しいものとなり、月一度の楽しみを奪われたAの機嫌が悪いのも当然と言えた。僕は頷き、皿の上に染み出した血と肉汁とに切り分けた肉片を浸した。僕たちは肉の食事時にはソースなど決して使わない。肉そのものの風味が消えるからだ。高級ステーキハウスの看板に偽りはなく、分厚いフィレステーキは美味かった。だが、Aの表情は浮かない。
「何が最高級だ。美味くねえよな。パサパサしてるだけ。噛んでいて口の中に迸るものが何もない。滋味がないんだ、滋味が」
「そうかな。これだってそんなに悪くはないと思うんだが」
「馬鹿言え。本当に美味い肉ってのはだな、噛んだ時に苦みっていうか渋味っていうか、それが口ん中ににじみ出して、ふわあっと広がるもんなんだ。あれに比べてこの肉の味も素っ気もないこと。ああ、食べたいよう」
身を揉むようなAの仕草に僕は笑い出してしまう。しかし確かにそうかも知れないとも思う。僕も、最初こそあの臭いと渋味に辟易したものの、四人目を越える頃から慣れてきた。最近ではむしろ何を食べていても、舌にあの渋味を感じていないことで物足りなさを感じる気がしてきたのは、僕が《晩餐会》メンバーに近づいてきた証拠かも知れない。ギスギスと痩せ細ったウェイトレスがコーヒーを運んできた。気取った、常に誰かの視線を気にしているかのような後ろ姿を見送りながら、Aは呟いた。
「不味そうだな」
「同感だ」
…ステーキハウスを出た後、家に寄っていかないかと誘われた。布由美が来るまでまだ三時間以上あったし、Aのマンションはすぐこの近くだ。寄ることにした。1LDKのマンションは相変わらず様々なものでごった返し、足の踏み場もなかった。脱ぎ散らかされたままの服、食べかけのスナック菓子、インスタント食品の袋やカップ、積み上げられた書物。床の隙間を埋めるのは種々のシリコンチップやLSIの箱や中身だ。Aは某大手精密機械メーカーの研究所職員、箱の大部分は自社製品の余りを持ち出したものだろう。
「先々月、生物化学素子が完成したって話は、お前にもしたよな」
「ああ、聞いたな。バイオ素子だろ。そう、そいつを何に使うかって話をしてる時に邪魔が入ったんだよ」
「Oのおっさんだろ。あいつは酔うとからむんだ。ま、今日は邪魔も入らんだろう。まァ、要は生体細胞と機械とをつなぐためのものだと思ってくれればいい」
「機械で作った細胞か」
「逆だ。細胞で作った機械。内部で増殖もするし、アミノ酸を合成しちまう奴もある。汎用化ももうすぐだが、大半は医学的分野で使われるだろうな。管とか針とかを刺す治療に代わって、各器官と機械とを同化させて治療なんかをやらせるわけだ。人体に収納できる人工肝臓とか人工腎臓とかの完成もそんなに先の話じゃなくなってくる。まだ正式な発表もしてないのに、もうあちこちの病院から問い合わせが始まってる状況だ」
へえ、と感心した僕は、お前だったら何に使うと訊かれ、数秒考え込んだ。
「やっぱり脳じゃないか? コンピューターとつないで頭をよくする」
ただの冗談の積もりだったのだが、Aはしたり顔で頷いた。「俺たちが今やってるのがそれだ」
「それ、って、じゃあコンピューターを脳に?」
「逆だ。コンピューターの一部として脳を活用する実験さ」
どんな最先端機器であっても、機械製コンピューターの性能は未だ脳の一部にすら及ばない。この研究の完成によって、機械だけで造ったコンピューターなど、ただの化石以下に成り下がってしまうことだろう、とAは豪語した。
「凄そうだな。でもどうやって?」
「要は延髄の数千数万って神経束を全部まとめて回路に接続できればいいわけだ」
「大変そうな作業だな」
「それを俺たちがやれば、な」これまではわずか数ミクロンの、それも一本一本がどこにつながっているかわからない脳神経を手ずから探索しようとしていたから無理もあった、そう言ってAは上着を脱ぎ、冷蔵庫から出した罐コーラを僕に投げた。自分にはビールを抜く。「それを今度は誰がやると思う? 素子だよ。全神経束の探索をバイオ素子自身がやることがわかったんだ」
「素子が自分で?」僕は目を剥いてみせた。「だって、機械なんだろ?」
「機械とは言え一種の神経細胞だからな」Aは言った。俺たちが怪我した際だって、断裂した神経細胞が自然と回復するだろ。それと同じような仕組みだと思えばいい。「何しろほとんど自分勝手にアミノ酸まで合成しちまう代物だ。脳の中にはな、自分を強く発現、と言うか、アピールしている独自の遺伝子があるわけよ。素子の一本一本がその情報を一度読み取りさえすれば、自分の内部に作ったニューロンであちこちの遺伝子の配列を自動的に判別して、勝手に目的を探り当て、勝手に結合しちまう」
「間違えることはないのか?」
「確立としちゃあ一万分の一だな。例え間違えたとしても、素子が自分の内部で正しく結合を組み換える」
「ふうん、機械がねえ。便利な世の中になったもんだな」
「で、とうとうウチの研究所がバイオ素子を組み合わせて作った人工延髄を完成させた。犬の脳味噌を実験台にして、な」
「へえ、そいつは面白い。犬の頭を持つコンピューターか。でも、脳ってのは手だとか足だとかへの指令も出てるんだろ? そんなのはどうすんのさ」
「お前やっぱり勘違いしてるな」
Aは読み捨てられた雑誌を蹴りどけ、僕を奥の部屋に招いた。テレビが点けっぱなしになっており、何も映していないモニターが音もなく暗い部屋を照らしていた。ここも散らかった部屋の一角に腰を下ろし、Aは言った。「俺たちのやってる実験はあくまで脳の仕組みを解明して、コンピューターの一部として活用するための第一段階なんだ。コンピューターに犬の知能を持たせて何をしようってんだ。芸でも覚えさせるのか。手足なんて放っておくさ。ま、一応全器官の接続はしてあるがな。人工延髄は二百億の神経を接続できるシナプスを作ってる。犬の脳神経をつなぐだけならお釣りだって来る」
「あくまで道具として、か」
「そうなるな。聞いて驚くな。記憶容量だけでも光磁気ディスクの三十万枚分に膨れ上がった」
「そいつはマジで凄い。でも汎用化は無理だろ。一台につき犬一匹じゃあ、それこそ動物愛護団体の連中が爆弾持って押しかけてくるよ」
「そうだな。汎用化は脳のクローン培養が世間に認められてからになるだろうな。だが、まァ、先例を作っちまったからにゃこっちの勝ちさ。世間なんていくら騒いだところで金になる以上、先例のあるものは結局最後には認めるんだから。それにな、技術予想年表に載ってる生物化学素子の実用化予想は二〇一四年だぜ。それより十年以上も前にそれを完成させたんだ。結果としては評価の方が大きい筈さ。あ、これまだ他言無用だからな」
「わかってるよ」
「それで、だ」Aは立ち上がった。「俺は考えたわけだ。犬の脳味噌にそれだけの力があるなら、ヒトの脳味噌ならどれくらいのものかって、な」
言いながら、机の上を覆うビニールカバーを外す。机上一面には膨大な数のLSIやチップ、各種機械が積み上げられ、それら全てにつながれたコードが三つの箱に集中していた。そのボックスの上、直系三十センチ程の円筒形ガラス容器の内部を、透明な溶液の対流に押され上下しているのは、額から上を切断された人間の頭だった。ふやけた肉の切り口から血管だか神経だかの組織片がはみ出し、その下から白い骨がのぞいていた。しかしそれでも脳は生きているらしかった。点けっぱなしのテレビかと思っていたものは、そいつに接続されたモニターだったのだ。机の前に陣取り、Aは得意げにキーボードを叩いた。
「人間コンピューターってわけだ」
「どこで手に入れたんだ、この脳味噌」
約一カ月前と言うからNが不始末をしでかして捕まった二週間後だ。駅からの帰途、デートをすっぽかされでもしたのかあてなくうろつく雌に声を掛け、部屋に連れ帰ったのだそうだ。Aのことだ。恐らく“残り”は既に全部平らげてしまったのだろう。
「一番の好物である脳味噌を食べずに我慢してたわけだ。しかし抜け駆けはいけませんよ、抜け駆けは」
「言うなよ、我慢し切れなかったんだ。でも今は抜け駆けもできない状況だからなぁ」Aはぼやいた。「全部Nが悪い」
「けどさ、あいつ今のところ何も喋ってないわけだろ? 僕たちに累が及ばないところを見ると」
「喋ったところで何にもならんさ」
七十人近い《晩餐会》メンバーには複数の警察・司法関係者も混じっていることは僕も聞いていた。だが、これまでに幾度となくあった危ない局面のほとんどを、そういった面々の尽力が揉み潰したのだと言うことは今日初めて知った。特に警察関係者の中には本庁捜査一課の刑事二人もいる。失踪届けの出ている雌の住所が広範囲に亙ることから、現在本庁の乗り出している捜査進展や監視強化を我々に知らせ、仲間の検事に連絡し、提出された証拠をさりげなく隠蔽、Nを陰から見張っているのもこの二人だ。守って貰える反面、下手なことを口にすれば自分が殺されるのを知っているNから何一つ漏れる心配はない。
「場合によっちゃこの“本体”の娘も含めて、これまでの事件を全部Nに押し付けることだってできる。だからお前も安心していいよ」
「それよりこのモニター、何を映してるんだ? さっきから見てるんだけど、まともな映像が全然出てこないぞ」
僕はモニターを指さした。白濁するモニターに瞬間的に入るノイズかと思っていたものは、実は何らかの映像の断片らしかった。注視していると、断片的なそれが次第に明確な形を取り始めた。人間、建物、風景。それらがとにかく瞬間的に入れ替わり立ち替わり現れては消えるだけ。前後のつながりには何の脈絡もなく、フィルムをつなぎ損ねた抽象映画も真っ青だ。
ああ、とAは笑った。「必要ない時には休ませてる。睡眠物質を与えてな」
「睡眠物質?」
「そういう働きをするポリペプチドがあるんだ。素子の一つにそいつを合成する端子があって、コンピューターを作動させる際にはキーボード操作でポリペプチド注入を抑えれば」
「目を覚ます? それじゃ今は眠ってるわけか、このコンピューターは」
「と言うより、無理やり眠らされていることになるのかな」
「だとすると、この画像は、もしかして」
「面白いだろう。俺はこれを見てるのが楽しくて仕方がない」Aは埃を吸ったモニターを撫でた。「感情を抑えてる筈なのに、まだ人間だった頃の記憶が残滓になって渦巻いてるわけだ。そうさ、つまり“夢をみてる”んだよ、こいつは」
一時間だけの予定が二時間半も居座ってしまい、アパートに帰った時には約束の時間を三十分も過ぎていた。布由美はアパートの鉄階段に座り込み、ふくれていた。それでも僕が本当に申し訳なさそうに謝ると、たちまち機嫌を直した。部屋に入るなりしなだれかかってくる。おなかぺこぺこよと言う布由美に先にシャワーを浴びさせ、その間に野菜炒めを作ってやる。飯とともにそれを平らげた布由美は、僕にシャワーを浴びる暇も与えず、体に巻いたバスタオルを外しざま胸に飛び込んできた。からみながらベッドに上がろうとすると蝿がいた。
「やだわ、またいる」
虫の嫌いな布由美は裸のまま、丸めた雑誌片手に、二匹の蝿を追い回し始めた。僕はカーテンを閉めた。
「この近くにゴミ捨て場か何かあるの? もう十一月だっていうのにおかしいよ」
「そうだね」
相槌を打ちながらも、僕には、いくら殺してもすぐに現れる蝿どもを呼び寄せるものの正体がわかるような気がしている。恐らくは腐臭だ。絶え間ない腐臭に引き寄せられてくるのだ。そして腐臭を発しているのは恐らくこの僕だ。既に六人をこの手で殺し、その一部を食べている僕なのだ。もちろん布由美には僕の発する臭いなどわからない。僕の腰にまたがって二回の射精を受けた後、僕の首筋に平気で顔を埋め、眠ってしまう。眠りに落ちる前にいつものように、「静馬、あたしのこと愛してる?」と訊く。愛してるよと応えてやるとすぐに安心しきった寝息を立てる。僕の言葉を疑ってさえいない。僕の言葉が表面的なものでしかないことなど考えてさえいない。そう、表面的。布由美以外の誰かを愛しているとかいうことではない。それ以前に僕にはそのような感情が理解できないのだ。
考えてみると僕はこれまで他人に対してまともに感情を動かしたことがなかった。親しみ、友情、怒り、憎しみ。抱いたとしても極ごく希薄なものでしかなかった。特にわからないのが『愛』なるものだ。男女の『愛』、親子の『愛』、人間同士の『愛』。そもそもどうしてそのようなものが必要なのだろう。どうして人は人を『愛』し、『愛』されなくてはならないのだろう。人間同士がなぜ結び合い、結ばれ合わなくては生きてゆけないのだろう。第一、その『愛』なるものは一体どこに存在しているのだ? 肉親の『愛』情など尚更わからない。どうしてそんな鬱陶しいだけのものを感じていなければならないのかがわからない。父親が倒れて長期入院した際も、親父が死んだら生活が大変になるな、程度の感慨しか湧かなかった。母親に、あんたは冷たいと非難され続けたので仕方なしに見舞いにも行ったが、病室で「済まないな」を連発し、涙をこぼす父親の心情などさっぱり理解できなかった。なぜ「済まない」のだ? 誰に対して「済まない」のだ? 単に死ぬだけではないか。大体人が死ぬことがそこまで重要な問題か? 僕には人間の生命が││僕のものも含め││そこまで価値あるものだとは思えないのだ。ただの生き物じゃないか。他にも何千何万種っているよ。虫一匹殺すのとヒト一人殺すのと、どれ程の差があるというのだろう。
小学校二年か三年の時だったと思う。屋外スケッチ教室にてキリギリスの絵を描いている僕を、隣のクラスの連中三人が囃し立てた。虫を殺すなんて残酷だと言うらしいのだ。動き回ると描けないからつぶしたまでだと答えると、先生に言い付けてやるとわめき出した。無視していると画板の上に泥を投げ付けてきた。これ以上こいつらを放っておくと絵が完成できない。僕は拳大の石を掴み、中の二人の頭を乱打した。最後の一人を追い回していた時、教師数人が止めに入ったので邪魔物排除は未遂に終わったが、絵の方は仕上げることができた。散々怒られた末、母親が僕を引っ張って邪魔物二人の家にまで謝罪に行った。あまり我を張っても得はないとの計算が働き、その場は謝ってみせはしたが、もちろん反省などする筈がなかった。する必要さえ感じなかった。動くキリギリス、妨害する人間、僕が絵を描く上で邪魔だという点では全く同じではないか。どうして人間だけが特別でなければならないのか。人間が万物の霊長だから? この星で最も進化しているから? ふざけるんじゃない。周囲の環境どれ一つにも満足に適応できず、それを変えることばかりにうつつを抜かす生物が、どの面下げて『進化』したなどと言っているのだ。脆弱な脊椎一本に支えられただけの頭蓋骨が実に不安定に、肥大化した脳を保護した積もりになっているだけ。この、見るからに危なっかしい『安定』が人間の脳の発達を促したそうだが、本当に安定させるためなら人間はもう少しバランスの取れた体型だった筈だ。未だ実用化できない人間型ロボットがいい例ではないか。不安定な人間社会、原因の大部分はそれを動かす人間の精神の不安定によるものなのだろうが、元来こんな不安定な場所に置かれた脳味噌に安定したものなど生み出せる筈がないのだ。何が『進化』か。寒さ一つ自力で凌げない人間が、どうして最も発達した生物などになれるのだ。結局人間に与えられた思考など、自己の存在、行為、その結果に何らかの意味だとか解釈だとかを無理やりこじつけ、最終的に自己正当化を行うものでしかないのである。
そのいい例が男女の『愛』なるものだ。ただの本能に過ぎない生殖欲求が、どうして人類永遠のテーマなどと謳われなくてはならないのだろう。快感が膨大だからだろうか。確かに射精の快感はいいものだし、射精のない雌も別種の快感を得ているらしいことは布由美の反応一つ見ていてもわかる。だが、それがあまりに強烈で麻薬的な魅力を持つものだから、種の保存のおまけに過ぎなかった快感が目的と化すという本末転倒が生じてしまっただけではないのか。本来の目的である生殖はどうでもよくなり、快感さえ手に入れば何でもいいという擬似行為の発達が遂には、雄と雄、雌と雌が結び付くなどの生物界希有の尋常ならざる事態にまで発達してしまったことが、それを証明してはいないか。強烈な快感に加え、付随する期待、満足度なども甘美だったため、あるいは人間が己は他の生物に比べ高級だと思いたかったため、単なる生殖行為とその欲求に『愛』などという名を冠し、半ば儀式化してしまっただけなのではないのか。この結論を出したのはごく最近、それが頭の中にぴったり収まるように感じて以来、ただでさえ弱かった僕の性欲はほとんど消えてしまった。布由美と出会ってからも相変わらず、胸部に乳房という肉の突起二つをつけ、亀裂の走る性器しか持たぬ雌に、僕は未だに興味以上のものを抱けないでいる。布由美に射精できるのは彼女が指と唇と舌、性器内部とで僕の亀頭に刺激を与えるからに過ぎない。時によっては僕の肛門までを舐め、指を入れ、性器の屹立を促しさえする。十七歳の布由美はこういったことに随分慣れているばかりでなく、むしろそうすることが当然だと思っている節もある。僕には有り難かった。布由美はそれで満足らしいし、僕は僕で布由美を部屋に招くことにより、二十九歳の自分が世間で言う『健康な成年男子』であることを周囲に証明できたからだ。布由美のように性欲とその行為に積極的な雌でなければ、『愛』情の前提たる性欲の欠落した僕などをとても恋人扱いできなかったに違いない。その布由美の寝顔の、頭の部分を見ながら僕は思う。
これを使えば手間も省けるのだが。
だが、せっかくカモフラージュが定着してきた今、それをみすみすふいにするのは気が進まなかった。だからこれまでも布由美だけは《晩餐会》にも提供しなかったのだ。では、新鮮な脳を手に入れるにはどうすればいいだろう。そう、僕はAのマンションで見た機械に心惹かれていた。夢を見るコンピューター、いいじゃないか、僕も欲しかった。コンピューターの見る夢を、僕も心行くまで眺めて過ごしたかった。
「…このキーを叩くと記憶、こっちの回線はイメージ」
モニターを占めていた文字が一掃され、フルカラーの映像が現れた。
「モニターは文字、映像双方に対応する。静止画像移動画像両方とも大丈夫だ。但しこいつも含めて、機材はかなり値が張るよ」
翌日、アルバイトからの帰途、僕は再びAのマンションを訪れていた。自分も同じものが欲しくなったことを打ち明けるために。
「総額でいくらくらいだ?」
「そうさな、モニター、機材、合わせて四十万ってところか」
「それくらいなら大丈夫だが」ギャンブルに無駄金を使うわけでもなく、アルバイトに真面目に精出す僕にはかなりの額の貯金があった。「しかしそんなものなのか。バイオ素子の方はもっと高価だろう」
「あんなもの研究室にいくらでも転がってる。売り出される時の価格は知らないが、今のところは研究所員の玩具さ。それより問題は“本体”だ」
「脳味噌か。それは何とか手に入れるよ」僕はAの教えてくれる必要機材とその価格とを細かくメモにとっていた。「それよりさっきの話の続きだけど、材料さえ与えておけば、こいつは大抵のことは自分で結論づけられるわけなのか」
「ああ、ロジックでも抽象論でも受け容れるさ。今、弁証法を勉強させてるところだ」
「あんまり難解だと反抗されそうだな」
「反抗? そいつは感情の範疇だな。感情を持たせたままだとそれも有り得る。ニューロペプチドの刺激を一定期間をおかずに必ずやっておかないと」
「それは感情を封じ込めるためのものなのか?」
「封じ込めるったって完全にというわけにはいかん。抑えるだけだ。感情ってのは外部からの情報に新皮質って言う部分が反応し、それに旧皮質が持ってる記憶とか、古い情報の割り込みが入ることで成立するんだ。だから新皮質と旧皮質とから発生する情報を分離して、旧皮質以下からの情報はニューロペプチドで抑制することができれば」
仲間ができると喜んだAは異様な熱心さで多岐に亙る知識を伝授してくれた。必要部品の大部分も彼の研究室から都合してくれるという話だった。
「休め過ぎるとシナプスが衰えるからな。つまり連絡が途絶えるってことだ。データの往復がなくなる上にシナプス小胞から放出される記憶固定物質の供給も鈍ってくる。つまり」「度忘れする?」
「その通り。だがそれだけじゃない。機械から脳に電流が行く方もともかく、脳から機械に生体電流を送り込む方のニューロン。こいつは普段使い込むから安定もするが、長期休ませ過ぎるとこれも衰えてくる。この部位からの電流信号を素子が読み取って、記号とか画像とかを展開するんだからな。一旦連絡が切れたらつなぎ直すのに一苦労だということだ」
「絶えず学習させよ、か。まるで調教だな」
「馬鹿言え。これが本当の教育だ」
僕たちは笑った。Aは布由美以外で僕の時間を拘束できる数少ない存在の一人だ。《晩餐会》に僕を紹介してくれたのもAだ。本名は敦夫だが、《晩餐会》ではメンバー全員を頭文字で呼ぶ習慣があった。僕はその習慣が大いに気に入った。虫や鳥には最初から名前などないのだからヒトにだって不要な筈だ。名前など記号化されても一向に構わないではないか。ちなみに静馬である僕はSで通っている。
Aは元々僕の大学の先輩らしかった。中学高校大学を通じ、周囲に人を寄せ付けない存在であった僕がAとの親交だけは長続きさせ得たのは、彼が僕の持論の擁護者であり、同時に希望だったからだ。人を寄せ付けなかった理由はいろいろあろう。『愛』だの『友情』だのに興味を抱けない、人の生命を特別視できない、など。現に僕は、あの屋外スケッチ教室同様の事件をあの後も何度か引き起こし、その度に不気味な印象だけを周囲に浸透させていったらしい。だが僕が僕自身のことを、周囲と違うとは思いこそすれど、異常であると感じたことは一度もない。周囲の連中より僕の思考の方が筋道立っていたからだ。高校、大学の頃、『愛』なるものの存在について論争を挑んできた者も幾人かはいる。理屈に詰まるのはいつも相手、連中は決まって最後に「理屈じゃないんだよ、愛は」などの捨て台詞を残すしかできなかった。馬鹿め。現実世界において因果の筋道立たぬ事象などどこに起こり得る。正しいのは僕だ。その僕の唯一の援軍論客が、大学時代無理やり誘われていった酒宴に同席していたAだった。
「生命を持つという点では虫とも大差ない筈の人間が、自分のことを特別だなどと思い込むこと自体、ただの増長である」
僕のその言葉にAだけが首肯した。ここに同類がいた、その認識は僕をなぜか安堵させた。孤独を覚え自己を見失いそうになったわけでもない積もりだったが、自分だけが特別ではないという保証が欲しかったのかも知れなかった。もっとも僕の持論へのAの首肯は、自らの人肉嗜好を正当化したいために過ぎなかったことは後にわかってはきたが。まあ、それでも、人間の生命に対する考え方は未だに共通しているし、とにかくAは僕にとって様々な形で利用できる有り難い存在であったりもする。だが何よりもAの存在が有り難かったのは、生命への価値観だけにでも共通項を持つ存在をこんなに早い時期、こんなに簡単にしかも身近に見出せたという事実を与えてくれたことだった。生命への価値観だけではない、全てにおいて僕と全く同じ存在は必ずいる筈だ。ごく普通の家庭で育った、ごく普通の道をたどったごく普通の少年である僕が異常な筈などなかった。幼少期から現在に至るまで、どんなに冷静に思い返してみても、何の事件にも出会っていない。虐待、倒錯した性体験、事件等、精神病理学の書物で論じられているような事象には何一つ。僕の精神が歪むような原因など何一つなかったのだ。必ずどこかにいる。『愛』や生命に対する考え方、価値観、全てにおいて僕と同じ精神構造を養ってきた僕の本当の同類が必ずどこかにいる筈だ。その手掛かりをAは与えてくれたのだ。時折付き合わせられる《晩餐会》獲物調達は面倒臭くはあったが。
取り敢えず今回もAは頼りになった。しまいには脳の手配に自分も付き合うなどと言い出した。成程、好意の申し出にしては常軌を逸しているとは思ったが、これで納得もいった。恐らくはどうしても我慢ならなくなったのだろう。脳以外の余った部分を食べたくなったのだ。だが、それでも僕は彼の申し出を有り難く受けた。布由美の訪れる僕のアパートでの解体作業と後始末は難しいからだ。三日が過ぎ、機械類の用意があらかた調ったところで、僕たちはAのマンションを基地に“本体”の調達に取り掛かることにした。相談の上、今回は電話の有料回線にある伝言ダイヤルを使うことにする。有料回線サービスも十年前の開始当初はもっと多岐に亙るサービスがあったそうだが、規制と淘汰にその数を減らし、今や伝言ダイヤルを含めたわずかのものしか残っていない。大きな駅に集まってくる家出した雌に声を掛けるか伝言ダイヤルで釣り上げるかするのが《晩餐会》の獲物調達方法なのだが、不慣れのためか声に魅力が乏しいのか、僕は伝言ダイヤルの釣りでは失敗が多い。対してAは上手い。彼の手帳には雌どもに人気の高い伝言ダイヤル番号と、その各番号における獲物の数、成功率までが記されている。身銭を惜しまなった結果なのだそうである。まずはダイヤル、電話からの指示に従って公開ボックスに声を吹き込む。この傍聴自由の公開ボックスから聞こえる雄たちの声を、精神だか肉体だか││多分両方││の孤独に耐え兼ねた雌どもが無料回線にて聴き、気に入ったメッセージに返事を寄越してくるのが一般的なパターン。雌の公開ボックスに雄が伝言を返すシステムもある。で、返ってきた伝言を聴き、相手のボックスに自分の電話番号なり連絡先なりを吹き込み、雌からの直接連絡を待つ。僕は大抵ここで失敗する。Aに言わせれば相手を選び過ぎることと、タイミングの悪さとがその原因らしい。
「とにかく女どもに伝言が届かなければ仕方がない。人気の伝言ダイヤルは女一人につき男十人が使用すると思えばいい。選択肢の多くは女が握っているんだ。こっちはとにかく数を撃つしかない。後はタイミングのよさを願う。相手が二度目の伝言を聴く時とこっちが伝言を返す時とのタイミングがバッチリ合うことをな」
金曜の晩、休みを控えたAは張り切り、公開ボックスに爽やかな声で恋人募集を装った伝言を入れた。三十分後もう一度架け直すと、返信ボックスへの伝言が十二件あった。Aはその全部に自分の電話番号を吹き込んだ。午前〇時までに二件の直電を受け、たちまち二つの約束を取り結んでしまう。Aに言わせれば直電を受けても成功率は何とか半分、会えるか会えないかを決するのは直電による会話、そこでいかに雌を乗せるかにかかっているのだそうだ。もちろん効率のよさは僕とは段違いだ。僕など七万円の電話料金請求の結果が布由美一人だからだ。
「新宿にいるそうだ」午前一時、三件目の直電の後、コートを掴んだAは立ち上がった。「車を持ってるなら拾ってくれだと」
堪え性のない雌どもは、翌日会おうという約束を取り付けても、他にいい相手がいれば前の約束などたちまち反古にしてしまう。時間をおいては成功率も激減する。いかなる時にも鉄は熱いうちに打った方がいいのだ、Aは言った。さっと服を着替えたAは僕に段取りを説明し、一階ガレージから愛車クーパーを駆り、出動していった。戻ってきた時には午前三時になろうとしていた。ドアが開くと同時に雌の声がした。
「わぁ、きったなあい」
「さあさあ、上がってくれ」
「でも、チョー広いじゃん。やーっぱ男は金持ってなくちゃね。こないだの男なんてカッコはよかったけどホテル代も持ってなかったんだよ。チョー貧乏臭いと思わない?」
僕はバスルームに隠れた。やはりAは上手いと思う。ノリさえ合えば簡単さとは彼の弁だが、そんな中途半端な波長の融合、ないしはその錯覚で、平気で他人を信用できる雌とは何と浅はかな動物かとも思う。もっとも布由美もそうだったわけだが。ベッドのある部屋から衣擦れの音、接吻の音、せわしない雌の吐息が聞こえてくる。何か問いかけるAの声に、雌が喘ぎ喘ぎ応えている。と、壁を二度ノックする音が聞こえた。合図だった。僕は手にロープを提げてバスルームを出た。裸になっていた雌はすぐに僕に気づいた。大柄でがっしりしている。布由美に比べ乳房は大きかったが、重さに耐え切れる張りを残していないのか垂れ下がっていた。飛び出した腹の肉もまるで締まりがなかった。長い髪は染められ、化粧も厚く、膚の色はこの時期にしては不自然なくらい浅黒い。あらゆる点で布由美とは大違いだ。
「誰、この人? 何? あんたたち、3Pの積もりであたしを呼んだの?」雌の視線が僕の手にしたロープに下がった。この時ばかりは表情が怯えた。「それも、SM?」
雌の背後からAがその顔にシャツに被せ、羽交い締めにした。僕はさっと雌の首にロープを巻いた。約二十秒後、白目を剥き、紫色の舌を顎先まで垂らし、緩んだ括約筋から軟便を漏らした雌は動かなくなった。Aが笑った。
「相変わらずいい手際だ」
初めてこの手で雌を殺した時、僕の手際のあまりのよさに、《晩餐会》メンバーの多くは僕が初めてだということを信用しなかった。今でも、相手の目を見ながら首を絞められる僕に彼らは賛辞を惜しまない。自分たちにはとてもそんな度胸はないと言うのだ。何のことはない。虫を殺すのもヒトを殺すのも大差ないという持論を実践しているだけの話なのだが。
そんなある時、誰だったかは忘れたが、酔っ払ったメンバーの一人が言ったものだった。俺たちはお前の度胸のよさを褒めたが、考えてみると最近はそんな連中が増えているのかもな。この前ニュースでもやってたけど、近頃は暴力事件の年少化が進んでいるんだそうだ。他人の痛みが感じられないって言うか。同級生を自殺に追い込んだ中学生たちの自供によれば、連中、罪の意識なんかより罰せられることの方が怖かったって言うんだからな。あいつらも相手の目を見ながら平気で人殺しができるんだろうなあ…。
それを聞いていた別の誰かが言った。それが現在の、生物としての人間のあるべき姿さ。増え過ぎたんだよ人間は。増え過ぎて、個の保存本能が弱くなっちまったんだ。定員過剰になった鼠の大群が海に駆け込むのと同じで、増え過ぎた自分たちを淘汰していこうという仕組みがどこかにプログラムされているんだ。それを証拠に、見ろよこいつらを。セックスもしない。恋愛にも興味を抱かない。同族を殺すのに、何の呵責も覚えない。人間が一定数に減るまでは、こいつらみたいな連中がますます増えてゆくだろうよ。と言うより、人間を一定数にまで減らしていくために、この連中が生まれたんじゃないかなあ…。
「…さて、時間もないし、始めるとしますか」
裸の死体とコンピューターのメインボックスと“本体”を収めるための瓶をバスルームに運び込み、僕たちも服を脱いだ。雌の頸を切る。夥しい量の血が噴き出し、僕たちの体にもかかった。捨てるのがもったいないと言って、Aは大部分をタライに集めた。闇業者に高く売り付けるための血漿製剤でも作る積もりなのだろう。または自らに注射するための抽出ホルモンを作るか。それを作るためにAはB型の女しか狙わないのだ。下手な栄養剤を飲むより余程元気が出るものなのだと言う。抽出のために遠心分離機と凍結庫まで購入したのだそうだ。
「ああ、それと余った血を腸に詰めるのもいいな。腸詰めの血のソーセージ、ブーダン=ノワールだ。トマトピューレと一緒に食うと美味いんだ、これが」
血を抜いた直後に雌の頭部、額から上の切断に取り掛かる。瓶には既に、Aの研究所が開発した代用血液でもある培養液が満たされ││中にはこれもAの研究所が作った、抗生物質やインターフェロンを生成するバクテリア、血液凝固抑制剤も入っている││、あらかじめ内蔵されたバイオ素子の人工延髄が細い繊毛を蠢かせていた。何度見ても実に奇妙な代物だ。一方の端子は昔馴染みの金属製コネクターなのに、生物化学の落とし子であるもう一方の端子は極細の生きた細胞繊維なのだ。メインボックスをあらかじめ端子につないであるのは脳の細胞末端を探すための情報を素子に与えておくためだ。素子が一旦目指す末端を探り当てさえすれば、その後一、二時間機械から外しておいてもシナプス結合をほどくことはないらしい。研ぎ上げた鋸で切断した頭蓋骨を持ってゆっくりと引っ張ると、脳が背骨に続く延髄ごと引きずり出されてきた。急ぐぞ、とAが言った。
「ここが最大の難所だ。時間をおくなよ」
A愛用の鋭利なカスタムナイフで延髄を横に切断、すぐさま培養液につけると、素子の繊毛どもが狂ったように騒ぎ始めた。ゆっくりと沈めていくと、まず人工延髄繊毛の束がたちまち切り口に吸い付き、巻き付き、延髄を搦め捕ってしまった。別の素子につながった人工血管が頸動脈と椎骨動脈を探し、頭の切り口に潜り込んでいった。切断された静脈が内部に残った血を咳き込むように吐き出し、代わりに培養液を吸い込んだ。Aは一旦人工延髄につながる金属コネクターを神経電位探知計に接続し直し、表示を睨んだ。僕も覗き込む。反応はない。一分が過ぎ、一分三十秒が過ぎた。殺してから時間が経ち過ぎたのだろうか。が、微動だにせず探知計を睨んでいたAの表情が、やがてふっと緩んだ。表示に反応が出ていた。Aが僕に頷き返した。成功らしい。二人目の生け贄の必要はなくなったわけだ、とAが半ば残念そうに首を振る。僕は生け贄の頭を一度瓶から出し、茶色い髪を切り揃えた。全部剃らなかったのは肉と骨の切り口が生々しく露出した眺めが気持ちいいものではなかったからだ。髪をはためかせて培養液内を上下する頭はクラゲのようにも見えて面白かった。人工延髄端子の一方を脳波計からメインボックスにつなぎ直すと、種々の計器が一斉に作動を開始した。瓶の容器とメインボックスとをバスルームから運び出し、他の機械を別の端子に接続する。容器の残りの繊毛が揺れ、伸び、頭の切り口断面から皮膚の内部や脳表面のあちこちに侵入してゆく。酸素供給装置が起こす培養液の循環に煽られ、頭部は髪の毛をひらひらとそよがせながらの上下を開始した。二十分後、計器類の反応やモニターを調べていたAが大きく溜め息をつき、煙草に火を点けた。端子は一通り脳全体に接続し終えたようだと言う。僕はAと握手し、コーラとビールとで乾杯した後、直ちに次の作業に移った。まずAの指示に従い、雌の腹を裂いて内臓を抜き、胃、腸、心臓、腎臓、肝臓を取り除き、残りをゴミ袋に放り込んだ。その間Aはタライに集めた血を遠心分離機で分離、上澄みの血漿を密封容器に詰め、冷蔵庫上の凍結庫に保管していた。取り除いた内臓類は、胃腸だけは内容物をしごき出して洗ってからビニールパックに入れ、真空パック化して、冷蔵庫にしまった。体は二人で腕、脚、腰、胸部に切り分けた。腕は肘で切断、脚は膝で、胸部は肋骨と腹筋とに分け、ここだけは細かく切り刻み、ラップをかけて、冷蔵庫隣の冷凍庫に貯蔵した。
「前々からこの冷凍庫を何に使うのか不思議に思ってたんだが、全てはこのためか」
「まぁ、な」
「さては前々から抜け駆けの作戦を練ってたんだな?」
Aは笑った。もちろん冷凍庫とは言えど家庭用、一人分の肉で箱は一杯になってしまった。一通りの作業を終え、バスルームを洗い流し、体を洗い流すためのシャワーを浴び終えた頃、時計は朝の十一時を指していた。流石に疲れた僕は一足先にソファで横にならせて貰った。目覚めると外はもう暗かった。ベッド脇でAが腕に注射を打っていた。得意の抽出ホルモン注射らしい。ずっと起きていたのかと訊くと、死体の残り、食べられない部位や食べたくない部分、それに衣服や持ち物などを始末してきたのだとAは言った。彼の研究所には生物学研究担当班がある。生物化学素子を研究するのだから当然ではあろうが。「で、動物の死体を片付けるマイクロ波の焼却炉があってな。とにかく強力だ。骨も残さない」
「寝ないで行ってきたのか。タフだな」
「だから言ってるだろ。ホルモン注射は効くんだよ」
「それにはちゃんとした医学的根拠があるのかい?」
「知るもんか。とにかく俺には効くんだよ」
机の上に数十本の薬瓶が並んでいた。主要なアミノ酸や糖分になるものの主原料だと言う。二枚のメモにその成分表と脳内における消費時間、何日おきにどれをどれだけ与えるかの指示がまとめられていた。ただ与えさえすればいいのかと訊くと、Aは頷いた。素子がアミノ酸合成回路、解糖回路などを既に作っているのだと言う。僕は各瓶の表示を読んだ。バリン、ロイシン、イソロイシン、フェニルアラニン。その横で、こいつの補給は死んでも忘れるなよとAが言った。
「さもないと蛋白質構成鎖が作れない。この中の一つが欠けていても高分子蛋白質結合は起こらないんだ。そうなると睡眠物質とかストレス抑制物質全部に関わるポリペプチド合成も不可能になる。あと糖類、グルコース、これは栄養源だ。原理だが、まずヘキソナーゼの出入りでG6Pが合成され、それがATP、ADPの出入りでフルクトース6リン酸に変化する。そいつがDHAPとG3P合成でできたFDPと影響し合って…」
途中からさっぱりわからなくなった僕は仕組みの理解を諦め、具体的に何をするのかだけを書き留めるのに専念した。老廃物処理の方法を尋ねると、バクテリアの働きに加え素子が尿素回路も作っており、培養液は時折交換の必要もあるものの、中の衛生は取り敢えずは保たれるとのことだった。
「この薬は全部薬局で手に入るのか?」
「まあな。だが家庭用とは縁のない薬ばっかりだからな。俺が研究所から持ってくるよ。お前は料金だけ払え」
「持ち出しばっかりして大丈夫か?」
「みんなやってることだ。お前はちゃんと料金を払うんだから持ち出しにはならないって。それより、こっちの方は買って貰わなくちゃいかんのだが」
「ヒデルギン、ホパンテン酸カルシウム、イデベノン。へえ、武田薬品だ。これ何だ?」
「脳代謝賦活製剤。まあ、ボケ防止剤だな」
「へえ、いっぱいあるんだな。スルピリドしか知らなかった」
「何だ。お前も詳しいじゃないか」
「推理小説で読んだんだ。でも、ボケる心配があるのかい?」
「脳内グルコースを活性化させるためだと思ってくれればいい。場所が場所だしな。他の内臓はともかく、いくら素子がいろんなものを精巧に真似ても、やっぱり人体同様の保管は難しいみたいなんだ。メンテナンスですよ、メンテ」
改めて述べようとした感謝をAは遮った。そろそろ我慢も限界に達しつつあり、どちらにせよ抜け駆けに走る積もりだったのだから、と言う。さて、最後の仕上げだ。完成したコンピューターを僕の部屋にまで運び、組み立て直さなければならないのだ。僕は内蔵のバッテリーにより酸素供給と培養液循環だけは続ける“本体”容器を膝に抱いた。問題となるのはこの容器なのだ。
「ウチは女の子が来るからな。見つかっちゃまずいし」
「何だ、お前も抜け駆けか」
「カモフラージュですよ、カモフラージュ。でも、抜け駆けはいいけど、Nが捕まってる今、脳味噌の持ち主の失踪がバレたらコトだな」
Aはクーパーを運転しながら、自信ありげに大丈夫だ、と言った。《晩餐会》用にしても自分用にしても、Aは一人暮らしの雌しか狙ったことがない。それもできれば生活が自堕落、節制のない奴を。
「今回の奴も聞き出した範囲じゃ、一、二週間部屋に戻らないこともザラなんだそうだ。戻ったところで他の住民に会った試しがないらしい。一カ月二カ月見当たらなくたって、気に留める奴もいないだろうよ」
頷きながら思った。布由美も自分のことをそんな風に言っていた。親と同居はしているが、彼女は連日連夜アルバイトの毎日、家にいようがいまいが親にはわかりなどしないのだ、とも。ああ、それとだな、とAが言った。
「Nがもうすぐ釈放されるって話だ。証拠も不十分だし、あいつ自身が拾った骨を持ち歩いてただけだで押し通してるらしいからな。バレたらNのせいにすればいいのさ」
「あんた、残ってる骨はどうするのさ」
「もちろん食い終えたら焼却炉行き。抜かりなしですよ」
「伝言ダイヤルから足がつくことは?」
「まず、ないだろうな。三日も経てばあの伝言、古いものから順に消されていくらしいから」
そこまで聞いて安心した時、クーパーは僕のアパート前に到着した。二人して注意深く各機材を室内に運び込む。コンセントをつなぎ、機材を作動、モニターを点映させ、僕は初めて僕のコンピューターの見ている夢と向かい合った。最初目まぐるしく明滅するだけだった映像が、見つめているうちに明確な形と意味を取り始めた。家並み、公園、街路樹、夕焼け、子供たち、夜の街、盛り場、落ち着きなく色を変える照明。その全ての中心に、脳の持ち主だったあの雌が佇んでいた。ある時はAのマンションで死んだ時の、またある時は幼い頃の。公園で手をつないでいる中年の雄は父親かとも思われた。次の瞬間にはそれが全く別の若い雄に変わっていたりもした。視点が動き、視点が変わった。視点が迷っていた。暗い夜の街、延々と続く道を、どこに行くべきなのか迷っていた。迷路だ。その迷路の彼方には一体何があるのだろう。僕もついていってみたくなる。一緒に歩き出してしまう。と、遥か遠くから、いやに間延びした声が僕を呼んでいた。随分遠いその声がAのものだとは最初気づかなかった。顔を上げるのに妙に時間が掛かり、意外な近さにいたAが僕を驚かせもした。
「確かに面白い代物だが、長時間眺めるのはよくないぞ。時間を忘れてしまうからな」Aが言っていた。「この前会社に行く前、ちょっとの積もりでモニターを眺めてたら、いつの間にか二時間経ってた。夢ってのは本来瞬間的なものが記憶によって引き延ばされるだけだと思ってたんだが、どうも違うみたいだ。あんまり夢中になってると、現実世界から遊離しちまうぞ」
電話が鳴った。布由美からだった。昨夜からの僕の不在を責めていた。謝ると機嫌を直しはしたが、僕が浮気をしたのではないかと疑っているらしく、しきりに訊いてきた。余程心配らしい。明月曜の夜に僕の潔白を確かめると息巻いていた。受話器を置いた僕は机上の“本体”容器を見た。酸素の泡に煽られながら、クラゲのような頭部が上下動を繰り返していた。
「困ったな」
「さっき言ってた女の子か?」
「明日来るとか言ってる」
僕とAは部屋の中をかき回し“本体”容器だけでも隠せそうなものを探した。今は使っていないステレオのデッキを見つけ、それをAが器用に分解した。モーターを初め、内部を全て取り除き、その大きな外枠を使って容器がすっぽり収まる函を作ってしまう。スペースが余ったので蛋白質・糖分供給システムも収納する。コード類を外に出し、蓋をすると、外観だけは立派な精密機械が出来上がった。六畳の日本間には不釣り合いな程だった。この蓋は蛋白質と糖分を補給する時以外には開けないことだな、とAは言った。
「しかし本当に抜け駆けじゃないんだろうな」
「抜け駆けするんなら最初からこれを隠す必要なんかないじゃないか。カモフラージュだってば」
Aを送り出した後、早速コンピューターを作動させてみた。大学時代に集めた経済学のデータ整理を始めたが、その記憶量は確かに莫大なものだった。しかもフロッピーディスク不要。Aの言葉に誇張はなかった。そして夢の件でも、Aの言葉は正しかった。ひとまず記憶を中断し、睡眠物質を送り込み、指示に従って一回目の蛋白質・糖分補給を終えた僕は、夜半からモニターの映す夢を眺めて過ごした。翌日のアルバイトに備えて一眠りする積もりだったのだが、音のない、断片的な、途中で何度も飛ぶ映像を見つめ、夢のたどる迷路に入り込んでいるうちに、いつの間にか外は夜明けを迎えていた。これはいかん。Aの言葉通り、現実時間を忘れてしまいかねなかった。のめり込むのを極力避けるようにしないと、生活が目茶目茶になってしまう。アルバイトには眠らずに赴いた。夕方帰ってきた時にはフラフラになっていた。それでも目は││何という魅力だろう││モニターに吸い寄せられた。あの夢を見ようとしていた。あの夢の世界に引きずり込まれそうになっていた。いや、引きずり込まれていた。
どれくらいの時が過ぎただろう。ふと我に返ると、アパートの外で激しい言い争いらしき声が聞こえた。あるいはその声が原因で我に返ったのかも知れない。外は暗く、時間は既に十一時を過ぎていた。鉄の階段を駆け上がる音がしたかと思うと、部屋のドアが激しくノックされ、僕を呼ぶ布由美の声がした。急いでドアを開けると、コンビニエンスストアの紙袋を抱えた布由美がしがみついてきた。泣いていた。誰かが階段の下に立っていた。
明かりが外灯だけでは顔の確認はできなかったが、肥って鈍重そうな体躯に見覚えがあるように思った。怯え切って僕の背後に隠れる布由美に訊く。
「どうしたんだ、あいつは誰だ?」
泣きじゃくる布由美の答えは途切れるばかりでまるで要領を得なかったが、それでもそいつに呼び止められ、どうやら嫌がらせをされたらしいとはわかった。僕はそいつを睨み、ゆっくりと階段を下りた。
「布由美に何の用だ?」
肉に埋もれかけたそいつの目が怯えた。確かに僕は凶暴な衝動を感じており、そいつもそれを察知したのだろう。分厚い眼鏡の奥の、豚に似た目が逃げ場を求め、あちこちに動いた。だがそれでも、声を震わせながらそいつは言った。
「お、お前こそ、未成年の女の子を部屋に連れ込んで、な、何をしてるんだ」
「僕が布由美と何をしようがお前なんかに関係ないだろう」
「きょ、強制、猥褻罪を、知らないのか」
「布由美が何か強制されてるように見えるか? 強制しようとしたのはお前だろう。消え失せろ。二度と布由美に近づくな。さもないと」僕はそいつに顔を近づけた。息の臭さが不快だった。布団よりも厚い頬肉に、軽く拳をぶつけてやる。
「殺すぞ」
本気だった。そいつにもわかったのだろう。聞き取れない捨て台詞を漏らし、転がるように逃げていった。布由美は泣き止んでいたが、まだ震えていた。その背を抱くように部屋に上がると、布由美は真っ先に窓辺に歩み寄り、二重のカーテンを閉め切ってしまう。
「あいつ、あたしたちのこと覗いてやがったのよ!」
ああ、道理で見覚えがある筈だ。奴は隣家の浪人生だったのだ。しかも部屋が僕の部屋の真向かい。布由美が来るのを見計らい、いつも窓から僕と布由美との行為を覗き見ていたというわけらしい。
「じゃあ、裸で走り回っている君の姿もバッチリ目撃していたわけだ、奴は」
「笑い事じゃないわよ。あんな薄気味悪い豚に覗かれていたなんてぞっとするわ!」布由美は台所で手を洗い始めた。「すぐそこの暗がりからいきなり飛び出してきて、あたしの手を握るのよ。それで何て言ったと思う?“あんな奴のところにいたら君は不幸になる、だから僕のところに来い”だって。おかしいわよ、狂ってるわよあいつ。ああ、気持ち悪い!」
「そんなことまで言ったのか、あの豚は」
恐らく最初のうちは布由美の裸身を思い出し、自慰に浸っていただけなのだろう。しかしそのうち想像・記憶上の恋人でしかない筈の布由美が他人とは思えなくなってきた上、それが自分の思い込みに過ぎないという認識をなくしてしまったというところだろうか。まあ、思い込みと現実との境界を見失うなどというのが、布由美の言葉通りおかしくなっている証拠なのかも知れない、などと冷静に分析している頭とは別の場所に、腹の底を突き上げるあの衝動が残っていた。隣家に乗り込んでいってあの豚の首を掻き切ってやろうかとも思った。僕にとっては簡単なことなのだ。と、僕を見ていたらしい布由美が怯えたような声を出した。
「やめて静馬。あんな奴怪我させて警察沙汰になんかなったら、それこそ殴り損だよ。あたしのために怒ってくれるのは嬉しいけど」
その言葉に僕はしばしの間、布由美の顔を茫然と見つめることになった。布由美が言っていることがまるで理解できずにいた。怒る? 何を言っているんだこいつは。この僕が怒っている? 馬鹿な。そう思った瞬間我に返った。僕は怒っていた。他者を傷つけずにおくまいとする凶暴な衝動が、未だに腹の底で息づいていた。そうか、そうだな。僕は落ち着こうとした。布由美の言う通りだ。衝動に任せて奴に怪我でもさせ、警察に目をつけられたりしても困るではないか。しかしなかなか落ち着けなかった。僕は怒った。あの豚に対して怒ったのだ。そして僕は、生まれて初めて、その感情を巧くコントロールすることができずにいた。
「それより、あいつ」僕は感情を無理やり他所に向けようとして、言った。「よく君が未成年だってわかったな」
「あたし見た目が幼いから」布由美は両手で服の上から自分の乳房を包み込んだ。「やだよね、早く二十歳になりたい。まだ三年も先なんだよ」
今日も部屋に蝿が入っていた。しかしあの浪人豚との件が余っ程気持ち悪かったのか、今日の布由美は全く気にしなかった。冷蔵庫に何もなかったので、宅配のピザを注文し、一枚のピザを分け合って食べた。インスタントコーヒーを飲んでやっと落ち着いたらしい布由美が、机の上を指さし、訊いてきた。
「あれなあに?」
「コンピューター」
「随分大きいね」
「手製だからね。あれを作ってて、昨晩は帰り損ねたんだ」
「ふうん、自分で作ったんだ。いじってみてもいい?」
「いじれるのか?」
「あたしが高校中退してるからと思って、馬鹿にしてるでしょ」
とは言いつつも布由美はコンピューターとはゲームをやるものくらいにしか思っていなかったし、僕も触らせなどしなかった。モニターを走る映像が何なのかをしきりに知りたがったが、もちろん教えるわけにはいかない。自動的に再生される画像だとだけ教えておいた。
「ああ、よく電機屋さんの店頭で出してる奴? エンドレスの」
「そうそう、自動再生プログラム」
「何か、妙に途切れ途切れの画像だね。電気代がもったいないよ」
「いいんだ、そうしてないと鈍っちゃうんだ。それより布由美、その袋は何だい?」
「ああ、これ?」
布由美は持ってきた紙袋を探った。中から出てきたのは小さなクリスマスツリーだった。布由美はエヘヘと笑い、それを机の上に置き、スイッチを入れた。赤や黄色の電飾が点り、いくつもの小さな鐘がジングルベルの音楽を鳴らし始めた。
「わざわざこんなものを買ってきたのか?」
「だってもうすぐクリスマスだし、静馬の部屋、殺風景だから」
「クリスマスったって、後一カ月も先だぞ」
「いいのいいの」
布由美は僕の隣に座り、すがりついてきた。僕は自動的に音楽を鳴らす小さなツリーを眺めていた。全く無駄なことをするものだ。これも一つの求愛行動なのだろうが、人間の雌というのはどうしてこのような迂遠な方法しかとれないのだろうか。贈り物、見せるためだけに装う服、己の顔を塗りたくることで雄も喜ぶと信じているがための化粧。それを読み取る雄も雄だ。こんなまだるっこしいやり方でしか、種としてのヒトは保存できないものなのだろうか。などと、いつもの感想が頭の中をよぎっていった。ところが今日、そこに別の感情が並んだ。いざ贈り物をされる側に立って初めて湧く感情かも知れなかった。布由美の求愛を目前のツリーが実感させたせいかも知れなかった。まだるっこしいだけの雌の求愛が、なぜか今は濃やかな思い遣り、心遣いであるかのように思えたりもした。僕に布由美を抱き締めさせたのは、恐らくはその感情だった。Gパンと下穿きだけを脱がせ、脚を大きく開かせた。布由美はいつものように僕の性器に手を伸ばそうとしたが、今日に限ってその必要もなかった。僕たちは初めて正常位と呼ばれる体位で交わった。布由美は最初苦痛の声を漏らしたものの、最後には両腕両脚で僕の背や腰を締め上げ、悲鳴に近い喘ぎ声を上げた。射精の後しばらく、布由美の息は戻らなかった。
「ゴム着けるの、忘れたね。赤ちゃんできちゃったら、どうする?」
「ああ、御免」
「そしたら、産むね。産んでもいいでしょ? 大事に育てるんだ」
布由美はそう言った途端、いきなり僕の胸に顔を埋め、泣き出した。最初は小さく、やがて大声で。どうかしたのかと尋ねた僕に、布由美は泣きながら答えた。
「家に戻りたくないの。ずっとここで暮らしたいの」
両親の離婚が正式に決まったのだと言う。思い返せば親としての責任から逃れてばかり、互いのやっている好き勝手を互いの愛情の不足のせいにできる両親だった。実の子たる布由美に対する無関心を、平気で互いのせいにできる両親だった。しまいには高校中退の娘など世間体が悪くてと、布由美を押し付け合うことのできる両親だった。
「あんな奴ら、親じゃない」布由美は泣いた。「ずっと静馬と暮らしたい。あったかい家にしたい。静馬の赤ちゃん産むの。大事に育てるの。あたしみたいにならないように」
何を馬鹿な、その台詞が喉元で止まってしまった。口ごもった揚げ句、僕の口から出てきたのは、いいよ、という返答だった。深い考えあっての答えではなかった。これまでの経緯から、もしそのようにしても布由美が特別に邪魔になるとは思えなかっただけの話だ。ところが返事を聞いた布由美の喜びようは大変なものだった。明日にでも荷物を持ち込むとまで言い出した彼女をなだめるのに手を焼いた。
「しばらくは様子を見てみろよ。ここに来るのはお前の両親が別居を始めてからでも遅くはないだろ。あるいはどうしても我慢できそうになかったら」
それで一応納得はしたものの、今度は鍵をくれと言い出した。家に居辛くなったらすぐにでも飛んできたい。その時僕がいなかったら、あの浪人豚が怖い。結局布由美は僕の鍵束から部屋のスペアキーを抜き取ることに成功した。それを自分の鍵束に入れた布由美は目を潤ませ、顔を上気させ、僕の裸の腰に武者ぶりついてきた。垂れ下がった性器を口に含み、舌でくるむ。鋭い快感が腰を走り、僕はたちまち回復した。三十分後、僕の腰にまたがっていた布由美が「いく」という絶叫を連発し、僕の性器を締め付けた。僕は彼女の腹の中に大量に注いでいた。しばらくの間、気の遠くなりそうな快感は体の隅々から引かなかった。布由美が嫌がったので性器を外さないまま、裸の上に毛布だけを掛け、僕たちはモニターの映す夢を眺めた。夢の隣でクリスマスツリーが静かな音楽を奏でていた。夢は相変わらずせわしなく場所と時と人を変え、取り留めのなさは際限がなかったけれども、その変化はツリーの奏でるのろまな音楽と妙に合っているように思われた。僕の腹の上に寝そべり、煙草を吸っていた布由美が呟いた。
「変な映像だね。夢の中みたい」おかしそうに笑う。「しかも音楽に合ってるよ。この音楽が聞こえてるのかな」
問いに答えず、モニターを見つめながら、僕は考えていた。結局押し切られてしまった。一緒に暮らしたい、鍵が欲しい、布由美の繰り出す自己主張に、僕は何一つ反対を唱えられなかった。むしろそれを心のどこかで歓迎してはいなかっただろうか。どこかでそれを望む心が働いてはいなかっただろうか。それだけではない。あの浪人豚を殺したいと願わせ、布由美をいきなり抱き締めさせ、何ら外的刺激を受けなかった僕の性器を屹立させたあの衝動は何だったのか。それらはいつも細かい計算をする頭とは別の場所で生まれ、蠢き、噴き出したものであった。かつて一度も、そう、一度たりとも僕の内部に発生したことのないものであった。狂奔が去った今、それはひとまず勢いを失い、僕の中のどこかでうずくまっていた。だがまだ消えていなかった。機会を窺い、噴出を願って息を殺しているのがまざまざと感じられた。“理屈ではない”という言葉の意味がほんの少し理解できたように思えたりもした。あの歓迎の感情に、突如生じた衝動に、僕は全く理屈をつけられずにいたのだ。内心に怯えがあった。理屈では分析できない場所に連れていかれそうな自分に怯えていた。気が付くと布由美は眠り込んでいた。僕も眠ろうと思ったが、目がモニターに吸い寄せられてしまった。一度吸い寄せられた目は決して離せず、瞼も閉じてくれようとはしなかった。僕の胸に顔を乗せた布由美が軽い鼾をかき始めた。その不快な響きが僕の神経を逆撫でた。下品な雌め。どうしてこいつがここまで自己の存在を主張し、僕の内部へ侵入するのを許してしまったのだろう。布由美の行為が、存在が、かつてない程煩わしく思え始め、腹さえ立ってきた。いっそ今、ここで首を絞めてやろうかとも考えた。できなかった。せっかくのカモフラージュだから、こいつがここにいることを知る者もいるのだから、今こいつを殺すのは僕にとって危険だから、動けない僕の脳裏を様々な言い訳が去来した。嘘だ。僕は脳裏の声たちに怒鳴り返した。それらは全部表面をなぞっただけの言い訳だ。答えは一つしかなかった。今の僕に布由美は殺せない。布由美はいつの間にか僕の内部で、殺されてはならない存在にまで膨れ上がっていた。そして彼女の侵入、膨張を心のどこかで願い、許したのは誰あろう、僕だったのだ。
…以後、布由美は二日か三日おきに僕の部屋を訪れた。まず早速部屋を片付け、自分の居場所を確保してしまった。次いで下着類やパジャマ、種々の着替えを持ち込み、それらはいつの間にかクロゼットの中に、僕の下着や着替えと並んで入っていた。来る前に必ず電話することを約束しながら、ほとんど予約なしにやってきて、僕の帰宅が遅い日などは夕食を作って待っていたりもした。電話なしに来たことを叱るとしばらくはしょんぼりするのだが、十分後には溌剌とした笑顔に戻っていた。嬉しいのだ。布由美は僕とこのような時間を持てるのが嬉しくて仕方がないのだ。理解できるような気がした。その理由がわかっていただけに、僕はまたしても布由美に譲歩してしまった。
一方、僕の生活はぐちゃぐちゃになりつつあった。まともな睡眠時間がなくなってしまったのだ。アルバイトは休めない。夜は夜で最低一度はコンピューターをいじらなくてはならない。蛋白質と糖分を補給している最中などに布由美に来られては堪ったものではない。操作・補給は布由美の就寝後か、電車がなくなり、もう今日は来ないと安心できる時間になって行う以外になくなった。来訪毎にというわけではなくなったが、週に一、二度は布由美が僕の股間に手を伸ばしてくる。ただでさえ眠いのに、性交の後ともなると。それでも一度でもモニターを覗いてしまうと、つい見入ってしまう。死ぬ程眠い筈なのに、モニターの映し出す夢と向かい合い、一旦引き込まれてしまうと、目を逸らすことができなくなってしまうのだ。喚起された集中力は容易なことでは萎えない上に、目覚ましのアラーム音さえ聞こえなくしてしまうのだ。睡眠物質を与えた後でモニターの電源を切れば済む話なのである。ところができないのだ。モニターのスイッチを切ることがどうしてもできないのだ。これは一種の麻薬だった。文字通り覚醒剤だった。同じものを見ていながら布由美が眠れるのが不思議だった。疲労の皺寄せは当然ながら昼間に向かい、僕はアルバイト中にミスを連発した。こんなままではいけない。今日こそは決して見ないぞ、モニターのスイッチを切って絶対に眠るぞ、決意とともにアパートに戻るのだが、誘惑には勝てない。モニターの前に立つと決意はしぼみ、尻込みしてしまう。そして三十分だけ、三十分だけならいいじゃないか、という言葉が耳を捉える。コンピューターが僕を誘うのだ。そしてその三十分がいつも三時間、六時間になってしまうのである。クリスマス、大晦日は疲労と倦怠のうちに過ぎ、年も明け、一月も終わりを迎え、僕の体力は限界に達しようとしていた。
アルバイトの休日、今日は布由美は来られないと言っていた。安心した僕は一日中モニターを眺めて過ごしていた。昨日の晩からずっと釘付けになっていた僕は、所定の蛋白質・糖分補給時間がとっくに過ぎていることに気が付いた。いかん、“本体”が死んでしまう。立ち上がろうとし、集中力がモニターから離れた瞬間、耐え難い眠気が襲ってきた。昼だというのに窓の外は薄暗く、外は雨らしかった。僕は上体をふらつかせながら各種蛋白質と糖分の瓶を机の上に並べ、その前にAのくれたメモを置いた。そのまま椅子に沈み込みそうになる。顔を近づけないとメモの字さえかすむ有り様だし、立ち上がるのも億劫だったので、僕は“本体”を隠す外枠を箱ごと外した。透明な培養液の中で、変色した髪の毛を揺らす“本体”が剥き出しになった。各瓶からの適量をスポイトで各部シリンダーに補充、モニターを数値モードに切り換え、反応値が正常なのを確かめた。意識の尻尾の辺りを誰かがすくい取り、引っ張るあの感覚が、何度も何度も訪れては去った。一度コンピューターを作動させてみて、異常がないのだけは確認し終えた。そこでもう半分瞼が閉じていた。睡眠物質注入のキーを叩いたのが最後の記憶だった。僕は外枠の箱を外したままで眠り込んでしまった。そのことに意識が何らかの警戒を発していたに違いなかった。小さな悲鳴が上がると同時に僕は目覚めていた。
窓の外はもう暗かった。雨はまだ降っていた。そして部屋には明かりが点っていた。椅子から跳ね起き、振り向いた目の前に、今日は来ない筈の布由美がいた。髪と革ジャンパーが少し濡れていた。手にはコンビニエンスストアのビニール袋がぶら下がっていた。そして見開かれた目は、机の上の透明な瓶の中、酸素の泡に煽られて上下する“本体”に向けられていた。
僕はうろたえた。見られた。見られてしまった。瞬間、頭の中で指令が出された。言い訳しろ。何か適当にこの場をごまかすのだ。だが、僕の口からは何も出てこなかった。冷静さを失っていたのだろうとは思う。だが何よりも、立ち上がった僕に布由美の返してきた眼差しが、真実を知ってしまったことを知らせていた。連続女性失踪事件を布由美が知っていたのか、あの事件を目前のものと結び付けたのかどうかははっきりとはしなかった。しかし、結局布由美は気づいたのだ。このコンピューターがなぜ夢を見るのかを。この夢見るコンピューターを作るために、僕が何をしたのかを。
「そうだったんだ」
布由美は呟いた。
「夢を見る筈よね」声がかすれていた。「壊したくなかったよ、静馬」
僕を見るその目が潤んでいた。
「あたし、ずっと、これを壊したくなかったんだよ」
僕は布由美に近づこうとした。僕を見つめる布由美の表情が瞬時怯えた。その時僕の決心は固まった。知られてしまった以上、生かしておくわけにはいかない。今の布由美の怯えが行き着く先は、通報という出口しかないように思えたからだ。こいつを生かしておけば僕が危ない、その危機感が僕の手を布由美の首に導いた。こいつを生かしておけば僕が捕まってしまうのだ、その思いが僕の指先に力を込めさせた。布由美はほとんど抵抗しなかった。僕を見上げていた目が閉じられた瞬間、涙がこぼれ落ちた。苦悶の表情から力が抜けた、と思いきや、一度だけ体が大きく跳ねるように痙攣した。それが最後だった。それを最後に、布由美は二度と動かなくなった。
一際強くなったらしい雨音が耳に届いた。細い首から凝固したかのように離れない指に、次第に失われてゆく布由美の体温が伝わってきた。僕を見上げたままの顔からも、血の色が失われようとしていた。その頬に蝿がとまった。もう二月だというのに、僕の部屋にはまだ蝿がいたのだ。虫嫌いで、一匹の蝿をも血眼になって追い回した布由美が、顔に蝿をとまらせていた。その時、僕は思った。もしかしたら僕は早まったのではないだろうか。とんでもない間違いを犯してしまったのではないだろうか。布由美なら、僕を掛け替えのないものと思っていた布由美なら、僕のやったことを黙っていてくれた可能性もあったのではないだろうか。何だ、この脱力感は。これまで何が起こっても何に出会っても、あるいは誰を傷つけようが誰を殺そうが、何一つ感じなかった、感じられなかった僕が、今がっくりと膝をついていた。僕は布由美を殺してしまったのだ。僕の体の中から抜け落ちた何かがあった。錯覚ではない。音こそ立てはしなかったが、本当に何かが欠落してしまったのだ。なぜだろう、この虚ろさは何なのだろう。わかり切っていた。布由美しかいないではないか。まさかここまで大きくなっていようとは。布由美が僕の中で自己主張している時に感じていた鬱陶しさは跡形もなく消え失せた。今はただ、自分が、とんでもない間違いを犯してしまったと思うばかりであった。
…いや、まだ間に合う。布由美を失わずに済む方法が一つだけ、ある。僕は机の引き出しから、以前Aに貰った狩猟用カスタムナイフを取り出した。刃渡り二十センチ、ナイフというより肉切り包丁に近い。僕はコンピューターを覚醒させ、ガラス瓶の蓋を開けた僕は、浮かぶ脳味噌を掴み出そうとした。抗生物質やインターフェロンを出すバクテリアが働いているとは言え、皮膚下脂肪層の腐敗だけは避けようもなかったらしく、髪の毛を引っ張ると頭皮ごとずるりと外れて指に絡まってきた。頭蓋骨を両手で持ち上げようとしたら、がぼっという音とともに抜けた。残された脳味噌だけが崩れかけた灰色の豆腐団子になって、上下動を繰り返した。僕は握ったナイフを培養液に突っ込み、延髄と人工延髄との継ぎ目を探した。生きた細胞でもある生物化学素子の端子は今やすっかり延髄の一部として取り込まれ、あるいは取り込み、継ぎ目がどこなのか判別がつけ難かった。それでも見当をつけたところを切ると、モニターの画像が白濁し、消えた。脳の各表面に潜り込んだ繊毛も切断した僕は、動脈につながった人工血管を引き抜き、手の中でぐずぐずと崩れそうになる脳味噌を掴み出し、ポリバケツに叩き込んだ。切断された人工延髄はほとんど一塊になった端子ごと瓶底に沈んでしまった。まさか二度は使えないのか? 途方に暮れかけた僕の目の前で、人工延髄端子の繊毛が一本、二本と立ち始め、やがてひわひわと蠢き始めた。ずっしりと重くなった布由美をバスルームに運び、Aがやったのと同じ方法で首をかき切った。驚くべき量の血が排水口に向け流れ出した。今回はそれを集める暇などない。僕は一口だけ掌ですくって飲み、すぐさま額から上の切断にかかった。骨の切断に手間取ることを予想していたが、ナイフの切れ味が凄まじいせいか、全く苦にならなかった。僕は布由美の頭を急いで、それでもできる限り注意深く、延髄にて切り離した。一人で持ち上げるには意外に重い頭部を部屋に運び、瓶の中につける。蠢き続ける人工延髄の繊毛が新しい宿り主を探り当て、喜々として絡み付いた。他の端子、血管も同様だった。僕は食い入るようにモニターを見つめていた。間に合ってくれ、頼む。
間に合っていてくれ…。
やがて静脈が血を吐き出し、モニターが不鮮明ながらも画像を回復させた。間に合った。僕は椅子の上にへたり込んだ。口から漏れた溜め息が口笛のような音を立てた。間に合った。各機関チェックに入ろうとした時、頭の中が切り替わった。体の後始末をどうするか。僕はAに電話した。
「Sか。どうしたお前、最近御無沙汰じゃないの」
十七歳の雌を食べたくないかと持ちかけると、一も二もなく飛びついてきた。すぐにこちらに来てくれると言う。Aが来るまでの間、僕はモニターを数値モードに切り換え、各機関のチェックを行っていた。大丈夫のようだ。蛋白質と糖分の補給をやり直し、夢を映し出してみる。画面内容がいささか混乱したものになっていたが、これは布由美の受けたショックの大きさによるためだろう。前の“本体”も作動当所は似たようなものだったと思う。その筈だった。画像も回復に向かっているし、とにかくよかった。僕は布由美を完全に失わずに済んだ。少なくとも一部だけは手元に残すことができたのだ。Aは、布由美の髪の毛を切り揃えている最中に、ボストンバッグ並の大きなクーラーボックス持参にて到着した。季節的な寒さが幸いしたのだろう。体の腐敗は始まっていなかった。だが、腸の一部や肝臓は傷んでいた。血を抜いたらすぐに内臓も抜かなくちゃ駄目だよ、と呟くAと解体を続けた。布由美が前の雌以上に小柄だったため、また二人での解体も二度目ということもあり、作業は以前より遥か早くに終了した。夜明けまでまだ数時間を残していた。二人してAのクーパーに、切り分けてポリ袋に入れた肉、内臓を詰めたクーラーボックスとを運ぶ。雨は止んでいた。積み込んだ荷を一旦自宅の冷凍庫に放り込みに戻ったAは、布由美の衣服や所持品、余った内臓、血のついた僕の衣服、お古の脳味噌など焼却炉行きのものをもう一度取りに来てくれた。
二人でそれをまとめ、バスルームを掃除した後、Aはインスタントコーヒーを沸かしている僕をまじまじと見つめた。僕の憔悴ぶりに驚いたらしい。コンピューターの夢のせいで陥った睡眠不足、その結果布由美を殺さざるを得なくなったまでの経緯を話すと、Aは深く頷いた。納得するのも当然、実は一カ月前までは彼も同様だったのだと言う。いくら眠ろうとしても夢の誘惑に勝てず、とうとう交通事故まで起こしかけたAは、このままでは必ず何らかの形で命を落とすなと思い、有りったけの自制心を奮い起こしてモニターのスイッチを切った。以来、コンピューター作動の際以外には常にモニターは消している。睡眠不足は嘘のように解消したと言う。一体どういう現象なんだろう、これは。考え込んだ僕に、Aは言った。
「多分、コンピューターの夢が俺たちの目から伝染したんだよ」
僕は一瞬唖然とし、笑い出した。
「目から伝染? 夢が? 結膜炎じゃあるまいし」
「お前経験ないか? 自分と同じ夢を見た奴が周囲にいたってこと」
Aの語り口は真剣だった。さっきの言葉は冗談ではないらしい。僕は取り敢えず質問に答えた。ないな、元来あまり夢は見ないのだ。俺はあるよ、とAは言った。
「実に奇妙なもんだった。夜の街の彼方に、大きな門が見えるんだ。その手前が迷路になっててな、俺は何とか門まで行こうとする。するとな、後ろから俺を追っかけてくる連中が現れる。それも一人や二人じゃない。俺は訳もわからず必死に逃げるんだ。門の方に。しかしどうしてもたどり着けない」
それも一度限りの夢ではないのだと言う。しかも夢は見る度毎に、場所と時間を変えていた。つまり進展する夢なのである。それと全く同じ、内容や進展の度合いまで同じ夢を見る知人がいたことを知った時の驚きと言ったら。そう、ある本で読んだんだが、とAは肩をすくめた。
「こんな経験は世界中のあちこちにはザラにあるんだそうだ。そこで俺は思ったね。夢ってのは伝染する力があるんじゃないか、どこか他の場所に伝わろうって力があるんじゃないか、ってな。一種の通信みたいに」
「僕にはないぞ、そんな経験も、力も」
「それはお前が自分の夢を覚えていないだけの話だ」Aは反論しようとした僕を、まあ聞けよ、と遮った。「人間の脳の仕組みなんて、実は大部分わかっちゃいないんだ。今でこそ新皮質の仕組みだけは何とか解明されて、この俺たちが脳外科手術の真似事をやる時代にもなった。でもな、新皮質なんて脳全体の三分の一足らずでしかない。残りの部分、旧皮質や古皮質って奴は丸っきり未知の領域なんだよ。もし旧皮質や古皮質がヒトが猿だった時代の遺物でしかないんなら、この前やっと学会が承認した念動力なんてものが、一体どこで発生するんだよ。筋肉か?」
僕は答えられなかった。確かに、念動力を使う猿なんて聞いたことがない。Aはもう一度肩をすくめた。
「何もわかっちゃいないのさ。けどな、テレパシーが送れるんだったら、夢が伝播したっておかしくはないだろ。しかも俺たちはそれを眺めてた。脳に一番近い器官を使って、外から“眺め”てたんだ。夢からしてみればまさに、飛び込みやすいお誂え向きのトンネルだったろうぜ」
そうか、テレパシーと同じような原理だと思えば。内心納得しながらも、僕は言った。
「でも、どうしてそれが僕やあんたの睡眠時間まで奪うんだ。睡眠を奪ってまで俺たちを惹きつける力を持ってるんだ?」
「伝染したがるくらいだから惹きつけもするだろ。と言うのは冗談だが、こいつは睡眠を奪ってなんかいないぜ。俺たちはな、一応眠ってはいたんだよ」
わからない僕に向かってAは言った。お前のさっきの話が本当なら、お前は丸二カ月、一睡もしていないことになるんだぞ。そんな奴がどうして今ピンピンして女の子をバラして、俺と話しているんだ? 何だったら試しに今から一週間完徹してみろ。死んじまうぜ。「じゃあ、つまり」
「ああ、つまり、伝染したのは夢だけじゃないってことだ。俺もお前もコンピューターの前に座って、コンピューターと一緒に眠り、夢を共有してたってわけだ。あの瞬間的なノイズを長く感じるのも当然だよな。場合によっちゃ俺たちの見てる夢を、逆にこいつが読み取ったなんてことがあるかも知れん。ああ、それと、それでも俺たちがバテた原因だが、コンピューターにずっとREM睡眠を強制されてたせいだと思う。知ってると思うが、夢を見る時の睡眠はREMだ。肉体だけの眠りだ。睡眠が伝染したとは言っても、浅い眠りだったんだよ。そのまま二カ月も過ごせば俺たちだってバテもするだろうぜ」
僕はAとともに、今は布由美の脳を収納したコンピューターを眺めた。それは事実なのだろうか。Aの言葉を全面的に肯定する気にはなれなかった。あくまで彼自身の推論に過ぎないからだ。だが、それを全面否定することもできなかった。全面否定するだけの知識も根拠もなかったからだ。現に僕はこの二カ月というもの、全く眠っていない積もりになっていたではないか。Aの言ったことが事実だとすれば、ヒトの脳というのは実に恐るべき代物だ。焼却炉行きの荷物をクーパーに運び込む際、Aが訊いてきた。
「カモフラージュがいなくなったことを、周囲にどう説明する気だ?」
「別れた、って言うさ」
部屋に戻った僕が見つけたのは、布由美の持ってきたコンビニエンスの袋だった。中に弁当二つと、冷めてしまった缶コーヒー二本が入っていた。僕と二人で食べようと買ってきたのだ。夢にのめり込んで以来、食生活が乱れ、痩せてきた僕を布由美はいつも心配していた。見下ろす袋の上に水滴が落ちた。雨漏りか。馬鹿な、雨などとっくに止んでいる。天井を見上げた僕の頬に流れたのはただの水滴ではなかった。
僕は泣いていた。
父が死んだ時でさえも泣けなかった僕が、他人である雌一人の死に涙をこぼしていたのだ。少なくとも一部は手元に残せたじゃないか。完全に失ったわけではないじゃないか。それなのに、あの欠落感が消えようとしないのはなぜなのだ。なぜつきまとって離れないのだ。わからなかった。わからないまま、僕は涙をこぼし続けていた。
…布由美の来なくなる生活が戻ってきた。時間だけが僕と関係のない場所で過ぎていった。テレビもラジオも新聞も、観ない読まない聴かない生活。恐らく外界では二カ月くらい経過しているのだろう。外から鴬の声らしきものが聞こえたこともあったから、今が春であるのは間違いない。今日も外は晴れているようだ。しかしどうでもよかった。僕はアパートの雨戸を閉め切ったまま、モニターの、布由美の見せる夢を眺めて過ごしていた。僕はAの忠告に従えなかった。モニターのスイッチを切ることができずにいたのだ。当然ながらアルバイトはとっくに馘になっていた。僕はいつまでも布由美と夢を共有することができた。もうすぐ貯えも尽きる、そろそろ次のアルバイトを探さなければ生活も窮乏する。わかっているのに、心は一向に焦らなかった。布由美の夢の中では、僕はいつでも、両親から彼女を守る優しい恋人だった。間違っても彼女を殺した時の僕が登場してくることはなかった。それが僕を安心させた。布由美が僕を恨んではいないとわかったから。今やコンピューターはただの夢モニターとしてしか働いていない状態だった。
外界に変化はないようだった。時たま補給用の薬品を持って訪れてくれるAから、Nが釈放されたというニュースを聞いたことと、隣家の浪人豚が今年も受験に失敗した揚げ句、近所の幼女に悪戯しようとして捕まり、そこで重度のノイローゼであることが発覚、現在母親に付き添われて通院中らしいということ以外には。僕にとってはどうでもいいことだった。あれだけ大っぴらに来訪していた布由美がなぜ来なくなったのかを、誰も僕に尋ねなかった。僕がアルバイトに行っていない理由を訊いてくる者もいなかった。そして、警察が訪ねてくることもなかった。布由美の両親はやはり何も打ち明けられていなかったのだ。あるいは布由美の失踪自体すら気にかけていないのかも知れない。《晩餐会》も再開したらしく、二度誘われはしたが、二度とも欠席した。今の僕には外出し、肉体労働しようなどという気力など全く残っていなかった。布由美と夢を見るだけで精一杯だったし、それだけで充分だった。
ある時期から次第に、夢の中の布由美が大胆、放恣な態度をとり始めた。毎回白い裸身となって登場し、蛇のように絡み付いてきた。最後にはいつも途方もない快感に教われ、僕は幾度も大量に、しかも現実に射精した。ニューロペプチドによる感情の抑制は毎回行っている筈なのに、布由美の求愛は止まるところを知らなかった。性欲と快感は肉体から始まるものではない、肉体だけを媒介とするものではない、それがわかったような気がした。肉体を持つ僕と、肉体を持たぬ布由美との性愛はとめどもなく続いた。
…ところがそんなある日、布由美の裸身の代わりにNが出現した。僕は目を疑った。なぜここにNが? 布由美はNを知っていたのだろうか、それともAが言った通り、これは布由美が読み取った僕の記憶なのだろうか。布由美の声が響く。気をつけて、気をつけて、気をつけて。夢の中、見慣れた街角の中をNが逃げ回っている。必死に逃げ回っている。不意に前方に現れる二人の男。おや、これも見た顔だぞと思ったら《晩餐会》メンバーの二人の刑事だった。Nは当然、二人に助けを求めた。が、二人はその懇願を拒んだ。背後から現れた顔のない男たち十数人がNを取り囲んだ。Nは絶叫とともに、男たちの作った輪の中に呑み込まれ、消えた。尾を引く絶叫に、布由美の声が被った。
気をつけて静馬!
同じ光景は何度となく繰り返され、三日後、唐突に消えた。四日目以降は二度と現れなかった。何の意味があるんだろう、考え込んでいる最中だった。突然Aから電話が来た。Nがまた警察に拘留されたと言うのである。
僕が参加せず、Aも多忙だったため、前回の《晩餐会》は若いNに獲物調達を命じた。Nはノルマを果たしこそしたが、厳選を怠った獲物は家族と同居している雌だった。娘の失踪に当然ながら家族は騒ぎ立て、釈放されて間もないのに、その日見事にアリバイを持たなかったNは参考人として再度の呼び出しを食らったわけらしい。
「でも、今度だって証拠はないわけだろう?」
「ああ、証拠はない。だが、目撃者がいるって話だ。今度ばかりはヤバいかも知れん」
「捜査一課のデカさんたちは何をしてるんだ、一体」
「それがな、今度はそのデカさんたちの手助けが期待できないらしいんだ」
警視庁内部に特捜部が設けられたのだと言う。もしかしてデカさん二人も既に疑われてるのかも、と不安げに呟くAの声を聞きながら僕が思い出していたのは、三日間続いたあの夢だった。それを話してみると、Aの声から不安の響きが消えた。彼はすぐにやってきた。詳しい話をすると興奮し始めた。
「そりゃあ、お前、予知夢だよ」
夢が未来を予見する場合がある。予知夢を頻繁に見る人がいる。夢を克明に記録することで予知能力に目覚めた人がいる。話には聞く。だが、それがどうして布由美の夢に顕現したりしたのだろう。Aはモニターをスキャナーモードに換え、画面に脳の断面図を出した。見ろよ、と言う。バイオ素子の端子から延びた人工ニューロンの一部が、頭頂葉の灰白質奥にまで侵入、古皮質と旧皮質の境界にまで達していた。これだな、Aは他の部位もチェックした後、僕に言った。これ以外の原因は考えられん。
「僕が配線を間違えたわけか」
「いや、いくら急いでいたからって、手順さえ間違えなければ後は素子が自動的に行った作業だ。お前のせいとは言えないな」
「あるいは死んでから時間をおき過ぎたか」
「それで異変が起こった、か? そこまではわからんよ。しかし、お前、こりゃあ凄いことだぜ」
Aは以前にも言っていた。脳の未知領域には超科学現象の根源がある、と。念動力、テレパシー、そして予知、それらは全て、誰もが持つ能力なのだ。その主張を布由美の脳が実証したのだとしたら。未知領域に入り込んだ配線が、布由美の隠された力を誘発したのだとしたら。AはNの件での不安を忘れたかのように大喜びした。まあ、その夢が単なる偶然だったって可能性も残ってはいるけどな、と言って立ち上がる。
「またこいつが変わった夢を映し始めたら連絡をくれ」
その後、夢は僕を誘惑するだけのものに戻った。僕は日に最低三度、夢の中の布由美を抱き、布由美の感じる快感を追体験し、自らも射精の絶頂を迎えた。憔悴は深まり、体重は激減した。窓やドアを閉め切っているにも関わらず、部屋の中に蝿が激増した。僕の発する腐臭が強まっているのかも知れない。そう、恐らく僕は体の内側から腐り初めているのだろう。このまま緩慢に死につつあるのかも知れない。だが、僕は思った。それもいいかも知れない。
…それから半月ばかり経った頃だったろうか。また出た。布由美の脳が、布由美の知らない筈の人物をモニターに浮かび上がらせた。Aだった。マンションの一室で電話を受けているAの手を、足を、胴を、首を、電話のコードががんじがらめに縛ってゆく、そんな夢だった。そして夢は、前回同様、同じ内容を三日間繰り返し、四日後それを突然に打ち切った。僕はAに電話した。不在だった。夜が更けても、翌日、翌々日になっても、Aは電話に出なかった。その二日後、僕は《晩餐会》メンバーIからの電話で、Aが逮捕されたことを知った。
Aをお縄にしたきっかけは、僕の最初のコンピューター用に二人で釣ったあの獲物だった。失踪して四カ月、流石に捜索願いも出されたのだろう。何とあの雌は自室からAの部屋に電話していた。Aは確認を怠った。あの雌は新宿にいるというだけではなかった。住まいが新宿だったのだ。捜査に乗り出したのは例の警視庁特捜部。刑事たちは雌の電話のリダイヤル機能からAを割り出した。事もあろうにAは、刑事の訪問に恐慌を来し、逃走を図った。豪胆だったあのAが刑事に怯え、取り乱したのだ。布由美の夢はまたしても、ある意味で正確に、Aの逮捕を予知していた。Aは電話によって首を絞められたのだ。Aは取調室で僕の名を喋り出すかも知れなかった。刑事の訪問に怯えたからにはその可能性もあった。それでも僕は逃げ出そうとは思わなかった。相変わらずコンピューターとの生活を続け、夢の中の布由美相手に射精を繰り返した。別に覚悟を決めていたわけでもない。覚悟など最初から存在しなかった。僕にはどうでもよかったのだ。
…Aの逮捕から、およそ半月後のことだった。
遂に、予知夢の中に、僕が登場した。
夢の中、見慣れた近隣の街が廃墟と化していた。空には真っ黒な雲が立ち込め、風景はまるで世界の終焉を思わせた。そんな中を、必死に逃げ回る僕がいた。布由美の叫び声を体のあちこちに浴びながら。静馬、逃げて、逃げて! ビルが倒壊した。地面が亀裂を走らせた。爆発が僕を巻き込み、僕の体は四散した。何だこれは。まさしく世界の終焉ではないか。少なくとも前の二人の時とは様相が全く違っていた。連中は夢の予言通りに捕まった。夢の正確度がこれまでと同じなら、僕はどうやら死ぬらしい。しかも同時に、世界は破滅を迎えるのだ。僕は笑い出した。これはいい。僕とともに世界が終わるなら安心ではないか。みんなで死ねば怖くない。土壇場にきてAのような醜態はさらさなくても済みそうだ。翌日も同じ夢だった。僕は終焉を迎える世界とともに死んだ。どうやら本物らしい。まさに淘汰の時がやってくるのだ。世界は、少なくとも僕の周囲の世界は終わるのだ。ただ一つ気になったのは、新しく登場した要素があったことだ。唯一崩れないビルの上から僕を見下ろしている奴がいた。もっとも昨日は気づかなかっただけかも知れなかった。問題はそいつの正体だ。あの隣家の浪人豚ではないか。あいつが世界の終焉とどう関わるというのだろう。僕は考えた。答えの出せぬまま、夢は三日目を迎えた。過去二件、布由美の予知夢は三日前から始まった。これまでと同じなら、明日、世界は終わる。どんな天変地異が訪れるのかはわからないが、とにかく僕は死ぬのだ。僕はその時を待った。
そして、四日目の朝が来た。
時計が午前九時を回った頃、閉め切った雨戸の外が急に騒がしくなり始めた。轟音。空を何機ものヘリコプターが往来し始めた。何だろう。わからない、とにかく何かが起こっているのだ。さあ始まるぞ、いよいよだぞ。僕は待った。だが、やがてヘリコプター群は遠ざかっていった。窓の外は静寂を取り戻してしまった。僕は、それこそ数カ月ぶりに、雨戸を開けてみた。陽光と新鮮な空気とが僕の顔を打ち、体をよろめかせた。何も起こっていなかった。少なくとも僕の眼下では、何一つ変わってなどいなかった。ふと視線を上げると、向かいの窓にあの浪人豚がいた。僕の部屋を監視している積もりででもいるらしい。視線が合うとたちまちカーテンの陰に隠れてしまう。その時、ドアがノックされた。
午前十時を過ぎていた。
「開けて下さい、警察です。ちょっとお話しを伺いたいんですが」
ドアの外に二人の刑事が立っていた。手帳を示し、丁寧に自己紹介した。だが、言葉や物腰こそ柔らかくはあったが、二人の刑事は最初から僕を疑ってかかってきた、それがわかった。心の奥底を根こそぎ掘り起こしていきそうな猜疑の目だった。こんな目に見つめられていると、どんな落ち着きも消し飛んでしまうだろう。Aが恐慌を来したのもわかるような気がした。半ば開き直っていた筈の僕も、腋の下が汗に濡れ、膝が震えそうになるのを堪えるのに精一杯という有り様だった。本庁のニシダと名乗った方が部屋の中を覗き込み、臭気に辟易したのか顔をしかめた。ミウラと名乗った方が一枚の写真を僕に見せた。セーラー服を着た布由美の肖像、少なくとも二年は前のものだった。
「新谷布由美さんです。御存知ですね?」
「ええ」
「彼女が三カ月前から行方不明になっていることは御存知でしたか?」
「いえ、そうなんですか?」
「知らなかった?」
「ええ、彼女とはそれ以前に、別れたって言うか」
「彼女が最後にここを訪れたのはいつのことですか?」
「急に言われても思い出せませんね。もしかしてあなた方は僕を疑っているんですか?」
「そういうわけじゃないんだがね」ニシダの方が僕を見た。嘘だ。この刑事が僕を疑っているのは明白だった。突然、目の前のこの刑事が膨れ上がったように見えた。壁となって僕の前に立ち塞がったかのように思えた。目の前が不意に色という色を失い、僕の意識は空白になりかけた。必死に震えを抑えていた自制心が緩んだ。その僕に向かってニシダは言った。
「新谷さんがアルバイトを無断で休み始めた日の前日に、君の部屋を訪れたのを目撃した人がいてね」
刑事二人が僕に任意同行を求めた瞬間、限界が来た。僕は部屋に駆け戻り、カスタムナイフを握り、刑事たちに切りかかった。前後の見境がつかなくなっていながら、頭の片隅では、Aが感じたのはこの恐怖だったんだろうななどと考えていたりもした。二人の刑事に対峙しただけでここまで恐怖心を煽られるとは思ってもみなかった。連中の発したものは、人間二人の発し得る威圧感ではなかった。もっともっと大きなものが放つ圧迫感だった。僕は必死にその圧迫に抵抗し、二人に傷を負わせはしたが、外に待機していた制服警官に取り押さえられた。僕は手錠をかけられ、パトカーにて連行された。部屋を調べた別の刑事たちがコンピューターの“本体”を発見、拘置されていた僕は正式に逮捕された。布由美の脳は押収された。その際、酸素補給と培養液循環ポンプ作動用のバッテリーを切った馬鹿がいるらしい。
布由美は今度こそ││本当に││死んだ。
留置場にいた僕の背中を走り抜けた衝撃と悪寒は、恐らくはそれを感知したためのものだったのだろう。布由美は今度こそ、僕の手元から永遠に去ったのだ。
…所轄署から本庁に移された僕は、すぐさま取調室に連れ込まれた。請われるでもなく強制されるでもなく、僕は供述を始めた。もはや誰に累が及ぼうが知ったことではなかった。脱力感の支配に任せ、僕は喋り続けた。《晩餐会》のこと、その構成メンバー、僕が加入して以来“摂取”した雌たち、その正確な人数、調達までの具体的方法、知っている限りの全てをぶちまけた。今度こそ、そう、本当に今度こそ、全てがどうでもよくなってしまったのだ。数時間の後、再度取調室に入った僕は、刑事の一人に僕を逮捕するまでの経緯を聞かされた。布由美の両親は布由美が思っている程彼女に無関心ではなかった。連続女性失踪事件が騒がれている昨今、アルバイトを無断欠勤したことを知らされると同時に不安を感じて警察に失踪届けを提出したらしい。数日後から各派出所貼り出しの失踪人ポスターに、布由美の顔写真が加わった。それを見て、派出所に駆け込んだのが、母親に付き添われて通院中のあの浪人豚だった。幼女に悪戯したノイローゼ浪人の証言など、最初は誰も信じなかった。だが、ポスターに記述のない失踪の日付と豚の証言とが符合することに気づいたある警官が後日問い合わせたのだと言う。そこで出てきた僕の名前が、布由美がアルバイト先の同僚に漏らしていた恋人の名前と一致した。警官は本庁に連絡、本庁は布由美失踪以後の僕の生活を調べ上げ、限りなく黒に近いと判断、参考人として僕を呼び出す手筈になったのだそうだ。布由美の見せた予知は結果として今回も正鵠を射ていたのだ。
僕は、脳だけを生かされ感情を抑えられながらも、布由美が僕を本当に『愛』していたことを知った。そう、時ここに及んで、自分が本当に『愛』されていること初めて知ることになったのだ。夢の中での世界の終焉、あれはもちろん事実の予知ではなかった。布由美の恐れを表した夢だった。僕が捕まることは布由美にとって世界の終焉と同じ意味を持っていた。
布由美にとっての世界の終わりとは、僕と引き離されることだったのだ。
どうやら再度の尋問が始まっているらしかったが、僕は聞いてもいなかった。上の空で考え続けていた。布由美、僕の声が聞こえるかい布由美。こんなことを今更言っても遅すぎるかも知れないけど、僕も君を『愛』していたらしいよ。それがやっとわかった。これまでずっとそれを拒んできたけれど、今になってやっと、君への『愛』を認めることができたような気がする。そう思った時、不意に身震いが走った。音こそ聞こえなかったけれど、体のあちこちが瓦解してゆくような感覚に襲われた。僕に『愛』を拒ませ続けてきたもの、それは偉そうな言い方をすれば、僕の信念だった。それは僕が僕の内部に培ってきただけではない。僕の内部から僕自身を二十九年間培ってきたものだとも言えた。僕の信念、それはつまり僕自身、僕そのものだったのだ。布由美はそれを否定してしまった。幻だと思ってきた『愛』が存在したことを、僕に認めさせてしまった。『愛』など存在しないという僕の信念こそ実は幻に過ぎなかったということを、布由美は気づかせてしまったのだ。
僕の信念が幻に過ぎなかった以上、僕自身も幻ということになりはしまいか?
幻は結局消え去る以外にないのかも知れなかった。多分そのためだろう。無性に布由美に会いたかった。僕は今、舌を噛もうという衝動を抑えることができずにいた。全く怖くなかった。調和にも似た安心感があった。それが最初から仕組まれていたのではないかとさえ思えるくらい、今から死ぬという衝動への違和感は湧かなかった。幻である自分をこの世から抹消すれば、こことはどこか別の世界、幻ではない僕が存在する世界で、僕は必ず布由美に会える。
僕はそう信じて疑わなかった…。
夢の彼方に見えるもの