ちぃちゃんと金魚


 女の子の名前はりつこちゃん。
 とても元気な女の子。

 お父さんとお母さんはりつこちゃんの事をちぃちゃんと呼びます。
 小さくて可愛いからちぃちゃんです。

 
 ちぃちゃんは外で遊ぶのが大好きです。
 天気がいいとお友達と外で遊びます。
 でも雨が降って外に出られない時は、ゆきちゃんと遊びます。

 ゆきちゃんというのはちぃちゃんの一番のお友達です。
 夏祭りに行った時に、金魚すくいでちぃちゃんが取ってきた金魚です。

 金魚鉢の中ではゆきちゃんが元気に泳いでいます。

 ちぃちゃんはゆきちゃんに話しかけます。

 「ゆきちゃんの好きな物はなぁに?私はね、お父さんとお母さん。あとね、お母さんの作ったオムライス」

 ゆきちゃんがパクパクと口を動かしています。まるでちぃちゃんのお話しに返事をしているみたいです。

 「そうだ。あのね、ゆきちゃん。私ね、お家の中で凄いところ見つけちゃったの。お父さんとお母さんには内緒だよ。でも、ゆきちゃんには特別に見せてあげる」

 ちぃちゃんはそういうと、金魚鉢を両手で持ち上げました。でも金魚鉢が重くて、少し持ち上げると中の水がこぼれてしまいました。

 ちぃちゃんは考えました。金魚鉢の中をじーっと見てそしてひらめきました。


 “そうだ!ゆきちゃんだけ持っていこう!”



 ちぃちゃんはゆきちゃんを捕まえるために金魚鉢の中に手を入れました。
 ゆきちゃんはちぃちゃんの手から逃げようと必死で金魚鉢の中を泳ぎます。

 金魚鉢からバシャバシャとお水が跳ねて、ちぃちゃんのお洋服は水びたしです。

 「つかまえた!」

 ちぃちゃんの小さな手の中でゆきちゃんはピチピチと跳ねます。
 ゆきちゃんの体は少しぬるぬるしているので、ちぃちゃんはゆきちゃんが自分の手から逃げないように両手でギュッとにぎります。

 ゆきちゃんを持ったまま、ちぃちゃんは廊下をバタバタと走ります。
 二階に上がる階段を一段ずつ登って、お父さんとお母さんがいつも寝るお部屋の前を通ります。

 ちぃちゃんの手の中でゆきちゃんが苦しそうに跳ねています。
 ちぃちゃんはさっきよりもさらにぎゅっと手を握りました。

 「ゆきちゃん。もう少しだよ。もう少しで秘密の場所だよ」

 お部屋をいくつか通り過ぎた後、ちぃちゃんは誰も使っていないお部屋の前で止まりました。
 その部屋には屋根裏へと続く階段があります。

 「ゆきちゃん。ここだよ。この中にね、秘密の場所があるの」

 だけどちぃちゃんの手の中で元気に動いていたゆきちゃんがピクリとも動きません。

 ちぃちゃんは心配になりましたが、手を開くことはできません。
 もし手を開いてしまったら、ゆきちゃんが逃げてしまうと思ったのです。

 ちぃちゃんがお部屋に入ろうと思ったその時です。

 「ちぃちゃん!」

 後ろからお母さんの怒った声がします。

 ちぃちゃんが後ろを向くと、腰に手を当てて怒っているお母さんがいました。
 いつもは優しいお母さんですが、怒るととっても怖い事をちぃちゃんは知っています。

 「お母さん」

 「どうしてお部屋があんなにビショビショなの!?」

 「違うよ。あれ、私じゃないよ。あれはゆきちゃんがやったんだもん」

 ちぃちゃんは正直に話しました。

 「ゆきちゃんがあんなことするわけないでしょ!」

 お母さんはちぃちゃんが嘘をついていると思ってちぃちゃんを怒ります。

 「ホントだもん!ホントにゆきちゃんがやったんだもん!ゆきちゃんがいうこときかないから、だからあんなになっちゃったんだもん!」

 ちぃちゃんはお母さんに怒られて悲しくて泣いてしまいました。
 その時、ちぃちゃんの小さな手から、動かなくなったゆきちゃんがポトンと落ちました。

 ゆきちゃんの体は真っすぐ伸びて、目はぱっちり開いていますが、さっきみたいに口をパクパク動かしません。

 「ゆきちゃんが落ちちゃった!ごめんね、ゆきちゃん。痛かったよね?」

 慌ててゆきちゃんを拾おうとするちぃちゃん。

 動かなくなったゆきちゃんを見てお母さんはちぃちゃんに言います。

 「ちぃちゃん。ゆきちゃんはね、もうちぃちゃんとお話し出来ないのよ」

 「え?」

 ちぃちゃんがお母さんの顔を見ると、さっきまで怒っていたお母さんの顔はとても悲しそうです。

 「ちぃちゃん。あのね、良く聞いて。ゆきちゃんはね、お水の中でしか生きられないの。お水から出たらゆきちゃんは息ができなくて死んでしまうのよ」

 ちぃちゃんはお母さんの言うことが良く分かりません。

 「息ができなくて死んだらどうなるの?」

 「死んでしまったら二度とゆきちゃんには会えないの」

 「そんなのウソだもん!ゆきちゃんはちゃんとここにいるもん!」

 ちぃちゃんは落ちたゆきちゃんを拾ってお母さんに見せました。

 「お母さんの嘘つき!ゆきちゃんはここにいるのに、ゆきちゃんと会えなくなるなんて嘘つきだもん!お母さん私の事嫌いなんだ!だからそんな嘘つくんだもん!」

 お母さんはちぃちゃんの言葉にもっと悲しい顔をしました。

 ちぃちゃんの手の中には、赤く、小さな体のゆきちゃんがいます。でもゆきちゃんはもう動かないし、えさも食べません。
 
 「ちぃちゃん。ゆきちゃんはもう動かないのよ」

 お母さんはもう一度静かにそう言いました。

 「ウソだもん!ゆきちゃんはここにいるもん!お水の中に戻したらまた元気になるもん!」

 ゆきちゃんを持ったまま、ちぃちゃんは金魚鉢のある部屋まで走りました。
 さっきよりもすごく走って、走って、ちぃちゃんはあっという間に見えなくなりました。
 お部屋まで来るとちぃちゃんはゆきちゃんを金魚鉢に戻します。だけどゆきちゃんの体はピンとまっすぐなままで、いつもみたいに潜りません。水の上で横になったままです。

 「お水が足りないんだ!」

 金魚鉢いっぱいまでお水が入っていた事を思い出したちぃちゃんは叫びました。

 ちぃちゃんは急いで台所に行ってコップ一杯お水を入れます。こぼさないようにゆっくりゆっくり運んで、金魚鉢の中に入れました。

 金魚鉢にお水を入れると、金魚鉢の水がチャプチャプ揺れます。ゆきちゃんもチャプチャプ揺れますが、まだ泳ぎません。

 ちぃちゃんは金魚鉢の中がお水でいっぱいになるまで入れました。
 だんだん金魚鉢の中がお水でいっぱいになってきます。でもゆきちゃんはいつまでたっても泳ぎません。口もパクパク動かさず、浮かんだままです。

 「ゆきちゃぁん。どうして元気になってくれないの?」

 ちぃちゃんは悲しくなって大声で泣き出してしまいました。
 泣いているちぃちゃんの所へお母さんがやってきます。

 「お母さん、どうして?お水の中に戻したのに、どうしてゆきちゃんは元気にならないの?どうして泳いでくれないの?まだお水が足りないの?」

 お母さんが金魚鉢を見ると金魚鉢の中はお水でいっぱいです。水草がゆらゆらと揺れて、コポコポと静かにポンプから空気が出ています。だけど肝心のゆきちゃんは水の上に浮いているだけです。
 いつもみたいに元気にお水の中を泳ぎません。

 お母さんは泣いているちぃちゃんを抱き締めました。

 「ねえ、ちぃちゃん。お母さんの体から音がするの、聞こえる?」

 ちぃちゃんは悲しくてそれどころではありません。
 お母さんの胸の中でワンワン泣きながら首を振りました。

 「ちぃちゃん。ちぃちゃん。じゃあ、お母さんのお胸にぴったりお耳を当てて、聞いてみて」

 お母さんにそう言われて、ちぃちゃんはお母さんの体に耳をぴったりくっつけました。するとお母さんの体から、トックン、トックン、と音が聞こえてきます。それはとても優しくて、聞いていると何だか安心する音です。

 「お母さんの体トックン、トックンって聞こえる」

 「ちぃちゃんの体も、トックン、トックンって音がするのよ」

 ちぃちゃんは驚いてお母さんを見ます。
 お母さんの顔はさっきまでの悲しい顔ではありません。優しいいつものお母さんです。

「ちぃちゃんの体に手を当ててごらんなさい」

 ちぃちゃんはお母さんの言うとおり、体に手を当てます。するとトクントクンとお母さんの音よりも少し早い音が聞こえてきました。

 「トクントクンってゆってる!」

 ちぃちゃんはびっくりして体の音を聞きます。

 「お父さんも、お母さんも、ちぃちゃんもみんな持っている音」

 「ゆきちゃんにも?」

 お母さんはちぃちゃんに優しく言います。

 「そうね。ゆきちゃんも持っていたのよ。でもね、もうゆきちゃんの音は聞こえないの」

 「どうして?」

 「ここはね、とても大事なところなの」

 お母さんは自分の胸に手を当てました。

 「ここに手を当てると、トックントックンっていうでしょ?お父さんもお母さんもちぃちゃんも、みんなこの音が聞こえている間だけ、お話したり、ご飯を食べたり、お友達と遊んだりすることができるの。だけど、この音が聞こえなくなったら、私たちは動かなくなってしまうの」

 ちぃちゃんは小さいのでお母さんの言っていることは良く分かりませんでした。
 だけどお母さんがとても悲しそうな顔でそう言うので、ちぃちゃんはとても悲しくなりました。

 「だからこの音が聞こえなくなったら、“さよなら”しなくちゃいけないの。それはちぃちゃんがいつもお友達に言う“さよなら”じゃなくて、本当のお別れをしなくちゃいけないの」

 「本当のお別れ?」

 「そう。ゆきちゃんはね、とても遠いところに行ってしまったの。そこはね、すごく遠くて誰も知らない所。そこに行くとね、もう私たちとは会えないのよ」

 ちぃちゃんはお母さんの話をじっと聞いています。

 「じゃあ、どうしたらまたトックン、トックンって音がするの?」

 「トックントックンっていう音が聞こえなくなったらもうおしまい。ずっと動かないまま。ちぃちゃんのお話を聞いてあげることも、泳ぐこともできないのよ」

 お母さんのトックン、トックンという優しい音を聞きながらお母さんの胸の中でちぃちゃんは泣きました。

 いっぱいいっぱい泣いて、だけどいつまでたってもゆきちゃんは動かず金魚鉢の中で浮いています。

 金魚鉢の中で浮いているゆきちゃんをみて、ちぃちゃんはお母さんが言っていた事が少しだけ分かりました。


“トクントクンって音がしないからゆきちゃんは動かないんだ”


 雨がやんでから、ちぃちゃんはお母さんと一緒にお庭にゆきちゃんのお墓を作りました。
 ちぃちゃんはゆきちゃんが寂しくないように、ゆきちゃんのお墓の周りに綺麗なお花の種を植えました。


 それから何日かして、ちぃちゃんが金魚鉢をじっと見つめています。
 金魚鉢には一匹の赤い金魚が元気に泳いでいます。
 カラになった金魚鉢は寂しいだろうとお父さんが買ってきてくれた金魚です。

 ちぃちゃんが名前をつけます。

 名前は「はるちゃん」です。

 雨の日になるとちぃちゃんははるちゃんに話しかけます。だけどもう金魚鉢から金魚を出すことはしません。

 ちぃちゃんは自分の体に手を当ててトクントクンの音を聞きます。そしてはるちゃんにゆきちゃんのお話しをします。

 そんなちぃちゃんをお母さんが呼びます。

「りつこちゃん。おやつできたわよ」

 あの日からお母さんはちぃちゃんの事をりつこちゃんと呼ぶようになりました。
 お父さんは最初驚いていましたが、お母さんはりつこちゃんを見て『もうりつこちゃんはこどもじゃないのよ』ってりつこちゃんに片目をつぶってみせました。

 お母さんの声にりつこちゃんは嬉しそうに返事をします。

 「はぁい」

 少しだけ成長したりつこちゃんの後ろ姿を金魚鉢の中からはるちゃんがいつまでも見ていました。

ちぃちゃんと金魚

ちぃちゃんと金魚

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted