戦国歴史長編小説『蝶や花や』 第2話『一心同体の誓い』

戦国歴史長編小説『蝶や花や』 第2話『一心同体の誓い』

信長は最大の盟友となる濃姫を正室に迎え、天下統一への第一歩を踏み出した。
信長と濃姫が毎日のように武芸の稽古に励んでいたある日、濃姫に対し、
美濃の武将で剣術の天才と名高い明智光秀を招き、剣術を学ぶことを家老の平手政秀が提案する。
光秀こそ、濃姫と互いに将来を夢見ていた男だった。

1幕『濃姫、明智流奥義への試練』

 春の入口。濃姫が信長のもとへ嫁いでから約2ヶ月。信長は鶴姫を、濃姫は美濃に残してきた愛する人を忘れられずにいた。しかしふたりは日夜、乗馬や弓や太刀の稽古に励みながら、互いの距離を少しずつ縮めていたのは間違いない。
 早朝から、梅の木に囲まれた庭で弓矢の稽古をしている濃姫に世話役の男が茶々を入れる。
「そうではありませぬ。腕はしっかりこうやってかまえて」
「始めたばかりなのだ。的にあたるだけほめてくれてもいいだろう? 梅の香りが強くて集中力が途切れるのだ。なんでこんなところに梅の木があるのだ」
「たしかに。信長様も最初は同じように口にされておられました。この美しい景色と香りは誘惑、そして迷いにございます。
誘惑に駆られることなく、澄んだ心、迷わない心を得たときこそ、信長様のような弓の名手になることができましょう。信長様は、いまではすべての矢を真ん中に命中させることができるほどでございます」
「わたしの心は澄んでいないと言いたいのか? よくもほざいたな! この!」
 と男の首を締める。賑やかにやっているふたりのもとへ信長と政秀がやってきた。
「朝早くから喧嘩……いや弓矢の稽古とは、毎日のことながら感心いたしますな殿」
 気づいた濃姫が袴を正す。信長が弓の稽古はうまくいっているかとたずねる。
「やりかたは頭ではわかっているが、あと一歩がうまくいかぬ。それに、こやつはわたしの心が澄んでいないとほざいた。極刑を言い渡す」
 それを聞いた政秀は――。
「殿。いろいろと、非常に将来が楽しみでございますぞ」
「そこ、なにをぶつぶつ言っておるか。ちょうどいい、政秀。あっちに立って的になれ」
「そ、そんな殺生な」
「はっはっは、まことに愉快だ。どれ、お濃、かしてみろ」
 信長が弓矢を受け取り矢を射ると、見事にど真ん中に命中した。
「つぎはおまえだ。やってみろ」
 まだ真ん中どころではない腕前だが、負け嫌いな濃姫は弓矢を持って位置につく。
「おまえはおれの天下取りを手伝うと言ってくれた。その言葉に迷いはないか」
「もちろん、ない」
「その言葉に偽りも迷いもないと、いまここで誓えるなら、その矢が証明してくれる」
「……もし、当たらなかったら」
「自分の言葉に、自信がないのか?」
「わたしは、ただのひとつの嘘も言ったことはない」
 習ったことを思いだし、弦を引き絞る。引いた手の位置は首と右肩の中間、弓の高さは顎のやや下だ。
 放たれた弓は見事、ど真ん中に命中、一同が、おお、と声を上げる。 嘘みたいだとつぶやく濃姫に信長は言う。
「信念に生きる者は、何事にも屈しない。何事も可能にするものだ」
 安堵する濃姫を見て政秀は、その武芸の上達の早さに仰天していた。弓矢は始めたばかりで、信念だけでど真ん中に命中などできはしない。そこには間違いなく、濃姫の武芸に対する才能があるのは間違いない。それを確信した政秀は信長に提案する。
「これほど上達の早い者は、男も含め数えるほどしか知りませぬ。殿と同じく、武芸の才能は相当なものとお見受けいたしました。殿、ひとつ提案がございます。それぞれの武術の達人を城に招き、その者たちから習ってはいかがかと。たとえば、斎藤道三に仕える者に、剣術においては鬼才と呼ばれる男、明智光秀がおります。道三とは同盟関係にありますゆえ、快く承諾してくれるものと存じます」
「それは名案だ。どうだお濃。美濃にそれほどの男がいるのなら名は知っておるだろう?」
「え? あ、ああ、知っている」
 一瞬、言葉につまった濃姫の顔が曇る。
「どうだ? 俺は賛成だが」
 と信長は光秀の招致を濃姫に勧めると、政秀は高揚して手を叩き、小走りで去っていった。そしてすぐに手はずを整えた。
 
 何日か経った夜、稽古に疲れて早めに蒲団に入っていた濃姫は、体を起こして腕を揉んでいた。あちこち痛めたのだ。
 信長が入ってきて心配そうに言う。
「このあいだは弓矢、きょうは薙刀。毎日毎日、少し無理をしすぎているのではないか?」
「この程度、昔からやっていた。それに、早く強くなりたい。おまえは太刀もうまいし、乗馬も、弓も、泳ぎもうまい。わたしも、早くそんなふうになりたい。強い夫の妻が強くなければ、馬鹿にされる」
 そう言うと信長は横に座り、濃姫の腕を黙って揉み始める。うつけ者と名高かった男。そう呼ばれていたはずの男と、夜になれば 寝所を共にして、そしていまは、疲れた体を癒そうとしてくれている。濃姫はつくづく、自分の人生はよくも悪くも荒れ狂っているなと感心する。
 信長は前から言いたかったことを伝える。
「庭の梅の花だが、この咲いている時期におまえと出会えてよかった」
「なんでだ?」
「梅は百花の魁(さきがけ)だ。春になると最初に梅が咲き、それを追うようにして次々とほかの花が咲く」
 すぐには意味がわからなかったが、濃姫は天下取りを梅になぞらえているのだと感じ、うなずいた。だが信長の言いたかったことはそうではなかったのだ。その意味を濃姫が知るのは、まだずっと先のことである。
 濃姫の心の中には、忘れられない人がいる。信長はそれほどまでに自分を頼ってくれているのに……。あのときの言葉。濃姫としてここで暮らすという言葉は嘘ではない。だが、消せない想いがある。胸が押しつぶされそうになり、顔を背けて表情を隠した。
「あす、光秀が来よう。何日かこの城に泊めてやれ。無理せずゆっくりと習うといい」
「おまえは習わないのか?」
「おれは明日、行くところがあってな。それに……おれがいないほうが、いいのではないか」
「どういう意味だ……?」
「その……親しい仲ではないのか」
「……どうしてそう思ったのだ?」
「光秀の名を聞いたときのおまえの顔を見て思ったのだ」
「いまはおまえの妻としてここにいる。なのになんで、そんな言いかたをする……」
 信長の思っている通り、濃姫が美濃に置いてきた思い人は光秀である。それでも、忘れようと努力している。信長の言葉に対する失意と、たしかにあるうしろめたさが入り混じる。ひどく心が乱れ、信長を蹴飛ばしてしまう。
「もういい、あっちへ行け。外で寝ろ」
「夫に、しかも城主に外で寝ろとは無礼ではないか」
 自分が悪いのだと思い遠慮気味に言うが、濃姫は背中を向けて横になってしまった。謝ろうと肩に触れるが「触るな」と一蹴されてしまう。
「さっきのは冗談だ。すまん……。そうだ、言い忘れていた。あす、父上に呼ばれて――」
「ほざけ」
「本当だ! 真面目な話だ。松平家から今川家に送られるはずの人質が織田家に送られてきたらしい。それについて父と話し合わねばならん」
「ならば早く寝ろ」
 いまはお手上げと思い、素気なく返した濃姫の隣に恐る恐る入る。こたびはたしかに自分が悪かったが、このように遠慮ない物言いをされていることが家臣に知れたら赤恥だ。だがそれを帳消しにしてくれる言葉を濃姫はくれた。もう一度、夢を見たいというあの言葉。天下への夢は日に日に高まっていたが、まだこれといってなにもできていない。それでも、あの言葉が日夜、夢の支えになっていた。さきほどは確かに配意ができていなかったと感じ、「さきほどはすまん」と声をかけた。
 濃姫は、配意のない信長の言葉が完全に嘘ではなく、潔く忘れられない自分にはがゆくて、返事ができなかった。

 翌日の早朝、剣豪、明智光秀が那古野城に到着した。
 政秀は光秀と、濃姫の話をするなかで、濃姫と光秀が従兄妹同士であることを知り驚嘆する。光秀は100人に囲まれても無傷で生還し、一騎打ちにおいては無敵と評されている。そのような男と濃姫が従兄妹であり、親しい仲――。もはや天下を取った気分である。信長と濃姫の仲がひずんでいるとも知らず。
 信長は日が昇る前に父の新しい居城である末森城に向かった。一方の濃姫はいつものように敷地内に建つ稽古場で稽古に励んでいた。
「まだこんなにもあるのか……」
 稽古を終え、ぼやきながら床を布で磨いていたとき――。
「励んでおるな、帰蝶」
その声に驚いて振り向くと、出入り口の引き戸の向こうに光秀が立っていた。
「……光秀様……」
 光秀が一歩足を踏み入れて言う。
「掃除をしているのか?」
「あなたから教わりました。稽古場は常に綺麗にしておくものだと。最近、稽古ばかりして掃除をさぼってしまって。申し訳ありません」
 師に頭を下げるような口調で返すと、憂いを帯びた瞳で光秀を見つめた。
「そうか。かわりないか?」
「光秀様。わたしはもう、帰蝶ではありません……」
「おまえらしくないな」
 駆け寄って、光秀の胸に顔をうずめた。
 なぜ自分に駆け寄ってきたのか。なぜなにも言わず胸に顔をうずめて動かないのか。いまの信長よりも濃姫と長く過ごしてきた光秀には、濃姫の心情がよくわかっていた。
「自分らしさを失ってまで生きることほど、辛いことはない。どんなときも、おまえはおまえでいればいい」
 いまの濃姫にとっては、心が洗われる言葉だった。
 
 その夜、末森城にいた信長は濃姫のことが気がかりでしかたなかった。父に狭い部屋に案内され、ふたりきりで話をしようとしているのを見て、他人には聞かれてはいけないよほど重大な話なのだと感じた。その通り、那古野城の心配事をすぐに忘れさせるほどのものだった。
 父の口から出た『松平氏』は、この尾張の右隣にある三河国(みかわのくに)の武将である。松平は、さらにその右隣にある駿河国(するがのくに)を支配する大大名、今川氏に従属している。尾張に近い西三河に勢力を伸ばした織田家に対抗するためである。そしてこたび、今川家に忠誠の証として送られるはずだった松平家の嫡男、6歳の竹千代が、驚くことに織田家に送られてきたのだという。竹千代を護送していたのは、三河の武将、戸田康光。松平に従属している男だ。
 護送の一同が道を間違えたのかと父に本気でたずねたが、もちろんそうではない。
 康光はこう述べているという。

『戸田家や松平家のなかには、有力大名である今川家に少数の兵で対抗してきた織田家になびくものが少なくない。
織田家に今川と互角の兵力さえあれば、織田家優勢』

 織田家と斎藤家が同盟を結んだため、織田家優勢の機運は高まっているという。それを聞いた信長は瞬時に天下統一への思いが込みあげてきた。なぜなら今川家の当主である義元は、天下統一に最も近い男と名高いからである。
 康光をはじめ、織田家に従属しようとしている一部の勢力はこう考えている。竹千代を人質にし、松平が織田家に屈服すれば、織田、斎藤、松平が巨大な同盟を結び、今川に対抗できると。
「そううまくいく話ではないのだがな」
 と冷静さを見せる信秀だったが、まんざらでもない表情だった。
 今川は、東海道の甲斐国(かいのくに)の大名である武田信玄、そして同じく東海道の相模国(さがみのくに)の大名、北条氏康と三国同盟を結んでいる。大規模な同盟だが、じつは一枚岩ではない。
 北条は、信秀と友好的関係であり書状のやりとりをする仲である。その書状の中で氏康は、義元から疑われていると不満を漏らしていたのだ。信玄については、義元に心酔しているというが、甲斐国のそばには越後国(えちごのくに)の上杉家がある。この上杉の下に、長尾景虎(のちの上杉謙信)という男がいるが、15歳にして謀反を鎮圧し初陣を勝利で飾ったという。
 この景虎が将来、信玄にとって驚異になると信秀は予想している。つまり三国同盟は、いつ破綻してもおかしくないのである。信秀はこう言う。
「ほかにもやつらが恐れていることがある。おまえだ。うつけものと呼ばれたおまえは、わたしよりはるかに好戦的に見える。
そのおまえが、今度は斎藤家と同盟を結び、濃姫を得た。今川に対抗してきたわたしの存命中に、着々と地盤を固めるおまえを、やつらは恐れている。いつの日か、必ず機会を見て今川は尾張に攻めこもうとするはずだ。わたしが生きているあいだに、おれとおまえで、もっと織田家の地盤を強固なものにしなければならん。とくに隣国の三河は織田の命運がかかった国だ。そのため、康光の言うとおり、松平にそれとなく脅しをかけてみたが、竹千代を殺したければ殺せと言いおった。もちろん竹千代を傷つけるつもりなどないが」
「竹千代は見捨てられたということか」
「そこでだ。ひとまず那古野城に連れて帰り、近くの寺に預けてはくれぬか。友などひとりもいないのだ。面倒を見てやるといい。引き受けてくれるか」
「鶴を思いだす。あのような境遇の子をなくしてほしいと言っていた、あいつの言葉……。わかった。竹千代のことはまかせてくれ」
 信秀はどう転んでも今川との戦いは避けられないと覚悟していた。おそらく義元と戦うのは子の信長であろう。その信長の居城である那古野城は、かつて今川義元の父が築城したもので、信秀が戦で奪ったのだ。互いの息子がこの尾張をかけてふたたび戦う日が来る。
 信長も、この因縁の対決は宿命であると覚悟した。同時にふと濃姫を思いだす。濃姫があの日にくれた言葉。濃姫の夢、そして鶴姫の願い。強くこぶしを握りしめ、どんな痛みにも耐えて勝つと心に誓った。
 宿命の対決は、そう遠くない日に訪れることになる――。

 その数日後、日中に信長は竹千代の護送とともに那古野城に戻ってきた。光秀が濃姫と稽古場にいることを知るが、光秀と会うつもりはなかった。
 稽古場では、濃姫の剣さばきを見て、光秀はうむとうなずいていた。
「以前から武芸の才能があることはわかっていたが、まさかここまでとはな。すでに太刀の扱いかたは充分、身についているようだ。おまえなら、いつか明智流の真髄を極めることができるかもしれない」
「明智流の? 教えてください! 必ず会得してみせます」
「よし。俺を殺すつもりで全力でかかってこい。いまのおまえがおれに勝つには、いちかばちか力でねじ伏せるしか方法はない。持ち前の底力を使えば、おれの腕力といい勝負だろう。おれは一歩もここを動かない。すべての力をこめて向かってこい」
「しかし、これは本物の刀です」
「心配するな。わたしを信じて全力で来い」
「わかりました。いきます!」
 濃姫は美濃では男たちと稽古をするほど負け嫌いで、華奢ながらその馬鹿力は美濃では有名だ。光秀が剣豪として名高いのは知っているが、その実力を濃姫は見たことがない。光秀は刀を片手に立っている。本当に大丈夫かと一瞬ためらったが、信じて光秀に飛びかかり、中空から刀を振りおろした。
 ふたつの刀がぶつかる寸前、濃姫は動かない光秀を見て、しまったやりすぎたと思った。だが気づいたときには、光秀は片手に持った刀で軽々と受けとめていた。
 全力を使ったことで濃姫は体が硬直し、刀から反響する音が腕から肩に走り、一瞬身動きができなくなった。
「そ、そんな! 片手で……」
「わたしの脇差(予備の小刀)が見えるな。この至近距離なら、あいた左手で脇差を抜き、おまえを斬ることができる。一騎打ちにおいては、敵の防ぎかたが完全に予測できない以上、先に自ら全力で斬りかかるのは危険極まりない。であれば、敵の渾身の一撃を誘い余力を残して片方の手で防ぎ、敵の一瞬の硬直を狙ってふたつめの武器で仕留める。これが、一騎打ちにおける明智流の真髄だ」
 全力で斬りかかり、刀の重量も加わって、余力を残して片手で受け止められるはずはない。その答えを光秀は明かした。
「兵たちは、だれかを殺したくて戦をしているわけでも、死にたくて戦に向かっているわけでもない。生きていたいからこそ戦にのぞみ、命を散らしていくのだ。兵の上に立つ武将は、死んでいった兵たちひとりひとりの無念を背負って生きていく覚悟と、兵たちのために生き続ける勇気が必要となる。兵を動かす者が死ねば、兵は行き場を失ってしまう。その覚悟と勇気が、おのれの限界を遥かに超えた力を引きだしてくれる。おまえほどの武の才能を持つ者がその覚悟と勇気を得たとき、おまえはだれもかなわぬ最強の武将になるに違いない」
 そして、明智流奥義を会得するにふさわしい者は、死者の魂の拠り所となり、限界を超えた力を発揮できるという。
 
 すべての稽古を終えた。光秀は、信長が帰ってきたことを知ると、日があるうちに発つことにした。いまはそのほうがよいと感じたのだ。
 城門の外で、馬上の光秀を見送る――。
「とても有意義であった。この脇差はおまえのものだ。おまえを守ってくれるに違いない」
 光秀は自分の脇差を濃姫に授ける。
「必ず、大事にいたします」
「では、またな」
「光秀様!」
「なんだ?」
「……いつか織田家に仕えてほしい。世の平和のため、信長とわたしが誓った天下への夢。光秀様に手伝ってほしい」
「時がくれば、必ず」
「最後に……一度だけ、帰蝶と」
「帰蝶。また会いにくる。必ず」
「光秀様……どうか、お気をつけて……」
 帰蝶という名に別れを告げる覚悟。その覚悟がなければ、信長とともに天下統一など不可能だと濃姫は思っていた。
 もう帰蝶ではない。明智流の剣術を会得した濃姫は、濃姫として、妻として、凛として信長のもとに向かった。

2幕『ふたりでひとつ』

光秀が那古野城を発った夜。蒲団のなかで信長と濃姫は、竹千代を挟んで向かいあっていた。
「こら竹千代、あまりお濃にくっつくでない」
「これ。もう眠っているのだから静かに。まだ六歳の子どもだ。あまえて一緒に寝たいと思う年頃だ。だからいいのだ」
 まだ若く、体を重ねたことがないふたりには子どもがいない。竹千代が自分たちの子のように映っていた。
 初夜の翌日。いったんは強い絆で結ばれ、いま綻びていた関係が、竹千代のおかげでよくなろうとしていた。
「不思議だな。こうして子を挟んで寝ていると、まるで家族のようだ」
「……お濃……光秀は、どうだったのだ」
 と、またぶりかえすようなことを言いだす。
「稽古のことはもう話した」
「いや……すまん、なんでもない」
「このあいだもそうだ。おれがいないほうがいいのではないかなどと、わたしを試すようなことを言った。なにが言いたい。わたしがまだ光秀を想っているか、聞きだしたいのか? おまえについていくと言いながら、まだ光秀を忘れられないと言えば、それを責めたいのか?」
「深い意味があって言ったのではない。たんに光秀という男を詳しく知りたかっただけだ」
「嘘だ。鶴姫を忘れられたのか? そのおまえが、わたしにだけ忘れろと言いたいのか? おまえが鶴を忘れられないのはよくわかっている。わたしがここに来た日、おまえはけじめをつけてきたと言ってくれた。その言葉に嘘はないと思っている。だがそう簡単に忘れられるものではないことは、ちゃんとわかっている。鶴を目の前で失った悲しみも、痛いほどよくわかっているつもりだ。だからわたしは、おまえに鶴のことを聞いたことは一度もない。それでも……わたしだけを見てほしい……おまえだけを見ていたい……。ここに来たあの日からずっと、そうありたいと……毎日必死に思っているのに……。なのにいつもおまえはそれを邪魔をする。いまこうして向きあって、はじめて家族を感じられたそんなときに、過去をほじくりかえそうとする………見損なった」
 ふたりの声で竹千代が目覚める。
「んん……濃姫?」
「竹千代……ごめん。大丈夫だから、目を閉じて………」
 信長は鶴姫を、濃姫は光秀を忘れることができないでいたのは確かである。信長は、ゆいいつひとりの男として見てくれた鶴姫を失っている。そのため、もう二度とそばにいる女性に離れてほしくない、失いたくない。その不安が、何度も光秀のことを口走らせるのだ。
 過去をほじくられるようなことを言われても濃姫が信長を見捨てないのは、濃姫がそのことを察していたからだ。なにより、鶴姫を目の前で失った悲しみをよくわかっている。光秀は生きているし、会おうと思えば会える。早く過去の人を忘れなければならないのは、信長よりも自分のほうなのだと言い聞かせていた。それほどまでに信長に尽くしていこうとするのは、美濃を発つまえに、兄と喧嘩をしたからだ。兄は政略結婚に反対していたが、国のために嫁ぐと決心した。兄はとても純粋で優しかった。だから兄のためにも、絶対に幸せになると誓ってここに来ていたのだ。

 半月が経ったある日。信長は海岸で竹千代と木刀で稽古をしていた。大人になってから幼い子どもを相手にしたのは初めてだ。人なつっこい竹千代の世話で疲れきって、竹千代と砂浜に寝転ぶ。
「なあ信長。濃姫と、なぜ口をきかないのだ?」
「お濃か。そういえば、もう何日も話らしい話をしていないな」
「濃姫のこと、好きか?」
「ああ、大好きだ」
「どんなところが?」
「いつも明るく、笑顔がとてもまぶしい。那古野城のどの花よりも生き生きとしている。言いたいことははっきり口にする。そして男勝りで、人前では泣かぬような顔をしているのに、実は少し泣き虫なところだ」
「そうかあ! でも、泣くのは信長のせいではないのか? このあいだ一緒に寝たときも、濃姫は目を赤くしていた。いつも泣かせているのか?」「おまえ、まさかあのとき、ずっと起きていたのか?」
「あ、うん。信長。濃姫が言っていた、鶴姫とはいったいだれなのだ?」「おまえは知らなくていい」
「だれにも言わぬと約束する」
「……おれと互いに惚れていた仲だ。お濃が嫁いでくるまえ、おれを狙った刺客からおれを逃がそうとして、殺された。
「鶴はおれに、天下を統一して戦のない世の中をつくってほしいと言った。おれはその願いをかなえてやると誓った。
おまえやお濃のように、親から離れて生きなければならない子をなくすために、必ず天下を統一してみせる」
 竹千代が立ち上がって言った。
「信長。いつか信長のためになにかしてやりたい」
「どうしたのだ急に」
「いつか、信長がかなえたいという願いを、おれにも手伝わせてくれ」
「竹千代……」
「いつも遊んでくれたり、稽古の練習をしてくれる恩返しだ。約束する」「竹千代……必ずだぞ」
「濃姫は、おまえのことが大好きだ」
「なぜそう思う?」
「あのとき、泣いていたから。母上から聞いた。女が男の前で泣くのは、その男が好きだからだと。嫌いな男には涙は見せないと。きっと、鶴姫も信長の前でよく泣いていたのだろ?」
「鶴……ああ、よく泣いていた。いつもおれにいじめられて、おれの前で泣いていた」
「だから濃姫は、信長のことが大好きなのだ。おまえも濃姫が好きだから泣かせるのだろ? ほら、早く行こう」
「どこへ」
「濃姫と仲直りだ」
「ああ、行こう」
 城に戻った信長は、庭で弓矢の稽古をしている濃姫のもとへ向かった。濃姫を近くで見守っていた政秀が、やってきた信長に小声で言う。
「殿。姫様となにがあったのでございますか。きょうも朝からずっとあの調子でございます。矢はほとんど的にあたっておりませぬ。それでもずっとあの様子です。見てはおられませぬ」
「お濃とふたりにしてくれぬか」
 政秀が去ると、信長は濃姫のうしろに立ち、弦を引く濃姫の手に自分の手を重ねる。
「ふたりでやれば、きっとあたる」
「やめろ……離れろ」
「あの日、おれの妻として誇りを持ってここで暮らし、天下の夢を手伝ってくれると言ってくれたとき、言葉にできないほどうれしかった。そして思った。過去を忘れておれだけの女になってほしいと。おれたちはふたりでひとりだと。死ぬときは一緒だと。お互いそう思える仲でありたいと。だがおれは鶴を忘れられる勇気がなかった。なのにおまえには光秀を忘れてほしいと思って、おまえの気持ちを探ったりした。おまえの言うとおり、おれは最低だ。夫らしいことはなにひとつしてやれてない。いまからでも遅くはないと言ってくれるなら、時間はかかるかもしれないが、おまえだけを見ていられる男になる。きっとおまえだけの男になる。だからそのときは、おれだけの女になってほしい」
 放たれた矢が、的を射る。ど真ん中ではなかったが、見事といえる位置だ。
「その言葉に偽りがないと言うのなら、おまえが死ぬときは、わたしもついていく。天下統一の夢は、どちらか一方が欠けた状態では成し得ない。だから、なにがあってもわたしを守ってくれ。なにがあっても、わたしはおまえを守る」
 この日からふたりは、ただお互いだけを見ていたいという思いを片時も忘れることなく、夫婦としての絆を深めていった。
 しかしそんななか、悲しい出来事がふたりを襲った。
 この年の秋、三河の松平家の拠点である岡崎城城主で、竹千代の父でもある松平広忠が家臣に殺害されてしまう。松平家次期当主である竹千代を織田家に奪われている以上、岡崎城は無主の状態にあるため、松平家は、竹千代の奪還と、西三河の完全な支配を目指し、今川勢とともに進軍。西三河にて激突した両軍は、今川、松平連合軍総勢一万人に対し、織田勢は四千。織田軍は奮戦したが大敗。この戦で信秀の長男、信広を人質にとられた。そして今川と松平は、信広と竹千代の人質交換を要求してきたのである。これを飲んだ信秀に、信長は怒りをぶつける。
「なぜだ! なぜ竹千代を!」
「すべてはこの戦で負けたわたしに非がある。だが、人質にとられているのはおまえの兄でもある。まだ会ったこともないだろうがそれでもおまえの兄でありわたしの子だ。見捨てるわけにはいかない」
「それが戦なのだろう!? 大人の都合で幼い竹千代をもてあそぶのか!」「松平は当主である竹千代を、わたしは息子を取り戻したいと思っている。それだけなのだ。わたしを恨みたければ、恨んでもよい。だが、わたしはいままでおまえの意見を否定してきたことはない。おまえのためならなんでもしてきたつもりだ。こたびだけは頼みを聞いてほしい。どうかこの通りだ……!」
 信秀の言う通り、鶴姫との関係も認めてもらい、応援もしてもらった。うつけ者と呼ばれていた自分に真剣に向きあい、天下統一に向けた歩みかたまで教えてもらった。その父が懇願している。反対できなかった。濃姫は強く反発したが、逆らえないことはわかっており、従うしかなかった。
 城門前で竹千代を見送る信長たちは最初、不安にさせないよう明るく振舞っていた。
「竹千代。あちらへゆけば、また友や兄弟に会うこともできよう。おまえはいつか、おれと一緒に天下を取ると約束してくれた。だから必ずまた会えるときが来ると信じている」
「わかっている。約束した」
「おいで、竹千代」
「濃姫……」
「泣きたかったら、泣いてもいいのだぞ」
「母上……」
 無意識に、濃姫を母と呼んだ。濃姫は耐えられなくなり泣きだしてしまう。
「竹千代……また会えるから。会いにいくからね」
「わかっている。だから泣かないで」
「ごめんね……。大丈夫。大丈夫だから……。竹千代、これを持っていきなさい。父からもらったものだ。指先ほどの小さな竹笛だが、心から願って吹けば願いがかなうといわれている。わたしがここに嫁いでくるときも駕籠(かご)のなかで吹いていた。そして幸せになれた。竹千代も寂しくなったら、これを吹くの。きっとわたしに耳に届くから」
 授けたのは、霊力が込められているという斎藤家の伝説の家宝である。「必ず大事にする」
「きっとよ。さあ、行きなさい。また、すぐに会えるから」
「濃姫。笑ってくれぬか」
 そう言うと、濃姫は涙を拭って笑を浮かべた。
「やはり、信長の言った通りだ。濃姫の笑った顔は、那古野城のどの花よりもまぶしい」
「え?」
「こら、竹千代」
「行って参る!」
 竹千代は駕籠に乗りこみ、運ばれていった。その姿が見えなくなるまで、ふたりは立ちすくんでいた。
 見えなくなったとき、濃姫は泣いて震えだす。自分の子同然に思っていた竹千代を、自らの手で乱世に放った。命じられたことではあるが、竹千代の手を最後に放したのは自分だ。
「悔しくて……悔しくて…………悔しくて……」
 信長の胸にしがみつき、襟元をつかんで何度も信長の体を叩いた。
「おれはまだ無力だ。まだ六歳だ。その竹千代ひとり、救えなかった。家族同然の竹千代を」
 濃姫はしばらくすると泣き止んで、こう言った。
「おまえに罪があると言うのなら、わたしにも罪がある。自分だけ背負おうとするのはやめてほしい。わたしたちは、ふたりでひとりなのだから」「……ああ。その通りだ」
「手を握ってくれないか……。いつでもこうして、お互いの手を握られる距離にいよう」
 竹千代は今川家に送られ、そこで人質としての生活を送ることになった。必ずまた会えると信じて。そして、松平家の嫡男である竹千代を人質として得た今川家は、裏切った戸田康光の立て篭る城を滅ぼし、松平家が支配してきた三河を完全に支配下におさめた。
「竹千代が呼んでいる。笛のねが聞こえるような気がする」
 濃姫はいつもそう口にしていた。いつか竹千代と再会できると信じる気持ちがふたりの絆を強めていき、互いに気持ちを探ることはもうなかった。
 そうして、二年の歳月が流れたころ。信長の命運を左右する出来事が起きる。信秀が病に倒れ、重篤となったのである。信長を支援してきた信秀が倒れたことで、尾張の反信長勢力がいよいよ動きだす。
 宿命の敵、今川を前に、信長と濃姫は最初の試練を迎えることになる。

3幕『最初のくちづけ』

竹千代との別れから2年後。1551年の夏。
 ある日突然、信秀が那古野城に来ると、その顔は青ざめており、城中は何事かとどよめいた。
 そしてすぐに病床に臥せったのだ。
 信長が、
「父上、どうして黙っていたのだ!」
 と叫ぶと、
 信秀は、
「おまえに、心配をかけたくなかったからだ」
 とかすれた声で返した。
「父上は病に負けるような男ではない!」
(なぜ母がいる末森城から離れ、おれのところへ来たのだ)
 そう言おうとした。
 だが……。
「土田御前(どたごぜん)か……あいつとは、少し喧嘩をしていてな」
 と、以前言われたことがあったのを思いだした。
 いままで父が母のことを話してくれたことはあまりなく、聞いても多くを語ってくれなかった。
 生きるか死ぬかというときにそれどころではないだろうと思ったが、
(喧嘩ですむ状況ではなくなっているのか)
 と悟る。
「ずっと悔やんでいた。竹千代を、おまえたちから奪った。その報いが、いま来たのだろう。わたしもしょせん、戦にのまれ、
この世の言いなりに生きるしかなかった男だ。だがおまえたちは違う。おまえと濃姫なら、必ず何事も成しとげられるはずだ。
わたしのすべてをおまえたちに託す。わたしが死ねば、織田家は大きく動くかもしれぬ。嫡男として家督を継ぐべきおまえには、味方も大勢いるが、必ず敵も大勢いると思え。おまえを信じている。濃姫とふたりなら、きっと何事も乗りこえられる」
 織田信秀、那古野城にて病没。享年42。
 葬儀は、竹千代を預けていた万松寺(ばんしょうじ)でおこなわれた。
 
 寺は物々しい雰囲気であった。
那古野城の信長派と、末森城の城主であり信長の弟である信行派が一堂に会する。
 うつけ者と呼ばれた信長に比べ、年の近い弟の信行は謙虚で利発であった。そのため、信行に家督を継がせるべきだという意見が以前から多く出ている。
 しかし信秀は、
(信長はただのうつけ者ではない)
 と、信長に家督を継がせる意志を貫いた。
 それに反対したのが、この場にいる反信長派である。
「では、家主のかたからご焼香を」
 僧が言うと、
「すまない。家主の信長様が見当たらぬのだ。傷心しておられるのだろう。もう少し待ってくれ」
 と、政秀がささやく。
 すると、反信長派の急先鋒、筋骨隆々とした柴田勝家という男が政秀に、
「政秀殿。信行様から焼香を始めては」
 と耳打ちすると、政秀も周囲に聞こえぬように、
「勝家殿、なにを言われる。家主は嫡男である信長様と決まっておる。当然、信秀様もそのお考えであった」
 直後、馬が駆けてきて止まる音がした。
(信長様が来た!)
 安堵して身を乗りだすと、すぐに信長と濃姫が入ってきた。
 しかしなんと、信長は、道三との会見のときと同じく半袴、腰には火打ち袋という、まさにうつけ者姿。
 濃姫は稽古着である袴姿である。
 驚天動地、一同は唖然とし、政秀は息もできない。
 信長は大股で焼香の場に進む。
 そして抹香(まっこう)をわしづかみし、遺影に投げつけて出ていったのである。
 政秀は血の気が引いて倒れそうになる。
 続いて、信長のうしろに立っていた濃姫が静かに焼香の場につくと、信長派の一同は、
(もはやなにが起きても不思議ではない)
 と、脈が乱れて胸をさすった。
 ところが濃姫は丁寧に焼香をすませ、遺影に向かって手を合わせる。
 そして目を閉じて、しばらくそのまま動かなかった。
 政秀はその様子を見守っていた。すると、濃姫が合わせた手の指に、わずかに力が入るのがわかった。
(なにか、強く願っておられる……)
 その直後、濃姫は目を開けて、
「殿のお父上は、とても温かいおかたであった。きっと、こんなになっても、笑って殿を見ておられるに違いない」
 穏やかに言うと、さっと立ちあがり小走りで出ていった。
「ひ、姫様、お待ちくだされ!」
 信長も濃姫もいない葬儀となれば、今後、反信長派がさらに勢いを増すのは目に見えている。
 信長の振る舞いを見れば、信長派のなかからも造反者が出てもおかしくはない。
 勝家は周囲に聞こえる声で、
「政秀殿。殿は日夜、奥方と城下や野山を駆けまわり、野営して帰ってこぬ日もあるというではないか。いまのを見ておわかりいただけたか。やはり家督を継ぐのは信行様のほうが……」
 政秀は言い返せなかった。その気力すらなかったのである。
 しかし、これは信長の作戦であった。この光景を見てもなお、自分に従ってくれる家臣と、そうでない家臣を早期に見極めようとしたのである。濃姫の言った通り、父は笑って見てくれていると信じて。
 そして思った通り、信長を支持する那古野城の家臣たちと、末森城の城主である弟の信行を擁立しようとする、勝家を中心とした家臣たちの対立が、鮮明になっていったのである。

 政秀は信長の真意など想像すらしていなかった。
 信長にとって、政秀は信頼できる家老だが、この乱世においては信頼など無意味なものである。
 とくに、まだ力のない信長にとってはなおさらだ。
 政秀が自分につくとは言いきれないと思い、あの葬儀の意味を伝えなかったのだ。
 それが、のちに取り返しのつかない不幸な結果を招いてしまう。
 その後の2年は、信長と濃姫にとって我慢の時だった。
 稽古を怠らず、兵法も学びながら、自分たちに味方する者たちを選別していった。
 あのような葬儀での振る舞いを見ても、信秀に忠誠を誓っていた者たちの多くは信長についた。
 信長を信じていた信秀を、信じていたからである。
 信秀も、若いころは天下統一の夢を抱いていた。その信秀が家督を譲った信長は、長年の宿敵である斎藤道三と同盟まで結んだ。そして天下統一を目指している。
 信長と信秀の夢に乗ろうと、かれらは闘士を燃やしていた。
 反信長勢力とは戦力は互角。一戦交えるか、それとも和解によって織田家を団結させるべきか。穏健派、過激派による議論は夜な夜な続く。
 夏のある夜、政秀は議論の場にはじめて姿を見せなかった。
 那古野城内をさがしまわった信長は、なんと蔵で腹から血を流し倒れている政秀を目にした。
「政秀!? どうした!」
「と、殿……」
「だれに刺された!」
「殿のためにございます」
「どういうことだ」
「信行様に味方する家臣たちとの争いは、もはや止められそうにありませぬ。家老の柴田勝家は反信長の急先鋒。殿や信秀様と対立していた、守護代の信友と通じている可能性もございます。隙あらば必ず兵を挙げ、この那古野城に攻めて参りましょう。わたしの息子たちは、勝家らとともに信行様についております。戦になれば、息子の亡骸を見なければならぬかもしれませぬ。わたしとて父親。子を思う気持ちがございます。しかし、信長様を裏切ることなどできませぬ。いままでわたしは、殿のわがままをたくさん聞いてきたつもりでございます。最後だけは、望む通りに、楽にしてくだされ」
 政秀は、家老の身でありながら織田家をまとめることができず、また自分の子が信長の敵にまわっていることに責任を感じ、心が持たなくなっていたのだ。
「父だけでなく、おまえまで失えというのか」
「なにを……殿には、濃姫様がおられます。きっと、いざとなれば殿の盾になってくれるような、最高の娘にございます。その濃姫様との縁談をとりまとめたのはわたしでございます。どうか」
「いまのおれがあるのは、おまえがいたからこそだ。この恩は、来世で返させてもらう……」
 平手政秀、享年62。信長に見取られながら、その生涯を閉じた。
 織田家のなかで大きな影響力を持っていた政秀の死を受け、織田家は完全に分裂。
 信行は、父が以前から信長を特別にかわいがっていたことを妬んでいた。
 柴田勝家は、人徳のある信行を擁立し、織田家の主導権を握ろうとしていた。
 さらに信秀の正室であり、信長と信行の母でもある土田御前が信行を明確に支持したため、多くの家臣が信行になびき、
信長は苦難の道を進むことになる。
「葬儀のことを話していれば、政秀は心を強く持てていたかもしれぬ」
 信長が濃姫にそう弱音をはくと、濃姫は首を横に振って、
「心配するな。どんなことがあっても、わたしはおまえについていく」
 信長は、何度も、この言葉を生きる糧として、苦難を乗りこえていった。

 秋めくころ、信長は濃姫とともに山中へ向かった。
 城下が見渡せる場所に立ち、信長は持ってきた火縄銃を手に、
「よし、ここで試そう」
 試し撃ちをすることにした。
 濃姫は見たこともない武器に尊崇の念で、
「これが鉄砲か」
 指の腹でそっと触れた。
 信長から、
「これからの日本の戦の形を変える、すさまじいものだ」
 と事前に説明を受けていたからである。
「はは、お濃。神や仏ではない。しょせんは道具だ。遠慮なく触れ」
 濃姫に持たせると、
「わっ、おもっ」
 その重さに両腕を落とす。
「近年、日本に伝わった火縄銃というものだ。国友村から500丁ほど買いつけた」
 濃姫は好奇心で目を輝かせ、
「どうやって使うのか教えてくれ」
「ここの引き金を引くと、火をつけた火縄が、あらかじめ火薬を盛りつけておいた火皿と呼ばれる部分を叩く。それにより弾が発射される」
「早く見たい。早く撃って見せてくれ」
「よし、あの岩を狙おう。離れていろ。あと、耳をふさいでいろ」
 発射! 炸裂音が響き、遠方の岩に着弾する。
「うわっ……! すごい。あそこまで届くのか」
「もっと遠くまで届くが、目標が遠いほど殺傷力は低くなる」
「実践での殺傷力はどれほどを見込めるのだ?」
「足軽用の具足で試したところ、厚い鋼板を用いた胴体正面部分であっても、直撃を受ければいとも簡単に撃ちぬけるほどだ(足軽は徴兵による農民からなる軽装歩兵)。胴体に直撃すれば間違いなく助からないだろう。至近距離となると言うまでもない」
「こんなものがあれば、いままでの戦の常識が変わってしまう」
「その通りだ。ひとりの撃ち手に数丁の火縄銃と数人の手伝いがつき、撃っているあいだに周りの者が次の発射に備え弾を込める。これにより素早い連射が可能になる。だが命中に難がある。遠くの敵に当てるのは難しい。また、味方に当たっては元も子もないため、使いどころは限られる。一度乱戦になり敵味方入り乱れれば使うことはできない。とはいえ、使い方次第では一方的に攻撃でき、無類の強さを発揮できる場面もあるはずだ。鉄砲隊はいまのおれたちにとってなくてはならない強力な存在だ。そこでお濃に頼みがある」
「なんだ?」
「鉄砲隊を編成し、おまえに預けたい。満足に扱えるようになるためには、長い訓練が必要だ。おまえが訓練を指揮し、精鋭部隊として鍛えてほしい」
「そんな大事なことをわたしに?」
「大事なことだから、おまえに任せたいのだ。それにお濃は武芸の才がある。鉄砲もだれよりも早く使いこなせるだろう」
「そうか。よしわかった! わたしにまかせておけ」
「頼んだぞ」
 信長は100人の兵を鉄砲隊として編成。濃姫はそれを5人1組とし、1組に5丁の鉄砲を与えた。
 そしてひとりの射手と4人の手伝いに分け、訓練を重ねていったのである。
 同時に、ふたりは兵法に詳しい者を城に招くなどし、本格的な戦術の知識を学んでいった。
 信長は徴兵についても改革をおこなった。兵農分離である。
 主力となる足軽は農民であるため、農繁期には戦をしないのが普通である。
 だが、いつ戦を起こされても大丈夫なようにしなくてはならない。
 そこで、普段は農村に住み、農業経営をしている地侍を農業から引き離し、城下町に住まわせた。

 翌年の1554年1月。ついに対決のときがきた。
 織田家の分裂を好機と見た今川勢が尾張に侵攻。
 尾張攻略の第一歩として、信長の配下である水野忠分(ただわけ)を城主とする緒川城(おがわじょう)攻略のため、
その近くの村木に砦を築いたのである。
 忠分は信長に援軍を求め、信長はこれに応じた。
 また、留守のあいだに守護代の織田信友や信行が那古野城を攻めることが予想されたため、那古野城の見張りとして斎藤道三に救援を求めた。
 道三は、
「守就(もりなり)、1000の兵を率いて那古野城へ向かえ。逐一状況を知らせるのだ」
 と、美濃の有力武将である安藤守就に出兵を命じた。
 守就が部屋を出ていくとすぐに、
「お待ちを」
 と、光秀が早足で道三の前に来て平伏する。
「その兵、わたしに預けてはいただけませぬか」
「おまえが帰蝶を想う気持ちは分かっておる。だからこそ、おまえをいかせることはできぬ」
「なぜでございますか」
「帰蝶に万一のことがあったとき、おまえに無茶をされては困る。われらは那古野城の留守を預かるだけの役目。村木砦の戦いに加勢するわけではない」
「しかし」
「帰蝶になにかあったとき、おまえはなにもせず帰ってこれるのか?」
「それは……」
「光秀。わしはおまえがいまも帰蝶を大事に思ってくれることに感謝しておる。むしろ、申し訳ないとすら思っておる。しかし、おまえは妻を迎えたばかりだ」
 光秀は昨年、ふたつ年下で25歳の妻木煕子(つまきひろこ)を妻に迎えていた。
 煕子は許嫁であったが、光秀と濃姫との仲が公のものとなると、自ら身を引いていた。
 そして、夫を得ずに、まだ光秀を思っていたのだ。
 それを知った道三は、煕子の気持ちを光秀に伝えると、煕子の気持ちに応えたいとして婚姻したのである。
「おまえのためにとても尽くしてくれていると評判だ。その妻のためにも、おまえを危険に晒すわけにはいかない。おまえは斎藤家にとって、この国にとって、最も大切な家臣だ。わかってくれ。帰蝶に伝えたいことがあれば手紙に書き、守就に預けることを許そう。それがいまのわしにできる精一杯だ」
 援軍として美濃を出発した安藤守就率いる1000人の兵が、1月20日夜中に尾張に到着。那古野城近くに布陣した。
 那古野城に来た守就のもとへ信長と濃姫が駆けてきて、
「なんと礼を言えばよいか」
 と、信長が軽く頭を下げた。
「那古野城の守りはお任せくだされ」
「ほかの者たちにも礼が言いたい」
「あちらに控えております」
「承知した。お濃。ここを頼む」
「わかった。やあ守就。久しぶりだ」
「帰蝶……いえ濃姫様。この役目、光秀殿が志願いたしましたが、聞き入れられず。これを光秀殿より預かり申した」
「手紙?」
「失礼つかまつる」
 守就が去って、手紙を開いた。
 そこには、剣術稽古を習ったときと同じ言葉が書かれてあった。
「兵たちのために生きる。あなたから学んだこと、決して忘れませぬ。どうか、見守っていてください」
 翌日、信長と濃姫は那古野城の直卒部隊800人を率いて出陣。信長に味方する信長の叔父である織田信光も居城から200人を率いて出陣し、2日後、緒川城に到着した。城主の水野忠分は齢18だが、勇敢で信長に忠誠を誓う武将である。
 信長と濃姫は、忠分とともに部屋で軍議をはじめた。
「信長殿、そして奥方。こたびのご出陣、あらためて心より感謝申しあげる」
 信長が、
「忠分。この城が落とされれば、今川の尾張侵攻は確実なものとなる。尾張の命運がかかっているのだ」
 忠分は、
「命をかけて、必ずや追いかえします」
 濃姫は、
「その意気だ。信光殿は砦の偵察に向かった。3人で軍議をおこなう。砦の状況を教えてくれ」
「これが見取り図にございます。この図は全景の予想であり、内部はどのようになっているかほとんどは不明です。砦の大きさは南北120間、東西100間ほどの馬蹄形をしております。この大きさから見て、敵の数は少なく見積もって200。多ければゆうに800を超えている可能性もございます。大将は不明ですが、守兵らはおそらく三河衆を中心とした精鋭でありましょう。ほかにも、村木の村人たちを雑兵(ぞうひょう)として動員しているとのこと」
「村人を?」
 濃姫が怪訝な表情で聞いた。
「脅された者はもちろん、恐れて自ら協力している者もおりましょう」
 信長は落ちついた表情で、
「砦が早々に完成したのは村の協力があったからということか」
「いかにも。北は要害で攻めるは不可能。東は大手門で海に面しており、西は茨(いばら)の生い茂る搦手門(からめてもん)。南は深い空堀(からぼり)で、底に立つと対岸が見えないほどの堅牢な構えにございます」
 信長が、
「これはもはや小さな城だ。通常、確実に城を落とすにはどれほどの戦力が必要になる」
 と濃姫にたずねる。
「城方の5倍の兵力が必要になるはずだ」
「正解だ。よく覚えていたな」
 ほころんだ顔で言うと、
「馬鹿にするでない。必死で覚えたのだ」
(ああ、わかっている)
 と信長はうなずく。
「こちらの兵力は信長様の直卒部隊が800、内、鉄砲隊が100。信光殿が200、我ら水野兵が200、合わせて1200。もし敵の数が800であれば4000の兵が必要になります。正攻法では勝ち目はありませぬ」
「お濃、どう思う? 意見があれば聞かせてくれ」
「当たり前のことではあるが、砦の中に入らない限り勝ち目はない。東西の門のどちらかからでも砦に入ることができれば、勝機はある。しかし、門は狭く、大軍が一度に殺到することはできない。防御に優れる門に敵の全兵力が集中すれば、こちらの被害だけが増える。であれば!」
 濃姫が見取り図に強く指を落として動かしていく。
「東西の門と南側の3方向からの同時攻撃で、敵の兵力を分散させる。南は相当の被害は覚悟の上、堀にハシゴをかけ足軽にのぼらせ、阻止しようとする敵を鉄砲隊が攻撃して援護する」
「さすがだお濃。鉄砲隊を活かすにはそれしかない。最も攻めにくい南はおれが引き受ける。火縄銃の実戦投入は初だが、このときのために鉄砲隊を鍛えてきたのだ。みな忠義を尽くしてくれる精鋭揃いだ。必ずやってくれると信じている。明朝、奇襲をかけ、3方向から同時に攻める。西の搦手門は信光殿に、東の大手門を水野勢に任せたい。東は船で素早く浜に上陸し、なにがなんでも門を突破してくれ。水野兵と信光殿の兵は勇敢な兵が多いと聞く。それぞれ200と数は少ないが、敵が分散すれば、必ず抜けられるだろう」
「必ずや!」

 軍議が終わり、信長と濃姫は庭に出て、並んで月を見た。雲ひとつない天上で溢れだすこのときの月光は、万物を平等に照らす太陽とは違い、自分たちになにかを語りかけているように見えた。
 濃姫が言う。
「綺麗な月だ。竹千代も、見ているだろうか」
「また会うと約束した。勝って、必ず生きて帰らねば」
だが濃姫には、この月光が、最期のひとときを与えようとしているように思え、そして挽歌のように思えた。
「……怖くないか」
 と、見上げたまま濃姫が聞いた。
「なにがだ?」
「わたしの父が親子二代であそこまでのぼりつめたのは、あらゆる手段を使ってきたからだ。頭も切れる。わたしたちと同じく、天下を夢見てきた男だ。日が経てば、わたしの前では優しかった、かつての父ではなくなっているかもしれない。いまの那古野城は、父が裏切ればたやすく手に落ちる。ここの状況によっては、わたしたちを見限ってそうするかもしれない。そうなれば、わたしたちに帰る場所はなくなる」
 信長は、はっきりと、
「おれは、道三が裏切るなどとは微塵も思っていない」
 濃姫は、道三を信じる信長の自信に満ちた言葉が、逆に不安を増して、
「どうしてそう言い切れる」
 答えを求めた。
「おまえの父だからだ。おれと同じように、おまえが道三を信じるなら、おれはなにも怖くはない」
「……おまえに慰められるとはな」
「いつも、お濃がおれを慰める役だったからな」
「ふふ、ほんとだな」
(そうか。だからさきほどもわたしを小馬鹿にして、緊張をほぐそうとしてくれていたのか)
「まだ、怖いか?」
「……那古野城を出るまでは、恐怖などなかった。ここに来て、いろんな恐怖が襲ってくる。おまえはいつも、わたしを信じてくれているのに……。わたしは恐怖に負けて自分さえ信じていなかった……。正室として最低だ」
「それは違う! おまえは最高の女だ。おれの妻にはもったいないほどに」
「信長……」
「おれはもう、おまえだけを見ていられる」
 心の奥底でずっと待っていた言葉――。滲み出そうになった涙を唇をかんで瞳に染み込ませる。そして、信長にくちづけをした。
「わたしも、おまえだけを見ている……」
「愛してる」
「愛してる」
 このとき、信長二〇歳、濃姫一八歳。ふたりがはじめて、愛を誓った瞬間だった。
 尾張と織田家の命運をかけた戦いが、いま、はじまろうとしていた。




戦国豆知識
 作中で光秀が濃姫に伝授した奥義は、敵の攻撃を防いでからの居合術。
 居合術は、片膝をついた状態で抜刀し、立ち上がりながら敵を斬る剣術である。
 居合術は、意外にも、戦国時代に考え出されたものだとされている。
 この時代のおもな武器は槍であり、槍を斬られたり、槍の間合いの内側に接近されるなど、切羽詰まったときのために考え出された。
 光秀は天才であり智将と言われているが、それだけでなく、剣術にも秀でていたという記録も残っている。
 戦国武将のなかでも、あらゆる面で卓越した才能を発揮し、最も有能な武将と言っても過言ではない光秀。
 ある記録にはこういう言葉がある。
 「優れた武将は代わりはいくらでもいるが、光秀は光秀であり、代わりはいない」
 そして側室をひとりも置かず、妻となった「妻木煕子(つまきひろこ)」を愛しぬいた。
 この夫婦仲は、戦国1、2を争うほどであると有名である。
 そんな光秀が、なぜ本能寺の変を起こし、信長に反旗をひるがえしたのか。
 謎に包まれた濃姫と同じく、戦国最大の謎のひとつとされている。

戦国歴史長編小説『蝶や花や』 第2話『一心同体の誓い』

作中年表(設定変更により多少作中と違う部分あり)

1549年 信長、国友村に火縄銃500丁を注文。
    濃姫、剣術を習うため、剣豪である光秀(21)を美濃より那古野城に招く。濃姫と光秀の再会。
    春ごろ、6歳の竹千代が那古野城に送られてくる。
    信秀、西三河にて今川、松平連合軍と衝突し、敗北。長男の織田信広を人質にとられる。
    竹千代、織田信広と人質交換として今川に返還され、
    今川は松平家嫡男竹千代を人質として得て、完全に松平を保護下に置くことに成功。
1551年 信秀、古渡城にて病死、享年42。古渡城は廃城。信秀の葬儀。信長17歳、家督を継ぐ。
    信長と弟の信行の家督を巡り、織田家が分裂。
1553年 信長の後見役(家老)である平手政秀、織田家分裂が原因で自害。
    (光秀、許嫁だった妻木煕子(つまきひろこ)と結婚)
1554年 織田家の分裂を好機と見て松平勢を中心とした今川勢が尾張に侵攻。緒川城攻略のため村木砦を築く。
    信長と濃姫、援軍として直卒(直属)部隊全軍を率いて緒川城に到着。    

戦国歴史長編小説『蝶や花や』 第2話『一心同体の誓い』

2話は濃姫と信長のなかにともに存在する過去の思い人が原因で衝突する姿を中心に進みます。 1幕は濃姫と光秀を中心に。2幕は竹千代(家康幼少期)を中心に。3幕は、信長が初めて鉄砲を使った村木砦の戦い前夜まで。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1幕『濃姫、明智流奥義への試練』
  2. 2幕『ふたりでひとつ』
  3. 3幕『最初のくちづけ』