また、春に会いましょう
「僕と一緒に心中してくれませんか」
ふと、静かな広い和室で、寝転がったままの男がぽつりとつぶやいた。
私は眉をひそめる。
「……またその話ですか?」
男はぐったりと横になったまま、ぼそぼそと続ける。
「いやまあその件はほんとうにどうでもいいんですけど……」
外では雨が降っている。
男は急に話題を変えた。
「あ、そうそう、昨日、僕んとこに尋ねてきた呪術師さんのことなんですけどね」
「ああ、昨晩いらしていた方ですか。確か、どなたかの紹介でいらした呪術師の方から、お祓いや占いをしてもらった、と言っていましたね」
「はい」
男は畳の上でごろりと寝返りを打って、大の字に仰向けになった。
和室の、シミの浮いた天井をぼおっと見つめながら、男は言う。
「その呪術師さんは、代々有名な神に仕えるとても優秀な人だったらしいんですよね。わざわざこんな僕んとこまで来てもらって申し訳なかったです」
カチ、カチ、と柱時計が静かに音を刻んでいる。
「昨日来たその人ね、僕と会った瞬間、僕の顔を見るなり預言をしてきたんですよね」
男は虚ろな目で天井を眺めている。
私は静かに尋ねた。
「なんと、言われたのですか?」
ちらり、と男が私の方を見て、そしてちょっと笑った。
「『お前は一生、生涯孤独な人生を送るだろう』と」
彼の瞳の色は、いつも通り、恐ろしいほどに真っ黒だった。
雨が降っている。
『また、春に会いましょう』
日本には今でも八百万の神がいる。太陽をつかさどる神、お米の神、川の神、あるいは人間や妖怪に近いものまで、現代でもありとあらゆる神様が人に紛れて生活をしている。
神の中にも地位というものはあって、権力を持つもの、強大な力を持っている者もいれば、ひっそりとしているような小さな神も多くいる。多くの者と交友関係を持つ者もいれば、そうでない者もいる。
その中に、少し変わり者の神がいた。「雨」を司る神で、名を時雨と言う。
時雨は、れっきとした「雨の神」ではあるのだが、生まれたときから「謎の病」を患っている神だった。
「雨の神」であるため、時雨が立っている場所、あるいは住んでいる場所の天気はいつも絶対に雨になる。どこへ行っても、どの地方に足を運んだとしても、どこに腰を落ち着けたとしても必ず雨が降る。
しかし、問題はそこではなかった。時雨は神でありながら、自分の力を制御するすべを持っていなかった。彼が憂鬱になったとき、不機嫌になったとき、あるいは絶望したとき、時雨の周りに降る雨はどんどん強くなって最後は必ず土砂降りになる。嵐が起き、洪水が生まれ、時雨のいる土地ごと流されそうになったことまであった。
「自分の感情にその場の天候が左右される」というタイプの力を持つ神は、さほど珍しい存在ではない。しかし、自分が「降ってほしくない」と思ったタイミングでなぜか雨が降ってしまうこと、自分の心ひとつで勝手に豪雨や洪水が起きて土地がだめになってしまうことに、時雨は辟易していた。そして何年たってもその妙な癖はずっと治らなかった。
いつしか、彼はこう思うようになった。
自分は、おそらく、誰かと一緒にいてはいけない存在だ。
人や、あるいは神と自分が一緒にいると、必ずそこに雨が降る。そして一歩間違えるとそれは豪雨になり、何もかもを流してしまう。
ならば、自分は一生ひとりでいたほうがいいのではないか?
はっきり言って、自分は迷惑な存在でしかない。
こうして、時雨は日本各地を転々とさまよう日々を続けた。梅雨の時期には人ごみに紛れてひっそりと息をし、夏は太陽の邪魔にならないように山奥へ隠れていた。
そうして過ごしてきた、何十年目かの冬に、彼の身辺にちょっとした変化があった。
彼は旅の途中で一人の女性の姿をした神に出会った。彼女は「雪を司る能力を持つ者」で、自らを雪の神と名乗った。雪の神は雨の神の持つ「病」のことを知り、彼がこれからどこに身を置こうか迷っているという旨を聞くと、彼に一軒の古い屋敷を紹介した。その屋敷は深い山の奥にあり、同時に「雪の神」自身の住まいでもあった。己も長らく独り身であったため人恋しいというのはある、だからもし良ければしばらく一緒に暮らさないか、と雪の神は時雨に提案した。ここなら人間もほとんどおらず、また豪雨が起こっても被害は少なくて済む。そして何より、雪の神の影響で冬は雨ではなく雪が降る地だ。
時雨は自分に対して否定的ではない様子の雪の神に少し驚いた。そしてかなり悩み、なんだか申し訳ないと思いつつも、最後には彼女と一緒に暮らすことを決めた。
それから春になり、夏が来て、秋になった。雪の神の屋敷の周りでは、終始雨が降るようになったが、雪の神はもともとあまり天気に興味がないらしく、大して気にしていないようだった。
しかし、「雨の神が病である」という噂はかなり前からそこかしこになんとなく流れていたため、彼が山奥に住んでいることを突き止めた他の神が心配して突然訪ねてきたり、「病に効くらしい」といって薬を持ってやってくることが何度かあった。自分の従者である呪術師や魔術師をよこして、「お祓いをしてもらえばいい」と言ってくる者もいた。
しかし、雨の神が自分の感情と自分の能力を切り離すことはどうしてもできなかった。どんな薬を飲んでも、お祓いをしてもらっても、他の神に親身になって話を聞いてもらっても、だめだった。
そろそろまた引っ越さなくてはいけない、と彼は思った。このままずっといてはこの地は永遠に雨ばかりになり、雪の神に迷惑をかけてしまうだろう。
次は少し足をのばして金沢にでも行ってみようか、などと考えていた。
***
季節は秋の終わりから冬へと変わり始めた。
少し早めのみぞれまじりの雪が降るようになった、とある朝のことである。
時雨が目を覚ますと、雪の神はすでに出かけていた。
彼女は生活を共にしていながら、あまりこちらのことを意識しないというか、急にふっといなくなることがよくある。夜までには帰ってくるだろう。あるいは何日かすれば。
そう思って、時雨は一人で一階の客間に降りた。台所の古くて小さな冷蔵庫からたくあんとしば漬けを出し、昨日の残りの味噌汁を温め、ご飯をよそい、客間のテーブルに持って行った。
「いただきます」
と、箸をつけようとしたタイミングで、
「ただいまー」
ガラガラガラと玄関の引き戸が開く音がした。雪の神の声、そしてもう一人、誰かが一緒にいるという気配を時雨は感じた。
今まで、自分の知り合いがここを尋ねてくることは何度かあったが、雪の神が誰かを連れてくるということは初めてだ。
(こんな朝に誰だ? またあのクソみたいな呪術師とかだったらどうしよう、これ以上誰にも会いたくないのに)
玄関から雪の神の声がする。
「時雨、いますかー? って、いま起きてきたんですか? もう10時ですよ」
「あーすみませんまた全然起きれなくて」
お客さんですか?
と尋ねる前に、雪の神のほうを見た瞬間、時雨は言葉を失った。
雪の神の隣に、見知らぬ青年が立っていた。
自分より背が高く、がたいもいい。精悍な顔つきをしており、肌は少し日に焼けていた。
雪の神が手に持ったスマホをポチポチしながら言う。
「急に人連れてきてすみません。でもまさかまだ朝飯食ってるとは思わなかったんで」
青年も、時雨の存在を雪の神から知らされていなかったらしく、客間の入り口で戸惑ったような顔をしていた。
「えーと……」
しばしの沈黙ののち、青年は時雨に向かって丁寧に頭を下げた。
「雪の神さんの友人の、吉野と言います。突然お邪魔してしまって申し訳ありません」
これが、時雨と吉野の出会いであった。
***
吉野という青年は、どうやら神ではなく人間であるらしい。
数年前、吉野が旅行中にこの近所の山道で迷って遭難しかけていたところを雪の神に助けてもらったのが縁で、以来雪の神と友人関係を続けているという。
今、時雨は客間のテーブルで見知らぬ青年と雪の神を前に、黙りこくっていた。
カチ、カチ、と時計の秒針の音だけが流れている。
どこまでもマイペースにお茶をすすっていた雪の神は、ことん、と湯呑を置くと、唐突に切り出した。
「単刀直入に言いましょう。時雨、この吉野さんという人は人間ですが、れっきとした私の友人です」
雪の神は続けた。
「断言します。この人には、あなたの「病」を治す力がある」
「え?」
出しっぱなしの時雨の朝ごはんには箸をつけられず、そのままになっている。
「え。あ。あの、いやあの急に言われましても」
ものすごくコミュニケーション障害な感じの言葉が口から出てきてしまい、途端にものすごく惨めな気持ちになった。
雪の神はてきぱきと続けた。
「さて、では私はこれで。伝えるべきことは伝えました、あとは二人でなんとかやっていってくださいね。私は原稿の締め切りとか色々忙しいので、あと再来週の日曜はイベントなんで家開けますから留守番よろしくお願いしますね」
雪の神は言いたいことだけいってさっさと客間から出て行ってしまった。こんな田舎からよくビッグサイトまでいく元気があるものだ、といつも思うが、そんなことは今はどうでもいい。
素性のまったくわからない青年・吉野と、時雨、そして冷めてしまった朝ごはんだけが客間に取り残された。
吉野が言った。
「……雪の神さんって、なんというか、面白い方ですよね」
そして少し笑った。
外はみぞれが降っていて家の中は薄暗いのに、なぜかまぶしい、と思った。
「そうですね。ただ、僕みたいな奴となぜかずっと仲良くしてくれるんで、彼女はいい人ですよ」
時雨の初対面の人に自分を卑屈な風に紹介してしまう癖は、いつまで経っても治らない。
彼はだんだんと自分がまた惨めになっていくのを感じ、とっさに窓の外をふり返った。外の気温が少しあがったようで、みぞれは雨に変わっているが、まだ大雨にはなっていないことを確認し、ほっとする。
吉野が、少し不安そうな顔をして時雨に切り出した。
「その、雪の神さんから以前伺ったことがあるのですが……時雨さんは、長年ご病気でいらっしゃる、と」
「あーえー、ご病気というか、その……」
目を逸らしてあわあわしているうちに、時雨はあることに気が付いた。
「ん? というか、吉野さんって『人間』なんですよね……? 僕や、雪の神の姿が見えるって、結構すごいことだと思うんですけど……」
「ああ。そのことなら、僕は昔から霊感が強い性質なので……その、幼いころから色々「見える」体質のもので」
「そうなんですか。それは珍しいですね」
「神々の姿が見える」という体質の人間は古来から存在しているものの、現代ともなるとその数は非常に少ない。今では「千人に一人」とすら言われているほどだ。
「見える体質の人間って、人里で暮らしていくのはなかなか大変と聞くことがありますが」
「うーん、今のところ、特に大変とかはあまりないかなあ、という感じですね」
吉野は終始穏やかに言葉を返してくれる。
が、会話が途切れる。
沈黙。
(なんで雪の神は突然こんな得体のしれない「見える体質」の人間なんか連れてきたんだ、しかも初対面同士を置き去りにするとかあの人最悪では?)
言いようのないもやもやした苛立ちと焦りが湧いてくるのを時雨は感じた。
と、突然あたりがピカッと一瞬だけ光り、遅れて空が大きくゴロゴロと鳴る音がした。冬の冷たい雨が、窓ガラスに叩きつけるような勢いで降っている。
「あ、雷……」
吉野が窓の外を見た。
まずいことになってきた、と時雨は感じた。己の「病」が今日もまた、勝手にひどくなりつつある。
「すみません、こんなひどい天気の日にわざわざこんな山奥まで来ていただいて……あの、今日はきっとこれから雨も強くなると思いますし、これはもしかするとあまり長居はおすすめできないかもしれないな~というか……」
なるべく笑顔で、時雨は吉野に言った。
このままだと、吉野が帰れなくなるレベルの豪雨が降り始める可能性というのがゼロではなくなってくる。いや、吉野が帰れないくらいで済めばまだいい、万が一だが自分のせいでこの雪の神の住まいが洪水に沈んでしまったりしたらひとたまりもないという恐怖感が存在する。
しかし時雨の心配をよそに、吉野はきょとんとして言った。
「え? ああ、お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですよ、雨の日の山というのもまた良いものだなと思いますし。それに」
気づけば吉野は窓の外ではなく、時雨を正面から見つめていた。
「やまない雨はないですから」
吉野の声に覆いかぶさるようにして、雨の音がざあざあと鳴っている。
また近くで雷が轟いて、二人の影が一瞬だけ、客間に明るく照らし出された。
いつもと変わらない、自分の意志とは関係なく大きく揺れる天候だった。
なのに時雨は、それまで息苦しかった閉塞した何かがふいに取れたような気持ちになった。
(やまない雨はない)
そんな言葉は、自分の辞書には載っていなかったし、思ったこともなかった。そして誰かからこんな風に言われるのも初めてのことだった。
気づくと時雨は吉野に尋ねていた。
「……雨、本当にやむんですか?」
今それをこの青年に聞いたところで何にもならないということは、時雨自身が誰よりもわかっていた。だが、とっさに聞かずにはいられないような気がした。
「あっ……い、いえ、今のはその、なんというか、とっさに出た言葉というか……」
急に吉野が気恥ずかしそうにするのを眺めながら、このとき時雨はなんとなく、「この人になら話してもいいような気がする」と思った。
それはただの直感であったし、気まぐれでもあり、「自分の病が治るという確信」なんてものは微塵もないと感じていたが、それでも何となく思ったのだ。
もう少し、この不思議な人と話をしてもいいかもしれないと。
***
時雨は吉野に話をした。自分は雨の神であるということ、「病」のこと、それもあって本当は一人でいるのが性にあっているのだということ。現在進行形で雪の神に迷惑をかけているということ。
そのついでに、吉野に屋敷の中を案内した。雪の神の住居は古く大きな家屋で、玄関から入ってすぐの洋室の客間に加えて、奥にはいくつもの和室が続いている。縁側や、外に面した長い渡り廊下もある。
はじめの客間からいくらかの部屋をまたぎ、二人は障子張りの小さな和室に腰を落ち着けた。そこは時雨が自室として使っている部屋で、物の少ない殺風景の場所だった。長机と座布団、桐の箪笥、あとは雪の神がどこかから拾ってきた魚たちの入っている水槽くらいしか、特筆すべきものはない。
時雨はひとまず話をまとめた。
「というわけで、僕はどうしようもない神様ってことなんですよね。雪の神がどうしてあなたを連れてきたのかは定かではないですが、今まで治らなかったものは治らない可能性のほうが高いです。僕の「これ」も、生涯付き合っていくしかないんでしょう。まあ、いつになったら死ねるのかとかはちょっとわかんないですけど」
だから、どうしようもないものはどうしようもないのだ。
そういう、いつものオチだった。
それまで真面目な顔で黙って話を聞くだけだった吉野は、ふと安堵したような顔を見せた。
「……時雨さんは、僕と少し似ているのかもしれない」
「はい?」
思わず間抜けた声が出てしまった。この体育会系出身営業サラリーマンのような外見をした優男と、インドアひきこもり色白人間ならぬ色白神の、一体どこに共通点があるというのか。
「僕にも、同じようなことがあるので……「病」ではないかもしれないけれど、根本的な部分では時雨さんのそれと同じかもしれない、というか」
吉野は時雨の飼っている色とりどりの魚たちに目をむけながら、ぽつぽつと話し始めた。
「僕、普段の仕事のうちで、いわゆる『宴会係』みたいなものを担当しないといけないことが多いんですよね。いわゆる飲み会や打ち上げの手配担当みたいな……」
「それは……僕なら想像するだけで嫌ですね」
「んー、僕もあまり得意なほうではないです」
吉野がふふっと笑った。
「特に、春の歓迎会のシーズンは特に仕事や雑務が多くて……今の時期も、それの準備とかでちょっと忙しくなりつつあるんですけど」
「はあ……その『宴会係』とやらは誰かに変わってもらったりはできないんですか? それか、部署を移動するみたいなものはないんですか」
「うーん、ちょっと、無理そうですね。いまのところは」
「それは大変ですね……」
何が言いたいのかいまいちよくわからないが、この何でもそつなくこなしそうな人にも苦手なことはある、ということはわかった。
「……僕、実はあまり春という季節が好きではなくて」
吉野は魚の泳ぐ水槽を眺めながら言った。
「出会いと別れの季節、というのがどうも苦手で、馴染めなくて……僕はそういうことを言ってる場合ではない立場なのですが」
魚たちの鱗や尾がちらちらと細く光る。
時雨は少し怪訝そうな顔をした。
「そのあたりが、僕と吉野くんが似ているポイント、なのですか? 吉野くんのそれは、自分の「病」とは種類が違うような気がするのですが……吉野くんの悩みはお仕事の悩みで、僕のはなんというか……生まれ持った性質というか、性格というか」
吉野がぱっとこちらを振り向いた。顔が整っている人と目が合うとくらくらするような気がしてとっさに目を伏せる。
「性格! そうなんです、性格のことなんです」
「?」
へにゃっとしたような顔をして、吉野が言った。
「春が苦手というのもそうなんですが、僕結構苦手なものが他にも多くて……桜海老とか」
「桜海老」
唐突すぎておもわず真顔になってしまった。
「魚とかも、特に小さいものは目があうとなんだか申し訳なくなって食べづらくて……これ、雪の神に言ったら爆笑されて、『えっそれは、ひよこがかわいそうだからわたし卵は食べられないの~!! とか言うのと同じレベルではないのですか?』とか言われて馬鹿にされまくったんですけど」
「んぶふっ」
吉野が雪の神の口調をまねたのがあまりにもそっくりだったため、思わず口から変な笑いが出た。
「やっぱり時雨さんでも笑われますか……」
「ああいえ、すみません」
大の男が「桜海老がかわいそうなので食べられない」とか言い始めるのはちょっと予想できなかった。というか、今まで気が付かなかったが、もしかしてこの人は天然というやつである可能性が高いのではないか。
「で、結局それはどういうことなんですか」
「あっすみません……えーと、だから、『どうしようもないものはどうしようもないのだ』ということである、というか……」
吉野は言った。
「時雨さんの「どうやっても雨をコントロールすることができない」というのも、僕の「どうしても春が苦手」というのも、「桜海老がなんだか食べづらい」というのも、やりたくてやってることではないし、全部もとからの性格というか、そういう風に生まれたのだから仕方のないことではないか? と思うんですよ」
時雨がいまいち飲み込めないような顔をしていると、慌てて彼は付け加えた。
「あっ、「だから時雨さんのその性質は治らなくたって良い」と言いたいわけではなくてですね、もちろん治るにこしたことはないけれど、でも「治らなくとも時雨さんは時雨さんである」と僕は思う、というか……」
ひとつひとつ、言葉をゆっくりと選ぶようにして、吉野は続けた。
「誤解を恐れずに言うなら、「そのままでも別にいい」と僕は思うんですよね。苦手なものがあっても僕は僕ですし、時雨さんは時雨さんであることに変わりはないので……」
ここまできてようやく、時雨は「彼は自分を元気づけようとしてくれているのかもしれない」と感じたものの、同時に少し驚いてもいた。
今まで、他の神たちは皆、薬を持ってきたり呪術師をよこしたり、とにかく「雨の神を治してあげなくては」という気持ちのもとに自分のもとへやってきた。誰もが「この不幸な者を治してあげないといけない」と思っていたようだった。
だが、この人は違う。他のやつらと同じように治しにきたのかと思えば、「そのままでもいいのではないか」と言う。この屋敷まで来て、そういうことを言う者は吉野以外にいなかった。
(もしや自分は今、)
受け入れられているのではないか?
脳裏に浮かんだ言葉を無理矢理かき消すようにして、時雨は言った。
「今の吉野くんの言ったことをまとめると、つまるところ「吉野くん自身には、僕の病を治すような力などない」ということですよね?」
「あ、え……」
吉野が俯いた。ただの人間に対してこんな風に接するのは酷であるような気もするが、彼は文字通りただの人間なのだから仕方がない。
「……はい。正直に言うと、僕には「病を治す能力」なんてものは、たぶんないと思います。雪の神さんが僕に声をかけてくださったから、ここへ来ることができただけなんです」
なら雪の神はどうして、と時雨が尋ねる前に、吉野が顔をあげた。
「でも、僕は時雨さんと友達になりたい」
それは突然で、かつまっすぐだったため、あまりのことに時雨は次の言葉を忘れてしまった。
「こんなの押しつけがましいし、説明不足だし説得力の欠片もない、無礼な行為であるとはわかってるんです、でも、雪の神さんから話を聞いたときから、僕はずっとあなたに会ってみたかったんだ」
光がさした。
比喩ではなく、障子の隙間から陽がさしこんだのだ。
固まっている時雨をよそに、吉野が「あれっ? 晴れてるな」と言いながらガラガラと障子を開けていく。
朝の雨はきれいに消えて、ほの白くて静かな冬の空がそこには広がっていた。
小さい鳥たちがチチチとさえずっている。いつもは雨音や雪に消されて聞こえない木々がざわめく音が穏やかに聞こえる。
どこにでもあるようで、もしかしたらもうこの先一生ないかもしれない、「晴れ」だった。
時雨は、吉野が先ほどまで座っていた場所を直視したまま未だに硬直していたが、しばらくして掠れたような小声でつぶやいた。
「友達、の」
急に明るくなった部屋で、吉野が瞳をぱちぱちさせている。
「友達の、定義って、なんでしたっけ」
そんなもの、自分にはいたためしがなかったから、わからない。
それを聞いた吉野は答えた。
「うーん……自分で「この人は友達だ!」って思ったら、その瞬間から友達なんじゃないでしょうか?」
彼は笑うと困ったような顔になる。
自分がこのときどんな顔をしていたのか、時雨は後にも先にも思い出せないでいる。
魚が入った水槽の水が、太陽にきらきらと反射してまばゆく光っていた。
***
それからというもの、吉野は時雨と雪の神のもとにたびたび訪れるようになった。平日は仕事が忙しいようで、来るのは土日が多かったが、「ここに来ると羽を伸ばせたような気分になれる」と言ってずいぶん気にいっている様子だった。
月日が経てば経つほど冬の寒さは日に日に厳しくなっていったが、一つだけ変化があった。
吉野が来る前、ここの天気予報は常に「雨」または「雪」が連日続くという状態だったのだが、今は違う。
「時雨さん、最近調子いいですよねー」
冷え込んだ朝、客間で雪の神が古いブラウン管のテレビをぽちっとつけると、気象予報士の姿が映し出される。
『今日は一日、穏やかな晴れが続きます。気温は昨日より少し上がりますが、真冬の寒さは続きます、外に出るときの防寒対策はしっかり行ったほうがよいでしょう』
テレビを横目に、時雨が曖昧に返事をする。
「まあ~調子がいいってことになるんですかねえ」
吉野が来るようになってから、明らかに「雨」、特に「突然の豪雨」や「嵐」の数が格段に減った。テレビの中の気象予報士も心なしか驚いているように見える。
そうなった原因はわからない。ただ、吉野は人間でありながら実は何か特別なものを持っているのかもしれないし、別にそうではないのかもしれない、どっちにせよ己の「病」が完治したというような証拠もないため、「ただの偶然だろう」くらいに時雨は思っていた。
「そうだ、今日って吉野くん遊びに来ますよね?」
雪の神が聞いてきた。
「あ、はい、この前電話したときはそう言ってましたけど……」
雪の神はスマホを持っているしツイッターやら何やらもお手の物だが、時雨は携帯電話を持っていない。なので吉野と時雨が連絡を取るときはいつも自宅に置いてある黒電話を使っていた。
「じゃあ時雨、吉野くんを迎えに行くついでにちょっと買い出し行ってきてくれませんか?」
「ええ~~~」
「今日の夕飯の材料、トイレットペーパー、シャンプーの詰め替え、あと単3の乾電池のストックがなくなりました」
雪の神は本当に変わっている神で、なぜか「生活」にやたらとこだわる。人間と同じ食事なんか一切とらなくても神は生きていけるし、トイレットペーパーや乾電池だって自ら「生成」してしまうことは可能なのだ。もっと言えばスマートフォンだって、本来は神同士であるなら神通力でテレパシーのように会話ができるため必要ない。
好き好んで「生活」をしている雪の神のことが未だによくわからないが、共に暮らしている以上、時雨は大人しくそれに付き合っている。
買い出しに行く件について時雨がごねていると、彼女は淡々と言った。
「いつもご飯を作っているのは誰ですか? 面倒くさがって掃除をしない君の代わりに掃除をしているのは誰ですか? この前君の部屋に出た大きい虫を君の代わりに追い払ってあげたのは誰ですか?」
「はいはいはいはいわかりました、行ってきますよ行けばいいんでしょ」
「よろしい。今からメモを用意するのでその通りに買ってきてくださいね」
雪の神に渡された紙切れには、かなりの量の日用品がぎっしり書いてあった。時雨はため息をついた。
時雨と雪の神の住む屋敷から、しばらく歩いたところに小さいバス停がある。一時間に一本くればいいくらいのバスだが、それにしばらく乗っているとやがて山から街の方へと降りていく。バスの終点は、「とりあえず周辺にイオンはある」程度の規模の駅、になっていて、その駅から吉野はバスに乗っていつも自分たちの家までやって来るようだった。
今日は駅で吉野と待ち合わせをしているため、時雨は渋々バスで山を下りて街へ向かった。瞬間移動や空を飛んでショートカットする方法を使ってもよかったのだが。
バスを降りて駅に着くと、吉野が待っていた。
「時雨さん、お久しぶりです」
「どうも」
「珍しいですね、今日は雪の神さんじゃなくて時雨さんが買い出しとは」
「無理矢理家を追い出されました……まあニートなんでたまには役に立たないとですね……」
実を言うと、時雨はこの駅に足を運んだことが今までで片手で数えるくらいしかなかった。雪の神が率先して家事をこなしていたというのもあるが、時雨の「外に出ているときに突然豪雨を降らせてしまうかもしれない恐怖」や「誰かに迷惑をかける恐怖」は昔から消えず、ここに住み始めてからずっと時雨はひきこもって人里に降りなかったのである。
雪の神が今日自分に買い出しを言いつけてきたのも、自分の体質が治りかけて来ているから大丈夫だろうとふんでのことなのかもしれなかった。
時雨は吉野に雪の神から預かったメモを見せた。
「これって全部このへんで買えるんですかね」
慣れていないので、どのへんに何が売っているのかが時雨には見当がつかない。
「大丈夫だと思いますけど、これは結構帰りが重そうですねえ」
吉野がメモを覗き込みながら言った。彼がいてよかった、と思った。
***
その後「大抵のものはイオンで買える」ということを時雨は学んだ。吉野はイオンの他にも商店街の安くてお買い得なお店や休憩できそうな場所を良く知っていて、歩きながら教えてくれた。
買い物が終わるころにはもう昼を過ぎていて、時雨と吉野の両手は荷物で塞がっていた。
駅のバス停まで戻る道をゆっくり歩く。街と言えども田舎なので人通りはそんなに多くない。
「吉野くんがいて助かりました。というか、僕一人だったら今頃そのへんで道に迷ってのたれ死んでましたね……」
「いやいや、時雨さんと一緒に出歩くの初めてだったからすごい楽しかったですよ」
吉野はすぐ「楽しかった」とか、「嬉しい」とか「美味しい」と口に出す。自分といるときでさえも。
そういう、肯定的な感情をすぐ言葉にできる人には勇気があるなと思うし、羨ましいと思う。
やがてバス停に着いたので二人で待っていると、彼がふと上を向いた。
「あれ、晴れてるのにちょっと小雨? が降ってるような」
「あ……」
空は穏やかに澄み渡っているが、しとしとと小雨が降りはじめた。
(まあこれくらいなら別に)
むしろこの程度の雨で済んで良かったな、と思っていると、隣で何故か吉野が上を向いたまま口を開けている。
口を開けたまま、舌を空中に突き出すようにしている。
どういう意図でなにをしているのかわからなかったため、ぽかんとしたまま時雨は眺めていた。
しばらくして、時雨に見つめられていたのに気付いた吉野がぎくっとしたあとわたわたして言った。
「あっ、これはその……なんか、小さい子って雪が降ってくると「わー!! 雪だ!!」って口開けて雪食べようとしたりするじゃないですか。僕も雨とか雪とかちょっと降ってくると、なんとなく食べたくなるというか、飲みたくなる? ことがあって」
それでなんとなく、こういうとき空を見ちゃうんですよね。すごい子供みたいですけど。
「…………」
「……」
(は?)
ざああああああああああああああああああああああああああ。
「うわ、え!? めっちゃ降ってきたなんで!? ちょっえっ時雨さんすみません、えーと確か傘持ってたはずだけどどこだっけ、えーっと」
小雨が瞬時に本降りになってしまった。このバス停に雨をしのぐ屋根はないため、一瞬で吉野と時雨はびしょびしょになっていく。両手の荷物も一緒に。
「あった! よかったー、一応折り畳み傘持ってきてたんですよね」
ばっと傘を開いた吉野が当然のようにして自分を傘の中に誘う。折り畳み傘は小さいので男二人が収まることは難しい。
試行錯誤の結果、バス停で男二人が窮屈そうに相合傘状態になることになった。
(死にたくなってきた)
一周回ってあまりのことに死にたくなってきた。
確かに、子どもたちが雪にはしゃいで、口を開けて降ってくる雪を待っている様子というのは時雨も見たことがあった。やりたい気持ちもわかる。だが、吉野が「雨を飲みたいと思った」というのはそれはあまりにも、つまりですね僕は雨の神なんですよ? それは間接的とはいえあまりにもではないか?
完全に今のは吉野が悪い。
とっさに雨を本降りにしてしまうくらいには動揺もする。
そのせいで相合傘みたいになっていることも含めるともう本当に今すぐ死にたい。
「えと、あの、なんかすみません……」
身体を寄せ合うようにして立っていると、吉野が耳元で小さく言った。一拍遅れて色々なことを悟ったらしく、気まずい空気が流れる。時雨の視線の先にちょうど彼の首筋があって、ほんのり肌が上気しているように見えてとっさに視線を逸らす。
肩が密着していると、寒いのにそこからじわじわ暖かくなってくるようで、赤面しているのを気づかれたくなくて、時雨は必死で荷物の入ったビニール袋を握りしめていた。なんとなく、吉野の身体から良い香りがするような気がするのも気のせいだと思いたい。
誰かの傍に立っているだけでこんなに動悸が激しくなるようなことがあるのかと、無言を決め込んだまま時雨は立ち尽くした。
雨が降っている。
バスはまだ来ない。
***
そのまま微妙な空気のままやってきたバスに乗り、しかし突然の雨はやまず、家に到着して、「おやおや? これは? なんかあったみたいな感じですね??」と言いながら詰めよってくる雪の神の顔面に時雨が買ってきたバスマジックリン(液体詰め替え用のパック)を投げつけたあと、三人でそれぞれ夕飯の支度にとりかかった。
結果、その日の夕食は「神々(+α)による第一回・鍋パーティー」というような形になり、とりあえず一番食べていたのと一番早いペースで焼酎を飲んでいたのは雪の神だった。夜が更ける頃には、少なくとも時雨と吉野は足元がふらつく程度には酔っていて、全体的に色々とよくわからない様相を呈していた。
「あ~~~めちゃくちゃ食べたしこれは絶対飲みすぎでしょこれは」
自室に戻った時雨が畳にひっくり返りながら言った。三人の中で一番酒に弱いのが時雨、次が吉野、なお雪の神はザルである。彼女が「あとの片づけは自分がやるから、酔っ払い共はもう寝てようが何してようがいいですよ」と言ってくれたため、時雨と吉野は大人しく客間をあとにしていた。あれで彼女が女性の姿なのがちょっとよくわからない。
「なんかすごい、飲まされましたね……雪の神さんを見ていると「アルハラ」という文字が頭に浮かぶような……」
吉野は少し頭痛がするらしく、こめかみを押さえたままその場にうずくまっている。
時雨が呻いた。
「きもちわるい、ような、気がする」
「大丈夫ですか」
「たぶん大丈夫で~す」
世界がぐるぐる回っているようで、吐き気がするようで気持ちが良いような状態がしばらく続いたためひっくり返っていたが、しばらくするとそこそこ落ち着いてきた。
天井を眺めながら、時雨は何も考えられない頭でなんとなく口にする。
「はあ~死にたい。いや、今は死にたくない」
「なんですかそれは」
「僕の口癖のようなものです」
「……」
思考回路が上手くつながらず、頭に浮かんだことが次々と口に出てくる。
「吉野くん」
「はい、なんでしょう」
と、がばりといきなり起き上がった時雨は、赤い顔でへらへらと笑いながら突然吉野に問いかけた。
「……『僕と一緒に、心中してくれませんか?』」
吉野の顔から表情が消えた。
「え?」
時雨は笑いながら言った。
「これ、雪の神と一緒にいるときによくやる遊びなんですけどー。まず僕が、唐突に『僕と一緒に心中してくれませんか?』って聞くんですね、それに対して雪の神は、まあはじめの方は真面目な返事をくれたんですけど、最近は呆れてるみたいで『またその話ですか?』としか言ってくれないんですよね」
それはいわゆる「肉体の死」を求めて言っているわけではない。本当に求めているものは、もっと、全く別のものだ。それくらいはわかっているのだが、とりあえず「死にたい」というような言葉を放ってしまう。まじないのように、呪いのように。
「遊びっていうか、なんか、安心するんですよねー。『心中してくれませんか?』『またその話ですか?』って、延々繰り返してるとなんか面白くて、なんだか安心するから、何度も聞いてしまうんですよ。まあ、別に雪の神は僕と一緒に死んでくれはしないでしょうし、そもそもそれは間違っているし、だめなんですけど。いや、何がだめなんだ? 僕の人生がだめだ」
そこは完全に酔って頭の回っていない時雨の、自虐の独壇場だった。時雨はこれといった趣味は持ってはいなかったが、こればかりは唯一、自分の右に出る者はいないような気がする。
好きで自分を責めているわけではない。自分は責められるべき存在で、価値がないから責められるべきだ。
いつもそう思っていたから、それは時雨のなかでいつのまにか「当然のこと」になっていた。
どうしようもないものはどうしようもない。
気づけば吉野がずっと黙ってしまっているので、「ああ、またやってしまった」とぼんやり思う。人と、他人とうまく関われた試しがない。どんなに親しくなりかけたとしても、自分を見せすぎて失敗するか、自分を隠しすぎて再びひきこもるかのどちらかだ。
「時雨さん」
静かな夜なので、吉野の声もいつもより良く聞こえるような気がする。
「僕からひとつ、お願いがあります」
気が付けば、吉野は酔いから醒めているようだった。
「僕には、春になったら、必ず行かねばならない場所があります。そこに僕はどうしても、あなたを連れて行きたいんです」
彼の眼は真剣だった。真剣な眼差しなど、向けられる価値は自分にはないのに。
「行かねばならない場所って、どこですか?」
「それは……」
吉野が言いよどむのを見て、「それがなんであるかは知らないけど、言いたくないんだろうな」と思った。きっと、僕なんかには言う必要のない情報なんだろう。
「とにかく、僕は絶対にあなたをそこに連れて行きます。だから、どうかせめて、死なないでほしいです」
春になるまで、死なないでほしい。
ぼんやりしている時雨に向かって、彼はそう繰り返した。
まあ、本気で死んだりとかはしないですよーっていうか僕神だから死ねないですしーあははは、みたいなことを適当に言って、それでその晩は終わりだったような気がする。相当に酔っていたため、はっきり言ってその日の記憶は定かではない。
気が付くと朝になっていて、自分は昨日の格好のまま、きちんと布団に寝かされていた。隣を見ると客用の布団に吉野が寝ていて、あれ? と思ったが、そういえば昨日は土曜日だった。次の日が休みであったから、夜遅くまで雪の神や自分の晩酌に付き合ってくれていたのだ。あの時間になるともうここに街行きのバスは来ない。
(なんで、僕なんかのために)
泥酔して寝こけていた自分を布団に入れてくれたのもおそらく彼だ。風呂にも入らないで、しかも客人に迷惑までかけて寝落ちしたから、自分はあとで雪の神にめちゃくちゃ怒られまくるだろう。
まだ目を覚まさない吉野に、時雨はそっと手を伸ばした。
伸ばしかけて、やめた。
そのままずっと、時雨は吉野の寝顔を眺めていた。
***
穏やかなまま月日は流れ、年が明けてからは寒さは一層厳しさを増し、雨の日よりも雪の日が多くなった。
年末年始、吉野は帰省の予定もないらしく、ずっと時雨と雪の神のもとに入り浸っていた。おかげで三人は今までよりもちょっとだけ賑やかな正月を迎えることとなった。
しかし年が明けてからは、吉野が時雨たちの屋敷を訪れる頻度はだんだんと下がっていた。仕事がかなりきついらしく、休日返上で働いていることもあるようで、たまに時雨のもとに顔を見せたときもずいぶんとしんどそうな表情をしていることが多かった。一週間に一度だったものが二週間に一度になり、二月になったときには吉野は「次はいつここに来れるかわからないかもしれない」と告げた。
「そうですか。わかりました。まあ、元より無理してこんな山奥まで足を運んでいただくのも大変ですし、吉野くんの負担がこれ以上増えてしまっては困りますもんね」
「無理とか、負担とかでは全くないのですが……」
そう言う吉野は今日はマスクをしていて時雨の隣でげほげほ咳込んでいて、説得力が全然なかった。
二人は雪の神の屋敷から少し離れたところにある小さな神社の境内に座っていた。今では誰も管理する人のいない朽ちた木造の建物は傾いていて、あたりは度重なる大雪のせいで一面真っ白になっていた。生物の気配がしない森の中に、人間、の形をしているが人間ではない時雨と、吉野の二人だけがいることは、なんとなく胸がざわざわするような気がして時雨は落ち着かなかった。
「もう帰りません? この寒さは人の身体には堪えますよ」
「いえ、僕のこれは毎年こんな感じなので、大丈夫です」
(答えになっていない……)
毎年風邪をひいているなら、ますますこんな冷えるところにはいないほうがいい。
「時雨さんこそ、寒くないんですか?」
「僕は平気ですよ。そもそも一年中具合悪いみたいな感じだし、あとこの身体は人とは違うので」
時雨はパーカーにズボン、それにマフラーを適当に巻いただけという、この寒さにしてはかなりの薄着で外に出ていたが、もともとの身体の感覚があまり鋭くないのか大したことはないように感じる。対する吉野はしっかり厚手のコートを着ていたが、そもそも今日みたいな気温の日に人間が長い間外に出ているのは良くない。
「そろそろ戻りませんか。寒いですから」
時雨が腰を上げて立ちあがろうとした時、後ろからぱしっと片手を掴まれた。
座ったままの吉野が子供のように無言で時雨の手を握っている。
「……」
諦めて、時雨はゆっくりと元いた場所に再び座り直した。
神社の隅にずっと座っていると、ちらちらと粉雪が降ってくる。
「お仕事、このあともずっと大変なままなんですか」
吉野は目の前の雪景色を眺めながら、くぐもった声で答えた。
「……いいえ。たぶん春が終わるころには、いつも通りに戻っているはずです」
「それは、君が以前言っていた『春になったらどうしても行かないといけないところ』と、何か関係があるんですか」
吉野がこっちを見た。そして、
「そうですね。関係があります」
と短く答えた。
それについて詳しく教えてはくれないのかと思ったが、吉野は前よりも少し弾んだ声で続けた。
「だからこそ、僕は色々なことを頑張らないといけないし、それに頑張れるような気がするんですよ。時雨さんが、いてくれるから」
僕のために、何かを頑張るような人がいるんだな、と時雨は他人事のように思う。
そもそも「人のために頑張る」ということを、自分はやったことがない。だからその感覚もよくわからなかった。
「吉野くんが頑張りすぎるのも僕は心配ですが、まあでも君は無理したせいで死ぬようなタイプでもなさそうですもんね」
僕と違って。なんでもできるから。
「ただ、だからと言ってそれは『君は無理をしてもいい人間である』ということには繋がらないでしょう。休みが必要なら休むべきだし、休みたいなら休めばいい。好きなことをしたかったら、やればいいと思いますし」
話しているうちに、時雨は自分で自分に話しかけているような気分になった。
自分は人のために何かすることはできない。「人のために」なんていう崇高な目標を掲げて生きれるような器ではない。
そんなことができる人間は、自分と他人をまっとうに愛せる奴だけだ。
「だから、ここじゃなくて、ひとまずあったかいところに戻りましょう。きっと今頃、雪の神がこたつで待ってますよ」
時雨がそう言うと、吉野の目がちょっと優しくなったので、なんとなく安心できたような気がした。
それから歩いて屋敷に戻るまでの間、吉野は時雨の手を繋いだままだった。
ざく、ざくと雪の地面に足跡をつけていく。
吉野が何も言わなかったから、時雨も何も言わなかった。
ただ、その手を振りほどいて離そうという気には、どうしてもなれなかった。
そしてその日を境に、吉野からの連絡は一切途絶えた。
***
『そうです、君の言う通り、時雨の病状は重い。おそらく私には、絶対に治すことができない。私では駄目なんです。そして仮にあなたが『そのままの姿』で時雨に触れたとしても、なんの効果もないと思います。心を閉ざされるだけで』
『でも、望みはあると思います。望みというよりは、彼の中で何らかの変化が生まれるかもしれない。あなたと、接触することによって』
『時雨はいつかきっと、私の元を去ると思う。でも私、本当に楽しかったんです、誰かと一緒に暮らすことが』
『友人に『幸せになってほしい』と願うことの、何がいけないんですか? 私は、あの人が一生涯孤独だなんて信じません、他の誰かがそう言ったとしても、あの人はそうあるべきではないから、でも私には何も、できないんです』
『あの人の「病」はおそらく、正確には「病」ではない。孤独を人は病とは呼ばない。ただ、あの人の抱えるそれがどんなに残酷なことであるか、私にはわかっているつもりだ』
『でもだからこそ、可能性があるなら選んで欲しいんです。祝福と、救済の方の道を。何もかもが、豪雨に沈んでいく前に』
***
三月の、とある薄暗い明け方のことだった。
時雨は畳に寝っ転がったまま目を見開いていた。昨日から一睡もしておらず、起きていたらいつの間にかこの時間になっていた。
横たわったままで、頭の中でずっと同じことを反芻し続けている。
昨晩、吉野から電話があった。
それまで約一か月の間音沙汰がなかったから、電話をとった雪の神は嬉しそうにしていて、少し話したあと受話器を時雨に渡した。
「もしもし?」
まず気が付いたのは、向こうがなんだか騒がしいということだった。
しかも向こうの電波が悪いのか、時折ノイズが入る。
『時雨さんですか? 吉野です、ご無沙汰してます』
「お久しぶりです」
『時雨さん、僕が前に「春になったらどうしても連れて行きたい場所がある」って言ったの覚えてらっしゃいますか? あれがようやく実行に移せそうなんですよ! さっき上から許しをもらって、来月に一日だけ休みを取れることになったんです。だから、その日になったら僕と一緒に』
そこで突然別の声が入った。
『おいおいなに急に電話してんだよ、彼女かなんかかー?』
『ええー先輩に彼女!? 誰なんですか、誰なんですかっ!?』
『ちょっとそのへん静かにしててください!!』
吉野が受話器の向こうで急に声を張り上げたため、時雨はびくっとした。
『すみません、今ちょっと店内にいまして、騒がしくて申し訳ないです』
向こうの音から察するに、会社の飲み会か何かの最中だろう。そのあとも吉野が誰かと話している声が聞こえ、相手のほうはかなり大所帯であることがうかがえた。
賑やかにがやがやした音が聞こえてくるのを、時雨は黙って聞いていた。
なにかの熱が、自分の中でゆっくりと下がっていくのを感じる。
『すみません、店の外に出させてもらったのでこれでゆっくり話ができそうです』
向こうが先ほどより静かになって、吉野がやや興奮気味に話してくるのが聞こえる。
『時雨さん、お元気にしてましたか? 僕はあれからずっと』
「突然電話してきたと思ったらそんなことですか?」
開口一番ぞっとするような冷たい声が出たため、それに対して驚いている自分がいた。
「へえ、一か月も連絡よこさないで急に電話してきたと思ったら、そんなことでしたか。てっきりもう僕は縁切られたのかと思ってましたよ」
『……』
向こうで吉野がどんな顔をしているのか知るすべもなかったが、そんなことはどうでもよくて、時雨はひたすら電話口に向かって疑問を投げかけた。
「吉野くん今、会社の人と一緒なんでしょう? あるいはお友達ですかね? まあ僕には関係ないですけど、なんでわざわざそんなところから連絡くれたんですか、今更」
『じ、時間が今しか取れなくて、』
「そもそもずっと変に思ってたんですけど、吉野くんは僕に隠している事が多すぎますよね? いえ、隠している自覚があるのか知りませんが、「春になったら行くべきところがある」って何ですか、「そこに僕を連れて行きたい」ってどういうことですか? なんできちんと教えてくれないんですか」
『それは、』
自分が異常なまでの暴走を始めようとしていることに時雨は気づいていたが、もはや止める手段がわからない。
「なんなんですか。僕をどうしたいんですか、僕に連絡してきて一体何が楽しいんですか? 大事なことは何も教えてくれないから僕は君のことを何も知らない、なのに急に来てずかずか踏み込んできて、「僕の病を治せる」って結局どういうことなんですか? なにも変わらないままじゃなですか、前と一緒、ああそうだ僕は連日の仕事で疲れている相手に向かって理不尽な罵声を浴びせるような最低な奴のままですよ! 何も変わらない、君だって同じだ、適当なことを言うだけ言って満足したら僕の元から勝手に消えていく、ほらね、他のみんなと一緒じゃないですか。ははは」
『時雨さん』
「こうなることは最初からわかってたんですよ。君は僕に初めて会ったとき、僕を「自分と似ている」と言っていた、だけど僕には今じゃ全然そんな風には思えません。君は明るくて仕事ができて人にも優しくできて抜けているところがなにひとつない、それに比べて僕はどうですか?」
『時雨さん、』
「ずっと、何でもできる君が羨ましかった、むしろ嫉妬してさえいた、僕にはどう頑張ってもそれができないから、普通に、なれないから」
ぐちゃぐちゃになっているのだが、何がどうなっているのかすらよくわからない。
電話のダイヤルにぽた、ぽたっと水が落ちていくのを見ながら、なんでこんなところに水が落ちていくんだ? と思い、それが自分の涙であることにしばらく気が付かない程度には時雨は混乱していた。
そのまま絞り出すように言った言葉が、彼自身の心にそのまま突き刺ささる。
「君には、僕の他に、きっとたくさんの友達がいる。でも、僕には、吉野くんしかいなかった」
それすらも失ってしまったら、僕は本当にもう二度と立ち直れないかもしれないのに。
どこまでいっても自分は『彼の大勢の友人のなかの、一人』でしかなかった。
その程度だ。自分と縁が切れたところで、なんの支障もなく、彼の人生は続いていくのだろう。
それに気づいた時、孤独は自分のうしろで巨大な口を開けて待っていて、振り向いた時にはもう取り返しがつかないくらい大きくなっていた。
『お前なんか大嫌いだ。いらないから、全部、消えればいい』
誰が誰に向けて言ったのか、わからないような叫び声が、時雨の魂の中で一気に増殖する。
そしてそれは唐突にやってきた。
ガシャーンと後ろでものが派手に割れる音がして、びっくりして振り返れば、雪の神が床に落ちた割れた皿とぐしゃぐしゃに潰れた料理と共に立ちすくんでいる。
「時雨?」
雪の神は恐怖に怯えるような表情で、こっちを見ている。
「時雨、ですよね?」
「え?」
途端に耳をつんざくような雷鳴が家中に轟き、あたりは激しい光に包まれた。
そのあとのことはよく覚えていない。窓ガラスに割れんばかりに叩きつけるような雨、雪の神の悲鳴、鳴りやまない電話、津波のような豪雨の音、テレビから絶えず聞こえる『大雨警報』、ニュースキャスターの声、響き渡る雷、壊れた水道管、豪雨、そしてわりとはっきりしている頭で「あ、終わったな」と思う自分。
数か月間、なりを潜めていた時雨の「病」は普段の何倍にもなってぶり返して襲っってきた。
幸い、この日の大雨は洪水や土砂崩れ、死者を出すような災害にまで発展することはなかった。が、被害はゼロではなく、雪の神の住居はこの夜のせいであちこちが壊れ、補修を要する状態にまで陥ったし、何よりも雪の神自身が「あのときの時雨は、別人のような姿だった。何かに取りつかれたか、あるいは完全に別の『何か』が家に入ってきたのかと思った」と述べていた。
そしてこの一件のせいで完全に体力を持っていかれてしまった時雨は、自室に倒れ伏したまま数日間を過ごすはめになった。
早くここを出ていかなければ、と思いつつ、身体が思うように動かないのでなすすべもなく、死んだように畳の上に突っ伏したままの日が続いた。
***
気づけば外の寒さは少しずつ和らいでいて、冬の気配はどんどん薄くなっていた。
「時雨、入りますよ」
襖の向こうから遠慮がちな声が聞こえ、雪の神が顔を覗かせた。
畳に寝っ転がったまま、時雨は首だけをそちらに回す。
「身体、まだ治りませんか」
「……たぶん、もう平気だと思う……」
最後に声を出したのがいつだったか思い出せないくらい久方ぶりに人と話をした気がして、やけにがらがらした声が出た。
「先ほど、私と、時雨宛てに手紙が届いていましたので、持ってきました」
雪の神が封筒を手渡した。
開けると、人のかたちをした白い紙切れと、一枚の招待状が入っている。
(……招待状?)
それは、思い返せば以前にも何度か見たことがあるもののような気がする。
「神無月連合からの、お花見のお知らせです」
神無月連合とは、日本の八百万の神をひとまとめにした集団の名称で、そこにきまりきった規則や統率のようなものはないものの、10月に出雲で行われる大規模な総会をはじめ、いわゆるイベントや同窓会に近いようなものを年に何度か開催している。
「早いものですね、もうすぐ四月ですよ」
桜の季節になると、毎年神々のための花見が開催されているのは、時雨も知っていた。
神であれば誰でも、さらに「どこからでも」参加可能というかなり大掛かりなこの花見の宴は、楽しみにしている者も多いと聞いたことがある。
時雨のもとへも毎年この招待状は来ていたものの、行こうという気など毛頭起こらなかったため、いつも気にも留めずに放っていた。
「それと、先ほど神無月連合のお花見委員会の方々から、こちらに直々に謝罪の連絡がありまして」
「謝罪って、なんの?」
招待の手紙に不備でもあったのだろうか。
雪の神が少し顔を歪めた。
「その……今回の、時雨の件についてです。元をただせば我々にも責任の一端がある、この度は申し訳なかったと」
「はい? どういうこと?」
自分が暴走したのは、吉野と電話をしたからであって、他の神々とは全く何の関係もないはずなのだが。
「いえ、この前時雨が電話していたとき、吉野くんが一緒にいたのは神無月連合の人たちだったんですよ」
「えっ?」
あの、遠くで聞こえた賑やかな会社の飲み会のような雰囲気を思い出して、時雨は怪訝そうな顔をした。
「いや、吉野くんは会社の人と一緒にいたんでしょ? そもそも吉野くんは神じゃなくて……」
雪の神が目を伏せた。
「ごめんなさい。私は、いや、私と吉野くんは、あなたにずっと、嘘をついていた」
時雨はぽかんとした。
「吉野くんは人間ではありません。彼は我々と同じ、神々の部類に属する者です」
四月に行われる、神々の花見の宴。
それを主催するのは神無月連合の『お花見委員会』の者たち。
そして、吉野くんは、いや、『吉野』という名を持つ神がその一員として、そこに名前を連ねているのだとしたら。
時雨の脳内に、これまでの色々なことが一気に甦る。
『僕、仕事のうちでいわゆる『宴会係』みたいなものをしないといけないことが多いんですよね。いわゆる飲み会の手配担当みたいな……』
『実はあまり春という季節が好きではなくて。出会いと別れの季節というのがどうも馴染めなくて……僕はそういうことを言ってる場合ではない立場なのですが』
『僕には、春になったら、必ず行かねばならない場所があります。そこに僕はどうしても、あなたを連れて行きたいんです』
『だからこそ、僕は色々なことを頑張らないといけないし、それに頑張れるような気がするんですよ。時雨さんが、いてくれるから』
(もしかしたら)
時雨のなかにある一つの仮説が生まれた。
(吉野くん、君がもし、人間ではないとするならば、君は本当は)
雪の神が静かに言った。
「私と彼は、ただ時雨のことを、ちょっとびっくりさせようと思っただけなんです。騙そうとか、そういう意図では全くなかった。けれど、結果的に私たちはあなたを傷つけることになってしまった。吉野くんは、自分にはもうあなたに会う資格はないのかもしれないと、言っていました」
障子の向こうは明るく晴れていて、雨は降っていない。
「それでも、それでもあなたが、もしも、こんなどうしようもない自分を許してくれるのなら」
吉野くんからの伝言です、と雪の神は告げた。
「桜の下で、僕はあなたにもう一度会いたい。だからまた、春に会いましょう、と」
山奥の雪はもうほとんどが溶けかけている。
次の季節はもうすぐそこまでやってきていた。
***
四月、まだ肌寒さが少し残る朝に、時雨はのろのろと身支度をしていた。
件の花見の日がやってきたのである。
「ねえ~お花見ってどういう服で行けばいいんですか? 僕一人だけ変な格好で行って浮いたりしたら、速攻で帰りたくなるんですけど」
「なんでもいいと思いますよ? ドレスコードがあるわけでもないし、それに今日のはなんというか、ぶっちゃけゆるいオフ会みたいなものなので何を着て行っても構わないかと」
私も何度かしか、参加したことはないのですが。
そう言う雪の神はずいぶん楽しそうで、わくわくしながら弁当を包んでいる。迷いに迷った結果、時雨はいつものパーカーとズボンで現地に行くことを決めた。
家を出るときになって、時雨はふと疑問に思う。
「あの、今日の会場って結局どこなんですか?」
人間と同じバスや電車を使って行けるようなところなのか、それとも瞬間移動を使わないといけないほど遠いところなのか。
「もー、時雨はきちんとあの招待状を読んでないんですね」
戸締りをしっかり行った雪の神は、鞄から例の招待状が入っていた封筒を出し、同封されていた白い小さな紙人形を取り出した。彼女がそれを空に向かってかざしたので、時雨も同じように真似をする。
雪の神が唱えた。
『我、船を呼ぶ者。顔なき渡し守よ、果ての水辺を導きたまえ』
途端にごおと風が吹いた。とっさに目をつぶろうとするが、周囲の見慣れた景色がどんどん溶けていく。
やがてあたりは、濃い霧に包まれた。
霧の向こうから、人影が現れた。
「時雨様、雪の神様。お迎えにあがりました」
やってきた男が、自分たちに向かって深く頭を下げた。狐の面で顔を覆っていて、和服に身を包んでいる。
「どうぞこちらへ」
見れば、少し先に川がある。そこにとまっていた一艘の小舟に男が乗り込んだので、二人もそれに続いた。
男が櫂を手に取ると、船は静かに霧の中を進み始めた。
雪の神が、仮面の彼に向かって話しかけている。
「いやはや、毎年のこととはいえご苦労様です。親方様はご健在ですか?」
「ええ。ただ、本日は誠に勝手ながら、親方様はお暇をいただいるとの報告があります。皆に混じって宴の会場で時を過ごす、とはおっしゃっておりましたが」
仮面の男は水面のほうに顔を向けたまま、答えた。
時雨があたりを見回すと、川の幅はいつの間にかどんどんと広がっていて、運河のようになっている。おまけに船の影が何艘にも増えていて、それらにはすべて、我々と同じ「お客人」と、彼らを導く仮面の男が一人乗っていた。
狐面の男たちが操るたくさんの小舟は、みな一様に同じ方角を目指している。
時雨は小声で尋ねた。
「お面のひとたちは、その『親方様』の家来なんでしょうか」
雪の神は笑って言った。
「家来というか、従者ですかね? 彼らは神の身分ではない、使いの者のような存在ですよ」
雪の神が本当に楽しそうなので、時雨は逆に不安になった。
大勢の人が集まるような場所に行くのを避けるようになってから、もうどれくらいが経つだろう。あの夜のあと、時雨の「病」が再び暴走することはなかったが、今日再び起こらない保証はない。まあ、これから行く場所に集まっている者は皆それぞれ力を持った神々であるから、たとえ時雨ごときが多少やらかしたとしても大事になる前に助けてくれるかもしれないが。
(楽しむ、とかは、無理だろうな)
こういった祭りのような日に、楽しいと思ったことは、時雨は一度もなかった。
ふと目の前を何かが舞ったような気がして顔をあげる。
ちらちらと、かすかではあるが桜の花びらが船に落ちる。
「まもなく、ご到着のお時間となります」
狐面の男が振り返って、言った。
「宴の地へようこそ。時雨さん、雪の神さん」
あたりを覆っていた霧が一瞬にして晴れた。
満開の桜が視界に移り、時雨は息を飲む。
川の両岸を埋め尽くすようにして無限に咲いていて、あちこちの他の船からどよめくような歓声があがった。
空は雲一つないまぶしいばかりの晴天で、隣で雪の神がはしゃぎながらスマホを連写しまくっている。
にぎやかな春の訪れと桜吹雪。
そこは紛れもなく、楽園と呼べる景色であった。
しばらく船の上から川岸を見物していると、予想よりも多く、いや、とんでもない数の神々が集まっていることがわかる。
桜の下に毛氈を敷いて宴会を開いている者、雪の神のように写真を撮る者、すでに酔っぱらってできあがっている者たち、そして狐面の男たちは点々とあちらこちらに立っていて、客人の誘導や案内、会場の警備を行っている。
「雪の神様と時雨様のお席はあちらになります」
面の男が指さした先の桜の木の下には、既に何人かの神たちが座っていた。
岸辺にゆっくりと小舟はとまり、雪の神が弁当の風呂敷片手にばたばたと地上に降りていく。
「ゆきちゃーん!!」
「うわーっ来てたんですか!! 久しぶりー!!」
先に来ていた少女の姿をしている神が雪の神に声をかけたため、数年ぶりに再開した女子大生のようなテンションで爆走していく雪の神を横目に、時雨も歩き出そうとした。
その途端、自分と共に船に乗っていた狐面の男に突然手をつかまれた。
「えっ」
そのまま船から降りた男に連行されていくように、雪の神とは逆の方向にずるずると引っ張られて行く。
「え、何? 何で?」
何かまずいことでもしたのかと焦り、助けを求めようとしたが雪の神は「適当に切り上げて、ちゃんとこっちに合流してくださいねー」とこちらに声をかけただけで、何が何だか全くわからないまま時雨は仮面の男に連れられて行った。
にぎやかな場所から段々遠ざかっているが、依然桜並木はどこまでも続いている。
男が時雨の手を取ったままどんどん歩いていくのに慌ててついていきながら、時雨の頭に浮かんだのは吉野のことだった。
冷え込んだ雪の神社で、彼が縋るようにして自分の手を握ってきたときのことを、時雨は忘れてはいなかった。
男の手を、ぱっと無理やり時雨が振りほどいたので、前を歩いていた彼が立ち止まる。
自分と男の間を桜の花びらが舞い、遠くでかすかに喧騒が聞こえている。
「君は、」
吉野くんですよね? と聞こうとして、時雨は言葉を切った。
代わりにこう言った。
「君は、いつもそうだ。大事なことは絶対教えてくれない」
男は面をつけたまま、黙ってこちらを見ている。
「招待状が来たときに、わかったような気がしたんです。春が苦手だけど、春に仕事をしないといけない君が、誰であるかが」
思えば手掛かりはいくつもあった。どうして気が付かなかったのだろう。
時雨はきちんと、男に聞こえるように、はっきりとした声で言った。
「本当のことを、教えてほしい。吉野くん――――いいえ、またの名を、桜の神」
男が仮面を外した。
その下には、ちょっと疲れたような吉野の顔があって、時雨はほっとしたような泣きたいような気持ちになった。
吉野がふいと時雨から目をそらすので、彼でも人と目を合わせられないような気分のときがあるんだな、と思った。
***
「一緒に、桜を見れたらいいなと思ったんですよ。はじめはそれだけだったんです」
吉野が話した。
静かな川辺に二人は座っていて、邪魔するものは他に誰もいない。
「雪の神さんが、会うたびにあまりにも楽しそうに、時雨さんとの毎日を報告してくるので、僕もいつかお会いしてみたいな、と思ってたんです。でも、それを雪の神さんに話したら、時雨さんはきっともう既に色々な方と接し疲れて、今更誰かに心を開いたりはしないだろう、お花見なんかに誘ったところで絶対に断られると思う、と言われてしまって」
水面に花びらが零れ落ち、桃色の絨毯のようになっている。
「そこで、自分が桜の神であることを隠したままなら会えないかな、と思ったんです。雪の神さんはこの作戦にすごく乗り気で、『ドッキリ大成功みたいな感じにできたら最高ですね!』って、言ってました」
吉野が目を伏せた。
「でもそれは結局、あなたを傷つけることにしかならなかった」
時雨は降ってきた桜の花びらを手に取り、指でつまみながら、ぽつりとつぶやいた。
「吉野くんは、なんで僕なんかと友達になろうなんて思ったんですか」
「え」
僕だったらそんなこと、考えもしないと思うんですけど。
それを聞いた吉野は、気まずそうに顔を膝にうずめながら答えた。
「ぶっちゃけてしまうと、ふつうに、下心……みたいな」
彼の耳元が赤くなっているのに気づいて時雨も固まる。
「雪の神さんが、あなたの寝顔の写真とか、見せてくるんですよ。それで、いいなあ、って、思って」
「はあ!? あの人そんな隠し撮りしてたんですか!? 全然知らなかったです、あとでしばこう……」
寝顔を撮られていて、あまつさえそれを勝手に他人に見せていたとは。プライバシーもクソもない世の中だ。
腹を立てつつも、時雨はどこかほっとしていた。
「そういう「下心」とか、吉野くんにもあるんですね。なんというか、完璧すぎて逆にそういう、人間らしい感情ってあんまり持たない人なのかなって思ってましたから」
「僕をなんだと思ってたんですか……時雨さんに一か月間会えなかった期間なんて、僕はずっとひとりで」
そこで吉野が沈黙してしまったため、「よくわからないけどもしかして墓穴を掘ったのでは」と思ってあとは聞かないことにした。
「なんかでも、よかったです。また、こういう感じに戻れて」
時雨が言うと、吉野が慌てて返した。
「それはこちらの台詞です。今までのこと、悪いのは全部僕なので……」
「え、吉野くんは何も悪くないのでは?」
「いやいや」
「いやいやいや」
そのまましばらく押し問答が続きそうになって、時雨は口ごもりながらも言った。
「こういうことを言っていいのか、わかりませんが……電話越しにあんなに理不尽なことを言ったあとでもこうやって許してくれる君に、僕は甘えているのだと思います。それにむしろ僕は、君が人間じゃなくて本当によかったって思ってます」
わけもなく胸が締め付けられるような気持ちになって、時雨は続けた。
「だって、もし、吉野くんが人間だったら、別れが来るのなんてあっという間だったかもしれない」
神に寿命はない。大地や自然があり、人々が生き続ける限り、そこにあり続ける。
だから百年や二百年なんて一瞬で過ぎる。それに対して人間の命は短い。
「仮に、吉野くんと再び縁を戻せた未来があったとしても、吉野くんが人間だったのならということを考えると、僕は」
そんなの「死にたい」なんていう生ぬるいものではないと、考えるだけで苦しくなる。
「……そんな思いを、あなたにさせてしまうような嘘を、作り上げたのは僕です。全部僕が悪いというのはそういうことです」
水面を眺める吉野の横顔を見て、睫毛長いんだなあと思いながら、時雨はなんとなく考えた。
自分と同じように、吉野もまた神である。だからこそ、出会いと別れの季節を司るような立ち位置にいるのは時として辛いのだろう。おまけにこんな大掛かりな花見をやらなければならず、しかも人の命のように儚い桜をずっと眺め続けるような仕事では、そんなことでは「春が苦手」と感じるのも無理はない。見た目より繊細な彼のことだから、しんどい思いをしてきたこともたくさんあったのだろう。
時雨は吉野の髪に落ちた花びらに手を伸ばした。
「えっと、今はたぶん、お花見係とかで忙しいでしょうけど、落ち着いたらまた遊びに来てくださいね」
待ってますから。
花びらを片手に、時雨はそう言って笑った。
自分はきっと、今後もいつまでも自分のことを嫌いなままでいるだろうし、この人と一緒にいると己の心はいつも激しく揺れるから、やっていく上で困難に直面することは必ずあるだろう。実際、彼と自分は「わかりあえている」とは、未だに言いがたいところがある。
でも、それでもこんな自分を受け入れてくれる人がいるというのなら、彼に何かを返したかった。恩を返すというよりも、彼から受け取った気持ちを今度は自分が送りたいと思った。それは誰のためでもなく、自分がしたいと思ったからすることなのだ。
「……っ」
急に強い風が吹いて、桜がぶわりと勢いよく舞った。遠くでわーと歓声があがる。
あたり一面が桃色になるくらい花吹雪が舞い、まるで包み込まれるようだな、と思った瞬間、気が付けば時雨の頬に吉野の手が触れていて、そのまま唇を塞がれた。
花のような甘い香りがして、以前吉野と密着したときに感じたいい匂いの正体はこれだったのかとわかる。
唇を合わせたあと、間近で見た彼の顔があまりにも心奪われるものだったため、全身に痺れが走るような心地がした。
「あっ」
途端に吉野が「やらかした」みたいな顔をしたため時雨はまた笑ってしまった。
「すみません、つい……」
吉野の口からかすかに覗く舌がやけに水気を帯びて見えて、これ以上ここで変な気分になってしまってはまずいと強引に話題を変える。
「えーと、なんでしたっけ、そう、いつでも遊びに来ていいですよって話で」
「あっそうだ、そのことなんですけど!」
急に吉野がぐっと詰め寄ってきたのでおもわず反動で後ずさる。
「時雨さんって、今後もずっと雪の神さんと一緒に暮らしていかれる予定ですか」
「いや、そのへんは今のところは、はっきりとは決めてないんですけど……」
「じゃあ、僕のところに来ませんか」
「えっ」
吉野が目を輝かせて言った。
「僕は今現世のアパートで一人暮らしなんですけど、そろそろ引っ越そうかなって思ってて、それなら二人で住めそうなところを探すのもありかなって思ったんですけど……」
さすがにこれはないか、と言って彼が笑うので、時雨がぼそぼそと返した。
「君が、君の行く場所全部が雨になってもいいというなら、僕はそれでも構わないですけど」
「え、いいんですか!? やったー! じゃあとりあえず不動産屋さんに一緒に行く日を」
「待って待って!」
はしゃぐ吉野にストップをかけて、時雨が言った。
「君のお願いを一つ聞いたのだから、僕からも何かお願いしてもいいですよね?」
「それはもちろんです。叶えられることならなんでもやりますよ」
嬉しそうな吉野を前に、時雨はきょろきょろとあたりを見回した。
「いや、えーと、その」
遠くのほうで神々たちの声は聞こえるものの、周囲に目立った人影はない。
「……の……」
「?」
ごにょごにょと時雨が言うので、吉野は首をかしげる。
「さっきの、を、もう一回、してほしいんですけど」
「さっきのって……」
はっとした吉野が顔を赤らめた。
「……」
時雨は両手で自分の顔を覆っている。
その手を取りつつ、吉野が困ったように言った。
「これはちょっと、職権乱用のような気もしますが……」
桜吹雪、再び。
「好きな人から乞われてしまったら、仕方ないですもんね」
そこから先のことは、彼らにしかわからない。
***
雨の神が病であるという噂は、月日が経つといつの間にかどこかへ消えていた。
彼がどのように病を克服したのか、もしくは克服できなかったのか、あるいはそもそも何の病であったのか、詳しいことはわからないままである。
ただ一つわかることは、今の彼はきっと「不幸ではない」ということだ。
一緒にあらゆることを乗り越えていける力を、誰かと補い合って生きていく道を彼は選んだ。
私はというと、あの山奥で今でも暮らしている。
全然寂しくないといえば嘘になるが、彼と一緒に過ごした歳月と、そして彼ら二人の縁を繋ぐことができたという事実は、私にとっては得難い幸福だ。
だからどうか、そのままでいてほしい。その恋を、どうか続けていってほしい。
大丈夫、四月になれば、またみんなで会えるのだから。
いつかのお花見で撮った写真を眺めながら、私はなんとなく願ってしまう。
桜の雨に祝福を、そしてあふれる幸せを。
<おわり>
また、春に会いましょう
約一年半ぶりに小説を書きました。
原稿用紙に換算すると約71枚らしいので、これまで書いたものの中ではおそらく二番目に長いです。
「自分は今後一生孤独であるかもしれない。幸せになりたい」と苦しんでいる友人が身近にいたことが、これを書くきっかけでした。
結局何が書きたかったのかといえば、作中の彼女が言う「友人の幸せを願って何が悪いのか」という、その一言に尽きるんだと思います。
久しぶりに、しかも自分としてはかなり長いものをいきなり書いたので、出来ばえとしては微妙な作品なのかもしれません。
ジャンルはBLということになっていますが、男同士の恋愛について書きたかったというよりは、「自分の中の劣等感と一緒に生きていくにはどうしたらいいのか」「我々はどうしたら幸せになれるのか」みたいな、結果的にそんな感じのものが出来上がっていたのですが、まあこれはこれで。
読んでくださってありがとうございました。
四月です。新しく生活を始めるすべての人に、幸せがありますように。