あじさいの寺
一
「次は市営住宅前、市営住宅前に止まります。お忘れ物のないようご注意ください。」
バスのアナウンスが鳴り、手元のスマートフォンから顔を上げて私はぼんやり窓の外を眺めた。
路線バスを通学通勤手段に使っている人は多く、夕方のこの時間帯は学校、仕事帰りの人々で特に混雑する。
住宅地のバス停では人が一気に降車するので、立っていた私はちょうど前の一人掛けの席が空いたことを幸いに座り込んだ。
ふっと息をつく。
頬に射す夕日が熱く感じる時期になってきた。夏場はバスの中でも帽子をかぶらなければ耐えられないくらいだ。
車内を見渡すと立っている人もまばらになり、車体が軽くなったバスはすいすい細い道を進む。
この町に引っ越してから二年、辺りの風景も見慣れたものになってきた。
「次はコミュニティセンター前です。」
バスのアナウンスは平坦な声で繰り返す。左手に白いコミュニティーセンターの建物が見えてきた時、建物よりも手前の寺らしき門の両脇に紫がかったの茂みがあることに気づいた。
近づいてくる紫の茂みは見事な紫陽花だ。
「ピンポーン。次、降ります。」
誰かが降車ボタンを押した時、私は降りてみようかな。と思った。
コミュニティーセンターには図書館が併設されているので何度か利用したことはある。自宅に最寄のバス停は三つくらい先だけれど、歩いて帰れない距離ではない。
なにより私の心を奪っていたのは近くの寺院に咲く見事な紫陽花だった。
バス停からまっすぐ寺へ向かう。
こぢんまりした門構えの寺は地元の人にあじさい寺などという愛称で呼ばれているらしく、小さな看板に紫陽花祭り。と書かれていた。
平日の夕方ということもあり境内にいる人はまばらで、主に紫陽花が咲き誇っている庭園を散策したりカメラを構えている年配の人がほとんどだ。
本堂は閉ざされており中をうかがうことは出来なかったが参拝を済ませ、早速庭園に足を運ぶ。
手入れが行き届いた庭は今でこそ紫陽花がぎっしり咲き誇っているが、すっかり緑に変わった桜や梅の木も植わっていて春も楽しめそうだ。
スマートフォンのカメラで何枚か見事な紫陽花を撮影し、暗くならないうちに帰路に着く。また来よう。こんな近くに庭園の綺麗な寺があったことに私は嬉しい気持ちでいっぱいだった。
ぽきん。
見事な紫陽花の花を乱暴に手折る手が見える。
まだ小さいその手から上は赤く美しい模様の袖が続いている。
手折った紫陽花で半ば隠れた顔には長いまつげに隠され憂いを帯びた瞳がついている。
「姫、そろそろお時間ですよ。」
振り向くと乳母が優しい笑顔でこちらを見ている。
「いやじゃ。わらわはゆかぬ。」
いやいやとかぶりを振るその頭の髪はまだ十分な長さまで伸びていない。
「なぜ?なぜ姉上はまだなのにわらわが先に嫁がねばならぬのじゃ?」
乳母は近づいて姫の背中に手を置く。
「お父上が決めたことです。わたくしも一緒にまいりますゆえ恐ろしいことなどございません。」
ゆっくり背中をさすりながら乳母は優しく語りかける。
「わらわが病だからであろう。物心ついた頃からこの庵に閉じ込められ、姉上とも遊んでもらえなかった。ここしばらく臥せっておらぬからこの隙に嫁にやろうという父上の腹が透けて見えるわ。
わらわはゆかぬ。見知らぬ地で死ぬくらいなら、このままここで・・・」
出かかった言葉をぐっと飲み込み姫は驚いた様子で紫陽花の茂みの向こうを見つめた。
「妙な格好をしておる、そなたは誰じゃ?」
背筋に汗が、つうっと流れる感覚で目が覚めた。
まるで物語のような夢だった。そして物語を見ていた私と、登場人物の目が合うだなんて。驚きのような、怖いようなそんな気がする。
時計の針は真夜中をさし、隣で眠っている夫はすやすやと気持ち良さそうだ。
あじさい寺に寄り道した夜にこんな夢を見るだなんて。紫陽花に魅入られてしまったのかしら。などと思いながら寝返りを打ち、週末もう一度あの寺へ行ってみよう。今度は一人ではなく夫と一緒に。
そして夢に出てきた姫君の幸福を祈ろう。
そう思って深い眠りに落ちていった。
二
かりかりかり。
教室の中を鉛筆の音が静かに響く。応用問題を解いていた私はいじわるな問いにひっかからないように慎重に文章を読み、回答欄を埋めていった。最後まで回答を埋めきったので顔を上げ、軽く肩をほぐす。残り時間はまだ十分余っているのでこれから見直しだ。
ふと気になって窓際の席に腰掛けているミホを見る。彼女はぼんやり窓の外に目をやり、試験に集中できていない様子だ。あの様子だと今回も答案用紙はほとんど白紙だろうな。ため息をついて私は答案用紙に視線を落とした。
「梅沢、おめでとう。K高校に推薦が決定したぞ。」
前回の懇談会で担任の第一声がそれだった。母は嬉しそうに良かったねアユミ。と頬をほころばせている。
「ありがとうございます。」
言葉とは裏腹に、決まってしまったのか。と落胆している自分がいる。私の本当の希望校はK高ではない。隣町のS高なのだ。最初に志望校を母に伝えると母は表情を曇らせ「S高?隣町じゃない。高校に入れば勉強で帰りが遅くなることもあるのに隣町まで自転車通学だなんて危ないわ。近くのK高校じゃいけないの?」と言った。K高校は母の母校でもあり徒歩で通える位置にある。どうしてもS高でなければいけない理由もなかったので私もその時は、K高校にする。と折れたのだ。担任に相談すると、K高校なら推薦が取れるかもという話しになり今に至る。
「推薦が決まったからと言って勉強の手を抜くんじゃないぞ。まあ、梅沢なら心配ないだろうが。」
ははは。と快活に笑って担任は笑顔でこちらを見た。
「ところで一つお願いがあるんだが、小宮山とは仲良くやってるのか?」
「小宮山さん?仲が良いわけじゃないけど、別に悪くもないです。」
担任は顎に手をやって頷きながらこう言った。
「小宮山はこの時期だというのに勉強に身が入らない様子なんだ。このままだと志望校の合格も危うい。すまないが休み時間にちょっと勉強を見てやってくれないか。」
なるほど、推薦が決まって余裕が出来た私にできの悪い生徒を押しつけようとしているのか。
「あら、いいじゃない。ミホちゃんなら小学校の頃から一緒だったでしょう?力になってあげなさいよ。」
私がはいともいいえとも言わないうちに母は安請け合いをしておほほと笑い、懇談会は終わった。
翌日、休憩時間にミホの席に行くと、事情を聞いていたのかミホは素直にノートを出して分からない部分を指し示した。それから私は一日に数回、ミホの席で簡単な問題の解説をした。
「アユミに言われると解ける気がする。どうしてアユミはそんなに頭がいいの?」
回答を示すとミホは決まって不思議そうにそう言う。頭がいいんじゃない。勉強はやればできる、やらなきゃできないんだ。喉までこの言葉が出掛かるけれどもぐっとこらえて根気よく教えていた。しかし、ミホの様子を見ていると教えるのが虚しくなる。授業中もぼんやりと勉強が手につかない様子で問われる内容も似たり寄ったり。私はどんどん疲れていった。
今回の試験が終わったらもう教えに行くのをやめよう。そう決めたら楽になった。なんとなく手につかなかった自分の勉強にも身が入り、試験問題もいまのところ苦労することなく解ける。
答案用紙を提出し、終わった人から帰宅してよいとの話だったので帰ることにする。教室を出る時ちらりとミホの席を見たら、彼女は既に帰ったあとだった。
校舎から外に出ると雨が降っていた。まだ本降りにはなっていない細かな雨なので持っていた折り畳み傘を広げ、家路を急ぐ。同じ制服を着た集団がだんだん散り散りになっていく。
帰り道にある小さな寺の前を通りかかったとき、私は寺の中にミホの姿を見つけて立ち止まった。ミホは傘もささずに庭園の椿をじっと見つめて佇んでいる。明日も試験はあるのに、こんなところで道草なんかして、と非難めいた言葉が出そうになる。
「傘持ってないの?本降りにならないうちに帰ったほうがいいよ。」
折りたたみ傘を差しかけて声をかけるとミホは、はっとした様子でこちらを見た。
「あ。アユミ、雨降ってたんだ気づかなかった。」
折り畳み傘は小さいので近づくと制服がしっとり湿っている。
「風邪引くよ、入れてあげるから帰ろうよ。」
「うん。」
その後ミホとは他愛もない会話をぽつぽつ交わしただけで別れた。
ぱちん。
朝靄の中、よく手入れされた花鋏が椿を摘み取り、程よい長さに整えて四角い盆に載せられていく。ほっそりと白く美しい手がそっといとおしむように椿の花弁を撫でる。季節の草花を摘み取った盆を持った侍女を従えて姫は屋敷に戻っていった。
ほどなく庭に面した部屋の障子が開き、中には花器がしつらえられ、姫がその前に座る。結い上げられた豊かな髪と、着物に襷をかけて露になった肘から下はしなやかに動き、盆に載せられた季節の花が花器に美しく活けられていく。
するすると奥の襖が開き、雅な貴公子が静かに入って腰を下ろす。
「あら、まだ花を活けている最中ですのに。」
姫君は手を止めて貴公子に向き直った。
「そのまま続けて、どうか。なんと今年の椿は鮮やかで見事なものだ。」
貴公子は目を細めて活けられた椿に感嘆の言葉を漏らした。
「どうか、だなんてあなた。おなごにものを頼むなどお父上がご覧になったら嘆きますわ。」
姫君は花器に向き直り、手を動かしながら楽しそうに弾んだ声で答える。
「今日は遠方よりお客人がいらっしゃるとのこと。わたくしも張り切ってもてなしをさせていただきます。」
「美しいそなたを見ればどのようなもてなしも色あせてしまうというもの。だがこの花はそち自らが手折って活けたとなれば箔も付くものよのう。さて、そなた一人に任せてはおれぬ。私も準備をするとしよう。」
貴公子が立ち去ると姫君は手を止めて侍女に人払いを頼んだ。
一人残された姫君はため息をつくと庭に向かって語りだした。
「わたくしが嫁いでから幾年、おかげさまで病を得ることはなくなりました。ただ、子を授かることはままなりませぬ。夫はあの通り鷹揚な方だからなにも気に留めることはないと仰います。生きて、傍にいてくれるだけで良いと。わたくしは幸せものです。でもふとした瞬間に、本当にこのままで良いのか、夫にとって私が伴侶で良かったのだろうかと思わずにはいられません。どうか、今一度わたくしに機会をください。」
姫君はそっと袖で涙をぬぐって深く頭を下げた。
庭に立ちつくしていた私は驚いて後ずさりした。
姫君はしっかりと落ち着いた物腰から年上の人かと思って見守っていたけれど、よく見たら実は私とそう変わらない年齢かもしれない。私はただの人なのになぜこのような事を頼まれるのか訳が分からずうつむく。
「おや、前に見た時と別の姿に見える。あなた、花の精ではないの?」
姫君は庭に降りて私の方へ向かってくる。
違います、違うんです。私はただの人間です。言葉にしたいのに口が動かない。
さあっと朝靄が晴れて、私は姫君と真正面から向き合って絶句した。
「ミホ?」
自分の言葉に驚いて目が覚める。鮮明すぎる夢の中で相対した姫君はミホにそっくりな面影を宿していた。
昨日庭園の中に佇むミホを見たからだろうか。おかしな夢もあったものだ。
そう自分に言い聞かせないと落ち着かない気持ちでそわそわしてしまう。寝返りを打って目を閉じると、さっき見た姫君の心細げな表情が浮かんでくる。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。姫君に対して自分に出来ることなんて何も思いつかない。でも、もしミホが私に助けを求めているのなら、手を差し伸べてあげれることはあるんじゃないだろうか。
明日学校に行ったらミホに話しかけてみよう、晴れてたら帰りに一緒に椿を見に行こう。
そう思って深い眠りに落ちていった。
三
プシュッ
よく冷えた缶ビールのプルトップを上げて、喉をごくごく言わせながら飲む。帰宅してシャワーを浴びたらこの一口目が一日の中でもっとも幸せな時間だ。
妻がカレーライスの皿をテーブルの上に置いた時、ガラガラと玄関の扉を開く音がした。
「ただいま。」
息子の声が聞こえる。妻が驚いたようにリビングの扉を開き、おかえりと声をかけた。
「父さん、母さん、久しぶり。元気だった?」
息子は大きな袋を二つ下げてリビングに入ってくる。
「おう。」
私は生返事をして息子の姿を見た。今年から新社会人になって会社寮に入った息子は、スーツ姿のまま現れた。
「実は先週ボーナスが入ってさ。これ、父さんと母さんに。」
照れくさいのかこちらを見もせずに包みを妻に渡す。
「あら、そんな気を使わなくていいのに。夕飯はまだでしょ?ちょうどカレーがあるから食べて行きなさいな。」
妻は嬉しそうに息子のスーツをハンガーにかけ、キッチンに入った。
「どうだ、元気にやってるか。」
「うん。仕事を覚えるのは大変だけど、だんだん慣れてきたよ。」
「そうか。」
テレビのリモコンに手を伸ばす。番組表をみると息子が好きそうな野球の中継があったのでチャンネルを回す。
「お父さんったら、コウくんが久しぶりに帰ってきたのに相変わらず無口なんだから。」
妻が息子の前にカレーの皿と缶ビールを置いた。
「コウくんの初ボーナスに乾杯よ。」
ちゃっかり自分用の缶ビールも開けながら、妻は乾杯の音頭をとった。
「初ボーナスのプレゼントが電化製品なんて、コウくんらしくてお母さんちょっと笑っちゃったわ。」
「何選んでいいかわかんなかったから、結局実用的な物しか選べなかったよ。」
息子はテレビ画面を横目に見ながら答える。
「お前、もう開いたのか?」
「いえ、箱に写真が印刷されてるからチラっと見ただけよ。お父さんのは食べ終わってからのお楽しみね。」
「ふむ。」
息子が初ボーナスで買って来た物。今までプレゼントをすることはあってももらうことはなかったものだから複雑な心境で、心なしかそわそわしてしまう。カレーの味もろくに味わえないまま食事は終わった。
「それじゃ、開きましょう。」
妻はテーブルの上に袋を二つ載せると、こっちがきっとお父さん用よ。と中から箱を取り出した。
「ほお。カメラか。」
箱には一眼のデジタルカメラが印刷されている。写真に興味はない方だが、メーカー名を見るとそこそこ良いカメラのようだ。
「お父さんよく散歩に行ってるから、本当は散歩のお供に犬がいいかなと思ったけれど母さんがアレルギーだからさ、散歩のついでに写真でもはじめたらどうかと思って。」
「あらいいじゃない。手ぶらで散歩するよりも写真の一つでも撮ったらいい記念になるわよ。コウくん、私がホームベーカリー欲しがっていたのよく覚えてたわね。ありがとう。」
妻はそう言って嬉しそうにホームベーカリーの説明書についているレシピに視線を落とした。
「そうだな、写真か。ちょっとやってみるのも悪くない。ありがとう。」
照れくさくて言えなかった「ありがとう。」が自然に口から出てほっとする。
「いいよ、そんなに高いもんじゃないし。」
息子は照れた様子で両手を振った。
翌朝、私は軽く朝食を済ませるといつものように散歩に出かけた。首からは息子にもらったカメラを下げている。昨日の夜、説明書を片手に何回か試し撮りをしてピントの合わせ方などおおよそのところは把握した。近頃のカメラはピントを合わせるといってもほぼ自動でやってくれるのでありがたい。カシャッとシャッターを切る音がついているのも案外耳に快いものだ。
初めての被写体は家を出る前から決めている。私はとある寺の門を潜った。参拝を済ませて庭園に足を踏み入れる。朝露に濡れた植物は色鮮やかでどれを被写体に選んでも美しく写りそうだ。
私は軽く庭園を一周しながら、どの植物を被写体にしようかと悩んだ。
「おはようございます。」
毎朝庭の手入れをしているお坊さんに挨拶をする。
「おはようございます。おや、今日はカメラをお持ちなんですね。」
「はい。昨日息子がくれまして。ここの庭園が見事なものだから、真っ先に撮影したいと思って持ってきました。撮影してもよろしいですかな。」
「ええ、もちろんご自由にどうぞ。今の時期でしたらこちらの桔梗が見ごろですよ。」
礼を言って桔梗の前に立つ。紫の可憐な花がちらほらと見え隠れし、紙風船のように膨らんだ蕾は今にもぽんと花開きそうで愛らしい。私は中腰になったり伸び上がったりしながら桔梗を撮影した。
ぶっちん。
小さな両手が桔梗を根元から勢い良く引っこ抜く。軽く尻餅をついた男の子は、さっと立ち上がり建物のほうへ元気良く駆けて行った。
「ははうえ見て、紫のお花、可愛いよ!」
弾んだ声で中に向かって声をかける。すると縁側に面した障子が開き、美しい着物を着た優しげな女性が男の子を抱きとめた。
「このお花は桔梗ね。若、お花は根っこから抜いてしまうといけないのよ。土から離れたら生きられないからね。お花を摘むときは、母に言ってちょうだい。」
「うん、ははうえ。このお花、部屋に置いてもいい?」
「いいですよ、これから活けてあげましょう。」
母と呼ばれた女性は頷いて女中に道具を持ってくるよう指示している様子だ。若と呼ばれた男の子は、よく見るとこれも軽装だが良さそうな和服に身を包んでいる。庭園にさわさわと吹き渡る風が心地よい。私はどこか見たことのあるような、懐かしい庭の雰囲気を楽しんだ。
その時、ガサガサとかすかだが人の足音ような雑音が耳に入り、私は辺りを見回した。
すると、目つきの鋭い男が三人ほど庭の目に付かない角度にうずくまって中の様子を伺っている。良く見ると身なりもみずぼらしく、この屋敷の客人ではなさそうなことは明確だ。
押し込み強盗なのではないだろうか、と考えた途端ぞっと震えが来た。庭から見える和室では母と子が和やかに話を続けている。なんとかこの状況を知らさなければ。焦れば焦るほど声が喉の奥に詰まったままで出てこない。私は咄嗟に首から下げていたカメラを手に取ると、フラッシュの出力を最大にして母親に合図を送った。どうか、気づいてくれ。母親は一瞬こちらをみて表情をこわばらせた。
「賊が入っています!誰か、誰か来て!」
男達は母親が声を上げるのを合図にしていたように刀を抜き、草花を踏み潰しながら勢い良く屋敷に上がりこんだ。
母親は膝立ちで若を後手で庇いながらきっと賊を睨みつけて対峙する。若は大きな声を立てて泣き出した。
「子供の首をよこせ。」
母親を取り囲んでいた真ん中の頭らしき男が刀を上段に構える。
「嫌です、この子の命が入用ならばわたくしを斬ってからになさい。」
「ふん、ならばそうさせてもらおう。」
男の刀が母親に振り下ろされる瞬間に、大きな塊が襖を破ってそのまま手下らしき男に突進し、押し倒した。ふいに当身をくらった手下は泡を食って伸びた。そして母親の正面にいた男が音もなく足を抱えてうずくまり、血しぶきを上げながらそのまま崩れ落ちる。
一人残された手下は、刀を捨てて庭へ逃れようと体を翻したところ、黒い塊。に見えた熊のように大きな男が襟首をむんずと掴んで投げ飛ばした。
手下二人が伸びたのを確認した男は、血だまりの中に呆然と座り込む母親の前に膝をつく。
「奥方様、大事ないですか。」
「え、ええ。わたくしはこのとおり。それよりも若、若は無事ですか?」
「すぐに女中が若を抱いて奥へ逃げましたから大丈夫です。」
「そう。わたくしは……わたくしは人を殺めてしまいました。」
母親は悲愴な面持ちで倒れている男の亡骸を一瞥し、大きなため息をつくと固く握り締めていた懐剣を手放した。
ぜえぜえと言う自分の呼吸の音で目が覚めた。同時に口の中が乾き、激しい喉の渇きを感じる。起き上がってキッチンに行き、冷蔵庫から麦茶を出して飲む。冷たい麦茶が夢にうなされた体内に快く沁みこむ。
部屋に戻ってカメラを手に取る。フラッシュを最大出力にしてシャッターを切った。強烈な光が室内を一瞬明るくする。データを確認すると今朝撮影したばかりの桔梗の写真が次々と映し出された。
問題ない今のはただの夢だ。ひとりごちると、ベットに入り電気を消す。
そのまま深い眠りに落ちていった。
四
こぢんまりした寺の前の石畳を、一人の比丘尼が箒で掃き清めている。掃き清められた石畳に下男らしき男が水を打ちながら寺の門まで綺麗に清掃すると下男に箒を持たせ、比丘尼はほっと息をついて流れる汗を手ぬぐいで拭った。
門を潜り中に入ると見事な庭園に色とりどりの花が咲き乱れている。比丘尼は庭園に面した縁側に座り、下男が用意したお茶を手に庭を見渡した。ほどなく奥の襖が開き、爽やかな若竹色の着物に身を包んだ若者が現れ、比丘尼に一礼する。比丘尼も姿勢を正し、若者に一礼すると若者は少し緊張した面持ちでこう告げた。
「母上、私の元服の儀が執り行われる日取りが決まりましたので、ご報告に参りました。つきましては、母上にもご出仕いただきたく……」
「お待ちください若。わたくしはこの通り出家した身、今更若の晴れの儀式に出仕するなど到底かないませぬ。」
比丘尼は静かにかぶりを振って若君を諌めた。
「しかし、母上は私の母上ではありませぬか。あの日から、私を傍にも置いてくれませぬ。どうしてそのように冷たい振る舞いをなさるのですか。」
比丘尼はため息をつき、救いを求めるように庭に目をやる、そしてはっとした様子で庭の花々を見渡すと、若君に庭がよく見える位置へ来るようにと手招きした。
「若、見えますかこの庭に咲き乱れる花々に宿った精が。」
若君は怪訝そうに庭を覗き込み、首を振る。
「今あの方々が皆揃って現れているのはきっと、あなたに話をすべき時が来たことを知らせているのでしょう。」
「母上には何か、見えているのですか。」
「ここからだと微かにしか見えませぬが、感じることはできます。わたくしには昔から、花の精が見えるのですよ。若、庭に降りて近くでよくご覧になりませんか。」
比丘尼は若君を伴って庭園に降り、大輪の紫陽花の前で足を止めた。
「わたくしが初めて花の精を目にしたのは嫁ぐ前のことでした。わたくしは幼少の頃より体が弱く、よく病に臥せっておりました。その頃わたくしが療養しておりました庵の庭に、このように立派な紫陽花が植わっていたのです。」
比丘尼は袂から鋏を取り出して紫陽花の花を摘み取り、困惑した表情の若君に手渡した。
「幼かったわたくしは、父上が決めた顔も見たことのない相手に嫁ぐのが嫌でした。そして何よりも見知らぬ土地で病に倒れ、知らぬ人に囲まれて死ぬのが恐ろしかった。嫁ぐことが決まってからはいやいやとだだをこね、乳母を困らせていたものです。輿入れの前の日、庭の紫陽花を摘んでいた時に目の前に不思議な衣に身を包んだ女人が立っていたのです。薄紫の、紫陽花の花のような女人が、困ったような顔をしてわたくしを見下ろしていました。わたくしは驚いて、何か声をかけたのですがその途端霞のように消え去り、わたくしには女人がなぜ現れたかなど分かる由もありませんでしたが、その姿だけは忘れようにも忘れられないものとなりました。」
比丘尼は紫陽花に手を合わせ、静かに歩みだす。若君は紫陽花を手に比丘尼の後を追った。
「若、御覧なさい。」
比丘尼が生垣の一点を指し示す。
「あれは、椿の花ですか?この暖かい時期に狂い咲きでもしたのでしょうか。」
濃い緑色の葉が密集した生垣の一点にぽんと置かれたような紅の椿の花が咲いている。比丘尼は椿の花も同様に摘み取り、ふっと微笑むと「そうね、あなたは今の若と変わりない年回りに見えますわ。」と椿に話しかけ、若君に手渡した。
「わたくしがふたたび花の精を目にしたのは紫陽花の花を見てから数年たったある日のことでした。その数年間、わたくしはあなたの父に嫁ぎ、あなたの父上は幼いわたくしをまるで妹のように大切に慈しんで下さいました。その甲斐あってか、わたくしの病はすっかり治まり平穏で幸せな日々を送ることができました。ただ、ひとつだけわたくしを悩ませましたのは何年経っても子が授からないことでした。
そんなある日、遠方よりお客様がいらっしゃるとの知らせを受け、わたくしは床の間に飾る花を朝靄も明けきらぬ時刻より庭に降りて一心に摘んでおりました。すると椿の花の近くに、以前紫陽花の花の精を見たときと同じ凛とした気配を感じたのです。しかし気配は感じるものの、辺りは朝靄ですっぽり隠れて花の精の姿を確かめることはできませんでした。私は庭に面した部屋に花器を置き、そこで花を活けながら花の精が現れるのを待ちました。
一刻ほど経ち、朝靄もずいぶん薄れてきた頃、花の精が庭先のすぐそこまでやってきているのが気配でわかりました。不思議なことに花の精は私が何をしているのかじっと見守っている様子です。
わたくしは人払いをして庭に向き直り、花の精に語りかけました。返事はなくとも、じっと耳を澄ませて私の話を聞いてくれている気配が伝わってきます。私は胸のうちをすっかりうちあけて顔を上げました。すると朝靄がさっと明け、そこには当時のわたくしとさほど年回りの変わらない、濃い緑の衣の胸元にふっくらと赤い布を巻いて結んだような、まるで椿の花そのものの姿をしたおなごが立っていたのです。椿の精は私を見て驚いた様子で後ずさりしながらかぶりを振っていました。まるでわたくしの願いは叶えられないと言っているように。」
比丘尼は悲しげに目を伏せ、若君に背を向けた。
「わたくにしは分かっていました。何年経とうとわたくしに子が授かることはない。ということを。それを花の精に知らされた時、決心がついたのです。殿に側室を取ってもらおうと。」
若君ははっとして顔を上げ、比丘尼の背中に問いかけた。
「すると私は、母上、あなたの子ではないのですか。」
比丘尼は黙したまま椿に手を合わせて静かに歩みだし、桔梗が群生しているところで膝をついた。
「ああ。わたくしはあの日、どうして死を受け入れることができなかったのだろう。」
比丘尼の小さな背中が微かに震え、若君は肩をそっと抱いた。
「椿の精に諭されてから数年後、殿と側室の間に健やかなおのこが産まれました。わたくしはそのおのこを引き取り、わが子のように慈しんで育てたのです。ですがきっとその行いがわたくしの考えが足りぬわがままだったのでしょう。殿と側室の間に二人目のおのこが産まれた時、側室の一族の中のわたくしへの不満を持ち続けていた者が、賊を雇いあなたとわたくしの首を狙いにきたのです。」
比丘尼は桔梗の花を手折り、若君へ手渡した。
「あの頃のわたくしは、あなたを立派な跡取りに育てることに夢中でした。つかの間の作られた幸せだとも知らず、日に日に大きくなってゆくあなたの成長を見守るのがなによりも楽しかった。
ちょうどこの桔梗の花が満開の頃、あなたが私にこの花を摘んで見せてくれました。その時、庭から大きな光が降りかかってきたのです。わたくしが驚いて庭を見ると、恐ろしげな賊が三人こちらに向かってくるではありませんか。そしてその後に佇み光を放つ花の精の姿がぼんやり見えました。
あっという間に私とあなたは取り囲まれ、わたくしはあなたを守ることに必死でした。正面の賊が刀を抜いて構えたとき、下男が助けに来てくれたのです。わたくしは必死に懐剣で賊の足を切り、かがんだところを狙って胸を突いたのです。後の二人の賊は下男が取り押さえてくれました。
わたくしは、人を殺めてしまったのです。」
比丘尼は両手を開き、そこに血がついているかのように震えながら手を合わせた。
「しかし母上は私とご自身のお命を守る為、賊と必死に戦ってくれたのではありませぬか。結果人を殺めてしまうことになったとしても、そうしなければこちらの命が奪われていたのでしょう?ならば母上がなさったことは間違っていたとは到底思えませぬ。
それよりも、賊を雇った側の人間が私と遠からず血の繋がりがある誰かだと言う事を知り、私は……ああなんと浅ましいことか。」
若君は唇を噛んでうなだれた。
「賊をしかけたのが誰か、などは今となっては些細なことです。元はといえばわたくしのわがままが招いた事です。わたくしの手は己が犯した罪によって穢れております。今までのように若の成長を近くで見守ることはできません。あなたの成長を見守るという生きがいを奪われ、何度も命を絶とうといたしましたが、賊の後ろで大きな光を放っていた花の精が助けてくれたこの命。身勝手に絶ってはならないのではないかと思い、迷った末に髪を下ろしました。」
比丘尼は顔を上げると、桔梗の花の上の虚空を見ながら「あの時はっきりとお姿が見えませんでしたが、あなたは、桔梗の精は翁の姿をしていたのですね。」と呟き、立ち上がって深い礼をした。
「わたくしはこの寺に移り、今まで私を助けてくれた花の精を思い出しながらこの庭を作り上げました。生物を育てるのは楽しいことです。物言わぬ草花でも昨日と今日では様子が変わってゆきます。それに。」
比丘尼は若君に向き直り、晴れやかな表情で続けた。
「若も立派な殿方になりました。わたくしはもう、思い残すことはありません。」
さぁっと爽やかな一陣の風が庭を吹きぬける。若君は目を瞠り「あっ。」と言葉を漏らす。
「母上、母上の後に花の精が見えます。私にも見えました。」
「あなたにも見えたようですね。これからは花の精があなたにも加護を下さいます。
わたくしは、庭を作りながらこの瞬間を何年も待ち続けていたのです。」
比丘尼は微笑むと、西を向き強い風に乗って花の精と共に旅立った。
「母上!」
咄嗟に伸ばした手が宙を掴む。目を開くとそこは見慣れた寝室だった。夜の闇は白みかけているものの、まだ薄暗く起床するには早い時刻だが、私は体を起こして窓を開ける。
すると庭の紫陽花が咲いている所に小さな赤い振袖がちらついているのを見つけた。この屋敷に赤い振袖を着るような幼子はいない。よく見ると幼子はぷうと頬を膨らませていやいやをするようにかぶりを振りながら紫陽花の花を手で乱暴にちぎっている。
私は目を閉じて深い呼吸をし、幼子がいた辺りをもう一度見つめた。が幼子の姿はかき消されたようになくなっており、かわりに寺からの使いのものが足早に屋敷に駆け込んでくる姿が見えた。
あじさいの寺