どぶの死体
絵本を読まないと寝付かない子だった。完全に眠りに落ちる前に絵本を閉じると、ぱっと目を開いて「まだおきてる」と不満げな顔をする。やれやれとまた絵本を開き、呼びかけに答えなくなるまで音読をした。寝息を立てる息子の額にキスを落とし、眠りにつくのが日課だった。
よくお手伝いをしてくれる子だった。馬の世話から炊事の手伝いまで、なんだって手伝ってくれる。力仕事のあとはいつも肩を揉んでくれる優しい子。
転んだだけで泣いてしまうような泣き虫な子だった。転ぶ度に「おかあ」と泣いて私のところへ駆け寄って来る仕方のない子。ほら泣かないの、と涙を拭ってやると「うん」と無理矢理に笑う。いい子ねと褒めると次は本当ににっこり笑って、転んだことなど忘れたようにご機嫌になった。
あまりわがままを言わない子だった。なのにたまにしか言わないわがままを、貧乏なせいできいてあげられなくても「そっかあ」と笑ってくれた。
いつの間にか絵本を読まずとも眠れるようになっていたうちの子。
いつの間にかお手伝いではなく、仕事をこなすようになっていたうちの子。
いつの間にか転んでも泣かなくなっていたうちの子。
いつの間にかわがままをまったく言わなくなっていたうちの子。
いつの間にか私よりも大きくなって、私よりも力持ちになって、優しくてたくましくなっていたうちの自慢の息子。私のたからもの。
遅くまでいつも絵本を読んでくれたこと。些細なことでも「ありがとう」と言ってくれたこと。泣き虫な僕を叱らず優しく包み込んでくれたこと。
温かくていつもおいしい食事の味、綺麗に洗ってくれた服の匂い。優しい声、笑顔、体温。戦争に行くと言った時の悲しい顔。すべて鮮明に覚えている。母の愛に触れていたあの頃を、一度も忘れたことなどない。
大好きな母が僕を大切に、深い愛を持って育ててくれたことを僕は知っている。だからこんな戦場の片隅、汚いどぶで命が消えるのを待つだけの自分が情けなくて、母に申し訳なくて、泣いた。
吹き飛ばされた手足から流れ出ているはずの血を感じなくなった。腹部の銃創ももはや痛みも熱も感じない。
母が愛してくれた僕の体は銃弾の嵐を受け、地雷で吹き飛ばされどぶに落ちた。そして母の愛してくれた僕はもうじき死ぬ。母を愛する僕はどぶの中で目を濁らせていく。心臓が停止するその瞬間まで、僕は母を思う。
どぶの死体