夢渡り


――三月九日午後六時二十三分
 低い医師の声が、横たわる私に届いた。どうやら、私は死んだらしい。
 体がだんだん重く、ぬるくなっていく。それが自分の中に沈んで、気持ちが悪い。いっそ冷たくなってしまえばすっきりするのだろうに。私を覗き込む医師の顔はぼんやりと歪み、定かでない。
 自分がなぜ死んだのか、理由は覚えていない。気が付いたら、死んでいた。不思議と何の感情も湧いてこなかった。ああ、私は死んだのだと、ただそれだけ一つ、胸にすとんと落ちた。何ひとつ自分の人生を思い出せない癖に、どこか自分の死に納得している私がいる。
 誰かのすすり泣く声が聞こえる。医師がいるからここは病院なのだろう。死に場所が病院で、看取ってくれる人もいるならば、それなりに幸せな暮らしだったのかもしれない。声の主を見ようとしたが、死体の筋肉など動くはずもない。なるほど死ぬというのは不便なことなのだな、と心の中で呟いた。いや、そもそも心――脳と心臓もとっくに死んでいるはずなのだが。

 私は棺に入れられた。物悲しげなリズムに揺られ、どこかに運び込まれたようだ。辺りはまったくの静寂。体は相変わらず重く、指先がとても冷たい。
「今晩は」
 不意に声がして、棺の蓋が開けられた。視界が開け、そこで初めて、とっくに陽が沈んでいたことを知る。星あかりがステンドグラスの向こうから僅かに漏れるばかりの、真っ暗な夜だった。木製の長椅子が私の前に整列している。オルガンは布を掛けられていながらも、どっしりした風格で私のすぐ横に鎮座している。おそらく、ここは教会だ。
「ただ寝ているだけではつまらないだろうし、少し私に付き合ってよ」
 蓋を開けた主は、私に話しかけているらしかった。白い修道服に十字架を首から下げている。返事を待たずに彼は私の手を取り、引き上げた。体が浮くような感覚があって、私の体は簡単に持ち上がる。体の重さや冷たさ、言いようのないかったるさが途端に消えた。
「誰」
「ここは君の夢の中さ」
 私の問いには答えずに彼はそう言って、柔らかく微笑んだ。暗がりの中だというのに、何故か顔ははっきり見えた。白髪の混じった髪を持つ若い男である。夜を吸い込んだような真っ黒の瞳が、こんな薄ら寂しい夜に似合っていた。
「夢?」
「だっておかしいだろう? 死んだのに君は私と話しているなんて」
彼はさも可笑しそうにそう返す。その振る舞いは無邪気な少年にも、年老いた紳士にも見えた。
彼の言うことは尤もだ。私は死亡宣告を受けているが、視覚や聴覚、果ては思考までが働いているのだ。夢で当然。言われてみればどんどんそんな気がしてくる。今までそんな簡単なことを理解していなかったことが奇妙に思えてくるほどだ。
「外の空気を吸いに行かないかい? ずっと棺の中では息も詰まるだろう。最も今の君には呼吸なんて必要ないけどね」
 彼の微笑みに私は懐かしさを見た。手をひかれるままに、教会の重い扉を押す。振り返ると、私の死体は瞼を閉じたまま、棺に残っていた。
厳粛な響きをもって教会の扉が閉まるのを背後に聞く。外に出ると、秋の冷涼な風が私を通り抜けていった。木々はすっかり葉を落としてしまっている。街はしんと静まり返り、街灯一つ灯っていない。この街では彼だけが唯一生きているようだった。
「私は今、司祭なんだ。明日朝の君の葬式を任される、ということになっている。ドイツの葬式をご存
じかい?」
「少しなら。でもそれにいったい何の関係が」
「それはいい。や、当然か。ここでは君の知らないことは起こらないからね。あくまで君の夢だから」
 彼は私を遮って得意げに言う。それから重たそうな修道服をよそに、ひらりと塀に飛び乗った。差し延ばされた手を取れば、先ほどと同じように軽々と引き上げられる。そのまま私たちは教会の屋根に移った。
「空、見てごらん」
言われるがまま、私は上を向いた。 
「あ……」
思わず声を漏らした。眼前には、割れた砂時計のような星空が広がっていた。そのうちに、星空がゆっくりと回り出す。彼を見ると、手に持った何かの螺子を回している。その動きに合わせて、星が流れたり止まったり、捲き戻ったりするようだ。
「ここは架空だからね、時間の流れは自由に変わるんだ」
 彼がそう語る間にも、星空はくるくると姿を変えていく。オリオンが西の空に沈んだかと思えば、今度はさそりが東から現れた。
「やってみる?」
 彼が掌を開くと、懐中時計があった。螺子の正体はこれのつまみらしい。不思議なデザインの時計だった。文字盤の内側にはもう一つ文字盤があり、異なる長さの針が四本、それぞれ勝手に時を刻んでいる。
「壊さないでね」
 そう言って、彼は私の掌の上に懐中時計を納めた。その途端、全ての針が動きを止める。螺子を引いても、回してみても、針は微動だにしない。壊してしまったのかとぎょっとして彼を見る。しかし、彼は別段驚きもせずに私から時計を取り上げた。
「死人に時間なんかないさ」
 彼がおどけたように言う。時計はまたすぐ、我儘に回転を始めた。彼が螺子を回せば、それに合わせて針が回る。私が反論する間もなく、目の前の景色は変わっていた。

私の葬儀が行われていた。ミサは終わっているようだ。私は参列者に混じって、棺を見下ろした。棺は既に閉じられていて、私の肉体を見ることは叶わない。どこからか死者を弔う鐘の音が響く。土の中に埋まっていく私に、参列者たちが花を投げ込んでいく。
「君は花を捧げないのかい」
 ふいに彼が呟く。こちらを見ていなかったが、私への質問らしい。いつの間にか私も手に花を持っていた。一輪の青いデイジーである。
「皆が君の冥福を祈っているよ」
 改めて自分の棺を見つめる。棺は土と花の中にもう半分以上体を隠している。自分の死体をこんな形で見下ろす、というのはあまり気持ちのいいものではない。
「死んだ自分に花を捧げるというのも滑稽な話でしょ。……それに私は誰も知らない」
 涙を流している人がいる。ただ何も言わず、花を投げて背を向けた人もいる。その誰も彼も、顔はぼんやりと歪んではっきりしない。しかしどこか既視感のある人影ばかりだ。
「忘れちゃった?」
「私は、忘れたの?」
 知らないのか、それとも覚えていないのかどうかも忘れてしまった。しばらくの間、何も音のない時間が続いた。
「私は君の冥福を、いや幸福を祈るよ」
 彼が墓に花を添えた。切り花にしては生気に溢れるその花は、私と同じブルーデイジー。
「幸福?」
「冥福、は死後の幸福」
 彼はそう言って人懐っこく微笑み、墓石の上に腰かける。罰当たりなことを、と思ったがそこに眠るのは私なのだ。私じゃあ、罰なんて当たるまい。
「いいじゃないか、夢の中でくらい自分の幸を祈ってみるのも。どうだい?」
 参列者は次々と、私たちの周りから去っていく。恐らくこれから始まる茶会へ向かうのだろう。ドイツ式、と彼は言っていたのだし。
「無意味だと思うけど。それに死人に時間はないんじゃなかったの?」
 半分投げやりに、私はブルーデイジーを投げた。それは宙を舞って、音もなく墓に落ちる。花が、ゆっくり萎れていく。
「死人には、ね」
 懐かしく、胡散臭く、人懐っこく、どうとも取れる笑みを彼はまた浮かべた。どこかに時計の秒針が動く音を聞いた気がする。棺を埋めた場所には土が盛られる。しかし私の墓地は何事も無かったかのように、全くの平坦な土地に戻っていた。鐘の音も、聞こえない。


「判決」
 私は法廷の真ん中に立っていた。館内はしんと静まり返り、傍聴人すらも息を呑んでいる。
「終身刑」
 終身刑。つまり死ぬまで投獄され続けるということか。今まで裁かれたことなどなかったはずだが、どこか私は既視感を覚えた。どこか他人事のようで、現実味が薄い。
「夢」
 そうだ、私が死んだ夢。あの夢を見た時も、この浮遊感があった。やはりそれ以外のことは何も覚えていない。
法廷を出た私は後ろ手に手錠を繋がれた。重く冷たい金属が、ずしりと手首にぶら下がった。
 両脇を屈強そうな男二人に固められ、護送車に乗せられる。抵抗する気などないのでただ粛々と指示に従う。しばらくするうちに私は牢に入れられた。狭く、薄暗い場所である。
「やけに落ち着いてるね? 身に覚えのない罪を着せられて、取り乱さなかった人は初めて見たよ」
 不意にそう看守に話しかけられた。看守は牢の扉を閉めずに壁に寄りかかっている。全体的に色素の薄い、ひょろりと背の高い男だった。その容貌はまるで違えど、私は直ぐに確信した。
「貴方……司祭ではなかったの」
「それはそれ、これはこれ」
軽くウィンクを決めると彼は微笑んだ。
「君こそなんたってこんな場所にいるのさ」
「知る訳ないでしょ」
 苛立った声で答えた私に、彼は八の字に眉をひそめる。そういうことじゃなくてだなー、と彼は困ったように呟いた。
「ねえ、君は何の罪を犯したんだい?」
 死刑囚に対峙する神父のように、彼は尋ねた。その左手で抱えている罪人のデーターファイルは何なんだと言いたくなる。それに私は自分の罪状まで聞いていない。……馬鹿馬鹿しい。
「言ったでしょ、ここは夢だって。もしかして閉じ込められるのが趣味のヒト?」
 私が黙っていると、何故か楽しそうな口ぶりで彼は続けた。ああ、これは彼の独り言だ。そう思うことにして放置する。
「それとも……罪の意識があるってことかな」
 無視を決め込むつもりだった。しかしその言葉に反応して、胸中で得体のしれない何かが芽吹く。彼の言葉は、そもそも質問などでは無かったらしい。
「勝手に決めつけないで」
 白髪の男を睨めつける。こんなことで私の心が晴れる筈が無い。芽は土には返らない。当然彼は堪えたような表情を見せもしない。
「私はここの牢全部の見張りをしなきゃいけないから、もう行くね。手錠は外してくれて構わないから」
 彼は私の牢に錠をかけ、去って行った。しん、とあたりが静まり返る。取り敢えず手錠をがちゃがちゃといじってみたが、何も起こらない。鍵も見当たらなかった。
「外れないじゃん」
 そのつぶやきはコンクリート造りの牢に反響し、重複して私に返ってきた。無音の孤独感が、騒がしく私を襲った。

 薄暗い部屋で、私は見知らぬ女性と向き合って座っていた。しかしどこか懐かしさを感じる。もしかしたら知り合いに似ている人がいるのかもしれない。歳も私とそう変わらないだろう。
「取り敢えず、元気そうで良かったよ」
その人は、そう言って微笑んだ。牢の中の人間にかける言葉としては、いささか不釣り合いのような気もする。
 私は面会室にいるようである。二人の間を阻むガラスの壁は、きっとガラス以上に厚みがあるのだろう。
「どうして来たの」
 不躾に、出来るだけ相手に不快感を与えるように尋ねる。どうせ私はこの人のことを知らない。もしくは、覚えていない。
「だって、心配だし。退屈してるかもしれないし?」
 そんな私の態度など気にもせずに、あっけらかんとした答えが返ってきた。
 ……私は閉口した。返す言葉が見つからない。しかし、この人にとっては何でもない言葉なのだろう。私は、一瞬前の自分を恥じた。
「本当、怖かったんだから……」
 他愛無い世間話の最中、ふとその人が目を伏せて呟いた。世間話と言っても、私は自分のことについても含め、何も覚えていないので聞き手に徹していたのだけれど。
「怖かった?」
 世間話より大分深刻そうな呟きに、私は馬鹿みたいにおうむ返しをした。何の意識も無い、ただ、興味本位の問いだ。当然と言えば当然だが、女性は苦笑を返した。呆れというよりか、誤魔化しや不安に近いものと見て取れる。
「だって×××、返事しないんだもん」
 
 いくつか言葉を交わしたような気がするが、覚えていない。少なくとも「怖かった」話がそれ以上出ることは無かった。それでも私の中には先程の言葉が引っ掛かっていた。壺の中で蠢くものの正体を知っているはずなのに、壺の中が暗くて確信が持てない――そんな感覚。彼の言った「罪の意識」とやらも同じ壺の中に入っているらしかった。
「まあ来てよかったよ、うん」 
 女性は立ち上がり、椅子に掛けてあったコートを腕に掛ける。一人納得したように頷く姿に、どこか既視感がある。
「またね、×××」
 ×××、というのが私の名前らしい。聞いた瞬間は音として耳に入ってくるのに、直ぐに消えて思い出せない。
「メグ」
 私は、部屋を出ていこうとする背中に咄嗟に声を掛けた。言葉にして初めて、私がその名前を知っていることに驚く。考えるより先に口が動いて、聞きなれた響きのある名を呼んだのだ。
 メグは少し振り返って、閉鎖空間の中の私を見やった。いたずらで物寂しげ、というのは矛盾するかもしれないが……そんな微笑みを浮かべて。
「さっさと出てきなよ、こんな所」
 彼女は私が終身刑であるのを知っているはずだった。だのにそんなことを言って、返事も待たずに部屋から出ていった。

「まだいたんだ」
見回りに来た彼は、飄々とした様子で私に聞いた。そんなことを罪人に聞くような看守は、とんでもなく嘘くさい。いや、実際嘘なのだろう、神父にだってなれるくらいなのだから。
「出ていかないんだ?」
私だけに、彼は話しかける。他にも私を含めて十数人がこの通路沿いの牢にいるようだった。まるで犬舎だ。他の収監者たちは一言も言葉を発さず、ただじっと時が過ぎるのを待っているようである。
「必要が無いでしょ」
 私はコンクリートの壁に入った、ひびを数えながら答えた。ただそうやって、無駄に時間を潰す。
「君は私が思っていたより随分淡泊なんだね。自分に興味無いの?」
 彼は呆れたように溜息をついた。私はそんな表情を向けられなくてはならないような事を、言った覚えはない。私は彼を睨むように、顔を上げた。彼はただ微笑むだけだ。
 彼はまた、一輪のブルーデイジーを取り出した。そして花にふっと息を吹きかける。みるみるうちに花は萎びて、ぽろぽろと花弁を落とす。
「君はこれだけの時間をここで費やしてる」
 無駄にね、と彼は付け足した。
「これは忠告だけど」
 彼は屈んで私と目線を合わせた。歳も髪も背格好も、教会の彼とは異なる。何故私はこの人が「彼」だと分かったのか甚だ疑問だ。それでも、真っ黒な瞳だけは変わらないのに気が付いた。
「って私の話聞いてる? ボーっとしちゃって、まあいいけどさ。何かしら行動起こさないと君死ぬまでこのままだよ? 終身刑って言われたでしょ?」
 終身刑。何も起こらない牢獄で、ただひたすら死を待つのみ。酷く退屈にも聞こえるが、果たして今までの生活はその対極にあっただろうか? 楽しくてしょうがない生活を送っていた訳ではない事は、記憶が無くても分かった。
「ねえ、なんで君はここに居るの」
 聞き覚えのある問いを彼が繰り返した。そこに微笑みなんてない。全てを映すような真っ黒の瞳で私を射抜く。私は思わずたじろいだ。
「もう一つ言えば、君の罰が終身刑だとしても、君の罪はそんなんじゃ清算されないよ。そもそも終身刑を言い渡したのは君自身だ――これは君の夢の中なんだから」
それだけ言うと、彼はさっさと通路の奥に退散してしまった。夢の外で夜が明けて、勝手に私が目を覚ますまで待てばいい。そうすればこんなくだらないものは終わる。彼の物言いは、そんな私の考えを見透かし、看破するようなものだった。
『さっさと出てきなよ』
メグの言葉を思い出す。終身刑を受けた理由は未だ分からない。それでも……私はここを出ていいのだろうか。私を捉える格子が、冷ややかに私を見ている。
ふと、自分の手に目をやった。相変わらず鈍色の手錠がかけられている。手錠を引っ張る。外していいと彼は言っていた。しばらくガチャガチャいじってみたが、相も変わらず手錠は無表情で私の手首を繋いでいる。
諦めて手を床に落とした時だった。ぱき、とささやかな音と共に、飴細工のように鎖が折れた。枷そのものは趣味の悪いアクセサリーのように手首に残っているし、残った鎖もだらりとぶら下がっている。しかし手は自由に動かせた。あまりにあっさりしていて、拍子抜けしてしまう。私はそのまま立ち上がって、牢の扉を押してみた。鍵は、掛かっていなかった。
 
私は牢から出ると、彼が消えた方へ歩を進めた。立ち並ぶ無数の牢獄の前を通ったが、人影はほとんど消えていた。通路は全くの無音で、手首にひっついた鎖がジャラジャラやかましく騒いでいるのが余計に響いた。
 ……どこをどう通ってきたのかは覚えていない。勘だけで歩いてきたような気もする。気が付けば、私は外に出ていた。
いつのまにか夜が明けていたらしい。あの場所には窓がなかったので、まるで気が付かなかった。久しぶりに見た朝日は、とても眩しくて目を開けていられなかった。


――Ladies and Gentlemen, boys and girls!
地面がなかった。私は真っ先に彼がどこにいるのか分かったが、今はそれどころではない。ばさばさした衣装を着せられ、私は頂上に立っている。眼下にはたくさんの人の頭が見えた。
――第二部の始まりは、綱渡りの登場でございます!
彼がそう叫ぶ。一歩、また一歩。慎重に足を踏み出すも、どうにもうまくバランスが取れない。私はやけになって、さっさと終わらせてしまおうと、次の一歩を早急に出した。
誰かの悲鳴が聞こえたような気がする。途端、私はまっさかさまに落ちた。恐怖より、諦めに近い感情が私の中に渦巻いていた。

「だからやめとけっつったんだろ!」
「落ち着いて、イク。客席に聞こえてしまう」
「ふざけんなよ。今更何が客席だ、もう滅茶苦茶だろ」
「仕方ないでしょ。×××は……」
 鉛のように、頭が鈍くて重い。聞きなれた声が私の上で飛び交っていた。ゆっくり目を開けると、ビビットカラーの服を着た人たちが、忙しなく動き回っている。
「仕方ない、か」
 誰にも聞かれないように呟いた。言い慣れたフレーズである。ゆっくり体を起こすと、背中に激痛が走る。
「×××」
 先ほど激昂していた青年が、私のことを苦々しそうに見た。それはそうだ。舞台での失敗は、そう簡単に許されない。客はお金を払って舞台を見に来ているのだ。
「と、取り敢えず! イクはもう出番でしょ、準備した方がいいって」
 そこにいた女性が慌てて取り繕うように、イクというらしい青年を部屋から追いやった。部屋を出ていくとき、イクは私を一瞥した。何か言われるかと思ったのに、イクは無言で出ていった。
「×××はもう少し休んでなよ。私はもう行かなきゃいけないから、団長呼んでくるね」
 彼女はいそいそと荷物をまとめ、衣装を払って居ずまいを正す。
「ありがとう、リン」
「いいって、別に」
 私の呼びかけに彼女はそう微笑んで、出ていった。部屋がしんと静まり返る。鼓動の音がやけに大きく聞こえた。どうせなら、大怪我とか心肺停止にでもなれば、こんな思いはしなかっただろうに。
 扉が開いた。青いスーツにシルクハットという、いかにもな出で立ちで現れたのはもちろん彼である。
「ノックぐらいしたらどう」
「やだなあ、なんで自分の敷地内でノックしなきゃならないのさ」
 またいつものように彼は笑った。先ほどのリンの笑顔とはまるで違う、胡散臭い笑みだ。
「元気そうで何よりだね」
「……お陰様で」
リンは団長を呼んでくると言っていたから、きっと団長とは彼のことなのだろう。
「夢にしては随分凝った演出ね。まだ背中が痛い」
「演出? なんのことだい? 君が一人で勝手に焦って勝手に落ちただけじゃないか」
 忘れた? と彼は私に問う。彼と話していると、まるで自分がなにも知らない子供であるような気分にさせられる。それ   が私は嫌だった。
「そもそも何なの、この一連の夢って」
 反抗するように呟く。それ自体が子供っぽいことだとは分かっているのだが、黙っていては彼を肯定するだけのようで尚嫌だった。
 しかし彼は私の問いには答えない。それは一種の否定のようであった。彼は懐中時計を取り出して時間を確認した。そのまま出口の方へ向かい、くるりと振り返る。
「また後で」
それだけ言い残して彼は出ていった。再び、空ろなだけの静寂が帰ってきた。

 イクに、リン。イクはともかく、また私は無意識に知らないはずの人の名前を呼んでいたらしかったことに、今更気付く。そもそも「彼」を含め、私が違和感なくこの世界を受け入れて普通に会話している時点で滑稽なのかもしれない。
「あー疲れた。団長スケジュール詰め過ぎだし、その上あたしだけ演目延長とか過労死する」
「でもちゃんとやり切ったじゃない」
「まだ終わってないって、アンコール残ってるじゃん」
 雑談をしながら部屋に入ってきたのはリンと、華やかというよりスタイリッシュなサーカス衣装を着た女性。よく見れば、彼女がメグであることに気が付いた。
「調子どう? とりあえず立てる?」
 メグは気さくにそう話しかけてきた。無理をしたような感じではなく、本当に素のままで接しているらしい。それが妙に嬉しかった。
「落ちただけで、怪我したわけじゃないから。ごめんね、演目延長って私のせいでしょ」
「謝ることじゃないでしょー、偶々レギュラーが病欠して偶々×××が選ばれて偶々×××が焦って落ちただけ」
 飄々とメグはそう言った。イクが「やめろと言った」と叫んでいたのはきっと、この私が代役をやる、ということだったのだろう。
「あーもう無理、アンコール面倒くさいからさぼる」
「あ、ちょっとメグ」
 リンがそう制したが、すでに遅かった。他の団員がぞろぞろと控室に入ってくる。団長、もとい彼の姿もあった。
「丁度良かった。アンコールで休み取れるなら明日も延長で頼むね」
 一見朗らかな笑みで、彼はそう言った。その言葉にメグの顔が引きつる。しかし反論を待たずに彼は続けた。
「私は今日の夜出られないから、司会はテンに頼むね。綱渡りの今夜の代役はイク。全部はやらなくていいよ、その分の延長はメグがやってくれるらしいから」
 彼はてきぱきと集まった団員たちに指示を伝えていく。ステージからはまだ歓声が聞こえてくるので、今は最終演目の空中ブランコなのだろう。
「なんでおれが」
「なんであたしが」
 その声はぴったりと重なっていた。イクとメグである。他の団員たちが小声でくすくすと笑いだすのを見て、二人はばつが悪そうな顔をした。
「イクは×××が綱渡りをやるのが不満だったんだろ? なら丁度いいじゃないか」
 そう言ったのは司会に指名されたテンである。今回のサーカスには出ていなかったようで、派手な衣装ではなくスタッフ用のユニフォームを着ていた。
「だからおれがやるとは言ってねえ!」
「はいはい、どうどう」
「舐めやがって!」
 今にも噛み付かんとする勢いでイクは牙をむく。呆れたようにリンがため息をついた。
「ホラ、いつまでもワンちゃんみたいに噛み付いてないで。準備したら?」
 リンの言葉に、他の団員たちもぞろぞろと移動を始めた。イクもふんと鼻を鳴らして部屋を出ていく。
「メグ、行かなくていの?」
 私は失敗したのだから当然出ていけない。しかし大喝采を浴びていたメグも、ソファーにどっかりと腰を下ろしていた。
「こうなったら徹底的にさぼる」
 そう言ってメグはまたにっと笑った。

――Ladies and gentlemen, boys and girls!
「どういうつもり」
「どうもこうも」
 彼は私の方をちらりとも見ずに言った。私はサーカスの客席に彼と一緒に座っていた。ステージ上では、紫のスーツにシルクハットのテンが挨拶をしている。一瞬テンがこっちを見て、小さくウィンクをしたのを私は見逃さなかった。
「ばれてんじゃないの」
「……そうみたいね」
『今宵は皆様へ、目を疑うような演目を用意しております。瞬き厳禁、どうぞ、夢のような時間を!』
 テンの合図で、花のような衣装を着た女性が三人ステージの真ん中に文字通り躍り出た。花弁のように舞台上を駆けまわり、会場のボルテージを上げる。舞台上方から細長い幕のようなものが下りてくると、真ん中にいた女性がそれを腕に巻きつけた。
「リン……!」
 私が気付いたのと同時に、彼女は少し助走をつけてふわりと飛んだ。この世界に重いものなどない、とでもいうように軽やかに空中を舞う。彼女がくるくる回る度に喝采が溢れる。たなびく幕はまるで彼女の羽だ。
「すごい、綺麗……」
 思わずそう呟いた。舞台裏で優しい笑みをたたえ、イクをなだめていた彼女ではない。彼は少し笑った。
「君が出ている舞台だよ」
 そういわれても、まるで実感などない。私があんな場所に立っていたはずなんてないのだ。
演目はどんどん進んでいった。動物のショーにジャグリング、猛獣の火の輪くぐり、ピエロの曲芸。メグはトランポリンで何度も空を舞った。テンは時折笑いも交えながら観客たちをさらに盛り上げていく。
 休憩を少し挟んですぐ二部が始まった。無意識に私は溜息をついていたらしい。どうしたの、と彼は訊いた。
「プログラムが変わっていなければ」
 そう言いかけたところで、テンの司会が入る。私が言いかけたことを、テンが高らかに告げた。
――第二部の初めはサーカスの花形、綱渡りにございます!
 イクが走り出てきて一礼する。あっという間に高台の上までのぼり、宣誓するかのように手を挙げた。
「あの子の本来の演目は空中アクロバットなんだけどね」
 そんな彼の解説も私の耳にはあまり届かなかった。ただ固唾をのんでイクを見る。サーカスだというのに相変わらず仏頂面なのが遠目にもわかった。まだ私の失敗に不貞腐れているのだろうか。
 彼の演技は流石、の一言に尽きた。地面を歩くかのようにいとも簡単に渡りきると、綱の上で逆立ちをしたりバク転をしてみせたりする。危うさなど微塵も感じさせなかった。
「男子と女子じゃ確かに魅せ方や演目は変わるけど、根本は同じだからさ」
 彼は表情を崩さずに私に話しかける。彼の目はしっかりと私をとらえていた。
「どう、できそう?」
 ここまで魅せられて私が出来ないと言えないのを、彼は知っている。知っているからこそ、タチが悪い。
「言うまでもない」
強気に私はそう言って見せた。
 サーカスは華やかで、スリリングで、人を惹きつける。全てが一瞬にして終わった。メグは後半にも空中ブランコの助っ人として登場していた。イクは本来の種目である空中アクロバット、それに猛獣ショーのアシスタントとして出演した。なにもかもあっという間に終わってしまった。時間の流れをこうも早く感じたのは全く久しぶりだ。
 顔を上げると、もう観客はほとんどいない。出演者たちも控室に戻っているようである。
「いると思っていましたよ、お二人とも」
 ステージから声がかかった。彼とは違う色の司会の衣装を着こんだテンである。やっぱりばれてたか、と彼は困ったような笑みで言った。大声ではなかったが、誰もいないテントの中ではよく響いた。
「よかったら練習付き合おうか」
 私は一つ頷いて、客席をまたいでステージに上がる。後ろから彼が付いてくる音がした。
「イク、いるんだろ。手伝ってやったら?」
 テンがカーテンに向かって声を掛けると、影が一つ、ひゅっと引っ込んでいった。見られていたらしい。
「気になるなら素直に出てくればいいのに」
 テンがくすりと笑って呟く。すると、綱渡り用のステッキが一本、乱暴にカーテン裏から投げられ、同時に走り去る足音が響いた。
「時間、飛ばして。三日後の夜まで」
 私はテンに聞かれないように彼に言った。
「時間?」
 しかし彼はおうむ返しでそう聞き返す。声量も気にしていない。何の話? とテンはこっちを見た。
「ふざけないで。ここでは時間は自由って言ってたじゃない」
「飛ばないよ」
 ぴしゃりと彼はそう言った。はぐらかすような笑みはどこかへ消えている。私は焦って、彼の肩をつかもうとしたが。彼にその手を抑えられてしまう。
「どうして」
「どうしてもなにも、時間が飛ぶなんてありえないじゃないか」
「それは夢の外の話でしょ! ここは何でもありだって言ったのは貴方だ!」
「夢の外? 私がいつそんなことを言ったんだい?」
 ひどく真面目に答える彼が、余計に私を焦燥に駆らせた。彼が何を言っているのかが理解できない。思考にもやが掛かりだす。
「×××」
 テンが驚いたように私の名前を呼んだ。いやにはっきり聞こえたそれが、私を引きもどす。
「できることをしようよ、私も君も」
 いつものように懐中時計を出して時間を確認すると、彼はそう言った。
「これは――本当に夢なの」
 彼はただただ微笑むだけで、何も答えなかった。


 本当に三日間が過ぎた。真っ当に長時間を過ごしたのが久しぶりで、どうにも重い。できることはしたつもりではあるが、満足感が得られない。三日前の夜の絶対にできるという確信は、この三日間でどこかへなりを潜めてしまっている。
「緊張してる?」
 出番の終わったリンが私にそう優しく問いかける。私は頷いた。ふっと、リンが私の髪を撫ぜる。それは私を少しだけ、落ち着かせた。
「今度は焦るなよ」
 ふと背後から声が掛けられた。イクである。
「これでまたしくじったら今後の綱渡りは全ておれがやる」
「普通に頑張れって言えばいいのに」
 きつい口調でそう言い放ったイクに対して、リンがふふっと笑った。そのやり取りに、心なしか緊張がほどける。今夜も彼は姿が見えず、テンが司会をやっている。
――それでは皆さん、第二部の開幕です!
「行ってらっしゃい」
 リンに背中を押され、私は舞台へ走った。一礼し、高台へ上る。焦るなよ、というイクの言葉が頭に戻ってきた。
 一つ深呼吸をした。彼にはあれから会っていない。訊きたいことがたくさんある。でも今は、とりあえず目の前の綱渡りである。私は慎重に、しかし軽く、綱の上に一歩を踏み出した。



カランカラン、ストローを回せば涼しげな音が響く。私はこの音が好きだ。わざわざアイスティーを頼んだのも、グラスに氷とストローを手に入れるためである。カラン、カラン。氷がガラスを打ち、溶けて、沈む。いつまでも眺めていたくなる。
「×××、どうかした? グラスにゴミでも?」
 私は慌てて手を止めた。何かいい言い訳はないかと頭を巡らせる。しかしふと、それがどうでもいいことのように思えた。
「氷が溶けるまで、どれくらいかかるかなって」
 カラン、と私はストローをもうひと回しした。
「……ぶふっ」
 突如メグが吹き出した。笑い声はだんだん大きくなり、最後には咳までし始める始末である。
「何が可笑しいの」
「あははっ、いや、×××があんまりさ、ゴホッ似合わないこと言うから、ふっ、ゴホゴホッ」
 私はむっとしてメグを見る。ようやく落ち着いてきたのか、メグはコップの水を飲みほして一息ついた。
「珍しいね、×××がそういうこと言うの」
「そう?」
「私がそれ言ったら『どうでもいい』って返されそう」
「……知人の思考がうつったかな」
 そこに、ウェイターが私たちの机に回ってきた。Tシャツにエプロンというシンプルな出で立ちだが、それはサーカスのキラキラした服よりずっと彼女に似合っている。
「それよりも二人が来てくれたことの方が私にとっては珍しいけどね」
「リン! 聞いてたの」
「メグがあんまり大声で話すからね、いやでも聞こえてくるよ」
 リンはふわっと笑う。メグはばつが悪そうに視線を逸らした。
「×××が、来たいって言ったから来ただけだし」
 ぶすくれたままメグはそう言った。大声を指摘されたことがよっぽど嫌だったらしい。自覚はあるのだろう。
「そんなむくれないでよ。そういえば先週からイクもここでバイト始めたんだ。ほら、あそこ」
 リンの指さす先を見れば、おっかなびっくりという感じでグラスを運ぶイクがいた。その様子がなんだかかわいく見えてしまう。
「手伝おうか、イク」
 リンがそう声を掛けると、必要ない! とイクは叫んでカウンターの奥に消えていった。今度は、三人同時に吹いてしまった。
「意地っ張りの子供かって」
「イクなのに真面目に勤務してる」
「頑張ってはいるんだけど、どうにも効率悪いのよねぇ」
「聞こえてんぞお前ら!」
 暇な時間帯であるらしく、客は私たちを除いて二組しかいない。イクは頼りない足取りで皿を全て片づけ、私たちの机に来た。Tシャツは自由らしく、リンとは違って黒のポロシャツを着ている。黒というのがいかにもイクらしい。
「好き勝手言ってんじゃねえよ。というかテンは一緒に来てないのか」
「用事があるって。終わったら来るらしいけど」
 そう答えたのはメグである。彼女は携帯を取り出して二、三操作すると私たちに見せてくれた。そこには確かに、遅れるという趣旨のメールが表示されている。
「まあ別に構わねえけど。ああ、そうだ」
 そう言ってイクは、エプロンのポケットの中をあさり始めた。しかしなかなか目当てのものが見つからないらしく、机の上にメモ帳やら小銭やらを積み上げていく。
「物入れ過ぎ」
「ほっとけ。お、あった」
 ようやく出てきたものは小箱だった。何のデザインも無いシンプルなものだ。
「いや、店のポストの中にあった。これが入ってた封筒は、捨てちまったけど何故かお前宛てになってた」
 そう言って私の前に小箱を置く。開けると、中から出てきたのは小さな懐中時計である。四本の針の付いた、掌サイズの品物だ。どこかららどう見ても、彼の持っていた懐中時計である。
 私はひったくるように時計を手に取って店を飛び出した。通りは人で溢れかえり、彼の姿など見えない。直感的に左の路地へ曲がる。今まで見たどの風景、葬儀場より牢よりサーカスより、既視感のある場所だった。私は確かにこの街を知っている。
 不意に膝の裏を押されるような感覚があった。棒立ちしていた私はバランスを崩し、腰を強かに打ち付ける。
「いった……」
 腰がひどく痛む。突然崩れ落ちたのだから当然だ。私は立ち上がろうとしたところで、誰かが私の前に立っているのに気が付いた。
「本当に珍しいね。君が私を探してくれるとか」
「……見てたんだ。趣味わる」
 差し出された手を強めに握り、勢いをつけて立ち上がる。少し彼がよろけることを期待したのだが、彼は全く微動だにしなかった。
「この時計、どういうつもり」
 イクに渡された懐中時計を彼の眼前に突き出す。時計は私の手の中でカチカチ音を立て、小さくその身を震わせていた。時計の針に星空の下で見たような無秩序さはない。今はもう正確に時を刻んでいる。
「それは元々君のだからね。お返ししようと思って」
 彼はその時計に触ろうとせず、私の手首を掴んでゆっくり下した。それを二度と受け取る気はない、という意思表示にも見えた。
「君が握りつぶした時計だよ。覚えてない?」
 記憶をたどるが、そんなことをした覚えは無かった。きっと今の私は眉間にしわを寄せたとんでもない顔になっていたのだろう。彼が私の額に指を這わせてしわを伸ばした。
「また、私は忘れてるの?」
「うーん、まあ実際にバキっと割ったわけじゃないけどさ。でも、これが君の罪だ」
 意味ありげに口角を上げて彼が答えた。益々意味が分からなくなる。確かに一度、手にした懐中時計が止まってしまったことはあるが、あれは私の意志ではない。
「時間をもっと大切にしてよ」
いつになく真面目らしい顔つきで彼は言う。彼の黒い瞳が真っ直ぐに私を捉えていた。その瞳はブラックホールのように私を吸い寄せて話さない。そこには、同じく黒い目をした私が二人映っている。
「アサヒ」
じっと私を見据えた彼が口にしたのは、確かに私の名前だった。いつもは直ぐに消えてしまう響きがしっかり根を張る。――例えるなら、モノクロの映画が突然フルカラーになったのを観ているような気分だった。不意に今まで忘れていたことが明瞭に戻ってくる。私自身のことは勿論、人間関係や日常生活のことに限らず、日々の記憶まで。私は確かに時計を壊した。大量に睡眠薬を購入して、回り続ける時計をぶっ壊して止めようと試みた。
言葉の出ない私の手を、不意に彼が掴んだ。
「もう死んじゃダメだよ、なんてね」
 そんなことを言って、ふっと静かに微笑む。そんな表情もできたのか、と少し失礼なことを考えた。彼が私の手をひく。棺桶から引っ張り出された時のように、一瞬体が軽くなってつんのめった。そのまま数歩たたらを踏んで、彼に突っ込む。
しかし、何かにぶつかったような感覚は無かった。彼と重なって、そのまま私は普通に突っ立っていた。彼を通り抜けてしまったのかと馬鹿な考えが過る。慌てて辺りを見渡すが彼の姿は何処にも見えない。
「どうしたの?」
不意に声を掛けられ、考えるより先に瞬発的に振り向く。声の主が、私の勢いに気圧されたのか一瞬たじろいだ。声を掛けたのはテンだった。
「あ、いや……さっきまでここに居た人が」
 言葉を濁し、目を泳がせる。何と説明していいのか分からず戸惑っていると、テンは首を傾げた。
「え?君ずっとひとりだったじゃん」

彼は最初から奇妙だった。私のことは何でも知っている、みたいな顔して私にあれこれ問いてくる。私は逆に、何一つ彼のことを思い出せなかった。メグやリンのことは思い出せたのに、だ。……夢に私が知らないものは出てこない、と彼が言っていたのを思い出す。だとしたら、彼は。
ただ、掌の中の懐中時計が正確に時を刻んでいる。秒針の音は、少し人の鼓動の音に似ていた。

夢渡り

夢渡り

現実を思い出せない夢を見る。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-27

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