ばかなおとこ
「痴」愚かなこと。また、その人。
「漢」男の人の意で、接尾語的に用いる。(三省堂 スーパー大辞林)
女性ばかりの席で何かの拍子に痴漢の話になると、出るわ出るわ。自分の体験談に始まり、友達が遭遇した事例、目撃談など、「何それ最低ひどいねえ」と笑いのオンパレードである。
なんだ、笑ってるぐらいだから、本人たちもけっこう楽しんでるんだ。
そう思ったあなた、間違っている。
問題が悲惨すぎてどうにもならず、解決の兆しすらない時、人はそれを笑いとばすしかない。というわけでの笑いなのだ。ネタにできているのはまだましな方で、本当に嫌な思いをしたり、深く傷ついた人は誰にも言わず、その記憶に蓋をして忘れ去ろうと努めている。
対策として女性専用車両を導入している鉄道会社も多いが、これも結局のところ「どうしたって痴漢は出るんだから、それが嫌ならここに乗って下さい」という事で、行動を制約されているのは痴漢ではなく女性の方だ。イスラム社会でブルカ着用を義務付けられている女性とそう変わらない。
痴漢なんて大した事じゃないし、何かあれば周りに助けを求めればいい。
そう思ったあなた、それは簡単な事ではない。
大体、痴漢がターゲットにするのは、声をあげたり抵抗する可能性の低い、大人しそうな女性である。場合によってはさらに弱そうな十代を狙う。
とはいっても、刃物で脅されてるわけじゃないんだから。
そう思ったあなた、女性の感じている恐怖を判っていない。
見知らぬ男というのは時として、傍にいるだけで脅威を与える。ましてそれが強引に自分に触れてきたら、抵抗する以前に怖くて声も出せない、というのが大半の女性の反応だ。そして大半の男性は「自分は知らない男に触れられても怖くなどない」と考えるが、そこに「もし自分が女だったら」という発想はない。なので「そんなに怖いはずないだろう」という、女性から見ると残念なコメントが出てくる。
以前、従業員わずか三名という職場で働いた事がある。ある日、一人で事務所にいると、いきなり作業服姿の男性が入ってきた。来意をたずねる私と目も合わせず、彼は手にしていたスポンジで、デスクや電話など、あちこち拭きはじめた。もう片方の手には缶を持っていて、どうやら缶の中身はクリーナーらしい。
彼は独り言のように「綺麗になる。拭くだけ」と繰り返す。どうやらこのクリーナーは商品で、男はセールスマンらしいと私が気づいたのは、彼が事務所を一周して、無言で立ち去った後だ。何が何だかわからず、本当に怖かった。
上司が戻ってから、私は事の顛末を訴えた。彼は一通り話を聞いてから「ああ、あのクリーナー、すごくよく落ちるよね」と言った。
この時の絶望感すなわち、「痴漢なんて怖くないだろう」とあしらわれた女性の抱く気持ちに近いものだろう。
というわけで、私も実際痴漢に遭った時には怒りもさることながら、恐怖を感じた。
夜の十時頃、二人掛けのシートが並ぶ車両に座っていて、乗客はかなりまばら。何かがお尻にあたるな、と思っていたら、後ろの席の男が背もたれと座面の隙間から、足先を伸ばしてきている。
慌てて座る位置をずらすと、足はそれを追ってくる。持っていた雑誌を間に入れても効果なし。席を立とうか、と思ったけれど、ついて来られるのも怖い。そこへ車掌が通りがかった。すると途端に、足は引っ込む。一瞬、車掌に助けを求めようかと思うが、「やってない」としらを切られれば終わりだ。それに、車掌の存在が抑止力になるかもしれない。
実際、静かになったので、私はやれやれと気を抜いた。するとまたしても足先が伸びて来る。怒りのあまり、立ち上がって相手の顔を見てやろうかと思う。しかしこれは自分の顔を相手に晒すことになるし、この後つきまとわれる可能性もなくはない。降りる駅まではまだしばらくある。
あれこれ考えるうちにも、男の足先は私の尻をまさぐり続けている。そこでついに決心がついた。
当時私は手の爪をかなり伸ばしていた。スクエアカットではなく、先端が尖っている。座る位置を少し前に移動し、相手の足先が十分こちら側へ侵入してきたところを狙って、両手で思い切り爪を立てた。
断っておくと私は暴力での紛争解決をよしとしない平和主義者だ。しかし事ここに至って自衛やむなしと判断した。武力行使の最大の理由は相手への怒りよりも、自分の尊厳を守るためである。
内心「ざまあみろ」と思いながらも、私にはやはり男の顔を見る事ができなかった。怖かったからだ。
電車が終点に着き、なんとまだこんなに大勢の乗客がいたのか、と思いながら私は人の流れにのって改札に向かったが、絶対に後ろは振り向かなかった。
それからしばらくの間、バッグの中に安全ピンを入れていた。同じような事があれば次はこれを使う。そう決めていたからだ。本当の事をいえば、スイスのアーミーナイフでいきたかったが、馬鹿な男のために警察のお世話になりたくないので、やめておいた。
ばかなおとこ