変わらないもの
せめて一時間――それが親父の口癖だった。
僕らの家には小さな庭があった。それに面した縁側に座り、傍に置いた灯の光で本を読む。それが、親父が僕ら兄妹に課した一日の終わりに行う『習慣』だった。親父は小説の類を読ませたがらなかったが、妹はそれに猛反発した。観たいテレビも我慢させられ、強制的に本を読まされるのだから、何を読むか位は自分で決めさせろ――それが妹の言い分だった。
僕はどちらでも良かった。元来が大人しく、人に意見しない――どちらかというと流される性分だったから、律儀に従順に、親の勧める本をじっくりと読んだ。読むスピードも遅かったから、よく親父や妹には「まだそれを読んでいるのか」と呆れられたものだ。
今更になって思う。その習慣に、僕の意志はどれだけ介在していたのだろう? 子供の頃の僕は何を想い、何を考えて、親父の決めたルールに従って本を読んでいたのだろう。親父の意図は分かっていたつもりだ。学のある人間になってもらいたい――親ならば誰しも思うそれを、親父はよく僕に語っていた。だが、それはあくまでも親父の意志であって、僕の意志では無い。実際、妹は頻繁にこぼしていた。こんな時間は退屈だ。テレビが観たい。学校で他の子の話についていけない。ゲームがしたい。僕は本を読みながら「そうだね」と妹の話に相槌を打った。
楽しかったのだろうか? 本を読むことが? 今となってはもう分からない。分かっていることは一つ。少年だった頃の僕は、ただただ従順に本を読んでいた。縁側に座り、月の光を浴びる庭の柿の木をガラス越しに見ながら、隣に置いたウルトラマンの形の灯を頼りにして。縁側に寝そべって只管駄々をこねる妹の言葉を聞き、たまに傍に置いたお茶を口に運びつつ。
「いつまでこんなこと続けるのかなぁ」
「どうだろうね」
妹の言葉に、そう返したことを、何となく覚えている。……つまり、多分、僕はその時間に、何も考えてなかったのかも知れない。
●
親父の口癖は、いつの間にか消えていた。思うに、理由は二つだ。
一つ、僕らが子供で無くなったこと。一つ、その頃にはもう、妹は何を言っても読書の時間を取ろうとしなかったし、僕は言われるまでも無く読書の時間を取っていたこと。
それは明らかな二極化だった。僕は変わらず、夜の一時間、本を読んだ。春は虫が入ってくるから縁側のガラス戸を締めて、夏は更に強固な防御態勢を取るべく蚊帳の中に入って、秋は縁側のガラス戸をあけて夜風を受けつつ、冬は布団の上で。変わったものと言えば、ウルトラマンの形の灯が、少し上等な船の甲板照明に似たスタンドランプになったことくらいだ。それと、読むものも、親父から勧められたものではなくなっていた。適当に家にあるものを、図書館にあるものを、友達から借りたものを、読む、読む、読む。けれど、重ねて言うが、僕は本を読むのが遅い人間だった。だから、よくテレビのCM中にやってきた妹に言われたものだ。「まだそれ読んでるの?」――僕はただこう言う。「そうだよ」と。
元々、僕らの家は田舎にあった。だから僕が生まれた時から家は古かったし、その時代になってもやはり家は古く、縁側を歩くとギシギシと音が鳴った。冬は足に殺意を持って接しているかのように縁側は冷たく、その冷たさの度合いによって、僕は季節の変わり目を感じたものだ。両親はリフォームなどというものは考えてもいなかったようだ。そのお金も無かったのだろう。但し、妹には甘く、彼女はよく最新のゲーム機やら携帯電話などを買ってもらっていた。僕が本を読んでいて、観たいテレビが無かった時、妹は隣に来て友達と携帯電話でやり取りしたり、ゲームで遊んだりもしていた。
僕らはそのまま家と共に歳を重ねた。妹は次第にゲームをしなくなり、ひたすら携帯電話で友達と連絡を取り合っていた。その愚痴を聞くのが僕の日課になっていた。僕は高校でも大学でもクラブやサークルには入らなかったから、バイトのある日以外の夜は基本的に縁側に居た。縁側は僕のテリトリーだったと言えなくもない。但し、冬は除く。
「私さ、東京の大学に行くね」
ある日、ぽつりと妹が呟いた。地元の大学に通っていた僕は少し驚いたものの、「頑張って」と伝えた。
「でもちょっと怖いんだよね。最近、色々ブッソウだし」
「都会はどこも物騒だよ。でも気を付けていれば大丈夫だよ、きっと」
「そうかなぁ。ほら、よくニュースでもやってるじゃん、コッカカンキンチョージョータイって。やだなぁ、東京とか、戦争になったら真っ先に狙われそう」
「ノストラダムスも降って来なかったし、大丈夫だよ、きっと」
妹の言葉に、そう返したことを、何となく覚えている。……つまり、多分、僕は単純に、楽観的な人間だったのだろう。
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ついに、親父は口癖を物理的に言えなくなった。……つまり、他界した。
いつの間にか、僕は親父と呼ばれる歳になっていて、あの庭付きボロ家も僕が世帯主ということになった。親父の葬式は僕が喪主として執り行ったが、妹は来れなかった。これは仕方が無い。東京で数年前に起きたテロに巻き込まれて、行方不明になっていたのだ。
世界は変わっていく。かつて妹と話した通り、いやそれ以上に物騒なものへと。地元で就職をして、地元の女性と結婚をして、田舎に骨を埋めるつもりだった僕の周囲は、何一つ変わらない様に見えたのに。家は更にボロくなり、縁側の板は何枚か張り替え、家の瓦も新調した。……いや、違うのかも知れない。
確かに、僕の周囲の時間はひどくゆっくりで、どこか止まってすら居るように見えた。僕の家の周囲にはドローンなんて一つも飛んでいないし、未だに郵便物の配達は無人機ではなくコンビニのオッサンがやってくれる。そんな田舎だから、妹の消えた世界が酷く遠くに見えていた。
けれど、世界は確かに移り変わっていた。時代は移り変わっていたのだ。二十一世紀も随分とベテランの貫録を見せ始めた。かつて新興国と呼ばれた国が強大な武器を持ち、かつて先進国と呼ばれた国がテロと貧富の差で貧弱になっていく。そんな世の中の流れを僕はネットニュースで追うだけだった。いや、それだけじゃない。僕はかつての時代を繰り返そうとしていた。取り戻そうとしていたのかも知れない。
「せめて一時間」
僕は子供たちにそう言ってタブレットを手渡した。二人の子供――兄と妹の二人兄妹だ――はそれぞれぶつくさ文句を言いつつも、いつかの僕のように縁側で本を読み始めた。僕もそこに加わった。加わらなかったのは妻くらいだ。彼女は家事をしていた。たまに僕に嫌味を言った。「ちょっとくらい手伝ってよ」――僕はこう返す。「この時間だけは譲れないんだ」
何故譲れないのか、それは論理的に説明できるものでは無かった。ただ、僕は縋っていたのかもしれない。夜の一時間――それを守ることで、僕は迫りくる二十二世紀から逃れ得るのかも知れないと、そう信じたかったのかも知れない。そう、僕はどこか、新世紀を忌避していた。いつの間にか僕の手元にも、古びたハードカバーの本では無く、タブレットが収まっている。時代の移り変わりに逃れられる訳が無い。それでも、僕は逃げ込みたかったのだ。変わらない世界に。永遠の世界に。
だが、それはやはり、幻想だった。
ある晩のことだ。僕の家に、無人機が突っ込んできた。ボロ家は轟々と燃えた。悲惨な事故として僕の家に起きた事件はネットニュースを、そして世界を駆け巡った。たった一日だけのことだったけれど。
●
僕の口癖も、いつしか消えていた。理由は親父のそれとは少し違う。口癖を告げられる相手が居なくなったからだ。
僕はかつてのボロ家の跡地に、賠償金で建てた家に住んでいた。一時的に家は新しくなったが、僕が老人になるに従い、やはりベテランの貫録を見せ始めた。それでも、そうなるまでに随分と時間が掛かったように思うのは、家族が一斉に居なくなったからだろう。僕以外はあの事故で皆死んでしまった。今や僕は一人だ。
そして、僕はそれでも尚、縋っている。庭に真っ白な安物の椅子を置いて、その傍にまた真っ白な安物のテーブルを置いて。タブレットとハードカバーの古びた本の両方と、湯飲みに淹れたお茶をテーブルの上に置いて。
僕は在りし日の永遠を取り戻そうと、毎日こうして、夜の一時間を過ごす。
けれど、僕ももう歳だ。いつ終焉がやって来てもおかしくない。最近では眼鏡をかけても文字を追うのが厳しくなってきた。だから、休み休み読む。たまに電子化された文章では無く、骨董品と化し始めているハードカバーの中の文字の羅列を追おうとするのだけれど、五分もすれば辛くなってやめてしまう。
僕の本を読むスピードは遅かった。この歳になって、更に遅くなる。父や妹が居たらこう言うのだろう。
「それ、いつから読んでいるの?」
ふと声がして、僕は庭を見回した。道路に面した樹の傍から、壮年の女性がこちらを見つめている。
「いつだったかな」
「どんなお話なの」
「どんな話だったっけ」
せめて一時間――親父の口癖を思い出す。従順に僕は文字の羅列を追った。しかし、今更になって思う。
どんな内容だっただろう。何という名前の本だったか。
「僕は本を読んでいたのかな」
僕は独り呟いた。もしかしたら、僕は読んでいなかったのかも知れない。思い出されるのは他愛無い家族との会話や、眼前に広がる狭い庭の光景と、ギシギシと軋む縁側。そうだ。僕は本など二の次だった。
「僕は誰かと一緒に居れればそれで良かったのかもな」
「そういうところ、あったね」
壮年の女性はそう笑った。そして、ゆっくりと庭の出入り口から中に入ってきて、僕の隣、安物の椅子に座った。
良く考えれば、何故僕は二対の椅子を買ったのだろう。理由は思い出せない。
だが、結果オーライだ。そうじゃないだろうか。
「いつまで一時間は続けるの?」
「どうだろうね」
「昔もそれ、言ってたね」
壮年の女性は――間違いなく見覚えがあるその女性は、そう言って笑った。その笑い方は、二十一世紀がまだ新人だった頃によく見たものと、何も変わっていなかった。
「それで、お兄ちゃん」
「なんだい」
「ずっと続けてきて、どうだった?」
「少なくとも」
僕はぼやけた視界で、隣の妹に――死んだと思っていた筈の人間に会えたのに、変に感動が無いのが僕らしい――笑って告げた。
「いま懐かしいと思えるから、続けてきて良かったんじゃないかな」
「ぼんやりした感想」
妹は柿の木を見ながら言った。感傷の無い、実に平凡な口調だった。
幼い頃、二人で縁側に居た頃と同じ、実に、平凡な。
変わらないもの