薫り満つ花
一
草履の音を響かせ乍ら、吉崎清広は細い径を辿っていた。
片手に杖を、もう片方の手には紙袋をぶら下げている。跫が一定の間隔ではなく不規則なのは、吉崎の左足が不自由な所為であった。だが生活に困る程ではない。事実こうして近所の散策には出られる程度であるし、気が乗れば遠出も出来ない事はない。その位の障害であった。
風はほんの少し肌寒い。先頃まで真っ青だった空は、秋の気配が濃くなるにつれ色味を薄くし始めている。天空に立ち上る様に集まっていた雲が離散し、薄衣の様に広がり始める季節になったからだろう。
左右を民家とブロック塀に囲まれた路地には、夏の日差しで成長を遂げた木々の葉がはみ出している。それが風に揺れる度、ちらちらと陽光が路地に降りていた。
だらだらと続く径の先は所々細くなり広くなり、或いは枝分かれしている。この辺りの路地が蛇の様に畝りそして入り組んでいるのは、先の大戦で殆どの建物が焼失してしまった所為であった。戦後の混乱の最中良くぞ此処まで立ち直ったと目を見張る程ではあるのだが、如何せん区画整理が杜撰だったと見えて、彼方此方好き勝手に家々が建ち、そうしてこの迷宮の様な町が出来上がってしまったのだ。
吉崎自身はもう何十年とこの町に住んで居るし、復興当初から現在までを過ごした場所でもあるから慣れたものだが、初めてこの地を訪れた人々にとっては、大変不案内な町であると思う。
そんな径の途中で吉崎は一度足を止め、杖を握り直した。
あともう少し――別段疲れている訳ではない。目指す自宅は直ぐ其処である。それでも何とはなしに息を吐き、先を見据えた。それから片手にぶら下げた紙袋を一瞬眺め、同時に感じた空腹に杖を前へ突き下ろそうとした――その動きが不自然に留まったのは、鼻先を擽った甘い香りの所為であった。咄嗟に辺りを見回したが、その思い出深い香りの元は路傍には見当たらない。塀に隠れてしまっているのか、或いはもっと遠くから香るのだろうか。然し毎日通るこの径でこの香りに気付かない事はあるまい。
だとするなら、最近植えられたのだろうか――其処まで考えて、苦い笑みを噛み潰した。
――あれからもう、四十年か。
決して色褪せる事の無い記憶の断片を摺る様に、吉崎の目が僅かに細まる。
何時の間にか黒髪よりも白髪の方が多くなった。顔に浮かんだ皺の一つ一つに、平穏とは言えぬ数多の過去が刻まれている。震災を経験し、大戦で地獄を見た。この世の終わりを幾度となく経験した筈なのに、吉崎の胸のずっと奥に仕舞われている〝それ〟は、今も尚鮮明に記憶されている。
花の紅く輝いていた事、芳醇な甘い香りに包まれていた事――それから何より〝あれ〟が酷く婀娜めいて艷やかであった事。唇の、滑らかな素肌の官能的であった事。
息を飲む程美しかった、あの情景――。
それらが全て、吉崎の胸の奥に堅く閉じ込められていた。
「先生!」
その声で初めて、己が何時の間にか瞼を落としていた事に気が付いた。滲んだ視界の焦点を徐々に引き絞ると、開襟襯衣に灰色のズボンを履いた若人の姿が浮かび上がる。此方の注意を引こうとしているのか、片手に持った鳥打帽を大きく振っていた。
「此方においででしたか。今日は何方かへお出掛けでも?」
曲がり角から小走りで近付いたかと思えば、口を開く間も与えずあっと云う間に紙袋を取り上げられてしまう。
「……嶋君、先生は止めてくれとお願いした筈だが?」
されるが儘になり乍ら、吉崎は困った若者だと云わんばかりの表情を浮かべる。
「ああ、済みません。つい、癖で」
そう云って舌を突き出したこの若者は、自宅近くにある下宿所に住む、嶋修平と云う学生であった。眉目秀麗とは当にこの青年の為に在る言葉なのでは無いかと思う程、整った顔立ちをしている。身長は吉崎より頭ひとつ出る位のもので、そう大して高いと云える程では無かった。
その彼が引っ越して来た際に偶々出会ったのが縁となって、こうして時折吉崎の元を訪ねては、甲斐甲斐しく世話を焼いていくのが恒例になっている。本人曰く、田舎の祖父に余り孝行出来ていない罪滅ぼしだという話なのだが、何処までが本当の話であるのか、吉崎はほんの少しだけ訝しんでもいる。
それは以前、嶋の担任が吉崎の元を訪れた事に端を発する。担任は吉崎に、嶋が自主休講を繰り返している事、そしてその理由として、吉崎の面倒を見る為だと話していると云うのである。休講理由を問い詰める教師陣に悪怯れる風もなく、嶋は、社会福祉の何が悪い、先達に教えを乞う事も学業の一環だと打ったのだ。これに教師陣が訝しむのも尤もで、もしや悪い人間に騙されているのではと心配した末の来訪だと、そう話していた。
これに顔を赤くしたのは吉崎である。直ぐ様嶋を呼び付け、この様に恥を晒した事はない、己の怠惰の理由に老人を使う等言語道断とその場で叱り付けた。更に、今後同じ事を繰り返せば二度と家の敷居は跨がせないと約束させたのである。
そう云う事が有ったから、嶋の云う事を如何にも鵜呑みに出来ないで居た。
然し吉崎は、そのような事があっても嶋を邪険には扱えないでいる。それは生涯独り身を決めた人生に家族が居たならと、淡い夢を抱いてしまう所為だった。
「今日は学校は如何したんだ。平日の昼日中に学生が彷徨く等、迚も感心する所業ではないと思うがね」
「本日は正真正銘休校であります!」
吉崎の僅かに棘を含む言葉もどこ吹く風、嶋は甘い顔貌を引き締めると、陸軍さ乍らの敬礼をして戯けて見せる。それに苦笑を浮かべた吉崎は、止めていた歩みをまた進め始めた。
※
「それで? 勉学は励んでいるのかね」
自宅の居間に戻った吉崎は嶋に補助され乍ら、何時もの安楽椅子へ腰を下ろす。椅子の前面は室内ではなく庭へ向いているから、必然的に客人である嶋に背を向ける事になるのだが、当の嶋はそれに対して何か云った事はない。気を遣っているのか将又そういった事に頓着しないのか、何れにしろ何も云わないのだから気にしていないのだろうと思う。
「ええ。せん――吉崎さんと、お約束しましたから」
先生――と言い掛け吉崎に睨め付けられた嶋は、それを取り繕う様にやたらと明瞭な発音で名前を呼んだ。
嶋が吉崎を〝先生〟と呼ぶ理由は、単純に吉崎の方がずっと長寿であるからであった。嶋曰く、先生とは先を生きる人と書くのだから、自分より目上の人間は全て先生――教えを乞うべき対象なのだそうだ。だが吉崎自身は、誰に誇れる生き方はしていない。寧ろ恥ずべき人間であり、だから矢張り、そう呼ばれるのは都合が悪いのであった。
「今、お茶をお持ちしますね。これ、櫻花堂のお饅頭ですか? それともお団子ですかね?」
吉崎の表情から分が悪いと察したのだろうか――或いはそんな吉崎の逡巡を感じ取ったのかもしれない――嶋は紙袋へ話題を移しながら台所へ引っ込んだ。
静かになった事で漸く一息吐けた吉崎は、吸い込んだ空気に僅かにあの香りが混じっている事に気付く。
ほんのりと漂う、甘美な香り――。
それにゆっくりと瞼を落とした後、
「……嶋君、君は……金木犀は好きかね?」
息を吐き出すように微かに、そっと記憶を手繰り始めた――。
二
田宮吉二――これが吉崎の本当の名である――は、関東の端に在る山間部に育った。村人の数は三十にも満たず、山と川、それから後は田畑しかない様な、小さな、そして酷く辺鄙な集落であった。
周りを山に囲われた場所にあり、この集落へ来るには径が一つしか無い。そんな立地にあった所為で、江戸と呼ばれていた土地が〝東京〟と呼ばれる様になり、平民に苗字が与えられ明治という年号が大正に変わっても、村の生活は何一つ変わる事は無かった。若い者は畑を耕し収穫された作物を隣町へ売りに行く。歳老いた者は家や村の雑事を担う。そうして暮らしていた。
唯一つ変わった事と云えば、新聞の発達によって集落の外で起きている出来事が以前より容易に手に入るようになった事だった。とは云え、こんな僻地にまで毎日新聞を届けてくれる人も居ない。必然、街へ下りた時に購入する事になるから、数日から遅い時で一週間程前の情報になる。
それでも若い人達の目には真新しい事ばかりで、農作業の合間に新聞を回し読みしては都会の様々な事柄に目を輝かせるのが楽しみとなっていた。
「田宮さんなら、如何する?」
その日も台所で繰り広げられる都談義を聞き乍ら白瓜を割っていた田宮は、急に話の矛先が己に向いた事に一瞬、戸惑った。
「如何ッて……何が?」
「だから、欧羅巴の戦の話だよ。でけえ戦争になってるそうじゃねェか。我が大日本帝国軍も討って出て、権威を示す絶好の機会だと思うが」
「否、ここは少し様子を窺った方が善いと思うがね」
「否々――」
幼馴染の六郎がそう口火を切れば、同じ様にして新聞を睨み付けていた新吉が腕を組み唸る。台所には田宮を含め五人程の男が作業をしているが、如何やら好戦派と日和見派は半々の様であった。
「俺には解らないよ……。そう云った事は如何にも苦手でネ」
だから田宮は、何方に付く気もないと肩を竦めて見せる。
「そうヨ。吉さんは虫も殺さないようなお人だもの。大義だとか名誉だとか、そんな大層な事考えちゃないワ」
作物の入った籠を小さな身体に目一杯抱えて土間へ入って来たお妙も、それに同意する。籠の脇から顔を出し、お妙はその溌剌とした顔を緩めた。
「そう明瞭言い切られるのも、男として名折れな気もするけど……」
「何を仰い。吉さんはそれが良いところじゃないのサ。そりゃァ立身出世の為に働くお人は立派かもしれないヨ? でも妾ッからすれば、何処へ行っちまうか知れないお人より、確乎り地に足を付けてくれてる人の方が、ずっと安心出来るもの」
そう云って、お妙は籠を上がり框へ下ろした。
「そりゃお妙にとっちゃ大義に生きるのは浮足立った夢なのかもしれねぇけどヨ、男なら一度は浪漫に生きてみてぇと、そう思うもンよ」
「アラ、それじゃァ六さんは、男のその浪漫とやらの為に可愛い赤子が泣いても構わないッて、そう云うつもり? たった一人の愛しい女が夜な夜な泣くのも厭わないッて云うのネ? おッ母さんだってそうヨ。大義や名分の為にお腹を痛めて産んだ訳じゃないワ。それでも六さんは、それが男の生きる道だって、そう云うの?」
そうお妙に躙り寄られると、先程までの勢いは何処へやら、六郎はううん、と唸って黙ってしまった。
「アハハ。お妙に口で勝とうなんて、この村の男では無理があるッてもんサ」
「その通り。何処ぞの学者様でも呼んで来なきゃ」
炊事場で野菜を洗っていた女達にそう囃し立てられ、その通りだと男達も破顔する。
この村の女は皆快活な物の云い方をするが、このお妙は抜きん出ている。厭な事は厭と、駄目な事は駄目と臆面も無くぴしゃりと云って退けるのである。
〝おきゃん〟という言葉が可愛らしく聞こえる程の女であった。
「然し、情勢はそれを許してはくれんかも知れんぜ?」
和んだ場を一瞬で引き締めたのは、六郎の隣で真剣に新聞を見ていた安二郎という男だった。この村で唯一諦観している男の浅黒い顔貌は引き締まり、何処か強張っても居た。
「如何云う事だい?」
「これが世界大戦になるかも知れんと云う事サ。今は欧羅巴だけに留まっている様に見えるが、日本は英吉利と同盟を結んでいるだろう? 何時参戦の要請が来るとも知れん。否、もう来ているだろうな……。露西亜や他の列強が如何動くか……」
「おいおい、もうそんな事に為ってるッてのかい?」
「冗談じゃねェや。俺は厭だゼ。国の為におっ死ぬなンて御免だね」
「ちょいと。そんな怖い話、もう終いにして頂戴な」
やにわに盛り上がりを見せたその場に真っ先に音を上げたのは、矢張りお妙であった。焦土と化した故郷を思い浮かべたのか、友を失う恐怖を感じたのかは解らないが、何時もならツンとしている表情が、俄に曇っている。根が優しい娘である事は村の誰しもが知っていた。
「さァさ、そろそろお開きに――」
その空気を察した新吉がもう仕事に戻ろう、と声を掛けようとした時だった。
しゃん、しゃん、しゃん――。
都合三度、遠くから鈴の音が鳴り響いた。
しゃん、しゃん、しゃん。
少しの間を置いて、もう三度。
それを聞いた田宮は緩慢と立ち上がり、腰に下げていた手拭いで手を拭いた。
「吉――」
「お妙ちゃん」
呼び止めようとしたお妙の言葉は、安二郎によって押し留められる。その語尾には、無理を云っちゃいけないと滲んでいた。お妙はそれでも何か云いた気であったが田宮を眺め、それから安二郎へ視線を向けて押し黙った。
「済まないが皆、後の事は頼んだよ」
田宮は皆の視線が己の脊背に集中するのを感じ乍ら、土間を後にした。
明治の昔――否、そのずっと昔から変わらない事がもう一つ有る。
その起源が何時まで遡るのか、如何云った事情で作られた物であるのか田宮は知らない。唯そう云った風習があり、己が御役目と呼ばれる立場である事だけが幼少時から繰り返し伝えられていた。
この村には――隠された一角が在った。
山を僅か登った場所にひっそりと、社とも、古い家屋とも云えるような住居が建っているのである。その四方は木々に囲まれているから、里に下りて山を見上げても容易には見えない。其処へ続く径と云う径はなく、山に登って迷えば、或いは着くかもしれない様な場所であった。
――彼処へ立ち入れば、二度と戻れぬ。
この地に産まれた子は皆、恐ろしい話と共にこう云い含められて育つ。好奇心が勝つ年頃になれば、危険な場所なのだと教えられる。踏み荒らせば、母は死ぬかも知れぬと云われるようになる。お前が死ぬかも知れぬと云われる。どうか立ち入らないでおくれと泣かれるのである。
――穢れがある。
そう云われる。
――厄災が降る。
そう伝えられるのである。
その径の中程で、田宮は足を止めた。
辺りに視線を配り、そして耳を澄ませる。木々の擦れる音、獣の気配、虫の鳴き声――それ以外の異物が無いか確かめる為であった。
この森へ足を踏み入れる時、田宮は殊更慎重になる。稀に云い付けを守らず着いて来る子が有るのだ。勿論子供が一人で歩ける程容易い径ではない。悟られる事がないよう、行く径帰る径は変えるよう云われているし、それも獣道と呼ばれる様な険しい径である。大の大人である田宮でさえ一筋縄では行かない道程であった。
それでも好奇心というのは厄介な物で、切り傷を作ろうと里に戻れぬ様になろうと構わぬ程の忍耐を発揮する事がある。
だから田宮は、必ず足を止め様子を窺うのである。
着いて来る子があれば云い含めて里へ返すのも、役目の一つであった。着いて来て善い事等何も無い。寧ろ後悔する事を重々理解していたからだった。
そうして振り返り立ち止まって、或いは進み分け入って径無き径を程なく歩いて漸く、〝それ〟が見えて来る。
真っ黒い社――。
自然を切り裂く人工物。
顕かに異物である。
それは一見して異様であった。建物が墨一色である所為でもある。密集した木々の所為で影に紛れているのにも拘らず、処々木漏れ日に薄く浮かび上がっている所為でもある。然し何より、その家屋の様なものに注連縄が垂れ下がっている事が、一番であろうと思う。
鳥居もなく、賽銭箱もない。
他に神社を形成する為の物は一切無いにも拘らず、注連縄だけが白く垂れているのである。それが一際異様さを放っていた。
そして社は、まるでこの世の流れ全てを止めてしまったかのように静かに鎮座していた。
――忌々しい。
田宮はこの異物を見上げる度、そう思う。
――憎々しい。
胸元からぐうっと反吐が込み上げる気さえする。
田宮がこの異物を好きになれないのは、変哲な形をしているからでも、昔咄に出てくる様な悍ましさが有るからでも無い。
唯、此処に住まう人の悲哀を思うからであった。
痛ましいと思う。救いがないと思う。
それでも田宮には、その運命に抗う術等有りはし無かった。
だからせめてもの抵抗にと、戸を潜る前に、有りったけの憎しみを込めて異物を睨み付けるのであった。
※
「お呼びでしょうか」
座敷に続く広間の中央で、田宮は深く頭を垂れた。
「田宮か。良く来てくれました」
明取から射す陽光以外、他に灯りと云う灯りは無い。その薄暗がりの奥から、清涼さを伴った声が届いた。
今一度身を低くした田宮は、耳の端で畳の擦れる音、それから障子が閉められた音を聞いた。
二人きりになったのだと、それで理解した。
「頭を上げてください。もうお目付けは居りません」
静静とした衣擦れの音がして、田宮は上体を緩慢と持ち上げる。
まず視界に映るのは、赤く染められた注連縄である。〆の子と、それから何か文言の書かれた呪符と思わしき紙が編み込まれている。それが二本、まるでそれ以上の侵入を拒むかの様に座敷入り口で交差していた。そしてその交わりの頂点に、矢張り何事か呪文の様なものが書かれた札が貼り付けられている。
それが何らかの結界である事は、誰しも容易に想像出来るだろう。
田宮はその奥へ視線を絞った。
真っ白い衣のその先端に、それより更に白く美しい顔がある。まるで日本人形の様だと思う。楚楚としていて下卑た所がひとつも無い。赤く小さな唇、筆で通した様に真っ直ぐ伸びる小振りな鼻筋、その上に切れ長の双眸が宿る。日本人の持つ品の良さを全て集めた様な女が、其処に孤座っていた。
黒い闇と赤い縄、其処に浮かぶ白い女――。
此処を訪れる度、何処か次元の違う場所、夢の中にでも居るような気になった。三色しか無い世界にでも迷い込んだ気になるのだ。視線を落とし、己の手を見る。煮染めた様に浅黒い。畳を見た。焼け煤けた葦草の色がある。
それを確認して漸く、自分が現実に居るのだと認識出来た。
「如何したんです。キョロキョロと」
「……ああ、いえ……」
空気を僅かに震わせるだけの笑い声に、田宮は視線を戻した。
「村の様子は如何ですか? 田畑は潤っていますか」
女との会話は、凡そ他愛の無い時節の咄から始まる。村人の様子や季節の移り変わり、何がどれだけ収穫出来たか、そう云った小さな出来事について語るのである。
そして女は、何時もそれを黙って聞いている。視線は田宮に向けられているが、その視界には移ろいゆく情景が広がっているのだろう。黒い瞳が朦朧と滲んでいるのが解る。
女は、此処から出た事がない。
おぎゃあと産声を上げた時からずっと、此処に囚われているのである。この屋敷には立派とも云える大きな庭が在るが、其処へすら降り立った事は無かった。
だから女に在るのは、丸窓から見える切り取られた風景だけであった。女が思い描く四季折々の村の景観は、決して想像から逸脱する事はない。体感でも体験でもなく、田宮達が新聞から東京を想像しているのと何ら変わりはしないのだ。
田宮達の日常が、女にとっては想像なのである。
それでも女は、田宮の話をそれはそれは嬉しそうに聞くのであった。
「……お妙さんが羨ましい……」
ぽそりと、女が呟いた。
ドクリ、胸が唸るのが解った。
「いいえ、お妙さんだけじゃありませんね……。久さんも鈴さんも、皆みんな、羨ましい……」
それはまるで吹いたか如何か解らぬ程か弱い風のように、幽かな願望であった。
田宮はゴクリと喉を鳴らし、女を見遣る。何時の間にか顔は横へ向けられていた。出る事の叶わぬ窓外を想っている事は、女心の解らぬ田宮でも充分理解出来た。
掌には僅かに汗が滲んでいる。答えに窮しているのだ。
女は此処を出る事を禁じられている。それどころか、入り口に張り巡らされた結界の外へ出る事すら禁じられていた。
田宮はそれに同情する。
連れ出して遣りたいと思うのだ。野山を駆け、沢を辿り、金色に輝く田畑を見せて遣りたいと思う。
だが田宮には、その度胸が無い。
女には、無理を強いるだけの勇気が無い。
だから田宮は、女が細く淡い願望を口にする度、如何答えて善いものやら困惑するのだった。
今から行こうとも言えぬ。何時か出られるとも言えぬ。
余計な希望は女を苦しめるだけだと解っているからこそ、矢張り田宮には継ぐ二の句が無かった。
「そんな顔しないで下さいな」
「……済みません……」
「謝らないで下さい。余計哀しくなります」
酷く美しい顔立ちの女は、そう云うと物悲しげに笑った。
一通りの拝謁が終わった後、黒い社を今一度振り返り、矢張り忌々しげに睨み付ける。
こんな物が在るからいかんのだ。
こんな異物が在るからおかしな事になるのだと、そう思う。
いっそ付け火でもして燃やしてしまおうか。
これが無くなりさえすれば、或いは――。
其処まで考えて、そうなれば己は村を捨てる事になるだろうと思い至る。幼少時代から親しくして来た友人達を、お妙を――育ててくれた養父母を哀しませる事になる。もし自分がそれをしたら――養父母は村を追い立てられてしまうかもしれぬ。禁忌を犯した自分の責めを、あの二人が負う事になるだろう。二人ももう若くはない。何処ぞ知らぬ土地で一からやり直す元気もないだろう。
「……くそッ!」
胸に溜まるばかりの憤りを吐き出す様に、田宮は足を思い切り蹴り上げた。吹き飛んだ小石が、何処かの木に当たった音がした。
それを契機にする様に、田宮は社に背を向け下山した。
三
村に戻ると、もう陽が沈みかけていた。家々から夕餉の支度と思われる煙が幾筋も立ち上っている。
田宮はその儘真っすぐ井戸へ向かい、三度、手と足を洗い流す。それから一度だけ頭から水を被った。手足を洗うのは何時もの事であったが、滾るように煮える頭を冷やしたかったのだ。
夏場の蒸し蒸しとした張り付くような空気に井戸の水はほんの少しの清涼感を与える。それで少しだけ、ほんの僅かだけ、すっきりした様な気になった。
コツ、コツ――。
胸に溜め込んでいた空気を吐き出した田宮の足元で、何か小さな音がした。視線を落としてみるが音のする様な物は無い。
何だ、不思議な事が在るものだと思った矢先、またコツリと音がして、小石が転がったのが見えた。
その石の先へ目を向ける。
木々の影、何とも不自然な間隙から知った顔が覗いていた。
「何を――」
子供でもあるまいに――掛けようとした声は、此方を見ている相手の動作で制される。それからその人が手をこまねいて、田宮を呼んでいるのが見えた。
キョロキョロと辺りを窺っている様子から、他人に聞かれては不味い話なのだろうと察する。
「何だい一体」
「シーッ! 声が大きい。一寸こっちへ来い。お前に咄がある」
「この儘か?」
田宮は今し方頭から水を被ったのだ。夏場と云えども身体が冷える。そう云うと、田宮を呼んだ主は腰に下げていた手拭いを投げる様にして手渡し、その儘腕を掴み強引に奥へと進んだ。
「何処へ連れ込もうと云うンだ」
「善いから付いて来い」
そんな悶着をし乍ら連れて行かれたのは、村の林の中にある小屋であった。小屋は冬場にしか使わぬ場所で、つまり薪材や保存食を保管しておく場所である。
「こんな所で何をしよう――」
一体全体何があるのだと焦れた田宮は、中に居る数名の顔を見て言葉を切った。
「来たか、吉さん」
そう云ったのは安二郎であった。
「すまんな」
強引だった事を詫たのは六郎だ。
小屋の真ん中に置かれた行燈を囲むように、三郎や茂の顔も見える。どの顔も、昼間戦に対して好戦一方だった顔ぶれであった。
「何だい。昼間に落ち着かず、まだ戦の話をするのか? 先も云ったが、俺は――」
「否、そうではないンだ」
田宮の言葉を切ったのは安二郎だった。
ほんの少しの間に、張り詰めた空気を感じる。行燈を囲んだ三人は、誰が口火を切るか相談でもする様に互いの顔を見合わせては俯き、また視線を田宮へ向ける。それだけで何か言い難い話なのだろうと理解出来た。
「……軍に、志願しようと思う」
それを見兼ねたのか、未だ田宮の隣に立った儘だった六郎がぼそりと、しかし明瞭に発した。その言葉は、床に澱むのではないかと思う程、重かった。
「……何を――」
突然の告白に、田宮は両の眼を目一杯見開き友の横顔を見た。
「本気だゼ」
そう継いだのは茂で、冗談や酔狂で云って居るのでは無いと瞳が物語っている。
「戦の向きが如何なってるかなんて知ったこっちゃねェ。命を落とすかも知れない事も重々承知だ」
「だったら――」
「だけどヨ、この儘こんなクソみてェな田舎で作物作って死ぬのは、俺は御免だ」
三郎の声は堅く強張っている。
俺もだ――六郎が続いた。他の皆も大きく頷いていた。
如何してそんな事を今云うのだと思ってから、ずっと考えていたのだろうとそう思い至った。此処に居並んだ旧友達は、もうずっと以前から思い詰めていたのだ。
――多分、新聞に戦争の話題が記載された時からずっと。
「……考え直す気は、無いのかい?」
それでも、友が安安と死ぬかもしれぬ場所へ赴くのは厭だった。もう二度と会えなくなるかも知れないのだ。否、その可能性の方がずっと高い。だからまだ余地が有るのなら考え直して欲しいと願った。
「無い」
だがその希望は儚く消えた。安二郎の声色には一分の隙も無かったからだ。
「……お妙が……哀しむゼ?」
「承知の上だ」
六郎が云う。矢張り答えは覆らない。岩より硬い意志を持って決起したのだと、それで解った。
「お前も来ないか。士官に取り立てられればこの貧乏暮らしからも抜け出せるぞ。腐った様な人生から足を洗えるンだ。我が日本国の為に」
三郎がじり、と身体を前傾させる。
田宮は全員の顔を緩慢と見渡した。三郎の顔は紅潮している。安二郎は何も言わず腕を組み瞼を落としていた。茂は凝乎と此方を窺っている。
六郎だけが、僅かに心配そうな視線を向けていた。
「……俺は……」
子供の頃から御役目を強制されて来た。望んだ訳では無い。そもそも田宮はこの村の生まれでは無いのだ。養父が何処からか連れて来た子で、だから血の繋がった親や兄弟もこの村には存在していない。
田宮は、御役目の為だけに連れられて来られた人間だった。
昔からそうなのだと教えられた。御役目の重責を我が子に背負わせたがる親は居ない。だから代々、捨て子や拾い子を貰って来てはその立場に収める。
あの儘ではお前は死んでいたのだと云われて来た。
それをここまで育ててやったんだと云われ続けて来た。
うん、と云うしかない環境を、ずっと強いられて来たのだ。
――それを、全て捨てられる。
自由に生きて善いのだと、今云われたのだ。
「…………俺は――」
白く美しい女の顔が思い浮かんだ。
貴方達が羨ましい――そう漏らした女の顔が――あの物憂げな、淋しさも悔しさも全てを隠したあの顔が思い浮かんだ。
――〝あれ〟を捨てられるのか、俺は。
たった独り、あの忌まわしい社に閉じ込められたきりの女を、本当に独りきりにしてしまう事が、それが自分に出来るのだろうか。
泣くだろう。
羨ましがるだろう。
――恨む、だろう。
憎むかもしれない。
せめての慰みが己を裏切ったと知った時、女は如何想うだろうか。
田宮は拳を強く握った。
――捨てる事等、出来ない。出来はしないのだ。
「……俺は…………行かない……」
それが、答えであった。
どのくらいの時が過ぎたのか、行燈がジジ、と音を立てる以外物音のしない時が流れた。
「……解った」
口を開いたのは安二郎で、まるで気にするなと慰めでもする様に笑みを浮かべている。
「お前には悪いが、俺らの考えは変わらん。明朝、暗い内に出立する。母に泣かれるのも困るからな。理由を聞かれるかも知れんが、何も答えなくて善い。知らぬ存ぜぬを貫いてくれ。何れ落ち着いたら、此方から手紙でも書く」
「……本当に――」
「ああ。もう、辛抱するのも疲れたンだ」
安二郎は、何処か困った様な笑みを刻んだ。
そう云って、本当に安二郎達は旅立ってしまった。
落ち着いたら手紙を書くと云ってはいたが、矢張り無言で出て行くのは気が引けた様で、各々が置き手紙らしき物を置いて出て行った様であった。
日が明けてからの村の騒ぎはまるで天変地異でも起きたかの様な騒ぎであったが、誰かが云い含めたのか、或いは何がしかの理由を付けて無理矢理に納得したのかは知らないが、親以外の人間の様子は三日もすれば落ち着いた様であった。
――お国の為なのだ。
誰かが云った。
――立派な事じゃないか。
そう、慰めた。
死に逝くと決まった訳ではない。運良くひょっこりと戻る事もあるだろう。否、あいつらの事だ、きっとそうに違いないと――結局のところ、そんな慰みで事は落ち着いたのであった。
四
田宮は、あの社の広間で何時もの様に頭を垂れていた。
相も変わらず衣擦れの音がし、障子の閉まる音が聞こえる。
「頭を上げて下さい」
あんな出来事があったにも拘らず、矢張り女の声は涼やかであった。
「……安二郎達が、出奔致しました」
顔を上げるや否や、そう告げた。
「まあ」
女は白い顔で大きく驚いた。
「陸軍に入隊し、これからは国の為に務める様です」
「……そう、ですか」
女は哀しげな表情を刻み、そして何故か言葉を濁らせた。
「……何か、お心苦しいところでも……」
田宮のその言葉に、女は口許だけに幽かな笑みを浮かべる。
「いえ……。羨ましいと……そう思ったものですから……」
「……羨ましい……?」
――死にに行く様なものなのにか。
「この村を出たのでしょう? この村の情景だけではなく、沢山の事を識るのでしょう? 私の知らぬ事も、沢山、あるのでしょうね……。それが……羨ましいのです……」
そう云い乍ら、女は矢張り窓外を見詰めた。
「……此処から出られたら――。夢に、見るのです。毎晩、毎晩……。野原を駆け巡る夢を。沢を渡る様を。それから、田宮……貴方と笑い合う夢を……」
ずくり、胸が疼いた。
――辛抱するのに疲れたのだ。
安二郎の言葉が蘇る。
「……もし、もし私が……此処から連れ出して欲しいと願ったら――」
詮ない事ですね――女はそう云って、もう一度笑う。
「この結界の外へ出る事も叶わない。忌々しいと、憎々しいと、何度呪ったでしょう。何故私がこの様な憂き目に遭わなければならないのか、何故私だけが陽の光も浴びれぬのか、如何して、如何して――」
「お鄙様、如何かそれ以上は――」
田宮の制止に女は顔を向ける。
「鄙という意味を、知っていますか? 卑しい、下品という意味なのですよ。この村の厄災全てをこの身に受ける私は、卑俗なのです。下卑た存在なのです。だからこの様な場所に閉じ込められて、結界の外に出る事も叶わない!」
女は珍しく激昂した。はらはらと、陶器の様に滑らかな頬に涙が伝っている。
「誰が望みましたか! 如何して私が、私だけが忌み嫌われるのですッ! 私がこの村の災厄をこの身に刻んでいるからですか! 望んだ事も無いのにッ!」
女の慟哭は何処に吸収される事もなく、室内に落ちて沈んだ。
田宮は唯それを聞いている。吐き出して楽になるのならそれが善いとそう思ったからであったが、それ以上に、声を発すれば願いを叶えてしまいそうだったからだ。
――今直ぐに此処を出よう。
そう云ってしまいそうだったからだ。
田宮は己の意志を堅く持つ様に、両の手を確乎りと握り締める。
女は――お鄙様と呼ばれるこの女は、村の形代であった。村に災いが起こらぬ様旧暦の三月になると儀式が行われる。女を形代にし、災いを祓うのだ。そして結界の内に閉じ込め、女に移した災いが外に漏れぬ様見守るのである。
だから女は忌み嫌われていた。だからこの場所に立ち入ってはならぬのだ。
穢れが移るから。災いが吹き溜まっているから――。
そして田宮は、村で唯一お鄙様と会える人間であった。それは田宮が女を慰める役目を持っていたからであり、女と次代の形代を成す為の人間だからである。子が女であればまた他所から御役目を拾い、男であれば捨てた。女の形代が誕生するまで何度も交わるのである。
御役目とは、そう云った立場の人間であった。
だが女と交わると云う事は即ち女の穢れを受け取ると云う事である。結界の内に入り女の躰に這入ると云う事は、そう云う事であった。だから村の子であってはならなかった。
拾い子でなければならないのだ。
「……母は……強い人でした……。この様な役目にあって、笑顔を絶やした事は無かった……。村の人々が健やかに過ごせるのであれば容易い事だと、何時も云っていました……。でも私には耐えられない……ッ。毎日毎日村の人々を呪っているのです! 田宮ッ! 貴方でさえもッ!」
ドン、と強く畳を敲く音が響く。女はその儘蹌踉めき、立ち上がると云うより這う様にして前へ進み出た。
「お鄙様――」
田宮は反射的に前へ出る。
女と田宮は、注連縄を挟んでいても呼気が届く程傍まで近付いている。
「……殺してください……」
その囁きは、頭を打ち付ける程の衝撃を以って齎された。
「何を――」
「生きるのが辛いのです……ッ。災いを抱えるのが辛いのですッ。この儘ずっと此処に囚われている事がッ! 如何か……如何かッ!」
殺してください――女はそう云って、田宮の手を握った。季節はまだ夏の盛りだと云うのに、その白魚の如く細い指先は、
氷の様に――冷たかった。
五
「危ない!」
その怒声にも似た声に顔を引き上げると、お妙の青白い顔にぶつかった。
「何してるのサ! 指まで漬物にする気かいッ?」
そう云われ手元を見遣れば、包丁の刃は指先ギリギリのところで止まっている。
「……ああ、済まない」
寸での所で難を逃れたのだと気付いた田宮は、ふうと息を吐き出しながら額の汗を拭った。
「疲れてるみたいだネ? 大丈夫かい?」
籠を何時もの様に上がり框に下ろしたお妙は、神妙そうな顔をして田宮を覗き込んだ。
「何か心配事でもあるンじゃないだろうね?」
「違うよ。此処の所仕事が増えただろ? 安二郎や六郎の分まで働いているから、それでだよ」
田宮は胸の内まで覗かれない様、大袈裟に笑い乍ら顔の前で片手を振る。
「……そうかい? なら……いいンだけどサ……」
それでも何か云いたげなお妙の頬を、片手でぎゅっと摘んでみた。
「何すンのサ!」
お妙は驚いて田宮の手を叩く様にしてから顔を引っ込める。思った通りの反応で、田宮は思わず声を上げて笑った。
「ハハハ。その顔の方がずっと善いゼ? 何たって、ちゃきっ子お妙だからな」
「何ヨ、それは」
「ちゃきちゃきのちゃきっ子お妙ちゃんって事ヨ」
変な言葉――僅かに不満気にし乍らも、お妙の表情が緩んだ事に田宮は内心で安堵した。
此処の所田宮の心は如何にも浮ついて、落ち着くという事が無い。それはあの日の事――殺してくれと望まれた日の事――が心の大半を埋めてしまっていたからであった。
あの日、如何答えるべきであったのか。その答えが出ないのだ。そんな事は出来ないと否定するべきであったのか、或いは望む様にしてやるべきだったのか、田宮には明確な答えが持てない。唯霏霏とした気持ちだけが、胸の奥に蟠っていた。
そして田宮は、あの時掻き抱いて遣れば善かったのだと後悔もしていた。役目等如何でも善いと、お前は独りでは無いのだと知らしめて遣れば善かったのだと、そう後悔している。
惚れているのだ。
御役目だとか生まれだとかそう云った全てを取り除いて、心から女を愛していた。だから辛かった。女が流す涙を止めて遣りたいとそう思う。だがそれは、女の願いを叶えてやる事に繋がる。この手で愛しい人を殺す事になる。
それが辛かった。友は皆戦地へ赴いた。この上尚、愛しい人を亡くす事が惜しかった。それでは己が独りになってしまう。
この世に独りきり、生きる勇気はまだ無い。
――情けない。
そうも思う。
――いっそ二人で逃げようか。
そうも思った。
それならば殺さずに済む。穢れ等有って無い偶像なのだ。恐ろしくも何とも無い。二人手を取り合って、この村を出奔してしまえば善い。そして行方を眩ませて――。
「吉さん?」
其処まで考えて、掛けられた声に思考を止めた。
「何だか怖いお顔……」
「……ああ、済まない。これからやる事を考えていたンだ」
その答えは合っているし、間違ってもいた。
「おおーい! おおーい!」
刹那、外から聞こえた声にお妙が何事かと戸を開ける。
「た、大変だ! 大変だよッ!」
外で大騒ぎしていたのは一昨日から隣町へ作物を売りに出ていた若者だった。
「如何したのサ! そんな大声で」
声を上げていた男は息も切れ切れ、今にも死にそうな顔をお妙へ向けた。何か云う事が有るのか、片手に握り締めた手紙の様な物を何度も見せつけている。田宮は出居から下り、お妙の後ろから外を覗いた。
「や、安二郎がッ!」
「安二郎が何だって?」
声に導かれたのかこの騒ぎに気付いたのか、安二郎の母親が家から飛び出して来た。
「せ、戦死! 戦死したって!」
「何だってッ!」
安二郎の母親は悲鳴に近い声を上げ、男が持って来た手紙を奪い取る様にして引っ手繰るとそれをまじまじと眺め――そして、その場に崩れ落ちた。
その手元から、安二郎が大切にしていた万年筆が零れ落ちた。
遺体の無い葬儀は、不思議なものだった。
空の棺桶には処々焼け焦げてひしゃげた万年筆が一つだけ入っている。それ以外の物は何ひとつ無い。腕も、足も、安二郎が生きていたと思わせる肉身は何も無かった。
それでも葬儀は厳かに、粛々と進められる。
安二郎の家族は誰も参列しなかった。手紙一つで死んだと云われたところで納得等出来るものではないし、人間違いだという事も在る。安二郎の母は、屹度人違いだ、今に帰って来るに違いない。その時申し訳が立たないからと譫言のように呟くだけになってしまった。
村の人々も同じ様なものだった。母の様に明白でないだけで、皆が誰一人として死んだ等と思っても居ない。遺体が無いのだ。肉片も無い。実感が湧かずとも無理は無いだろうと思う。
それでも、形だけの葬儀は行われた。
しゃん、しゃん、しゃん。
その最中、山の奥から鈴の音がした。
それを聞いた途端、自室で寝込んでいた筈の安二郎の母親が飛び出し、草履も履かずに外へ駆け出した。皆驚いて止める暇も無かった。
「煩瑣いンだヨ! この疫病神ッ! お前みたいなもンが居るからッ! 安二郎がこんな目に遭ったンだッ! この役立たずめッ! 死ねッ! 死に晒せッ!」
「ヨネさん!」
村人が狂った様に暴れるヨネの身体をひしと抱いた。田宮はその様子を痛ましく見る。母は振り返り、田宮を睨み付けた。
「……お前だって……お前だって同じ様なもンサ……ッ。お鄙様をお慰めする? 御役目だからと黙っちゃいたが、お前がこの村に不幸を呼んでるンじゃないのかい! お前らみたいなもン、さっさとくたばっちまえば善いのサッ! 安二郎の代わりに死ねば善かったのはッ! お前等の方だよ!」
ヨネはそう怒鳴りつけると土を投げ付けた。田宮はそれを避けもせず、唯黙ってされるが儘になった。気持ちが解るからであった。掛ける言葉も無いからであった。そうされるより他に、仕様が無いからであった。
「ヨネさんッ! それは云っちゃなんねェよ! 幾らなんでも――」
制止してくれたのは幼馴染の新吉であった。新吉も同じ様に辛い筈だったが、それよりも重責を背負う田宮を想ってくれたのだろう。頬には涙が滲んでいた。
「お前達に何が解るッてンだい! 妾はッ……妾はッ――」
そう云ったきり、ヨネは地面に倒れ込みおいおいと泣いた。もう誰も止めはしなかった。掛ける言葉も無い。痛ましすぎるのだ。
「吉……お前の親友の葬儀だと云う事は充分解ってる……。だが――」
どれ程の刻が経ったのか、田宮の養父が呟く様にそう諭した。
「……解ってます……。……安二郎のご家族には、呉呉も宜しく伝えてください……」
「……解った……」
田宮は養父の顔を見た後、叫び出したくなる程痛切な母親の背中を眺め、その場を後にした。
※
肚の底に溜まった鬱憤をその儘に、田宮は広間の障子を乱暴に開けると、畳が汚れるのも構わず注連縄の傍まで躙り寄った。
「何事です! 無礼ですぞ!」
先に反応したのは目付役の老婆であった。田宮はそれを一瞥し、
「貴方は黙って出て行って下さい。立場は俺の方が上なんだ」
鉛より重い声色で脅した。
「如何したのです」
「如何したも何もありません。何故今なのですか」
村に起きた出来事を露とも知らぬ女に云う事では無いと重々理解している。それでも今夜は、今夜だけは亡き友を静かに弔いたかった。鈴さえ鳴らなければ、安二郎の母親もあんな風に取り乱す事は無かったのだ。その憤りが、言葉に強く現れる。
「……何か、あったのですか」
「お鄙様」
「下がりなさい」
田宮の剣幕に圧されたのか、或いは異常を察したのか、女は目付役に強く言い渡した。それでやっと、二人きりになった。
「安二郎が……安二郎が、戦死しました」
「……何と――ッ」
「その弔いをしている最中だった。安二郎の母は、俺に死ねと云いました。貴女にもです。厄災を呼んでいるのは俺たちだと、そう云った。反論出来なかった。出来ますか? 俺たちが居る事が、この村の災いになっている」
「……そう、でしょうね……」
女は視線を落とし、緩く瞼を閉ざした。元より厭われるのは覚悟の上だった。好かれる事等生涯有り得ない。だから女は耐え忍ぶかの様に唇を引き結ぶ。
「仕来りだと、我慢して来ました。それが俺の生きる道だと辛抱した。俺が逃げれば責め苦を負うのは養父母だと耐え忍んで来た。でも違う。こんな仕来りが在る事自体間違っているンです。村の皆は貴女に災いを押し付けた気になっている。だけど実際こうした事は起きるンだ。如何しようも無く不幸が訪れる事は有る。その時皆が納得出来なくなってしまう。災いを祓った筈なのに、如何してこんな事が起きるンだと、行きどころが無くなってしまう」
「では、それでは――」
女の声は細く揺れていた。薄く開いた唇から漏れた呼気が震える。
「だから……無くしてしまえば善い……。こんな馬鹿気た因習は終いにして、不幸は誰しにも起こるのだと納得出来る様にしなければならない」
――嗚呼、云ってしまった。
田宮の頭に僅かに残っていた理性が、そう告げた。
「……如何する、のです……」
女の瞳は狼狽している。此処から出たいと心底望んだ筈なのに、殺して欲しいとまで願った筈なのに、それが実際目の前に現れると如何して善いのか見当も付かないのだ。
「……逃げましょう。一緒に」
その声は田宮が思った以上に、堅く強いものだった。
「でも――」
「一人切りになる時間はありますか」
女には常に目付役が付いている。その目を眩ませない事には、如何したって逃げ果せるものではない。田宮がそう問うと、
「……厠に立つ時は、何時も一人です」
答え難そうに、女が囁いた。
「宜しい。では二週間後の今日、丑三つ時に厠へ立って下さい。身支度は整えなくても構いません。夜は冷えるかもしれませんが、俺が何か羽織る物を用意しましょう」
「はい」
「それから、気取られる事が無い様に、何時もしている事は必ず行って下さい。不安なら、鈴を鳴らして下さい。俺が来ますから」
「……解りました。でも――」
「何です?」
女の表情は少しだけ曇っている。不安なのだろうか。
「…………善い、のですね……」
そう云うと、女は真っ直ぐ田宮を見詰める。
田宮は頷く代わりに、女の手を確乎りと握った。
六
結局、田宮は決意した。否、それは半ば自暴自棄な選択で、冷静に判断した事では無く、一時の情動に突き動かされただけの決意ではあった。
それでも田宮は決心した。
村を出奔する。
何処へでも、何処でも構わない。兎に角この村から、この村の旧弊的な因習から一刻も早く逃れたかった。仮令それが若気の至り故の馬鹿な選択であってもだ。
この先、不幸になるか幸せになるか等最初から考えては居なかった。
破れかぶれとは当にこの事であろうと、自分でも思う。
それでも逃げ出したかったのだ。
安二郎は――安二郎は後悔しなかっただろうか。
出立の準備を進め乍ら、ほんの僅か弱気が顔を出す。
田宮は大きく頸を振った。
しなかったに決まっている。望んで入隊し、望んで出兵したのだ。二度と日本国を拝めなくなろうとも、故郷の土を踏む事が叶わずとも、それでも志願したのだ。
――後悔等、する筈も無い。
田宮は薄く目を閉じると、己の強気を全て振り絞る様にして身支度を進めた。
※
その日お妙が田宮の家を訪れたのは、もう陽が落ちて随分経った頃だった。
「如何したンだ。こんな時間に」
田宮は村の隅に建てられた寂れた小屋に独りで住んでいる。その元を訪れるのは大抵悪友のみで、理由も家で飲むと家族が煩瑣いだとか、要は隠れ家の様に扱われていたから、女子衆の、それも独りきりの来訪に幾分驚いた。
「御免ヨ。ちょいと、用事が有ってサ……」
お妙の顔は何処か青褪めている様に見えた。
「用事なら、昼間畑仕事のついででも善かったろう」
「……他の人に聞かれたくない咄なのサ」
そう云い乍ら、お妙は戸を後ろ手で閉めると、上がり框に腰を下ろした。
「何だ、その、聞かれたくない咄ッてのは」
田宮は若干居住まいを正し、お妙の方へ躰を向ける。
「……否サ……」
そう云ったっきり、お妙は黙り込み俯いてしまった。
これは愈々尋常ならざる出来事だと、田宮は心底心配する。
「おいおい、一体如何したッてンだ。明瞭キッパリ、何時でも竹を割った様な性格のお前が珍しいじゃないか」
「茶化さないでヨ……」
そう云ったきりまた黙り込んでしまう。
却説、如何水を向けたものか――。
この儘ではこんな時間がずうっと続くかもしれないと、田宮は思わず腕組みをした、その時だった。
「吉さん、妾に隠し事してるンじゃないかい?」
「何を、急に」
田宮は図星を突かれた所為で飲んでしまいそうになる息を、寸でで止めた。
「解るのサ。六さんや安さんの時だって、ほんとを云えば妾は解ってたのサ。何か大事な決意をしてるッて……。誰にも云っちゃ無いけど、きっと凄く肝心な事を決めてるッて」
お妙の表情は、ずっと真剣であった。
「話してくれッて云うんじゃないんだヨ? そりゃ、吉さんの事は全部知って居たいけれど、妾にだって話してない事はウンとあるもの。おッ母さんにだって話しちゃいない事も、あるンだもの……」
そう云うと、お妙はまた視線を下げる。
「……そうかい……」
何故だか田宮は、胸の奥がツンと痛んだ気がした。
「……吉さんが、何を決めたのか……妾には解らないけれど……だけど……だけどねッ……妾は……ッ」
パタ、パタと、太腿の上に置かれた両の手に雫が零れた。
「……おいおい、泣いてるのか?」
無粋な質問だと云ってから思った。女子衆が何かを耐え兼ねて涙しているのだ。もっと他に掛ける言葉が在るだろうと、田宮は思わず自分の下唇を噛んだ。
「泣いちゃいないわヨッ」
お妙はそう強がって、頬をぐいと乱暴に拭う。それでも次から次へと涙は溢れ続けている。
――困った。
如何すれば善いだろう――田宮は無い知恵を絞る。変梃な顔でもすれば泣き止むだろうか。否々、そんな子供騙しで事が収まるとは思えない。兎に角、落ち着かせる事が先決だろう。
「そ、そうだ。葛湯。葛湯でも飲むか? 少しは落ち着く――」
「馬鹿ネ。もう子供じゃないワ……そんなンで泣き止んだりしないわヨ」
それは本気だったのだが、如何やら冗談だと取られた様で、お妙は泣きながら小さく笑った。
そうして深く息を吸い込んだ後、
「吉さんがどんな決意をしたか、妾には解らない。けどね、これだけは覚えておいて……吉さんがどんな決意をして、どんな事をしようとも……」
お妙の小さな手が田宮の手に重なった。
「妾だけは、吉さんの味方だよ……」
有難うと、云い掛けた。済まないと――云い掛けた。
だがそれを云ってしまえば、何事か決意した事を気取られてしまう。何も有ってはならないのだ。今は唯、普段と同じ日常を、これからもずうっと続けるのだと皆に思わせておかねばならない。明日も明後日も、それから先も、昔から続く生活を続けていくのだと――。
だから田宮は、何を云ってるンだ――と、そう返した。
※
出立の日まではあっと云う間であった。
遠出をする準備に加え何時もの農作業もあったから、田宮はその刻限になるまで時刻に追われ続けた。
忘れ物は無いだろうか。皆に心配を掛けるかもしれない。一筆残しておこう。養父母に責めが及ばぬ様、己が全て悪いのだと記しておくべきだろうか。明日になったら、皆は如何するだろう。騒ぎにはなるだろう。自分達を、否、お鄙様を探すやもしれぬ。それは防がなければ――考える事、用意すべき事は山積みであった。
田畑を耕し作物を収穫し、陽が暮れて夕餉の時刻になる。
西日が村の畑を金色に染め上げる。
――嗚呼、綺麗だ。
田宮はこの村に来て初めて、その美しさに気付いた。
もうこの地の土は踏めまい。
あの山に入る事も今宵で終わる。
何もかもが、今晩で終わるのだ。
一九一九年九月の半ば、田宮が二十二歳の頃だった――。
七
ホウ、ホウ、ホウ――何処かで梟が鳴いていた。風が木々を揺らすざわめきが辺りに響いている。
時刻はもう夜中に差し掛かっていた。月の明かりしか夜を照らす物は何も無かった。だが今夜の月は満月に近かったから、闇の中を進むのもそう難しい事では無い。田宮は風の音に紛れ乍ら、社の庭にある茂みに辿り着いた。
何処からか金木犀の甘い香りがしている。
田宮は茂みの影で身を低くし、凝乎と息を潜めた。普段の様に呼吸をすれば誰かに聞こえるのではないかとそう思ったからだった。必然、呼吸は深くなり、そして間隔は長くなっていく。
約束の刻限まではもうそんなに間は無いだろう。
――この儘で息が続くだろうか。
徐々に酸素の欠乏を覚え始めた、その時であった。
「……田宮……。田宮は居ますか?」
細い、絹糸より細い声がした。
「此処に」
田宮は茂みから半分身体を出し、己の存在を見せ付ける。女はそれを見て、明瞭と安堵の表情を浮かべた。
「草履を」
裸足で降りて来た女の足に草履を履かせてやる。それから白い襦袢が闇夜に光らぬ様、用意していた着物を肩へ掛けてやった。
「暫くはこれで辛抱して下さい。何れ落ち着いたら、きちんと着替えさせますから」
そう云うと、女は強張った顔の儘頷いた。
風が吹いた――。
木々が鳴る。
その音に紛れ、田宮は女の手を取り社の庭を出た。
風が止めば足を止め、吹けば夜道を駆ける。女を振り返り、まだ大丈夫だと思えばまた駆けた。
そうして、少し拓けた野原の様な場所まで辿り着いた。
空を見上げれば、木々の葉に縁取られた夜空が見える。星々が二人の行く末を案じるかの様に瞬きを繰り返していた。
「大丈夫ですか?」
「……は、はい……ッ」
女の息は上がっている。答える事すら辛そうであった。それもそうだろうと思う。日がな一日中あの場所に閉じ込められているだけで、身体を動かすという事すらした事が無いのだ。
「少し休みましょう。これから沢を下ります。隣町まではまだ先がありますから、今の内に身支度を整えましょう」
そう云うや否や、田宮は背負っていた荷包みを下ろし、結び目を解いた。其処には帯や簡単な携帯食等が包まれている。身を隠す為の笠も用意した。関所等疾うの昔に廃止されてはいるが、出来るだけ身を隠して置きたかった。
「ええ……」
ゼイゼイと鳴る女の胸に気付き、田宮は竹筒を取り出して水を飲ませてやる。それから小さな切り株を見付けると、其処へ端座らせてやった。
「……これが、森……なのですね……」
一息吐けた事で辺りを見回す余裕が生まれたのだろう。女は頻りと視線を動かし、物珍しそうに周囲を観察している。
「獣は……居る、のでしょうか。書物には、人を襲うものが居ると書いてありました」
ホウ――梟が鳴いた。
「あれは?」
「梟ですよ。大丈夫。彼らは人は襲いませんし、この辺りには熊も狼も出ません」
随分来たとは云え、人里が近いのだ。おいそれと出遭うものではない。
「そう、なのですか……」
安心するとばかり思っていた田宮の心は、女の残念そうな顔に裏切られた。それで、本心では見たかったのかもしれないと思い至る。
「何れ見れます。狸も狐も、他の土地には居るでしょうから」
「そう、ですね」
田宮の考えは当たっていた様で、女は口許に笑みを浮かべるともう一度水を口に含んだ。その微笑みが何処か寂しそうであった事に田宮は気付かなかった。
「田宮」
「……吉と、呼んでください」
竹筒を受け取り乍ら、田宮はそう云った。もう御役目の任は解かれたも同然なのである。今更他人行儀にする必要もないだろう。だから、名前で呼んで欲しかった。
女はそれに一瞬驚いた顔をして、
「……吉、さん……。この香りは、何の香りですか?」
それから――はにかみ乍らそう云った。
「……ああ、これは金木犀ですよ。秋の初めに咲く、橙色の小さな花です」
「それなら絵を見た事があります」
「お鄙――」
「清と、呼んでください。母が名付けてくれた大切な名です」
「清、さんは……清さんは……嗚呼、何だか照れますね」
野暮ったい事は云いっこ無しだと自分で云っておき乍ら、それでも名を呼ぶ度、胸の辺りが擽ったい様な心持ちになる。冗談めかした云い方で誤魔化してはみたものの、矢張り照れ臭さは紛れる事が無く、田宮は参ったと自分の頬を掻いた。
「清は、何です?」
それを笑った儘見ていた清は、そう問うた。
「ああ、物を善く知っているな、と思って」
「書物の中の事だけですけれど……。でも、実際に在るのだと今日知りました」
心底幸せそうな顔をする。それを見ているだけで、田宮の心も温かくなった。
「あれ、あれは彼岸花ですよ。夏の終わりに咲く花です」
「彼岸に咲く花――死人花とも云われていると、書いてありました」
「あの木は欅です。あっちは檜」
「家屋に使われる木ですね?」
田宮が指を差せば清が知識を披露する。体験と耳学問が交わる不思議な時間だった。時間を忘れ、逃げている事も忘れ、田宮と清は互いの知識を披露し合った。田宮でさえ知らぬ事を清は知っていたし、その逆もあった。
生きて来て一番、幸せな刻だった。
ホウ――その終わりを告げる様に、梟が鳴く。それに釣られた様にして、遠くで蛙が二匹鳴いた。
八
「……却説、そろそろ行きましょう。この儘では夜が明けてしまう」
そう云って田宮が立ち上がる。
月はもう随分傾いて来ていた。明るくなれば動き易くはなる。だがそれは追手も同じだろう。一筆残したとは云え清を連れ戻す為村人が山狩りをするかもしれぬ状況では、暗い内に出来るだけ距離を稼いでおきたかったのだ。
然し清は、夜空を見上げるだけで立ち上がろうとしなかった。
「清さん。もう行かなければ」
田宮がそう腕を取ろうとした時だった。
はらり――清の眼から、涙が零れたのである。
「……美しい……夜です……」
瞳に一杯の涙を溜め乍ら、清は震える声でそう云った。
「如何したのです。足でも痛めましたか?」
「いいえ、いいえ……。そうでは無いのです……」
云い乍ら、清の双眸からははらりはらりと涙が溢れ出る。それはふっくらとした柔らかな頬を伝い、ぱたりぱたりと零れ落ちていった。
何故泣いているのか見当も付かなかった。感動しているのだろうかとも思ったが、表情がそれを否定している。
一緒に逃げようと――清は言葉を震わせた。
「……一緒に逃げようと、云ってくれました……。一人で逃げる事も出来た筈なのに……」
「何を――」
「あんなに恨んだのに……。あんなに憎んだのに……ッ。貴方が村へ戻る度、どれ程憎らしく想ったか……。貴方も此処に囚われれば善いと、そう何度も、何度も何度も呪ったのに……」
それでも貴方は優しかった――清はそう云うと、小さく嗚咽を漏らす。
「何故ですッ。如何して私を憎んではくれないのですッ。お前が居るから俺は村から出られぬのだと、如何して恨んではくれないのですッ」
それが辛い――と、清は漏らした。
その哀しみに呼応する様に、木々がザザとざわめいた。
「……貴方に優しくされる度、自分が穢れてゆくのが解るのです……。私の心は醜く歪んでしまった……ッ。貴方と接する度、それに気付かされる!」
刹那、清は田宮に抱き着いて来た。か細く震える躰は寒さの所為ではないだろう。女特有の華奢な体躯が胸の中に収まった。
田宮は両の眼を見開き、何処でもなく唯虚空を凝眸する。
鼓動が耳元で煩瑣く鳴った。
「……今の私は……もう、昔の清では無いのです……。悪意も何も知らなかった、純朴な乙女では無い……。母は云いました……。生涯清らかで居られる様に……この御役目にあって、決して汚れる事無く清白で居られる様に……貴女に清と名付けたと……」
でも、もうその頃の私は存在しない――清はそう云い、田宮の唇を甘く吸うた。
「……ずっと、ずうっとこうしたかった……」
田宮の視線は清に在るが何も見えては居なかった。今起こっている全ての出来事が夢の中の事の様でいて、それでいて頭だけが爛々と冴えている。
「……だけど……駄目なのです……。もう、終いにしなければ……ッ」
清の流した涙が、田宮の頬を伝う。
「私が居れば……貴方が穢れる……。貴方が居れば……私の心は醜くなってしまう……ッ」
「……そんな事は――」
漸く出た声は掠れていた。喉元が強く締め付けられている所為だった。
「……耐えられない……ッ。この儘逃げて、それで如何なります! 運良く咎められる事が無かったとして、それで如何なりますッ。貴方は私に縛られた儘、私は貴方を恨んだ儘ッ! こんなに愛おしい人を……一生恨み続ける等……ッ」
私には、出来ない――清はそう云って、田宮に強く抱き着いた。
田宮はやっとその躰をひしと抱き留める。
ずっと苦しめていたのだと漸く気付いた。田宮の存在が清を追い詰め苦しめて来た。清廉潔白で居る事が清の苦悩だったのだ。柔順だった事こそが清を追い詰めていたのだ。
何と云う、何と云う不幸であろうか。
愛しい人を想う心こそが災いであったと、誰が思おうか。
田宮は細い躰を抱き締めて涙した。
清も同じ様に泣いている。
死人を誘う赤い花に囲まれて、二人は己の恋が終わる瞬間を想った。一緒にはなれぬ、共に生きる事が出来ぬ絶望が、二人の胸中を締め付けた。
だから殺して欲しいと願ったのだ。一緒になれぬのならせめてもの救いとして、愛しい人に殺して欲しかった。
その気持ちが田宮をまた苦しめた。
「……殺して……ッ」
田宮の力強い腕に掻き抱かれ乍ら、清は涙を止める事無く囁いた。
「殺してください……。貴方の手でッ!」
清の叫びが森を伝いほんの少しだけ木々の葉を揺らす。
暫時、風が凪いだ。
その静かな夜には、幾望の燿と金木犀の芳醇な香りが満ちていた――。
九
ヒヒ、ヒヒヒヒヒ――と、季節の移り変わりに乗り遅れた蜩の鳴く声がして、吉崎はゆっくりと長い邂逅から戻った。
窓から見える景色は、夕暮れと云うより夕闇に近くなってしまっている。
長い語りの所為で張り付く様な喉の違和感を覚えた吉崎が躰を僅かに捻ると、目の前に湯のみが差し出された。その湯のみの向こうに在る嶋の表情は、何処となく堅く強張っている様に思えた。
「如何ぞ。淹れたてです」
その言葉に違う事なく、湯のみからは幾筋かの湯気が立ち、少しだけ濃い色をした緑茶が並々と注がれていた。
それを一口飲んで吉崎は椅子に深く背を預ける。
ふうと、漏らすでも無く吐息が漏れた。
「……美しい夜だった。秋を告げる甘い薫りと夏の終わりを彩る紅い花……。夏と秋、季節の変わり目と、彼岸と此岸、生と死――それが一緒くたに入り混じった、夢とも現とも云える様な不思議な夜だった……」
その独り言にも似た邂逅を、嶋は唯凝乎と聞いていた。
「……私はね、嶋君……」
人を殺したんだ――吉崎はそう明瞭と云った。
「清を、この儘では生きては居られぬと漏らした清を、この手で殺したんだ……。そうするしか無かった様にも思えるし、そうしたかった様にも思える……」
吉崎は湯のみへ視線を落とし、まるで清の素肌でも撫でる様にその縁を指で擦った。
※
「……吉……さんッ……」
田宮の節榑立ったがさつな指が、清の細い頸に食い込んだ。清はまるで夜伽の時男に甘える女の様に、田宮の腕に靭やかな指先を絡ませる。
「…………ッ――清……ッ」
田宮は泣いていた。
泣き乍ら指先に精一杯の力を込める。
ぎり、ぎりり――。
細い頸がどんどん幅を狭めてゆく。
白かった筈の顔が赤紫色に腫れていった。
ぎりり、ぎり――。
か、と喉から音が漏れた。
それきり清は――動かなくなった。
瞼の落とされた目尻から、涙が一筋はらりと落ちる。
幸せそうな表情をしていた。それは恍惚の表情に似ていた。
田宮は清が絶命するその瞬間を確かに見ていた。
小さく愛らしい唇が空を飲む様を。
切れ長の凛とした瞳が虚空を凝眸する様を。
滑らかな素肌が夜光に照らされ、輝く様を。
〝それは酷く官能的な一刻〟であった。
それから田宮は、清の躯を堅く抱いた。
抱いて抱いて――掻き抱いて泣いた。
声を上げおうおうと咆哮いた。
一陣の風が吹き荒び、田宮の哀しさを浚ってゆく。それでも悲嘆は次から次へと喉から漏れた。慚愧に堪えなかったのだ。口惜しさや寂寥感は絶えず、痛嘆は終わるところを知らぬ様に溢れ出た。
田宮は声が枯れ、掠れた呻きしか出なくなるまで泣いた。
ガサリ――。
茂みがざわついた音がして、田宮は俊敏に顔を向ける。
「……吉さん……ッ!」
其処から侵入出て来たのはお妙であった。お妙は何事かと田宮へ駆け寄り、
そして全てを把握した。
「逃げて!」
「何をッ。この儘清を捨て置けと云うのか!」
田宮は激昂した。この期に及んで尚、死体に鞭打つ様な事は出来ないと否定する。
「此処は妾が何とかする! 清、清さんの気持ちを無碍にはさせない! ちゃんと弔って貰える様、妾が村の皆を説得するから! この儘じゃ、あんたも死ンじまうじゃないかッ!」
「死んだって構わない!」
元よりそのつもりだった。自分独りで生きて行く勇気は無いのだ。清と共に死ぬ、田宮はそう決めていた。その頬をお妙が思い切り引っ叩く。
「馬鹿云わないで頂戴! そんなのッ。そんなのあんまりヨ!」
それから二重の大きな眼からポロポロと涙を溢れさせたが、それを矢張り乱暴に拭う。
「泣いてる暇なんか有りゃしないワッ。目付がもう清さんが居なくなったのに気付いたのサ。村の人達は山狩りをするッて! お願い、逃げて頂戴ッ! 安さんも、清さんも! 吉さんまで失いたくないの!」
だから逃げて――お妙は繰り返しそう云った。
「生きてれば何れどっかで会えるもの……ッ。いいえ、必ず見つけ出してみせるワ。もし――もしその時、生きている事を後悔して居たら……あの時如何して死なせてくれなかったと思っていたなら……そしたらその時は、屹度妾が殺してあげる……」
「如何して――」
其処までしてくれるのだという言葉は、お妙に乱暴に押された背中で掻き消えた。
お妙は田宮から確乎りと清の躯を受け取ると、田宮を追い払う様に石を投げ付けた。
それで、田宮はその儘山を駆け下りた。
※
「――それから如何なったのか、私は知らない……。その後直ぐに関東大震災に見舞われてね。聞いた所では、あの村は土砂の下に埋まってしまったらしい。今はもう、地図にすら村の名前は残っていないんだ……」
其処まで云って、吉崎は湯のみに口を付ける。それから小さく息を漏らした。
「私は矢張り、呪われているんだ……」
「如何して、そう思うんですか?」
嶋の問い掛けに、吉崎は音も無く笑う。
「死ねなかったんだよ」
関東大震災発生時、吉崎は深川区(現在の江東区)の辺りに居住していた。
「あの辺りも酷い被害だったんだ。建物なんてものは消し飛んでしまったかの様でね……だけど、私は生き延びてしまった……。何度も死のうと思ったんだ。事故でも何でも善かった。唯、自分で死ぬ勇気だけは如何しても持てなくてね……。だから情けないかな、何かに巻き込まれでもして死にたかったんだ」
だが運命は、吉崎の寿命を延ばすばかりであった。
「そうこうしている内に、世界大戦が始まった。私は直ぐ様軍に志願してね。そう、先の大戦で志願した六郎には、その時再開した」
六郎は年老いてはいたが、若い頃と何ら変わらぬあどけなさで吉崎を迎えてくれた。村を捨てる様にして出て来た事、震災で村が無くなった事、それから戸籍が焼けた所為で名前が変わった事等を話して、昔咄に花を咲かせた。
一九四〇年――吉崎が四十四歳の頃であった。
「それから満州へ出兵になった。これで死ねるとそう思ったのを覚えているよ……」
然し――吉崎はそう云って苦い笑みを零す。
「殺してはくれなかった……。左足に被弾した時はやっと死ねるのだと思ったのだけどね……皮肉なもので、大動脈は外れてしまっていた。敵の歩兵をあんなに恨んだ事は無い。もう少しまともに当ててくれていたなら――」
「今でも死にたいと……そう思いますか?」
突然の質問に、吉崎は嶋を見遣る。嶋は何時もちゃらけている表情を引き締め、凝乎と吉崎を見詰めていた。
「……もう、急がずとも善くなってしまったよ」
吉崎は齢六十を超えている。自ら望まずともお迎えはもう直ぐ其処まで来ているだろう。だからそう答えると、嶋は何処か安心した様な笑みを零した。
「僕の祖母の名前は、嶋妙と云います。広崎村出身で、昔はお妙と呼ばれていた。震災の難を逃れて、今は千葉に住んでいます」
「……お妙……ッ」
吉崎は目一杯両の眼を見開く。驚きの余り声が掠れている。
嶋はそんな表情を眺め、何処か満足そうに微笑んだ。
――生きてれば何れどっかで会えるもの。いいえ、必ず見つけ出してみせるワ。もし――もしその時、生きている事を後悔して居たら……あの時如何して死なせてくれなかったと思っていたなら……そしたらその時は、屹度妾が殺してあげる……。
「では……ッ。では君は……ッ――」
庭の縁を彩る赤い花が風に戦ぐ。
金木犀の清香が仄かに薫った。
(了)
薫り満つ花
表紙画像 : いもこは妹 様 http://www.pixiv.net/member.php?id=11163077
この場をお借りし、御礼申し上げます。