Bloody Mary【再編集】<第二部>

璃玖

  1. 11 the Connection
  2. 12 the Next Step
  3. 13 the Witness
  4. 14 the Footsteps~rewind~

11 the Connection

<Rosary>
ウィロウズ家に生まれた待望の子は女の子で
少し赤みがかった髪色の、何とも可愛らしい子だった。
『ロザリー』と名付けられた子供は、家族の愛情を一身に受け順調に育っていった。

「ロザリー、ちょっと痛くするけど 我慢しておくれ」
1歳の誕生日を迎える頃、父親は娘の白い肩に小さな傷をつけた。
ペーパーナイフでほんの少しだけ、皮膚を切りつける。
細い線が出来た。
「…」
母親も祖父母も、そして乳母も固唾を飲んで様子を見守っていた。
やがて、細い線は赤い色を施し みずみずしい液が溢れる。
「―おお…」
祖父がまず感嘆の息をもらし、祖母が涙ぐんだ。
「美しい赤い血だ…」
誇らしくつぶやく祖父の言葉に、父親も母親も
若干の違和感を否めなかった。
「ええ、誠に美しい」
祖母と乳母も顔を見合わせて頷く。
そして、流れ出た無垢な血液を脱脂綿で掬いあげる。白地に鮮やかな色が染み渡った。
乳母が、その傷口に包帯を巻いてやった。

「確かに、純粋な赤い色は誇るべき血の色だ。
しかし…それがこの子にとってどれだけの意義がある?」
夜半、寝静まる家の中に一か所だけ明りが点っている。若い夫婦の寝室だ。
ロザリーを寝かしつけた妻が寝室に戻ってくると、夫は静かに言葉を落とした。

娘の赤い血を見てからずっと、考えていたのだろう。その気持ちは、母親も同じだ。
「むしろ、今の世の中では災厄を呼ぶ恐れもあるわ。
血の色が周囲に知られてしまえば、間違いなく好奇の目にさらされる」
「それだけではない。血の匂いを嗅ぎつけて
『あの一族』が動き出してくる可能性も…」
「まさか…奴らは滅びたはずではないの!
少なくとも、この街にはいないはずだわ…」
忌々しいものを思い出して口にした夫に対し、妻はすぐさま反論をする。
だが、夫は黙ったまま首を横に振った。
「断定は出来ないだろう?」
「…」
「ともかく、警戒するに越したことは無い。
その為に、この名を選んだのだから」
「ロザリー…」
子供部屋で眠る愛娘を思い浮かべ、その名前を大切に 愛おしく声に出した。
聖なる力を信じ選んだ名前に、どれだけの効果があるのかは判らない。
それでも、すがりたいと思う切実な親心がそうさせた。

世の中の仕組みが知らぬ間に変わって行くように
科学技術や医療技術の発展により、人体の仕組みも〝当事者〟たちが知らぬ間に変わっていた。

この時代の人間は、旧来の『赤い血』を持たない。
高度な医療技術や栄養補助食品・薬品の類のお陰で、〝外側〟からの『生命維持』が可能になった。
繊細で重要な役割を持つ『赤い血』を、自らで生成する必要がなくなったのだ。

今、人間の体内に流れているものは薄い紫色をした液体だ。
もはや水分を保つ役割を果たしているくらいと言っても過言ではない。
ヒトの〝外側〟の発展は、〝内側〟を退化させてしまうという結果を招いた。
だが、この事を認識している人間はほとんどいない。
自分たちの中を流れている頼りない液体は、ずっと昔から変わりないものだと思い込んでいる。

人間の生態や歴史に関しては、一部の研究者が極秘裏に調査・研究を続けている。
彼らの間ではこの紫色の血液を持つ人間を『新人種』
古くからの赤色の血を持つ人間を『旧人種』と呼んで区別していた。
もっとも、研究者自身も言わば『新人種』であり
実際に『旧人種』の鮮血を目の当たりにした事のある者は、皆無と言って良かったのだ。
有識者ですら、そんなものは伝説に過ぎないと思う声が高かった。

ウィロウズの家は、最後の『旧人種』の一族である。
事実を知る人間は家族のほか、長く仕えている乳母と先祖の代から懇意にしている町医者くらいだ。
ロザリーの母親は『新人種』である。故に、初め彼らの結婚は両親に認められなかった。
だがもはや赤い血を持つ他の家など無い時代だ。
彼女に身寄りが無かったこともあり、決して他言しないと約束してウィロウズの家に入る事を許された。

一方で夫であるロザリーの父親は、彼女と結婚することで
〝完全に閉ざされた〟古い一族の血の色を断ち切りたかった。
残されているのは捨てきれない誇りだけで
今更、赤い血を持つ事に何の価値も無いと思っていた。
『異端』と言う枷をして生きていかねばならない子が
心から幸福になれる事はないとも思っている。

しかし、ロザリーは鮮やかな赤い色を持って生まれた。
それならばせめて自分たちが守れる間だけでも、この子には何の不安も心配も感じさせない
幸福な時間を作ってやろう。私たちは、その為だけに生きていけばいい。
すやすやと寝息を立てる我が子の寝顔を眺め
希望に満ち溢れたような張りのある頬をそっと撫で
夫婦は固く誓い合ったのである。

世間に事実が知られてしまう危険性を孕んでいるものの
両親は、娘に普通の生活を送らせてやりたかった。
皆と同じく学校に通わせ、たくさんの友達と遊ばせた。
だが、やはり子供の行動は 致命的な結果を生んだ。

ウィロウズの家の娘は、赤い血を持っている

近所の噂話が、研究者たちの耳に届くまでにそう時間はかからなかった。
ロザリー自身に、心無い手を触れさせまいと
両親はその身を呈して娘を守った。

彼らはある男に、事故に見せかけ殺されてしまうのである。

「…」
ロザリーは、自分が泣きながら目を覚ました事に気付いた。
目頭が重ったるく感じられ、そのままもう一度眠ってしまおうかと考えた。
が、閉めきられたカーテンの隙間から
陽の光が射し込んでいるのが横目で確認できた。
もう、朝だ
起きて、カルヴァンを手伝わねば。
遠い過去の思い出を引きずっていても
今、自らが置かれている状況はきちんと把握していた。

ベッドから抜け出すと、裸足を床につけた。ひんやりとした感触が彼女の頭を冴えさせる。
窓際まで歩み寄って、一気にカーテンを引き開けた。
途端に、部屋の中が明るくなる。目の前には、賑やかな50番街の通り。
朝のラッシュが始まる前で、散歩やジョギングをする姿がちらほらと見えるだけだった。
ロザリーは今までとは違う景色、違った環境に身を置いている事を実感した。


階下で朝食の支度をしていたカルヴァンが、降りてくるロザリーに気付いた。
「よ、おはよう」
とてつもなくいい匂いが、ロザリーの鼻腔をくすぐり
途端に腹が鳴った。
おそらくカルヴァンには聴こえていないだろうが…それでも彼女は顔を赤くした。
「―おはよう」
「どうしたの?顔が赤いよ。熱でもある?」
彼もそこには気付いたらしい。
慌てて首を振り、とびきりの笑顔ではぐらかした。
「いいえ!何でもないわ!
ごめんなさい、遅くなってしまって…手伝うわ」
「ああ、いいよ。もう出来上がるから、お嬢様はお掛けくださいな」
おどけるカルヴァンの言葉に
ふと、ブラッディの面影がよぎる。途端に胸が痛みを訴えた。
ロザリーは、カルヴァンに気付かれないように振舞いながらカウンターに駆け寄った。

「ちゃんと眠れた?」
自らはコーヒーを入れ、ロザリーの為に紅茶を入れながらカルヴァンが言う。
皿に盛られたみずみずしいフルーツを頬張るロザリーが頷いた。
「ええ、とっても」
「その割には…、目が赤い」
彼女の顔を覗き込むようにして、紅茶のカップを置いた。
ああ、と思い出したようにロザリーは自身の目頭をさすった。
「夢を見たの」
「どんな?」
「昔の夢よ。父がいて、母がいて
世界が楽しい事に満ちていた、子供の頃の」
「…そう」
カルヴァンが優しく微笑むと
今度はそこへ、彼女の父親の影が重なった。
今朝はどうも感傷的になっている
ロザリーは小さく首を振って自嘲した。

「カルヴァン」
「ん?」
そして、ナーバスな自分を払拭しようと表情を切り替えて呼びかけた。

「お陰で思い出したの。私の話、聞いてくれる?」

ロザリーが、自らの血の色が
他の子供たちと違う事に気付いたその後から
彼女の身辺には少しずつ変化が出てきていた。

件の赤い血を待ち望み歓喜した祖父母はとうにおらず、
ウィロウズの家には、ロザリーの両親と乳母がいるだけだ。
彼女の両親が危惧していた『異端を排除しようとする』地域の動きが徐々に見えてきて
それとは別に、予期せぬ方向からの凶兆が彼らを襲う。

いつ頃からか、何処から来たのか当時は分からなかったが
何だか偉そうな大人たちが、何人かずつ入れ替わり立ち代わり家に訪れるようになった。
両親の反応を見るに、あまり歓迎された客人ではなかったようだ。

「少ししてから乳母に聞いたのだけど、あれは大学病院の人間だったらしいわ」
「へぇ?」
「あの頃は、そんな人たちがどうしてうちへ来ていたのか想像も出来なかった。
…でも、ようやく解った」
語り続けるロザリーの視線は、カルヴァンではなく
当時の自分を見つめているのだろう。
その証拠に、彼女の真正面で対峙していても視線が合わない。
「―私の血が、欲しかったのね」
乾いた声音が、室内に響いた。


大学に調べ上げられた旧人種のデータを隠滅してしまわなければ
この先も、娘が狙われ続けることは必至だった。

どうにかしなければ
そう考えた父親は、大学側に自らを『サンプル』として差し出すことにした。
丁重に招待された先は、院内の隔離病棟。
実質、幽閉されたのである。

しかし、夫婦にとってそれはあらかじめ予測されていた事態で
敵の懐に忍び込み、内側から研究データを消失させてやろうという
彼らの目論見に合致していた。

研究者たちの度重なる採取や測定、尋問などを〝こなす〟間に
父親はついに、旧人種のデータが保管されている研究棟を発見する。
そして、面会に来た妻と共に
研究棟に火をつけた。

「―それって、もしかして…」
カルヴァンは思わず、ロザリーの言葉をさえぎって聞いた。
「覚えているかしら。当時、割と大きな報道になったから」
「6年前の大学病院の火事…火元も犯人も、被害者さえ不明って騒がれたヤツだね?
…ああ、覚えてるよ」
「平穏な街に起きた、随分とセンセーショナルな事件だったものね。
―でも私、この頃の記憶にずいぶん頑丈な蓋をしていたみたい。
今朝、夢を見るまで忘れていたわ」

その当時、そして今でも引きずる傷の深さが計り知れない。
カルヴァンは、ロザリーが抱える闇と『宿命』にいたたまれない気持ちになる。
同情よりも、恐怖が勝った。


ロザリーの両親が放った火は院内の一棟を全焼させた後、消し止められた。
地上階に保管されていた研究書類や資材はすべて消失したが
地下に保管されていた分は、多少すすける程度で残されていた。

彼女の両親が、命を賭して消し去りたかった旧人種の資料も後者にあたる。
結局のところ、彼らの『計画』は 失敗に終わってしまったのだ。

ロザリー自身は、両親が焼かれた病院の炎を見ていない。
覚えているのは
騒ぎ出した警察やメディアや近隣住民が
彼女の家を取り囲んでいた、悪夢の様な光景だけだ。

「―事件後、途端に報道は厳しく規制された。
今はもう、当時の記事や資料に詳細はほとんど残っていないはずだわ。
残っていないけど…
あの時はマスコミも世間も、うちが絡んでいるって解っていたのよ」

ココは大きな街だ。東側と西側では、情景も情勢もだいぶ違う。
当時のカルヴァンは事件自体を知ってこそいたが、
そんな裏側の事情まで気にするほど興味も関心も無かったのが正直なところだ。
「まさか、また
こんな悪夢を思い出す羽目になるなんてね」


<Bloody>

誰もいない自分の部屋に戻り、ブラッディはひとまずほっと息をつく。
部屋に入るのは、あの夜以来だった。
ロザリーを襲った、あの夜だ。

もしかしたら同士として
もしかしたら、理解し合えたかもしれない。
実際、ロザリーの方にはその感情が見て取れた。
もちろん、彼女自身は気づいていないだろうが。

問題なのは、自分の方だ。

錆びかけていた厄介な本能が
やはりまだ、己のうちにこびりついていたのだと思い知った。

自らの血の色は、変えられない。

彼女とて、それで悩み苦しんでいた。

暗くなり始めた部屋の中で、彼はぼんやりと窓の外を眺めた。
そして、断片的に思い出していた記憶を頼りに自分の考えを整理しようと試みる。

大学時代、講義室で聞いたエディの話
アレックスの研究と狙い
かつて、仲良く学んでいた兄弟が道を違え
兄の暴走に気付いた弟は、親友に助けを求めた。

「兄さんを救ってくれ。こんなこと頼めるのは、お前しかいない」

しかしその後、エディはブラッディに詳細を話すこともなく
しばらくは何事もなかったかのように、日々は過ぎていった。
大学を卒業し、エディはブラッディとの夢だった店を持ち
最愛のルカと夫婦になり、カルヴァンが生まれた。

うっすらとした懸念を残しつつも
ブラッディは、幸せそうなエディとルカを見て
静かに、街から姿を消した。

吸血人種はある程度の年齢に達すると、歳を取らないように〝見える〟。
老いていない訳ではないが、彼らの寿命は通常の人間よりもはるかに長く
その老いのスピードも極めて遅いのだ。
はた目には、全く歳を取っていないように見える。

だからこそ、彼らは一定期間以上同じ土地に留まってはいけない。
ブラッディも、先人の教えに則り
住み慣れた街を後にする決意をした。

もう二度と帰るまいと思った彼の足を再びこの街に向けさせたのは
あの時聞いた、友人の切実な言葉が忘れられなかったからだ。

幸せそうに見えた当時ですら、エディはきっと
ずっと悩んでいたのではなかったか

何故、あの時に気付いてやれなかったのか
ブラッディには、今も贖罪の気持ちが拭えない。

エディの一家と再会した一年後、ルカは病に倒れ
エディ自身はその翌年に忽然と姿を消した。
カルヴァンはまだ、中学に上がる前だったと記憶している。

後年起こった街の大きな事件を、再び訪れた図書館で漁った古新聞に見つけた。
初めに目を通した時には、見落としていたくらいの小さな記事だった。
確かな事が書かれていた訳ではなかったが、確信した。
そこに関わっていたのは、あの『兄』と『少女』の家族。
恐らくこれは、赤い血を巡る事件だったのだろう。

ブラッディは、再び動き出した。


<Jethro>

くたびれたジャケットを羽織っていては気後れしてしまう程の立派な屋敷を見上げて、ジェスロは大きく息をついた。
…留守か

屋敷以上にいかつい門構えは、おいそれと他人を受け入れない威圧感を感じさせる。
家人がいない現在でも、それだけは衰えていない。
刑事は空しさと切なさを感じ、やがて踵を返した。

資産家ウィロウズの家には、一人娘が生き残っていた。
当時捜査に関わっていた同僚に聞き出し訪ねてみたが、元よりあまり期待してはいなかった。
当時、大きな事件となった大学病院の火事
娘の両親はその事故に巻き込まれて死んでいる〝はず〟だ。
しかし、一家はその前から大きな問題を抱えていた。

一族は、旧い血を受け継ぐ『旧人種』であったということ
それが、世間に知れ渡ってしまったということである。

人類の血が、元は赤い色をしていたという事実を教わったのは
ジェスロが警察になってから
あるいは、この事件が起こったことで知ったのではなかったか。
まことしやかに囁かれる『都市伝説』並の荒唐無稽な話だとして、
当時の彼を含めたほとんどの捜査員が鼻先で笑って聞いていた。

現在、街の西側の住宅街はだいぶ廃れてしまい、現住する人間の数は減っている。
旧来の土地の人間はほとんど残っていないようだ。
古い地主の家が多かったようだから、大方死に絶えたと言っていいだろう。
当時はまだ賑やかで格式ばったこの地域に、一族の秘密が明らかになってしまったのだ。
スキャンダラスな話題や
異端を忌み嫌う住人たちの仕打ちは想像に易い。
近隣から迫害を受け、その後に両親の事故死
そうして、娘は独り残された。

辛い思い出ばかりの家に住み続けているとは思っていなかったのだが
念のために覗きに来てみて、意外な手がかりをつかんだ。
家は留守にしているが、長年住んでいなかった訳ではなさそうなのだ。
人が住まなくなると、家と言うものは自然と寂れていくものだが
少なくともそういった雰囲気は見て取れず
ほんの何日かの間、外出しているくらいに感じられた。

と言うことは、娘はまだ生きてこの街に居る

長年の刑事の勘を、培われてきた観察眼が後押しする。
ジェスロは内ポケットから煙草を取り出してくわえ、東の繁華街に向かって歩き出した。

12 the Next Step

<the Library-2>
通い慣れた中央図書館への道を進む足取りは、心なしか重く感じた。

それでも、ルーシーの気持ちは変わらない。
というより、麻痺していると言うべきか。

歴史や神話の類を好んで読んでいた。
おそらく、此処の蔵書のほとんどを読みつくしている。
今とは違う別の時代や世界に羽ばたけるような気がして、夢中になって読んでいた。
今、これっぽっちの魅力も感じていない。
ヨーロッパ史の書棚を物色する素振りをしながら、彼女は『目的』を果たすべくゆっくりと歩いていた。

アレックスから、データとは別に写真も預かっている。
白い肌、赤みのさした金髪、碧い目…この子もまた、私が持っていないすべてを兼ね備えている。

面識のない相手に抱く恨みなど馬鹿馬鹿しい感情だ。それはただの八つ当たりに過ぎない。
解ってはいるけれど
今のルーシーには唯一、気力を保つための感情だった。

遠巻きに撮られたその写真にはその少女と共に、かすかに別なブロンドが写り込んでいる。
人だかりの間からかろうじて窺える姿は
まさに、彼女が探し求めているあのブロンドだった。

雑誌や新聞のバックナンバーがずらりと並ぶ書棚を背に
休暇を取り、晴れて自由の利く身になったダンヒルが頬杖をつきながらページをめくる。

この場所に長く居座るなんて、高校時代以来だ。
大きな窓から射し込む日差しは柔らかく、テーブルへ徐々に窓の影を伸ばす。

それに気づいて、ふと顔を上げた。
昼前の図書館は、何とも静かでゆったりとした時間が流れている。時間に余裕のある人間しか訪れない為だろう。
ひそひそと発せられる会話も、何処かのんびりしていた。

こんな緩い時間があるんだなぁ
普段は何とはなしに時間に追われ
バタバタと同僚や上司の後を追い、現場を駆け回っている。
さほどせっかちな訳でもないダンヒルだったが
警察の職に就いてからは、何処か急いてしまうクセがついた。

その中で、いろいろと大事なものを置き忘れてきたような気がする。
まったりとお茶でも飲みたい気分になった。
「…いや」
いけない。自分は何のためにこの時間を設けたのか
和んでいる場合じゃないぞ。
控えめに伸びをして、再び紙面に目を戻した。



そう言えば、少し前にブラッディもこうやって古新聞を漁っていたわね
向かい側で同じようにページをめくっていたロザリーは思い出す。
彼と出逢って間もない頃だったろうか
何だか、随分と遠い昔の記憶のようだった。

自分にも出来る事はさせて欲しいと訴え、ダンヒルについて図書館に来た。
書物に書かれていた事柄と関係のありそうな話題が過去になかったか
とりあえず、街の古い事件を洗い直そうと言う事になった。
「何か引っ掛かる記事があったら、教えて」
そう言って、ダンヒルはロザリーの向かい側に座った。
「嫌になったら、別なモノを読んでも構わないからね」
そう付け加えられると、
「失礼しちゃうわね」
ロザリーは何となく子供扱いされた気がして、ダンヒルを睨んだ。
「飽きっぽい子供と一緒にしないでくださる?」
「ああ…、ゴメン」
自らの辛い過去に関わる事でもあるし
無理はさせたくない意味合いも込めての気遣いのつもりだったが、どうやらそうは伝わらなかったようだ。
ロザリーが自分よりもだいぶ年上の青年を見上げる。
その視線の強さに、ダンヒルは完全に負けていた。
くたびれたジーンズと黒いTシャツ姿のダンヒルは、どう見ても大学生くらいの風情だ。
更に、中身は彼女よりも幼く感じられる。

「じゃぁ…、宜しくね」そう言って頭を下げると
決まり悪そうに短髪をかきながら、そそくさとロザリーの元を離れた。

―居た。
隣の雑誌エリアに写真の少女を見つけ、ルーシーは息を飲んだ。
直後、何故だか胸のあたりに痛みを覚えた。

見た所、周りにブロンドの姿はない。今日は独りで来ているのか。

少しだけ複雑な気持ちになったが、すぐに切り替えた。
生ぬるい感情は、もう自分には必要ない。
書棚の影から出て少女に近づこうと足を踏み出しかけた時

どん
と、正面から誰かとぶつかった。

―いけない。
「…ごめんなさい」
視線も上げずに謝罪する。彼女の頭上から涼やかな声が答えた。
「こちらこそ」
「…」その声に聞き覚えがあるような気がして
ルーシーは改めて、顔を上げる。

「…あ」
それは、たった一度逢っただけでも忘れられなかった眩しいブロンド。
あの時とはだいぶ格好が違っていたが
それでも、間違いない。

見切れていても、さっき写真で確認した
あの、天使だ。
「おや。また、お逢いしましたね」
彼の流れるような所作と笑顔は、彼女が恋い焦がれたそのものだった。

冗談めいて、ブラッディは続ける。
「今日は、どの本をご所望ですか?」

『タルカス』に一人残って、通常営業をしているカルヴァンもまた 
接客をしながら思考を巡らしていた。

父が書き残したのであろうあの書物の事を
ずっと、考えている。

父と叔父が、あの頃進めていたのは『ある研究』と『実験』だったらしい。
2人が造り出した『薬剤』の効果を試すため、実験台となった人物がいた。

おそらく、今世間を騒がせている〝吸血鬼〟はこの『被験者』なのだろう。
父たちが造り出したかったのは、人類の天敵となり得る『吸血人種』の存在だった。
実験はある程度順調に運び、人工的に作り出されてしまった吸血人種が捕食を始めた…
そう考えるとしっくりくる。

ブラッディではない、だが彼と同じ性質をもつ人間を造り出した。
目的は、増えすぎた人口を減らすため。人間を捕食させるため。

カルヴァンはずっと、あの優しい友人が何を悩み
苦しんでいたのか知っている。
自分が生まれる前から親しかっただろう彼の父親が
その苦しむ姿を、見ていないはずがない。
それを知った上で、彼の苦悩を糧とするような〝異形の者〟を生み出したと言うのか。
―あまりにやりきれない。
怒りよりも、悲しみと悔しさが込み上げてきた。

同時に、その得体の知れない異形の者の存在に気付いた自分たちに
一体何が出来るのだろうと困惑した。そして、恐怖心。

カルヴァンには更に、あの書物から読み取れた重大な要素があった。
一見して筆者が『被験者』を観察しながら書かれたもののように思えたが、
その文章は次第にたどたどしくなり、少しずつ〝理性を失っていた〟ように感じられた。
整然とした、父らしくない文面に思えた。
失われていく理性をかろうじて保てる時間に必死で綴った文章
そんな印象を受けたのだ。

あの書物の著者が間違いなく彼の父親なのであれば…
当時、自らが実験台となったのではないか。


母親が亡くなってから、父親は忽然と姿を消した。
高校を卒業したカルヴァンが
経営者のいなくなったこの店を引き継ごうと決め、再開させた。

今もって、父親の消息ははっきりとは分かっていない。
もはや生きているとは思っていなかったが
もしかしたら、この書物を読み解く事で
父の末路もまた 明らかになるのではないか

そう、考えていた。

今更、どうでもいい事ではあるが
生まれてきた者として、父には感謝している。
息子として、遺された家族として やはり真実は把握しておくべきだろう。
それと
こんな事態が起こってしまったと分かれば、あの友人はひどく悲しむはずだ。
いや、もう既に知っているのかもしれない。

自分の存在が
『その研究』を進めさせるきっかけになってしまったと
既に落胆しているかもしれない。


街の昼休みも終わりに近づき、客足も途絶えた。
給仕にテキトウに片付けて上がるように伝え
洗い物を終えた彼は、店の扉に『closed』の札を下げた。

「すまないけど、今晩は休むね」
給仕は怪訝そうな表情をしたが、何も問わず了解して店を後にした。
店主の気まぐれは、何も今に始まった事では無い。
その姿を見送って
カルヴァンも図書館へ向かうべく 店の扉に鍵をかけた。


<the Footsteps>

「嬉しいなぁ。貴女にもう一度お逢い出来るなんて。これも何かの縁でしょう。
もし宜しければ、少しお茶でも如何ですか?」
流麗な語調で誘われれば、もちろん嫌な気はしない。
まして、相手は ルーシーがずっと忘れられなかったブロンドの天使だ。
願ったり叶ったり、というヤツだろう。
「え…ええ」
それでも、当初の目的を忘れた訳ではない。横目で標的の少女を見据えていた。

どうせ今日も、あの子と一緒に来ているのだろう。
ならば、ここは誘いに乗る方が一挙両得じゃないか。

「いいですよ。
私も貴方とお話してみたいと思っていましたから」
そうして、笑顔で応えた。


書棚の影になって、ブラッディの姿はロザリーからは見えない。
常に彼女の死角を探しながら、彼は〝ルーシーを探していた〟。
今日の〝狙い〟は、他でもなく彼女なのだ。

ルーシーを誘いながら、期せずしてロザリーの動向も確認出来た。
向かい側に居る青年と共に、古雑誌や古新聞を読み返している。
青年の方は、カルヴァンが言っていた『刑事らしき男』だ。
あの面影も覚えている。
市警のダンヒル家の長男坊だ。父親の名を継いで、確かロバートと名乗っていた。
あの坊ちゃん、ちゃんと刑事(デカ)になれたのか。
今でも若干幼さが残り、刑事としては頼りなさを感じてしまうが
それでも、自分が面倒を見ていた頃よりはずっとしっかりした面持ちだ。
ブラッディはそう思い、目を細めた。

どうやらロザリーは『タルカス』にたどり着き、無事カルヴァンに会えたようだ。
今は彼らなりに、何か思う所があって行動しているのだろう。
あんまり首を突っ込むなと言いたいところだったが、おそらく
今此処で自分の姿をさらす方が危険だと思う。

とりあえず、カルヴァンに任せよう。

あ!

図書館の入口までさしかかり、入れ違いに入館しようとする人の流れの中に
カルヴァンの姿があった。目が合った。

相手は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに消した。
ブラッディが人差し指を唇にあてて、サインを送る。
カルヴァンは頷きもせず、ただ 眼だけで返事をした。
心得ている。
ブラッディは、物分かりのいい友人に心から感謝し
ブロンドを揺らして、外へ出て行った。



昼下がりのセントラル・パークを抜け、カルヴァンは早足で図書館に辿りつく。

「!
ブラッディ…」
思わず声を出しそうになるのをぐっと堪えたが
驚いた表情だけは、向こうにも気付かれた。
目が合ったブラッディは、サインを送ってきた。

彼は誰かと一緒だった。見た事のない、漆黒の髪色の女性だ。
カルヴァンは視線だけで了解の意図を伝え、素知らぬ顔で中に入って行く。
…ロザリーが見てなきゃいいけどな
そんな事を考えながら。


ブラッディは、図書館併設のカフェを使わず
敢えて通りの向こう側に渡り、適当な店を探した。
「―ココで如何でしょう?」
軽やかに笑顔を向けられ、ルーシーは自然と胸が高鳴る。
促されるまま、外に連れ出されてしまった。
少しだけ後方の図書館を顧みたが、目先の〝欲〟には勝てない。
「…ステキなお店ね」
彼女もまた、笑顔を揺らして答えた。


予想に反して、天使は独りで私を誘った。
躊躇いはしたものの、本当は 彼女もそれを望んでいたのだ。
いくら『目的』があるとはいえ、別の女の子と共に語らう天使を見たいとは思わない。

「良かった。実はね、以前前を通りかかった時から一度入ってみたいと思っていたんです。
こんなきっかけを待っていました」
天使の台詞は何処か気障だったが、それも板について様になっていた。

図書館の入口から一番近い場所が、新聞や雑誌のエリアだ。
カルヴァンはすぐにロザリーの姿を見つけ、向かい側に居たダンヒルも確認出来た。

「やぁ、ごめん。遅くなった」
ロザリーの後方から声を掛ける。
ぴくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る彼女を見て
驚かせたかな…と申し訳なく思うと同時に、
何処かで見たような情景がふとよぎった。
…あれ?

「いいえ、全然。お店はもういいの?」
相手を確認して安心したのか、ロザリーは人懐こい笑みを向ける。
「…ああ、ひと段落ついたからね。夜の営業は休みにしたよ」
少女の笑顔を見て、かすかに浮かんだ記憶が沈む。
向かい側のダンヒルも、顔を上げていた。
「ちょっと、休憩しないか?」
カルヴァンがテラスの方を見やり、2人にそう言った。
「いいね」
待ってましたと言わんばかりにダンヒルが伸びをして、応えた。

2人の後ろをついて行く形で、カフェへ歩きながら
カルヴァンはもしかしたら…と思いを馳せる。

この少女は何処か、自分の母親に似ているような気がする
もしかしたら
あのブロンドの旧友も、同じような印象を受けていたのではないだろうか。



「親父の記録を読み進めてみたら、いろいろ解ってきたよ」
うららかな昼下がりの陽光を浴びるカフェのテラス席で
カルヴァン、ダンヒルとロザリーの3人が話し合っていた。
雰囲気だけは軽い談笑であったが、その内容はかなり深刻なものである。
「へぇ!あの文章、最後の方で支離滅裂な部分があって
理解出来なかったんだけど」
ダンヒルが声を上げた。

件の書物は、前半部分で人間は『旧人種』と『新人種』が存在するという説明がなされていた。
後半部分は著者の個人的な記録が主だったが、一部で意味の通らない単語が並んでいる部分があったのだ。
もっとも、ダンヒルにとっては自分が『新人種』であるという事実さえ初耳であり
衝撃的な内容であったのだ。
カルヴァンは手帳をひらひらと掲げ、もったいつけるようにニヤリと笑った。
「まったく、こいつに出逢わせてくれたジュニアには感謝するよ」

父親と同じ名を授かり、警察でもそうされるように
カルヴァンは彼を〝Jr.(ジュニア)〟と呼ぶことにした。
いつまでも父親の影を引きずるようでダンヒル自身は気に食わないのだが、他に適当な呼び名も思い当たらない。
ミドルネームをさらすよりはマシか…と妥協している事を、カルヴァンはまだ知らない。

そう言えば、ブラッディは俺の方を〝ロバート〟と呼んでいたな
ふと昔を思い出し、そのまま過去へ吸い込まれそうになるダンヒルを
少女の声が呼び戻す。
「ダンヒルさん、どうしたの?」
〝Mr.(さん)〟づけされるのは、くすぐったい。
「ああ、何でもない。…それで、何か新しい事が判ったのか?」
気品に満ちたロザリーの視線を避けるように、ダンヒルはカルヴァンに話を振った。
どうにも、お嬢様にはまだ馴れないのだ。

「うん…
けど、話をするには場所が悪いな。続きは店に戻ってしよう」
「もったいつけるなぁ」
あえて、ダンヒルがおどけて言うと
カルヴァンもロザリーもつられて笑った。

そんな軽い話で済まされるはずがない事は
カルヴァンだけでなく、他の2人も充分承知している。

明るいアーケードの通りから一変し、その店内は薄明かりの落ち着いた雰囲気だった。
静かなジャズが流れている。
何だか異空間に連れて来られたみたいな印象を、2人ともが受けた。

「お待たせ致しました」
品の良いウエイターが、コーヒーと紅茶を持ってきた。
「どうもありがとう」
ブラッディも笑顔で応える。

「…今日は、お一人でしたの?」
少しの沈黙の後、ルーシーは思い切って聞いた。
「ええ、そうですよ」
すかさずブラッディが答える。それに合わせてブロンドが揺れた。
彼の視線が、ルーシーを直視する。
夢じゃないかと思う時間だった。
「貴女は、今日はお仕事ではなかったのですか?」
彼の何気ない一言で彼女は我に返った。
考えれば今日は平日だ。そんな質問が出ても不思議はないだろう。
彼女はあの男との『契約』を交わした後、一切の仕事から身を引いた。
勿論、彼女自身が警察へ連行された事は既に知られていたので
それぞれの職場の方でも、驚くほどすんなりと了承された。

「…ええ」
動揺を悟られないように返事をする。
彼女の様子に気づいたかどうか、ブロンドの天使は相変わらず笑みを携えて頷いた。
「そうですか。
前にお会いした時は、何だかとてもお忙しそうだったので…
不躾なことを聞いてしまって、申し訳ない」
「…いえ、気にしないで」
実際、話をするのは初めてのはずだ。
なのに、何だか全てを見透かされているような そんな気がする。

「ところで」
一口、コーヒーを飲んでブラッディは改めて切り出した。

「貴女、アレックス・クラインと言う男に
会われませんでしたか?」

13 the Witness

<TARKUS>

「いらっしゃいませ」
昼のピークもだいぶ落ち着き、山積みの食器を洗っていたカルヴァンは
給仕の呼び声で顔を上げた。「…あれ」
その顔に、見覚えがあった。
「まだ、いいかね」
くたびれたジャケットと無精ひげ、白髪の多さと顔のしわの深さが人生の年季を感じさせる。
そう言えば聞こえはいいだろうか。
ダンヒルが連れてきた、刑事だ。
「どうぞ。昼の営業はあと30分ほどなので、作れるものが限られてしまいますが」
カルヴァンは笑顔で答え、濡れた手をさっと拭き彼に席を指し示す。
彼は右手を挙げて応じ、給仕に案内されカウンターに腰掛けた。
「今出来るもので、一番簡単なものをくれ」
「かしこまりました。何か飲まれますか?」
「酒じゃなければ、何でもいい」
そりゃそうだろうな、とカルヴァンは苦笑したが客には気付かれなかった。
「少々お待ちください」

「ああ、遅くなってしまったわ。ごめんなさい」
パタパタと足音が降りてきて、ロザリーが慌てて店内に入って来た。
カウンターにいた客に気付いて、更に慌てて謝罪する。
「―!ごめんなさい。私、てっきり誰もいないかと」
大儀そうに振り返る客人と目が合った。怖そうな人だ。怒らせたかしら…
「失礼しました」
カルヴァンがすかさずフォローする。
「構わんよ」客人は向き直ると、興味無さげに答えた。
「…禁煙かな」
「いいえ。ああ、これは気付きませんで」
カルヴァンが言うか言わないかのタイミングで、給仕が灰皿を差し出した。
その行動の速さには彼も驚いたようだった。
「…どうも」

「ロザリー、おいで」
だがカルヴァンが彼女に呼び掛けると、客は更に驚いた様子で大きく反応した。
先まではまったく関心を持たれていなかったはずの、少女に再び向き直る。

「ロザリー…
お嬢さん、アンタもしかして…ロザリー・ウィロウズか?」
「?!」
今度はロザリーとカルヴァンが弾かれたように目を見張る。
2人は一瞬目を合わせた後、カルヴァンが頷いた。
「…ええ、そうです」
「彼女に何か御用ですか?―…刑事さん」
ロザリーが答えた直後、カルヴァンが言葉を挟んだ。
それは、彼女を守る親のようにも見えた。
「…」
少しの間、店内には何とも言えない沈黙が流れた。
お互いがお互いを牽制し合うような沈黙。
ふと客人が口の端だけで少し笑い、重たい沈黙を打ち破る。

「いやこれは、不躾で申し訳ない。私はジェスロ・フィリップ警部補。
ある事件の捜査をしているんだ。その参考になるかもしれない…
ロザリー〝お嬢様〟に少しお話を伺いたい」

カルヴァンが昼の食材の残りで作ったのは、魚をメインにした丼ものだった。
残り食材で作ったとは思えないほど豪華で味も抜群だった。
「こないだ来た時も感心したが、アンタ料理のセンスが最高だな」
「恐れ入ります」
にっこりと応えるカルヴァンに恐縮する様子は感じ取れなかったが、それだけ自信があるのだろう。
もっともこの腕を魅せつけられては、ジェスロも文句を挟む余地が無い。
食後に濃いめのグリーンティを出された。
お茶を出したのは、ロザリーだった。「どうぞ」
「―ありがとう」
ジェスロは一口すするとほっと一息ついて、ジャケットの内ポケットを探った。
だがすぐに思い直したようで、煙草に火をつけることはしなかった。

カルヴァンは給仕に上がるよう命じ、彼も承知して一礼すると静かに退室する。
店は昼の営業を終えた。
ロザリーは心持ち緊張した様子で、ジェスロの脇に立ち尽くしている。
「…どうぞ。俺が言うのも何だけど」
隣の席を勧められたので、ロザリーも座った。

「ロザリー、君は今いくつだい?」
「16です。そろそろ誕生日が来るので、17になりますが」
「そうか、それはおめでとう。じゃぁ、君はもう立派な大人だ。
…私の質問に答えられるね」
刑事の眼は、まっすぐに彼女を見据えていた。
覚悟をしなさい、と言っているように聞こえた。
「―はい」
返事と共に、ロザリーは決意を新たに固めた。

「君を一人前の大人だと判断し、私も刑事として仕事をさせて貰う。
私の言う事に異議や不快感があれば遠慮なく言ってくれ」
「…はい」
強面の刑事は、意外なほど丁寧にロザリーに接していた。
ロザリーは、ジェスロに対して絶対的な信頼感を感じていた。
この人は、興味本位で私を辱めたりしない
でもきっと、これから私に発する言葉は
私にとって最も辛い部分に触れるものなのだろう…そう悟った。

「僕は、席を外しましょう」
カルヴァンが言うと、ジェスロは止めた。「いや」
「アンタも聞いてくれ。
これは、〝アンタ達〟に関わる話になる」


表通りに面した扉には『CLOSE』の札が出され
これから夕方までの間、『タルカス』は街の視界から消える。
通りを行き交う人々の目に、店の存在が認識されないのだ。

店内には少し重たい空気が流れていた。

「まず確認したい。
私はあまりボキャブラリーが豊富でないから、単刀直入で申し訳ないが…
ロザリー、君は『赤い血』の持ち主だね?」
濃い緑茶を飲み干して、ジェスロが心持ちゆっくりと穏やかに切り出す。
ぶっきらぼうな言葉の彼が出来る、精一杯の気遣いなのだろう。
予測はしていても、核心をつく質問に
ロザリーは瞬間息を飲んだ。
「―…はい」
静かに、だが大きく頷く。
彼女の返答を聞いたジェスロも、呼応するように頷いた。
この気丈な娘を少しでも傷つけぬように
老齢の刑事はいつにも増して、慎重に話を進めようと試みる。
カルヴァンには、ジェスロの配慮がよく解っている。
そして、感謝していた。

「6年前の事件のことを、少しでも覚えているかい?」
ジェスロが聞くと、ロザリーは少し表情を歪めた。
「いえ…
当時、私は『自分の血』の事を知らされたばかりでとても動揺していました。
あの頃から、私の周囲が騒がしくなり始めて
少し…いえ、だいぶ 自暴自棄になっていたと思います。そのせいか、事件の前後のことはつい最近まで忘れていました。
きっと…私自身で記憶に蓋をしていたんだと思います」

彼女の表情が歪んだのは、何かを思い出したのではなく
この時の記憶をどうにかして思い出そうとしているのだと、カルヴァンは察した。
彼女にとって、この記憶はもはや客観的な過去の事象として
捉えられているのかも知れない。
それに気づいている訳ではないのだろうが、
ジェスロは幾分か軽い口調で質問を続けた。

「事件が起こる前に、ご両親を訪ねる人があったろう?
…それは覚えているかな」
「細かなことは覚えていません。
とても怖い大人たちだったという印象しか残っていないんです。
当時、仕えてくれていた私の乳母に
あれは大学病院から来た人間だと、後から知らされた程度です」

ロザリーの返事を聞くと、ジェスロは次の質問を口にする。
その時、何故かちらりとカルヴァンを見た。
「なるほどね。
では、この名前も恐らくは聞き覚えのないものかと思うが…

『アレックス・クライン』と言う名前は、聞いた事はなかったかな」

「!!」カルヴァンは全身が総毛立った。
だから、刑事は俺をこの場に残したのか…
ロザリーは首を傾げた。
「…さぁ?」
ジェスロもその返答は予想通りだったようで
さらりと流した後で、カルヴァンに向き直った。
「―アンタには覚えがありそうだね」
「…」

「捜査本部はまだ繋げていないが、俺は今回のヤマに6年前の事件が絡んでいると睨んでいる。

その、重要参考人ともいうべき人間がアレックス・クライン―
カルヴァン…、アンタの叔父さんだ」


「アレックス・クラインは秀才‥いやある種の天才と言ってもいいかも知れない。
当時、まだ他の研究者が手をこまねいていた『血液』の学問を充分に理解していたんだ」
相変わらず静かで重たい空気の店内で、刑事のジェスロだけが口を開いている。

自分たちの内に流れる血の成分から始まり
赤い血を持つ『旧人種』の存在、その血を糧とする『吸血人種』の存在。
彼の研究はそこまでの範囲を網羅していた。

「ロザリー、『吸血人種』の存在を聞いたことは?」
ジェスロはおもむろに質問する。
その質問に、ロザリーばかりでなくカルヴァンも反応した。
老齢の刑事はもちろん見逃さない。
しかし、気付かないふりをした。
「…ええと…、いえ…」
自らの事を問いただされる覚悟は出来ていた。だが、この質問を受けるとは予想していなかった。
警察はそこまで解明してはいないだろうと、半分は期待も込めて考えていた。
ジェスロは彼女の様子をじっくりと観察し、静かに 極めて優しく諭した。
「隠さなくていい。俺は今、オフタイムだ。
ココで君に聞いた話を捜査会議に出そうとは思っていないよ」
完全に信じ切る事は出来なかったが、この刑事ならば真摯に対応してくれるような気もしていた。

ロザリーは、カルヴァンに視線を移した。
カルヴァンはしばらく考えていたが、ひとつ息をついて
「…ロザリー、本当のことをお話し」
と答えた。後押しの意味も込めて、大きく頷く。

どのみち彼女の態度を見れば、ジェスロにはその場でつくろう嘘などすぐ見破られる。
ダンヒルと組んで動いていた人だ。ならば…イチかバチか
本当のことを話してこの刑事も巻き込んでしまえばいい、そう思った。

カルヴァンの後押しを受けてロザリーの表情も一変し、改めて答える。
「…私が『赤い血』の事を知らされた頃、祖父母に聞きました」
「そう…なら、話が早いな」
ジェスロが一人納得した様子で頷き、ひとつ息を吐く。
カルヴァンは彼の前に2杯目のお茶を置き、ロザリーの前に紅茶のポットとカップを差し出した。
ロザリーは、順番に2人の大人の顔を見た。
カルヴァンは微笑んで彼女を見返し、老刑事は彼女の視線をまっすぐに捉え、どうぞ…とでも言うように手を差し出した。

恐らく、此処から核心に触れる。ロザリーは震えそうな両手に力を込めて、温められたカップへ紅茶を注いだ。
熱いお茶を口にして、気持ちを静める努力をする。
少しの間、沈黙が流れる。

それぞれの心の準備が出来た頃合いを見計らい、ジェスロが淡々と語り始めた。
「その昔、生物の血液は生命活動を維持するために重要な役割を担っていた。
生物…特に人間は、自らの知恵と経験により科学や医学を発達させ
結果的に様々な『外的要因』の助けによっても、生命活動を健常に保てるようになった。
しかし『外側』の発展のお陰で、人間は自身で『生命維持する能力』が衰えつつある。
我々…俺とカルヴァンだが…が抱えている血液には、
水分を保つ以外に大した重要性も無いのが現状だ。

『吸血人種』ってのは、赤い血液の〝高い栄養素〟を糧として生き長らえてきた種族であって
赤い血が無ければ奴らの食糧も無くなるって事になる」
〝食糧〟を思わず〝エサ〟と言いそうになるのを、ジェスロは寸前でこらえた。

「『吸血人種』が絶滅しかけている大きな要因はそれだけではないようだが、
人間の血液の〝弱体化〟ってのも少なからず影響しているはずだ」
刑事の言葉をカルヴァンは聞き逃さなかった。

今、この刑事は「絶滅〝しかけている〟」と確かに言った。

「大っぴらにはされてなかったが、過去の人間には『天敵』って存在がいたんだ。
数多く語り継がれる異形の怪物たち…
他のものはともかく、『吸血鬼』ってのは伝説や迷信ではなかった。

アレックス・クラインは、新しい人間に対応できる『天敵』を造り出そうとしている…
いや、確実に造り出している。もっとハッキリ言えば、新しいタイプの『吸血人種』を人工的に造り出して増やそうとしている。
ヤツのぶっ飛んだ発想は一体何処からきたのか、俺はそれが気になった。
もしかしたら、過去の〝伝説〟に何らかの信憑性を見出しているのではないか?

もしかしたら、実際にその人種の存在を〝知っている〟のではないのか?
だからこそ、荒唐無稽な研究に絶対的な自信を持って打ち込めるのではないか…」

そこで初めて、カルヴァンが口を挟んだ。
「…勿体ぶりますね、刑事さん」
ジェスロがギラリとした視線を彼の方へ向ける。
「…ジェスロ、でいい」
そう言うと、彼の眼光から鋭さが消えた。彼の言葉は、何処か自制するようでもあった。
カルヴァンにもその意図は伝わったようだ。
「了解しました、ジェスロ。
その口ぶりからして、貴方もとうに気付いているのでしょう?
『吸血人種』の最後の生き残りの存在を」

「!」ロザリーが弾かれたように肩を震わせた。
大人2人のやりとりは何処か殺伐として、喧嘩でも起こりそうな雰囲気をまとい始めている。
彼女は怖くて、震えていた。
が、老刑事の答えは極めて柔らかく
その場の空気を緩和させるものであった。

「‥いや、試すような真似をしてすまない。俺は別にアンタ達にケンカを売りに来た訳じゃない。
むしろ、俺が出来る範囲でアンタ達に協力したいと思っている」
「…?」
ロザリーとカルヴァンは、互いに顔を見合わせた。「どういうことですか?」
その質問には答えず、ジェスロは次の質問をかぶせてきた。

「…ロザリー、君は『吸血人種』の生き残りが居ることを知っているね?」
「え…」戸惑う彼女をよそに、今度はカルヴァンの方へ問いを投げかける。
「その生き残りは、ついこないだまでココに出入りしていたね、カルヴァン?」
「!!」

「俺は赤い血でも無けりゃ吸血人種みたいな長生きもしていない。
〝生物〟としてはまだまだ〝ひよっこ〟の人間だ。
けど、ひよっこなりに 刑事としては割と経験値を積んでるんだぜ」


<Dunhill>

ダンヒルが『タルカス』の店内に入ると、予想外の人物を見つけて無意識に体を強張らせた。
それは、よく知っている背中だった。
「え…、ジェスロ?」
「よぉ、若造」
振り返った老刑事が、口の端だけを歪めて複雑な笑顔を見せた。

店内へ入るダンヒルへ、ロザリーが駆け寄ってきて「お帰りなさい」と声を掛ける。
言いようもないくすぐったさと共に、鼓動が早くなった。
ごまかすように「ああ、うん」とだけ答える。
「不愛想だなぁ、ジュニア」
カルヴァンが苦笑して言った。
「うるさいよ」ダンヒルはひと睨みして一蹴する。

カウンター席に腰掛けていたジェスロの傍へ寄って、声を掛けた。
「何かあったんですか?」
「まぁ、いろいろとな」
ジェスロは答えて、カルヴァンと顔を見合わせる。
「結託したんだ」
カルヴァンが言葉を繋ぐと、ダンヒルは驚いて自分以外のメンバーの表情を窺った。
それぞれが事情を承知している、そんな表情をしていた。
自分が留守にしていた間に随分と状況が変わってしまったようだ。
ダンヒルは、一人だけ置いて行かれたような気持ちになった。

それを察したのかどうか、ジェスロが落ちかけたダンヒルの肩をポンと叩いた。
「邪魔したな」そのまま、席から立ち上がって歩を進めた。
「お帰りですか?」ロザリーが聞くと、背中越しに手だけで応じた。
「老体に鞭打って、もうしばらく働いてくるよ」


「ジュニア、お前の先輩はすごいな」
カウンター席に腰掛けたダンヒルの前に軽めのビールを差し出しながら、カルヴァンが言った。
「俺たちの事も、ブラッディの事も、かなり見通しがきいている」
それを聞いたダンヒルが慌てて答える。
「―俺は、何も言ってないからな!」
「解ってるよ。お前の口から洩れたなんて思っちゃいないさ。
…ありゃ、自分の足で稼いだ情報だ。現に、お前が知らない話も彼は知っていたからな」

うんうんと一人頷きながら言うカルヴァンの様子を眺めて、自分が追う背中の偉大さを痛感させられた。
勿論、ダンヒルだってジェスロがどれだけのスキルを持った人間か解っているし、
そのほとんどが彼の長い警察稼業の中で培われたものだと言うことも、充分過ぎる程承知している。

自分の浅いキャリアで対抗出来るモノじゃない
そんな事は解っているんだ

「…ジェスロ刑事、初めはとても怖い人だと思ったわ」
やさぐれ気味にビールに口をつけるダンヒルの隣で、ロザリーが言った。

「凄みはあるんだけど、彼はとても真摯に向き合ってくれるの。
私のことを好奇の目で見ていなかった。…私を〝人間〟として、認めて話を聞いてくれたわ」
「…」
最後の言葉は、彼女が持つ体質によって受けた扱いがどんなものだったかを窺える。

「…刑事ってのは、いろんな人間を見ているからね。
体の造りがどうこうって以上の、いろんな性質を持った人間が、ひとつの事件に関わっている。
被害者も加害者もそれぞれの事情を背負って、人となりを形成してきて、事件に絡んでいる…
って言うか…

勿論いいヤツばかりじゃないし、俺なんかには理解出来ない人間性を持ったヤツに遭遇する事もある。
ただ、ジェスロはそういう時も一人ひとり、ちゃんと腰を据えて 目を合わせて話を聞く
…だからこそ、あの人の情報は確かなものだし、誰もがあの人を信用して口を割るんだ」

「…あなただって同じよ、ダンヒルさん」
ポツリポツリと繋がれたダンヒルの話を聞き終えた後、ロザリーは静かに答えた。
「私…あなたの上司の人だから、ジェスロ刑事を信じてみようと思ったの」
「…え?」
聞き返したダンヒルの困惑する顔にロザリーは微笑むだけで、それ以上言葉にして答える事はしなかった。
カルヴァンも、ただ黙って笑んでいる。

ダンヒルは言葉の真意を量りかねて、ただ茫然としていた。
けれど、彼の中で『お嬢様』に対して感じていた緊張感は
少しずつほぐれていった。


<the Witness>

50番の通りに少しずつ明かりが灯り始める。
昼の活気とはまた違う、夜の営業が始まるのだ。
いつもなら『タルカス』もまた、夜の営業に向けて準備を始める頃合いだ。

だが、今日は入口の『Closed』の看板が裏返されることはない。

店の奥で、ぼんやりとした照明をつけ
カルヴァンたち3人が声を潜めて話を続ける。

「まず、『ラスティ・ネイル』というのは薬剤のことだ」
カルヴァンは、カウンターで水割りを2杯分作って片方をダンヒルに渡した。
受け取るダンヒルが、瞬間的に刑事の顔つきをする。
「…何だって?」
今度は温めたカップに、紅茶を注ぐ。ロザリーの分だ。
ダンヒルの質問に答える前に、カルヴァンはほんの少しだけ笑顔を添えて
ロザリーに熱いカップを手渡した。
「そいつを投与することにより、〝人工的な吸血人種〟を造り出す」
「…」ダンヒルとロザリーは揃って顔を見合わせた。
「ジェスロ刑事もそんな事を言っていたけど…出来るの?」
ロザリーは、昼間会った老齢の刑事を思い出した。不穏な話に表情が曇る。
カルヴァンは、少し眉尻を下げて肩をすくめた。
「勿論、完全なものは出来ていないはずだ。
けれど、限りなく成功に近づいている『検体』が少なくとも一人はいると思っていい」
「…それが、事件の犯人ってわけか?」
「多分、ね。確証がある訳じゃない」
随分とぶっ飛んだ話だ。当初のダンヒルなら即座に否定したかもしれない。
けれども、そう考えることにより
すべての点がきれいに繋がれるような気がした。

「―この街に生まれたある兄弟は、旺盛な好奇心と向上心を発揮させ
2人で競うように勉強をした」
カルヴァンが、改めて静かに語りだす。
ロザリーは首をかしげて聞いていたが、ダンヒルにはその言葉に聞き覚えが
正確には、見覚えがあった。「それは…」

「ココに、書いてあったろう?」
カルヴァンがそう言って、手帳を示す。父親の手記の内容をそらんじたのだ。
「兄弟の兄は、進学した大学で 医学や生物学など必要な知識を次々と学んでいった
すべて、『人工的に人間の天敵を造り出す』為のものだった」
「…天敵」
ロザリーが、言葉を復唱する。
人間の血液を糧として生きるのは、天敵として申し分ない。
彼女の一族には、既に天敵と呼べる存在が居た。
「長い研究の末、ついに兄は『その薬』を開発することに成功した。
後は何体かのサンプルで実験をし、より確実なものを作っていけばいい

兄は、弟に
この研究の初めのサンプルになるように依頼する」
「…!」
カルヴァンの声音は、極めて冷静に無感情に 読み解いた事実を説明する。
意識的に感情を押し殺しているであろうことが、他の2人にも痛い程伝わっている。
静かな声が、最も辛い事実を述べた。

「それが、第一の『被験者』エディ・クライン。この書物の著者であり、俺の親父だ」
「―なんてこと…!」
少女は己の身に振りかかった悲劇であるかのように、顔を覆って声を上げた。


「親父は、叔父が在籍する大学病院の研究棟の地下にある隔離された場所で
自らを観察しながら過ごしていた。
兄である俺の叔父が、定期的に食事と新聞や雑誌を差し入れていたようだ。
それ以外の時間は、ほぼ単独でいたらしい
手記は、そこで書かれたものだろう。
サンプルになることを親父自身が望んでいなかったとすれば、どうにかして外の世界に発信したかったと思う。
藁にもすがる思いってのは、こういう事だな」

カルヴァンが坦々と語るのを聞きながら、ダンヒルは
当時エディが置かれた状況を想像してみて、軽く身震いする。

「…実際、その辺の事情や感情については何も書かれていない。
もしかすると…当人も率先して実験を受けていたのかもしれないけど」
「そんな事…きっと無いと思うわ」
小さな声で聞こえたロザリーの言葉は、しかしはっきりとカルヴァンの耳に届いた。
何処か、怒りに満ちているような声音。
「―うん」
カルヴァンが頷いて、ダンヒルも同調する。
2人とも、カルヴァンの父親を擁護しているのだろう。
そんな小さな気遣いに、カルヴァンは心底感謝した。

「―まぁ、親父なりの思惑があって この手記は残された」



青年刑事が何気なく手にした旧い書物
読み解くうちに、様々な真実が浮き彫りになってくる。

あるいはそれは、開けねば良かったと思ってしまう
パンドラの某のようなものだったかもしれない。

「変化は少しずつ訪れるようだ。薬剤が投与されると、血液中に取り込まれ
様々な反応が起こり、遺伝情報の書き換えが始まるらしい。
その変化の段階によって、徐々に理性は失われていく」
「別人みたいになるって事かしら…」
ロザリーが尋ねる。それは、昔読んだ物語の一つを連想させた。
昼間は品行方正な紳士
だが、夜になると怪物のような殺人鬼に変わるという物語。

「近いかもね。それでも、変化の過程の段階ではまだ親父の理性が勝っている時間が長い。
その間に、親父は何度か家に帰って来ていたようだ
―…家に残されたお袋に会うために」
カルヴァンはそこで、ひとつ息をついた。

「ここからは よく、考えて聞いてくれ」
カルヴァンがペンを取り、近くにあった紙ナプキンに走り書きを始めた。
「親父たちの研究が大詰めになる頃、親父はお袋と結婚した。
叔父に、サンプルになることを依頼される前の話だ」
カルヴァンの父親と母親の名前が列記され、黒い点が打たれる。
ダンヒルもロザリーも息を詰め、身を乗り出して聞いている。
「親父が投薬され、観察の記録が始まる時期が ここ
少しずつ変化が始まったという記述がみられるのが ここ」
何か所か打たれた黒い点の上に、サラサラと年号が書き込まれる。

「…俺は今年で33になる。逆算すると」
彼の声はいたって冷静だったが、
ペン先が少しだけ震えているのをダンヒルは見逃さなかった。
「エディ・クライン…親父が『ラスティ・ネイル』を投与された後に、
俺は生まれていることになる」
「―…」
確証はない。だが、カルヴァンが何を言いたいのか
2人が予測することは容易だった。

「でも…、それだけでは確実じゃないわ」
こらえきれなくなって、ロザリーが口を開いた。
カルヴァンは彼女を見つめて、ゆっくりと頷く。
「ああ。親父の〝中身〟が完全な変化を遂げた時期までは詳しく記されていない。
恐らく、その頃にはほとんど理性は残ってなかっただろうから」
「お前に受け継がれた遺伝子は、〝元の〟親父さんのものだって可能性も…
充分にあるだろ?」
カルヴァンの言葉が待ちきれない様子で、ダンヒルが先を急かした。
「…五分ってとこだな。
理性の消失と、遺伝子変質の度合いとの比較はきちんと成されていないから
薬が投与されてからどの程度で〝完全に変質〟するのか、
…そもそも、人工的に変質させた遺伝子は次世代に受け継がれるものなのか
…何もかもが、未知数だから」

「―それに、お母様の遺伝子との関係は?
私たちは、父親と母親の情報を半分ずつ貰うのよ」
自分たちの〝常識〟を確かめるように、ロザリーが言う。

「解ってるよ」
カルヴァンは彼女をなだめるように微笑んだ。
ロザリーには、その笑みがこの上なく切ないものに見えた。
「ロザリーの言う通りだ。
仮に変質遺伝子が俺の中に受け継がれたとしても、必ずしも発現するって確証もない。
けど、俺にはもう一つ〝厄介〟なものが…こっちは確実に受け継がれているんだ」
「厄介な…って?」

カルヴァンが、もう一度柔らかな笑顔をロザリーに向けた。
先のものとは少し違う。

「―俺のお袋は旧人種のクオーターだ。
…つまり4分の一、赤い血が混ざっている」
「…」
ダンヒルもロザリーも、それは初耳である。2人とも、目を見張った。
「それって…」
「君と同じ『赤い血』が、俺にも流れているってこと。
もっとも、俺の場合『色』には表れていないし、4代目だからだいぶ薄いけどね。


それでも、赤い血が混ざっていることを親父の変質遺伝子の〝嗅覚〟が逃すはずないと思うんだ。
何しろ、〝その匂いを嗅ぎ分けるために生み出された〟遺伝子なんだからね
完全な新人種同士の親から生まれるより、変質遺伝子に取り込まれる確率は高いと考えていいはずだ。

そもそも〝変質〟って言うのが…そうだな、
元の人間の遺伝子に〝襲い掛かるような〟状況を想像すると解りやすいな
旧い遺伝子を取り囲んで混ざり込み、新たな情報に組み直す
血中でも『捕食活動』を行っているような…そんな感じ」
「!」
ダンヒルは、以前に聞いた鑑識係の話を思い出した。
「…そうか…なるほど」

「どうした?」カルヴァンが青年刑事の様子に気付き、問いかけた。
ダンヒルの表情は、先までの友を思いやるものから
刑事のものへと変わっていた。
「ある容疑者宅から押収した血痕を鑑識に調べて貰ったんだ。
その時、今の話に似たような状況が起こっていた」
「―何だって?」

今度はカルヴァンが驚きの声を上げる番だった。
次から次へと交わされる不吉な言葉と情報に、ロザリーは目まいを覚えた。

「―ああ、あの話は確かに『捕食活動』って言えばしっくりくる。
血液が意思を持って、動いているみたいだってんだからね」


<Black Russian>

ルーシーは、少しだけ自分の選択を後悔している。
突如として身に振りかかった災厄に己を見失い、方向を見誤ったと思った。

何故〝天使〟はあの男の名を口にしたのだろう
あのどぶ臭いインチキな紳士の名を
何故、彼は知っているのだろう
何故、私とあの男との繋がりを知っているのだろうか


喫茶店での話は適当にごまかして切り上げた。
「知りませんわ。一体どなたですの?」
あからさまなシラの切り方だったが、彼は「そうですか」と応じた後
それ以上の追及をしてこなかった。

それから、本当にとりとめのない会話を交わし 
流れるように連絡先を交換した。
あまりにもさらりとしたアプローチに、ルーシーの口も軽くなっていたようだ。
何と言うか、
狐にでもつままれたような…そんな気持ちがした。

夕方、自分の部屋へ戻って確かめる。奥の部屋のベッドは空っぽのままだ。
部屋の外には相変わらず監視の目が見え隠れしているものの
やはり、弟は何処にも居なかった。

本当に、あのおかしな男の言う通り
恐ろしい怪物に変貌してしまったのだろうか。

人間の天敵となるべく、伝説上の怪物へ…
ならば、いつか近いうちに
彼女の元へもやって来るだろうか
人間である彼女の身を食らいに、弟は戻って来るのだろうか

ぐるぐると巡る思惑に、彼女自身が飲み込まれていく。
吐き気をもよおし、やがてベッドに倒れ込んだ。


<Bloody>

その日は午後から雨が降り始めた。
海へ落ちる雨音が聴こえるくらいの激しいもので、
ブラッディの眠りを覚ますのにも有効な程であった。
「…」

木造の建物は湿気を含み、心なしか重苦しい。ベッドに横たわって見上げた天井が、今にも落っこちて来そうだ。
気だるい。これ以上眠れない事にも気付いていたが、体を起こす気にもなれなかった。
どうしちまったかな、俺の身体は…
思い通りにならない事に苛立ちを感じたが、それ以上に考えなければならない事は山積みだ。
幸い、体を起こさなくても脳みそは使える。


やはり、〝彼女〟は知っている
アレックス・クラインは既に、彼女に接触している
奴からどれだけの事情を聞いているかは知らないが、
「知らない」と嘘をついた所から見て、恐らく大体の事は聞かされているのではないか。
―〝弟〟のことも含めて

だとすれば、弟を盾に取られて何か指図された…と言う可能性は充分にあり得る。
急がねばなるまい。

彼女が何かをして、手を汚す事になる前に‥
―彼女の〝弟〟との、約束を果たす為にも…

湿気っぽい天井を見つめたまま、彼は更なる思考の海に沈んでいった。

14 the Footsteps~rewind~

<Bloody ~rewind~>

そもそも、『それ』はどこから発生したものなのか
いつから存在しているものなのか、今となっては知る術もない。
彼もまた父親がいて母親がいて、世に出てきたのだろうか。
当時の記録や当人の記憶はまったくなかった。
「気が付いたら、存在していた」そんな表現が当てはまる。
厳格な父親と優しい母親、祖父母や使用人たちがいる大所帯の家庭。
その真ん中に彼はいたらしいのだが、まるで植えつけられた記憶のように 
それは実感に乏しかった。

自分は本当にそこにいたのだろうか…疑わしかった。

はっきりと覚えているのは
定期的に集まる縁者たちが、決まって彼に言い聞かせる言葉だ。
当時〝今よりも少しだけ若かった〟彼は、大人たちから口々に言い聞かされていた。

「お前は、一族最後の生き残りになる。
―いいか。ひっそりと生き、ひっそりと死んで行け。
人々の記憶や記録に残ってはならない。
我々は、〝一般的な人種〟にとっての悪しき存在
いわば、悪魔なのだから」

実際、彼は一族最後の生き残りとして 静かに生きた。

教わった『食事』の方法にあまり違和感を覚えなかったのは、
彼がまだ世の中を知らなかったからだ。
人間というものは、あまねくすべて〝他人の生き血を糧にして生きている〟と思っていたからだ。
彼が本当の世界を知り、自分が異端であることを知ったのは
彼が小学校へ通い始める頃だった。

己の存在に驚き悲嘆した彼は 中学を卒業した後、移住を決意した。
かつて住んだ家と財産をすべて売り払い、充分過ぎる額の金を手にした彼は
それまでの生活を捨て、海を渡った。
せめて、誰も 自分を知る者のいない街で生きたいと思ったのだ。

そこは大きな街で、明るく近代的で
古い伝説に出てくるような『怪物』の存在など、かけらも信じないであろう街。
自分の素性をかんぐられない
隣人に無関心な点だけでなく、彼はこの大きな街がとても気に入った。


いつの間にか、人間は体内の組織が変貌し
彼が糧としていた『赤い血』を持たない類の人間が、世界を占めるようになった。
彼の〝本来の〟食事は、移住後に一度もなされていない。
通常の食物から栄養を摂り
酒やカフェインで本来の食欲を麻痺させ
一般の人種と同じように、生活出来ている。

彼は学校以外にも、街の図書館へ通った。

大きな窓に真っ白な閲覧テーブル、明るく風通しの良い街の中央図書館は
蔵書もなかなかのものだった。
授業が無い時間には、ほとんど此処に居たと言っていい。

そんなお気に入りの場所で
彼は、ある少年に出逢う。

『運命』と言えば大仰だが
その後の彼に、大きな影響をもたらす出逢いだったことには間違いない。

兄弟の家はごく一般的な中流家庭で、兄弟は仲が良かった。
温かい家庭の中で 共にのびのびと育っていく。
兄弟はどちらも勉強好きで、特に理科や算数を好んで学んでいた。
幼い頃から二人で机を並べて本や参考書を読み漁り、
あるいは山や森に入っては、植物や昆虫を採集していた。

弟は普段から家の参考書で足りない分を補う為に、図書館に通っていた。
そこである時、不思議な少年に出逢う。

その少年は、背中まで流れるブロンドを揺らし 白く細い指で本の頁をめくっていた。
弟はあまりの美しさに目を奪われ、しばらくその場に立ち尽くしていた。
少年がその視線に気づき、ふと目を上げる。
その色は深い青の含まれた緑色で、吸い込まれそうな魅力にあふれていた。

見たことのない顔だった。
何か話しかけたかったが、思うように言葉が浮かばず
決まり悪く立ち去ることしか出来なかった。


「図書館で、見たことない奴にあったよ」
弟は少年のことが忘れられず、家に帰って兄に話をした。
「どんな?」さほど関心は示していないが、兄は聞き返す。ただ参考書から目は離さない。
構わず弟は話し続けた。昔から、兄が興味を示す範囲は限られている。
「金髪で白い肌で、女の子みたいだった。青い目がすごくきれいだったよ」
「へぇ…」
しかし、弟が最後に付け加えた言葉で
兄が少し反応を変えた。

「何ていうか…、
この世のものじゃないような雰囲気だったな」

「金髪蒼眼、透けるような白い肌
彼の薄い唇には、人の生き血の色が似合いそうだな」
物騒なことを言う兄に、弟は嫌な顔をした。
「何だよ、それ」
「知らないのか?
夜の街に降り立ち、人々に襲い掛かる吸血人種の存在を」
「…そんなのおとぎ話だろ?」

微かに肩を震わせ弟が言うと、兄は大げさに首を振った。
「いや、彼らは実在したんだ。欧州の方にね。
だいぶ昔に絶滅してしまったらしいが」
確かに居たんだよ 実際に遭遇したかのように繰り返した。

「人間の生き血を吸い、糧とする―
いわば、人間を捕食する『天敵』だ。
しかし、その姿は輝くように美しいという」
弟は、何故かその言葉に信憑性を感じた。昼に会った少年のせいかもしれなかった。
「―惜しいな」
続く兄の独り言を、弟は聞こえないふりをした。

「天敵がいなくなったから…
見てみろ、
世の中には余計な人間があふれている」


「うちの兄貴、紹介したことあったかな」
授業が終わり、誰もいない講義室でエディが言った。
ブラッディが席を立つのを引き留め、話を切り出したのだ。
彼らは、大学生になっていた。

「兄さん?
ああ、確か一度だけ会ったことがあるよ」


図書館で出逢った少年を二度目に見かけた時、弟・エディは勇気を出して話しかけてみた。
「君も、本を読むのが好きなの?」
必死になってかけられたのは、ごく簡単な挨拶だった。
そして、覗いた先 彼の手元の書物に驚きと喜びを感じた。
「物理が好きなのかい?」
勢い込んで立て続けに質問してくる様子を
量子論を読んでいた美しい少年は、初め驚いて見ていたが
次第に笑顔になって頷いた。
「うん」

エディ・クラインとブラッディ・メアリーのつきあいは、ここから始まったのだ。

初めは、お気に入りの物理学者や理論の話
やがて自身の自己紹介をし始めるエディの話を、ブラッディは静かに聞き入っていた。
決して大きくはない彼の声音は、しかし涼やかでよく通り
加えて正確な発音の言葉にも、ブラッディは美しさを感じた。

温和な家庭 共に学ぶ兄がいること
でも、この図書館に来るのは自分一人だということ

その話を聞いた後、エディの家に招待され 
件の兄に会わせて貰った記憶がある。
ブラッディは、その時のことを思い出していた。

「兄は今、医大に通っている」
「へぇ!すごいな」
エディと彼の兄は、歳も一つしか違わず
四六時中一緒に過ごしていたせいか思考回路や好みも同じようで、
兄が今、何に興味を持ち 何をしようとしているのか
エディには、ほとんど手に取るように解るのだ。

何処か双子みたいでもあった。

兄弟は、セカンダリー・スクール(中学~高校)を卒業するまでは同じ学校に通っていたが 
その後初めて、道を違えた。
兄は医大へ、そしてエディは街にもう一つあるこの大学へ
ブラッディと共に進学した。

「君の兄さんは、医者を目指してるのか」
勉強好きだったもんなぁと呟くブラッディに、エディは首を横に振って応じた。

「彼の目的は、医者になること自体じゃない」
「…え?」
「併設されている病院の施設や資料を利用すること
それと、
『サンプル』探しが目的だ」

「サンプルって?」
双子のように育ち、共に学んで歩んできた
だからこそ、悟ったのだ

兄が目指しているものが何なのか
何をしようとしているのか
自分が止めねばならないと思った。

けれど、一人ではどうにも心もとない
一人では、あまりに重くて抱えきれない
この友人の力が必要だと感じた。

彼なら、助けてくれると思ってもいた。

「…ブラッディ」
「ん?」
「お願いだ、俺に手を貸してくれ。
アレックスを救いたいんだ」
講義室には、奇妙な静寂が流れていた。


「お願いだ、ブラッディ
アレックスを…兄貴を救ってくれ」

ブラッディがこの街に再び戻って来て、まず確かめたのは
彼にこの言葉を遺したエディの息子・カルヴァンの安否だ。
幸いにも、父親が始めた『タルカス』を継ぎ
カルヴァンは無事、〝淡々と〟生活していた。

街の外れに部屋を借り、一応の生活の拠点を据えた。
カルヴァンの居るアパートを間借りしなかったのは、単独で動ける時間が欲しかったからだ。
確実な事が分かるまで、出来れば彼には知られたくない
そう考えて、今でも多くは語らずにいる。

それとなくカルヴァンに聞いてみたところ、母親のルカが亡くなった後
エディは忽然と姿を消したと言う。
「いつのことだ?」ブラッディが質問を投げると、カルヴァンはしばらく考え込んで答えた。
「俺が、ハイスクールに上がる頃だったかな…
よく覚えてないな」

同居していた実の父親が行方をくらましているのだ。
そんなにたやすく記憶が曖昧になることはないと思うが、
そうでもしなければ カルヴァン自身が立ち直れなかったのだろう。
当時の彼を思いやり、ブラッディはその間に自分がそばに居てやれなかった事を悔いた。
一方では、もう一つの思考が冷静に考察を巡らせている。

カルヴァンが高校の頃であれば、およそ15年前
ブラッディが街を出た頃と合致する。
自分がいない間のエディやアレックスに関する新しい情報は
息子の口からは聞き出せないだろう
そう、判断した。

「…カルヴァン、お前さんには叔父さんがいたっけな」
「ん?ああ、いるよ」
「最近、何か交流があるかい?」
努めて平静に、何気なく聞いた。
カルヴァンにいぶかしむ様子はなかった。

「―いや…最近は全然会わないな。
そう言えば、親父がいた頃は割と店にも顔を出してたんだが」
そう、とブラッディも何気なく応じる。
少なくとも、彼がいない間に
アレックスはカルヴァンに接触していないようだ。

何か遺されているとすれば…、あとは図書館かな

一つの結論を導き出し、彼はもう一度図書館へ向かう事に決めたのだ。


<the Library~rewind~>

閉館間際の中央図書館に、ブラッディは足を踏み入れた。
15年ぶりに訪れたが、基本的には変わっていない。
まるで時を止めているような…と言うと、少し言い過ぎかもしれないが。

大きな窓から差し込む西日を浴びて、まだ数人が読書や調べ物をしている。
ブラッディは郷愁の気分を振り払い
館内を一通り見回して、端の棚から物色を始めた。

何でもいい。何か、気になるものがないか

館内放送が利用客の退館を促す頃、彼はふと留めたものから視線を外せずにいた。
「…」

当時は何気なく見過ごしていたが、館内には小ぶりなホワイトボードが設けられている。
ボードの半分にはカレンダーが貼られていて、新刊の案内やイベントのお知らせが随時書き出されている。
そしてもう半分のスペースは、来館した誰もが利用できる伝言板になっていた。

個人の連絡ツールが発達した時代には珍しい、旧式のサービスだ。
その端の方の一角
何気なく書かれたメッセージに、彼の目は釘付けになった。

『愛しのメアリーへ
夜明け前の大聖堂で君を待つ―〝E〟』

鼓動が早まる。
冒頭のフレーズは、あの当時エディがふざけて彼に使っていたものだ。
何か伝言を残す際、その女性名になぞらえて記していた。
そして末尾の『E』は言わずもがな、エディの頭文字だ。
だが、まさか15年も前の伝言が残っているとは思えない。ある程度の時間が過ぎれば図書館の方で消してしまうだろう。
目を凝らしてみれば、その筆致が割と新しいものだと判断出来た。
多少のタイムラグはあるかもしれないが、
単なる落書きだと片づけてしまうには、あまりにも気になる要素が多い。

エディ本人が残したものだとは思い難いが、
彼の遺志を継ぐ人物 もしくは彼を知っている人物が自分に宛てたものだとも考えられる。

…何もないよりはマシか

行って確かめる程度には、価値がありそうだ。
ブラッディは、そのメッセージを消し
一刻も早く追い出そうと待ち構えている司書の中年女性に会釈して、図書館を出た。



夜の闇に沈んでいた街に、少しずつ光が差し始め 朝が来る。
一番初めに光を浴びるのは、きっとこの場所だろうとブラッディは見上げた。
この先へ歩を進める事が、少しためらわれる。
そこに残されているのは、もはや錆びついた信仰心だけだ。
科学的な物象が彼を脅かすことはない、ハズだった。
それでも、敬虔なたたずまいを見せる大聖堂は 彼らの一族にとっては脅威そのものなのである。
受け継がれた忌まわしい血の色が反応しているのだろう。

―馬鹿馬鹿しい
あえて口に出すことで、ブラッディは溢れる恐怖心を振り払い
緩やかな丘陵を登り始めた。


この街に来て、初めて建物を正面から見据えた。
自分の指先がかすかに震えているのに気付いた。
朝日が完全に昇っていないことが本当に有難い。

ジャケットの内ポケットからチーフを取り出して、重たい扉に手を掛けた。
ギギギ…と音を立て
扉はもったいぶるように、ゆっくりと開いた。

室内は、真っ暗だった。少しかび臭い。

「―来て、くれたのですね」

かすかな声が聴こえ、ブラッディは目を凝らして周囲を観察する。
ほんの少しだけ与えられた光でも
目が慣れてくると、次第に景色が見えてくる。

彼の正面、マリア像を背にするようにして 声の主が立っていた。
「…君は、エディではないよね?」
ブラッディは慎重に言葉を選んで口にする。
相手の後ろの『聖なるものたち』にはなるべく目をやらないように努めた。
相手は静かに答えた。

「ええ。
彼の名を騙り、あなたにメッセージを残したのは僕です。
どうか、無礼をお許しください」
物腰が丁寧だ。とても落ち着いている。
とりあえず、ブラッディは少しだけ警戒を緩めた。
まともな話し合いが出来そうな気がする。

「構わないよ。そうでもしなければ、俺がココに来ることは万が一にもあり得ないからね」
「出来る事なら、場所を変えてお話したいところなのですが…
いくつかの理由があって、この時間のこの場所が〝お互いに〟一番安全だと判断しています。
申し訳ないのですが、少しだけ辛抱頂けますか?」
「…分かった」

「では、僕が知っている限りのことをお話します。
クライン兄弟が造り出したもの、僕の身に起こっていること
―ブラッディ・メアリー、
それが…あなたが知りたがっている事のすべてです」



大聖堂に、厳かな朝日が降り始める。
だが備え付けの雨戸が閉められていて、室内にはまだ その光は届いていない。

そこで、闇を棲み処とする類の者たちが
淡々と語り合っていた。

「僕は生まれつき体が弱かったのですが、それでも10を数える年頃までは
家族や友達と共に走ったり飛んだり出来る子どもでした」
青年の口調は穏やかで丁寧だ。
ブラッディは、つい心地よく聞き入ってしまう。
「しかし、中学に入る頃だったと記憶していますが…ある病に侵されてしまいます」
「…」

ブラッディが違和感を覚えたのは、その言葉を最近耳にしていなかったからだ。
それに気づき、青年は補足する。
「貴方は〝長く生きて〟おられますからご存知でしょうが、
その病が現代の人間に発症することは まずありません」

「…それは、血の色が違うから?」
ブラッディの問いかけに、青年は静かに頷いたようだ。
薄暗い室内では、仕草は影でしか捉えられなかった。
「その通りです」
と、言う事は
逸る気持ちを抑え込み、努めて平静な声で更に聞いた。

「―君は、『旧人種』なの?」
相手の影は少し考えるように動きを止めた後、首を横に振った。
「完全に、ではありません。
僕は『混血』なのです。血の色は、赤くはありません」

「…え?」
その答えを聞いて、ブラッディの脳裏には様々な考察が飛び交う。

「僕には双子の兄弟がいました…もっとも、生まれる前に死別してしまったので
兄なのか妹なのかも判らないのですけれど」

「僕は、母体内で兄弟の遺伝子を受け取って生まれてきたようです。
体内には新旧の血液情報がふたつ、〝両立して〟存在しています」

「…『キメラ』か」
「そういう事です」

ひとりの人間の体内に、二つの血液型が両立して存在する現象『キメラ』
随分昔から知っている知識ではあったが、なるほど
新旧の血の色の間でもそれは起こり得るのか

新人種への世代交代の過渡期では、あったとしてもおかしくはないかもな…
ブラッディは独りごちた。

「もう一人、3つ年上の異母姉がいるのですが…彼女は新人種です。母親が違う為でしょう。
姉は至って健康体で、両親が亡くなった今でも
僕の看病をしながら日がな一日働いてくれています。

ある時期から、姉は生活のすべてを僕と共にあろうとし
僕は、姉なくしては生きていけない体になりました。

それほど裕福とは言えない生活で、姉は必死に貯金をしてくれて
僕は街の大きな病院で治療して貰えることになりました」
「…」
「…『ラスティ・ネイル』は、その時に投与されたのだと思います」


「変化には時間がかかっています。
まだ、僕は完全な吸血人種として変貌を遂げている訳ではありません。けれど…
確実に、理性が失われる時間は長くなっています。

初めのうちは、夜徘徊した後も自宅に戻っていました。
ですが今は、姉の身が心配で…此処へ姿を隠すようになったのです」
半ば独りごちるように彼は告げる。
ブラッディも口を挟む事はせず、黙って聞いていた。

しかし次の瞬間
彼自身に向かっていたような言葉の矢印が急に向きを変え、ブラッディをとらえる。

「ブラッディ・メアリー、どうか…お願いします
貴方の大切な人たちと、どうか 僕の姉を…
ルーシーを、僕の手から守ってやってください」

その名前を記憶し、ブラッディは礼儀正しい憐れな青年に約束した。
「話してくれてありがとう。君の姉さんは必ず守る。
…そして、君のこともね」


<Black Russian>

中央図書館前の横断歩道で信号待ちをしていたルーシーは、何気なく隣に立った人間に気が付いた。
目で確認しなくとも、匂いと気配で判る。

「件の少女は見つかりましたか」
スリーピースを粋に着こなす背の高い男の中身は、今はもう充分に理解している。
何の事情も知らない相手ならば疑う事もしないだろうが。
彼女はまっすぐ前を向いたまま、あからさまに顔をしかめた。

「…いえ、ごめんなさい。今日は見当たらなかったわ」
そう答える瞬間、ふと脳裏を金髪が揺れた。
「…そうですか、それは残念」
男もまた、ルーシーに一瞥すらくれず口を動かす。
「まぁ、急げとは言いません。じっくりやりましょう
…ただ」
「…」

「大事な弟さんには、あまり時間が無い…」
「えっ?」咄嗟に、男の方を見る。相手は表情ひとつ変えずに前を向いている。
視線はずっと、合わないままだ。
だが、彼女は確実に追い詰められている。
「―かも知れません」
「…」

信号が変わった。止まっていた歩行者が一斉に一歩踏み出す。
その波に乗るべく、男もまた歩き出した。
最後に一度だけ、ルーシーに向かって不気味な笑みを浮かべた。

◇◆◇

Bloody Mary【再編集】<第二部>

長編舞台の中編です。舞台設定はあくまでも何処までも、当方の創作です。
※再編集後、以前のものと多少内容の異なる部分があります。何卒ご容赦ください。

Bloody Mary【再編集】<第二部>

長編舞台の第二部。吸血人種の人とそれを取り巻く人々と彼らが巻き込まれたある事件。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted