Bloody Mary【再編集】<第一部>

璃玖

  1. 1 the Park
  2. 2 the Memories
  3. 3 the Library
  4. 4 the Oldblood
  5. 5 the Cathedral
  6. 6 the Brothers
  7. 7 the Doubt
  8. 8 the Line
  9. 9 the Footsteps
  10. 10 the "Rusty Nail"

「お前は最後の生き残りになる。いいか。
 ひっそりと生き、ひっそりと死んでゆけ。そして」
「我ら一族の血を根絶やしにしろ」

1 the Park

<Rosary>
セントラルパークの昼下がりは、たいてい好天だ。
ロザリーはご機嫌で遊歩道を歩いてきた。
いつもの指定席に向かっていた。
キラキラと輝く木漏れ陽を浴び、大きな噴水の脇を通り
お気に入りの白いベンチへ…

「あら?」
勿論、指定席と言っても札を掛けている訳でなし先客が居ても文句は言えない。
が、ウィークデイの昼下がりにこんな場所でくつろげるのは子供か老人くらいだと思う。
彼女がそこを指定席と決めてからこの方、
別な誰かが居座っていたことなど無かったのだ。

しかしこの日、そこには一人の男が座っていた。
まるで、一枚の絵のような。
光と静寂に包まれ、彼は手元の書物に眼を落としている。
ロザリーは瞬間に目を奪われ、しばらくの間その男を眺めていた。
「…」
「俺の顔に何かついてるかい」
穴のあくほど見入っていた視線に気がつき、相手は顔を上げて声を発する。
期待を裏切らない、良く通る低い声だった。
「…ううん」
「じゃぁ、何か用かな?」
しおり代わりにページを止める指の美しさにまた目を奪われてしまう。
気を取り直して、彼女は相手の顔を改めて観察した。
青色とも緑色ともつかない、何とも深い色を湛えた両の眼。
鼻筋はすっきりと通り、その下に薄い唇。
紛れもない王子様の容姿である。
ただし、憩いの時間を邪魔する相手を彼女は許さない。

「そこ、私の指定席なのよね」
「…」
相手は若干戸惑ったようだが、やがて小さく笑った。
笑顔と共に揺れる金髪(ブロンド)が、陽の光を浴びて輝く。
「これはこれは。大変失礼致しました、お嬢様」
すっと立ち上がり、取りだしたチーフでベンチの埃を払う仕草をする。
そして仰々しく彼女へ手を差し伸べた。
ロザリーは男のその態度に少しだけ腹立たしさを覚えたが、
せっかく取り戻せた指定席を前に機嫌を直すことにした。
「ありがと」

つんと一言残して、自らの本を開く。
「―お嬢様は、アインシュタインのファンなの?」
「え?」
涼しげな声が再び彼女を呼び戻した。
「『相対性理論』なんて、今時珍しい」
意外そうに覗き込む彼にいい加減むっとしてロザリーは応える。
「いけない?」
「いけなくなんかないよ。…ああ、気を悪くさせたかな?申し訳ない」
男はさっと笑顔を作って謝罪する。
輝くその表情にはおそらく誰も敵わないであろう。
ロザリーもご多分にもれず、今までの〝非礼〟を許してやろうと思ってしまう。

何故だか、彼女の鼓動は速まっていた。
「奇遇にも、俺も彼のファンなものでね」
「あら!」
そう言った彼の手元の書物もまた、
件の物理学者が提唱した有名な『一般相対性理論』らしかった。


きっかけなんて大した事じゃない。
そして、たくさんの偶然は一つの必然を呼ぶために集まってくる。
例えば、君と出逢うための。



「あなた、お名前は?」
パークからの帰り道、別れ際に彼女は訊いた。
あれから数時間、ロザリーはお気に入りのベンチを半分〝貸し与え〟
その美しい男と物理理論について語り合った。

古文書のような古めかしい書物や理論など、古典を崇拝する科学者以外に興味を示す者はいない時代だ。
初めて出逢った〝同志〟。逃したくない一心で彼女は相手を自らの隣に〝縛り付けた〟。
相手も嫌な顔一つせずに、長話に付き合ってくれていた。

その数時間、そう言えば彼の名前を訊いていなかったのだ。
「知り合いはみんな、〝ブラッディ〟って呼ぶな」
「ブラッディ?」
「ブラッディ・メアリー」
「メアリー…って女の人の名前じゃないの?」
それでも、彼には違和感なく染みて行く気がする。
「通り名だからね。君は?」
「私は、ロザリーよ」
「…ロザリー…か」
「ねぇ!また逢えるかしら!私、またあなたとお話したいわ
ブラッディ」

彼は視線をゆっくりとロザリーに向けた。
何となく、それが今までの好感とは異質な色を秘めた眼の色に見え
彼女は寒気を覚える。
しかしそれも、すぐに消え去った。
きらきらと輝くような笑顔で、彼は答えたのだ。
「ああ。君が逢いたいと思ってくれるなら」
「そぉ!約束よ!」


こうして二人の接点は出来あがる。
活き活きとした彼女の足取りを見送りながら、彼はぽつりとつぶやいた。

「〝ロザリー〟…『防御策』かな」


<Dunhill>
49番街のビルの一室で、とんでもない死体が見つかったのは同日の夕刻。
市警特捜班の端くれである青年・ダンヒルは、先輩刑事について現場を訪れる。
「…?」

一見して外傷は見当たらず、何の臭いもしない。
ともすればただ何気なくうつ伏せに寝ているように、見えなくもない。
よく見れば、その異常さが伺える。
その身体は紙のように真っ白く、そして空気を抜かれた風船のようにしぼんでいたのだ。
老人のような…というより老齢の樹を連想させる皺だらけの顔。
その顔にはべったりと、この世のモノとは思えない程の恐怖に満ちた表情が張り付いていた。

「おかしいと思わないか?」
誰にともなく、その刑事はつぶやいた。
「外傷が見当たりませんね。そういう意味ではキレイなもんだ」
誰が応えてもいいのだろうと、ダンヒルが口を開く。
「ああ。だが、異常にも程があるなこりゃ」
「…血を、抜かれてますね?」
そうとしか言いようがない。蒼白な顔色は、死後のものというより
生前に血の気を奪われたからではないのか。

しかし。
「そんなバカな話…今時あると思うか?」
「19世紀にだって、こんな死体はあがらないと思いますけどね」
そう言った瞬間、青年はある一人の男の存在を思い出した。
もう何年も会っていない。今の今まで、忘れていた。

まさかとは思うが…。

一つだけ浮かんだ漠然とした不安を、大げさに頭を振って打ち消す。
事情の解らない周囲の仲間が彼を不審そうに見ていた。



一体、何を考えているのだろう。
仕事上がりのダンヒルは帰宅するその足で、パブに立ち寄った。

「いらっしゃい」
奥からマスターらしき男の声がする。結構若いな。
時間が良かったのか、店内にはアルコールの匂いが充満し
既に出来上がった数人が声高に何かを主張している。
どうやら、会社の現体制に不満があるらしい。

とりあえず、空いているカウンター席に腰を掛ける。
「何か飲まれますか」
さらりと風が流れるように問われ、はっとして言葉を探した。
「えーと…じゃぁ、ブラッディ・メアリーを」
「かしこまりました」


思い出した。
今まで、彼の名前を忘れていたのだ。
確か通り名だと言って教えてくれた。
お気に入りのカクテルの名前だと。

「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
すっと差し出された美しい赤色のカクテルに口をつける。
何度飲んでも、不思議な味がする。ダンヒルはそう思っていた。


彼に会ったのは、まだ学生時代の事だ。
自分の想い出の中に刻まれたほんの一瞬の時間。

彼が好んでいたと言うブラッディ・メアリー。
飲んでみたら、一体何を思い出すと考えたのだろうか。

そんな簡単に、あの旧い友人に逢える訳ないじゃないか。
青年は自嘲気味に笑う。


しかし、ひとつハッキリと思い出した。
確かに彼は言っていた。

自分は、人の生き血を吸う種族の
最後の生き残りである
と。

<Carvin>
思案気な独りの青年も帰った後、テキトウにお愛想をして
酔っ払いの労働従事者たちを追い出し
店はそろそろ閉店の時間を迎える。
看板を下げようと外に出た彼の視線の先に、ひとつ足音が近づいてくる。

「閉店ですけど?」
そう言って、足先から順に視線を上げて行く。
「売り上げは上々かな、ハニー?」

街灯の下まで歩み寄ってくると、美しい顔が確認出来た。
それは、昔馴染んだ友人の顔だった。
「―アンタ…、
ブラッディか?」
「もう誰もいないだろ?入れて貰ってもいいかな」
その台詞は、この上ない日常的なものに聞こえた。
まるで、昨日も彼の元へ顔を出していたような
15年近く会っていない人間のものとは思えなかった。
「―どうぞ」
その何気なさが気に食わず、彼は仏頂面で答える。
仕舞いかけの看板を持ち上げ、足でドアを開けようとすると、
すかさず相手が手を貸した。
「…どうも」
ようやく口に出した礼の言葉も無愛想に吐くので、
気持ちは一つもこもっていなかった

薄暗い照明を二つほど残し、店内はひっそりと暗闇の中に埋もれる。
カウンターを挟んで、2人の男が向かい合う。
「アンタ、この15年何処ほっつき歩いてた」
「別に。陸伝いに近所をブラブラ散歩してただけさ」
「…随分豪勢なお散歩だな」
恨みがましい視線を送り、彼は皮肉を言った。

「店は繁盛してるかい?」
グラスにつがれたブラッディ・メアリーを愛おしそうに眺めながら、一人が問う。
「ああ、上々だね。今日は女好きの野郎が3人程相手を変えて出入りしてた。
その間に体制の愚痴を言い合う酔っ払いが4~5人入り浸ってたな。
後は、若い刑事みたいなのが独り来て、飲んでたぜ」
坦々と応えるもう一人。
「刑事?」
「何となくな。死臭がした」
「ふうん」

大して興味もなさそうに、グラスに口をつける。
少しの間、沈黙が続いた。

「カルヴァン」
そして、相手の名前を呼んだ。
「ん?」
カルヴァンは自分の為に用意した水割りを口に含み、
多少転がしてゆっくりと飲み込む。
空っぽの胃の中に、じっくりと熱が広がっていった。

「もしかしたら、『飢え』をしのげるかも知れない」

「え?」
グラスの中の赤色を見つめ、視線を上げて彼は相手と眼を合わせた。
涼しげな目元が、柔らかく笑っている。
同性であるとは言え、昔から彼は特別だ。
会話などどうでもいい。その眼をずっと見ていたい衝動にかられた。
が、直後。そんな幻想を打ち破る言葉を浴びせられる。
「『旧人種』の生き残りを見つけた」
「―ええ?」
「〝赤い血〟の生き残りだ」
「本当か?」
「ああ。実際にお目にかかるのは100年ぶりくらいかな
それでも、特有の匂いは忘れていないみたいだ」
ゆったりとした時間の中で、生臭い会話が続く。
店内は真っ暗で、通りからはもうこの店の存在すら伺えない。

「名前を訊いて、確信した」
「何て?」
カルヴァンがグラスを揺らす度にカラカラと氷の音が室内に響く。
もう一口液体を流し込み、気持ちを落ちつけようと試みた。
彼は少し躊躇う態度を見せたが、静かに答える。

「ロザリー」
「…『十字架』か。なるほどね」
言葉を口にするだけでも、いくらか効力があるのだろうか。
その辺の所はカルヴァンには判らないが。
藁にもすがる想いで、その両親は名前を選んだのだろうか。

「歳は15、6ってところだった。可愛い女の子だよ
…俺がこの街にいた頃、気付かなかったのも道理だ」

何処か楽しそうに回想する友人を見て、カルヴァンは背筋に冷たいものが走った。
自分の意思とは無関係に、緊張していた。
「なぁ、ブラッディ」
間を置いて、そう呼びかけた。
相手のグラスはいつの間にか空になっている。

「もし、俺の血が赤かったとしたら…
アンタは俺を襲ったのかな」
友人だと思い、長い事接してきている相手は
明らかに自分たちとは異なる生きものだ。
と言うか、そもそも『生きもの』なのだろうか。

その美しさは文字通り、この世のものではないような気がする。

「襲われたかった、って顔してるぞ?ハニー」
さっきまでの異様な空気が一変、おどけて言って見せる彼は
紛れもなく自分の友人なのだ。
「馬鹿言え。そんな趣味はない」

カルヴァンの握りしめていたグラスの中で、氷が溶けて崩れる。
下を向いた視線を上げさせるように彼の顎に指が添えられ、ついと持ち上げられた。
自分の意識に反して、心臓の音が高くなる。

「出逢うタイミングに寄るかもしれない。
今、お前さんは俺の大切な友人だ」
臆面もなくそんな事が言ってのけられるのも、
何処かで俗世間に浸りきっていない〝異質のもの〟だからなのかも知れない。
カルヴァンは何となくそう思った。

そしてふと、先の刑事らしき青年が
この妖艶な友人と同じ酒を飲んでいた事を思い出す。

少しだけ張りつめた空気を和らげるようにブラッディは笑み、
静かに言葉をつなぐ。
「いろんな事情があって、お前さんには何も言えなかった。
独りで辛い思いをさせちまったな…すまない」
それは紛れもなく、昔から知っている友人としての言葉。
「…今更何言ってやがる」
カルヴァンには、こんな皮肉でしか受け止める事が出来ない。
そんな優しい言葉をまともに浴びたら
きっと、自分は泣いてしまう。

すべてを了解している様子で、ブラッディは再び笑顔を作る。
先とは違う、シニカルなものだった。
「また、しばらく厄介になるよ。ハニー」

<the Park>
「2週間で同じような異常死体が3体だ。
こんなもん、コレ以上見せられたらいい加減おかしくなっちまう」

現場で次々に愚痴があがる。実際、件の青年刑事も辟易していた。

今回の現場は中央図書館の通り沿いだ。
大通りを挟んで向かい側にあるパークの緑を背にして立つと、小高い丘の上に街自慢の大聖堂が見える。

ダンヒルはその荘厳な出で立ちを眺めて、せめて心を浄化させようと試みた。
と、その時。

「…?」
こういう感覚を何と言えばいいのか。
動物的な感覚なのかどうか、言いようのない気配を感じて
ふと振り返る。
視線の先に、見覚えのある金髪が捉えられる。

「―…え?!」
しかしすぐに通りの信号が変わり、歩行者が一斉に動き出す。
その雑踏の中に、気配が紛れこんでしまった。

ダンヒルは、その向こうにあるセントラルパークを見つめた。
緑が色濃い。今日は少しだけ曇り気味なので、より暗く深い色が染み出している。
珍しく、少し妖艶な色だ。

あれは…
その金髪が、パークの中へ消えた気がした。
思うが早いか、ダンヒルは点滅し始めた横断歩道を駆け出した。


天気の如何で、パークに訪れる人の数は随分違う。
やっぱり今日は、憩う人も少ない。

ならば、見つかるかもしれない。
懐かしいブロンドの友人が。

雨も厭わないであろう恋人同士が語らう姿
着飾らせた犬を自慢げに散歩させる婦人
外回りに疲れたのか、わずかな休息を取るためにベンチで居眠りをするスーツ姿
噴水広場で遊ぶ小さな子供と、品の好さそうな母親
遊歩道を嬉しそうにスキップする少女
入口に陣取るホットドッグ売りの屋台…

深い緑を抜け、ダンヒルはパークの反対側の入り口に到着してしまった。
「…あれ」
おかしいな…。
確かに、ココに入ったと思ったのに。
見間違いか?
―いや、しかし…。

抜け出た先にも大きな通りが立ちはだかり、やはり同じように横断歩道の信号待ちで人々は立ち止まる。
渡った先には大型のモールと、アーケードが見える。
いつだって買い物客がせわしなく出入りする。

ああ、何だかイライラしてきたぞ。
青年刑事は短髪をかきむしり、放り出してきた仕事場に戻って行く。
それでも、見失った友人の記憶は断片的に蘇る。

何度か、中央図書館の前で会った事がある。
あの人は本を読むのが好きだったはずだ。

きっとまだ彼は近くにいる。
根拠もなく、ダンヒルはそう確信している。
近いうちにきっと、逢える気がする。

雨が降るかもしれないけれど、ロザリーの気分は上々だった。
深緑の影を落とす遊歩道をスキップしながら抜けて行く。

今日は、人が少ないわね。
途中で一人、だいぶ慌てた様子の青年とすれ違う。
何か探し物かしら?

通り過ぎた時に、何となく嫌な匂いがした。
(それが死の香りである事を彼女は勿論知らない)

噴水を横目に見て、『指定席』へ。
また逢えると約束したブロンドを期待していた。
「あら…」
が、その場所に願う姿は見当たらない。

なぁんだ。
ふっとため息をつき、ベンチに歩み出そうとしたその時。
「お嬢様、俺の姿をお探しでしたか?」

「ブラッディ!」
ロザリーは嬉しさの中に驚きを隠しきれないでいた。

いつの間に、こんな近くにいたのだろう。
彼女の背中越し20センチほどの距離で声を聴いた。
その瞬間まで、全く気付かなかったのだ。

気付いて振り返った途端に、柔らかな花の香りが彼女を包み込む。
「ああ、びっくりした!いつの間に来てたの?」
「君を驚かせようと思って、隠れてたのさ」
言うと涼しげに笑顔を作り、ロザリーの頭を軽く撫でる。
何だか、子供扱いされたような気がする。

「今日はいないかと思ったわ」
眉尻を少し下げて言う彼女に、右眼にかかったブロンドをかき上げながら彼は応えた。
「約束は守るよ。逢いたいと思ってくれてたろ?」

よくもまぁ、そんなキザな台詞が吐けるものだ。
ロザリーは、彼の腰まで伸びた美しい髪が風を受けて流れる様をまじまじと見つめた。
まぁ、板についてるから許してあげるわ。
声になるかならないかの言葉をつぶやいた。
「え?」

「何でもない」
彼の腕を取り、ロザリーは指定席へ誘った。

◆◇

ある時まで、彼はその味を知らないで生きてきた。
どのきっかけだったであろうか
隣人の血の匂いにたまらない食欲をそそられた。
試しに『食事』をしてみた。
予想以上の満腹感と充足感に彼は感動すら覚えた。

何故、今まで気がつかなかったのだろう。
こんなに美味い飯にありつけるなんて
己の歩んできた人生を返して欲しいくらいだった。

2 the Memories

<Carvin>
「なぁ」
早朝、眠い目をこじ開けながらカルヴァンは呼びかけた。
「何だ」
カルヴァン自身も、普段なら階上の部屋でまだ寝ている時間だ。
寝起きの、そして予定外の時間に叩き起こされたブラッディはすこぶる機嫌が悪かった。
「…」カルヴァンはひとつため息をつく。

「ああ、悪かったよ。起こした俺が悪い。
頼むから、今にも噛みつきそうな顔しないでくれないかな」
本気で怖い。
両手を挙げて降参の意思を表示する。

15年ぶりに帰ってきたブラッディがまずした事は、街の隅に適当な部屋を借りることだった。
カルヴァンに報告された新居の住所は、随分な街外れにあった。
「…こんなに離れた場所にしなくても良かったんじゃないのか?」
怪訝そうに尋ねる彼に、ブラッディはため息交じりに答えた。
「お坊ちゃまはこの辺の家賃相場を知らないと見える」
皮肉めいた台詞に、カルヴァンがムッとして応戦する。
「馬鹿にすんなよ。このビルのオーナー誰だと思ってるんだ」
「―お前さんが受け継いだんだろ?
解ってるよ、冗談だ」
両手を挙げて降参のポーズを取りながら、ブラッディは続けた。
「海の近くに住んでみたかったのさ。何、飲んだくれたら
お前さんの部屋がある」
「男2人が寝られる広さはないぞ」
苦虫を噛んだような顔をして、カルヴァンが拒絶の意思を示した。

だが実際のところ、それから何度かブラッディは
店の上の階にあるカルヴァンの部屋に泊まり込むことに成功していた。


「この界隈で起きてる事件を知ってるか?」
「知るかそんなもん」
そっぽを向いたブラッディの鼻腔に香ばしいコーヒーの香りが届く。
メーカーが湯気を立て始め、2人分を作り出しているのだ。
彼は酒ばかりでなく、コーヒーにも目が無い。
その香りで彼の機嫌が直る事も、カルヴァンは勿論知っている。
「コレを見てみろ」

素知らぬ風で、今朝の朝刊を差し出す。
ブラッディは横目で確認し、手に取って記事を眺め始める。
まるで興味は無かったが、内容を把握し始めると途端に顔色が変わっていった。

「…」
いつもの涼しげな翡翠色の眼が、驚愕と焦りに満ちている。
カルヴァンはその様子をじっと見ていた。

「どう思う?」
やがて、淹れたてのコーヒーが入ったカップを彼の脇に置く。
「―どうって?」
何気なくやり過ごすつもりなのか、ブラッディは関心の無いような返事をする。
だが、その表情は明らかに違う感情を物語っていた。

「メディアは連続殺人事件とうたい出したな。
しばらく市警の方で戒厳令を布いてたみたいだが、この辺が我慢の限界って感じだろうよ」
そう言ってカルヴァンは自らのカップにもコーヒーを注いだ。
一口すすると、脳内が動き出そうとするのが判る。

記事には件の異様な死体が転がる事件の報告が載っている。
ゴシップを好まない高尚を気取った新聞であるにも関わらず、記事の締めくくりは
『あるいは、現代に現れた吸血鬼の仕業か?』。
世間がこの話題で持ちきりだという現象の典型だ。

「…」
ブラッディは相変わらず、思案する表情のまま固まっている。
この美しい友人がここまで動揺している姿を、初めて見たかもしれない。

「…ブラッディ。アンタじゃないんだな?」
迷ったが、カルヴァンは口にした。
言わずにはいられなかった。

「馬鹿言え!」
彼が思っていたよりも声を荒げて、ブロンドが揺れた。
解ってはいたが、その反応を見たかった。
カルヴァンは、自身の内に点った疑いの火を消したかったのだ。
「…悪い」

静かに、宥めるようにブラッデイへ言葉を向ける。
その一言で、相手も我に返ったようだ。

「ああ…、いや。俺の方こそ、すまない」

「勿論、アンタの事はよく解ってるつもりだ。
こんな事、アンタがやる訳もないと解りきっていたつもりなんだ…」
「いいよ。疑う気持ちは理解できる。-俺だって」

そこで、一時の間。
「今、自分自身を疑ったよ。
俺は吸血鬼な上に…夢遊病者なのかって」
「ブラッディ…」

カルヴァンは、目の前の友人がどれだけ傷ついているかを悟った。
一瞬でも疑いの眼を向けてしまった自身を思いきり呪ってやりたかった。
「ごめん」

「何が?お前さんが謝る必要はないだろ」
「アンタに必要無くても、俺にはあるんだよ」
「…そうか。なら、仕方ないな」

ブラッディは改めてゆっくりとコーヒーを口にした。

俺だけは、彼を理解しているつもりだった。
けれど、やっぱり疑いの眼で見てしまう。
俺とは違う血が流れているからか?
人情とは関係なく、生態的な面で抗えない衝動を抑えられなかったのではないか…
そう、考えてしまった。

カルヴァンには共感出来ないブラッディの側面があるのだ。
それは仕方のない事だと思う。
見た目は同じでも、彼はカルヴァンと同じ〝種族〟ではない。
彼は、異質のものであるから。


だからこそ、俺は彼と一緒にいたいと思った。
生きにくい世界の中で、俺だけは彼を守りたいと思っていたのに。

気丈なようで、時折か弱い小動物のような目をする友人を
カルヴァンは何ともいたたまれない気持ちで見つめていた。

<Bloody>
「馬鹿言え!」

自分でも驚くくらいに動揺していた。
そんなに声を荒げる気は無かったのだ。
直後、心底すまないと思い、ブラッディは謝罪を口にした。
「…いや。俺の方こそ、すまない」

瞬間的に自身を疑ったのも本当だが
どう考えても不可能だ。

殺された人間はいずれも『新人種』だ。
自分には〝新しい色の血〟を糧にする事が出来ない。
自身の嗅覚にも自信はあったが、警察やマスコミがその辺りを騒ぐ風がないことからも窺える。

けれど。
ここの所、今までよりも眠りが深い気がしている。
寝起きの機嫌が悪いのは相変わらずだが。
自分の意識が覚醒していない間に、飢えた身体が勝手に人を襲っている…なんて事が
ありえないと言いきれるだろうか。

「ごめん」

カルヴァンが謝罪する。
何故?

彼の眼が物語っていた気がする。
あれは、俺を憐れんでいる眼だったように思える。
彼は憐れみをもって、俺と一緒にいるのだろうか。
こんな異質な命を憐れんでくれているのか?

正直なところ、疑われる事よりも憐れんでいられた方が辛い。
俺は別に、自分の血を悲観しているつもりはないのだ。
勿論、楽観もしていないが。

まぁ、何でもいいか。

相手がどう思っていようと、ブラッディはカルヴァンが好きだった。
最高の友人を見つけられた事が、彼にとって最大の幸せだったのだ。

ようやく見つけた。
だから、今更離れようとも思わない。
疑われていようが、同情されていようが
彼がそばにいてくれるのなら、それでいいと思っている。

そして同時に、彼はもう一つの可能性に心当たりがある事を思い出し
改めて思案顔を作っていた。

<Rosary>
幼少の頃は、それなりに可愛がられていた。
友達もたくさんいた。
みんなでよく遊んでいた。
大声を出して、走り回って。

「きゃっ!」
石につまづいて転ぶなど、日常茶飯事だ。
その些細な出来事で、自分の境遇が転換してしまうなど
子供心に想像出来るはずもなかった。

「いたーい…」
いつもより派手に転んでしまった彼女の周囲に、友達が集まってくる。「ロザリー!」
「大丈夫?」
「うん、…いたた」
すりむいた膝小僧から珍しく血が滲んでいた。
「―あれ?」
中の一人が気付いて声を上げる。「ロザリー」

「これ、血が出てるの?」
子供の発言はいつだって、容赦なくて残酷だ。
「だと思うけど…」
「ロザリーの血は、どうして赤い色してるの?」

初めて聞いた。
自分の内なるものへの疑問、否定。
「え?
だって…みんなそうでしょ?」
「ちがーう」
「僕もけがしたことあるけど、こんな色じゃなかったよ」
「ねぇ、どうして?」
一端、火が着いてしまえば口々に刃を吐き出す子供たち。
ロザリーにはもう、一つ一つの言葉は聴こえなかった。

どうして?
どうして、私だけみんなと違うの?

「こんなに赤い血、気持ち悪―い」

誰かの言い放った最後の言葉が、暗く深く彼女に突き刺さった。



中学を卒業する頃には、彼女の周囲には誰も近寄らなくなった。

幼いあの日、家に帰って両親に問い質した。
泣きじゃくって大声でわめいて、しまいには何を言っていたのか、
両親が何を言い聞かせてくれたのか覚えていなかった。

残っているのは、ただ一つだけ
「ロザリー。他の誰が何と言おうと、父さんと母さんはお前を愛しているよ。
誇らしいウィロウズ家の一人娘だ。
私たちは命を懸けて、お前を守りたいと思っているよ」

その両親も2年の後に事故で失ってしまう。
幸い彼らの残してくれた財産は結構なもので、
それと古くから仕えてくれた乳母が一人、彼女を支えてくれていた。

「ロザリーお嬢様、お辛くても学校はお行きなさりませ。
ご自身で得られた知識や経験は、どんな味方よりも強いはずですよ」
そう言い聞かせられ、中学までは何とか出てきた。
何よりも彼女本人が必要だと思っていた。

老齢だった乳母とも別れた時
彼女は
自分が本当に独りになってしまったと悟った。
それ以来、彼女は隣人に微笑みかける事はおろか、
話をする事さえしなくなっていた。


あのパークで、美しいブロンドに出逢うその時まで。


◆◇

隣人の血の色は薄い紫色で、味もそれなりだったが
どうやらこの世界には絶滅しかかった『旧人種』の生き残りがいるらしい。

その血は濃く赤く、ねっとりと独特の味を持つと言う。

是非とも相伴に預かりたいものだ。

慣れてくると、血の匂いが判るようになってくる。
薄い血の匂いも、濃い血の匂いも。

そのどれよりも多い鉄分の匂いがする。
それが、『赤い血』なのだろう。

探し求めた、甘美な香り。
世界中を探し回った。

ようやく辿りついた
この街には、濃い鉄の匂いがする。


<Dunhill>
あれは、高校時代最後の夏休み。父親が連れてきた家庭教師。
これまで、何度追い出しても諦めずに連れてくる。
彼は呆れる前に感心してしまった。
よくもまぁ、そんな次々に俺と相性の悪いヤツを連れて来られるな…。
うんざりしながら、面通しをした。

「君が、ロバート?」
自分の名前を呼ぶ声音の、何と心地好い事か。
そして目を見張る容姿に、立ちすくんでしまった。
反抗期もすっかり吹っ飛んだ様子の息子を見て、父親が満足そうに笑った。

「夏休みの間だけって条件付きなんだけど、出来る限り協力させてもらうよ」

「―宜しく。アンタ…、名前は?」

開け放たれていた窓から爽やかな風が吹き込んでくる。
ダンヒル家のリビングに麗しい花の香りが舞い踊る。
「これは失礼。
俺はブラッディ。宜しく、ロバート」



実際、彼と新しい家庭教師の相性は悪くなかった。
父親は一体何処からこの美人を見つけて来たのだろうか。
講義を受けながら、瞬間ぼんやりと思ってしまう。

「―今の、聞いてたかい?」
鋭く諌められ、ダンヒルはぴくりと肩を揺らした。
「え?…ああ…ごめん」
至極困った顔を作るので、ブラッディもつい笑ってしまう。
「何を考えてた?」
「へ?」
「君は今、別な事を考えていたんだろ?」

緩いカーブを携えたブロンドがふわりと揺れる。
その笑顔は、同級の女子生徒を見ているよりはるかに胸が高鳴る。
全く、俺は何考えてやがる。
けれども、つい挑発には乗ってしまうのが彼の悪いクセだ。

「ブラッディ。アンタ、男に口説かれた事とかないの?」
「ん?」
「アンタみたいな美人は、女でも見た事ないんでね」

涼しげに笑っていた翡翠色の眼が微妙に曇る。
そして、何処か妖しげな光を放ったように見えた。
「君も、俺に惚れちまった?」
「は…馬鹿言うなよ、先生」

明らかに好戦的な態度を垣間見て、ダンヒルは視線を教科書に戻した。
数式が嘲笑っている。
怖じ気づいたのかい、ロバート?

冷たい沈黙が流れた。

ブラッディはひとつ息をついて、場の空気を和らげた。
「今日の分が終わったら、外に出ないか?」
「え?」
「息抜きがてら外の空気を吸いに行こう。
時間外だよ。俺に何を聞いても構わないぜ」

相手は、ダンヒルが教科書よりも彼のプライベートに関する質問が山積している事を悟ったらしい。
「ふうん…、面白いね。何処に連れてってくれんの?」
「君の意思のままに」

学生は俄然、やる気が出てきた。
「オッケー。
じゃ、とりあえず…問3分かんない」



街の中には縦横に小さな路面電車『トラム』が走っている。
料金がかからず、手軽に利用できるので散歩をするのにも最適だ。

ダンヒルはコレに乗って、街の端から端へ遊びに出るのが
幼少の頃から好きだった。

「意外だな」
海岸線を走る車内から夕陽を携える海を眺め、ブラッディはつぶやいた。
「何が?」
「君がまさか『トラムに乗りたい』なんてカワイイ事言うと思わなかったのさ」
改めて言われると、確かに子供っぽい。
ダンヒルは少し赤面して顔をそらした。
「悪かったな。俺は基本品行方正、健全なお子様なの」
「いいじゃないか。別に無理して不良になる必要はない」

夕陽が紅く、海と車内を染め出した。
その横顔にも。
またもダンヒルは、目を奪われてしまう。
完全に負けていると思った。

「―きれいだな」
「ああ。今日は快晴だったしな」
夕陽の事を言ったと思い、ブラッディは応じる。
「そうじゃない
俺は、アンタの事を言ったんだ」
「俺の?」

「アンタ、何者なの?」
その質問にブラッディは海に向けていた視線を車内に戻し
「何だと思う?」
問い返す。
「この世のものじゃないように見える。
アンタ…人間にしたら、きれい過ぎるよ」

他意はないのだろう。
しかし、『人』は時折
何とも見事に確信をついた事を言い出す。

「面白い事言うね、ロバート」



トラムで街を一回りし、
特に何と言う事もなくセントラルパークまで戻って来てしまった。
「楽しかった?」
「ああ!大いに楽しんだね!悪い?」

年相応、いや更に幼い子供の反応を見せるダンヒルに
ブラッディはまたも笑みを漏らす。
「いや、すまない。こんな程度で喜んでもらえるなら、
 是非とも日々のカリキュラムに組み込もう」
あながち本気で言ったのだが、生徒には素直に伝わらなかったようだ。
「何の冗談だよ」
「あれ?本気で言ったのに」
「たまにでいいんだ、コレは。それよりちゃんとお勉強教えてくれよな、先生」
「それは勿論さ」

すっかり日の暮れたパークは緑が青黒く茂っている。
昼間の賑わいとは打って変わり、鬱蒼として少々気味が悪い。

「さて、家へ戻るにはココを抜けて行った方が早そうだな」
ブラッディがさらりと言い放つと、ダンヒルが躊躇した。
「抜けるの?ココを?」

「何だ、坊や。怖いのかい?」
横断歩道の信号待ちの間に、通りは帰宅の車両が行き交う。
ヘッドライトが順番に流れては、2人の顔を照らして行く。
「馬鹿か。ガキじゃあるまいし」
GOサインが点るとダンヒルは一気に渡り、パークへ駆けて行く。「おいおい」
「走ったら危ないぞ、坊や」
クスクスと笑いながらブラッディも後を追った。

「遅いぞ先生!-…っ! 痛ぅ…」
彼が振り返り、腕を振り回した先には市長寄贈のバラ園が広がる。
勢い余って、棘を刺してしまったか。

ダンヒルの左手首を一筋の血液が糸のように流れた。
途端に鼻腔に刺さるような鉄の匂い。
思わず息を飲んだ。

勿論、暗闇でこの距離からは視認する事は出来ない。
そう言えばこの辺りは、灯りが建っていないのか。
それでも、匂いのもとを目撃したくて懸命に目を凝らそうとする。
ウンザリするくらいの本能だ。

一呼吸置いて、ブラッディは口を開く。
「どうした?」

「バラの棘だ…いってぇ…」
「案外深く切られたな」
そばに寄れば更に匂いは濃くなる。息が上がりそうになるのを堪え、彼の腕を取った。
おそらく違う。
この血では俺の渇きは癒せない。
けど、
もう随分長い事断っていると、この薄い鉄の匂いでも過敏に反応してしまうのだ。
「…」
ブラッディは流れ落ちる紫色を食い入るように見た。
眼が慣れてくれば、その色の違いも判別がつく。

違う。やっぱり、違う。
でも。
「大事な血の一滴が、勿体ないな」

「…え?」
ダンヒルはその何気ない一言に、全身が総毛立つのを禁じ得なかった。
今までの彼との会話と、声の響きが違った気がしたのだ。
「先生?何言って…」
相手の次の行動に思わず息を飲む。
掴んだ腕に流れる液体を、ゆっくりと舐め上げるその行為は
血に飢えた獣のそれに良く似ていた。
「―ブラッディ…」

それから、自らのチーフを取り出して傷口に当てた。

「やっぱり、ココは通るべきじゃなかったな。
 ダンヒル家の大事な子息に怪我をさせてしまった」
その声音は既にいつもの穏やかなものだったが、
ダンヒルには彼の眼がやけに赤く光って見えた。

「なぁ、アンタ…」

聞いていいものか迷う。
知ってしまっていいものか。
知らない方が幸せな事もある。

それでも、
真実がすぐ目の前にあるのならば。

「恐れなくてもいい。
俺は、君たち新人種の血は糧には出来ないから。

―俺は、〝赤い血〟しか吸えない旧式の一族だから」

3 the Library

<Black Russian>
街を見下ろすような小高い丘の上に、大聖堂があった。

歴史遺産だか何だかと評されて、街の人間達は意外と大事に扱っている。
信仰心など荒廃しきった世の中で
これほど滑稽な光景があるだろうか。

そんな時代の世界の中でも、尚少しだけの人間が
旧来の目的でこの大聖堂に訪れたりもする。

中でも熱心に毎日通う一人。
『彼』は、その女に注目していた。

「毎日、こちらにいらしていますね」
随分と長い時間祈り続けていた彼女の肩に手を掛ける。
瞬間、びくりと身体を震わせ
ゆっくりとこちらを振り返った。

褐色の肌色。縮れた黒髪。
この街では随分異端に見えるが、しかしその眼は誰よりも美しく澄んでいた。
彼は、少しだけその眼にひるんだ。

「―もしいらっしゃるのなら、主のご加護を…私の弟に。そう思って」
彼女はすぐに視線を伏せて答える。
小さくても、鈴の音のように透き通った声色だった。
「弟さん?」
彼が柔らかく尋ねると、彼女は再び視線を上げて寄越した。
彼はお得意の笑顔を作る。
場所柄も手伝えば、〝聖人君子〟を装えるものだ。
「ええ。長いこと、病に伏せっておりますので」

「そうですか」

丘の上は国定公園になっているので、この聖堂の他に建造物はない。
手軽な街中のパークには日々散策客も多いが、此処に足を向けるものは滅多にいない。
厳かな静寂が、2人を包んだ。
「貴女の想いはきっと、届いていますよ。
貴女ご自身にも、主の加護がありますように」
「…ありがとうございます」

そう言うと、黒髪をさらりと揺らして微笑んだ。
この場所で見るとまさにそれは、聖母のものであった。



不思議な男に会ったと、ルーシーは今朝の出来事を思い出していた。
日課として訪れていた大聖堂で、誰か他の人に出会うことなど皆無であった。
あんな朝早くに…あの辺を管理している人だろうか。

そこで出会ったことも珍しかったが、
何よりも、男の得体の知れなさに身体が震えていたのだ。
初めて会った人間に対して、恐怖心を抱くなんて。
見た目はごく普通の優男だった。
秀麗な顔立ちと、丁寧で慈悲に溢れた言葉遣い。

ただ、ひとつだけ。
さり気なく彼女の肩に置かれた掌が、この上なく重く冷たかった事が
鮮烈な記憶として焼き付いていた。


「ただいま」
街の外れにある小さなアパートの一室に、薄明かりが点る。
ルーシーは極力音を立てないように室内に入る。
奥の部屋の扉を開けた。
リビングから灯りがこぼれる。それにすら気を遣いながら
ベッドに近づいていく。
「…」
眠る横顔に耳を傾け、息を詰めて、弟の呼吸を確認した。
少し弱いが、安定したリズムで寝息を立てている。
良かった。
神様、今日も生かしてくださって感謝します。
ルーシーは自らの細い指を組み、吐息と共につぶやいた。

彼女の一日は常に規則正しい。
早朝に礼拝へ行き、そのまま仕事に向かう。
昼に一度自宅へ弟の様子を見に戻る。
それから夕方までの仕事を終え、その日の食糧を少しだけ買って、帰宅。
夜はずっと傍らで本を読んだり、内職をしたりしながら
弟と共に過ごす。ようやく就寝するのは深夜だ。

彼女の世界は、たった一人の身内である弟を中心に構成される。

虚弱体質だったらしく、子供の頃からあまり外で遊ぶことが出来なかった。
それでもあの頃は一緒に語り、笑い合う事も出来たのだ。

この子が目を覚まさなくなって、どのくらいになるだろうか。
幸い、好意で定期的に健診をしてくれる知人の町医者がいるが 
こん睡状態の原因まではつきとめられなかった。

大きな病院で診て貰うだけの費用は工面できない。
彼女に出来る事は、せめて好い夢が見られているようにと
神に祈ることくらいだ。

自分よりも少し浅い肌色の頬をそっと撫でながら、人知れず泣き崩れる。
これもまた、彼女のルーティンに組み込まれてしまった。

<Dunhill>
捜査会議に一つの手がかりが出された頃は、既に4体目の遺体が発見された後だった。
捜査員が歯噛みしながら会議に出席している中、
それはあまりに小さな光明だったが、全員が飛びつくように自らの手帳に書き込む。
全身からは疲労が滲みだし、しかし眼だけが異様に光る様。

彼らを眺めながら、自分も同じようなもんだろうなとダンヒルは考え、
更にまたあの男を思い出す。

獣の様な眼をした、あの夜の旧友の。
彼は確か…『旧式の』とか何とか言ってたな。

件の出来事のあと、恐怖感のせいであまり他の事は覚えていなかった。
徐々に思い出してみると、気になる言葉が次々と浮かんでくる。
当時は恐ろしくて追求できなかった。
それが、悔やまれてならない。


「おい、若造」斜め前から声を掛けられた。
はっとして顔を上げると、テーブルについているのは自分だけ。
会議はとうに終了していた。
「…あれ」
「何ボーっとしていやがった。行くぞ」
コンビを組む熟練の刑事は上着を肩に引っ掛け、さっと翻して会議室を出て行く。
地取りのベテランである彼について、今日もまた街中を奔走するのだ。

階段を降り署の入口で、彼に追いついた。
くわえ煙草を揺らしながら、『若造』へ確認する。
「さっきの話、ちゃんと聞いていたかい?」
「え?…ええ、勿論。最後の仏さんの〝伝言〟ですね」
「『Rusty Nail』か…」
「『錆びた釘』…ですかね」
相手は当たり前だと言わんばかりの顔をして、紫煙を吐き出す。
「そんな名前の酒もあったな」
「へぇ、そうなんですか?」
ダンヒルは思わず頓狂な声を上げた。
「知らねぇのか」
自分の父親程も歳の離れたその刑事がふっと笑う。

ブロンドの家庭教師を連れてきて、
してやったりと笑顔を作った父親の姿と重なって見えた。


<the Library>
セントラルパークの向かい側にあるのが、中央図書館。
大きな構えの施設内には、蔵書も多い。
閲覧室や併設されたカフェのお陰で、日々利用客が絶えない。
閲覧スペースは良く陽の当たる窓際に広く取られ、真っ白なテーブルに掛け心地の好い椅子を組み合わせてあり、
目指す書物が無くても雑音の少ない憩いの場として、老人や独りを好む者が訪れていたりもしていた。
街の中心にある、市民に愛される施設のひとつだ。

その白いテーブルの前で日向ぼっこも兼ねながら、ロザリーが隣で分厚い一冊と格闘している。
そのタイトルと内容量を窺いながら、少し背伸びをしているのではないかな…とブラッディは思った。

額の広い、神経質を画に書いたような相貌の物理学者の理論書だ。
「…理解してるの?」
聴こえないようにつぶやいてみたが、しっかり聞き取ったらしい。
キッとこちらを睨み返して彼女は言う。
「理解したいと思う心意気も大切なのよ」
「…ごもっとも」つまりは、良く解っていないのだ。

おそらく、理論に深く理解を持てなくとも、
文字を追う事で何処か別の世界へ飛んで行けるような感覚が楽しいのだと思う。
少なくともブラッディは、そういう観点で書物を選んでいた。勿論、彼女より理解力はあるつもりだが。

小難しい書物の世界に没頭してしまえば、辛い現実から逃避出来る。
書物は読む者に分け隔てなく知識を提供してくれる。
例え当人が、世間でどれだけの迫害を受けようとも。

「でも、ガラスに閉じ込めて毒ガスを入れて 
その中に猫を入れとく実験って、どれだけ悪趣味なのかしら」
ロザリーが眉をひそめる。
「理論の一環だけどね…。確かに例えはあまり気持ちの好いものじゃないね」
ブラッディが苦笑した。何と言うか、女の子らしい着眼点な気がした。
「猫にも意思があるわ。生きて行く権利もあるわよ」
「―…」
もしかして、自分と重ね合わせていたりするのだろうか。

「シュレーディンガーだって、悪気があった訳じゃない」
「悪気が無いなら、何をしても許される訳じゃないわ」

ロザリーが何を思い出し、何を応えるのかおおよその見当がついていた。
我ながら冴えない事を言ってしまったとブラッディは後悔した。
「…そうだね。すまない」
「何故、貴方が謝るの?」

少し前に自らが交わした友人との会話がオーバーラップする。立場は逆だったけれど。
相手に必要無くても、自分が謝らねばならないと思うことってのはあるんだな。

「俺が必要だと思ったからさ。
受け取ってくれれば有難いな」
そう言って、彼は自分が持ち出してきた資料に目を落とした。


ブラッディが手にしているのは、過去10年の新聞記事。
現在進行の『死体遺棄事件』と似たような事件がないか、丹念に目を通す。
今のところ、特に引っ掛かる記事は何も無かった。

…俺の思い過ごしだろうか。
確固たる証拠は何もない。ただ単に『自分の一族ならば可能な殺され方』をしているだけなのだ。
仕掛けさえあれば、一般の人間にやって出来ない事ではない。

ただ、数々の過去の記憶がじわじわと蠢(うごめ)き
彼の中で薄暗い可能性を見出し始めている。
あまり認めたくはないのだが。

全ての記事に目を通し終え、少し頭を切り替えようと席を立つ。
隣では相変わらず、ロザリーが『シュレーディンガーの猫』と〝戯れている〟。

もう少ししたら、カフェでお茶でも飲もう。
つぶやいた彼の声が、
宇宙の果てあたりに旅している彼女の耳に届いたかどうかは判らなかった。

新聞を片付けて、奥の書棚を物色していた。この辺りの蔵書は大体読了している。
ブラックホールもホワイトホールもタキオンも中性子も、既に面識のあるものばかりだ。
少し、毛色の違うものでも読んでみるかな…。

ブラッディは物理や数学の棚から眼を離してみる事にした。
隣のブロックに入ってみると。

既に3冊ほど抱え、もう一冊と必死に手を伸ばす姿がやけに初々しく映った。
彼女の指先が、あと少し
目的の本に届かないようだった。
「…」
彼はついと近づくと、その指先3センチ先の本を手に乗せてやる。
「ああ、ありがとうございます…」
小さな鈴の音が聴こえた。
「これで、良かったですか?」
ブラッディが笑顔を作って問いかけると、彼女も振り返って応えてくれた。
「ええ、大丈夫。
すみません。あと少しだったので、脚立を取りに行くのが面倒で」
何気ない言葉を落とす彼女の、清楚な雰囲気に気圧される。

褐色の肌色。縮れた黒髪。
長いまつげの下に携えた意志の強そうな瞳。
それだけではない。
この娘からは、〝聖なる〟匂いがする。

それでも、彼は平静を保って締めくくった。
「また必要とあらば、僕を呼んでください。脚立と違って、動けますからね」
その匂いの中に、かすかだが鉄分の濃い血の気配も嗅ぎ取り
あと少しだけ、彼女の姿を見つめていた。

昨晩までに読み終えたものを返却し、新たなものを何冊か物色しようと
ルーシーは仕事の昼休みを利用して図書館を訪れた。
通い慣れた道順を辿り、書棚の間に立つ。彼女好みの古い歴史や神話の書物が並んでいる。
2~3冊持ち出してパラパラとページを繰り、気に入ればそのまま借りて行く。
3冊目のタイトルに手を伸ばしてみた所、少々自分の上背が足りない事に気がついた。

どうしようかな…。
窓際にある脚立に眼を向けた時。

「―これで、良かったですか?」
彼女をすっぽりと包み込むように、影が出来
白くて長い指がタイトルに手を掛け、彼女に渡してくれた。
「…あら」
後ろを振り返り見上げると、手元と同じく 
白く透けるような肌色の男が柔らかく微笑んでいた。
「ありがとうございます」
言いながら、男の要素すべてが 
彼女が欲してやまないものである事に少しの羨望と苛立ちを覚えた。
が、そんな醜い感情を払拭する程の輝かしい容姿に
瞬間、神を重ね合わせる。

あるいは、天使の様な。
ほんの少しの時間が止まったような気がした。
呼吸やまばたきも忘れてしまう。

「また必要とあらば、僕を呼んでください」
軽口をたたいて立ち去る後ろ姿から、ルーシーはどうしても目が離せなかった。


生命は常に進化を繰り返す。
周囲の環境や時代背景に伴って、自然淘汰を重ね
強く柔軟に適応できる種族が生き残り、世にはびこっている。

それはヒトの中でも、例外なく起こっているものだ。

「『種の起源』『世界の絶滅危惧種』『進化と退化』…」
タイトルを小さく読み上げる。
ダンヒルがこの図書館に最後に足を踏み入れたのは、10年も昔になろうか。
件の旧友と『課外授業』などと称して、此処の大きな白いテーブルで勉強して以来だ。
元来、あまり活字と親しくなかった。
それは現在も大して変わらない。

彼は腕時計に目をやって、時間を確認する。
先輩刑事には30分だけと許しを乞うて、別行動を取っている。
とにかく、知識を仕入れる為の文献が欲しいと思ったのだ。

「『旧式の』人間って言う事は、人間もそれなりに進化してるってことか…?」
あの日の言葉を思い出すまで、考えた事もなかった。
人間というものは、初めから完成された一つの形で揺るがないものだと思っていたのだ。
だが、そんな話を義務教育中に教わった記憶がない。信ぴょう性に欠けるとも思う。

彼のあの言葉を信じるとすれば、少し前の世代は『血の色が赤かった』という話だ。
そんな事が俄かに信じられるだろうか。
でも、何故だか彼の言葉には説得力があった。

だからこそ、調べてみたいと思ったのだが。
「それっぽいモンは無いよなぁ…」

時間だけが無情に過ぎようとしている。
その時、ふと目に留まった一冊。
生物学系の書棚の中に、ひっそりと隠れるように眠っていた。

「タイトルが、無いな…」
手に取ると、さほど厚みのない手帳の様なものだった。
随分とくたびれてボロボロだ。
出版物と言うより、誰かが置き忘れて行ったモノのようにも見える。
ダンヒルはそっと指をかけてその書物を取り出し、パラパラとページをめくってみた。
気をつけて扱わないと、ページが取れてしまいそうだ。
「大丈夫かなぁ」
多少心配だが、何故かとても引っ掛かり
生物学や医学系の血液の話をしていそうな書物何冊かと共に、ひとまずそれも借りてみる事にした。
時間も無いので、そそくさとカウンターに向かう。

「貸出期間は2週間。延長される際は必ずもう一度来館すること」
若くてカワイイ容姿に似合わず、すこぶる無愛想な司書が
パソコン画面を睨みながら手際良く処理を施す。「…あら?」

その手がぴたりと止まった。
「どうしたの?」
「おかしいわね…こんな書籍、蔵書にあったかしら」
件の手帳のような書物だ。
どうやらデータベースにタイトルが見つからないらしい。…と言うより、
「コレ…、何てタイトル?」

こちらに聞かれても困ってしまう。ダンヒルは、肩をすくめて応じた。
その様子を見て、司書もそうよねぇ…と首を傾げる。
「…でも、管理ナンバーは貼ってある」
背表紙の下の方に無造作に貼られたシールを確認して、彼女は改めてキーボードを叩いた。

「…無いわね」
「書込み忘れたんじゃないの?」
「失礼ね。うちの管理をなめてもらっちゃ困るわよ」
別にそんなつもりはないのだが。
そろそろ合流の時間だ。急ぎたいな。
ダンヒルが頭をかきながら「じゃぁ、後でまた来るよ」とでも言おうとした時、

「まぁいいわ。ナンバーだけ書き留めておくから。
だいぶ傷んでるから丁寧に扱ってね、荒っぽそうなお兄さん」

司書はウィンクして手渡してくれた。案外、融通を利かせてくれるものだ。
最後の一言に反論したかったが、ダンヒルは
「悪いね。ありがとう、カワイイお嬢さん」

それだけ言い置いて、ウィンクを返すに留めたのだった。

4 the Oldblood

<Rosary>
少女はその時初めて、自らの置かれた境遇を知った。
そして、呪った。

「いいかい、ロザリー。お前にはみんなと違う血が流れている。
その事で何か言われるかもしれない。
だがお前の持つ血の色は、先祖から受け継いだ誇り高き赤色だ。
忘れちゃいけないよ

いつだって、父さんと母さんは
お前を誰より愛していると言う事も」

彼女はこの両親の間に生まれた事は誇りに思っている。
だが、一族の血に誇りを持てた試しはなかった。



「すっかり日が暮れちゃったわねぇ」
ようやく中央図書館を後にすると、街はすっぽりと夜の藍色に包まれていた。
ロザリーは何冊か借り出した本を大事そうに抱え、肩をすぼませた。意外に肌寒い。
「家まで送って行こうか、お嬢様」
ブラッディは着ていたジャケットを脱ぎ、彼女の肩に掛けてやる。「あら」
「ありがと、ナイト様」
何気ない彼の仕草は一つひとつ板について気品に溢れている。
他の輩ならともかく、
ブラッディに施されると 本当に自分が〝お嬢様〟になった気分になるのだ。悪くない。

「家は、ココから遠いの?」
ジャケットの中にわずかに残る花の香りに酔いしれていると、ポンと頭に手を置かれた。
彼が時折子供扱いすることだけは、少し気に食わなかった。

「そうでもないわ。丘のふもとの辺りよ」
そう言ってロザリーが指示した先に、大聖堂が見えた。
薄暗闇の中、ただ黒い影が居座っている。
街の東側は繁華街になっており、夜でも明るく賑わう。
一方で西側は、閑静な住宅街と大聖堂の丘が主体でだいぶ暗い。
ブラッディは少しだけ恨めしそうに、その黒い影を一瞥した。
「女の子を独りで帰すには、少し暗い通りだね」
「そぉ?もう慣れっこよ」
お嬢様は気丈に振舞うが、
乗せられたままの白い掌がポンポンと、もう2、3度彼女の頭を撫でた。
「油断大敵。さ、行くよ。案内して」

3、4ブロック進むごとに灯りが少なくなってくる。
人気も無いので、やはり独りで帰さなくて良かったとブラッディは思った。

緩やかな上り坂にさしかかる。右側に大聖堂の黒い影が、先ほどよりも大きく見えた。
「あの先の家よ」
ロザリーが言う方向には、何とも立派な門構え。
勿論、その奥には立派な邸宅が静かに主の帰りを待っていた。
「へぇ。ホントにお嬢様なんだね」

わざとらしく感心したようにブラッディが口にする。
こうして時折挟んでくる彼の皮肉にも、だいぶ慣れてきた。
「器だけよ。さぁ、どうぞ」

「…いいの?」
ブラッディが意外そうな表情で聞く。
「メイドも執事もいないけど
私だって、お茶くらい入れて差し上げられてよ」
一睨みして、大きな門を押し開いた。


<TARKUS>

50番街は街の中心とも言える繁華街だ。
最近流行りの大型ショッピングモールと、その先に伸びる広いアーケードの中には所狭しと店が建ち並ぶ。
昼でも夜でも、様々な人間のニーズに応えている。

アーケード街の向かい側の通り、パークの並びにひっそりと構えるのが
『TARKUS(タルカス)』だ。カルヴァンの父親が始めた。
特にカクテルやバーボンに力を入れて売り出していたが、
料理上手の息子の代になって、若干だが定食めいたモノも出すようになった。
少し風変わりなパブである。

古くからの常連、美味い食事にありつきたい労働者たちのお陰でそこそこ繁盛している。
営業は昼時と、夜の時間。基本的に年中無休だが、気まぐれで休みを取ったりもする。
その辺りも常連たちはよく心得ているらしい。
古ぼけたレンガ造りのそのビルの2階、3階は住居になっており、単身者が何人か住みついている。
カルヴァン自身も一部屋使用しており、
彼の生活はほとんどこのビルの中で成り立っている事になる。


その夜も客入りはそこそこで、いつも通りテキトウに 
酔っ払いの声高な主張や愚痴の相手をしていた。

そこへ、扉が開く音がする。「いらっしゃい」
咄嗟に言葉を発し、入口に目をやる。
…あれ。見た顔だ。確か、こないだの…

青年は手にした手帳だか書物だかを真剣に読みながら、カウンターの席に腰かけた。
短髪、くたびれたスーツ、かすかな疲労と死の移り香。
この間の刑事だ。
いや、おそらく刑事であろう青年だ。

「お兄さん、確か先日もいらしてくださいましたよね?」
人当たりの好い笑顔を作り、カルヴァンが話しかける。
目の下の隈どりがいたたまれず、熱いおしぼりを手渡した。
「―え? ああ…、どうも」
青年が受け取って両手を拭くのをじっと見ていた。
目頭に蒸気をあてて、しばらく固まっている。

よっぽど疲れてるんだな…。
根拠は無かった。けれども、この青年は何処かで何かが引っ掛かる。
「お疲れのようですね」
つい、言葉を掛けてしまった。

「ちょっと、思うように仕事が捗らなくて」
青年はおしぼりで顔を覆ったままぼやいた。
カルヴァンは気付かれないようにクスリと笑いながら
「何かスタミナのつくモノでもご用意しましょうか」
と勧める。
この調子ではろくなモノを食べてなさそうだ。
蒸気を取り払い、青年は意外そうな表情を浮かべながら
「じゃぁ、お願いします。あと…」
と、スーツの内ポケットから手帳を取り出して
「『ラスティ・ネイル』って、作れます?」
と言った。

<Bloody>
旧き良きヨーロッパを彷彿とさせる館の中に招き入れられると
ブラッディにはだいぶ古い記憶がよみがえってくる。

忘れたいと願う程感傷にも浸らないが、
特段思い出して楽しい思い出もない。

照明は最低限のものしか無さそうで、天井の隅の方までは灯りが届ききらない。
あの隅っこの方になら、ちょっとした異世界の何かが潜んでいてもおかしくなさそうだ。

…自分の事を棚に上げてる気がするな。彼は独りで苦笑した。
「どうかして?」
不審な挙動をロザリーが見つける。
「ああ、いや別に」
咄嗟に笑顔に作り替えた。

「私の部屋は2階なの。階段を左へ上がってすぐの部屋よ」
お先にどうぞ、と手を差し伸べる。
玄関の真正面に大きな階段が据えられており、踊り場から上段は左右に分かれる。
「君は?」
「お茶を入れてくるわ」
「そう。ありがとう」

ロザリーはくるりと踵を返し、奥へ進んで行く。
おそらくキッチンがあるのだろう。
その背中を見送って、ブラッディは階段に足を掛けた。

踊り場の中央の壁面にくっきりと跡が残っている。
額縁を掛けていたのだろう。色褪せた壁色の中に、大きな長方形が白々しく浮かび上がっている。

何となく、哀愁を感じてしまう。
その昔は家族がいて、使用人がいて、
此処には先祖だかの誇らしげな肖像が掲げられていたのだろう。

栄えていた過去と、取り残された現在。
此処には何処か、自分と似たような境遇が転がっていた。

『飢え』をしのげるかもしれない
そう思って近づいた彼女になかなか手が掛けられないのは…そのせいか?

種族最後の生き残り。
繁栄する事を許されず、散りゆくその日を待ちながら
ただ、時間を積み重ねるだけの命。


「あら?まだこんな所にいたの?」
見るともう既にロザリーが盆を持ってやって来ていた。
紅茶の葉の匂いがした。
「ココに、何か掛けてあったのかなぁと思って」
ブラッディが指差して言うと、ロザリーは眉をひそめて
「うちの先祖だったと思うけど…、もう忘れちゃったわね」
そう言い捨てた。


彼女の部屋は殊更シンプルで殺風景だ。
窓際に大きなベッドが置かれ、真ん中に小さな丸いテーブルが一つ。
事務机の上には、ノートパソコンと古いラジカセの様なモノが見受けられる。
窓以外、周囲はほとんど本棚だ。
ワードローブなど、申し訳程度にひっそりと配置されている。
不躾だとは思いながらも、ブラッディは一つ一つ興味深く眺めてしまっていた。
「何とも…、機能的な部屋だねぇ」
「誉めてるつもり?」
「一応ね」

ロザリーが手慣れた要領で紅茶を入れてくれた。
手渡されると、カップからじんわりと温度が伝わってくる。
良く見れば、カップもポットも上品で繊細で高そうな品だった。
「見てくれだけよ。この家も、このカップもね」
彼の考えを汲んだような言葉だった。

「ずっと、独りでココにいるのかい?」
紅茶なんていつぶりだろう。
懐かしむように一口含んでみた。遠い過去の味と同じかどうかは思い出せないが
やっぱり、美味いな。

「そうよ。3年前に乳母が亡くなってから、ずっと
 部屋で本を読んでいたわ」
ロザリーは自分のカップに2つ程、茶色い角砂糖を落とした。
小さな気泡を出しながら落ちていく砂糖を眺めしばらく動きを止めていたが
やがてスプーンでかき混ぜて溶かした。

「両親は私が中学に入る前に、事故で亡くなったの」

「学校ではずっと、独りだったわ」

「…」

「これでも昔は友達もたくさんいたのよ。結構モテたんだから」
「だろうね」ブラッディが笑う。
「私が、他の子たちと違うって知ったのは…10歳くらいの頃だったかしら
みんなで走り回って遊んでて」

どうしたんだろう。
ロザリーは少しずつ、吐き出すように 絞り出すように
自らを語り出している自分に気がついた。

「ある時、私…転んでしまったのね」

口にするつもりも無かった事だ。
もう二度と、口外するなと言われたから。
何故、彼に話そうとしているんだろう。

「思ったより傷が深くて」

ブラッディは何も言わない。ただじっと彼女を見つめ、話の続きを促している。
その眼がまた、あの冷たい色をしているような気がしてロザリーは視線を外した。

「血が滲んでいたの」

「そしたら…
誰かが言ったのよ…
ロザリーの血は、どうして赤い色してるの?って―」

語尾に涙が滲む。
思い出せば今でも、傷口から血が噴き出してくる。
忌々しい赤色の。

「おかしいでしょ。私、赤い血を持つ種類の人間なんですって。みんなと違うの。
―貴方とも違うのよ、ブラッディ」
「…」
「子供の口に蓋は出来ないわ。噂はすぐに広まった。
周囲は一斉に、私を、うちを敬遠しだした」

「両親は最後まで私を守ってくれたの。だから私も応えたかった。
頑張って学校にも通ったし」

ロザリーの言葉も涙もとめどなく流れては落ちていく。
今まで堪えてきた箍(たが)が、外れる音を聞いた気がする。

「父さんは血の色に誇りを持てって言ったわ。
その色は気高き種の色だって。お前は特別なんだって。
けど…

私にはそんなもの、何の意味も持たない」

肩にかかる程の彼女の髪は、俯けばさらりとその顔を覆い隠す。
普段はすまして大人ぶっていても、白く細い指先はまだまだ子供だ。
その指の間から掬いきれない涙が溢れてくる。

カップを置き、ブラッディはすっと立ち上がり、
「私は、みんなと同じがいいのに…―」
「解った。もういいよ」
次の言葉をさえぎるように言うと
今までの言葉を包み込むように、彼女を抱きしめた。

少女の震える肩をしっかり抱き留めてやると、
しゃくりあげるのも次第に収まってくる。
「もう、いいんだよ」
もう一度、静かに言った。


<TARKUS>
「…何スかコレ?」
カウンターに出されたものを見て、ダンヒルは思わず尋ねた。
こんな食事は見た事が無い。
ボウル皿にのせられたのは、卵でとじられたカツレツだ。彩りにほうれん草のソテーが添えられている。
土台にはどうやら白米らしきものが見え隠れする。

カルヴァンが笑顔で応える。何処か誇らしげな表情に、青年は更に困惑した。
「〝カツ丼〟ですよ。貴方がたの『ソウル・フード』ではありませんか」
「貴方がた…って」
「あれ、お兄さんは刑事さんじゃないんですか?」
何処から切り返すべきかダンヒルは悩んだ。
しかし、自分の生業をさらりと言い当てられてしまった事に対しては 
若干の悔しさと己の未熟さを痛感する。

「…そう思います?」
努めて冷静に口を開いた。
「うーん…まぁ何となくですが。
この商売長くなると、鼻が利くようになるんですよ。
他の方なら、判らない事もね」
最後の一言は俺に対するフォローだろうか。それならそれで、また悔しい気もする。
疲れているせいか、ダンヒルは自分がナーバスになっていると気付いた。
「あ、冷めちゃいますから。どうぞ」

カルヴァンが促したので、その珍妙な食事に恐る恐る手を伸ばす事にする。
見た事は無かったが、色も匂いも食欲はそそられる。
皿を引き寄せると、湯気が青年の疲れも何も癒してくれそうだった。

「―美味い」
「それは何より」
嬉しそうに応えると、バーテンは傍らに水の入ったグラスを置いてくれた。


食事中、今宵も賑やかな店内の声をダンヒルは何処か遠くで聞いていた。
労働者たちは己の賃金や待遇についての主張を続ける。
公務員が受けている分厚い施しに対しての不平を叫ぶ。

そんなにいいもんじゃないぜ。
ダンヒルがほんの少し怒りを滲ませてつぶやくのを
カルヴァンは黙って聞いていた。

「ごちそうさま。美味かったスよ」
初めこそ及び腰だった青年の箸(この店では料理に合わせて箸も使わせるのだ)が、
ある時を境に止まらなくなったのを横目で見ていた。
当然…と思ったが、バーテンは謙虚な態度で空になった皿を下げる。
「恐れ入ります」
同時に新しいグラスを差し出した。
彼が食事を終えるタイミングで完成させたカクテルだ。
「ラスティ・ネイルです」

寸胴の古めかしいグラスの中に、茶色い液体が注がれている。
クラッシュド・アイスが幅を利かせているせいで、グラスの側面にも水滴が浮かんでいた。
「コレは?」
氷に刺すような形で、茶色の細い棒の様なものが添えられていた。
掴むと途端に表面が溶けて指に付着した。チョコレートか。

「それは、僕のお遊びですけど」
「なるほど。ちょっと、釘みたいに見えますね」
ダンヒルが興味深そうにグラスを回して眺める。
それからゆっくりと口に含んでみた。

ウィスキーの香りの奥に、甘いリキュールの誘惑。
「もともとが甘みの強い種類ですので、少し氷を大目に入れてあります
あまり酔わせてしまうと、明日のお勤めにも影響しそうですしね」
カルヴァンは付け加えた。

イメージと違う、甘い酒に
ダンヒルは癒されると言うより、弄ばれそうな気がしてならなかった。
このバーテンの言う事は、いちいちもっともだ。

店内に居座っていた常連のグループが退去し、
静かに飲み語らう大人たちだけが残った。

気がつくと、店内にはごく低音量でBGMが流れていた。
古いアメリカの国民音楽。ブルースと言う音楽だったか。
「ロバート・ジョンソン…、でしたっけ」
幼少の頃の記憶を引っ張り出して、青年が言った。
「おや。よくご存知ですね」
カルヴァンは意外そうな顔をして応える。
「親父がね。古いのが好みで、よく聴かされてましたよ」

自らが置かれた現状を嘆き悲しみ、
それでも 強くしぶとく
生きていきたいと声高に願うための音。

十字路に立って
俺は悪魔と契約したのさ

伝説とうたわれたブルースの祖の歌声は、いつ聴いても悲哀に満ちている。
しかしその一方で、誰よりも力強い。
ダンヒルは先まで我が物顔で店内を賑わせていた
あの労働従事者たちの黒く日焼けした顔を思い出していた。

酒は既に3杯目。
あの後、切り替えたジャック・ダニエルをなめながら
図書館で借りてきた黒い手帳の様な書籍に目を走らせている。

ほんの何十年と言う単位で、『旧人種』は滅びの一途を辿り 
自分たちの世代が生まれた

そこには確かに綴られているが…、そもそもこれは出版物なのだろうか。
ダンヒルにはそれすら疑わしく思えてきた。

ページは手書きの文字で埋め尽くされていた。
その文面は、何処か個人的な走り書きのようでもある。
誰かが密かに探求を進め、つきとめた事柄を書き記したまでの未完成のものに思えてならない。
黄ばみ破れかかった1ページ毎に、著者の無念や怨念を感じる。
そう考えてダンヒルは、背筋に寒気を覚えた。


グラスが空になっている事に気付き、店の中も空になっている事にようやく気がついた。
その空間に居残っているのは、彼とカルヴァンだけだ。
「すみません、長居しちまった」
洗い物を片付けていたカルヴァンが顔を上げる。
「いいんですよ。まだ時間はありますから。
…随分と熱心に読まれていますね」
彼が丁重に扱う黒い革表紙を見つめて言った。

「ええ…。読み始めたら、いろいろと続きが気になって」
取り扱いを厳重に注意した司書の顔が浮かんだ。
思い出したように、シャツの胸ポケットから煙草のケースを掴み出す。
「コレ吸ったら、帰ります」
「どうぞ、ごゆっくり」

仕事中はほとんど喫煙をしないのだが、酒を飲むと煙が恋しくなるのだ。
一日の終わり、自らの労いの意味も込め
ダンヒルは紫煙を深く吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
そして何気なく言葉を紡ぐ。

「人の進化って、今でも続いてるって知ってました?」
「―…え?」

「俺たちよりちょっと昔の人たちは
赤い血の色をしてたんだって…。聞いたことないですよね」
ここに来て何を言い出したのか
カルヴァンは驚いて、青年刑事をまじまじと見た。
「そう…、なんですか?」

カルヴァンの心境の変化にはまったく気付かない様子で、ダンヒルは続けた。
「こういうのも進化って言うのかな。
医療薬品やらサプリやらのお陰で、濃い成分の血液を自身で生成する必要性が無くなったから、
俺たちは昔の人間よりも血の色が薄いんだって。
そもそもの構造も変わっているとか何とか…。
でも、そんな話…学校で習いませんでしたよねぇ」
「ええ、確かに…」
皿を拭く手がかすかに震えていた。

何故、コイツはそんな事を調べているんだ

カルヴァンの思案をよそに、ダンヒルは別な事を思い起こしていた。
「そう言えば…
俺、今 古い友人を探しているんです」

彼は、酒を飲むのが好きだった。
ならば、此処にも来ているかもしれない。
そうだ。何で気付かなかったろうか。

「…ご友人ですか?」
話が少しそれたので、カルヴァンはほっと息をついて聞き返した。
しかし、ダンヒルが言い放った言葉は
今までよりもさらに大きな驚きと焦りを彼にもたらす。
「酒の好きな友人でね。通り名もそのまま
〝ブラッディ・メアリー〟って。
男のくせに、どっかの女王様と同じ名を使ってた人なんですよ」


<Bloody>
ロザリーの邸宅を後に、ブラッディは暗い住宅街を元居た繁華街に向かって歩き始めた。

一族の最後の生き残り、という観点からすれば
彼女は自分にとって一番の理解者になってくれるかもしれなかった。
だが。
同時に彼女は、自分が長年の飢えをしのぐための糧でもある。
おそらくは、二度とお目にかかれない。

彼女の血で、彼の生涯分の飢えは満たされると思う。
必要以上に酒の力を借りる事も無くなるだろう。
けれども、彼はロザリーを捕食しようと言う気になれなかった。

彼女を救ってやりたい
そんな気持ちさえ浮かぶ。
誰よりも自身が一番、自分の心情の変化に戸惑っている。

と。
「―っ!」
目の前を黒い影が横切っていった。
一瞬の出来事で、それが何だったのかは判別出来なかった。
咄嗟に、後方に身を引くのがやっとだった。

「…?」
辺りを見回すと、文字通りその影すら見えず
頼りない街灯が道を照らすのみだ。
ブラッディは、影が来たであろう方向に見当をつけてみる。
此処は一本道で、横から何かが飛び出してくるとは考えにくい。
とすれば、上方から降り立ったのか…?
いつの間にか高い位置に昇っていた月を見上げ、
そこからゆっくりと視線を下ろしていく。

忌々しい大聖堂が見えた。まさか、あそこからか?

駆け降りてくるにしても、相当の運動神経が無ければ難しい。
いや、そもそも影が通ったであろうルートに人が使える道はない。

動物か何かだろうか。
随分大きな図体ではあったのだが…。

気にする必要はないかもしれないが、
夜風にかすかに舞い込んでくる薄い鉄分の匂いが
この上なく、彼を不安にさせた。

5 the Cathedral

<the Cathedral>

翌朝、ダンヒルが二日酔いの頭を抱えて目を覚ましたのは
アラームよりも先に騒ぎ出した携帯電話の着信のせいだった。
実際、まだ夜も明けきっていない。
「おい、若造。起きてるか?」
「今しがた目が覚めましたけど…」
言いつつ、まだベッドの中に居る。それを悟ったかのように電話口の声が怒鳴り出した。
「いつまでも布団と仲良くしてんじゃねぇ、とっとと起きて来い!」
老齢の刑事は千里眼も身につけているのか…。
ぼんやりした頭がバカな事を考えている。

が、頼りない青年刑事も
次の瞬間には布団を押しのけ飛び起きる事になる。

「5人目が出たぞ。今度は大聖堂だ
…全く、罰当たりなこったぜ」



礼拝堂の中にぽつんとひとつの影を見つける。
静かに座っているようなその姿は、よもや躯(むくろ)と化しているとは思えなかった。

本当にきちんと、席に着いているのだ。
中のシャツだけを取り替え、ネクタイすら昨日と同じものを着け駆けつけたダンヒルは思わず大きく息を飲んだ。
彼の後ろ頭に寝癖がついている事に気付いたのは、同期の鑑識係員だけだ。

その影の後ろ姿はキレイなものだ。
が。
前面に回り込む事を、身体が拒否している気がする。どうしても足が動かない。

これまでの被害者を鑑みれば、それも当然かもしれない。
あの、狂気の形相は二度も見れば当分は忘れない。
例え警察稼業の人間であっても、恐怖心が完全に無くなる訳ではないのだ。
〝若造〟ならば、尚更である。
「…恐いか?」
見透かされたように囁かれ、ダンヒルはびくりと肩を震わせてしまった。
周囲に聴こえないような小声だったのは、優しさだろうか。
腹に響く声音はやはりいつでも、自分の父親を思わせる。

「いえ。まさか。
俺だって刑事ですよ」
勿論、強がり以外の何物でもない。
それに対しては
何も言われない代わりに、ポンとひとつ肩を叩かれた。

ブラッディの様子がおかしい気がする。
カルヴァンには何となくそう感じられた。

昨晩は店に来るなり、3杯立て続けにグラスを空け
そのまま彼の部屋へ泊まらせて欲しいと頼んできた。
「また泊まるのか?」
「眠いんだ、どうしても…。もう、一歩も動けん」
言うなりそのままカウンターに突っ伏してしまった有様に、嘘は無さそうだった。

ブラッディは、最近カルヴァンの部屋に入り浸っている。
先に借りた街外れの部屋が、家賃分の活用をされていないのは明らかだ。

いっそのこと、うちに住んじまえばいいのに。
カルヴァンはそう思うのだが、彼なりの思惑があるのだろう。
15年も行方をくらましていた罪悪感
そんなものもあるのかも知れない。

「―おい、そこで寝るなよ」
友人のあまりの体たらくにため息と困惑の色を滲ませた。

と。
そのジャケットに薄い色の染みが付いているのに気がついた。
「…」裾にうっすら飛んでいた飛沫の色は
どう見ても血の色だ。
カルヴァンの心臓が一瞬、悪魔の手に鷲掴みされたように悲鳴をあげた。

先に話した青年刑事の事も思い出す。
もやもやとした小さな点がやがて血のように滲みだし、
大きく広がっていくのだった。

「…あら?」
ロザリーが目を覚ました頃、外は既に明るくなっていた。
明け方もまた、冷える。
気がつくと布団から肩がはみ出していた。

ゆっくりと起き上がり、自分がいつの間に眠ってしまったのか思い出そうとする。
部屋の真ん中に置き去りにされたカップは2つ。
そう言えば昨晩、あのブロンドと一緒に居た気がするのだが。

泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。
瞼がだいぶ重たかった。

ブラッディはいつ、帰ったのかしら…。
ベッドを抜け出し、カーテンを引き開けた。
「ん?」

何となく外が騒がしい。
早朝の時間に関わらず、モノ好きな野次馬らしき住民と
それをさも鬱陶しそうに制御する制服警官。
「事件かしら…」
パトカーが緊急ランプを照らし続け、事態を物語る。
そのランプの列はどうやら、丘の上まで続いているようだ。


ロザリーの眼が遠い記憶を呼び覚まそうとする。
脳裏に焼きつく記憶の像にフタをすることなど出来ないが、
それでも、ぎゅっと眼を閉じた。
彼女の全身で、その忌むべき記憶の扉に鍵を掛け直した。

ルーシーは週に一度だけ、夜勤に出ている。
夕方から日付が変わるまでくらいの仕事だが、
帰宅すればやはり深夜になってしまう。
大事な弟との夜の時間が削られてしまうのだが、仕方ない。

昨晩がちょうどその木曜日で
彼女が帰宅したのは、いつもよりもだいぶ深い時間帯だった。
帰宅後、すぐに弟の様子を見て
そのまま仮眠を取ろうとソファに枕を持ってきた。
明日の朝も早いのだ。

仕事から明けてすぐはなかなか寝付けないが、
とりあえず横になって眼を閉じていれば、少しは身体が休まるだろう。

「おやすみ」
小さくつぶやくと、ごく浅い眠りの中に落ちて行った。

わずかな睡眠の後、ルーシーは起き上がり出掛ける支度を始める。
週の中でもさすがに金曜の朝だけは辛い。
身体がなかなか目覚めてくれないので、お茶くらい飲んで行こうとお湯を沸かし始め
その間に軽くシャワーを浴びる。

あと2日、頑張れば日曜だ。
一日中、弟のことを考えながら過ごせる。
土曜日も夕方には仕事を終えられるから、図書館にでも寄ってこよう。

―あの、素敵な人にまた逢えないだろうか

突如去来した何とも言えない気持ちに気付き、彼女はふっと我に返った。
頭から浴びていた湯を止め、洗いたての黒髪を絞って水分を切る。

何考えてるんだろう。
今まで弟一辺倒だった自分の中に、ひとつ舞い落ちてきた眩しい存在に
ルーシーは敢えて気付かないふりをした。


大聖堂にその奇異な姿を初めに見つけたのは、ルーシーだった。

自分以外で、まして自分よりも早い時間から礼拝に訪れる人間など見た事がなかった珍しさと
そして、その影に何処となく違和感を感じて

恐る恐る近づいていったのだ。
こないだ逢った不思議な優男だろうか?
「あの…、」
肩に手を掛けようとした時に、
横からその顔を覗いてしまった。
「―…

…っ?!」

あまりの恐怖に全身が強張り立ちすくみ、
叫ぶ声すら出て来なかった。


第一の発見者として、より詳しく話を聞こうと
刑事が2人、ルーシーの部屋を訪れた。

彼女の仕事が終わる夕刻を待ち、ドアをノックする。
「―はい」
内側から返事があったのを確認し、青年は名乗りを上げた。
「今朝がたお会いしました、市警のダンヒルです」
名前を確認すると、ドアが外側に開く。
「…どうぞ」
2人の刑事は互いに顔を見合わせ、部屋へ入っていった。

「お疲れのところ、恐れ入ります」
物腰柔らかく若い刑事がそう言って、少しだけ笑顔を作った。
後ろに控える年かさの刑事はいたって無表情だ。
警察の人間独特の威圧感を持っている。

「いえ…。あ、こちらへどうぞ」
リビングへ通された2人は、進められるまま椅子へ腰掛けた。

彼女の住まいはリビングと備え付けの小さなキッチン、後は寝室とシャワールームがあるだけという質素な作りだった。
何処となく気品を感じさせる彼女の風体とはそぐわない気もするな…と、ダンヒルは思っていた。
「何もありませんけど」
「あ、どうぞお構いなく」
とは言え、彼女がコーヒーを入れてくれたのは有難かった。
早朝から動き回って、腰を下ろすと眠気が襲って仕方ない。
そんな態度がありありと解ってしまう若造の姿を
老齢の刑事が苦々しそうに見つめた。

「えーと、大聖堂へは毎朝行かれてるのですか?」
ダンヒルは話を切りだす。
「ええ。日課ですので」
ルーシーは席にはつかずシンクに腰を掛け、下を向いたまま応えた。
「礼拝…ですか?」
「はい」
彼女の組まれた細い指は、かすかだが震えていた。
それは、狂気の遺体放棄の現場を見てしまった恐怖からくるものだ。

「今日はあの後、お仕事へ?」
「はい」
ダンヒルは次第に、彼女に対して自分が何とも酷な仕打ちをしているような 
罪悪感に似たような気持ちを感じてきていた。
こんな日の事、おそらくあまり思い出したくはないだろう。
人によっては嫌悪感をあらわにし、警察への協力を固辞する者もある。
しかし彼女は懸命に、真摯に応えようとしてくれている。
その姿がいじらしかった。

それでも、これも俺の大事な仕事だ。
「…ココは、お独りでお住まいですか?」
しんと静まり返る室内を見渡し、ダンヒルが訊いた。
ルーシーは一瞬だけ考える素振りを見せたが、やがて口を開いた。
「いえ。弟がおります」
「今はお出かけですか?」
「…いえ。奥の寝室で。
もう長く伏せっておりますので」

ダンヒルは思わず、老齢の刑事と視線を合わせた。
「会わせて頂く事は…、出来ませんかね」
言葉を引き継いで、老齢の刑事がようやく口を開く。
ルーシーは視線を上げ、首を横に振った。

「会って頂いても話をする事は出来ません。
あの子は眠ったまま、目を覚まさないのです」
そう言うと、何処か自嘲気味に笑んだ。



「すみません、お時間割かせてしまって。ご協力感謝致します」
ダンヒルが挨拶をして立ちあがる。
「いいえ。お役に立つのであれば、いくらでも」
ルーシーが丁寧に応えながら、玄関まで送ってくれた。

わずかながら老齢の刑事が遅れて玄関まで戻り、2人の刑事は外へ出た。


外はすっかり暗くなっていた。
今日一日がどんな天気だったのか、
そう言えばそんな事すら覚えていないくらい目いっぱいだったような気がする。

現場の場所と発見の時間帯から、目撃者も少なく
得られた情報などなしのつぶてだったが。
「彼女も気の毒ですねぇ。
仕事に追われ、それでも欠かさない礼拝の為に行った大聖堂であんなもん見つけるなんて。
おまけに弟は眠り王子かぁ」
ダンヒルが首を鳴らしながら言った。久しぶりに肩の凝りを覚える。

「―そうかな?」
「…は?」
先輩の刑事は表に出るなり煙草を取り出して火をつけた。
さすがに、彼女の部屋で吸う訳にもいかないので
若干しびれは切らしていたのだろう。
「―奥の寝室に落ちてたぜ」
そう言うと、捜査用の白い手袋を投げてよこした。
ダンヒルが受け取って目を凝らす。

「え?!弟の居るって部屋ですか?
いつの間に入ったんです…

―! これは…?!」
手袋の腹の部分に、血が付着していた。
「床に落ちてたのを拾ってきた。帰ったら鑑識に回しておけ」
勿論、ルーシーやその弟のモノだと判断されればそれに越した事はない。
刑事はとにかく何でも疑ってかかる。
あれほど殊勝な態度を示していた彼女にすら疑念を持つ神経が、ダンヒルには少し理解出来なかったが。

取り越し苦労なのであれば、それでいい。
夜道を市警に向かって歩きながら、青年刑事はもう一度だけ
彼女の住む建物を振り返った。

外は細かい雨が降っていた。
玄関を開けて、ロザリーはまず一つため息をついて空を見上げる。
外で過ごすには少し肌寒い。図書館の方へ行ってみよう。
それでも、いつものパークを抜けて。

「…悪かったよ」
寝覚めに入れてもらったコーヒーをすすりながら、ブラッディは大儀そうに髪をかき上げた。
その眼はまだ眠気に苛まれている。
カルヴァンは朝刊を広げながら、友人の様子を見やる。
カウンター奥のトースターが2枚のトーストを焼き上げた。

「そんなに疲れる程遊ぶなよ。つーか、アンタの昨日の飲み方おかしかったぞ。
…何かあったのか?」
「いや…、そういう訳じゃないんだが」

「―何処か身体の具合でも悪いのか?」
ブラッディはふっと眼を開き、じっと真正面を見据えた。
自らの体内に問いかけるように、少しの間沈黙を守る。
「…判らん。
けど何となく、世界が重ったるく感じる。…気がする」
「風邪でも引いたんじゃないのかぁ?」
カルヴァンはそう言って、出来るだけ明るく笑い飛ばした。

そんな彼がその横目でハッキリ捉えていたのは、
大聖堂で見つかったあの遺体の記事だった。

「ジェスロ!!」
本部に戻るなりダンヒルは相方の刑事を呼んだ。

応接用のソファに頭を埋め、仮眠をとっていた刑事が顔だけを上げた。
全体的にまだ眠気から覚めていない様子ではあったが、眼だけはしっかり構えている。
待っていた結果の報せと悟ったのか、その辺りはさすがである。

彼は再びソファへ沈むと、人差し指だけで青年刑事に室内に入って来るよう指示した。

「他の案件を差し置いて、調べて貰いました。ヤツに後で一杯おごらなきゃならない」
ダンヒルは独りで話を続けながら、室内を奥へ進んで行く。
「まったく、あいつはいつだって人の足下を見やがる」

「若造」
「あ、はい」
「結果だけ知らせろ」
テーブルの上に放ってあったシガーケースに手が伸びた。
煙草を取り出した後、刑事はゆっくり起き上がる。

「…出ましたよ」
ダンヒルは鑑定書をひらひらと掲げた。
そして、彼自身は否定されて欲しかった結果を口にした。
「あの血痕、大聖堂の仏さんのモンです。何てこった。
―それと」
「―…それと?」
熟練の刑事は、くわえ煙草のまま口の端で先を促す。
「もう一つ、データに無い人間の血が混じっていました」

雨に濡れる遊歩道は、深く緑色に沈んでいた。
ロザリーの気分もなかなか浮上しない。

特に悪い事があった訳でもないし、
別に雨が嫌いな訳でもない。

少し昔の事を思い出したからだろうか。
もう、感傷に浸ろうなどと思っていなかったのだが。

早く、ブラッディに逢いたい。
図書館は、横断歩道の向こうでいつも通り
街の景色に溶け込んでいた。

「出たのは、一人分じゃなかったのか?」
ジェスロはいくらか顔をしかめて、青年刑事を見上げた。
「ええ。血中のDNA、〝ふたつ〟発見されたそうなんです」
「二人分か…」
「もみ合いの結果、犯人も負傷した可能性を考えれば…
別個に二人分の血液を拾える事もありますよね」
ダンヒルは改めて確認するように言った。認めたくは無かったが、事実は事実だ。
ジェスロも頷いて答える。
「だとしたら、犯行現場はあの姉弟の家って可能性も出てくるぞ」

「…ですね。
まぁ、そこまでは〝現実的に〟考えられなくもない話ですけど…」
「…何だ?」
ジェスロは、今聞いた結果までしか予想していなかった。

一体、それ以上の何が出た?
ダンヒルの随分と含んだ言い方にしびれを切らして、ジェスロは少し苛立ったように急かす。
勿論、ダンヒルにだってその場の空気くらい読めている。

「その血痕の中で、あり得ない事象をみたとかで」
ジェスロが火をつけた煙草から煙を大きく吸い込んだ。

「俺にはその辺、門外なんでいまいち理解出来んのですが。
二つのDNAが、ある部分で混ざり合っていたんですって。
それも『進行形』で。…信じられます?」
「……ああ?」
「観測していた間に、片っぽのDNAにもう片っぽが飲み込まれるような形で」
「ちょっと待て…、どういうことだ」

あり得ない。体外へ排出された血液中で、別個の遺伝子が結合するなんて。
寝ぼけた頭で聞くのには、あまりに複雑怪奇な話だ。
それは、まるで…
「血が、『意識を持って動いてる』みたいだった…って」

ぽつんと言った青年の荒唐無稽な一言は、
まさにジェスロ自身が頭の奥で浮かべていた発想だった。

「じゃぁ、行ってくるわね」
ルーシーがぴたりと弟の頬に触れ、言葉をかけた。
…あら?
そこで、少しの変化に気付く。
それはわずかだが、寝がえりを打った後の様な。
―動いてる?
ルーシーの心臓が大きく波打った。
そして、もうひとつ。

「…?」
弟の唇に、かすかに薄紫色の雫がついているのを見つける。
ほそい指先でそっと拭い取ってみると、
「…血?」

今まで何ひとつ変わらなかった寝姿に現れた、不可思議な変化。
ルーシーの鼓動が見る間に高く、早くなる。

「どういうこと?
…リッキー、あなた…目覚めているの?!」
そう言って弟を揺り起そうとするも、
その身体には全く意識が戻っていないようだった。

「どの道、あの姉弟の元にはもう一度行かないとならんな」
「―ええ」

ダンヒルは、あの殊勝な態度の美しい女を思い起こした。
今度は間違いのない疑念を抱えながら、彼女に対峙しなければならない事を悲観した。

同時に、自分たちが抱えてしまった今回の事件が
自分たちが思ってもいない方向に転がるような、
そんなどうしようもない不安を抱えたのであった。

6 the Brothers

<Carvin>

彼の父親は、科学の途を志していたらしい。
典型的な理系屋の父親にどうして惚れたのか
彼の母親は、文学少女を画に描いたような女性だった。

彼は、その両親が共に好きだった。
彼が、その男に出逢ったのはいつ頃だったか。
小学校に上がっていただろうか。

親類縁者でもない彼が、ある時から彼の家に住みつき始める。
初め、彼はその男が好きになれなかった。
あたりは柔らかく優しいが、何処か謎めいた雰囲気が子供心を無性に不安にさせたのだ。

それでも、事あるごとにちょっかいを掛けてくるその男に
彼も次第に打ち解けようと試みる。
男は彼と一緒に居る事が多かった。
彼が中学生になろうかという頃になって
ふと、疑問に感じた事があった。
「ねぇ。アンタ、ずっと若いままに見えるんだけど…
もしかして、歳をとってないの?」


目が覚める。

カルヴァンは天井を見つめ、その後目覚まし時計に手を伸ばした。
朝と呼ぶにはまだ少し早い。
左側に温度を感じる。横目で確かめて、瞬間身のすくむ思いをした。
独りで使っているはずのベッドに、もう一人寝ていたのだ。

「―あ、そうか 昨日…」
順にゆっくり思い出して合点がいく。
店で寝込んだコイツをかついで部屋まで上がって来たのだった。
そっと起き上って、改めて気がつくと
2人とも昨日の格好のまま寝ていたようだった。
「あ~あ、しわくちゃだ…」
自分のシャツとズボンをつまみ、ため息をつく。
人の心配をする余裕も無く、カルヴァン自身も部屋に上がるなり寝込んでしまっていたらしい。
ここの所、何となく気疲れしてたからな。
その原因のひとつである金髪をじっとりと睨みつけた。

相手は一向に起きる気配がない。
ホントにどうしちまったんだか…。
カルヴァンは静かに寝息を立てているその金髪に、何気なく指をからめた。
緩やかなカーブは、巻きつけても途端にするすると滑り落ちていく。
流れるような、という形容がまさに相応しい。
昔から、このブロンドに憧れていた。
幼い頃から、こうして悪戯していたのだ。
やがて指を放し、自分の巻き髪をかき上げる。
「…」
彼は、いつまでも歳を取らない美しい友人を
飽きもせずに眺めていた。


ブラッディが起き上がってしっかり目覚めたのは、それから二時間くらい後の事。

窓の外はすっかり明るい。今朝がたまで降っていた雨も上がっていた。
隣で自分を見つめていた友人の視線は感じ取っていたものの、やはり身体が言う事を聞かなかった。
少しの後我に返ったのか、友人はそそくさとベッドを出て行った。
それを確認してから、また寝入ってしまったらしい。

「雨のせいかな…」
昨日はしとしとと細かい雨が降っていた。
彼は、雨が苦手だった。
ベッドを出て窓辺に向かう。薄手の遮光カーテンを引き、それから窓を開けてみた。
冷たい外気が顔に当たる。さすがにまだ湿気が強い。

それでも、通りには少しずつ陽が当たってきていた。


「…あれ、何だ起きたのか」
後方から友人の声がした。
「〝おそよう〟」
「…」悪戯っぽく皮肉を言いながら笑うカルヴァンを、
ブラッディは黙って睨み返す。

「起きたんならそのまま服を脱げ」
「―は?!」
「馬鹿だな、何だよその情けないツラは。
アンタのアルマーニがしわくちゃだから洗ってプレスし直してやるってんだよ」
「…ああ、そう」
ブラッディが心底ほっとした表情をしたのが、カルヴァンには無性に可笑しかった。
「ついでにシャワーでも浴びてこい。目ぇ覚めるぞ」

ブラッディが窓を閉め、その場で無造作に衣服を脱ぎ出したのにはさすがのカルヴァンも慌ててしまった。
…いや、俺がそう言ったんだが。
外ではどう見えてるか知らないが、コイツは意外と大雑把だ。
昔から変わらない友人にカルヴァンはひとつため息をついた。

「じゃ、宜しく。大事に扱ってくれよ」
「自分のこと棚に上げてよく言いやがる」
「このバーゲン品を〝アルマーニ〟って言ったのはお前さんだろう」
会話するうちに目が覚めてきたな、とカルヴァンは思った。
思いながら、裸の友人をシャワールームに押し込む。
「5分で朝飯だからな!溺れるんじゃないぞ!」
「お前さんじゃあるまいし!」

悪態を返してくるのは忘れない。
カルヴァンは途端に声を上げて笑った。

父親の兄-すなわち彼の叔父もまた、科学に明るい人間だったようだ。
叔父はいつも思いつめたような顔で、彼の父親と話をしていた。

幼い彼には何の話をしてるのか理解できなかったが、
何となく、とてつもなく難しい話なのだろうと思っていた。
話の最中は常に、あの男が彼の遊び相手だったのである。

「カルヴァン、遊びに行こう」
男をあまり信用していなかった彼は、まず母親の顔を見る。
彼女はあまり多く言葉を発しない。ただ、黙って微笑んでいるだけだ。
行っておいで
そんな笑顔に見えた。

もう少し長い時間、お父さんのお話が聞けたら
きっと僕も理解できるはずなのに。
何故だか、彼はのけものにされている気がしてならなかった。



彼の母親はいわゆる『深窓の令嬢』というやつだ。
生まれも育ちも奥ゆかしい性格も、その姿形もまた言葉に相応しい。
彼にとって、彼女は優しい母親である前に
手の届かない高根の花のような存在でもあった。

肉親だという気がしなかったのである。

母親は、その男に対し夫以上の信頼感と親近感を持っていたように見えた。
2人の雰囲気に何か特別なものを感じ取っていた事は
今以て当人に聞く事が出来ていない。

彼の母親が亡くなったのは、彼がまだ学生だった頃だ。
ある種の疑念を感じながら、カルヴァンは自らの母親を送ったのだった。

「大聖堂で死体が見つかったって」
いつものように朝刊を広げ、カルヴァンはブラッディに話しかける。
努めて、平静に話しかける。
「え?」
箸休めのコーヒーカップに手を伸ばしながら、ブラッディが珍しく驚いた顔をした。
焦りの色は無い。単純に、驚いているようだ。
「それは罰当たりな話だな…。例の連続事件の絡みか?」
「まぁ、そうだろうな。死体の状況なんかは同じみたいだし」
開店前の店のカウンターに香ばしいコーヒーの香りが満ちている。
ブラッディは、言われた通りきっちり5分で階下に降りてきた。
しっとりと濡れたブロンドはいつもよりも色濃く
ほんのりと蒸気した肌色と相まっていつもにも増して艶っぽい。

「気になるか?」
いろいろな言葉を探してカルヴァンがみつくろったのは
その一言だった。
「…ん?そりゃぁそうだろう」
ブラッディが気にしているのは、おそらくカルヴァンの思っているものとは違う懸念だ。
そして、気になることはもう一つ。
大聖堂のふもとには、ロザリーの家がある。
彼女は無事だろうか。あの夜のこともあるし、心配だ。

幸い、天気は回復の方向にある。
後でパークに行ってみるか。
熱いブラックコーヒーをすすりながら、彼はそんな事を考えていた。


<the Brothers>

「人間に天敵がいないのは、何故だと思う?」

それが、兄の口癖だったように思う。
毎日のように聞かされていれば、嫌でも感化されてしまう。
弟もまた、兄と同じ思想にとりつかれる事になる。

ブラッディが彼ら兄弟に出逢ったのは
まだ学生だった頃ではなかったか。

兄弟の隣に〝彼女〟もいた。
聖書の言葉から取られたと言う、美しくも忌まわしい響きを持つ名前を聞いた。
皮肉なモノだと、ブラッディは苦笑した。

兄弟と彼女は、いつ頃からか彼の一番近くにいるようになった。
思えばそれは、運命的とも思える偶然の下
その後引き起こされる悲劇のきっかけとするには
あまりにも平穏な記憶であった。



「医学は進歩し発展を遂げ、その結果人間の寿命は延び平穏な生活も約束された。
けれど、大地の広さは変わっていない。
一人に与えられるテリトリーが狭くなるのは必至
我々は、かくも小さな箱庭の中で『飼われる』運命に陥る」

もはや独り言のように、兄は講釈をたれる。
エディはうんざりしながらも、それを覆す程の理論を持たない。
そればかりか、少しずつではあるが賛同の気持ちすら芽生え始めている事に
本当は気付いていた。
「この歯止めの利かない人口の増加に、一体何が必要なんだ?」
兄は、いつだって唄うように言い聞かせる。
「科学は、何をするべきなんだろうな」

キャンパスのほど近い場所に、兄弟の家はあった。
その地下室が、彼らの『研究室(ラボ)』だ。
薄暗い地下の部屋は、パソコンや実験器具で溢れかえり
古い書物のせいで、だいぶカビ臭い。

エディは頼りない照明の下で、液晶画面を睨みつける。
ブルーライトのせいで、頭痛が治まらない。思考する事も億劫になってくる。

「いいか、エディ。
この嘆かわしき事態を打開するために」
語り部はやがて、クライマックスを演出するために声量を上げた。
「人間達には、『天敵』が必要なのだ」

地上には、まだ春の日差しが降り注いでいる。


「この講義が終わったら、気晴らしにでも行かないか?」

真面目にノートを取る前の席の彼女の耳元でこっそり囁いた。
ぴくりと肩を震わせた彼女が愛おしい。
例えばその反応ひとつで、ブラッディは至福に満ちるのだ。
後ろを振り返る事はせず、しかし彼女ははっきりと頷いた。


「エディ!」
教室から外へ出ると、友人の姿を発見した。
黒縁眼鏡の秀才肌が振り返って優しく笑んだ。
「お疲れ」
キャンパス内には、この国では珍しい桜の木々が雄々しく花を咲き誇らせる。
暖かい春風が学生たちを包んでいた。
「この後、暇か?」
ブラッディはちらと後ろを気にしながら言葉を掛ける。
視線の先に、彼女が花の美しさをまとうように立っていた。
「ああ…いや、これからラボで続きだ」
「―アレックスと、か」
「ああ」
エディは眼鏡を指であげながら応える。
ブラッディはひとつ、ため息をついた。
「こんな陽気の中で、浮かれないのはお前たち兄弟くらいだよ」

そして、ぼそりと付け加える。
「あんまり放っておくと、ルカは俺が貰っちまうぞ」
「―それは、聞き捨てならないな」
穏やかに笑っていたエディの視線が厳しくなる。
ブラッディはそれを確認してほくそ笑んだ。

「たまには俺の相手もしてくれよな」
一笑して肩を叩いた。それから踵を返し、彼女の方へ戻っていく。
エディは、桜とは別の華の香りが鼻腔をくすぐるのを感じた。
ふわりと揺れるブロンドが花吹雪と溶け合うようで
自らの友人ながら、つい見惚れてしまう。

春の色の中で、二つの美しい影が遠く離れていくのを
成す術なく見送る事しか出来なかった。



街の北側、市の境目の役割を果たす小さな山がある。
トレッキングをするのにはちょうどいい高さで
休日ともなると、人出が多い観光地でもあった。

地下鉄と沿線を乗り継いで
ブラッディはルカを連れ、登山口のロープウェイに乗る。

さすがにウィークデイであれば静かなものだ。

街を見下ろしたいと彼女が言ったので、ブラッディは此処を選んだ。
大聖堂のある丘陵からも充分な眺望が提供できるが
あの場所の神聖な空気は、彼の精神に影響をもたらしてしまう。
どうしても踏み込む勇気が持てなかった。


小さくても多少の高度の差で
低地で真っ盛りな春の植物も、まだ少しまどろみ気味のようだ。
「寒くないか?」
気になって、聞いた。彼女の真っ白な肌にはあまり体温を感じない。
自分なんかよりも体感温度が低いのではないかと案じてしまう。
彼女は静かに首を横に振った。
ブラッディは微笑むと、ルカの細い肩を抱き寄せた。
彼女はうっとり寄り添い、ゆっくりと流れる外の景色を眺めた。

山の中腹辺りの展望台につくと、更に冷たい風が2人の髪をすり抜けていく。
「大した差はないと思ってたけど、やっぱり随分違うもんだなぁ」

半分は独り言だ。
元々が口数の少ない彼女だ。無理に話題を振ろうとも思わない。
ただ、隣に居てくれるだけで充分なのだ。

「でも、何となく気分が引き締まるな」
柄にもなく、生ぬるい春の陽気に浮足立っている気がする。
そうでなければ、彼女をこんな場所まで連れてなんて来ない。
2人きりになるのは、〝危険〟だからだ。

ブラッディは、自らの『本能』をひたすら抑制して生きている。
いくら気付かないふりをしても、もうとうに気が付いている。

何故、これ程までに彼女に惹かれているのか。


手すりに腕をかけ、半身を少しだけ乗り出すように
ルカは小さくなった街の眺望を楽しんでいる。
「…」
ブラッディは、その麗しい髪に触れ
華奢な背中に腕をまわし
彼女を振り返らせた。

ルカは小首を少しだけ傾けて笑んだ。
柔らかな笑顔の周りだけ、春の空気をまとっているかのような
風の色さえ目に見えるようだ。

彼女の頬から顎の線をなぞるように指先を這わせ
わざと思わせぶりに間を置いた後

そっと唇を重ね合わせる。

繊細で薄い作りのガラス細工を思い起こさせる彼女のすべてが、
自分が触れることで壊れてしまうのではないか

血に飢えた手で、真っ白に輝く雪花に触れる。
きっと、汚してしまうだろう。
抑え込んでいる欲求が、今にも噴き出してきそうだ。
解っていたのに…
それでも、我慢が出来なかった。

思っていたより、彼女の唇には温かさが宿っていた。
思っていたより、彼女の鼓動が激しく聴こえてくる。
血の通う音が、聴こえてくる。

ほんの少しの、鉄の匂いが
ブラッディの脳を揺さぶってくる。

ダメだと言い聞かせる程に
その甘美な誘惑が、自らの本性を呼び覚ましていく。

「…」
彼女が、意外にもわずかに口腔を開いたので
ブラッディは隙間に舌を滑り込ませた。
花弁の様な形の好いルカのそれを愛しむことで
爆発しそうな本能の声をねじ伏せようとした。

やがて、惜しむようにゆっくりと唇を離し
視線を上げる。ルカの潤んだ瞳とぶつかった。
「―すまない」
自然に口をついて出てくる。
どうして?
彼女は小さな声で問うた。

「…いや」
ブラッディは視線を外し、彼女の白い首筋にも唇をつけた。
ルカが、弾かれたように反応する。
そこに発生した感情が
愛情なのか
恐怖なのか
疑念なのか

彼には確かめる勇気が無かった。

それでも、精一杯の自制をもって
彼女の首筋に自らの牙を立てる事はしなかった。

ただひとつ、あの友人にも見えるように
その愛の痕跡だけを残しておいた。

遠い記憶が呼び覚まされる。

彼女の姿は、忘れかけていた『あの人』を彷彿とさせる。
そうだ、思い出した。

俺が彼女に手を掛けられない大きな理由。

血族の最後の一人としての哀愁や同情も確かに感じているが、
何よりも何処かで『あの人』を思い起こさせる。
今も一番近くで俺を気に掛けてくれる友人の

母親だった、あの人だ。


<Dunhill>

その日、ダンヒルは何となく憂鬱な気分が抜けなかった。
先輩の刑事であり、現在の事件をコンビで捜査しているジェスロの背中を追いながら
重い足取りを引きずっている。
先日訪問した、あの甲斐甲斐しい女の部屋へ向かっていたからだ。
今回は、容疑者の一人として。

彼の気持ちとは裏腹に、天気は上々だ。

彼女の部屋は海岸に近い通り沿いにあり、天気の好い日はたいそう心地好い景観が臨める。
トラムを降り、美しく凪いだ海のエメラルドグリーンを眺めた。
海風は何を気にする事も無く、彼の頬をかすめて行った。

「気が乗らねぇって顔してるな」
ジェスロが青年を振り返る。
「ええ、まぁ」
青年はやるせなく、頭をかいて答えた。
老齢の刑事は少しだけひねくれた笑みを滲ませ、
「キレイな眼をしてたからな。
シロであればいいと、俺だって思ってるさ」
そう言った。

彼女は昼時、弟の様子を見に部屋へ戻ってくる。
その時間を見計らって
刑事は入口のドアをノックした。


「―…え?!」
ルーシーは黒い大きな瞳を更に見開き、刑事を見返した。
晴天の霹靂。そう言う以外にない状況だった。
「そう言う訳なので恐れ入りますが、署まで同行して頂けますかね」
口調は丁寧に、態度は極めて威圧的に
ジェスロの振る舞いはまさに刑事のそれだった。
ダンヒルは彼女に視線を投げる事も出来ず、黙って後ろについていた。

「信じてください、私は何もしていませんし
何も知りません。何処に連れて行かれたとしても
お話できる事は何もありません!」
「そう言った諸々も、署で伺いますよ」
必死に訴える女の態度にも動じることはない。
「でも、弟が…
弟を独りで残す訳にはいきません…」
ルーシーは涙声で懇願する。
ダンヒルは声音を聴くだけで、いたたまれない気持ちになった。
「こちらには専門の職員を二人配置させて頂きます。どうぞご心配なく」

それでも抗う意思を見せる彼女に対し、
刑事は少しだけ声量を落とし言葉をかけた。
「―俺は、アンタを信じてる。
それから、アンタの弟さんも…信じたいと思っているよ」


<Rosary>
太陽の柔らかな光線が少しずつ西に傾き出してくる頃。
セントラルパークの遊歩道をゆっくりと歩く。
何となく懐かしい気分でロザリーは、木漏れ日を見上げた。

いつもの、お気に入りのベンチが見えてきた。
「―あ!」

望む姿を見つけたのは、そのすぐ後。
初めて逢った時と同じく、こぼれる光を身にまとい
男はそこに座っていた。

沈んでいた気持ちが一気に浮上し、彼女は駆け出さずにはいられなかった。

相手もその気配に気がつき、ふっと顔を上げた。
そして、輝くような笑顔を投げかけてくる。
「待ってたよ、お嬢様」

「ブラッディ!!」

ロザリーは駆け寄り、勢いもそのまま彼に抱きついた。
「ぅわ! 元気そうじゃないか、お嬢様」
ブラッディが苦笑しながら彼女を受け止めてやる。
「良かったぁ。何だか、もう会えないんじゃないかって気がしてたのよ」
「君はそうやって、いつも心配してるね」
「貴方が心配させるからよ」

麗しい華の香りがロザリーの鼻腔をくすぐった。
だいぶ慣らされた、彼独特の香りだ。
「俺だって君が心配だったよ。
―昨夜、大聖堂で事件があったろ?」
胸元に顔を埋めていたロザリーが、弾かれたように視線を上げた。
「ええ!そうなの…、びっくりしたわ」
その表情に覆い隠せない程の恐怖が見て取れる。
ブラッディは怯える瞳を見つめて、ゆっくりと彼女の髪を撫でた。

「…怖かったわ。
いえ、今だって…恐ろしいのよ」
ロザリーは自分にも言い聞かせるように、つぶやいた。

7 the Doubt

<Black Russian>

「だから!
あの日私は、夜勤で帰りが遅かったんです…!」
訴える必死さが痛々しいと思えていたのも初めのうちで、次第に何処かにわざとらしさを感じてくる。
コイツは嘘を言っているに違いない。

そこまでぼんやりと思考が回り、そこでダンヒルははっとした。
何、考えてるんだ…。

取調室と言うのは、どうやら警察の人間の感情をも麻痺させるようだ。
ルーシーを連行し、この取調室にこもってからどのくらい経ったろうか。
今まで何の大きな手がかりもつかめず、不毛とも言える捜査を続けている最中
ほんの少しでも見えた敵の尻尾は、例え幻覚だとしても逃したくなくなるのだ。

つかんだその尻尾が、悪魔のモノである事にも気付かず
善良な市民を血みどろの地獄に突き落とす。
そんな可能性もある。

ジェスロもまた、頭を抱えた。
「その仕事が上がった後、アンタの姿を見た人間がいない」
「それは―」
彼女は俯き、言葉を詰まらせる。
こんな閉塞的な空間に閉じ込められ、厳つい男に延々と同じ言葉を投げかけられる。
己自身も、信じる事が出来なくなりそうだ。

「もう少しだけ、ココに居てもらうよ」
ジェスロはそう言い捨てると、大儀そうに席を立った。



どうして、こんな事になっているのだろう。

部屋に落ちていた血痕?
DNAを検出した?
大聖堂で見た死体のものと、私の…

何も知らない。
何も見ていない。
私は、いつも通り生きていただけ…。

ルーシーはぐるぐると廻る思考回路と、対峙する刑事の言葉と闘っていた。

アリバイのない時間なんて、誰にでもあるじゃない。
それでも
どうしてその時間、誰かと一緒に過ごさなかったのか
しても仕方のない後悔をしている。
そんな自分を、別な自分が嘲笑う。

いっそのこと、一言 認めてしまおうか。
何を認めれば解放されるのか、知らないが。

黙って俯く彼女の中に、負のらせん階段は黒く渦巻いて落ちて行く。
取調室は暗く重い沈黙に支配された。


ああ
誰か、助けて。


<Dunhill>

市警にルーシーが拘束されて丸3日経った。
お互いに疲弊し、取り調べは難航していた。
しかし、他にそれらしい人物が上がってくる訳でもないので
攻撃は彼女に集中されてしまうのだった。


そんな折。
「ダンヒルさん、受付に面会の方がいらしてるんですけど…」
女子警官がおずおずと申し出た。
ダンヒルは今までに経験したことのない精神的疲労感に耐え切れず、応接間のソファでぐったりとしていた。
それでも最大限に気を遣い、起き上がって答えた。
「誰?」

「それが、あの…今の連続事件の件でお話したい事があるとかで」
「何?!」
聞いた途端、声に張りが戻った。
必要以上の大きな声量で、周囲にいた同僚たちが彼を注視する。

「大聖堂の事件で拘留されている方の、目撃証言みたいですけど」


「本当か?」
取調室でルーシーと睨み合っていた所を呼びだされたジェスロにも伝えられる。
「今、応接室で待ってもらってますが」
ダンヒルが言う。扉の隙間から、憔悴した彼女の姿を覗き見た。
会った当初の輝くような美しさは見る影も無くくすみ、
眼の下にはうっすらとくまが見て取れる。
ダンヒルは胸が苦しくなるのを堪え切れず、思わず目をそらした。

「話を聞こう」
どんな証言でもいい。この停滞した事態が動き出すのであればいいのだ。


応接室にいたのは、随分と姿勢の好い紳士だった。身なりも立派である。
ほのかに、高級な香水の香りを漂わせる彼に
とてもじゃないが、くたびれた警察署内の応接室は似合わない。

その姿を確認すると、ジェスロは何処かで会ったような気がした。
隣に居た青年刑事と顔を見合わせると、ぼそりとつぶやいた。
「何処かで会いましたかね…?」
彼の言葉から、果たして2人ともが同じ感想を持ったことがうかがえた。


「どうも、ご足労様です」
ジェスロは極めて形式的な挨拶を口にした。
「どういたしまして」
その紳士は何ともにこやかに、爽やかに応じてみせる。
若いのか、歳をとっているのか
何となく判別がつかない。

ダンヒルはふと、件のブロンドの友人を連想した。

「早速ですが、お話聞かせて頂けますかね」
ジェスロが切り出すと、相手はさも軽快に語り出した。
「大聖堂の死体遺棄事件で拘留されている女性がいらっしゃると思うのですが。
私、当日彼女と一緒に居たのですよ」
その饒舌ぶりは、まるで保険のセールストークのようだ。
ダンヒルは何処かに違和感を感じていたが、とりあえず黙っている事にした。
「それは、本当ですか?」
「ええ。私はあの公園のごく近所に住んでいましてね。
毎朝礼拝にいらっしゃる彼女とは多少面識があったのです。
当日はたまたま商店街でお会いして、夕食でもどうかと我が家へお連れしたのです」

「ほう…」
合いの手を入れて、先を促す。
「途中から酒も多少入りまして、彼女も酔ってしまいましたので
その夜はお泊り頂きました」
「貴方も、酒は飲まれましたか?」
すかさず突っこむ質問に対しても、紳士はさらりと応答した。
「いいえ。私はからっきし。アルコールと言うものが苦手でして」
「ふぅん…客人だけを酔わせた、と」
かすかに探るような視線を投げ、ジェスロは相手を挑発してみる。
こいつは何となく、胡散臭い。

「まぁ…下心があるかどうかって問われると思って
なかなかこちらに伺えなかったのですけど」

少し躊躇しながら話す内容に、不自然さはないような気もする。
「私は、彼女の厚い信仰心を毎朝拝見していました。
あの敬虔な祈りは疑う余地も無い
私が、保釈金でも保証金でもお支払い致しますよ」


疑惑の払拭は極めて難しいが、一応はアリバイ成立と言う事になろうか
ジェスロは、ルーシーを開放する事にした。
「済まないが、引き続き監視の人間だけはつけさせてもらうよ」
「ええ…、構いません」
ともかく、弟のいる自宅へ返してくれるのであればもう何でもいい。
それでも彼女は、刑事たちに深々と頭を下げて歩き出した。

ダンヒルは、ルーシーと言うより
あの証言をした紳士への疑念が膨らんできた事を
ジェスロに伝えるべきか、かなり悩んでいる。


<Black Russian>

大聖堂には再び、厳かな空気が戻った。
釈放されてからすぐに
ルーシーは神への謝意を告げに向かった。

普段訪れない昼下がりの時間。
窓から射し込む陽光が神々しい。
室内に入った時、初めて生きた心地を取り戻した。

「ようやく、解放されたのですね」
「…え?」

祈りを捧げ終わる頃合いが読まれていたかのように、後方から声を掛けられる。
聞き覚えのあるものだと、ルーシーは振り返った。
「…あら」
「私を、覚えておいでですか」
紳士風情の男が、爽やかに笑いかける。
好印象と同時に抱かせるこの不穏な気持ちは何なのだろう。
そして、刑事が漏らした言葉の端にこの男の影を見たので
「ええ、勿論。-ご迷惑をおかけしました」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
何故なら、少し距離を置いた先に警察の耳があるからだ。

男はルーシーの言葉を聞いて、更ににこやかに応える。
「いえいえ、とんでもない!
こちらこそ、出過ぎた真似を致しまして」

「…何かお礼をしなければなりませんね」
ルーシーは、様子を窺いながら
少し踏み込んでみることにした。

何故だか、そう仕向けられているような気がした。

久しぶりに世間を賑わせた事件の容疑者として 
自らが連行された事は、既に街の周知だろう。
勤めも変えなければならない。
ともすれば、街を出る事になるかもしれない。

無事を感謝した直後から、ルーシーには次々と
現実的な問題が押し寄せてきていた。

「どうか、お気になさらず。
私は貴女がこうして、再び神へ敬意を表してくださる姿を拝見出来るだけで充分なのですから」
そう言う、男の指先からすっと紙切れが渡される。
警察からは完全に死角となる位置に陣取り
狡猾に、男は子羊を釣り上げる。

ルーシーは、これが更なる災厄への入口になるであろう事に
少しだけ気が付いていた。


<〝Rusty Nail〟>

「食物連鎖の正しい形を作るのさ」
兄はそう言って、弟を説き伏せていく。
「全ての命は、何かしら他の命の糧であるのだ。
人間だけがその枠からはみ出しているのは、おかしいだろう?

…と言うより、そもそもはあったのかもしれない」
弟は、先を予測して促す。
「ヒトを糧にする命が…って事?」
兄は、満足そうにうなづいた。
「そうだ。
人間の生血を糧にする『命』だよ」
春先の暖かな空気は、湿気た地下室まで入り込めない。
しかし、地下の湿った空気でしか生きられない人種もまれにいるのだろう。

「その昔、人間がまだ生命力に満ちた血の色をしていた時代
それを糧とする異形のモノどもが、街を跋扈していた」

「まさか」
さすがに、弟は信じられないという顔をした。
「本当だよ、エディ。
今でこそ物語の中でしか生きていけない種々雑多な怪物たちが、
人間を捕食してのさばっていたんだ」
兄の目は、何故かキラキラと夢を語る子供のように輝いている。
弟は気付かないふりをした。

「しかし、医学や科学の進歩とともに
人類の体質は減退し始めた。考えたら皮肉なものだな」
「世界が未発達で粗野な方が、生命は打たれ強くならざるをえないからね」

「その通り。
無駄に延ばされた寿命だけが、我々の唯一の強みとなってしまった。
『死なない命』は増えるばかりで
だからと言って、世界に何の恩恵ももたらさない」
ひんやりとした、カビ臭い空気が少し動いた気がした。
弟は背後に気配を感じた気がして、振り返る。

勿論、何もいない。

「なれば、自らの手を以て『調整』を図るしかないではないか」
兄は、自身がそんな忌まわしい種類の生命体である事に
常に怒りとやるせなさを感じていた。
だからこそ、自身が持つ知識を駆使し
『世界を救おう』と考えたのだろう。

「元いた誇り高き種族を復活させ、
従来の連鎖の形を修復するのだ」

8 the Line

<TARKUS>

カルヴァンが昼の開店準備を始めた頃、その男は顔を出した。
「あれ?」
いつものくたびれたスーツ姿では無く
Tシャツにデニム、革のジャケットを羽織ったラフなスタイルで、瞬間誰だか判別がつかなかった。
「すみません、開店前でしたか?」
「ああ…いえ構いませんよ。どうぞ中へ」
ダンヒルはホッとした表情を見せ、笑った。
それは年相応というよりも随分若く見える少年の様な顔で、カルヴァンは更に困惑したのだった。

店内にはあまり陽の光が差し込まず、昼間でも若干暗い。
基本的には居酒屋なのだから、その構造は狙ったものだろう。
BGMは軽快なブラック音楽。店内の暗さをカバーするようなポジティブな曲だった。

「今日、お仕事は?」
訊く事が多少躊躇われたが、気になったので口にする。
案の定、青年刑事はバツが悪そうに短髪をかきながら応える。
「非番です。ココって確か、ランチありましたよね?」
「ええ」
「じゃ、それと…〝カスケード〟お願いします」

カルヴァンのその日の思いつきで作られるウィークデイ・ランチに
オージー・ビールが添えられて、ダンヒルの前に出てきた。

昼の時間になると、続々と客足が増えてくる。
作業着姿や制服姿の集団が慣れた口ぶりで、席に着く前にカルヴァンにオーダーを落として行く。
店内は彼ともう一人の給仕で手際よく捌かれ
皆、待っていた昼飯にありつける。

ダンヒルは普段気にも留めなかった光景をしげしげと眺め
興味深そうに観察していた。

やがて一時間もしないうちに客たちは食事を済ませ清算をし、それぞれの持ち場へ帰っていく。
「スゴイな。昼の時間も、戦争ですね」
「それ程でもありませんよ」
「よく、あれだけのお客を捌けますねぇ。俺には到底無理だな」
お世辞でも何でもなく、素直に感想を述べるダンヒルに
「私には、靴底すり減らして捜査する方が無理難題ですけどね」
カルヴァンがそう切り返すので、ダンヒルも思わず笑った。

「適材適所ってヤツかな。
…でもその、靴底すり減らした結果がコレだ」
「え?」
「捜査本部が縮小になっちまって…俺は、メンツから外されましたよ」
自嘲気味に吐き出すと、ダンヒルは苦々しい顔をしてビールを飲み干した。


<Black Russian>
ルーシーはようやく帰ってきた我が家を見渡し、ホッと一息ついた。
弟が眠る寝室の扉を開ける。

その先には、変わらず目を閉じたままの姿が認められるはずだった。
「…え?」
彼女は心臓に杭を打たれたような衝撃を覚え、自らの目を疑った。
「リッキー?」
そこにいるはずの、弟の姿は何処にも見当たらなかった。

外は薄闇に飲まれつつあり、灯りをつけていない部屋の中も不明瞭だ。
それでも、人がいるのかいないのかの判別くらいはつく。
しかし確実な答えを見る勇気が持てず
彼女はなかなか灯りをともす事が出来ないでいる。


「―ようやく、動き出せるようになったみたいですね
ああでも、思っていたよりだいぶ早い」

背後で声を聞いた。
それは、あるいは耳元で発せられたような至近距離にも思え
ルーシーは全身が総毛立った。
「?!」
勢いよく振り返る。
「―…貴方…、いつの間に…」

わざとらしいくらいの丁寧な所作をする男が
張り付けたような笑顔を彼女に向けていた。

「また、お逢い出来ましたね」

部屋は見る間に暗闇へと落ちていった。


<Rosary>

「お嬢様、今日はうちに来るかい?」

夕闇が彼らの背中に迫る頃合い
セントラルパークも次第に人影が無くなり
薄寒く感じて来たブラッディが、ロザリーにそう声を掛けた。
「いいの?」
彼女は少しだけ逡巡する表情を見せたが、すぐに嬉しそうに笑んだ。
先の表情はフェイクかな、とブラッディは苦笑する。

「ああ。以前にご招待を受けたからね。フェアじゃないだろ?」
冗談交じりに答えると、長いブロンドが風に揺れた。
「…それもそうよね」
少女も精一杯背伸びして応じた。

本当は、怖くて
独りで家に帰りたくなかった。
優しいブロンドが彼女の気持ちを汲んでくれたことを
ちゃんと解っている。



53番街の外れ、少し歩くと海に出てしまうくらいの場所に 
ブラッディの部屋はあった。
(基本的にカルヴァンの部屋に入り浸っているので、あまり使っていないが)
心持ち久しぶりに鍵を開ける。小さく音を立てて扉は外側に開いた。
彼は何となく、ホッと安堵したのだった。

「どうぞ。狭くて汚いけど」
誰でも、他人を自室に上げる時は言う決まり文句だ。
果たして彼の部屋も殺風景ではあるものの
狭くも汚くもないとロザリーは思った。

「ありがとう。お邪魔しますわね」
お嬢様気取りで振舞ってみせる。ブラッディが苦笑しながら扉を閉めた。

「素敵!海が見えるのね」
窓際に駆け寄ってロザリーが歓喜した。
灯りをつけない室内が暗い分、部屋の奥に構える張り出し窓からの自然光が景色を一層美しく魅せる。
そこからは青い海が見えた。
「この部屋唯一の自慢」
ブロンドを揺らして、ブラッディも答える。

「羨ましいわ。うちから見えるものと言ったら、丘の上の十字架くらいよ」
「敬虔な気持ちになっていいじゃないか」
大して本気で思っていやしないことは、ロザリーも承知していた。
「じゃぁ、貴方が住めばいいわ」
意地悪く睨んで切り返すと、
ブラッディは降参の意を込めて肩をすくめた。

「ブラッディ」
「ん?」
少女は迷いながらも、感謝の気持ちを口にする。
「どうもありがとう」
「何が?」
彼にも何となく、少女の気持ちは解っていたのだ。
「私が、今日独りで家に帰りたくないって、知っていたのね」
かすかな夕暮れの光に反射して、ロザリーの眼は碧く潤んでいた。
ブラッディは柔らかい笑みを以て応える。
「お嬢様は正直だからね。それに」

そうして白く長い指先を、少女の髪から首筋へと伸ばしていく。
「俺も、君を帰したくなかったんだ」


<the Line>

「自己紹介をしましょう。
私は、アレックス・クライン。生物学を中心に、日々精進しています」

唄うような軽やかさで、男がさらりと名乗った。
あまりの流麗さに、ルーシーは一瞬謝辞を述べそうになった。
これはどうも、ご丁寧に…
―いや、そうではなくて

「貴方…
リッキーの…、弟のこと何か知っているの?」
薄暗い寝室にそぐわない高級な香水の香りと、かすかにカビ臭い空気を感じた。
それがどちらもこの男から発せられているものだと彼女が気付くのに、そう時間はかからなかった。
「貴女の弟さんは実に素晴らしい『被験者』でした」

「被…? 何ですって?!」
気色ばんだルーシーを片手で制し、男は不敵に笑う。
「彼は、我々の『計画』に欠かせない人物なのです
度重ねた試行の末ようやく出来あがった、初めての『救世主』となるのです」
大げさな手振りを施し、男は台詞を狭い室内に高らかに響かせた。


彼の本能が否が応でも目覚めて動き出す。
それは、彼女の濃くて赤い血の匂いが誘発させるのだ。

「ブラッディ…?」
首筋に差し伸べられた相手の白くて長い指先が、異常に冷たい。
ロザリーに、大好きな相手に触れられる幸福感よりも
言い知れぬ恐怖心を感じさせた。
「…」
彼女が今 自分を恐れている事は、ブラッディにも解っている。
信じて疑わなかった者への恐怖心、そして猜疑心。
それでも、彼の本能は収まろうとしなかった。

彼の手はロザリーの首筋から肩へと流され、驚くような力で彼女を抑えつけた。
「っ?!」
ロザリーが苦痛に顔を歪め、視線を相手に向けた。
「やめて」と懇願するその視線は、次第に涙で溢れてくる。
彼の眼は鈍く光り、既に眼前の相手を認識していないように思えた。

獲物を前にした、獣の眼。
ロザリーにはそう見えた。

と。
視線がぶつかった直後、彼は頭を下げ
獲物の首筋に自らの唇を近づけた。
開かれた口から、鋭い牙と真っ赤な舌がのぞく。
少女にその様相を見る事は叶わなかったが
その行為が何を意味するのかは、大体想像がついた。

これは、昔よく読んだお話の中の場面だわ。

そんな事が現実に
ましてや自分の身に降りかかるなんて、一体誰が想像出来て?

そうよ
これはきっと、あの悪夢の続き。

そうであるに違いない。

「ジェスロは…ああ、俺が組ませて貰ってた刑事ですけど 
彼は、本部に残されました」

昼時の営業の後、夕刻まで店はしばし休息に入る。
明るい通りには、昼下がりの散歩や買い物に勤しむ若い母親と
元気いっぱいの子供たちの明るい声が渡る。

カルヴァンは洗い物を終え、開いていた出窓を閉めた。
若干だが、子供たちの甲高い声音が抑えられた。

「後は俺に任せてくれって、まぁ…お決まりの文句を貰いました。
捜査状況は逐一教えてやるからって。―勿論、こっそりとね」
ダンヒルはそう言って少し笑った。
そして、デニムのポケットから煙草を取り出して火をつけた。
いつもより深く吸い込み、ゆっくり じっくりと吐き出す。
紫煙から、彼のやるせない気持ちが滲み出ていた。

「…貴方は、それでいいんですか?」
愚問だろうと解りつつ、カルヴァンは口にした。
相手は一瞬だけ彼を睨むように見たが、すぐに力なく目を伏せる。

「どうでもいい…なんて思える刑事(デカ)がいたら、
そいつは間違いなくデカじゃない」

BGMはかけていない。
しばらく、重ったるい沈黙が流れた。

出されていた黒ビールを喉に流し込み、ダンヒルが沈黙を破った。
ジャケットの内側から、件の書物を取り出して。
「俺には、まだやらなきゃならない事があるんです」
そして、パラパラとページを繰り
目当てのモノを見つけ出す。

「―コレは、貴方のことじゃないんですか」
差し出されたボロボロのページから、カルヴァンは目が離せなくなった。

「―…!」
それは、手帳の最後から3枚ほどめくったページ。
手書きで、走り書きで殴り書かれた言葉を見つけ
遠い記憶が呼び覚まされる。


『本書を
私の愛する妻・ルカと息子・カルヴァン
そして、無二の友人 ブラッディ・メアリーに捧ぐ』

9 the Footsteps

<Rosary>
次に気がついたのは、窓から射し込む朝陽だった。
いつもと違う方向からの光に
ロザリーは瞬間、自分が何処にいるのか把握出来なかった。

大きな窓から、海が見える。
ココは…ブラッディの、部屋?
昨晩の出来事を思い出そうとした。
けれど、ある時間以降から自らの恐怖心が支配してなかなか思い出せない。

彼女は室内にたった一人残されている。
家主は一体何処へ行ったのだろう。

ゆっくりと起き上がる。
部屋の隅に置かれていたベッドに寝ていたらしい。
寝かされたのだろうか。
「…」
服は、着たままだった。

「ブラッディ?」
ベッドを抜け出ようとして動き出すと、ふわりと華の香りが彼女を包み込んだ。
「?」
彼女が動いた拍子に床に滑り落ちた
彼のジャケットについた、残り香だと悟った。


彼の部屋
彼の痕跡はあるのに

当の彼だけがいないのは、何故?
ロザリーは途端に、胸が締め付けられるような寂しさに襲われた。
「何処に行っちゃったのよ…」

視界が緩んで世界がぼやける。
キラキラと輝く朝陽を含んで
彼女の涙はぽたぽたと床にこぼれ落ちた。

「また、私だけ…置いてきぼりなの?」
呟いて抱きしめた彼のジャケットに、何か入っている。

「…」内ポケットに一つだけ。
「『タルカス』…」
店の名前と電話番号、簡単な地図が記された宣伝用のマッチだった。

ロザリーはしばらく眺め、ブラッディが普段煙草を吸わない事を思い出す。
そんな彼のジャケットに、どうしてマッチなんて入っているのだろう。

彼女はようやく見つけた手がかりから懸命に推理する。
―コレがもし、彼からのメッセージなんだとしたら?

この店に行ったら、会えないとしても
彼に関する何かが分かるかもしれない。
「…」
何も無いよりは、ずっとマシだ。
悩むよりも、まずは動いてしまおう。

彼女生来の前向きな行動力が後押しする。
ロザリーは涙を拭って立ち上がった。
朝陽も、だいぶ昇り始めてきていた。


<TARKUS>
『タルカス』は開店前、自分たちの朝食用に入れたコーヒーの香りが充満していた。
いつも通りの、朝の香りだ。

それにつられて、階下へ足音が近づいてくる。
カルヴァンはいつものように悪態をついて友人を迎えようとして
ふと、我に返った。

「-お目覚めですか」そして、〝外向き〟の笑顔を作る。
そうだ。ゆうべ泊めたのは、彼じゃない。

「…すみません。すっかり世話になっちまって」
決まり悪そうに降りてくるのは、昨晩だいぶ飲み過ぎて荒れてしまった青年刑事だ。
もっとも、刑事稼業は非番日であったが。
「気にしないでください。…ああ、どうぞこちらへ
コーヒーも朝食も出来てますよ」

カルヴァンの変わらない態度が余計にダンヒルを気まずい思いにさせる。
寝癖のついた情けない短髪をかきながら、カウンターの席に腰かけた。

コーヒーとシンプルな朝食が並んでいる。
魅力的な湯気を前にすると、途端に腹が鳴った。
情けない表情のダンヒルに、カルヴァンもつい相好をくずす。
意地悪な態度を取るのはやめにした。

「…彼もそうやって、すまなそうな顔しながらそこに座るんですよ」
ダンヒルの視線がようやくカルヴァンの正面に据えられた。
今思い出すのは、共通の人物。

「クセは悪くないけど、深酒をするからね。
たいてい、潰れて寝ちまうんだ。そうすると、俺が2階まで運ぶ羽目になる
で、朝起きて飯を食いながら謝るんですよ」
「『悪かった、ゆうべは少し飲み過ぎた』?」
「『これからは少し自重するよ』
そんな事言ったって、結局また同じこと繰り返すクセにね」

2人して声を上げて笑う。
だが、ダンヒルにはそんな彼の姿が意外に思えた。
「俺の知ってたブラッディはもっと、高尚なイメージだったんだけど
案外…何て言うか」

「フツウでしょ?」
カルヴァンが苦笑して言った。
「確かに、立ち居振る舞いに常人離れしてるような雰囲気あるけどね
あの人、素はかなり大雑把だし抜けてるんだよ」

いつの間にか、外向きの敬語が抜けていることに 
カルヴァン自身は気づいていないようだった。
ダンヒルは目の前の相手が嬉しそうに語るのを、少し羨ましく眺めていた。

俺も、彼のそんな気心の知れた友人でありたかったな。
ただ、彼とここまで親しい人間に出逢えた事だけでも
ダンヒルにとっては奇跡に近い事であった。

ますます、当人に会いたくはなったが。

前日、ダンヒルが読み進めていた件の古い書籍に
カルヴァンと共にブラッディの名前が記されていた事実をつきつけ詰め寄った。

「この書物の後半の方、だいぶ個人的なことが書いてあるんすよ。
書いた本人の家族の事、友人や知人や、自分の生い立ちみたいな事も。
でね、その中でどう見ても〝ココ〟じゃないかって記述がやたら目立ってね」
そう言って、ダンヒルは店内を見渡す。
言われたカルヴァンにも、まったく覚えの無い書物の存在に
ただ、驚くばかりだった。

この青年の言うことが本当ならば 
その書物の筆者は、自分の父親なのかもしれない。
店を残し、ある日突然いなくなってしまった父親だ。
自分の心臓の音が、うるさいくらいに騒ぎ出す。

言うより易いと、ダンヒルが手帳をカルヴァンに手渡した。
カルヴァンは、高まる鼓動と連動する指の震えを抑え込み
ボロボロのページをめくる。

文面は無機質なタイプの文字で、前半部分の講釈から一転
後半は確かに、筆者個人の話が続いた。
手記と言うか日記と言うか…そんな印象を受ける。

具体的に名称が出てくることはなかったが、この店が出来た経緯や内装の雰囲気などがつづられ
そこで遊び育っていく子供のことが記されていた。

カルヴァンもかすかに覚えている、幼い頃の幸せな記憶だ。
…でも、何故?

「…知らなかったんすか?こんな書物が残されていたこと」
確実に顔色を変えたカルヴァンの様子を察し、ダンヒルは少し声を落として聞く。
「…ええ。残念ながら」
上の空で答えながら、カルヴァンの視線は書物に釘付けになっている。

気勢をそがれた気がして、ダンヒルはこれ以上の追求をやめようかと迷ったが
しかし、ここまで届いた手がかりをみすみす逃したくもない。
意を決して、訊ねた。

「ココに、貴方の名前と一緒に書いてある〝ブラッディ・メアリー〟って名前
俺の探してる、ブラッディなんじゃないすか?」
「…」
カルヴァンがはっとしたように顔を上げ、ダンヒルを見返した。
その反応に追い討ちをかけようと、なおもダンヒルが問い詰める。
「カルヴァンさん。アンタ、ブラッディのこと
知ってるんじゃないのか?」

酒に酔った目はむしろ、曖昧なごまかしが利かないように思えた。
カルヴァンは悩んだ。
本当の事を、言ってしまうべきかどうか。
「なぁ…、教えてくれないか
あの人は、今もこの近くにいるんじゃないのか?」

ただひとつ、カルヴァンには懸念がある。

「それを知って…、彼を見つけ出して
どうするつもりなんです?」
感情を押し殺したように低く、カルヴァンは聞き返した。

「どうするって…
会いたいんだよ。ただそれだけだ」
ダンヒルが不審な顔をして答える。
質問の意図がつかめない、とでも言いたげだ。
ならばと息を吸い、カルヴァンは付け加えた。
「―それは、つまり刑事として?」

瞬間、凍りついたような沈黙が2人の間を流れた。
次に聞こえた青年の声は、怒りで震えていたようだった。

「―馬鹿言わないでくれ!
俺はただ、旧い友達に会いたいだけだ!」

その声に弾かれるように視線を上げたカルヴァンが
ダンヒルを見つめる。
仕事に就いているとは言え、彼の眼はまだまだ警察のそれではない。
全くもって、ごく普通の青年のモノだ。

「…ごめんなさい…つい」
カルヴァンは心底から謝罪した。
少し前にブラッディにも感じた、贖罪の気持ちと同じものがカルヴァンを苛んだ。
ダンヒルも声を落とし、応じる。
「ああ… ああ、いや」

彼もまた、視線を外した。
先とは違う沈黙が店内を包んだ。
実際はほんの少しの時間であったが、2人には随分と沈黙に感じられた。

やがて、独りごちるようにダンヒルが口を開く。
「―確かに、今回の事件に出くわして、俺はブラッディを思い出しました。
…あの人が言っていた言葉を思い出したんだ」
「言葉?」
青年はほんの少しだけ逡巡したように見えたが、何処か寂しげに微笑んで答えた。
「貴方も知っているんでしょ?
あの人は…

吸血の人種だって」

「…」やっぱり、知っていたのか。
「その言葉が本当なのかどうかは分からない。
むしろ俺は、今でも信じちゃいないんです」

「俺が気になるのは、ブラッディの人となりだ。
〝どんな人種なのか〟なんて、ホントは別にどうだっていい」

ぽつぽつと語る青年の面差はきっと
自分に似ているのではないかとカルヴァンは思った。
彼がブラッディを想う気持ちは、友人としてのものに相違ない。
共に過ごした時間の問題ではなく
それは、自分と同じものなのではないだろうか。

「捜査はまだ続いてます。
ぶっちゃけ、彼からこの話をどれだけの人が聞いたのかは判りませんけど
万が一警察の耳に入れば、一も二も無く彼は捕まっちまう。

あまりに異常な死体ばっかりつきつけられて…
みんなもう、まともな思考を持っちゃいない」

そして、きっと自分と同じ危惧をしている。
彼もまた友人を守りたいのだ。だからこそ、思い出したのだろう。
カルヴァンはそう思った。

「…彼が、そんなヘマするとは思えないんだけど」
そして、改めて切り出した。
「ただ、ブラッディ自身も今回の事件については、かなり困惑しているようでした。

夢遊病者のように、〝俺が〟人を襲っているんじゃないか…って」


<Black Russian>

本計画は、
増加の一途をたどる世界人口の適正化をねらったものである。
食物連鎖の輪から唯一はみ出した存在である人類に
『天敵』を生み出し、正しく本来の立場に戻してやろうというもの。

人の生命もまた、何かの糧とならなければならないのである。


この度我々が開発した薬剤により、被験者の体質を大幅に変化させる事に成功した。
おおむね経過は良好とみえる。
現段階で、被験者自身の体内の血液を栄養分とし
核が成長・変化を始めている。

現在被験者は長い睡眠状態(仮死状態ではない)にあり
自らの活動を最小限に抑え、核の変化のみにエネルギー消費を充てている。

この先 目覚めた被験者は、変化の為に消費され不足した血液を
他者を捕食することで補い、通常の生活を送るようになる。
尚、被験者本体の体力維持の為に、通常の食事から栄養補給を図ることも可能。
ただし、上記とは別に『核』への栄養補給も必要不可欠。


ちなみに
『ネイティブ』な吸血人種と異なり、その寿命は変化前と変わらない。
極端な体力・生命力の増強もない。
あくまでも、我々の計画の目的は『人口の適正化』にあり
生命のサイクルを逸脱した存在を生み出す事は
むしろ、現状を悪化させるのみである。

「…」
あまりに現実離れした突飛な話で、ルーシーは困惑する思考もはたらかなかった。
「如何です?我々の壮大な計画の被験者となり、
そして初の成功例となりうるのは、貴女の大切な弟さんだ」
アレックス・クラインは誇らしく謳う(うたう)。

あれから延々と、彼女に自らの計画と主張を説いたのだった。
ルーシーは相変わらず、発するべき言葉を見失っている。

信じられない。
リッキーが、いつの間にかおかしな薬を投与され
いつの間にか、違う存在と変化しつつあるなんて。

そんな事、認められる訳が無い。
彼女の半生は弟と共にあり、生活のほとんどが弟の為にあったと言っていい。
唯一の家族である弟。
だが、彼女が知っていた本当の弟の命は
もう何処にも存在しないのかもしれない。

では、一体何の為に尽力していたのだろう。
何処かで、別な自分が叫んでいた。
『私の今までの時間を返して』と。

先まで弟が横たわっていたはずの殻のベッドを無感情に見降ろし
ルーシーは、今まで世話していたのが
得体の知れない怪物だったのだと悟った。

何て滑稽な話。

そんな彼女の気持ちなど微塵も理解しない紳士風情が
若干、声量を落として話題を変えた。
「貴女も偉大なる我々の協力者です。お礼はさせて頂きます」
落としていた視線をふっと、言葉の方向に向ける。
「ただ―
もう一つ、お願いしたい事があるのです。
弟さんではなく…これは貴女に。

―ええ、勿論強制ではありません。
お引き受け頂いた折には、この先の貴女の生活すべてを保障させて頂きますがね」

もう何でもいい。
〝私が〟楽になれるのならば。


<TARKUS>

店の外に人影が見えて、カルヴァンは会話を中断した。
「どうしたの?」
ダンヒルも振り返る。店前の通りは通勤や通学の足音がせわしない時間だ。
「…いや、ドアの所に誰かいるようで」
言うが早いか、カルヴァンがドアの方へ歩き出し、鍵を開けた。
「―あ!」
開店前と知ったからか、中へ呼びかける事をためらっていた客人は 
予想外にドアが開いたので驚いたようだった。
この店の客としてはあまり似つかわしくない
小柄な少女が立っていた。

赤みがかったブロンドの髪は肩のあたりで切り揃えられ
真ん中に収まる顔立ちには
ブラッディにも負けず劣らず、と言った気品が見て取れた。
深い藍色をした瞳は、この上なく不安そうな様相だった。

「ええと、うちに何か?開店は11時からだけど…」
表情から見るに、道にでも迷ったのだろうか。
店に用がありそうな雰囲気でもなかったが、カルヴァンは一応説明した。
「あの…」少女はまず、何をどう伝えたらいいものか迷っていた。
が、それも少しの間で
意を決したように再び顔を上げた時には、不安な表情が払拭されていた。

「私、ブラッディ・メアリーという人を探しています。
彼の持ち物の中にコレがあったので…こちらに伺いました」

差し出されたマッチのケースを見るや、今度はカルヴァンの顔色が変わる。
それだけで、大体の状況が把握できた。

後方で、ダンヒルも2人のやり取りを見ていた。
カルヴァンはもう一度少女に視線を戻し
「…君は、もしかして…ロザリー?」
そう、確認する。直後、ロザリーは驚いた顔をして頷く。
「! ええ、そうです!…私を知ってるの?!」

そうか、この子が…。
カルヴァンは表情を緩め、店のドアを大きく開いて彼女を促した。
「ブラッディからちゃんと聞いてますよ。
僕は、彼から貴女を守るように言われています。
さぁ、どうぞ中へ」


<Black Russian>

「ロザリー・ウィロウズ?」
アレックスに手渡されたデータに目を落とし、ルーシーがつぶやく。
紙面には随分と事細かなパーソナル・データが記されていた。

年齢は16歳。
街の西側の住宅街に住んでいる。
現在は身寄り無し。
両親までの代に残された資産が相当のもので
とりあえず、何不自由なく暮らしているらしい。

ざっと目を通しながら、全く面識のない少女が
自分とは全く違う世界で生きている事を認識し
腹の底にふつふつとわき起こる感情を抑えられなかった。

少なくとも、この少女は金銭面において微塵も苦労を知らない。
同じ歳の頃から、何よりも金の工面で苦労を強いられてきた辛かった過去が
ルーシーには嫌でも蘇ってくる。
その表情を眺めながら、アレックスは満足げに嗤って(わらって)いる。
すべてが計算通りだ。

「その少女を私の元まで連れてきて頂けますか
謝礼は先ほど提案させて頂いた通りにさし上げます」
はっと顔を上げて、ルーシーが紳士を見つめる。

「…連れてくるだけでいいの?」
「ええ。若いお嬢さんですからね。
私の様な人間は、まず近づく事が難しい」

「彼女は、よく中央図書館に行くようです。
最近は金髪の美しい男性を連れて…ね」
「…え?」
一瞬、彼女の脳裏に一人の男の姿が浮かぶ。
…まさか。

「貴女も本を読むのがお好きでしたよね?
そこをきっかけに、少女に近づくことも可能かと」
何から何まで、お膳立てが出来ている。
抜け目ない紳士の言動に、ルーシーはもはや拒否する事も逃げる事も出来ないと悟った。
無論、はなから逃げる気力など残っていなかったが。

「…分かったわ」
静かに吐き捨てた。
「ありがとうございます」
アレックスは、にこやかに一礼する。
ふと気がつけば、元から薄暗かった室内が一層黒く沈んでいる。
窓の外も、すっかり日が落ちていたのだ。
時間の感覚も麻痺していた。

ルーシーは無意識に、紙をつかんだ手に力を込めていた。
何かに無性に苛立っている。

この少女に
後戻りできない現状に
そして、
この忌まわしい不平等な世の中に。

「…ああ、ただしひとつだけ留意して頂きたい事があります」
悪魔の手先のような紳士が、人差し指を高らかに挙げる。
「どうか、その少女には傷をお付けになりませんよう。
貴女が彼女に対して、どれだけの感情を抱いたとしてもね」


<Dunhill>
「じゃ、どうも」
静かに扉を閉め、階下へ向かう。
市警のエントランスにさしかかった時、ダンヒルはその姿に気がついた。

いつかと同じように煙草をふかしながら、老齢の刑事が待ち構えていた。
「休暇取るんだってな」
青年は視線を泳がせる。「ええ」
「ちょっと、くたびれましたよ」
答えるなり、射抜かれるような厳しさで睨まれる。
「お前さんの歳で言っていい台詞じゃねぇな
…俺を見ろ。上はまだまだこき使う気だぜ」
「…すみません」
「一体、何を調べようってんだ?」
間髪いれないつっこみは、まるで容疑者として尋問されているみたいだ。
やっぱり、俺ごときじゃ上手い言い訳出来ないなぁ
ダンヒルは小さくため息をついた。
「―バレちゃいました?」

「見くびるんじゃねぇぞ。
お前さんがそんな根性無しだとは、はなから思っちゃいねぇさ。
自由の利く身で、今回のヤマ調べたいんだろう?」
図星をつかれた。青年は成す術なく、笑うしかなかった。
「全く…、刑事ドラマの見過ぎじゃねぇのか?
独りでカッコつけようとしたって、現実そう上手くいかんぞ」
紫煙と共に吐き出される皮肉には、
後輩を案ずるような響きが含まれていたような気がした。
それもまた、ドラマの見過ぎかな
ダンヒルは自嘲した。

「解ってます。別にヒーローになりたい訳じゃない
ただ…事件を気にしながら、他の仕事を全う出来る程
俺は器用じゃないんです」
言葉を受けて、彼は改めて青年を見据えた。
今度は睨んではいなかった。

「正直だな、若造」
「うそつきは何とかの始まりって、言うでしょ」
若造の切り返しは フン、と鼻先で笑われた。
「まぁ、気をつけろや。
何かあったら連絡しろ。俺の方からはしない
〝休暇〟の邪魔したら悪いからな」

「お気遣いいたみ入ります」
勝手な事をする前に、この人と話が出来て良かった
ダンヒルはしみじみ思う。
「じゃぁな」

踵を返すくたびれた姿に「ジェスロ!」
声を掛ける。
振り返る
だが、視線はこちらに向けなかった。

「…あの…、
気をつけて」
気の利いた台詞も思い浮かばず、
ダンヒルが言えたのは、そんなつまらない一言だった。
が、その一言にはたくさんの切実な想いが詰まっている。

「ああ。…お前もな」
ジェスロにだって、痛いほど解っていたのだ。

<Carvin>
ダンヒルが職場に休暇願を出してくるから、と
朝食の後店を出た。

昼の開店まで、まだ少しだけ時間があった。
カウンター席には、ロザリーが座っていた。
「ダージリンで良かったかな?」
あまり使う事のないティーカップを差し出してカルヴァンが言う。
ロザリーはゆっくりと笑みで答えた。
温められたカップを手に取り、程良く色づいた紅茶を注ぐ。
少しずつ店の雰囲気にも慣れてきた。

ブラッディの足跡をたどって来られた場所だ。
やっぱり、処々で優しさを感じる。
店の中も
店の人も。

縮こまって不安ばかりだったロザリーの気持ちが
紅茶の湯気と共に解けていくようだった。
「どうもありがとう」

ようやく口にする事が出来た。
カルヴァンも微笑んで応えてくれた。

「君の事、ブラッディはよく話してくれてたよ。
すごく素敵な友達が出来た…って言って」
嘘では無い。実際、彼は彼女の話をする時、嬉しそうだった。
それは、『糧』としてよりも 
友人として彼女と対峙していたからではないかとカルヴァンは考えていた。

自らで反芻しながら、次の言葉を探す。
その間にロザリーが問うてきた。
「ブラッディは、よく此処へ来るの?」
「ああ!〝よく〟なんてもんじゃない、殆ど毎日さ!
酒を飲むのも好きだからね。ヘタすれば朝まで居座りやがる」
カルヴァンは大げさに身振りして答えた。
「あらま」
「付き合わされる身にもなって欲しいね。
アイツは翌日も寝てりゃいいだろうが
俺は昼の仕込みもあるし、寝ていられないんだからさ!」
「困ったものねぇ」
ロザリーもつられるように大げさに言って、笑う。

彼女の笑顔を見つめて、カルヴァンはほっと息をついた。
とりあえず、元気は取り戻してもらえたようだ。

ほんの些細な所作からも解る育ちの良さ
どんな表情の時でも変わらず窺える意志の強さ
見た目以上に、内側から滲み出るものが
彼女の魅力を引き立てる。

ブラッディが気に入ったのも、道理だな。
そして、彼女をカルヴァンに託してきたことも。

少し前に、いつものように酒を飲みながら
ブラッディはカルヴァンに頼み事をしていた。

もし、ロザリーが店を訪ねてくることがあれば
彼女を守ってやって欲しいと。

それはおそらく、ブラッディが自身の『理性の消失』を恐れているのだろうと
カルヴァンは考えていた。

本能が先行して、赤い血を求める時がきっと来る。
そうなった時、俺は彼女を救うどころか
殺してしまうだろう

だから、お前さんが守ってやってくれないか
排他的な社会の眼から
そして、何より 俺の手から


そう言って、寂しそうに笑んだ友人の顔をカルヴァンは思い出す。
それこそ、彼女を『素敵な友人』として想っている
揺るがない証だろうと思うと
苦しくて、悔しくてたまらない気持ちになった。

10 the "Rusty Nail"

<Dunhill>

携帯電話を取り出し、ダンヒルは思いきって
登録してある番号を呼び出した。
「―よぉ、若造」
ぶっきらぼうな声音が懐かしさすら覚える。
心持ち刑事の顔に戻ったダンヒルは、ついと姿勢を正した。

「お疲れ様です」
一週間貰った休暇は3日を過ぎ、取り立てて何の収穫もないまま手詰まりになった。
連絡はすまいと思っていたが、捜査の進展も気になり
やはりジェスロを頼ってしまった。
繋がった途端に、少し後悔した。

「…どうですか、調子は?」
諸々すべてをひっくるめた意味合いで、そう切り出した。
すると、電話の向こうで低い声が笑った。
そしておもむろに言う。
「好いタイミングでかけて来たじゃねぇか。
今日は久しぶりに定時で上がれそうなんでな
お前さんに喝でも入れてやろうと思ってたんだ

…何処か、気の利いた飲み屋あるか?」
仕事熱心な彼が、今の状況で定時退社などあり得ない。
ジェスロは自分に劣らず、言い訳がうまくないとダンヒルは思った。
先輩に気付かれないようにクスリと笑った。

しかし、彼がわざわざ自分を誘うと言う事は
気になる何かを見つけたのだろう。
通話中の見えない相手に対して、表情と共に声音も引き締めて答えた。
「50番の通りに『タルカス』って店があります
ちょっとした知り合いがやってるんですが、安くて美味いですよ」
「ああ、分かった」
その後、二言三言交わして通話を終えた。
自室のベッドサイドに腰かけたまま
ダンヒルはきちんと覚醒しようと、煙草に手を伸ばした。

慣れない図書館に詰めていたせいか、思っているより疲れている。
思うより先に体が動き出してしまう類の人間であるダンヒルが、
腰を据えてじっくり調べものをするのだから、疲労が倍増して当然だった。

疲れているのに、眠りが浅かった。
気になる事が山積みだからな
寝ぼけた声はきっと、電話の向こうにも気付かれたハズだ。

…会った途端に皮肉られそうだな
ダンヒルは少しだけ期待して笑んだ。


<TARKUS>
「…鍵は、『ラスティ・ネイル』だ」

四角い木の器に注がれた酒をぐいと飲み干して、ジェスロは言葉を落とす。
東洋の美味いヤツが入った、とカルヴァンに勧められて
2人とも同じものを飲んでいる。初めて飲む酒だ。
「この日本酒は温めてもイケますが、僕のお勧めは『冷や』です」
この街は海が近い。
近海で獲れた魚の刺身をつまみに、杯を酌み交わし始めた。
「イケるじゃねぇの」
くわえたままだった煙草を揉み消して、ジェスロは箸を手にした。
「美味いっすね」
ダンヒルも思わず相好を崩した。

「原料は米。水がキレイな土地でしか作れない酒です」
卸業者からの受け売りだが、カルヴァンは言いながら
黄金色美しい稲穂の海や、緑豊かな土地を想像していた。

透明な液は、器の木目もキレイに映し出す。
ダンヒルは瞬間、海の向こう側にトリップしそうになった。
はっとして、首を振る。
血なまぐさい現況から逃れたい気持ちは
どうにも否定しきれない。

ジェスロやカルヴァンが、ただの飲み仲間だったらどんなに良かったか
思っても仕方ない事を、ぼんやりと考えた。

カルヴァンの営む『タルカス』は、今夜も盛況だ。
ここ二晩ほど休業していたのも手伝って
夕方の開店を前に、待ち焦がれる常連客が何組も
押し寄せて来ていた。
「ロザリーは?」
話を本題に切り替える前に、ダンヒルは身を乗り出すようにしてカルヴァンに訊ねた。
カルヴァンは目線を階上に向けて答える。
「俺の部屋に居るよ。流石に、夜の時間は手伝わせられない」

ココに来てから、ロザリーは自分の家へ帰ろうとしない。
その気持ちはカルヴァンにだって痛いほど解る。
幸い、ビルの2階部分は倉庫として使う一部屋以外空いているので
後で掃除をして使えるようにしてやるつもりだった。
それまではとりあえず、カルヴァンの部屋を貸している。

ダンヒルはそう、と一息ついてジェスロへ向き直る。
「『ラスティ・ネイル』って確か…、
何番目かの仏さんの遺言ですよね」

緑色の『からし』をソイ・ソースに溶かして刺身をつける。
教わった通りにして口に運ぶと、つんと鼻に効く辛みが自分の内側をさしてきた。
ジェスロは眉をしかめて、酒を飲んだ。
「よく覚えてたな」
「俺だって、そんな馬鹿じゃありませんよ」
子供のように顔をしかめる辺りが、まだまだ『若造』なのだ。

「初めは見当もつかなかったんだが、後になって鑑識のヤツが思い出したんだ.。

昔あった事件をな」
「事件…?」
ジェスロはふと周囲を見渡し、それからカルヴァンの顔を見た。
店内は大賑わいで、彼らの話し声を拾っていそうな人間は見当たらない。
「大丈夫です。今日は常連ばかりで、僕が知らない客はいません」

顔見知りで、素性もハッキリしている労働者ばかりだった。
公務員の待遇に疑問は持っても
吸血人種に興味のありそうな輩はいない。
カルヴァンの答えは、そう言う意味だ。
ジェスロも勿論心得て頷いた。

が、彼の視線にもうひとつの意思をくみ取ってダンヒルが補足する。
「…彼は今、俺と一緒に事件を追っています」
「何だと?」
老齢な刑事は、青年とその若いマスターを見較べた。
「今回の件が、俺たちの睨んだ通りであれば
彼は間違いなく…事件の関係者になる」
「…」

少しの時間、ジェスロはカルヴァンを睨んでいた。
彼の頭の中では様々な思惑が飛び交っているのだろう。
やがてカルヴァンが笑顔で言った。
「…とりあえず、僕は仕事中ですから。どうぞお構いなく」
そうして、カウンターから外れて行った。

何処か気まずそうな顔をしたダンヒルに構う事なく
ジェスロが話を再開した。
「6年前の、大学病院の火事を覚えているか?」

中央図書館の裏手には、トラムの駅がある。
外回りと内回りの環状線をメインに、街の至る所に線路を敷いた路線バスのような小さな電車だ。
何処へ行くにも定額で、街の人間の足として重宝されている。
線路を挟んで向こう側は、議事堂と並んで大学病院があった。
そこで、一棟分の敷地を全焼する火事があったのは
もう、6年も前の事になる。
当時、ダンヒルはまだ警察学校にいたはずだ。
「ええ、何となくですけど」
ジェスロは無意識のうちに、新しい煙草を手にしていた。
「まぁ、俺も直接関わった訳じゃねぇんだけど」


「焼け跡から 身元不明の仏が2体上がったんだ」
「へぇ?」
「かろうじて見つかった手がかりから探してもな
大学の関係者でも、病院の患者でもなかった。

同じ頃、街の資産家一族の若夫婦が行方不明になっててな
もしかすると、仏さんはその2人じゃないかって話が上がったんだよ。
結局、決定打がなくて身元は明らかにならないまま
事件も蔵入りになっちまったが」

「そもそも、全焼した棟の火元の場所が
普段使わない部屋だったらしい」
火をつけた新しい煙草の煙を吸い込んで、ジェスロはゆっくりと息を吐き出した。
その間にダンヒルは、さり気なく店内を見渡す。
何となく、そんなサインを送られたように思ったからだ。
恐らく、この先に〝トップシークレット〟が待っている。
「その部屋の鍵を持っていたのは
アレックス・クラインという男だった。勿論、大学の関係者だ

―コレは、確証が取れた訳じゃねぇ。
ごく一部の人間だけが知っていた事なんだが…
そいつが極秘で遂行していた研究があったらしい。

その研究が
『ラスティ・ネイル』と呼ばれていたんだと」
「…それ!」
「ああ」
ダンヒルが声を上げると、ジェスロは低く頷く。
声量の高さを諌められたような気がして
ダンヒルは申し訳なさそうに首をすくめた。
「クラインは今、行方不明だ」
「当時捜査中に、ヤツがプライベートで使ってた自宅の地下室からな
膨大な量の研究データが出てきた」

ジェスロはボソボソと呟くように話を続ける。
油断すると、周囲の酔っ払い達の嬌声にかき消されてしまう。
ダンヒルは、全神経を耳に集中させた。

「そこに残ってた書類の、走り書きの中にあったんだよ。
火事と同時期に行方不明だった…資産家・ウィロウズの名前がな」


◆◇◆

Bloody Mary【再編集】<第一部>

長編舞台の前編です。舞台設定はあくまでも何処までも、当方の創作です。
※再編集後、以前のものと多少内容の異なる部分があります。何卒ご容赦ください。

Bloody Mary【再編集】<第一部>

ちょっと長いお話。吸血人種の人とそれを取り巻く人々と彼らが巻き込まれたある事件。

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