月の落下
月が、沈んでいる。
むかし、空にあったといわれる、月、という天体が、ぼくらの町の、町のはずれにあるみずうみに、沈んでいる。
空にあったものがどうして、みずうみに沈んだのか、それはつまり、月が、ぼくらの星に落っこちてきた、ということなのだけれど、では、なぜ月は落ちなければならなかったのか、どうしてこの星なのか、いろんなひとが調査して、研究して、すでに千年が経過しているらしいが、いまだにその実態はわからないという、まあ、なんというか、神秘、というやつではないかと、ぼくは思うのだけれど、けれども、にんげんというやつは、好奇心旺盛ないきもの、ですから、神秘を、ただの神秘では片づけられない、ものどもですから、千年が過ぎても懲りずに、みずうみのなかに沈んだ、月を、研究にやってきて、みずうみにもぐっては、月の一部を回収して、調べて、また回収して、調べて、を繰り返しては、ひとり倒れ、ふたり倒れ、あたらしいにんげんがやってきては、みずうみにもぐり、回収し、調べ、をまた繰り返す、要するに、エンドレスループ、というやつ。
「ほんま、世の中、ひまじんばっかやで」
薄むらさき色の液体をのみながら、きみがぼやく。
薄むらさき色の液体は、アルコールと、なんらかの果汁とミックスさせた、のみものである。
アルコールは、百年前に禁止されたというのに、きみはまったく、どこに隠し持っているのか、謎だが、それもまた神秘、ということにしておこうと、ぼくは思う。
月が沈んでいる、みずうみに、もっとも近いところで暮らしている、きみ。
「あんな石っころのために、よう命をぽいぽい捨てられんな。おれにはわからん、月、のなにがそんなに、ええねん、って感じや」
薄むらさき色の液体を、ぐびっ、ぐびっ、とのんで、三角形にカットされたチーズを、ぱくん、とたべるきみの、家の窓からは、みずうみがみえる。
夜でもみずうみは、明るい。
いつも誰かが、いるのだ。
誰かが持ちこんだ照明をともし、誰かが持ちこんだ手漕ぎボートに乗って、誰かが持ちこんだダイビングスーツや足ひれで、夜のみずうみにもぐっている。
千年。
千年、という長い年月のあいだ、月、のために、にんげんたちが持ち寄った道具は、機械は、朽ち果てるものもあれば、使われ続けるものもあり、いずれにせよ、月を調査しにきたにんげんたちは一様に、後始末、というものができない。
壊れれば、捨てる。
使わなければ、置いてゆく。
壊れていない、まだ使える状態であっても、にんげんが死ねば、それらはしばし役割を失い、休息に入る。
幾日かして、新たなにんげんがあらわれる。
束の間の休息だったと、道具たちはがっかりする。
そしてまた、にんげんたちの飽くなき探求心につきあわされ、弄ばれる、ものたち。
ねえ、知ってる?
「なにを」
月のかけらをたべると、薄毛が治るの。
「うそやん」
それから、血液がさらさらになるの。
「マジでか」
粉末にしてチョコレートにまぜると、惚れ薬になるとか。
「それはうそやろ」
粉末にしたやつを水にとかして肌にぬると、美白になるとか。
「ああ、それは聞いたことあるわ」
粉末にした月をグラタンにかけると、粉チーズのかわりになるとか。
「酔ってるやろ、ジブン」
酔ってるやろ、ジブン。
きみのことばを、そっくりそのまま、言い返す。
アルコールと、なんらかの果汁をミックスさせたのみものは、うまい。うまいのみものを、のんでいるせいか、あたまのなかが、ふわりふわりと、してくる。ぼうっとする。しびれる。かんがえることを、ほうきする。あくびが、でる。ねむけが、おそってくる。
月、について。
学生の頃にすこしだけ、調べたことがある。
月のこと。
月は、むかし、むかしのひとの、夜道を明るく照らしていた、
ということ。
月は、日によって形が異なった、
ということ。
月は、みえる日と、みえない日があった、
ということ。
月にはうさぎがいた、
ということ。
お姫さまもいた、らしい、
ということ。
きみは月を、みたことがある?
「ないな」
ぼくは本でみた。
「ほう」
月は、まるいんだ。
「なんや、石とちゃうんか」
まるくて、表面はぼこぼこしている。
「じゃがいもみたいなもんか」
夜になると、白く光る。
「光るじゃがいもか」
むかしむかしの、街灯もない夜道を明るく照らすのが、月の役割だったそうな。
「やるやん、じゃがいも」
ちゃぽん、
ちゃぷ、
ちゃぷ、
ぽちゃん、
と、水のはねる音。
みずうみに沈んだ月は、そういえば夜になってもまったく、一切、一瞬とも、光らない。
ぴちゃ、
ばちゃ、
ばちゃばちゃ、
ばちゃばちゃばちゃ、
という、はげしい水の音。
誰か溺れた、と思われる。
月の落下