不実の雨

第一話 瞬間湯沸かし器

第一話 瞬間湯沸かし器

昨夜から降り始めた雨は、まだ窓ガラスに幾筋の跡を作ってぎこちなく流れている。居間で流れる曲は丸山圭子の「どうぞこのまま」、大野真知子は雨が降るとこの曲を繰り返し飽きずに聴いている。アンニュイな気分に浸りながら通りをはさんだ向かい県営団地B号棟の階段脇に植わった紫陽花をさっきからぼんやり眺めていた。重い雲から降り注ぐ雨しずくを受けながらも、ジッと耐えながら咲いている姿が真知子の心を捉える。そう、あの階段の3階にあの人が住んでいるんだもの。
真知子38歳、夫の浩二は3歳年上の公務員で二駅先の市役所で勤務している。性格はバカがつくほど正直でマジメ、酒やタバコもやらず趣味は囲碁と将棋だけというカタブツである。もちろん浮気などするはずもなく、職場の二次会で女性ホステスのいるバーなどに行くと、本当に疲れ切った顔をして帰ってくる。「オレさぁ、知らない女性と何を話していいかわからないんだよ」と真知子の翌朝こぼすこともあった。真知子からは「ねぇあなた、少しはハメはずさないと職場の人間関係もうまくいかないわよ」と反対に忠告される始末である。真知子も25歳で結婚して以来、カタブツであっても優しい夫に十分満足していた。子供には恵まれなかった、それでも夫と二人でこの県営団地で暮らすことに不満はなかった。夫は私を愛してくれている、ぎこちないくらいカタブツな夫だけど、この人と結婚して良かったとずっと思ってきた。そうよ、あの時まではずっとそう信じていたの。

あの人の名前は西野孝則、年齢は私と同じ丑年で38歳。向かいのB号棟では母親と同居している。県営団地なんてお互い挨拶もろくに交わさないし、私たちA号棟の居住者はB号棟に誰が住んでいるかなんて知らないし興味もない。もっとはっきり言えば交流が面倒だ。そんな1年前の6月25日、年に一度の団地自治会の総会の時に初めて彼と出会った。その日は今日と同じく朝からの小雨、団地敷地内の集会所に居住者が集まってきたが、かわす言葉は少ない。総会では一年間の活動実績(交通安全歩哨、赤い羽根募金、火の用心見回り、盆踊り大会など)の報告や会計報告などが行われる。しかしそんな報告などは読経みたいなもので誰も聞いていない。居住者の最大の関心事は次期自治会会長、副会長、会計の3名の選任であった。当然のことながらこんな役職など御免こうむりたいというのが皆の本音である。大した仕事ではないが、時間は割かれるしカネを扱うとなればそれなりに気を使う。しかし誰かがやらなければならない任務であることは間違いない。自治会規則によってまずは立候補ということで挙手を求める。皆はシーンとして周りの様子をそっと窺うが誰も手を挙げない。そこで議長役の会長が「それでは立候補の方がどなたもいらっしゃらないようなので、自治会規則によりくじ引きで選任とさせていただきます。ただし過去3年間に役員を務めた方はその対象外となることを申し添えます」との宣言があった。それはそうでしょうね、運悪く連続して役員なんかにさせられたらたまったもんじゃないわ。でも私は自慢じゃないが子供の頃からくじ運は強いから大丈夫、この団地に足かけ7年住んでいるけど一度も選任されたことはないわ。だから今回も…。私は完全にタカをくくっていた。
居住者の名前が書かれた紙が入った段ボール箱を会長が念入りにかき回し、副会長の女性に渡され一枚目を取り上げた。「鈴木五郎さん、会長に選任されました」という声が副会長から上がった。会場は露骨なまでにほっとした笑顔で溢れ、続いて拍手が沸いた。私も余裕シャクシャクで「お気の毒な鈴木さんってどなたかしら?」と会場を見まわしたが、本人は立って会釈するでもないのでわからなかった。それはそうよね、政党の党首指名じゃあるまいし、指名されて立ち上がって頭を下げるマネはしないでしょう。きっと今この瞬間は心おだやかでないはず。しばらくして副会長の選任となった。同じく会長が再度かき回した箱が副会長に渡され、一枚取り出された。「大野真知子さん、副会長に選任されました」という声が他人事のように響いた。ウソだ!なんで私が副会長なのよ、もっと適任の方がいらっしゃるでしょうに,,,心の中で叫んだ。
会計の今井敏子さんも同様に選任されたところで、役員3名は集会所の低いステージに引っ張り出された。そして前会長より「今年度はこのお三方を役員として団地自治活動を運営することになりました。申し上げるまでもなく、皆様の積極的なサポートがあってこそ自治活動が成り立つわけでして…」。私の頭はネガティブ一色だった。こんな面倒なことを押し付けられるくらいなら団地を引っ越してしまおうかしらとか、お金を払ってでもいいからどなたかに代わってもらえないかしら、などと自分勝手な事ばかり考えていた。一応夫婦で会長の役目を分担することになるのだが、人付き合いが悪くシャイな夫が居住者や地元コミュニティとの橋渡し役なんかできそうもない。そうすると結局は私が鈴木さんとかいう新会長さんと二人三脚でこの面倒くさい雑務をこなしていかなければならないんだわ。これまでくじ運を全部使い果たしてしまったのかしら、それにしても最悪のくじを土壇場で引いてしまったものだわ。

役員新三役は檀上に呼び出され重い足取りで会場に向かって顔を向けた。慣例通り新会長の鈴木さんが三役代表挨拶をすることになった。見たところまだ20代の若い人だけど短パンにヨレヨレのTシャツ、それにビーサン姿。ちょっとイヤな予感がした。

「あのう、オレこの団地に入る時に自治会の仕事は一切やりませんから、ってその時の会長さんに言っておいたんすけど、やっぱこれって引き受けなきゃいけないんすか?オレ、ダチとバンド組んでて結構忙しいんっすよね」

予感は的中した。あまりにも幼稚な発言、しかも形式とはいえ就任挨拶でとんでもない発言。会場は氷ついた。そして想定外の事態に前会長も慌てたが冷静さを即座に取り戻した。「鈴木さん、お気持ちは分からぬでもありません。私とて正直申し上げれば去年の今ごろは同じような気持ちでおりました。しかしこの1年間会長職を拝命し、微力ながらも自治活動のお手伝いをさせて頂き、今では皆様のおかげで全うできたのは大きな喜びとなっております。鈴木さん、ここはひとつ1年間お願いできませんでしょうか」

さすが前会長である。心にもないことを言いつつもワガママは許さないという老練な貫録で若僧をねじ伏せようとしている。水戸黄門クラスの迫力に若僧は「ははぁ~」とひれ伏すのは目に見えていた。ところがである、若僧はこう言った。
「ふーん、そんじゃあ、あんたもう一年やってよ。オレも応援するわ」
会場からは失笑が飛んだ。ここまで来るとヘタなお笑い番組よりよっぽど面白い。しかも観客たちは選任を免れた後の高みの見物でこの茶番を楽しんでいられる。さすがの黄門様も顔色を変えた。しかし悲しいかな、大事な場面で助さん、格さんがいないので動けない。二人のにらみ合いが続き一触即発。

そこで「人間瞬間湯沸かし器」の異名を持つ私は若僧に向かって叫んでいた。
「あなたねぇ。自分が恥ずかしくないの!キンタマついているならいさぎよく会長になりなさいよ。どうしてもイヤだって言うなら私が会長を兼務するわ!」

このタンカに会場はやんやヤンヤの大喝采、前会長は青天の霹靂の如く現れた助さん、格さんに大感激。しばらく私はステージの上で黄門様、大岡越前、遠山の近さんの三役を同時に演じるスターになった。「きまった!」と千両役者のポーズを決めたいような高揚感、しかしすぐに我に戻って後悔した。副会長だけでも面倒くさいのに会長なんか兼務したら、マジで会社の有給休暇を使わなければならないハメになる。冗談じゃないわ、なんで私がそこまで、と思ったが後の祭り。そう、いつだって私は自分で沸かした熱湯を後になって自分でかぶるハメになるんだわ。

若僧はちょっと驚いた様子だったが、
「はぁ、そうですか。それじゃ、えっと大野さんでしたっけ、どうぞよろしくお願いします」と言い放ち、頭も下げずにステージをさっさと降りて自分の席に戻って行った。ステージの隣で立っている今井さんも心配そうに「大野さん、大丈夫ですか?私も勤めに出ていますので会計以外のお手伝いはできないと思いますけれど」と事務的で冷たい事前宣告をしてきた。そう、あの若僧の暴言にさえ逆上しなければこんなことにならなかったのに、私って子供のころからツマラナイ正義感を持っていてこれまでもずいぶん損をしてきたと思う。仕方ないわ、ダンナに事情を説明して彼にできるだけ協力してもらうしかない、と覚悟を決め「それでは僭越ではありますが、今期は私が会長、副会長を兼務させていただきたく存じます」と小さい声でマイクに向かって述べた。会場はさすがに私に対して同情の目を向けている。前会長も困ってしまって「うーん、皆様の協力は頂くにしても大野さんお一人で全部はやり切れるものではないですよ。やむをえませんな、私もさっき“この1年間は大きな喜びでありまして”、と言った手前もあります。皆様のご賛同が得られるのなら今期も私が会長を続投しますかね」と言ってくれた。あぁ~、なんていい人なんだろう。自分の発言に責任を持って、やらなくてもいいことまで引き受けるなんて男の中の男だわ。地獄で仏に出会った気分、前会長を尊敬の眼差しで熱く見つめていた。そもそもさっきの鈴木とかいう若僧となんかと、とてもじゃないけど会長、副会長ペアは組めない。こんな立派な方が会長を続投してもらえるなら、不幸中の幸いだわ。そこで私も興奮してマイクに向かって演説してしまった。
「自分の事しか考えない鈴木さんのような方もおられれば。ここにいらっしゃる前会長のようなご立派な方もいらっしゃる。前会長には心から敬服する次第です。もちろん続投について私に依存などあろうはずございませんし、皆様も同様かと思います。それでは皆様の賛意を拍手を持ってお願い致します!」
万雷の拍手が鳴り響くはずのその直前に、会場の真ん中あたりに座っていた男性がのそっと手を挙げた。

「あのう、僕が会長になってもいいんですか?」

万雷の拍手で散会になるはずが、またしても想定外の立候補。しかもとても素朴な形での意思表明。前会長もキョトンとしていたが、とにかく彼を檀上まで招き入れた。
「えーっと、失礼ですがお名前は?」
「西野です。B号棟の3階に母と二人暮らしです。僕は仕事の関係で昼は団地にいることが多いので、もしかしたら自分でもやれるのかなと思いました。それにこの団地に7年も住んでいて一度も役職についたことがありませんしね。」
前会長が「ありがとうございます、素晴らしい…」と応答する言葉を遮って私はまたもや吠えていた。。
「西野さん、どうぞよろしくお願いします。私もあなたと同じく7年前にこの団地に入ってきましたが何もやっていません。力を合せて頑張りましょうね!」と場所柄もわきまえず彼の両手を握ってしまった。なんだかなぁ~、たかだか団地の自治会でこんなにクサイ芝居までしなくてもいいのにとは頭では分かっていたが人間湯沸かし器は止まらない。前会長は安堵の表情を見せ、会場全体もなんとなく甘っちょろいメロドラマでも見せつけられたような陳腐な感動に包まれ、やがて大きな拍手が集会所で鳴り響いた。

家に帰ってから一部始終を夫に報告した。副会長に選任されたと聞いて真っ先に「え~、オレは何もできないぞ。そういうのニガテだから」と呟く。予想していた反応とはいえ私もカチンときた。「ええ、結構よ。あなたなんてアテにしていません。西野さんはね、頼まれもしないのに皆が嫌がる会長職を自ら買って出たのよ。そういう人とこの団地の自治運営をするんです。あなたは何もしなくていいから、その代わり口は出さないでよね!」とトンガリ口調で答えた。
夫はちょっと心配そうに「あんまり熱くなるとこの前みたいにオマエが損することになるぞ。大人なんだからほどほどにしとけよ。それにどうもその西野さんって男が気になるな、夜の勤めだというし。ヘンなヤツじゃなきゃいいけど」。マジメな公務員らしい偏見に満ちた言葉であるが、私はこれ以上ダンナとやりあうつもりはなかった。
私だって西野さんに今日初めて会ったのだから、どんな人なのかよく知らない。公務員とかサラリーマンではなさそうだわ。お母様と二人暮らしってことは独身なんでしょうね。それにしても「あのう~」と言いながら、のそっと手を挙げて立候補したあの姿、好感は持てるけど笑っちゃうわ。田舎から夜行列車で初めて上野駅に降り立ち、道順を駅員にきいている学生さんみたいで、なんとなくこっちから面倒を見てあげたくなっちゃう。それともう一つ大事なこと。7年も団地に住んでいて何もやらないのは申し訳ない、って言っていたけど、私と正反対だわ。自分はクジ運がいいから大丈夫だなんて自分勝手なことを思っていたことが恥ずかしい。彼の爪のアカでも煎じて飲まなくっちゃいけないわ。

さて、来週は前期三役からの引き継ぎがある。普通は気が重くなるこういう引き継ぎ仕事、全然重くないのが自分でも不思議なのよ。あの西野さんってどんな人?少なくとも私が出会ったことがないパターンの人だわ。それに夜のお仕事って何?なんで今でも独身なのかしら…今週は会社でも気が付くとそんなことを考えていた。もちろん惚れたわけではないしそんなつもりは毛頭ない。でも不思議な人「西野孝則」に会ってしまった。7年も同じ団地に住んでいながら一度も会ったことが無かったのもパンドラの箱を想像させた。うん、夫の言う通りだわ。あの人だけには瞬間湯沸かし器になってはダメ、と思いながらもほくそ笑む自分はどうにも止まらなかった(続く)

第二話 コミセン

第二話 コミセン

翌週の引き継ぎは団地のすぐ近所にあるコミュニティーセンター(コミセン)で行われた。新会長の西野さんへは歴代受け継がれてきた分厚いコクヨのファイルが2冊手渡された。いまどき分厚いファイルでもないとは思うけれど、なにせ一番古い記録書類が昭和61年度、アナログ時代の「死海文書」であった。平成のデジタル時代になってもすべて紙に印刷して丁寧に穴あけパンチでファイルし続けているところが団地自治の因習性を物語っている。会計の今井さんには会計簿と一緒に現金残15万5千125円が手渡された。銀行預金口座にしておけばもっと安全で管理しやすいのだが、ここでも現金主義の因習が幅を利かせる。しかも会計簿に至ってはコクヨの手書き帳簿である。団地自治という仕事はおよそ改革とか合理化とかい言葉は似合わない。粛々と前任者の跡を1年間続けることだけが大事なのである。

1時間弱の引き継ぎが終わったところで給茶機から注いだお茶を飲みながら、前会長は「何か困ったことがあったらわれわれ3人にいつでもご相談ください」と引き継ぎ業務を括った。他の2人も同様の発言をした。前会長が持参してくれたノリ煎餅を頂きながら雑談が始まった。
「それにしても、あの鈴木さんとかいう若い人、驚きましたねぇ。私も昭和48年からこの団地に住んでいますが、初めて見ましたよ、あんな人。昭和の頃はまだ団地内も近所づきあいや助け合いの精神が残っていましたね。幼い子供が急に熱を出したときなど、勤めのお母さんはお隣の奥さんに預けて出勤するなんてこともザラでしたよ。最近はこういう助け合いは皆無じゃないでしょうかねぇ。まぁ時代の流れなんでしょうけど私のような昭和の古い人間はなんとなくサビシイ気持ちがします」と本当に寂しそうに言う。そうね、前会長は高度成長期を引っ張った世代、男は企業戦士、女は銃後の守り。近所同士もお互いに助け合って日本を豊かにしていこうという一つの目標に向かって突き進んでいた「三丁目の夕陽」時代だった。そういう人たちから見れば先週総会でのあの若僧の傍若無人な振る舞いは怒りを通り越して、唖然とするだろう。しかしそれも時代の流れ、として甘受しなければならない寂しさが前会長にはある。
「しかし私も今回は西野さんに救われました。こんなせちがらい平成不況の世の中で、西野さんのような昭和タイプの人がいるなんて、なんだか目頭が熱くなる思いでしたよ。あの時に壇上でその思いを伝えようとしたら私の邪魔をして大野さんが西野さんの手を握っているじゃありませんか。いやいや、茶番劇だと思う人にはそう思わせておけばいいんです。私は大野さんのあの情熱にも負けたんです、あはは~」
顔から火の出る思いだったわ。前会長ったら本当に意地が悪い、なにもこんなところでその話を持ち出さなくてもいいじゃないですか。真赤な顔で前会長を思いっきり睨んでやった、まあ今回はお煎餅持ってきたから許してあげるけどね。
「いや、大野さん、あなたは凄い人だ。特にあの若僧に向かってアンタってキンタマついてんの!とタンカを切ったところは圧巻でした。会場の皆さん、大いに沸きました。まさに千両役者です」。この前会長、ちょっとシツコイ。いつまでも人のことからかってんじゃないわよ!と思ったとたん今まで無言だった西野さんが突然、

「あのう、僕のキンタマは普通サイズですけど本体は比較的小さいと言われたことがあります」

一瞬シーンとなった。宇宙からやって来たETが突然およそ場違いな発言をテレビインタビューでしてしまったかのような、気まずい雰囲気。特に前会長は「いやいや、西野さん。私だって人さまのことは言えませんよ。こんど一緒にコッソリ定規で測ってみましょう」などと必死に場を取り繕うとするが、ますますシラケるだけ。ここはもう散会にしなければという空気が流れ、前副会長が「さて、ワタシもそろそろ夕飯の支度をしなきゃいけないので失礼します」を潮に4人は立ち上がった。私も改めて西野さんの方を見たけど、ますます分からない人に思えてきた。この人はきっとETだわ。ダンナの言う通りヘンな人なのかもしれない。あ~、なんかちょっとゲンメツだわ。

コミセンを出る前にトイレに立ち寄って玄関で靴を履いていると、ちょうど西野さんもトイレから出てきて鉢合わせになった。そういえば会長、副会長としての挨拶がまだだった、と思って「改めまして、大野です。A号棟の1階に主人と二人で暮らしています。どうぞよろしくお願いします」と軽く頭を下げた。普通なら「こちらこそよろしくお願いします」と返すところだが、やっぱりETの返しは違っていた。
「あのう、コミセンって初めて来たので皆さんが来る前に中をウロウロしてみたんです。そうしたら掲示板に“朗読の会”というのがあったんですよ。朗読の仕方を先生から学んでから、有志が目の不自由な方に聞かせてあげる会なんだそうです。僕、工業高校を出てずっと工場で働いていたんですけど、こうやって少しでも人の役に立つこともあるのかなって思いました。毎週土曜日の午後2時からなんですけど、工場の勤務シフトで土曜日は休日なことが多いのでやってみようかと思ってさっき入会を申し込んだんです」。
う~ん、いかにも西野さんらしい飾り気はないけど唐突なお話しだわ。さっきのキンタマ事件は頭から吹っ飛んでイッキに西野さんってステキモードに変わっていた。私もキラキラと目を光らせながら
「あ、この掲示板ですね。あったわ、“朗読の会”。こういうボランティア活動にご興味があるんですね。素晴らしいことだわ。私なんて自分でいろいろ言い訳しながらボランティアって携わったことないんです」
私は彼のリアクションを待った。普通だったら「いや、私もたまたま初めて掲示板で見つけただけで」とかなんとか言いそうなものだけれど、ここでまたET節が飛び出る。
「僕の母は今年で80歳になります。早くに夫を亡くしてから女手一人で僕を育ててくれました。最近、母がよく僕に言うんです。何のために人は生まれてきたのかと。僕はたいした教育も受けていないし微力だけど、なにか人のためになりたいなと思っています」
うわっ!話があっちこっちにぶっ飛ぶわ、この人。でもなんかすごく西野さんの人柄が伝わってきて暖かな気持ちになれる。この人の話に誇張とか巧言とかが一切混じっていない。都会の会社との往復の毎日で心が荒みかけている私にとって、西野さんの言葉は岩盤浴のように全身を温めてくれる。
「西野さん、それでこの前の総会で立候補されたのですね。本当にご立派だわ。正直言えば私なんかね、あの時に副会長に選出されてしまって逃げることばっかり考えていたんです。」
あの時の自分の狡猾な気持ちを誰かに聞いてほしかった。壇上で若僧に怒鳴っておきながら、実は自分だってそれほど違わない気持ちでいたことを西野さんの前で懺悔したい気持ちに駆られていた。すがるような気持ちで西野さんを見ると彼は一言、
「それでは失礼します」と言って先に玄関を出てしまった。
なんという肩すかしの幕引きなの!人の心の奥深い部分に触っておきながら、それでは失礼します、はないでしょうよ。もっともそれは私のひとりよがりで、彼は私の心の奥になんか触ったつもりはないんでしょうけど。でも相手のペースなんか全然気にしないところも西野さんらしくていいわ。

彼の歩く後ろ姿をジッと見つめていた。彼は私の醜く自分勝手な部分を映し出す鏡なのかしら。もちろん許されるのならばそういう醜い自分に頬っ被りしたままでこのまま生きていたい。でも西野さんは無言で「それでいいのですか?」と諭してくれているような気がする。そして一番大事なこと、西野さんは決して上から目線ではなく同等目線でいてくれる。いや、西野さん本人は目線など全く意識していないというほうが正しいと思う。それほどまでに裏表のない人、まるで子供のような心を持った人だわ。徐々に私の湯沸かし器のお湯が熱くなってゆくのがわかる。もっと西野さんと話がしたい、もっとあの人のことを知りたい。そう、これは恋なんて薄っぺらなものじゃないわ、人間として西野さんのことに興味があるだけ。その時は確かにそう信じていたのよ。

翌週の土曜日、こっそり一人でコミセンに来てみた。西野さんは“朗読の会”に入会したらしい。初日の今日会えるかもしれない、と秘かに期待していた。ダンナは昼から碁会所に出かけて夕方まで帰ってこない。コミセンの受付には友だちの智子がいる。彼女に“朗読の会”のことについて聞きにいくという口実も忘れずに今日はここに来た。受付では智子が愛想よく迎えてくれた。「あら、こんなところで真知子ったらどういう風の吹き回しかしら。なにか御用?」と笑った。
「あら、御用とはご挨拶だわ。あのね、ここで“朗読の会”っていうサークルがあるでしょ。そのことでちょっとお聞きしたくってね」
「うん、毎週土曜日に集まるサークルね。興味でもあるの?」
「ちょっとね、ガラでもないんだけれど朗読を通して少しはお役に立てれば、というか今までの罪の償いをしたい、というか…」私は作り笑いをした。
智子は覗き込むようにして私を見た。
「入会するのはご自由だわ。親しいあなただから言うんだけれど、途中で挫折する人も多いのよ。結構朗読って疲れるのよね。中途半端な気持だったらやめたほうがいいと思うわ」
うーん、的を得た有難いご忠告。私なんか「人のため」と言うのは建前で実は「西野さん」が目的なんだから、そんなの真面目な智子に分かってしまったらそれこそ出入り禁止になってしまうわ。
「ありがとう、智子。でも挫折覚悟でやってみたいのよ。入会できるかしら」
「もちろん入会は随時オーケーよ。まだ人数の余裕もあるしね。たしか50人までだったかしら、えーと名簿は。どこに置いたかしらね」
私の目が光った。だけど名簿を見せてくれとは口が裂けても言えない。間もなく智子は名簿を見つけて「あったわ。うん、大丈夫、あなたで42人目だわ。あ、先週に真知子の団地の方も入会されているわね、西野さんっていう男性」
個人情報漏洩ギリギリのところだけれど有難かった。ここまでわかって私の気持ちは固まった。
「智子、入会させてください。今日はサークル初日だったわよね。善は急げ、今日から出席します」
もうあと30分くらいであの人と会える。不思議とドキドキときめきはしない。ヘンな喩えではあるけれど、牧師さんか坊さんに出会ってゆっくりと話をしたい、そんな落ち着いた期待感が溢れていた(続く)

第三話 朗読の会

間もなくコミセンサークル“朗読の会”の第一回目が始まる。私はホール最後列2人掛けスチール机に向かって座り、智子からもらったサークル案内のチラシを眺めている。案内に書いてある能書きなんか全然頭に入ってこない。すぐ後ろの扉が開くたびに体に緊張が走る。土曜日はお休みと言っていた西野さん、今日はサークル初日だし来てくれるわよね。こんな勝手な独り言を心の中で呟いてみた。
2時になって講師の広沢京子さんが入ってきた。広沢さんは引退するまで地元ラジオ局のDJを担当していた女性で、ナレーション業界では知られた人である。この団地の近所にお住まいというご縁でコミセンの“朗読の会”の講師を引き受けていただいた、と案内チラシに書いてあった。私は広沢さんのことは知らなかったけれど、ボランティアで講師を引き受けてくださっている事実だけでもお人柄が偲ばれる。

初日の講義が始まった。最初に広沢さんの自己紹介、その後に受講者は一人一人立ち上がって名前を述べて頭を下げた。まだあの人は来ない。もしかして今日は出勤なのかしら?期待が大きかっただけ落胆した。そして最後列の私の番になったので「大野真知子です。近くの県営団地に住む主婦です」と簡単に挨拶して座った。私が最後なので広沢さんは
「もう一人、西野さんとおっしゃる男性の方が受講申し込みをされていますが、今日はお休みのようですね。それでは、講義を始めましょう」とテキストを持ち上げた。その直後、あのETが扉を開けた。
「あのう、ゴミ捨てに手間取って遅刻したんですけど、今からでも聴講は可能でしょうか?」
あちこちからクスクス笑いが起こった。皆の目がいっせいに後方扉に向いたので、まるで私が注目されたかのような恥ずかしさを覚えた。でも広沢さん、さすがに元ラジオDJだけのことはあるわ。こういう不規則発言に慣れていらっしゃる。
「あ、西野さんね。皆でお待ちしておりましたのよ。今日は確か生ゴミの日でしたわね、ご苦労様です。どうぞ空いているお席にお座りください」
教室にはホッとした空気が流れ、皆は前に向き直った。西野さんは、扉から一番近い私の隣の席に座ったけれど、会釈するでもなし、ぶっきら棒にカバンからテキストを取り出した。私も敢えて彼には構わず前を見続けた。

広沢さんの講義が始まった。
「朗読のポイントは言葉による表現力です“間・ポーズ”“抑揚・イントネーション”“際立たせ・プロミネンス”などがその要素となります。これらの表現力の組み合わせによって“うまいなぁ”と感じさせることができます。しかし、これらを使いこなすのは案外難しいのですよ。そこで初日の今日は、朗読がうまく聞こえる、臨場感あふれる読み方のコツをいくつか紹介します」。
うんうん、それほど難しくないお話しだわ、これなら私でもついて行けそうね。

「本日の題材です。有名な芥川龍之介“蜘蛛の糸”の一節です
“ところがある時の事でございます。”
この“ところが”という接続詞は予想しなかったことがこの文章のあとに続くはず。ということを聞き手の人に期待させなければなりません。この接続詞をどう発声するかによって聞いている人のイメージは大きく変わるのです。私がいくつかのパターンで“ところが”を発声してみますから、皆さんどういう印象を持ったか覚えていておいてください。まずは最初のパターン…」
さすが広沢さん、受講者の興味を引き付ける話しぶり、まるで噺家の名人芸を聞いているような楽しさがある。不純な動機で入会した私だけれど、なんだかこの広沢さんにハマりそう。横で熱心に聴講している西野さんをチラッと見て苦笑いをした。

3時に講義は終わった。広沢さんから聴くことすべてが新鮮で興味深かった。今までは人と話をするときはその内容がすべてだと思っていた。ところがそれは間違いで、話し方や態度によって聞く人には全く違ったメッセージが伝わってしまうこともわかった。これには目からウロコ、大袈裟に言えば人生の中で起きたコペルニクス的転回、そうコペ転の一つだわ。テキストを片付けながらこのサークルに入会した望外の喜びにしばし浸っていた。そうだ、望外と言えばこの西野さんは、と横を見るといつのまにかホールから消えている。今日こそは捕まえたい、それだけの思いを抱えて廊下に飛び出した。真知子、せっかくサークルにまで入会して追っかけているのに逃がす手はないわ。ここは瞬間湯沸かし器の見せ場よ、ゼッタイに今日は…玄関を出て一方通行を右に勢いよく曲がったところで西野さんとドスンと衝突した。彼は受付に用事があったことを思いだして戻るところだったらしい。
「あれ、大丈夫ですか?西野真知子さん」
またしても笑わしてくれるわね。知り合って間もない人の名前、しかも異性、しかも人妻の名前をフルネームで普通は呼びませんことよ。やっぱりこの人どこかズレているんだわ。
「こちらこそ急飛び出したりして申し訳ありませんでした。それにしてもフルネームで名前を呼ばれたのは病院や市役所の受付以外ではあまり記憶にないんですけど、西野さんって記憶力が良いのですね、ビックリです」本当はビックリしただけでなく嬉しかったんだけどそれは今は言わない。
「そうですかね、子供のころから僕は人の名前はフルネームで記憶する習慣がついているんです。でもあなたは僕の舌の名前は知りませんよね」
うっ、知っている、「孝則」でしょ。でもここでは「ごめんなさい、知りません」と答えるのが常識だわ。本当に西野さんと話していると調子が狂う。それにいったいどっちが正しいのかわからなくなってくる。でも西野さんの発言を逆手に取るアイデアがひらめいた。
「西野さん、私ってあなたの下の名前も知らないほどなにも分かっていないんです。今年度は自治会を運営する会長、副会長がお互いに何も知らないのでは具合が悪いですよね。もしこれからお時間があれば、コミセンの談話室でちょっとお話ししませんか?」
うん、これはもっともらしい口実だわ。でもまたETの想定外のリアクションが飛ん出くるのかしら?
「あのう、それでしたらウチにいらっしぃます?母もおりますし折角だから皆で話しましょうよ。そうだ、ご主人もいらっしゃればご一緒に」
あ~、やっぱり不規則発言が来たわ。ご近所交流会じゃあるまいしなんであなたのお母さんや私の旦那が同伴しなきゃいけないのよ?でもこの人の言う通り、家族と一緒に話し合った方が自治運営の面談という意味ではベターであるのかもしれない。要するに西野さんはピュア過ぎるのよ。一応私だって女、ちょっと勇気を出してコミセンの部屋で二人きりで、と言ったつもりがこのリアクション、しかもよく考えれば彼の不規則発言も一理あるような…ああ。またしてもどっちが正しいのかわからなくなる。
「あ、それはいいですねぇ、お母様さえご迷惑でなければお邪魔させていただきます。ウチの主人は不在なので私だけで伺いますね」
そう答えるしかなかった。
「そうですか、それじゃこのまま一緒に行きますか」
彼は団地の方へ歩き始めた。彼の半歩後ろからついてゆきながら、もうこの人と二人きりになることなんてないだろうなぁ、私が躍起になればなるほど、いつのまにか彼はサッと斜め横にいる。滑稽な自分がちょっと情けなかった。

B棟302号室、彼は鍵でドアを開けて「ただいま、母さん」と大きな声をあげた。私はもちろん玄関で立ったままで待っていた。彼は中に入ってたが間もなく戻ってきて「母は今、同じ団地の弟家族のところに行っているんでした。今日は甥っこの誕生日会だから料理を持って行くからあなたはあとからいらっしゃい、って言っていました。すっかり忘れていた」
それってよくある話、それはいいんだけれど次の彼のセリフでさすがに私もカチンと来た。
「ウチの母もお宅のご主人も不在じゃぁ西野真知子さんのおっしゃる面談も意味ないですよね。また日を改めるか中止にしましょう」
確かにどうしても今日その面談とやらをしなくてもいいのは事実だけれど、なんだか私の事を避けている?と思わせるような発言が続くので私も
「はい、ではそうしましょう。お邪魔しました!」と勢いよく玄関を出ようとした瞬間、
「あのう、せっかくですからお上がりになります?手狭なところですけど、あ、それはお宅と同じか」
やっと常識人の言葉が出た。と言うか最初からそう言ってよ、というのが本音。ここで「いえいえ、お母様もご不在ですし、団地の部屋で二人だけでというのも何ですから」とでも言えばこのETさんは「そうですか」と無表情で応答することは目に見えている。
「ありがとうございます。それではちょっとだけお邪魔します」と頭を下げてスリッパに履きかえ居間へと進んだ。普段はかなり図々しい私だったけれど、胸の高鳴りは抑えられなかった。だってこれから密室で気になる不思議な人「西野孝則」の私生活に否が応でも触れることになるのだから。ジェットコースターのような急降下、急上昇を乗り越えて念願の二人だけの時間が持てる、私は有頂天だったけれどダンナに悪いとは思わなかった。うん、これは自治運営業務の一環なんだもの、何も手伝わないダンナなんかに文句なんか言わせないと言う自信はある。でもその自信は脆くも崩れ去って行った。だってこの日から私はダメ女に成り下がっていったんだもの(続く)。

第四話 曇りガラス

第四話 曇りガラス

お母様との二人暮らしらしく、8畳の洋風居間は整理整頓が行き届いている。床も棚もホコリひとつ見つからないくらいピカピカに磨かれている。私も自分ではこまめに部屋は掃除する方だと思っていたけれど、さすがに年配の女性が常時在宅だと清潔レベルがワンランク上がるものだわね。これなら西野さんもヨメさんを貰わなくても不自由ないはずだわ。曇りガラスの向こうではまだ雨が小さい音をたてて降っている。ソファとテーブルはそのせいか少し湿った冷たい感触だ。私は女性の本能で部屋全体を見回して入念にチェックしていた。驚くほどキレイにしている。
「あら、ウチと全然違っておキレイになさっているんですねぇ。お母様、80歳でしたっけ、本当にキレイ好きだわ。炊事とか洗濯なんかもお母様がなさるんですか?」とやんわりと話を切り出した。別にお母様に興味があったわけではなかったんだけれど、まずは無難な会話のスタートを切ったつもりが、やっぱりET節で切り返された。
「僕、今38歳なんですけれど生まれつき女性が苦手なんです。職場の工場ではほとんど男性なので助かっています。別にゲイではないとは思いますが、ある人から性同一障害かもしれないから専門家に診てもらえ、とアドバイスされたことがありましたが、自分では大きな不都合は感じないのでそのままにしています。もちろんこれまで女性経験はありません。」
部屋から逃げ出したい衝動に駆られた。これまでだってET節を何度か聞かされてきたが、今の一発は効き過ぎた。第一、私たち二人の会話がゼンゼン噛み合っていない。彼の女性経験など聞きたくもない話をいきなりぶつけられた。ダメだ、やっぱりこの人はマジメにお付き合いできる人じゃないわ。悔しいけれどダンナの言っていたとおりヘンな人だった。もう限界、さっさとお暇しようと腰を上げたとたん彼は半音階声をあげて明るく言った。
「それにしても朗読って面白いんですね。今日の広沢さんの講義は楽しかったなぁ。話し方の抑揚や間の取り方ひとつで、あんなに聞き手の印象が変わるなんて、それこそコペ転でしたよ」
この人、熱心に隣で聴いていたかと思ったら、私と全く同じことを思っていたのね。嬉しくなって浮いた腰をさりげなくまた沈めた。ETかと思えば地球人、本当につかみどころがない人。ここで二人共通の話題であるコミセンサークルの話に進めるべきであったが、これまでさんざんET節で面喰らってきた彼に対する悔しさみたいな感情もふっと湧いてきた。ちょっと逆襲してやろっと。
「あのう、私も一応これでも女なのつもりなんですけれどね。団地の居間でご一緒していても良かったのかしら?」
でも半分マジメな質問だわ。西野さんが本気で女が苦手だと言うなら、副会長の仕事はダンナに泣きついてでも代わりにやってもらうしかない。一方で彼の女苦手という発言は、密室に私を招き入れたことと矛盾する。一体どういうつもり?これはハッキリさせておかなければならないわ。すると私の宇宙が180度回転するようなET発言が炸裂した。
「大野真知子さんは女ではありません。総会の壇上で“あなた、キンタマついてんでしょ!”と怒鳴ったから」

何て言い返えしたらいいの?西野さんは冗談なんか言う人じゃない。あなたを女として見ていません、と事もなげに言い放っている。でも怒れない…38年も生きていればいわゆる変人というタイプに出くわすこと何度かあった。でも西野さんみたいなタイプは見たことがない。純粋だとかピュアだとか正直だとかの枠だけでは語りきれない不思議な人。さっきまでこの人とはお付き合いできない、と感じていたのに今ではもっともっとこの人のことを知りたくなる衝動が体中で渦巻く。風采も上がらず金持ちでもない普通の工場労働者。真知子、なぜそんなにまでこの人に魅かれるの?
「あのう、失礼ですけど西野さんってちょっと変わった方ですね、いえ、決して悪い意味ではないんです。私もあなたと同じ38歳ですけれど、あなたのような人に出会ったことがないので正直ちょっと戸惑っています。なんと申しましょうか、純朴で正直で裏表がなくて…」
「はい、皆さんからそう言われます。きっとウソがつけないんでしょうね。そのせいで誤解されたり、時には誹謗中傷されたこともあります。そのせいか女性はもちろん男性の友人も少ないんです。総会の檀上でタンカを切った大野真知子さんを見て、あぁ、こういう人だったら友達になりたいな、なんて思って立候補しちゃったんですよ」
なんて、なんて正直な人なの。愛の告白をされたわけではないけれど、目頭が熱くなって困った。でも西野さんの友達になる資格なんて私にはないと思う。

「西野さん、私って子供のころから“瞬間湯沸かし器”と呼ばれるくらい喜怒哀楽の感情が激しいんです。だからあの時もあんなはしたない言葉が思わず出ちゃっただけんなんです」
そして先週から西野さんにずっと打ち明けたかった思いをイッキにぶちまけてしまった。
「私ってあなたと違って自分勝手な人間です。クジ運が強いはずの私が副会長に選任されてしまい、“あぁ。面倒くさいなぁ、だれか1万円払うから代わってくれないかしら”なんて真面目に思っていたくらいですもの。人のために役立ちたいなんて気持ちは米粒ほどにも持っていなかったんです。それなのにあの若い鈴木さんを口汚く罵ったりして、私ってサイテーの女なんです。そう、私なんか偽善者だわ」
喉につかえていた言葉を掃出したとたん、場所もわきまえず私はボロボロと泣き始めた。どうして涙が止まらないのかしら?西野さんと言う型破りの純粋な人の前で自分の利己的で狡猾な性格をさらけ出したいという気持ちが止まらなかったからなの。これまで西野さんに会うことを渇望していたのは、彼になら私のすべての秘密を打ち明け、懺悔できる相手だと思っていたから。私は宗教など持っていないけれど、西野さんは牧師か仏僧のように私の懺悔を聞いてくれて、そして諭してくれることを秘かに望んでいた。
「僕ってウチが貧しかったので、遠足でも他の子どもたちは500円分のオヤツを持ってくるのに、僕だけオヤツなしだったんです。残酷な児童たちにずいぶんとイジメられました。そういうある日のこと、家庭科の授業でうっかりマスクを忘れてしまったんです。そうしたら隣にいた女の子、渡辺恵美子さんが“西野君、これ使ってね。消毒してあるから大丈夫よ”とこっそり渡してくれた.んです。きっとウチが貧乏でマスクも買えないと思ったんでしょうけれどね、彼女の優しさにジーンときました。あの時以来かなぁ、渡辺恵美子さんみたいな優しい人間になりたいと思ったのは」。
あぁ。またまた西野さんらしい心沁みる話しだわ。初対面の人と話すときは、だいたい自慢話とか海外旅行記みたいになるのに、彼らしい純朴な小学生の思い出話を始める。その話には飾りも自慢も一切ない。このピュアな語り口に私もどんどんハマッてゆく。
「きっと私は西野さんと反対の38年の人生だったと思います。普通のサラリーマンの家庭に育ったんですが、大学までの受験戦争で人を蹴落とすことが自分の生きる道だと思っていました。だからヘタに他人に優しさなんか見せたらつけ入る隙を与えてしまうから用心する、そういうサモシイ気持ちで生きてきたんです。それでも一応就職して結婚して人並みの生活はしています。でも西野さんのような“人のためになること、とか、優しさ”なんてほとんど考えたことはなかったんですよ。だからあなたは私にとってETみたいな人なんです」
自分ではしんみりと話をつないだつもりだった。ところが西野さんは大笑いした。
「わははは~、ETですか!これはズバリその通りだと思います。何を考えているんだかわからない宇宙物体、大野さんってコピーライターに向いているかもしれませんね」
いつもはむっつりしている西野さんが意外なツボで大笑いしてくれて、私も“してやったり”とものすごくハイな気分になった。やっと心が通じたみたいな空気が二人の間に流れ、それまでギクシャクとしていた雰囲気が少し打ち解けていった。

「失礼ですけどお勤めは工場っておっしゃっていましたよね。やはりお仕事は不規則なんでしょうか?」
「はい、県内にある化学薬品工場で勤務しています。高校を卒業してから転勤もなくずっと同じ工場で働いています。工場は24時間操業なので、僕たちは3クルーに別れて、朝、昼、夜の三交代で勤務しています。普通の勤めの方は朝9時から夕方5時みたいな定型的な勤務でしょうけれど、僕たちは深夜勤もあれば朝勤もあります。生活のリズムが狂いやすいのですが、長年やっていると体も慣れますね。今では夜勤明けの朝10時に24時間営業の居酒屋磯丸水産に入って一人で飲むこともありますよ」
待ってました!西野さんってウチのダンナと違って飲める人なのね。グッと親近感が湧いてくる。ダンナは体質的にアルコールがダメなので仕方ないけれど、なんとなくツマラナイ男だとは正直思わぬでもなかった。でもいかに図々しい私でも、やっぱりオンナだわ。会って2回目の西野さんに「今度駅前の磯丸に行きませんか?」とは言えない。あぁ、女のタシナミが情熱の邪魔をする。恨めしい目で思わず彼を見つめてしまった。すると思わぬ嬉しいET発言が飛び出た。
「あのう、大野さんはきっと酒豪ですよね。よかったら今度お付き合いしてもらえませんか?」
ウソでしょー!ETからナンパされるなんて私ってどんだけ宇宙人なオンナなのかしら。今日このお宅の敷居を跨いだときに居酒屋に誘われるなんて露ほどにも思っていなかった。西野さんと飲み友達になれるなんて気が狂うほどステキなことだわ。いえ、彼のことが好きとか恋しているなんて話ではないの。この人と友達になれることが心底嬉しいのよ。総会で副会長に選任されたことがこんなラッキーにつながっていたなんて、やっぱり「人生万事塞翁が馬」なんだわ。でもねぇ、即座に「はい、喜んで」というのははしたない。尻軽女だとも思われたくない。
「ありがとうございます。お酒は強くはありませんが好きです。そういう機会があればよろしくお願いします」
私は精一杯のニコニコ顔で西野さんに応えた。心の中では「西野さん、もう一歩強引に突っ込んで。ありきたりの挨拶では女はイエスと言えないのよ」と念じながら。
「あ、そうですか。それじゃまた今度ってことで」
西野さんはポツリと言った。別にガッカリした様子もない。
ガーン!そうだった、この人はETだったんだわ。それに女性と付き合ったこともなかったんだ。勿体ぶってないですぐにイエスと言えばよかったのに、でも後の祭り。
「はい、でもいつの日にか是非ご一緒させていただきたいですわ。お忘れにならないでくださいね、西野さん」
未練タラタラの私の言葉に食いついてくれることに最後の望みをかけたつもりが、やっぱり空振り。
西野さんはもうそんなことに耳を傾けている風でもなく
「あ、そろそろ弟夫妻のところに行きます。あのう、これからは真知子さんって呼んでもいいですか?」
「ええ、もちろん結構ですよ。うん、そうしたら私も孝則さんって呼んじゃおっかな」
わざと甘えを含んだ声で言ったのが藪蛇だった。
「あれ?僕の下の名前、ご存じだったんですね。それではお互い下の名前で呼ぶということで」
顔から火の出る思いだ。孝則という名前、知っているのに知らんぷりするのは何かしら意中にあることを暗示する。しかし当の孝則さんはゼンゼン意に介していない様子でソファから立ちあがった。
「今日はウチでお喋りが真知子さんとできて楽しかった。ところでさっきから言おうと思っていたんですけど、真知子さんって朗読なんかご興味あったんですね。今日コミセンにいらしたのでちょっと驚きました」
もうウソなんかついてはこの人に失礼、本当のことを言うわ。
「孝則さんが入会なさるというので私も入会したんです」
テーブルを挟んで彼はちょっと不思議そうな目で私を眺めた。でもなにも言わなかった。
時計を見るとあっという間に一時間もお邪魔していた。玄関口で長居したことのお詫びを述べて、そのまま傘を取って階段を降りた。もう孝則さんの姿はなかった。

階段を降りながら思った。最後の磯丸のお誘いはしくじったけど、それでも有意義な一時間だったわ。途中で孝則さんの前でボロボロ泣いたのも実は私が心の奥底で願っていたことなのかもしれない。あの人の純粋な心に触れることができた、私の赤裸々な姿をそのまま見てもらえた。期待通りの爽やかな気分になれたわ。そうよ、あの人と居酒屋なんかでデートまがいのことなどしてはいけないんだわ。お互いにいいトシなんだし、何より私には夫がいる。いくら言い訳しても孝則さんと居酒屋で二人きりになるなんて許されないことなんだ。マジメ一本の夫に申し訳ない。

来週になればコミセンで会える。あの人は私のことを女とは見てないようだけれど、友達としては認めてくれていると思う。私だって孝則さんは友達だと思っている。
孝則さんからの意表を突く磯丸のお誘いに即答しなくて良かったのよ。そう、私と孝則さんは同じ団地に住む会長・副会長、サークル仲間の関係だけで十分じゃないの。もしまたコミセンで孝則さんとお話しする機会があったら、それだけで私の心は浄化される。素晴らしい人なんだから、変な付き合いなんかしてはダメよ、真知子。
突然「不倫」という言葉がA棟の自宅の鍵を開けるとき頭によぎった。でもその時の私には笑い飛ばす余裕がまだあった。私と孝則さんに限って「不倫」は絶対にありえないと。

第五話 嘘

先週に孝則さんのお宅を訪問してからというもの、私は夢遊病者のようになっていた。考えることはいつも同じ、“もっと孝則さんと話して癒されたい”ということばかり。職場でツマラナイ意地を張っている私のことを聞いてほしい、友人と大喧嘩して別れてしまった後悔を聞いてほしい、ホンネは夫のことをツマラナイ男だと思っていることも聞いてほしい… きっと彼だったら同情も侮蔑もなくピュアに聞いてくれるに違いないわ。別に解決策なんか求めていないの、ただただダメな私の話を聞いてほしい。彼にだったら恥も外聞もなく隠し立てもなくぶちまけられる。この前だって彼の前で、総会で抱いた狡猾な自分の思いを吐露して思わず泣き崩れた。彼は私を責めるでもなし、同調するでもなし、ただ黙って聞いていてくれた。でも真摯に聞いてくれていたのは間違いない。私の話を継ぐように彼は家庭科の授業でマスクを貸してくれた同じクラスの女の子の話をしてくれた。私と孝則さんって不思議だわ、話が噛み合っていないようで、実は心の奥深いところで触れ合っている気がするの。あの日、自宅に帰って私の心は明るかった。自分の奥深くに眠っていた人間としての優しさみたいな感情が沸々と湧いてきたのよ。あぁ、利己主義な私にもこんな優しい気持ちがあったのね、彼に会っているだけでこんなに優しく素直な気持ちになれる。こんな幸せな気持ちってこれまでの人生であったかしら、と思うくらい気持ちが明るくなった。陽気な明るさではなくって、何かこう落ち着いた明るさだったわね。夜明け前の部屋で蝋燭の炎が障子に浮かんでいるような落ち着いた気持だった。
会社でもあの人のことを考えている。終業チャイムが鳴っても机のパソコンに向かってくだらない占いサイトを覗きこむ。私の星座は水瓶座、あの人は牡牛座なのよね。相性ってどうなのかなぁ、そんなの迷信だからバカらしいとは思いつつもついつい検索してしまう。占いに飛びつく女は多いけれど、結局この私だってその一人だったんだわ。幾つかググってみるとヒットした。うん?なになに、いいじゃないの、この占い!誰もいない事務室で思わず顔をほころばせた。

「クリエイティブで知的な水瓶座女性と、行動力のある牡羊座男性は、抜群のコンビネーション。お互いに独立した精神を持ち、相手に依存したりしません。そんなところも価値観が合い、会話も弾み、新鮮さに満ちたデートが楽しめるでしょう」

“クリエイティブで知的”とか“行動力ある男性”というくだりはどうなのかなぁとは思うけれど“価値観が合い、会話も弾み、新鮮さに満ちたデートが楽しめる”というのは大いに期待できるわ。ダンナとは価値観は合っているけれど、最近は会話もはずまないし、ましてや新鮮なデートなんかした記憶が10年以上なかった。
あれ、真知子、あなた本当にヘンだわよ。孝則さんに恋してしまったわけではないんでしょ?ましてや恋に恋するなんて乙女チックなことは言わないよね。なぜ四六時中あの人の事ばかり考えているのよ。それじゃ仕事にも家庭にも支障をきたすわよ。

土曜日の夕方。私は食堂のテーブルに頬杖ついていてあの人との会話を反芻していた。そう、あの人と交わした言葉の一つ一つを何度も噛みしめている私、完全にオカシイわ。
「おい、真知子。またそうやってボケッとしているな。サドルの修理に行くんだから早く自転車の鍵を出してくれよ。これで今日3回も同じこと言ったぞ」
ダンナから耳元で大きな声で言われてハッと我に返った。
「あら、ごめんなさい。すぐに出すわ」
私はダンナに自分の心が見透かされたのではないかと、一瞬たじろいだが体制を整えてタンスから鍵を取りだして渡した。
「オマエさぁ、なんだか最近ヘンだぞ。晩飯のときまで考え事しているみたいで。そうかと思えば突然ニヤニヤしたりして。好きな男でもできたのか、ってそれはあり得ないか」
ドキっとした。やはり長年連れ添った伴侶だわ、それとも勘かしらね。ダンナの冗談は半分当たっているかもしれない。恋ではない、ましてや不倫なんかじゃないことは明白。だけれど食事の時まであの人のことを思っているというのはタダ事でないことは、自分だって分かっている。ダンナにまで感づかれるようではダメだわ、なんとか気持ちを切り替えないと本当に職場やダンナに迷惑をかけてしまう。ダンナにだけは本当のことを言ってしまおうかしら?別に不倫しているわけでもないし、話して困るようなことは一切していないんだから、言って肩の荷をおろしたい。そんな気持ちがふっと湧いた・
「自治会長の西野さんのことなんだけれど、ちょっと話したいことがあるのよ」
「あぁ、あの頼まれもしないのに会長になったという変わり者ね。そういえばこのまえA棟の脇で偶然会ったんで挨拶だけはしておいたよ。それでうまくやっているのかい、あの変人と」
またしても西野さんのことを「変わり者」と言ってのけるダンナだが、ある意味正しいので訂正は求めない。
「実はね、あなたが留守している間にコミセンの空室でちょっと話をしたのよ。まぁお互いのことを良く知っておきたいという暗黙の了解的な雰囲気があってね。あなたの言う通りちょっと変わった人だけれど、根は良い人みたい。シフト勤務の工場に勤めていて、夜勤明けには駅前でビール飲んでいるんですって。あ、それとね、コミセンの“朗読の会”、あの人も先週その教室にいたのよ。偶然だわね」
私の話は都合よく曲げている部分もあるが、大筋でウソはついていないつもりだった。曲がりなりにも副会長を夫婦で任されているのだから、これくらいの情報はダンナには伝えておく義務があると思ってもいた。でも私の孝則さんへの感情まで伝える義務はない。しかしダンナの目も節穴ではなかった。しばらく間を置いてこう言った。
「オレも人のことは言えないが、オマエもこれまで恋愛経験は少ないほうだよな。オレたち恋愛免疫力が弱いんだよ。見た目は蠱惑的な小動物でも結局はゲテモノだってこともある。あまりのめり込むなよな。まぁ、こんなのは半年ももたないけれどな」
自転車の鍵を握って出て行った。ダンナは一発で私の心を見抜いた。いやきっと以前から感づいていたことなんだろうな。でも決定的に誤解しているわ。私は絶対に孝則さんになんか恋していません。あの人と一緒にいると心が安らぐし、ずっといつまでも話していたいという気持ちは否定できない。でも決して恋ではないのよ、あなた。それだけは信じてちょうだい。自転車で大通りに向かう彼の背中が居間から見えた。あなたは私にとって初めての男性だったし、結婚してからもずっと一緒に仲良く暮らしてきた。この暮らしを壊すなんて天地がひっくり返ってもあり得ない話だわ。これって言い訳なのかしら?いいえ、断じてそれはない。孝則さんは会長でありサークルの同志という関係だけ。
そう思って自問自答の弁解を始めると突然心の中でダンナの低い声が響いた。
「真知子、そうやって不倫が始まるんだぞ」
あぁ、心の中のダンナの一喝で目が覚めた。自分で必死に抵抗していたその一言。そうだわ、どんなに言い訳したって恋じゃなくってなんなの?このままじゃダンナだけじゃなくって孝則さんにも迷惑がかかっちゃう。人妻が独身男に恋するなんてサイテーなこと、ダメ女だ。そういう女にだけはなりたくないとずっと思ってきた。

正しく自己認識ができると、これまで胸につかえていた孝則さんへの思いが舞い上がる蒸気のように消えて行った。もしかしたら何か悪い夢でも見ていたのかしら、いいえそうではない、高熱にうなされていただけなのね。ダンナから解熱剤を飲まされたら、スッと熱は退いて楽になった。私の選んだ伴侶は一味違うわ、普段は物静かでシャイだけど、ここぞという場面ではズバっと私を導いてくれる。やっぱり男だわね、かなわないわ。
夫への尊敬の念が湧くと、夕食の準備にも自然と気合が入ってくる。ウチは共稼ぎだから基本的には家事は共同分担している。でも料理だけはやはり主婦の仕事だと思っていたし、腕も悪くはないはず。今夜はダンナの好きな和食がいいわね、白魚のホイル焼き、茶わん蒸し、山菜のお浸しにお吸い物ってとこかしら。お互いに中年太りが気になる年頃なので、できるだけ低カロリーに調理することを心がけている。彼も私の料理には満足してくれているし、最近は簡単な下準備くらいは手伝えるようになってきた。後片付けは彼の担当だけれど、なぜか彼は皿洗いに情熱を燃やしていて、いろいろな液体洗剤を買ってきてはあれこれ論評する奇癖がある。
台所で茶わん蒸しを鍋に移そうとしているとダンナが帰ってきた。私は大きな声で「おかえりなさい!」と迎えたがなぜか彼は黙っている。
「あなた、おかえりなさい。何かあったの?自転車はちゃんと修理できたのかしら」
むっつりして顔を少し赤くしている彼に向かって言った。
「ちょっと話がある。そこに座れ」
彼は命令口調で食堂テーブルを指差した。明らかに様子がヘンだ、何かあったのかしら?胸騒ぎがした。でも思い当たることが無い。私は笑顔を作って、
「何よ、そんな怖い顔して。なにかあったの?」
「さっきオマエ、西野さんとはコミセンの空室で話した、朗読サークルでは偶然会った、って言っていたよな。修理の帰り際にA棟の前で西野さんに会ったよ。彼の話とオマエの話が随分と食い違っているな。おかげでオレはえらい恥をかかされた」
「あ、ごめんなさい、もしかしたらちょっと私の記憶違いで…」
「ふざけるのもいい加減にしろ!なんでそんな嘘をオレにつかなきゃいけないんだよ。そんなに後ろめたいことを二人でしてたのか?夫のオレにも言えないようなこと、他にもやっているんじゃねえのか?」
「なんてひどいことを言うの?そんなことあるわけないじゃないの。西野さんとはそんな仲じゃない、そんなに女房のことが信じられないの?悲しくなるわ、本当に」
「西野さんに言われたよ、“真知子さんは私の部屋でボロボロ泣いていました。すごく正直な人だと思いました“。はぁ~、なるほどね。オレの知らないところで独身男の居間でヨヨヨと泣き崩れていたわけだ。そりゃそうだな、好きな男がいるからそれにくっついてサークルに入る女だもんな。あ、それに駅前の居酒屋にも連れていって欲しい、なんておねだりしたらしいな。まぁオレは下戸だから西野さんにでも頼むしかなかったんだろうけれどよ」
返す言葉が見つからなかった。想定外の西野さんの暴露話、もうダンナに抗弁する力も残っていなかった。大人の常識から言えば私と孝則さんとのプライベートな会話なんか絶対に誰にも言わない、ましてや夫に話すはずはない。それをすべて詳細にダンナに伝える孝則さん、あなたは社会人として失格です。人にはプライバシーというものがあります、それをたとえ私の夫とはいえ、言っていいことと悪いことがあることくらいわかるでしょ?
そう思ったとたん、孝則さんのあの言葉がよみがえった。
「僕は正直すぎて誤解されやすいんです」
あの時は聞き流していたあの言葉、今になって私の身に降りかかってこようとは思ってもみなかった。正直で裏表がない孝則さん、そんな彼を慕って同じサークルにまで入会したのに、こんな仕打ちで返されるなんて情けなくって仕方ない。いいえ、孝則さんが悪いわけではない、ただ自分が一方的に空回りしていただけの話だ。もともとそういう人だと分かっていてすべてを話した真知子、あなたが悪いのです。

「あなた、本当に申し訳ありませんでした。ああいう正直な性格の人にちょっと魅かれてしまったのは事実です。あの人の居間で泣いたのも、サークル入会の動機も、それから居酒屋の話も嘘ではありません。このとおり謝ります」
ここで言い訳をじみたことは言いたくなかった。恥をかかされたダンナの心中を思うといたたまれなかった。私はその場でしゃがみ込み床に手をついた。
「わかればもういい。それに夫婦間とはいえ言いたくないことだってあるしな。さて、メシを食わせてくれよ。会長と立ち話がはずんで腹減っちまったよ。そうだ、今夜は梅酒でも飲むかな。このあいだ同期会で初めて飲まされたんだけれど、あれならオレでも少しは飲めるゾ。隣のコンビニでウメッシュでも買ってくるか。オマエも一緒に飲むか。小銭あるかな」
彼は勢いよく立ち上がってニコリと笑顔を見せて私の手を握った。
彼の寛大さに泣けてきた。今日のダンナの態度で決心した。サークルは退会しよう、自治会の仕事もできるだけ孝則さんとは距離を置こう。総会の日から今日まで私だけが狂っていただけなのだ。

第六話 断捨離

あの日、ダンナから叱責されて土下座までして詫びた私。そう、あれは一瞬だけ起きた心の病、いつものことだわ。それにあの時、正直にダンナにすべてを告白したことも良かった。私の胸のつかえは吐き出せたし、彼もそれ以上は私を責めなかった。それどころかそんな私を鷹揚に迎え入れてくれた。もう迷わないわ、私の愛する人は夫だけ。ETウィルスに瞬間湯沸かし器が反応してしまっただけだわ。すっかり熱湯も冷めたし普通の生活に戻れる。

3ヶ月が経った。朗読サークルも土下座した翌日に退会した。受け付けてくれたコミセンの智子には「やっぱりあなたの言う通り朗読って大変そうだし、やめます」と理由を説明した。智子は何も気づかず「そう、残念ね」とだけ事務的に言うだけだった。退会した後、孝則さんからは何の連絡もなかった。もし孝則さんがいなければサークルを退会なんかせず、広沢さんの講義を続けて聴講したかった。広沢さんの講義で自分の世界が広がってゆく気がしていたのに、初回だけで退会するなんてあまりにも残念だわ。筋違いとはわかりつつ孝則さんが憎かった。
それに…とも思った。突然退会したのに「どうされましたか?」のメールくらいくれてもいいんじゃないかしら? ねえ、孝則さん、私が退会したのはあなたがダンナに余計なことをペラペラしゃべったからなのよ!確かに「西野さんが入会されているので私も入会しました」とは言いました。でもなんでそんなことまで私のダンナに言う必要があるの?あなたが正直な人なのは知っていますけれど、モノには限度というものがあるわ。そんなことを考えると孝則さんへの憎しみは増すばかり。あれだけ好きだった孝則さんだったのに、今ではその正反対になっている。こういうのを「可愛さ余って憎さ百倍」と言うのね、なんだか可笑しいやら情けないやら。

そんなある日の晩、ソファで日本茶を飲みながら囲碁雑誌を呼んでいたダンナが、
「来週の土曜日、確か自治会の会合があるんだよな。オマエにばっかり押しつけるのもなんだから次回はオレが出席するよ」
結婚して以来、外の会合なんか一度も出席したことのないダンナが意外なことを言いだした。もちろん孝則さんとのことを考えての発言であることはミエミエだけれど、ここは余計なことは言わず素直に頼むしかない。
「え~、助かるわ。それじゃ久しぶりに一人で映画でも行こうかしら」とちょっとはしゃいで見せた。
「うん、そうしろよ。たまには都会の空気の中で羽伸ばしてこい。まぁオレは会合が終わったらいつものとおり碁会所で羽伸ばすよ。いつも安上がりでいいな、あはは」
優しい人だわ、でもなんかちょっと引っかかる。まだ私のことを疑っているのかしらね。サークル退会したこともダンナに知らせたし、孝則さんとはこの3ヶ月音信不通なのは一緒に生活していればわかりそうなもんだ。ダンナってボケっとしているようで妙に勘がいいから、私の表情とか言葉の節々に孝則さんへの未練を見てとっているのかしら。いいえ、未練なんかないはず、そんなものはあなたに叱責された日に斬り捨てました。でも真知子、あなたって今でも孝則さんを恨んだり憎んだりしていない?ダンナが代わりに会合に出てくれることを本当に有難いと思っているの?
ダメだわ、まだ未練タラタラな自分がいる。本当は来週の会合をドキドキしながら待っていたの。3ヶ月ぶりに会ってどんな話をしようか、サークルはどんな様子なんだろう、駅前居酒屋のオススメはなんだろう…そんな話を孝則さんとコミセンでしたかった。きっと孝則さんは屈託のない調子で話しに付き合ってくれる。それに久しぶりにあのET節を聞いてみたいわ。ドキっとするET、実は正論を語っていて地球人の真知子の常識が間違っていることを教えてもらいたい。そんなことを心の奥底で期待していた。それがダンナには分かっていただけの話なんだわ。でもここは真知子の踏ん張りどころ、ダンナの協力に支えられながら更生できるかどうかの瀬戸際なの。私の愛する人はダンナだけだと決心して3ヶ月で心変わりするようなら、真知子、あなた離婚を言い渡されても仕方ないわ。ダンナだって夫としてギリギリのところで真知子を支えているんだからね。

「あなたが自治会の仕事に協力してくれるなんて、本当に有難いです。ずっとこれからもお願いしたようかな~」
私は心にもないおねだりをしてみた。
「うん、これまでずっとオマエにばっかりこういう仕事を押し付けていたオレも悪かった。今年度の副会長の仕事はオレがやるわ。まぁオマエは陰で応援してくれ」
そう、これでいいわ。サークルもやめたし自治会の仕事もダンナに任せてしまえば、もう孝則さんとの接点はゼロになる。これで強制終了だわ、そうそう、念のため孝則さんのメルアドと電話番号は削除しておこう。
そしてダンナには一言だけ言った。
「あなた、本当に有難う。西野さんとはもう二度と会いません」
ダンナは知らんぷりして囲碁雑誌を眺めていた。

その土曜日がやって来た。朝からダンナは団地内の集会所へ行った。私もお目当ての映画があったので出かける支度をし、上映時間をチェックしようとスマホを覗いたら昨日で終了となっていた。他の映画館を調べたがすべて終了となっていてガッカリ。一週間の勘違い、自分のおっちょこちょいにウンザリした。他の映画はあまり面白そうもないし、仕方ないから家の片づけでもするかしら、と思って普段着に着替えた。狭い団地部屋なのでなるべく物は買わないようにしているけど、それでも衣服や雑貨は毎年増えてゆく。よし、今日は断捨離の日にしよう!日用品も、そして私の心に巣食う余計なモノもドカーンと捨ててやれ!うん、BGMはエアロスミスがいい。「ウォーク・ジス・ウェイ」のノリでガンガン行くわよ~、真知子。やたら気分をハイにさせながら大型段ボール箱にどんどんセーターやジーンズを投げ込んだ。あぁ、小気味がいい、体内に溜まった老廃物がスティーブン・タイラーのシャウトとともにぶっ飛んでゆく。西野さんって誰?あぁ、あんな変人なんか宇宙へ帰って行け!
驚くほど断捨離は進んでゆく。それとともに孝則さんへの思いも消えて行く。あはは、映画なんか行かなくて正解だわ。これぞ一石二鳥、いえ、ダンナが会合に出てくれるんだから三鳥だわ。あっという間の2時間で段ボール箱が5つも一杯になった。しかも今日は大型ゴミ出しの日、そのまま捨てられるわ。ツキまくっている土曜の午前。心地好い疲労が一層のこと気持ちを高揚させてくれる。ちょっと一息いれてコーヒーでも飲もうかしら。BGMはリチャード・クレーダーマンでクールダウンがいいかしらね。

正午。ダンナは一度帰宅したがそのままお昼も食べずに碁会所へ行ってしまった。近くに美味しいパン屋があるのでいつもそこでサンドイッチを買って碁会所の仲間と食べているらしい。あ、しまった。段ボール箱をゴミ置き場まで持って行ってもらうのを忘れていた。仕方ないから、か弱い女の私がえっちらおっちら運ぼうかしらね。
自分で作ったチャーハンを食べてひと息ついたところで、さてと、と重い腰を上げて段ボールを持ち上げた。意外と重いし女の短い腕では持ち運ぶのに往生する。仕方ないので地面に置いて引きずりながらゴミ置き場まで運んだ。1個目が完了し2個目をズルズルと団地内の道路を引きずっていたところ、大きな声がA棟入口あたりから聞こえた。
「あれ、真知子さんじゃないですか?何しているんですか?」
今日だけは会いたくない人だった。でも同じ団地内だしこういうことはあり得る不可抗力。でも孝則さんは断捨離されてこの段ボールの中にいる。もう私には関係ない人なんだわ。気持ちの動揺はなかった。
「あ、西野さん、お久しぶりです。ちょっと大きな段ボールなので、てこずっているんです。ちょうど良かったわ、手伝ってくださらない?あなたキンタマついた男の子なんだから!」
ETは私の下品な冗談にゲラゲラ笑ってくれた。初めて私に見せてくれた笑顔だわ。でももう私の中で孝則さんは終わっているの。
「あぁ。もちろんいいですよ。それじゃお宅の玄関まで運んでください。そこからゴミ置き場まで僕が運びますから」
私は急いで家に戻って残りの3箱を玄関まで押し出した。間もなく孝則さんがやって来て、ヒョイと持ち上げると1個ずつスタスタサッサとゴミ置き場まで運んでくれた。
「おかげで助かりました、主人も不在なのでどうしようかと思っていたんです。西野さんはこれから朗読サークルですか?私はヤボ用がいろいろできてしまって退会してしまいましたが、まだ孝則さんは続けられているんですか?」とたずねた。不可抗力で団地内で会ったんだし、段ボール箱も運んでくれたんだし、もう断捨離した人なんだから立ち話くらいしたってダンナへの後ろめたさはなかった。
「あのう、真知子さん、もしかして僕のせいで退会されたんですか?あのあと真知子さんのご主人に僕は余計なことを言いましたかね?」
やっぱり出たET節。はい、孝則さんの言ったことはズバリそのまま正しいです。わかっていながらなぜあなたはダンナにそんな話をしたんですか?そしてなんで今ごろになってボソっと私に言うのですか?私の中で抑えていた怒りは遂に言葉となって噴き出した。
「西野さん、もうきっとあなたとお話しすることはないでしょうから教えてあげます。そうです、あなたの仰ったとおりあなたが主人に言ったことで私は土下座までさせられました。当然です、“西野さんが入会したから私も入会した”と聞かされて心穏やかでいられる男などいませんから。西野さん、あなたは正直で純粋な方だとは思いますけれど、それがゆえに傷つく人もいることを忘れないでくださいね」
孝則さんはうなだれて私の憎悪に満ちた声を聴いている。まるで呼吸をしていない銅像のようだ。
「副会長の仕事は全部主人に任せることにしました。ついでに言えばあなたのメルアドも電話番号もスマホから削除しました。もう接点は消えました。それではさようなら」
これでせいせいした。これでダンナとの「西野さんには二度と会わない」という約束も果たせる。あっけない幕切れだけれど肩の荷が下りた。ホッとした気持ちで踵を返し家の方へ向かおうとした瞬間、孝則さんの呟きが聞こえた。
「生まれてこなければよかった…」
え?何それ。思わず振り返ると孝則さんは大粒の涙を両目一杯に浮かべている。
「西野さん、どうかされたのですか?」
なぜ彼が泣いているのか理解できなかった。
「人のためになりたい、などと言いながら真知子さんだけでなくご主人にも迷惑をかけてしまった。僕はひどい男だ」
ハッタリで言ってないことは大粒の涙でわかるけれど、こんなところで男泣きなんかされたら私が困るじゃないの。さっきから団地内の通行人が私たちを怪訝な顔で見ている。マズい、ここはなんとか事態を収めないと。
「ちょっと西野さん、そんなことされては困ります。とりあえずウチに上がってください」
孝則さんの背中を押すようにして1階の玄関を開けて中に押し込んだ。
午前中に掃除しておいたおかげで中は片付いていた。それにダンナが碁会所に行って留守なのも誤解を生まないで済んだ。とにかく西野さんを落ち着かせなければならない、私もちょっと感情に任せてストレートに言い過ぎたのも良くなかった。でもダンナとの約束もある。面会は10分以内で終わらせようと思って時計を見て孝則さんを居間のソファに座らせた。
「西野さん、私も言い過ぎたかもしれません。それであなたを悲しませたのなら謝ります。きっと西野さんは良い意味でも悪い意味でもピュアなんですね。ウソで固められた私などと元々噛みあわないんですよ。西野さんは今まで通りで良いと思います。生まれてこなければよかった、なんてことは二度と言わないでね。そんなこと言われると自分のことを言われているようで悲しくなるわ」

「僕は友達がいないんです。真知子さんは女性だけれど友達になれると思って総会でも立候補しました。それに思いがけずサークルでも一緒になれてすごく嬉しかったんです。笑われるかもしれないけれど、真知子さんと一緒に目の不自由な方に朗読してあげることが夢だったんです。それなのに僕がご主人に話したことでご主人に叱られ真知子さんは退会されてしまった。こんなお目出度いバカ者はいないでしょう。いや、こんなことは初めてじゃないんだ。これまでだって僕のせいで何人の人たちが傷ついてきたことか…」
孝則さんの涙は止まらない。今日は二人の役割が逆転、私が牧師で孝則さんが懺悔者だわ。
「いいえ、孝則さん、あなたは悪くないんです。むしろ恥ずかしいのはこの私なの。私がサークルに入会したのは孝則さんの心優しい言葉がきっかけだったことは本当です。だからそんなに思いつめないでね」

最初に自分で決めた面会時間の10分になった。
「同じ団地だから、またゴミ箱の前とかでお会いしそうだわね。それに西野さん、これから朗読サークルでしょ?ウチの主人もそろそろ帰ってきそうだし。さっきはもう会いません、なんて口走ってごめんなさい」
私は努めて冷静に幕引きをするつもりだった。でもその時、今から思えばあれが運命の瞬間だった。突然西野さんは泣きじゃくりながら私の胸に顔を埋めてきた。

「真知子さん、お願いだからこのまま僕といてください!」

ダンナ不在の部屋で男を通すだけでも不謹慎。ここは突き飛ばすか振り払うべきなのは頭では分かっている。でもできなかった。孝則さんが可哀想でならなかった。友達もいない寂しい純情な男がなりふり構わずこんな私に身を預けている。昔、英文科で習った諺を思い出した「Pity is akin to love. 恋と哀れは種一つ」
たったさっき断捨離した男を自分の腕の中で抱きかかえている。そう、女は可哀想な人を見ると無性に愛おしくなる生き物。この人の正直さだけに魅かれていたのではないの、この人の孤独で可哀想なところに愛おしさを感じていた。イヤな性格だわ。真知子はソファで孝則の頭を抱えながら、いつしか自分の頬にも涙が流れているのを感じた。もう少しだけ、いえ、許されるならずっとこの人を抱いていてあげたい、この人の孤独を癒してあげたい。自分が瞬間湯沸かし器になっていることは分かっている。でもどうしても止まらない。あぁやっぱり私ってダメ女。

第七話 転勤

あのゴミ出しの日から間もなくして孝則さんのお母様が亡くなった。自宅で孝則さんと夕食を取っている最中に倒れ、救急車で運ばれて脳梗塞と判明したがそのまま病院で亡くなってしまった。80歳の穏やかな逝去であったらしい。
団地の居住者が亡くなった場合、会長が公費で香典を持参し弔問に訪れるのが習わしとなっている。しかしその会長が今回は喪主なので自動的に副会長がその役を代行せざるを得ない。通夜は明晩市内のセレモニーホールで行われると聞いているが、間の悪いことにダンナは明日の朝から一泊で出張する予定なので参列できない。会計の今井さんからは以前「私はお手伝いしません」と宣言されているし、結局は私が参列することになった。
午後7時。喪服に着替えてセレモニーホールに向かったが気持は重い。自分にはその気はなかったとはいえ、結果的に故人の息子を自宅の居間で抱きしめてしまった。もちろんそれ以上の事はしていないし、気持ちは決して不純ではなかった。でもそんな言い訳、亡くなったお母様に通じるだろうか。いえ、それどころか今となっては自分自身にさえ自信がない。孝則さんと一緒に涙を流していたのは誰なの、真知子?そんな自分への叱責が容赦なくぶつけられてくる。あぁ、なんという運命のいたずらなのかしら。こんな私に孝則さんのお母様の通夜へ行けというのはきっと天罰だわ。

ホールに到着するとすぐに記帳し香典を係りの人に渡した。お母様や孝則さんには申し訳ないけれど、一刻も早くご焼香を済ませて帰りたい気持ちだった。どのツラ下げてお母様の遺影に向かえばよいのか、それを考えるだけでもゾっとする。でも副会長の努めだわ、読経が終わるまで残るのが最低限の義務と思い最後列の椅子に腰かけた。間もなくして読経が始まり、順次お焼香のため前の席から3人ずつ立ち上がった。参列者は30名くらいかしら。ご主人を早くに亡くされてご苦労の連続だった方にしては寂しいお葬式だわ。祭壇の前で丁寧に頭を下げているのも孝則さんも一人。ご親族もいらしていないのかもしれない。最後列の私の番が来た。「副会長の勤め」その言葉だけを噛みしめて祭壇へ向かってお焼香を済ませ、斜め前の孝則さんに深々と一礼した。彼も深々と礼を返してきた。私は結局お母様の遺影を見ることができなかった。

お母様の葬儀から半年が過ぎた。葬儀の翌日、孝則さんは「このたびは母のことでお気遣いいただきまして」とウチに挨拶に来られたけれど、私たち夫婦も「ご愁傷様でした」と答えるだけの玄関先での会話だった。それ以来、孝則さんからは何も連絡はない。あのゴミ出しの日のことを忘れたわけではない。でもあれは、体内のマグマが瞬間的に噴き出したようなものだわ。今から思い出すと顔から火が出るほど恥ずかしいことをした。メロドラマじゃあるまいし、なんで男の顔を自分の胸の谷間に埋めてやらなきゃいけないのよ!しかも私まで一緒に感情移入してしまい涙を流すなんて、もうサイテーだわ。それは終わったことだからまだいい、今一番秘かに恐れていること、あの日の事を孝則さんがダンナに喋ってしまうことなの。そうしたらマジでウチの夫婦関係は破たんする。

でも…
あの瞬間に全身で感じた切ない気持ちは何だったの?この人とずっと一緒にいたい、ずっとお互いの痛みや弱さを分かち合い癒し合いたい。そんな青春ドラマみたいなセンチな気分に浸ってしまった。あの人は私の胸で安らかな顔に変わって行った。あの人も苦しんでいたのね。どうしようもない自分の不器用な生き様に傷ついて生きてきた孝則さん。バカ正直なゆえに友達もできず、孤独に工場と団地を往復していたんだわ。唯一お母様だけが身寄りで、親子つつましく地味に生きてきたんだわ。そんな孝則さんが私のことを友達と思ってくれた。
真知子、あなたはどうだったの?あなたは世間で言う「勝ち組」かもしれない。一流大学を卒業して上場会社に入れた。ダンナは地味だけれどしっかりした公務員。今は団地住まいだけれど夫婦の貯金もあるから都心の高級マンションにもローンを組めば入れる。友達もそれほど多くはないけれど学生時代の友人や気の合う職場の仲間とはフェイスブックやラインでつながっている。こういう生活で何も不満はないし、寂しいと思ったこともなかった。

でも…
孝則さんに会ってわかった。私は寂しい女です。ジコチュウで友達とだってうわべだけのお付き合い。気の合う仲間といれば楽しい、でも彼女たちとホンネで語り合ったことなんか今まであったかしら。自分をさらけ出すことなんてあったかしら。人の話に心底耳を傾けたことがあったかしら。いつもお互いにカッコつけあって少しでも自分を優位に立たせてみせたいなんて浅ましい関係じゃなかったの?そんな私のすべてを孝則さんが壊してくれた。私の生き方が間違っていたことを、彼が流したあの大粒の涙が教えてくれた。

あの人に会いたい…
あれから半年、孝則さんのことは考えないようにしてきた。ダンナとのこの安泰な暮らしを壊してはいけない、なんて一人で力んでいたけれど孝則さんからは一切私には連絡は無い。副会長の仕事もダンナに任せてあるから集会所で会うこともない。こんなに愛おしい孝則さんだけれど、あの時メルアドも電話番号も削除してしまったのは正解だったのかもしれない。削除していなければきっと我慢できずにあの人にメールしてしまっていたはずだわ。そう、物理的に遮断してしまった私にまだ理性が残っていた。でも孝則さんから私のスマホにメールを入れることはできるはずなのに、なんで何もしてくれないの?またしても彼に対する思慕と恨みが同時に沸きあがってきた。私だってあなたと同じです、自分の弱いところや卑怯なところをあなたに抱かれながら告白したいんです。それなのになぜあなただけ私の胸に自分を預けたの?自分だけずるいわ!

愛と憎しみ、そして自己嫌悪と我儘と矛盾が渦巻く恋をしている。孝則さんだって私が好きなはず、私はきっとあなたよりもっと好きなはずだわ。それなのに半年も離れているなんて、しかも同じ団地に住んでいるのに理不尽だわ。私はゼッタイにあなたとは不倫しませんし、あなただってそんなつもりは毛頭ないことは承知しています。それならちょっとお付き合いしてもいいでしょ?スタバでコーヒー飲むくらいバチが当たるとは思えないわ。もちろんダンナには言いません。何もやましいことはないから言ってもいいけれどきっと心配する。余計な心配はかけたくないわ。
もう自己欺瞞はやめるのよ、真知子。孝則さんに恋していることを素直に認めるの。不倫でなければ神様は許してくれる。あなたの純愛を秘かに貫けばそれで人生は豊かになる。彼はきっとあなたの欠点やダメなところを無邪気に指摘してくれる。そして彼もあの時のように私に癒されるのよ。こういう健全な関係のどこがいけないの?「勝ち組」人生で無意識に私が自惚れていることや人を見下した態度を指摘してくれる人なんて滅多にいないわ。そういう人に恋したっていいでしょ?恋心は自然な感情、私ダメ女なんかじゃない。いろいろな感情と言葉が私の中で飛び交う。そして落ち着くところは孝則さんに恋い焦がれる自分。でも通信手段を断ってしまった今となっては、あの人と会うきっかけすら作り出せない。コミセンの朗読サークルも先月終わってしまっているし、まさかA棟のお宅まで用もないのに押しかけるわけにもいかない。次の会合、来月だけれどダンナは出張してくれる予定もない。唯一会えるとしたらゴミ置き場の前で偶然会うことかしら、なんか情けないわ。会えないとわかると会いたい気持ちは膨らんでくる。毎朝出勤する時にはゴミ置き場に目をやり、最寄の駅では改札あたりをキョロキョロする癖がついてしまった。でもあの人はいない。シフト勤務だから必ずしも私の出勤時間にはいないのかもしれない。

翌月の会合に出ていた夫が帰ってくるなり浮かない顔で私に告げた。
「会長の西野さんな、来月転勤になるんだってさ。会長任期が残り1ヶ月だからオレたちに会長も兼務してくれないか、って言うんだけど。いまさら誰かに会長を頼むわけにもいかないし、仕方ねぇかな」
あまりにも唐突な西野さんの転勤話。会長兼務なんかどうでも良かった。いつ引っ越すの?どこへ?茫然としそうになる自分、でもダンナに胸の内を悟られてはいけない。努めて冷静を装って
「仕方ないからあと1ヶ月がんばってウチでやりますか。それにしても突然だわ」
「あ、そういえば西野さん、なんかオマエに話があるみたいなこと言っていたぞ。メールでもしたらどうですか?と言ったらなんか困った顔していたな。最後のデートの約束でもするつもりかな?あははは」
ダンナは完全に私を信じている。実際もう半年以上孝則さんとは絶縁状態だった。それにしても「話したいこと」って何かしら?もちろんすごく気になるけど、ダンナの言う通りメールしてくれれば足りること、と思った瞬間、「あっ」と思った。もしかしたら孝則さんも私のメルアドや電話番号を削除しているんじゃないかしら。きっとそうだわ、私が彼のを削除したことを知り自分も削除したんだわ。半年の間あの人から一通のメールも電話も来なかったことがやっと腑に落ちた。どうしよう。その「話したいこと」ということを是が非でもあの人の転勤前に聞いておきたい。期待するとガッカリしそうだけどでもこれがきっと最後の会話になる。

土曜日の朝、孝則さんの部屋を訪ねることにした。ダンナには私からもご挨拶してきますと事前に断っておいた。ダンナは「あぁ、そうした方がいいな」と答えてくれた。
A棟までの道すがらブツブツと挨拶の練習をした。「主人から聞きました。転勤されるそうですね。長い間会長職のお勤め、お疲れ様でした。 “いとおしい”孝則さん、転勤先でどうぞ体に気を付けてお過ごしくださいね」。最後の“いとおしい”には思いっきり抑揚をつけてやろうと思った。あの朗読サークルで教わったことが最後にやっと一つ役に立つ。でも私の心は不思議と静まっている。苦しんだ恋病からようやく脱出できる安堵感に浸っていた。でも運命の嵐が最後に吹き荒れるなんて…(最終回へ続く)

最終話 不実の雨

最終話 不実の雨

ピンポーン
玄関ベルのボタンを押した。お別れの挨拶は何度も練習したので大丈夫。玄関先で済ませたらそのまま帰る、これで私の恋はオシマイ。もう一度ボタンを押してみたけれど人の気配がない。なんだ、留守だったのか。今日は夜勤でまだ帰ってきていないのかもしれない。せっかく覚悟を決めてセリフまで暗記してきたのに肩すかしだわ。仕方ないからまた夕方にでも来てみようかしら。そんなことを思いながら階段を降りて2階の踊り場まで来たところで孝則さんと鉢合わせた。
「あれ?真知子さん、こんにちは。お久しぶりですね。いま夜勤から帰ったところです」とこともなげに挨拶している。重い決意でやってきた私はここですべて決着させたいと思って暗記していたセリフを一気に踊り場で喋った。多分15秒くらいだったと思う。これでスッキリしたわ、サヨナラ孝則さん、と心の中で呟いた。
「あのう、これから飲みに行きませんか?」
最後の最後で出たET節。なんで朝っぱらから二人で飲みにいかなきゃいけないのよ?私は唖然とした顔で孝則さんを眺めた。
「あのう、忘れちゃいやですからね、と言ったのは真知子さんでしたよ。駅前の24時間居酒屋でよかったら行きましょうよ」
孝則さんは私の返事なんか聞かずに階段を降り始めている。朝から飲むのは気が進まないけれど、孝則さんの送別会ということで短時間だけお付き合いしようと思った。でもダンナにだけは事前に知らせておきたい。
「孝則さんの送別会ということでご相伴させていただきます。でも主人には何も言っていないので、いまメール入れますのでちょっと待ってくださいね」
ダンナの勘っていつも冴えているわね。孝則さんの「話しておきたいこと」っていうのは、彼の予感通り居酒屋に誘うことだった。孝則さんは私が「忘れちゃいやですよ」と言ったことを半年以上も気にかけてくれていたらしいわ。確かにそうは言ったけれど、言った本人の私が忘れているんだから世話ないわ。駅までの道すがら、ダンナからの返信が来た。人気キャラの「やっぱり!」スタンプと、「大いに会長を慰労してやってくれ。明日団地を出て行くらしいからな」とのメッセージが入っていた。あぁ、これで私も気兼ねなく孝則さんと最後のデートができる。今更だけどワクワクした気持ちが湧いてきた。このET,飲むとどんな人になるのか楽しみだわ。

午前10時。居酒屋はほぼ満席状態だった。土曜日とはいえこんな時間から皆飲んでいるのねえ。私たちは奥のカウンター席に通された。まずは生ジョッキで乾杯。ダンナの指示に従い「会長のお勤めお疲れ様でした。主人からも今日はしっかり西野さんをねぎらうように言われています。今日はご馳走しますからジャンジャン飲んでくださいね!」と景気よく乾杯の挨拶をした。
「そうですか、それではご馳走になります。さて、ツマミは何にしよっかなぁ、今日は普段食べられないウニでも食べてみるか」
またまた笑わせてくれるETさん、のっけからこの調子だと終わるころはハラワタがよじれてしまうほど笑わせてくれる予感がする。幼稚園児がそのまま38歳になってしまったんだわ、あなたって「ピーターパン西野」と改名したほうが良さそうよ。わたしも負けずに「今日はダンナの財布を持参しているから、二人でコッソリ高いネタ中心でやりましょうね。何年ぶりかしら、男性と二人でこうやって居酒屋なんて。孝則さん、ウチの主人てね、私と正反対の下戸なんですよ。主人と居酒屋なんて一度も行ったことがないのよ。だから今日は孝則さんが私のダンナさんになってね」
私ものっけから飛ばしている。でもいいの、ダンナ公認の最後のデート、思う存分飲んで食べて喋り倒したい。
ビールから焼酎、そしてワインへと進んでいった。お酒っていいわぁ、無口な人だと思っていた孝則さんだけれど、お酒のペースが上がるにつれて意外なほどに話し好きだということがわかった。生まれ故郷の新潟の思い出話や工業高校の実務訓練で旋盤に手を挟まれて大けがをしたこと、親友に大金を貸して裏切られて逃亡されたことなど、今までに舐めた苦い思い出を私に吐き出すように話続けた。そんな話、普通は聞かされる方はたまらない。でも孝則さんの話は聞いていても私は苦にならないのが不思議。この人の性格をそのまま裏づけるような話ばかりで、いちいち頷いてしまう。私は聞き役に回っていたが、ずっと自分の話ばかりしていたことに孝則さんも気が付いてようやく私にしゃべりを振ってくれたのはいいけど、予想通りのET質問だった。
「あのう、僕って前にも言ったかもしれませんけど、女性が苦手で経験もありません。でも真知子さんだけは別なんですよね。なんつーかな、女らしくないんで安心できるんです」
はー、それって前にも聞いたと思います。褒められているんだかけなされているんだかわからないけど、もうどうでもいいことです。
「いつかあなたの部屋で僕は泣きましたよね。あの時思ったんです。この人なら何をしゃべってもどんな格好悪い自分を見せてもかまわない。きっと真知子さんは受け入れてくれるって」
私は笑いながら答えた。
「あのー、泣いただけでなく私の胸の谷間で頭をグリグリしていましたよね。あれって普通はあり得ないんですけど。でもね、私もきっと同じだったの。あなたみたいな裏表のない人にだったら何でも言える。いいえ、言いたい衝動に駆られると言う方が正確かもしれない」
孝則さんはしばらく目を天井に向けて何やら考えていた。そして唐突に言った。

「僕は真知子さんにずっと恋してしていたんです。恥ずかしいけれど初恋です」

冗談を言う人ではない。最後になってこんな告白を居酒屋で受けようとは思いもしなかった。私も孝則さんのことで悩み抜いた。思いがけず二人は同じ想いだった。きっと二人の性格は異なるけれど、同じ心根の部分で触れ合ってしまったのだわ。重い沈黙が二人のカウンター席に流れた。どちらかが先に「でもそれはダメですよね」と言えばそれで終わり。さっきからどちらもずっと黙っている、いや、相手が先に言ってくれるのを待っている。
真知子、最初に言い出すべきはあなたよ。あなたには優しくて立派なダンナがいる、築き上げた社会信用や財産だってないわけじゃない。それらをすべて投げ捨てて転勤してゆくこの人と一緒になれるわけないでしょう。そんなの小学生にだってわかるわ。さあ、沈黙が長くなればなるほどお互い辛くなるだけよ。

「西野さん、こんな私にそんなことを言ってくれたのは主人のほかにはあなただけです。それにね、もうあなたも気づいてくれていると思うので言いますけど、私もあなたに恋していました。バカがつくほど正直で優しい心を持つあなたのことを団地や会社で毎日想っていました。今でもあなたが大好きです。でもそのことで私は随分と苦しみました。主人に私の気持ちがバレてしまって土下座して謝ったこともあります。今日、A棟3階に伺ったのもそういう私の気持ちにケリをつけたかったからなのです。だからお願い、これでキレイにお別れしましょうね」
はからずも私の孝則さんに対する気持ちを正直に告白してしまったが、何も後ろめたさは感じなかった。彼はさっきからずっと天井を見ている。そしてポツリと言った。
「僕の答えはあとでメールします」
ムダだわ、孝則さん。あなたが何と返答しようと私の結論は変わらないわ。転勤してしまえばすべては終わり。明日団地から出てゆく人と、お互いの想いを打ち明けられたのは、団地自治会の役員の勤めを果たしてきた二人への神様からのご褒美だと思って諦めましょうね。

午後2時。帰宅するとダンナが待っていてくれた。
「どうだった、最後のデートは?西野さんって変わり者だったけれどしっかり会長職を全うしたと思うよ。それに話してみると裏表なくていい人だったよな」
孝則さんのことを完全に過去の人扱いにしている。そう、ダンナの言う通りだわ。あの人は過去の人。今日で私たち夫婦とは切れるんだわ。メールするとか言っていたけれど無視しよう。どうにもならないこと、それに抗っても仕方ない。
午後11時。結局今日は昼飲みがたたって一日中家でウダウダするハメになってしまった。ダンナは実家へ夕方から急用ができたとかで行ってしまい、さっき「今から帰るのは面倒だからこっちで一泊して明朝帰る」というメールが入っていた。お風呂に入ってから軽く夕食を済ませて溜めておいた録画映画を見ていた。今夜は10年以上前に上映された「マディソン郡の橋」、メリル・ストリープのラストシーンの熱演に感動した。もし私が彼女だったらどうするかしら、やっぱりクルマの外には飛び出しなんかしないわよね、なんて考えながら終わったところで、スマホの着信音が鳴った。見ると孝則さんからの発信メール、あぁそうだ、受信拒否にしておくのを忘れていた。まぁいいわ。なんといって来ようとも返信はしない。そう決めてメールを開いて死ぬほど驚いた。

「真知子さん、午前零時にクルマをB棟前の道路に停めます。ご主人とは別れて僕と一緒にそのまま岩手まで行ってください。乱暴なことは百も承知です。でも僕はあなたがいなければ生きていけないのです。あの総会の時からずっと同じ気持ちでした。ダメと言われた時の覚悟もできています」

私の顔は真っ青になった。「覚悟」って何よ?これじゃ脅しじゃないの。こんな肝心な時にダンナがいない。いや、いたって最後は私がくぐり抜けなければならぬ地獄門。時計を見るとあと5分で零時だわ。とにかく彼を落ち着かせなければならない。そして黙って出て行ってもらうしかない、それだけを念じて外に出た。夜半から降りだした雨はいつのまにか暴風をともなって横殴りに降りつけている。B棟脇には既にテールランプをつけた孝則さんのクルマが停まっている。私は傘と一緒に飛ばされそうになりながらもようやくクルマの脇にたどり着いた。こんなひどい乱暴を受けたのは初めてだわ。のそっと外に出た彼に向かって思いっきり怒鳴った。
「ねぇ、西野さん。いったい何の真似かしら?私だって忍耐の限度っていうものがあるわ。このまま黙って出て行ってください!」
私はずぶ濡れになりながら声を張り上げた。近所に聞こえたって構わないわ。
「あのう、僕の気持ちはわかって頂いたでしょうか…」
ボソっと言う彼に私は怒りを爆発させた・
「このキンタマ野郎!家族も持ったことないクセに独りよがりな甘ったれた感情を押し付けてくるんじゃないわよ!私があなたのことでどれだけ今まで苦しんできたのかわかってんの?あなたみたいな人なんか死んでしまえばいいんだわ!」
ずぶ濡れの私の顔に幾筋もの涙が流れているはず。電柱灯の下、雨と涙で孝則さんの顔もよく見えない。彼はゆっくりとポケットからガラスの小瓶を取り出した。
「やっぱりダメなんですね。真知子さんの言うとおりに死にます。この瓶の中には青酸カリが入っています。工場からくすねてきたんです。愛する真知子さんの元で死ねれば本望、それではサヨナラ」
彼は瓶のフタを開けて口元へ持ってゆこうとした。瞬間に私は全体重を乗せて彼に突進していた。彼の体は濡れた道路にぶっ倒れ、小瓶は宙を舞いそのまま路上で小さい音をたてて割れた。私は息を荒げ鬼の形相で倒れ込んだ彼を見下ろしている。彼は焦点の定まらない目をして両手を地面につけている。やがてよろよろっと立ち上がった彼の胸に私はがむしゃらに飛びこんで号泣した。

「孝則のバカ!そんなにしてまで私が欲しいなら今ここで奪ってよ!」

自分でも思ってもいなかった言葉を叫んでいた。孝則がいてくれるならすべてを捨ててもいい。心の奥底にずっと潜んでいた願望が豪雨の中で噴出した。死ぬほど彼が好き、その代償が大きいことは覚悟している。ダンナを裏切ったことで地獄に墜ちてもかまわない。

暗闇の雨の中、クルマは発進した。助手席に座る私はこう思った。妻が他の男と関係を持つことを不倫と言う。私と孝則はそんな関係ではなかった。お互いに純愛を貫いてきたつもりだった。しかし純愛は不倫よりもっと邪悪な刃だった。不倫なら一時の感情として許されるかもしれない。だけれども純愛は決して許されない。この瞬間から私と孝則は世間から追放され、決して実ることのない不実な愛に生きなければならない。

さっきまでの暴風雨は収まり、不実の雨がフロントグラスを叩いている。運転する孝則の横顔が対向車のヘッドライトを浴びて青白く浮かび上がる。真夜中の高速道路、遥か前方の暗闇にテールランプが光っている。真知子はそのホタルのようにうつろに滲み光る点をいつまでも見つめていた。(終わり)

不実の雨

不実の雨

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
更新日
登録日
2017-03-21

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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  1. 第一話 瞬間湯沸かし器
  2. 第二話 コミセン
  3. 第三話 朗読の会
  4. 第四話 曇りガラス
  5. 第五話 嘘
  6. 第六話 断捨離
  7. 第七話 転勤
  8. 最終話 不実の雨