おれはフェリックス
おれはフェリックス
気まぐれは親ゆずりだが、それで損をしたことは一度もない。しかし、さすがのおれもカッとなった。おれは難しいことはわからん。ドイツのワイン畑で見張り番をするのが日々の暮らしだ。仕事に関しては人一倍誇りを持っているし、事実、いろんな人が褒めてくれる。
あるとき、おれがワイン畑でいつものようにパトロールしていると、その畑の入口で、一人の女が、照れたようにこっちを見ている。
「フェリックス、こっち来なさい」
だれだろう。見たこともない女だ。着ている服は高級そうだし、指にじゃらじゃらとダイヤの指輪がきらめている。はっきり言って、タイプじゃない。
おれが返事をせずにいると、女はつかつかと近づいてきて、おれの肩をつかみ、
「ああ、かわいい!」
ほほをすり寄せてくるのだ。冗談じゃない。貧しくとも働きがいのあるこの職場で、こんな甘ったるさにだまされるものか。
おれは手をふりあげて、そいつのほほをなぐりつけた。
「あーっ!」
駆け寄ってきたのは、おれの上司のヨハンだ。真っ青な顔をしている。
「どうだい、思い知らせてやったぜ」
おれがそう言うと、ヨハンはおれを引っ張って自分の腕の中に抱きしめ、
「ダメじゃないか、この人は畑の新しい持ち主だよ」
「あらあ、いいのよぉ。驚かせちゃったんでしょう。わたしが悪いの」
女は、しゃらりと言ってのけ、
「ヨハンさん、フェリックスを譲っていただけないこと? 給料は倍出すわ」
ヨハンのやつ、少し考え込みやがった。おいおい、だいじょうぶか。
「すごく役に立つんですよ。フェリックスが来てから、ぶどうの被害が少なくなりましたし、なにより牛や馬とも相性がいい。これほどの天才を、右から左へ……」
「一万ユーロ、出すわ。これでどう」
女は、高飛車に言った。
「は、では譲ります」
おれはこうして、女の家に引き取られた。
どうにも落ち着かない。仕事はおれの生きがいだった。それを取り上げられて、上げ膳据え膳の毎日。スレンダーだった肉体はぶくぶく太り、テレビ三昧で頭もパーだ。
家に帰ろう。
おれは、こっそり女の家を出た。
見上げると、ワイン畑などどこにもない。
見たこともない、灰色の建物が、ズラリと並んでいる。
きんきらのガラスが日光に映えていた。
ダメだ。
これじゃ、帰る前に迷っちまう。
おれはあっさりあきらめた。
以来、食事を出されても、水を差し出されても、一切口にしなかった。
おれは帰りたいんだ。
「フェリックス……。どうして言うことを聞いてくれないの? わたしがなにか、悪いことしたのかしら」
女は、心配そうにそう言った。
そして、決意をしたように、電話した。
「ヨハン、フェリックスの様子がおかしいの。早く来てちょうだい」
ヨハンは、すっかりやつれていた。
おれもきっと、おなじぐらいやつれているだろう。
「フェリックス!」
あいつの顔が、おれを見るなりパッと輝いた。
「会いたかった! あんたがいなくちゃ、農園はやっていけないよ」
「にゃごー」
おれもそう、答えた。
「しょうがないわね。あんたたちの友情のほうが、わたしの愛情より強かったってわけか。帰っていいわ」
女は、脱力したようにそう言った。
おれは今では、農園のウラ番だ。
ヨハンは、おれにすっかり参ってる。
おれを抱き上げなで回し、
「おまえはほんとうに、役に立つ猫だなぁ」
と言うんだぜ。
まったく、それは事実だけどな。
おれはフェリックス