歩くような速さで

クラスのアイドル的存在だった山本深雪は秋のある日、突然髪を染めて変貌してしまった。彼女に何があったのか、友人に頼まれ話を聞きに言った僕は…。

1話

「おはよう」

かじかんだ両手をこすり合わせながら教室に入り誰へと言うわけでもなく挨拶をすれば、先に登校していたクラスメイトたちが「おはよう」と返してきた。高校で初めて知り合った人だらけのクラスであるが半年も過ぎればもう慣れたもので、最初はぎこちなかった空気はいつの間にか昔からそこにあったかのような錯覚さえ覚えるほどに僕の生活の一部になっていた。そんな彼らと、今日は寒いね、とか一言二言おしゃべりをしながら着ていたコートを後ろのロッカーにかけて窓際の席へと向かう。僕の席は窓側から二列目。こんな冬の寒い日は窓の冷気が一足飛びにやってくる席なので、一日寒い思いをしなければならないのかと思うと朝から憂鬱になる。案の定冷たくなっていた自分の机に背負っていたリュックサックを置いて椅子に座ると、暖房が本当に効いているのか確認したくなるほどの冷たさが制服のズボンごしに感じられた。

立ち上がって再び寒い思いをしたくないからというつまらない理由でしばらく僕がぐずぐずと椅子を温めていると、寒色系の空気が似合う教室とは対照的な暖かい、というよりも暑苦しいほどの挨拶と共に担任の先生が入って来た。のんびりしているうちにいつの間にかホームルームの時間になっていた。

「おはよう!今日から10月が始まるな。月が変わったとたんに急に冷え込んだが、そういう時こそ元気を出していくんだぞ」

そう言いながら今月の予定を滔々と述べていく担任の先生。とは言っても文化祭が先月に終わり定期テストも12月のため、今月のロングホームルームや全校集会の日程を確認するだけだ。予定の詰まっている月は気分の重たくなってくる先生の話も今月はあっさり終わって拍子抜けしてしまった。しかしその分来月再来月に期末テストやら様々な予定が詰まっているんだというマイナスに振れそうな思考はもちろん、頭を振ってなんとか追い出したのだが。未来の苦難におびえるよりも現在の楽を甘受しよう、世の高校生なんてこんなもんだと誰に言うわけでもなく頭に浮かんだ言い訳をして机に突っ伏した。後ろ向き一直線なことを考えているうちに担任の諸連絡は終わり、続いて出欠確認の点呼が始まっていた。一人ひとりの様子を確認しながら生徒の姓を呼んでいく先生と日常作業の一つとして事務的に返事をする生徒。機械的な作業がおよそ半分、「た」行の姓が呼ばれ始めたころ、教室の扉ががらがらがらと無遠慮な音を立てて開かれた。入って来たのは長い髪を校則違反の茶色に染めた少女。彼女は悪びれもせず教室へと足を踏み入れた。とっくにホームルームは始まっている。どんなに大目に見ても、大遅刻だ。

先生は名前を呼ぶのを止めて入って来た遅刻者を見る、扉の音につられ何人かもそちらに顔を向けていた。後半に自分の姓名が呼ばれるのを待ちながら、誰も座っていない隣の席を見ていた僕も、その一人だった。そして入って来た女子生徒を見た皆は同じことを思った、また彼女かと。

「山本深雪(みゆき)、またお前か。」

「すみません…。」

「とりあえず言い訳を聞こうか」

「寝坊しました」

いつもと同じ言い訳と共に、すみませんと再び頭を下げると彼女は誰とも目を合わせることもなく自分の席に向かった。窓際の僕の隣の席に。これ以上私に話しかけるなというオーラをまき散らした彼女に、ため息をつきながら先生は点呼を再開する。僕が隣をちらりと見ると、隣の席の遅刻者は椅子に座るや頬杖をついて窓の外を見ていた。どうしたものかと思っていると続いて僕の名前が呼ばれた。

「山本純(じゅん)!」

「はい」

僕の方を確認した後、先生は再び少し苦い顔をしながら出席順で次の女子生徒の姓名を呼んだ。

「山本深雪!」

「…はい」

先生とその他多くの視線(特に男子)を気にしていない彼女は返事をしたことで自分の役割はすべて終わったかのように、目を教室から窓の外へとむけた。彼女の視線の先を追えば秋らしい寒々とした空が広がっていた。

2話

長くきれいな黒髪、一見冷たそうなスキのない容姿とそれに反した本人の優しい性格。僕の友人に言わせれば山本深雪は魅力的な女の子であり、実際に僕も見たくもない知り合いの男子から彼女への告白現場を一度や二度ではなく目撃したことがある。そんな彼女であるが今まで誰かと付き合っているという話は聞いたことがなく、真面目な性格でも知られていた。しかしそんな彼女は変わってしまった。最近では学校にはいつも遅刻してきて、授業中にはずっと窓の外を眺めている。先生への態度は正面からケンカを売るようなものではないものの、反抗的なものになってしまった。彼女の変化に先生たちは頭を抱え、生徒たちはしきりに不思議がっていた。今日も朝のホームルームが終わるとすぐに教室から出ていこうとする深雪に責任感の強い担任は声をかける。

「山本。最近何か嫌なことでもあったのか。なんでも先生に相談してくれていいんだぞ」

「いえ、特に何も」

先生の心配も彼女はすげなく拒絶した。お、おいと慌てて声をかける先生から背を向けて歩き出した彼女は一度も振り向かないで教室から出て行ってしまった。

「なあ山本ー」

彼女の出て行った後、僕の背中を突っついて後ろの席の男子が声をかけてきた。高校に入って初めて知り合った友人の中村だ。彼はどうやら深雪に気があるようで、仲良くなってから僕に何度も彼女の話を聞いてくる。僕自身に恋愛経験が無いせいでまともなアドバイスができたためしがないような気もするが。最初は彼女には好きな人がいるらしいよと諦めさせようとしたけれど、それでもと言う彼の真剣な顔を見てなんとなく始まった協力。初めて彼女の話をしたのが6月だから、およそ4か月も片思いしていることになる。よくもまあそんなに長い間同じ人を好きでいられるなと呆れるが、似た者同士で共感する部分もあるのか協力関係は今でも続いていた。

「何?どうしたの」

「山本さんのことだよ。どうしちゃったのかな。文化祭が終わってから、なんか変わっちまっただろ。」

文化祭と聞いて僕は先月末にクラスで出した喫茶店を思い出す。ウェイトレス姿で笑顔を振りまいていた山本さんは今とは全くの別人であった。文化祭が終わって数日が過ぎたころ、祭りの後何度目かの遅刻をして教室に入ってきた彼女を見て、クラスメイト全員が度肝を抜かれた。美しい黒髪が燃えるような茶色に染まっていたからだ。騒然とする教室で仲のよい、いやよかった女子に染髪の理由をしつこく聞かれると、たったひとこと「うるさい。」そう言って空気を凍り付かせた。それ以降はそれまでとは真逆の冷たく、物憂げな雰囲気をまとうようになったのだ。今では教室の中でも浮いていて、彼女は常に一人でいるようになった。

「いや知らないよ。それこそ君が山本さん本人に聞いてみればいいじゃない。話す良い機会なんじゃない?」

「俺が聞けるわけないだろうが!なあお前ら姉弟なんだから分かんねえのか?家で何か言ってなかった?」

なにそのヘタレ宣言と思わず苦笑すると、むっとした顔をしながらもなあどうなんだよ、と聞いてきた。

「本当に知らないんだって、最近家に帰るのも遅いから、家で顔を合わせることもほとんどないんだよ」

「じゃあ最近何かあったのかを聞いてくれよ。ただのクラスメイトより家族の方が聞きやすいだろ。頼むよ」

僕じゃ無理だよとしばらく渋ったが、友人のしつこいまでの頼みについには根負けしてしまい、僕は放課後、彼女に最近の変化の原因を聞くことになった。実際、知らないというのは噓だ。彼女のことを変えてしまった事件、僕には思い当たる節があったのだ。でも今まで、ずっと見て見ぬふりをした、彼女を傷つけてしまうことが怖かったから。そして自分自身が傷つくのが怖かったから。

こうして厄介な頼みを受けてしまった10月最初の一日であるが、その日も特に起伏無く穏やかに過ぎていく。ざわついていた僕の内面とは全くの反対だと思った。帰りホームルームが終わって担任の先生が教室を出ると、部活動のあるものはいそいそと荷物をまとめて出ていき、残ったものはいつものように友達と駄弁りながら時間を浪費している。僕は部活動がある組であったが、その前に山本さんに話をしないと、と律儀に考えながら荷物をまとめていた。彼女はこの後の用事を確認しているのだろうか手帳、彼女の好む可愛らしさや派手さは無いが上品なものだ、を眺めていた。いつの間にか日は傾いて、教室は赤色に染まっている。秋の日はつるべ落としとはよく言ったものだとぼんやりしていると、後ろの席の中村が少し強めに肩をたたいてきて、ハッと我に返った。

「おい、約束忘れてないよな。山本さんに聞いといてくれよ。よろしく頼むからな」

気が付くと茶色の髪の少女はドアに手を掛け教室から出ていくところだった。

「あ、…うん。わかってるよ。でもあんまり期待はしないでね」

「おう。明日楽しみにしているから!」

「いや、あの…」

それじゃあまた明日なと僕に期待のこもった目を向けて彼は教室を出て行った。廊下で想い人にすれ違うとさわやかに「山本さん、また明日な」と言って走っていく。所属するサッカー部の練習が始まる時間ぎりぎりまで粘っていたのだろうか、少し慌てて飛び出して行った。教室に残っているクラスメイトはいつの間にかだいぶ少なくなっていた。はあ、とため息を一つつき、覚悟を決めた。中村が出て行ってしばらくしてから、教室を出ていった彼女の後を、僕はリュックサックを掴むと追いかけた。

3話

「ねえ、山本さん待って」

追いかけた少女に、昇降口へと続く階段近くの廊下で声をかけた。彼女は一瞬足を止めただけでこちらを振り向くことなく階段を下りて行ってしまう。しかし長年の付き合いから拒絶はされていないということを感じたので、僕はそのまま彼女の斜め後ろから同じ速さで歩きながら話し続ける。

「山本さん。文化祭の後からどうしちゃったのかって、みんな心配しているよ」

「……」

無視。

「あの、もしかして兄さんの」

「純。」

「え?何?」

「山本さんってウザいんだけど。二人の時は深雪でいいって私言ったよね」

「…うん。でも深雪は学校では山本さんって呼んでとも言ってたよ」

小学校五年生のころ、母さんと義父さんの再婚で僕と深雪は義姉弟となった。突然できた姉は同い年で、転校した先で姉を何と呼んでいいのか分からなかった。そのことを彼女に伝えたら家では何でもいいが学校では普通に山本さんと呼んでほしいと言われたので、以来僕は二つの呼び方を使い分けているのだ。そういえば初めての環境に戸惑っていた僕を深雪は優しく引っ張ってくれたな、あの頃は今みたいに痛くならないようにすることなんて無かったっけ。そんなことを思いながら口に出した言葉は彼女を怒らせるものだったのか、心底嫌そうな顔をして

「はぁ、あんたって本当にめんどくさい。」

「う、でも僕も深雪のこと心配なんだよ」

「あっそ。どうせ誰かに話を聞けとでも言われたんでしょ」

「そんなこと…」

ない、と言いたかったけれど、図星を突かれてしまい咄嗟に言葉が詰まってしまい、無言の空気が流れた。しばらくしてそんな僕に、彼女は既に興味を失ったらしく一人階段を下りて行ってしまう。

「あたし、今日も帰り遅くなるから」

丁度僕がいたから伝えておこうとでもいうような口ぶりでそう言い残して、深雪は僕の視界から消えていってしまった。彼女にもっと話すべきことがあるはずなのに、義姉の茶色の前髪の間からのぞく他者を拒絶する目を見ると言いたいことが出てこなくなる。彼女がいなくなってから暫くして、その場に立ち尽くしていた僕の口から言葉が漏れてきた。

「本当に、心配なんだよ。家族だから。深雪だから」

そんな本音が何かのはずみに彼女に届いたらいいなと考えている自分は、なんてめんどくさい男だと自虐した。



「夜遅くなる」という言葉の通り夕食の時間に深雪は帰ってこず、最近では大して珍しくもなくなった母さんとの二人の夕食の時間。仕事で帰りの遅い義父さんと、どこで何をしているのか出歩いている義姉のいない食卓は心なしか静かだ。深雪がいたころも特ににぎやかなわけでもなかったが、空席が人のいる席より多くなって感じるのは寂寥だろうか。

「深雪はまた遅くなるの?」

「うん。そうみたい。」

「本当女の子一人で大丈夫かしら。よりにもよってこんな時期に、一体どうしてこんなことになっちゃったのかな?」

それは、と言いたい衝動を抑えてご飯をかき込む。無意味につけられたテレビからは遠い場所で起こった良いニュース悪いニュースがざっくばらんに伝えられていた。静かな食卓にはアナウンサーの声が環境音のように響いていた。そんなニュースをぼんやりと眺めていると、ねえ、と斜め向かいに座る母さんが沈黙を破る。

「やっぱり深雪が心配だわ。深雪と話してあの子がどこで何をしているのか聞いてきてよ」

「え、と。え?」

「やっぱり私よりも同い年のあなたの方があの子も話しやすいでしょ」

自分勝手なところのある母親の突然の宣言に脳の処理が追い付かず、僕が黙ってしまっているうちに話は終了し、決定事項となってしまった。僕が了解したと思っている母によろしく頼むと押し切られ、もやもやした気分で自分の部屋に戻った。

部屋に戻ってベッドに倒れ込む。義姉の豹変が再び僕の心を乱していることを感じながら、勉強机に飾ってある写真立てを横になったまま眺めた。四五年前に撮った、新しい家族の写真。母さんと義父さんが再婚してすぐに行った家族旅行での写真だ。その中では5人の人間が不格好ながらも手探りで家族になろうとしている。その中で屈託なく笑う今よりずっと幼い深雪は何を考えていたのだろうか。やがて今の、こんな時が来ると気付いていたのだろうか。

「また…こんな風に、笑ってくれるのかな…」

誰の返事も期待せずつぶやいた僕の言葉は部屋を震わせた。その音が暗闇に溶けて消えていくのを感じながら、僕は静かに意識を手放した。


真夜中にふっと目が覚めた。真っ暗な部屋に目が慣れると、自分がまだワイシャツを着ていることに気が付いた。電気をつけて今の時間を確認すると深夜の一時だ。どうやら晩御飯を食べてからそのまま寝てしまっていたらしい。とりあえず風呂に入ろうと部屋から出ると、僕の部屋の前の廊下を横切る人影があった。まさか人がいるとは思わなくて、肩がビクッと上下に震えた。

「わっ」

「わぁ!?…って深雪か。びっくりした」

人影は夜遊びから帰ってきた義姉であった。彼女は夜遅くに返ってくるものの、家人に迷惑をかけないようにかいつも物音を立てずに帰ってくるので、僕らが彼女の帰りに気付くのはいつも翌日のことだ。当然義姉がこの時間に帰ってきているとは知らなかった僕は後から思い返して我ながら笑ってしまうほどにビックリしてしまった。僕のビビり具合がツボに入ったようで、彼女はくくっと少し喉を震わせる。月明りに照らされた彼女は部屋着になっていて、化粧を落とした湿っぽい雰囲気からお風呂上がりのようだ。

「ビビりすぎ。こんな時間に何してるの?」

「お、お風呂、入りそびれたから。今から入るんだよ」

「ふーん。」

「それより深雪こそこんなに遅い時間に何しているの」

「あたしも今お風呂入ってきただけ」

「こんな遅い時間に帰ってきたの?」

「そうだけど。それが?」

「こんな時間まで何していたのかな、とか」

「そんなこと聞いてどうするの?」

学校での会話ほど険のある様子ではないが、それ以上なにも言う気は無いという深雪の返事に僕は何も言えなくなる。シャンプーのいい匂いが僕の鼻孔をくすぐった。この匂いも久しぶりだと思った。

「まあいいけど。」

黙ってしまった僕を押しのけるように、彼女は一言、邪魔と言って自分の部屋に入ってしまった。残された僕はお風呂を沸かしてぼんやりと湯船に浸かった。いつもより長めのお風呂から上がって、洗面所にかけられた壁時計を見ると短針はもう2を指していた。自分の部屋に戻ってみると、もう寝入ったのか隣の部屋からの物音はもう聞こえてこなかった。また何も話せなかった自分がひどくやるせなかった。

4話

それから一週間経って、秋の深まりとともに更に寒さは厳しくなった。扉を開けて外に踏み出すとキンとした空気が僕の顔にぶつかって来た。冷気の当たった鼻が痛い。これからより寒くなってくるのだろう。少しでも冷気がぶつかる面積を減らそうと手袋を着けた手で口元を抑えるという無駄な努力をしていると後ろから走ってくる足音が聞こえた。

「よぉ純!それでどうだった?」

一週間ほど前に僕に深雪と話すように頼んだ、中村だった。随分気になっていたのか何やら妙にそわそわしている。そんなに聞きたいなら自分で聞けばいいじゃないかと言いたい心を抑えて、ダメだったよ、と申し訳ないという顔を作って伝えると

「そっかぁ、それじゃ何か分かるまで待ってるから!」

それじゃあなと走っていってしまった。それはつまり何か話が聞けるまで粘れということなんだろうか。朝からどっと疲れるのを感じた。

その日、深雪が学校に来たのは3限の終わりだった。3限目の担当の先生はもう彼女の遅刻に慣れたのかもしくは呆れたのか、形式的に注意するだけでそれ以上何も言わない。おはよう、早く席につけと言うとまた黒板に書いた内容の説明に戻った。生徒たちは一瞬ざわついたが、授業が再開したため次第に静まった。彼女はクラスメイトの好奇の目、不快そうな目などどこに吹く風で、自分の席に着くとぼんやり外を眺めていた。

「最近山本さんって態度悪いよね~」

「ほんとほんと、何様って感じ」

「ウザいよね。絶対自分可愛いって思ってるよ」

今日最後の授業が終わって、ホームルームが始まるまでの空いた時間をまったりしていると、前の方て数人の女子たちが、集まって話している声が聞こえてきた。山本さんというのは僕ではなく、6限の間ずっと腕枕して眠っていた隣の義姉のことを指しているのだろうということは、時々彼女たちが意地悪そうな顔をして義姉に目を向けていることから分かった。僕の方まで聞こえてきたということは騒いでいる女子たちもわざと耳に入るように大きな声でしゃべっているのだろう。ぎゃははと笑う彼女たちに物申す人はこのクラスにいない。このクラスで最も力を持っている彼女らに目を付けられないためだ。汚いことだけれど皆、何よりも自分が大事なのだ。傷つくのが怖い、弱虫なのだ。勿論声も出さないかった僕も含めて。しかし標的とされた当の本人は深く眠っているのかうつぶせのまま動かない。その反応が気に入らなかったのか権力者たちはこちらに歩いてくる。僕は、これが義姉に言わせればつまらない男たる所以なのだろうけど、無関心を装って目を合わせないようにしていた。

「ねえ山本さんさあ」

彼女たちが隣の席の住人に近づくために僕の脇を通るとき鼻につく甘ったるい匂いがした。その中のリーダー格の女子は居眠り中の深雪をぎろりと睨むと、自分のストレスを発散させるかのごとく強めに深雪を揺り起こした。

「ん?何?」

寝起きの義姉は長い前髪の間からリーダーの女子を見つめた。その目に怯えの色はない。そういえば彼女は変わってしまう前もクラスカースト気にせず誰に対しても平等に優しく、誰に対しても平等であったことを僕はふと思い出していた。

「何じゃないわ。あなた最近調子乗ってんじゃないの?」

「そう?」

「は?自覚無いわけ?遅刻常習犯に夜遊びもしてるんでしょう」

「この間なんて知らないおっさんと仲良く歩いているところも見たし」

「うわ、もしかして体とか売ってんの?マジキモいんだけど」

「…」

黙り込んだのが敗北宣言だと思ったか彼女らは深雪を好き放題に罵倒する。リーダー格の女子の肥満ぎみの顔は元が分からないほどの厚化粧できれいなはずなのに、口汚く人を罵るところを見ると、ひどく醜く見えた。やがて一通り悪口を言って満足したのか、勝ち誇ったような顔を深雪に向けた。彼女らはこうやって気にくわない人の心を折っていくのだ。しかし義姉は一言、

「それが?」

「え?」

呟いた声はあまりにも落ち着いていて、悪口を言っていた三人は思わず呆けてしまった。ぼんやりとしたリーダーの女子に顔を近づけながらにやりと笑って、

「それがどうかしたの?」

そう言って彼女は自分のバッグを掴むと、何も言わずに教室を出て行ってしまった。「ちょ、ちょっと待」とリーダー格が言う頃には遅く、すでに
教室の扉はぱたんと閉められていた。あまりに予想外の行動にクラスの皆が唖然としていると、

「ごめんな遅くなった。」

クラス担任がしばらくして入って来た。

「それじゃあホームルームを始めるぞ。…ん?どうしたお前ら席に就けー」

「は、はい」

僕の隣でまぬけに口を開けて突っ立っていた権力者たちは慌てて自分の席に戻っていった。僕は出て行った扉をずっと見ていたが、結局ホームルームの間中、義姉が帰ってくることは無かった。



「さようなら」

帰りの挨拶をしていつもの通りの放課後の時間を迎えた。結局あっという間に今日という日も終わり、また深雪と話せなかったことに今更後悔してしまう。だが僕の足は無意識に教室の外ではなく前の席に集まった三人の少女の所に向かった。先ほど義姉を口汚くののしっていた彼女たちは今では楽しく服やアクセサリーの話をしていた。強烈な香水の香りが僕の侵入を阻んでるような錯覚を覚えながら、それでもなんとか近づいて三人に話しかけた。

「ねえ、今いい?」

「どうしたの?山本君?」

先ほどのリーダー格の子が笑顔で甘ったるい声を出す。先ほどより1オクターブほど高い声。本人は可愛いと思っているのかもしれないが、義姉への暴言を聞いた後だと嘘っぽさが見え見えで苛立たしさがこみあげてくる。そういう気持ちが顔に出ないように気にしながら朝の義姉の話、男と仲良く歩いていたということについて問うと、再び先ほどの意地悪そうな顔になりながら、話をしてくれた。

「あたしらいつも放課後ショッピングしてんだよね。それで先週もさ、あたしら買い物に行ったんだよね」

「そうそう、最近可愛い店見つけてー」

「マジ可愛いよね」

「ってかあの映画マジよかったよね」

「あれ泣いたわ。マジ泣き」

「…あの!山本さんはどうしたの?」

話が盛り上がって話が進まない彼女たちにしびれを切らし、話の腰を折って無理やり義姉の話へと軌道修正させた。おしゃべりを途中で止められて彼女たちはあからさまに嫌そうな顔をしながらも渋々と話し始めてくれた。

「その後一通り遊んで夜食べたわけ。10時くらいよね。そんで帰ろうってなった時に見たんだよ」

「何を?」

よくぞ聞いてくれたとでも言うようにどや顔しながら話を続けた。

「男に腰を抱かれながら仲良く歩いてたんだよ。山本さんが」

後ろからハンマーで殴られたような気がした。”そういう話”はドラマやニュースなどの遠い場所のものだと思っていたのに、夜遊び回っているとはいえ隣の部屋で生活し、一緒にご飯を食べている人がそういうことをしているとは思ってもみなかったからだ。

「しかもビッチみたいな格好してさ」

「あれ絶対ヤッてるよ」

「分かった、分かったよ。もういいから…ありがとう」

いたたまれなくなって会話を切り上げようとした僕に、厚化粧の女子は謎のお節介で義姉を見たという場所のメモを渡して背を向けておしゃべりしながら帰って行った。肩越しにこちらに手をひらひらさせて。本人はおしゃれに思っているのかもしれないが、残念なことに滑稽でさえあった。

メモに書いてある場所をスマートフォンの地図アプリで確認し、ここからのルートを調べる。所要時間1時間ちょっと。いてもたってもいられなくなった僕は入学してから初めての部活動のサボりの連絡を、仲良くしている一つ上の先輩に入れてから学校を飛び出していた。

5話

『三番線ドアが閉まります。ご注意ください』

部活動の先輩に用事があって早退するので今日の部活は欠席する、という旨を伝えて学校を後にした。そして今、駅の改札を足早に出て見知った制服の女子高生を捜していた。深雪、こんなところにまで、何していたのだろうという疑問を胸に抱いて。

駅を出るときにふと心の中で自分が囁いた。本当にここに来てよかったのだろうか。今からなら引き返せる。知らないままこれまで通りのなあなあの関係でいいんじゃないか。…知って傷ついたら後には戻れない。

迷って迷って何度も立ち止まりながらも、結局メモの場所まで歩いてきてしまった。メモに書いてあったカラオケボックスの、車道を挟んで向かい側にはメモをくれた女子たちが利用したという喫茶店もあり、嘘をついていたわけではなかったことを確認する。たとえ深雪がここに来ているとしても、都合よくまたここを訪れることなんかないだろうとは思う。それでも、なぜかこの人通りのどこかに深雪が混ざっているような気がして似たような制服を着た女子高生を目で追ってしまう。見つからなかったからとここで帰ってしまってもよかったのに、母さんに『友達とご飯食べるから帰り遅くなる』とメールまでして。しばらく探した後しばし休憩と目印の喫茶店に入った。深雪が通るかもしれない、そう思うと通りから目を離していられなかったので、外の席がいいという旨を伝える。ちょうど夕食時で利用客は多かったが少し待ってから外のテーブルに案内された。既に7時近くでとっくに日は沈み、制服の上にコートを着ていても身を刺すような冷たい風が僕の身を強張らせた。冬が近づいてきたことを感じぶるっと思わず身震いする。通りを歩く人は学生よりスーツの大人の方が目立つようになった。通りを見ているとメニューが渡された。食べ物も飲み物も何でもよかったので、とりあえず一番上に書いてあったこの店おすすめのセットを頼む。時刻は7時になった、義姉の姿はどこにも見えなかった。

注文した品は10分程度でやって来た。この店のおすすめらしいコーヒーとサンドイッチのセットメニューだ。温かいコーヒーは冷えた体を優しく温めてくれた。食べながら夜の街を歩く男、女、子供、大人、あらゆる人をじろじろと無遠慮に眺めるが、一向に義姉の姿は見えない。通行人が一人喫茶店に座って、まるで監視カメラのようにきょろきょろとせわしなく首を動かしている僕を不審そうに見てくるが、僕は気にもせずに監視役を続けた。いつの間にかお皿に三つあったサンドウィッチがあと一つになっていた。最後の一つを口にして、初めて味を感じた。おすすめのサンドウィッチは優しい卵の味がした。

会計を済ませて僕は再び街へ繰り出した。慌てて食べたわけではないが、店に入ってから20分しか経っていなかった。心なしか足早で行ったり来たりと深雪の姿を捜した。その間に人にぶつかった回数は四回。何度か舌打ちされた音が背後からした気がするが、立ち止まって謝罪する余裕が僕には無かった。あちらに行ってこちらに戻って、同じ場所を何度も何度も行ったり来たりする。しかし肝心の義姉は結局見つからなかった。時刻はいつの間にか9時まであと30分というところまで迫っていた。やっぱりいなかったのか、ここで彼女を見たというのは結局見間違いだったのだろう、そう思いながら三、四時間に及ぶ深雪の捜索を切り上げて、駅の方に足を向ける。結局義姉はどこで何をしているのか分からなかったという残念な気持ちよりも、安堵の方が大きかった。駅に向かう人の流れに抵抗するのを止め、流れに身を委ねた時、自分の吐く息が薄く白んでいることに気が付いた。道理で体の震えが止まらなかったわけだと一人納得して自分の血の気の引いた手を眺める。クラスメイトの根も葉もないうわさ話に踊らされてこんなに必死になっていたのかと思うと、今日の捜索全てが阿呆らしく思えて一つため息をついた。その息の白い煙を目で追いながらふと反対側の道を見ると、やけに挑発的な服を着た女性が恰幅のいい中年の男と並んで歩いていた。見るからに夜の仕事をしているな、そう思いながら無遠慮に二人の方を見ていると街路樹に隠れて見えなかった女の顔がちらりと現れる。

「え…?」

通りをにぎやかす雑音がその刹那だけすべて溶け、時間が止まったかのように錯覚した。しばらくして雑踏はいつの間にか時間が流れ出していたのを知った。しかし僕はしばらく立ちすくんで動くことができなかった。例えるなら足元がガラガラと音を立てて崩れ去るような感覚を味わっていた。そして一瞬見えた彼女の顔を再び思い出した。その横顔は、僕のよく知る少女のものとそっくりだった。

「深雪、嘘…だよね」

力なくつぶやいた僕の声はノイズとなって、通りの騒音の中へと溶けて行った。

6話

その日はどうやって帰って来たのか、自分でも覚えていない。いつの間にか家の前に着いて、自分の部屋のベッドに倒れ込んだのは11時過ぎだった。家の中は真っ暗で、母さんも既に眠ってしまったようだ。家全体が静まり返り、物音ひとつしない。ベッドに倒れたまま、動けないほどに疲れていた僕であったが、何かしたり逆に何もせずにこのまま眠ってしまう気にもなれずに、そのままぼんやりと天井の壁を眺める。

『おじさん、今日はどこに行こっか』

いつも隣で見ていた少女が、僕の知らない顔をして笑っていた。真っ白だった天井にいつの間にかできていた染みを見つめながら、僕は真っ赤な服を着てあでやかに笑う深雪の顔を思い出す。見知らぬ男に腕を絡ませて仲睦まじそうに歩いていたということはつまり、クラスメイトの言っていたことは正しかったという、そういうことなのだろう。なぜかうまく働かない頭で何か義姉を呪う言葉の一つでも吐き出したかった。しかし普段使い慣れているはずの口は何故か言うことを聞かない。無力な努力を続けて、気づいた。僕は怒っているわけではなかったのだ。義姉が誰かに体を売っていると知っても、不思議と腹は立たなかった。そして失恋の感情ともいうべき、泣きたいほどの悔しさも感じなかった。ただただ、悲しかった。

がちゃり

その時、誰かの玄関の戸を開ける音が我が家の静寂を破った。しばらく玄関でごそごそと靴を脱ぐ音がした後に、急に静かになった。僕は何をするでもなく再び物音が聞こえないかと耳を澄ましていると、こつこつこつと階段を上がってくる音が聞こえた。足音が階段を上がり切ったと思った時に、僕の体は思わず扉を開けて、廊下に出ていた。

「わ…、またあんたか、びっくりした。なに、まだ起きてたの?」

「うん、お帰り。今日も遅かったね」

僕の前に立っていた真夜中の帰宅者、深雪は突然廊下に出てきた僕に一瞬本気で驚いたようだ。噂好きのあのクラスメイト達のような不快なまでに甘ったるい匂いがする。深雪は家に帰ってくる時は、たいがいは家族の寝静まった日付の変わった後であるが、家族を起こさないように音を立てずに自分の部屋まで上がってくるのだ。

「最近あんた夜更かししてるみたいだけどいいの?先生に怒られるよ?」

「いつも夜更かししてるわけじゃないし、遅刻はしないから大丈夫だよ。」

君とは違って、と暗に言ってみたが言葉の真意を読んだかどうか、義姉はふんと鼻を鳴らすと自分の部屋へと入ってこうとする。僕は思わず引き留めるように「ねえ深雪。今日はどこに行ってたの?」と話を続けた。

「は?あんたには関係ないでしょ?」

「うん。確かにそうだけど、人の疑問を疑問で返さないでほしいな」

「何それ。喧嘩売ってるの?」

「別に深雪と喧嘩したいわけじゃないんだけど、気になったんだ。自分の義姉がどこで何をしてるのか」

「はぁ、また誰かに変なこと吹き込まれたの?」

「変なことは吹き込まれてないけど、クラスの女子が深雪のことウワサして…違うな、悪口言ってたのは聞いたかな」

「ふーん。別に興味ないけど」

腹の探り合いのような会話が続いた。挑発的な目で僕を睨みつけている彼女が何を考えているのか推し量ることはできなかったが、僕は彼女に今日あったことは僕の勝手な夢だったのだと言ってほしかった。

「よく分かんないけど、早く寝なよ」

じゃあねとひとこと呟いて義姉は隣の自分の部屋へと向かおうとする。

「ねえ!」咄嗟に、彼女の腕を掴んだ。腹の探り合いの時間は終わった。「少し聞きたいことがあるんだ。」

「まだ何か…」
「今日さ、深雪みたいな人に会ったんだよね」

「…」

「その人知らないおじさんと仲良く歩いてた」

「…」

「深雪…なんだよね?」

「…」

「深雪?」

さっきから黙り込んでしまった深雪の顔を覗き込むと、彼女は突然顔を上げて僕の腕を掴み返して自分の部屋へと連れて行った。

「ちょっと…、深雪?」

「…」

無言で僕を、自分の部屋へと投げ入れるようにして入れる。家族になりたての頃は気恥ずかしくて、それでも時間がたってお互いに慣れれば気軽に入ることができると思っていたが、そのまま思春期になって入りたくても入ることが余計に難しくなってしまった義姉の部屋は、今の彼女の派手な外見からはなかなか繋がらないような整理整頓された落ち着いたものだった。机、椅子、本棚、ベッド、そして蓋をして長いピアノ…。同い年の女子高生の部屋なんて入ったこともないので分からないけれど、部屋を占めているものがこれだけなのは少ないのではないかと思った。

「深雪、いったいどうしたの…?」

僕の疑問には答えず、彼女は僕をベッドに押し倒した。その上から四つん這いになって僕の上にのしかかって来た。義姉の腰が僕の下腹部に落ち、両腕を押さえつけられた。仮にも高校生の男子と女子、押さえつける力は力を入れてしまえば振り払えるほどであったが、僕は振り払わなかった。できなかったのだ。

「え?」

「あんたならいいよ。…あんたでもいい」

「みゆ…」

義姉の熱っぽい目が僕に近づいてきた。彼女のうるんだ目に映った僕はこの上ないほどに緊張して間抜けな顔になっている。だんだんと近づいてくる、赤く柔らかそうな唇から目を離すことができない。

「私を…、好きにして」

「!!」

彼女を止めたいと思った。こんなの間違っていると。でも自分のみじめな欲望に理性はちっぽけな抵抗しかできない。たとえ姉弟だとしても、同い年の女の子が、それも長い間片思いをし続けた相手に迫られて、僕の理性は次第に薄れ、この少女を自分の物にしたいという黒い気持ちがむくむくと湧き上がってきた。駄目だ、そんなことしたら彼女にとっての僕もあの名も知れぬおじさんと同列になる…それがどうした?叶わないと分かっているのだろう、ならば好きにするといい。
彼女はそっと目を閉じた。義姉の顔は少しでも顔を浮かせればぶつかってしまうほどに近づいている。彼女の熱い吐息が僕の唇をくすぐった。僕の知らない深雪の甘い匂いで満たされて、クラクラとしてきた。そのまま僕たちは…

7話

僕は深雪のベッドに座り込んでいた。その隣には顔を真っ赤にしたままの深雪がいる。彼女の目は前髪に隠れていて見えないが小刻みに震えていることは分かった。「ねえ深雪」僕は彼女を労わるように、そして…非難するように言葉を続けた。



僕と彼女の唇が触れ合う瞬間、来る時に備えて僕は薄く目を閉じようとした。そして気付く、壁の隅に隠すように貼った写真を。それは僕の部屋にあるものと同じ写真。彼女にとっては最愛の人と一緒に撮った唯一の写真だ。

「…できない」

近づいていた彼女の顔がその高さで固定されたかのように停止したのが分かった。目をぱちりと開けて怪訝そうな顔をする。

「なにそれ」

「できないよ。僕に兄さんの代わりは。僕は君の兄さんじゃない、君の弟なんだから。いい加減、いい加減目を覚ましなよ!」

はっとした顔をして彼女は固まった。そのまますっかり力の抜けてしまった彼女の両肩を、優しく押して僕は上体を上げた。彼女の体は驚くほどに軽かった。義姉の両足の間から自分の足を抜いて、彼女の隣に座った。

「透さん…」

そのまま数分たっただろうか、彼女は嗚咽と共に最愛の人の名を絞り出した。透、彼女の義理の兄…僕の血のつながった兄のことだ。

「やっぱり深雪が変わったのは兄さんのせいなの?」

義姉が変わってしまった原因、恐らく僕だけが知っているそれをようやく本人に聞いた。ずっと聞こうと思っていたのに、止めようと思っていたのに今更な話だと思う。それに彼女は一筋の涙を自分のベッドへと落とすことで答えた。僕は彼女の背中をさする。それが彼女の慰めになるとはまるで思わないが。やがて落ち着いてきたのか言葉をとぎらせつつも、少しづつ言葉をつないだ。

「あたし…あの人が好き、だった。嘘だとは分かっていた…、バカみたいだけど、透さんがお嫁さんにするって言ってくれたこと、ずっと…信じてたんだ」

「…」

「でも、こんな終わり方は無いでしょう…。こんな…。これが下手な芝居なら、バカみたいだよ。笑うこともできやしないや…」


透―山本透は僕たちの7歳年上の兄だ。僕の血の繋がった兄であり、深雪の義理の兄。そして彼女が長年秘めたる想いを寄せてきた相手。性格も容姿も全く違う僕たち姉弟が唯一似ていると言ってよいものは好きな人に一途であったということだろう。彼女に浮いた話が無かったのは小学生の頃からひたすら義兄を想い続けてきたからだ。例え兄が深雪を可愛い妹としか思っていないことを知っていても…。そんな彼女に気づいたときから、僕は自分の気持ちをひた隠しにするようになった。

『子供ができたんだ』大学を卒業した後独り暮らしを始めた兄が一か月前に突然寄越した電話の第一声はそれだった。なんでも大学の時から付き合っていた女の人、これからお義姉さんと呼ぶことになる人だ、が兄さんの子供を妊娠したらしい。兄さんの声は妙に浮かれていて、このままその人と結婚すること、翌日にでも相手を紹介したいことを伝えて、一方的に切られてしまった。僕たちが不幸だったのは、電話を受けた母が文化祭準備で忙しかった深雪と僕に気を遣って言わなかったことで下手なサプライズとなってしまったことだ。
文化祭が翌日に迫って最後の準備が終わってから、残暑の残る夕暮れ時を二人で帰ってきた僕らは玄関に見知らぬ女物の靴があるのを怪訝に思いながらリビングに顔を出すと兄さんと女の人が優しそうな顔でこちらを見ていた。
「ただいまー。兄さん来てたんだ」

「ただいま。純さん久し振り!…誰なの、その人?」

最愛の人の横に座る女性に明らかな敵意を向ける深雪。その心の内を知らない兄はこの上なく幸せそうな顔でこの人、彼女は夏海さんという、との間に子供ができたこと。順序が逆になってしまったが今年中に籍を入れたいことを話してくれた。

「深雪ちゃん、純くん、君たちのこと透さんから話を聞いています。突然のことで困惑すると思うけど、伊藤夏海といいます。よろしくね」

その時の深雪の顔を僕は今でも鮮明に思い出すことができる。

「…よろしくお願いします。透さん、おめでとう!…」

そう言って彼女は誰にも顔を合わせないまま出ていった。兄も夏海さんも、母でさえも気付かなかったが、隣にいた僕には義姉が体を強張らせ、両手を握り締め、低い声で呟いたことに気付いた。「そこは私の…」
居場所なのに、口の動きが彼女の途切れた言葉を、そう結んでいた。


「はぁ、どうしたのかな私。少ししゃべりすぎた」

その声に意識を引き戻された。気が付けば義姉はベッドに僕から背を向けて横になっていた。長年の付き合いで彼女がこれ以上話しかけて欲しくないということが分かったので、一つため息をついてベッドから立ち上がった。ついでにいつの間にか床に落ちていた彼女の大切な写真を机の上にそっと置いてから、部屋を出る。ドアに手を掛けながら義姉の方を流し目に見たが、彼女はそのままの姿勢で微動だにしていなかった。最後に深雪に一言

「僕も目を覚ませなんて言いすぎたよ。辛くなったらまた話聞くから。だからもうこんなこと、自分を傷つけようとはしないで。お願い」

返事はしなかったが彼女はビクッと震えた。そして…

「なんでそんなに優しいかな。私、あんたを好きになればよかったのに」

今度は僕が何も言わず、彼女の部屋を後にした。自分の部屋に入った後、ベッドに倒れ込むと枕に顔をうずめた、氷固まったはずの僕の心はいつの間にか溶けていて、それと一緒に大粒の涙が止め処なく零れ落ちてきた。涙を流し、長年避け続けてきた悔しいという気持ちを感じて、初めて僕は、ああフラれたんだと実感した。鼻孔には彼女の甘い匂いが残っていた。

8話

僕と話した次の日から一週間、深雪は学校に来なくなっていた。どこで何をしているのか、僕の説得の甲斐もなく彼女の帰りは依然として非常に遅い。月曜日に学校に行くとクラスでも深雪が学校に来なくなったことはちょっとしたニュースになっていた。例の女子グループには義姉が何をしているのか散々、それこそ耳に胼胝ができるんじゃないかと本気で心配してしまうほどに聞かれたが、僕は知らないの一点張りを続けた。これ以上深雪が彼女たちの興味を引くおもちゃになっているのが嫌だったし、そもそも僕自身が本当に彼女がどこで何しているのか分からないからだ。そんな折に

「なあなあ。俺、山本さん見たかもしれないんだけど」

昼食を取っている僕の背中に、そう言ってきたのは後ろの席の中村、以前義姉のことを聞いてきた友人だ。バッと振り返って友人の肩を掴むと前後に激しく揺すぶった。

「どこで!どこで山本さんを見たの?!」

「ど、どうしたんだよ」

「お願い、教えて!」

そこまで言ってハッとなり、周りを見回すと周囲のクラスメイトのびっくりしたような視線たちにぶつかった。いけない。自分が思っている以上に焦ってしまっているようだ。あははと照れ笑いを周りに振り撒いてから、僕は中村を廊下に引っ張って行って話を聞いた。

「山本さんを見たって本当?」

「あぁ、見間違いじゃなかったら俺部活の帰りに、山本さんが近くの小さい公園のベンチで女の人と話しているの見たぜ」

「中央公園で女の人と?」

てっきりまた、見知らぬ人と仲良く歩いているところを発見されたんじゃないかと思っていた僕は、彼女がすぐ近くにいることを知って驚いた。その驚きは中村に知られないように、平然とした声で続きを促した。

「そ、30歳くらいかな~、優しそうな人だったよ」

深雪の知り合いの、年上の女の人?母さんのことだろうか。

「深雪が、山本さんが何しゃべっていたか聞いた?」

「さすがにそこまでは、でもなんか、渋々とはいえ結構話し込んでいた印象あったなあ」

僕の友人は思い出そうと目を瞑っていたが、おもむろに目を開いてこちらを見ると

「ところでお前って山本さんのこと深雪、って呼んでんだな」

「え?まあうん。一応姉弟だし」

「いや、そうじゃなくてだな」

「ん?」

いつものおちゃらけた顔を少し真面目そうにして彼は僕の方に向き直ると

「俺、お前に恋愛協力してもらうのやめたわ」

「え?何を藪から棒に。今言うことなの?」

「あぁ、今言わなきゃならねえ。最近の山本見てて疑ってたけど、今確信したぜ」

「??」

「お前も、山本さんのこと好きなんだよな」

「いや、僕は」

「今日から俺たちはライバルだ!絶対に負けねえからな」

どっちが勝っても恨みっこなしだからなー!と叫んで廊下を走って行ってしまった。

「一体なんなんだよ。僕、フラれたばっかりなんだけど…」

自分の言葉にチクりとした鈍い胸の痛みを覚えながらも走っていく背中に向かって呟いた。涙が零れ落ちそうになったので慌てて袖で顔を拭って教室に戻った。


放課後、部活が終わって帰宅ついでに寄り道をした。行き先はもちろん昼間中村が言っていた。深雪のいたという公園だ。公園は駅前商店街の一、二ブロック外れの、学校と駅の丁度真ん中付近にぽつんと位置する小さなもので、あるのはブランコと滑り台、大人二人がかろうじて座れるほどの大きさの木製のベンチだけだ。家に帰るには少し遠回りになるが、それもまあ仕方なしと思う。歩道のない道路脇をのんびりと歩きながら、小学生のころを思い出した。あの頃も習い事でこの街まで来ていたっけ。確か図書館近くにあった…

「あれ?もしかして純君?」

「え?」

普段ここまで入ってこないため、無意識に店の看板を眺めて目線が上に上がっていた僕に、女の人が向かい側から声をかけてきた。僕がその人を見ると、

「やっぱり純君だー。大きくなったねえ、かっこよくなったねえ」

久し振りと右手を振る女性は優しそうで深雪とは違う可愛らしい顔つきをしていた。彼女は僕を知っているらしかったが、僕の方は何処かで会ったような感覚はあるものの、一体誰なのかまるで分からなかったので、困惑した声が出てしまった。

「えーと…こんばん、は?」

「あー、もしかして私のこと忘れちゃった?」

「すみません」

「ピアノ教えてた高橋だよ。ほら、小学校の頃にお姉さんと一緒に」

「あっ!」

ピアノの高橋先生、その言葉で小学校の頃を思い出した。あの頃より少し歳をとったことを感じさせるものの、あの頃と変わらない満面の笑顔で先生は僕を見つめた。

「良かったら少しお話しない?久しぶりに」

僕は少し考えてから

「分かりました」

そう言って僕は少し小柄なかつての恩師の後に続いて歩き出した

9話

「それでピアノはまだやってるの?」

「いえ、あれ以来特には…」

小学生の頃に習っていたピアノは卒業と共に止めてしまった。深雪と同じ事がしたくて始めたが、経験の差は大きく目的も見失ったため、中学に入ってからは途端にやる気を無くしてしまったからだ。

「ふーん、そっかぁ」

少し残念そうな顔をしている先生を見ると、何だか申し訳ない気持ちになった。義姉と同じことをして仲良くなりたかったあの頃の僕は、発表会の後に聞きに来てくれた義兄に褒められ花の咲いたように笑う彼女の顔を見て、ピアノを続けていくモチベーションが急速に冷え切ってしまったのだ。

何かを察した顔をした先生はやがて、いたずらっぽい目を浮かべると話題を切り替えた。

「それでそれで、純くんは深雪の事がまだ大ー好きなのかな?」

「へ?な何をいきなり」

「おっとその反応は図星だな、一途なやつめ~」

よしよしと子供をあやす感覚で僕の頭を撫でる。そういえばこの人はこういう人だった。他人の幼い恋心に敏感で、僕の片想いに再三(余計な)アドバイスをしてくれた。

「っていうか、よく覚えていますよね。四、五年くらい前の一生徒の、いや二生徒のことなんて」

「ふっふっ、教え子を忘れる先生なんていないよ」
「ところで」

先生は言葉を切って真面目な声色になる。不思議に思って先生を 見るとどこか慎重に、言葉を選んでいるようだ。

「深雪に、何かあったの?」

「え?」

「あの子、変わったというか。何かに傷ついてそうな、悲しそうな顔してたから」

「会ったんですか?深雪に!深雪は何処にいるんですか?!」

突然立ち上がって興奮した僕をなだめるように、いつにも増してのんびりとした声で

「まぁまぁ落ち着いて。最近よく来るんだウチの教室。君たちが学校に行ってるような時間に来ては、夜遅くにふらりと帰っていくのよね。昨日は夜の遅い時間までここで一緒に話してたけど」

中村の言っていた深雪の話し相手は高橋先生だったのだと気付いた。

「深雪はどんな話を?」

「んー。最近何してるの~とか、純くんは元気~とか、そんなことを。あの子聴いたことには答えてくれるんだけど、心ここにあらずって感じで。失恋でもしちゃったのかな~」

僕は突然、この人になら深雪がなぜ変わってしまったのか、話そうとしたくなった。家族とは少し離れた距離で、僕たちより大人の立場から僕たちを見守ってくれていた。そんな先生に、僕は家族には言えないような相談をしたことも一度や二度ではない。聴いたことはないが深雪も恐らく同じだろう。

「別に言わなくてもいいんだよ?」

僕の気持ちを読んだかのように先生は顔を斜めに向けて僕を覗きこんできた。

「あいかわらず、僕の心を読むのはやめてください。でも言わせてください。最近の深雪は」

そう言って今まで誰にも言わなかった深雪の話をした。長年想い続けていた兄に子供ができたこと。それから彼女は髪を染め、学校は休みがちになっていったこと。街で見知らぬ男とホテルに入っていったことを。酷いことは言わないように言葉を選び、つっかえながら話す僕の言葉を、先生は最後まで目を見て聞いてくれた。最後まで聞いて、ため息を一つついてから。

「そっか。…そうだったんだ。フラれちゃったかぁ…。あの子も、君も」

「僕はいいんです。ずっと前から分かっていたことだし。深雪の力になりたいんです。でも、どうすればいいか」

「うーん。できることは…無いんじゃないかなぁ」

「え?」

「心の傷は誰かが助けて癒すってことは本当の意味ではできないよ。自分自身がその痛みに耐えなきゃいけないからね」

「…」

「痛みを忘れてしまうのと、痛みに傷ついて傷ついてそれに慣れてしまうのはどちらがいいのかな?」

「それは、僕にはわかりません」

「うん。分からないよね。私もそう、他人がどう頑張ろうとあの子の力になることはできなんじゃないかな。だから君はあの子が誰かを必要としたときに何時でも助けられるように傍にいておくんだよ」

「…はい。」

「頑張れよ、男の子!」

よし、と肩を叩いて先生は立ち上がった。

「寒くなって来たし、そろそろ帰ろうか。時間があればまたお話ししようね」

「はい、ありがとうございました。あと…今日のことは深雪には秘密でお願いします」

===

「今日のことは秘密でお願いします」

そう言って彼は控えめに頭を下げて駆け足で帰って行った。私の教え子は数年会わない内にいつの間にか大人になったと思う。以前なら私がお義姉さんのことで彼をからかえば顔を真っ赤にして怒っていた彼なのに、『深雪の力になりたい』だなんて。思わぬ教え子の成長にドキッとしてしまう。そして同時に未だに同じ、相手には気付かれていない、思いを秘めている彼をひどく不憫に思った。
私は公園を出ると歩いて10分ほどの距離にある自宅に戻った。自宅の二階からは相変わらずピアノの音が鳴り響いている。自宅の二階はピアノ教室となっているが、教室がとっくに終わっているのに演奏を続けているのは今さっき話していた彼の愛しい姉君だ。

「ただいま、まだ帰ってなかったのね」

「おかえりなさい先生。もう少しここにいさせて。もう行きたい場所も他にないし」

深雪ちゃんは部屋に入って来た私の方は見ないままに返事をした。顔は鍵盤の方に向かい、一心不乱に弾き続けている。弾いているのは《エリーゼのために》、私が教えていたころは曲調が悲しすぎるから嫌いと弾くのを嫌がっていたものだ。

「他にないって…、なら家に帰りなさいよ」

「家はやだ」

「どうして?純君心配してたよ?」

「純に会ったの?」

あ、秘密にしてくれって約束を早速破ってしまった。我ながら某餃子屋さんの床のごとくよく滑る口は困ったものだと思う。後で彼には謝らないと

「うん。さっき近くの公園で話したんだ」

「なんて?」

「さ、最近の学校での生活とかピアノやってるのかとか、そんな話をしただけだから」

「嘘。あいつ私の心配してたんでしょ?」

「う。」

この子なかなか鋭い。このまま隠し通そうとしてもどうせ聞かれるまで粘られるのがオチなのだから、もう話してしまっていいよね。純君、約束の守れない先生でごめんなさい。

「あなた、最近学校に行ってないのは知ってるけど、夜遅くまで遊んでるのは感心しないな」

「はぁ、またそれか」

「ウチならいつまで居てもいいから、夜で歩くのはやめなさい。危ないでしょ」

「む…」

「それじゃ、私は下にいるから。帰るときは一声かけてね」

「え…ちょっと待って!」

「何かしら」

「それだけ?もっと何か聞いたりしないの?」

「別に、何か聞いてほしいこととかある?」

「いや別にって…。あるでしょ私がその…フラれたこととか。あいつのことだからとっくに先生にしゃべってるでしょ」

思春期の少女が自分に苦い思いを、もどかしがりながらも伝えてくる。そんな必死な顔の前では言えなかったが、私は心の中で微笑んでいた。彼女も兄のことしか見えていないのではなく、ちゃんと弟のことを分かっているからだ。その気持ちを知る余裕は無かったのかもしれないが。

「うーん、どうかな」

「どうかなって…!」

「あなたより少し長く生きている私の経験から言えば、あなたの今抱いている気持ちはあなたにしかどうすることもできないからね。それにあなたを助けるのは私じゃない、もっと身近にいるんだと思うよ」

「身近?」

それじゃ、と言ってぼんやりしている深雪ちゃんを置いて、私は今度こそ部屋から出た。

10話

一日置いて、水曜日。少し早めに終わる学校を飛び出して例のピアノ教室に向かうと、僕と入れ違いに小学生の子供たちが出てきた。このピアノ教室への道中、無意識にかつて通っていたころのことを考えていた僕は、まるで記憶から切り取って来たようにあの頃の僕たちとそっくりな彼らを見てビクッとしてしまう。そして子供たちの後に出てきた人物には見覚えがあった。

「気を付けて帰りなさい」

「はーい。深雪先生ありがとうございました!」

「深雪…」

「純。よくここにいるのが分かったわね」

「それは…」

先生に深雪のことを聞いたとは話しづらくて、言い淀んでいると

「それも先生に聞いたの?」

「ただいまー。悪かったわね深雪。子供たち任せちゃって…って純くん?」

僕のじっとりとした目に気付き、先生はしどろもどろになって言い訳した。

「いや、あれはね。タイミングが悪かったっていうか、深雪の察しが良すぎて私が何も言っていないのに気付いたって言うか。別に私が言った訳じゃないのよ。ね?信じてくれるよね?」

「…」

僕のじっとりした視線に耐えかねてか、自分を納得させるようにうんうん頷きながら独り言ちている。そんな先生に構わず、深雪は僕の手をとって教室へと向かった。

先生の家の二階に上がると内装は昔と変わらず、時間が巻き戻ったような不思議な気持ちになった。深雪は手前にあったピアノの前に座るとおもむろに演奏し始めた。僕が初めて習った《きらきら星》だ。

「先生が秘密を守ってくれるはずないでしょ」

「う…、そうだった」

子供の頃、先生と秘密の話をして、他の誰にも言わない先生と自分だけの秘密、という約束をしたつきの日には母親がその話をしていたこともあった。口の軽い先生だと深雪の言葉と共に思い出した。

「私もたまたま先生に会ったんだ、この前の日曜日に。それでそのまま話をして、アルバイトすることにしたんだ」

「ふーん、で…学校はどうするの?」

僕のどうしようもなく幼稚な質問に、深雪は苦笑して、久しぶりに彼女の笑った顔を見た、僕の方を振り返った

「普通そんな質問する?面倒くさいから行ってません。…行っても面白がられたり妙な心配されるだけだしね。これで満足?」

「う、うん。ありがと」

「懐かしいよね、ここ。あんたと一緒に通ってたの覚えてる?」

「うん。うっすらとだけど」

うっすらとなんて嘘だ。僕はピアノ教室で一緒に練習したこと、彼女のきれいな演奏をはっきりと覚えているからこそ、またここに来たのだ。

「ピアノを弾いてるとね、辛いこと悲しいこと全部忘れられるんだ」

「そう…」

「あんただけじゃない、みんなに迷惑かけているのは分かってるの。でも…ごめん。もう少し、もう少しだけだから、待っていてほしいの」

僕が無言で頷いたのを確認して再びピアノの方に向き直って演奏に没入した。彼女が今何を考えているのか、それを少し分かったような気になりながら、僕は義姉の横に立って聞いていた。

その晩、僕は何年ぶりだろう深雪と共に電車に乗って帰宅した。

「夜道は危ないよ。純くん、深雪をしっかり守ってあげなよ?」

「まったく、先生はあたしらをいくつだと思っているの?」

先生と深雪のわいのわいのの口喧嘩を聞きながら、僕は少し安堵していた。彼女がこの一週間得たいの知れない場所ではなく、僕の知っている場所にいたからだ。

「それじゃ深雪、純くん。また何時でもいらっしゃい」

駅までの道すがら学校の勉強や部活など適当な話をしながらゆっくりと歩く。二人で改札を抜け、ホームに滑り込んできた電車に乗ると帰宅ラッシュの山場は過ぎたのかポツポツと空いている席があった。二人分開いている席を見つけて座ると、彼女は僕の肩に頭を乗せてきた。眠かったのか、そのまま僕は無言で向かい側の窓を眺める。窓には妙に緊張した顔が僕を見つめていた。早鐘のように打っている僕の心臓の鼓動が聞こえやしないか心配しながら、彼女を起こさないようにゆっくりと、僕は背もたれに体を預けた。

11話

週末前の最後の労働日、金曜日。僕は何時もより少し遅い時間に帰ってきた。もう11月も目前に迫っていて、6時には夜と言えるほどに日は短くなり、夜の暗さが辺りを覆っている。季節でいえばもうすっかり冬で、吐き出したため息は白い煙を作った。なぜこんな時間に帰ることになったかといえば、密かに近づく受験が少しずつ現実味を帯びてきて、先生たちの勉強への熱意も夏休みまでのそれとは明らかに異なっているからだ。放課後の補習が週に一度始まり、僕はあくびを噛み殺しながら時間外労働を乗りきったのだ。

ただいま、 と荷物を持ったままリビングに向かうと、いつぶりだろうか母親がの向かい側には深雪が座っていて、二人で食卓を囲んでいた。

「お帰り、ご飯できてるから、はやく来なさい」

「うん」

「…お帰り」

僕が見ていることに気付いたのか、箸を止めて僕を迎えた。

「うん、ただいま」

それから僕は慌てて自分の荷物を自分の部屋に放り込んでから、制服を着替えることもなく、再びリビングに入ってから自分の席についた。食卓に会話は無かったが、事務的に食事をこなす義姉とは違い、僕と母さんはそわそわして、いつもの夕食にはない緊張感があった。そしてそれは同時に安心感でもあった。
夕食が終わって風呂も入ったあと、僕は衣替えをして厚手になった部屋着を着て机に向かうが、今日出された宿題にはまるで手が付かなかった。

「ピアノを弾いてるとね、辛いこと悲しいこと全部忘れられるんだ」
「もう少しだけ、待ってて」

深雪の言葉が頭の中で反芻する。一ヶ月にも及ぶ猶予を経て、義姉は何か変わったのだろうか。それとも

こんこん…

その時、僕の部屋を軽くノックする音が聞こえた。どうぞという言葉も聞かぬまま開かれた扉の先にいたのは彼女だった。

「深雪…?」

「今、いい?」

「大丈夫だけど」

部屋に入ってきた深雪は厚手の上着を着て、背中に大きめのリュックサックを背負っていた。彼女が学校に持っていっていたものより幾分か大きいものだ。そして多分それは…

「その荷物、どうしたの?」

「透さんのくれたリュックサック、思い出がつまってるんだ」

噛み合ってない会話の元を正すように僕はもう一度聞く。

「それで、僕は何をすればいいの?」

「何もしなくていい。ただ、一緒に来て」

そう言って彼女は僕の前まで来て、僕の手を引っ張った。彼女の外行きの格好を見て、外出すると気付いた僕は慌てて部屋のすみに投げたままになっていたコートを掴んで、彼女の後に続いた。家を出ると冷たい風が容赦なく肌にぶつかってきて慌てて上着を着る。義姉はそんな僕を待ってからずんずんと歩き出した。

「深雪、ところで僕たちどこに行くの?」

僕の疑問が聞こえなかったのか、聞いていて無視したのか、どちらにしてもそれに答えず僕の手をとってただひたすらに歩き続けた。

家を出てから無言で歩き続けた深雪が、ついに足を止めたのは既に11時を過ぎた町にあって唯一人通りが未だあって明るい場所、即ち最寄りの駅前だ。

「あんた、お金持ってるよね?」

「一応、それなりには。深雪、一体どこに行くの?もしかして電車で行くような場所なの?」

こんな夜遅くだと終電でも帰れないんじゃないのと言おうとして、深雪に遮られた。

「海にいく。今から」

「今から?」

「あんたに、純に一緒に来てほしい」

今から海に行けば終電の時間的に絶対に帰ってくることはできないだろう。それでも僕は静かに頷いた。

「分かったよ。君についてく」

そういうと泣き出しそうな笑顔を浮かべながらありがとうと呟いて再び義姉歩き出した。


===

電車を降りると潮の香りが私たちを包み込んだ。湿った海風は私と義弟の体をなで、少しだけ汗ばんでくる。住宅の集まる地域を抜けてからはまるで専用車のように私と義弟しかいない電車の端の席に座って一時間近く電車に揺られて、ついに終電の海沿いの駅に到着した。真面目な義弟がわがままに付き合ってこんなところにまで来てくれたのは意外に思ったが、自分一人でここまで来る勇気は無かったので感謝する。

「深雪、それでここで何をするの?」

「こっち」

義弟の手を引いて無人の改札を出ると、一直線に海水浴場へと向かう。自分がどこに向かうのかも分かっていないが文句一つ言わずに着いてきてくれる彼の手を引っ張っていると、子供の頃を思い出す。私が透さんに夢中になっている後ろを私の手を握って必死について行こうとする義弟。あの頃は邪魔者としか思っていなかった男の子は今でも変わらず私についてきてくれて、なぜだか涙が出そうになる。
しばらく速いペースで歩いてから駅前の通りを過ぎてペースを落としてゆっくりと手を離した。つないだ手が名残惜しく感じてしまうのがなんだか申し訳なく思う。駅から海までの道は静まり返っていて、既に遠くから波の音が聞こえてきていた。見上げれば澄んだ空に点々と輝く星。満天の、とは言えないが私たちの町より空が暗いため、ずっとたくさんの星が見えた。横を見れば同じ速さで少し後ろを歩く義弟も星を見上げている。

「星、きれいだね」

彼は呟くように言った。

「うん、きれい」

それ以上の会話は無い。二人とも黙って波の音の方へと歩いていく。やがて道路はアスファルトから柔らかい白砂へと変わり、踏みしめるとしゃりしゃりと音がするようになった。私は意を決して、ようやくここへ来た目的を話した。

「透さん…ううん、義兄さんのこと忘れることにした」

「え?」

「義兄さんへの片思いを終わらせる、そのためにここに来た」

「終わらせる…?」

「そう。私の初恋は今日で終わりにする。だからお願い、手伝って」

そう言いながら私は苦笑する、こんな言い方をすれば優しい義弟は間違いなく助けてくれる。自分の足で立つと決めたのに、結局誰かに助けてもらわなければ立ち上がれないのか。

「分かった。手伝うよ。それで何をすればいい?」

「できるだけたくさん枯れ木を集めて欲しいな。大きな火が付くような」

「うん。待ってて」

私と純は手分けして枯れ枝を集めた。幸い近くに雑木林があったので、10分もかからずに、ちょっとしたキャンプファイアーの薪のように何層も組み上げることができた。即席のたきぎに私は持ってきたライターで火をつける。カシュッカシュッと二回ほどこすって灯った火を木に近づけると、やがて煙を上げて煌々と夜の空を赤く染め上げ始めた。

「それじゃ、始めるよ」

私は持ってきたリュックサック、義兄さんから貰った大切なものだ、を逆さにして中に入れていたものをぶちまける。

「これは…?」

中から出てきたものは本やアクセサリー、小さいぬいぐるみ、キーホルダー…。

「全部義兄さんから貰ったんだ。これを全部…燃やす」

「いいの?全部大切なものなんじゃ…」

「今の私には大切もの。だから、全部捨てるの…」

そう言いながら私は足元にあった本、初めて出会った日に自分が昔読んでいたからと言って私にくれた児童書を掴むと火力が少し強くなった焚火の中に放り投げた。大切な児童書は投げ込んだ直後は火を小さくさせたが、やがて外側から黒く炭化して燃えていく。天に昇る煙はまるで動揺しているかのようにゆらゆらと落ち着きなく揺れていた。私は次にアクセサリーを掴む。

「お願い、純も手伝って…」

「うん。いいんだね…」

最後通牒のように私の顔を覗き込む義弟に一つ頷くと、彼も足元に転がっていた小さなアルバム、確かあれは夏祭りの写真があったはずだ、それを掴んだ。そしてためらいがちに私の思い出の品を眺めた後、意を決したように炎の中に放り込んだ。
そのまま私たちは義兄さんとの思い出の一つ一つを炎の中に投げ込んでいき、文字通り昇華させた。途中から不思議と気分が高揚してきて、私と同じく真っ赤に染まった顔をした弟と共に二人で笑いながら焚火の周りを跳ね回った。

「あははは!」

「ふふ、ははは!」

私をぼろぼろと、大量の涙を流しながら、それでも大声で笑って自分の想いの証拠を次々に燃やしていく。静かな海水浴場には私たち二人だけの声が響いている。寒いはずなのに、炎の温かさかはたまた気分が高揚して火照っているのか分からないが、真夜中の初冬の海辺はなぜだかとても暑かった。

最後に私と義兄さんの二人で撮った、私が一番大切にしている写真を、大量の燃料が投下されいよいよ燃え上がった炎の中に投げ入れた。あれほど大事にしていた物が瞬きもしない間に燃え尽きてしまった。私は大切なものを燃やした煙を追って、そして零れ落ちる涙を止めようとして蒼い空を見上げた。煙は私の目にも入ってしまったようで上を向いても一向に涙が止まらなかった。

全てを燃やしてからも炎のそばで並んで座っていると、ようやく焚火は下火になり、やがて消えた。消えてからも暫く座ったまま二人で焚火の後を黙って眺めていた。

「終わったね」

私は燃え残った灰が海からの風に流されていくのを見ながらつぶやいた。

「うん」

「私、義兄さんのこと好きだったんだ」

ボロボロに泣いて、自分の全てをさらけ出した相手には不思議と思っていることを口に出すことができた。義弟は思うところはあるだろうが、ただただ相槌を打って話を聞いてくれている。

「うん」

「本当に好きだったんだ」

「うん」

「夏海さんのことすごく嫌い。あの人が憎い…」

「うん」

「涙、止まんないや…」

そう言って私は義弟の肩に頭を預けた。彼は何も言わずにただ、背中を撫でてくれた。優しい手に余計切なくなってしまう。

「肩、貸してくれてありがとう」

「うん」

「もう少し、このままで…」



しばらく泣いてから、やっと落ち着いて、肩に頭を乗せたまま私たちは海と星を眺める、涙で潤んだ目には幻想的で自分が絵画の世界に入り込んでしまったかのような錯覚を覚えた。それからよいしょと立ち上がると私は焚火の近くに寄って灰を集めだした。

「深雪?何しているの?」

「これで最後」

「あ…」

そう言って集まった灰を持ってきたリュックサックに入れて、おもむろにリュックサックを海に投げた。何回か波に揺られ砂浜を行ったり来たりした後、ひときわ大きな波にさらわれて沖へと流れて行った。これではもう取ってくることはできないだろう。

「これでおしまい。ありがとね、付き合ってくれて」

「いいよ、深雪の頼みだから」

少し眠そうな目になりながら同い年の義弟は優しい声をかけてくれた。そんな優しさが嬉しくてふと呟いてしまった。

「純はまだ、私のことを好きでいてくれているの?」

「うぇ!?なな…」

「前にも言ったけど。私、純となら付き合ってもいいよ」

純はしばらく考えた後、ゆっくりと首を横に振った。その顔は夜の暗闇の中でも分かるほどに紅潮していた。

「ごめん。深雪のことはずっと、たぶんこれからも好きだけど、今は付き合うことはできないかな」

「そっか…。うん、そうだね」

「いつか深雪がまた歩き出すことができたらその時は…。それまで待ってるから」

「ふふ、私、歩くの遅いよ?」

「大丈夫だよ。君の速さでいい。これからも僕は一緒に進んでいくから。ゆっくりと、歩くような速さで」

歩くような速さで

特別なことは何もなくてもかけがえのない日々の中で、少しづつ人は成長している、そういうことを考えて書きました。

歩くような速さで

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-21

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