奴隷の娘

-1-

彼女はほとんど物を喋らない子だった。
もしかすると喋ることさえできないのかも知れない、そう思わせるぐらい寡黙だった。
喋ることができることは知っている。たった一度だけ、初めて彼女に食事を出したときに、
良いのですか? と、ありがとう、と、その二言だけ喋ったのだから。
それ以降は食事を与えても、その他のプレゼントを与えても、やはりなにも喋らなくなった。
彼女は私の奴隷である。といっても名目上は奴隷であるだけで、
ほぼ養子のような付き合いといえるだろうか。
普段だと私は奴隷を買うことはおろか、存在さえも忌避しているが、
彼女は少し事情があった。私の友人が若くして死に、その娘が奴隷として売られたと聞き、
なんとか探し当てたという経緯がある。彼女を探すのに、三年ほどかかってしまった。
その間、彼女は別の男の元にいたのだという。私はその男から、
大金を払って彼女を譲り受けた。その時は今よりも、もっと酷い表情をしていた。
なにをされていたのか、想像に難しくはない。

彼女の部屋は二階にあり、私の部屋からは一部屋分だけ離している。
彼女を迎えて今日で一週間になるだろうか。この家にいる間は自由にして良い、
そう言っても彼女は私の部屋と、一階のリビングルームを掃除し始めてしまう。
もちろん、掃除をしてくれる分には構わない。構わないが……。

階段を下りる途中で、いつものように彼女が部屋を掃除している姿が見えた。
自由にして良い、その意味を履き違えているのではないかと不安になる。
けれども、止める理由はない。
実際、前の女が出て行ってからはほぼ掃除していなかったのだから。
散らかり放題で、汚れ放題なのである。実際、掃除をしてくれるのはありがたい。

「おはよう」

木製の簡単な造りをした手すり越しに、彼女に声を掛ける。
まるで浮いているかのような金の髪。この家にやってきた直後は荒れていたが、
手入れをしていると徐々に本来の美しさを取り戻していったように思える。

「……」

彼女は私を見て、ホウキを動かしていた手を止め、ほんのわずかにだけ会釈をした。

「掃除かい、助かるよ」

本当は、落ち着くまで、慣れるまではゆっくりと過ごしていて欲しかった。
少なくとも、私と会話ができるぐらいまで慣れてから、掃除などを頼みたかった。
しかし、恐らくは前の主人から強制されていたのだろう、
その癖が抜け切らず、最初は素手でゴミを拾い、窓を拭いていたから、
しかたなく掃除道具を貸し与えた。するなと言っても無駄だった。

「この家には慣れたかい?」

彼女の首は動かない。大きな翡翠の瞳は私をじっと見て、動かない。
いちおう、しばらくの間は彼女の声を待つ。一分ぐらい、頭の中で数える。
やはり今日も彼女の言葉は返ってこなかった。もうしばらく、かかりそうだった。

「今日は出かけるから、君は家の中でくつろいでくれて良いからね」

とはいうものの、彼女がくつろぐとは思えない。
むしろ、掃除の手を止めないのではないだろうか。それ以外にも、色々と目は離せない。

「掃除や……その他の作業はしてはいけないよ、今日はくつろぎなさい」

だから、命令することにした。まだ奴隷の時の感覚でいるのだろう。
私が彼女の父の友人であることは明かしたが……それほど、効果はなかったようだ。
本来ならば命令はしたくなかった。だが、こうでも言わなければ休まないように思えた。

「……」

彼女はなにも言わず、しかし不思議そうに一度は首を捻り、そしてわずかに肯いた。
私にも仕事がある。この一週間は事情を説明して休みを貰えたが、今日はそうはいかない。
私がいなくてもあの公文書館は機能するが……私も食い扶持を稼がなければならないのだ。
幸い、彼女を養えるぐらいの稼ぎはある。彼女の父からも、ある程度の金は渡されていた。

-2-

公文書館での仕事はあまり楽しいものではない。机の前に座り、大量の書類を処理し、
必要があれば保存されている文書を探し出し、必要なページを手で写す。
ただひたすら、毎日がその繰り返しでありしかもその字を崩すことは許されず、
誰にでも見ることのできる文字であることが求められるため、一つの書類に時間がかかる。
幸いに私は文字を書くことが好きであり、そして見やすい字を書くことができるため、
この仕事は合っている……と、思っている。
その日はやはり、仕事が溜まっていた。なるべく早くに写さなければならないものが二件、
急ぎではないが今週中には終わらせる必要のあるものが一件。
そしてその一件は量が異常に多く、いくらか残業しなければ終わりそうにはない。

その部屋の中は、相変わらず煩雑に書類が転がっている小汚く小さな部屋だった。
三人が三つの机に座って、それで満席ぐらいの大きさであり、
そこが私ともう一人の男にあてがわれた作業場でもある。古紙の匂いが充満しており、
決して居心地が良いとはいえない。

「よう、久しぶりだな。生きていたか」

机に座りやらなければならないことを確認していると、同僚の男に声をかけられる。
気の良い男ではあるが、口は悪い。

「生きているさ」

笑って返す。

「女に逃げられたぐらいで自殺すると思うか?」

正確には、女を逃したというべきだろうか。彼女……友人の娘の所在を知り、
それをなんとしてでも救うために、前の女と別れることになった。
理由はいくつかあるが、その最大のものはその女が奴隷を嫌っているからだった。
私も嫌っている、その女も嫌っている。だから気が合ったのだろう、付き合っていたが……。
彼女が奴隷の身分であると聞き、私は奴隷を召し抱える決心をした。
だが奴隷を嫌っている女は、おそらくは嫌悪するだろう。だから、別れることにした。
彼女が奴隷の身分から抜け出すことができれば、謝りに行くつもりではある。
だが、許してくれるだろうか。
今もろくに説明はせず、ただ一緒に住むことはできないとだけ言って、突っぱねたのだから。

「死ぬと思ってたよ、あいつとは昔からだろう?」

そうだな、とだけ返しつつ最初の仕事に取り掛かる。
急ぎの仕事は、明日中には終わらせなければならない。今日は居残りだろうと思った。

 -----

仕事は思った以上に捗っていた。元より文字を書くのは好きだったし、
仕事も楽しくはないが苦ではなかったためか、どれほどの量でも嫌になることはない。
昼ごろまでには必要な書類のおおよそ三分の一程度まで写し終え、
昼休みに入る頃合いだった。そこで、一つの失敗に気づいた。
どうやら財布を忘れてしまったらしい、おそらくは家にあるのだろう。
大体の場所はわかっている。取りに帰ろうともしたが……この日は友人に頼ることにした。
その友人は、今は席を外している。立ち上がり、乱雑に書類が転がる部屋の中を見回し、
ため息を漏らす。どうしたものかと思い席に座ろうとすると、木戸がノックされた。
また例のごとく無駄な催促か、ともう一度だけため息を漏らす。

「開いてますよ」

鬱々とした口調でそう言うと扉が開き、一人の女性と……彼女がそこに立っていた。
その小さな手には、私のものと思わしき革製の財布が握られていた。

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衣服は、私が前に買い与えたものだ。女でそれに加えて子供の服装だなんて、
自分の着衣すらままならない私にとっては困難なものであり、
結局は店員さんに選んでもらったものである。だから、なんというかとても可愛らしい。
薄手で空色のコートには白色のラインの装飾が施され、膝まで彼女の体を隠す。
鳥を象ったという髪飾りもそのときに一緒に購入、と言うか店員から貰ったものである。
白を基調に黒で枠組みを作られている羽ばたく鳥が、彼女の金の髪を彩っていた。

「あ、あの……」

たどたどしく口を開く。髪は、少し乱れていた。今日は風が強いから、だろうか。
しかしそれ以降は、何か言おうと口を開くが何も言えないようで、
言葉が止まってしまう。辛抱強く待つつもりではあったが……ついに我慢できなかった。

「財布、かい?」

手に持っている私の財布を指差す。革製で、少し大きなものである。
しかし中身はそれほど入ってはいない。あまり持ち歩くタイプではないのだ。

「そ……う、です……」

彼女が財布を差し出す。それを受け取る際に、彼女の手に少しだけ触れた。
思った以上に冷えていた。花開く頃合いとは言え、まだ風は冷たい。
髪の乱れぐらいから察するに、おそらくは相当の時間を外でさ迷っていたのだろう。
私に財布を届けるために。

「助かるよ、ありがとう」

彼女の冷えた両手を包み込む。思えばこうして彼女と触れ合うのは、初めてだった。
だから気づくのが遅れてしまった。
あかぎれて、荒れている彼女の手は、それはそれは痛々しいものだった。

-3-

お昼は彼女と一緒にとることにした。最初こそ彼女は申し訳なさそうにしていたが、
並んで歩いていると次第にそんな様子も見られなくなる。
彼女のあまりにも小さな歩幅に合わせて歩く。
だからこそかなりゆっくりとした歩調になってしまったが、むしろその方が良かった。
思えばこうして彼女と並んで歩くことは、彼女を買って以来だったのだから。

彼女は少しうつむき、私の半歩後ろを歩いている。
少し首を捻れば、彼女を見る事が出来る。身長差があるとはいえ、
表情が見えないほどではない。
なんというか、複雑な顔をしていた。嬉しそうとも、悲しそうとも、楽しそうとも、
どれもが違う。きっと、初めてのことに困惑しているのだろう。そう思うことにした。

「何か食べたいものはあるかい?」

足を止め振り向き、尋ねる。彼女は顔を上げ、私を見た。翡翠の瞳が、私を貫く。
出る前に整えられた金の髪が、風に揺れている。
しかしそれ以上の行動はなく、言葉もなかった。口を開く素振りさえ見えない。
じれったくは思うが、慣れてきたというのが本音だった。
今は私が、色々と彼女を連れ回そう。きっとそれも彼女が望んでいるのだろう。

「それじゃあ、甘いものでも食べようか」

なんとなく甘いものが欲しかった、ただそれだけだった。

-----

そこは知り合いの女性が経営する喫茶店だった。
前につき合っていた女のかなり親しい友人であり、それを抜いても仲が良い。
しかし、あの女と別れてからは初めて利用する。
だがその時はほぼ気にはせず。ただ甘いものが欲しいだけだった。

「あら、いらっしゃーい!」

元気の良い声。自分で「取り得は元気の良さ!」と豪語するだけのことはある。
しかしその性格が、前の女と私にはとても好ましく思っていた。

「……へぇ」

彼女を見て、喫茶店の主はほくそ笑む。

「どうかしたか?」

その表情を浮かべた理由を尋ねると、主は目を細めた。

「泣いてたよ、あの子」

失敗したと思った。別の店に行くべきだったのかもしれない。少なくとも、今は。
せめて一人で来るべきだったのだろう。
その方が、きっとこの人とより詳しく説明できるのだから。

「悪いとは思ってるよ」

ただそうとだけ言って、彼女をカウンターの席に座らせる。私もその横に座った。
椅子は硬く、しかし私にとっては丁度良い高さをしている。
だから彼女にとっては少し高く感じるだろうか。
気になり、横に座った彼女の方へと顔を向けると、彼女は私を見つめていた。

「それで、何が欲しいのかな?」

主は彼女を見て尋ねる。彼女はその目を見つめ返し、しかし何も言わない。
どうやら私だけに対してではなく、全員に対して無口なのだろう。
少しだけホッとした。

「ああ、何か適当に甘いものを―――……」

そう言いかけると、主が眼だけで私を制した。

「……で、貴女は、何が欲しいのかなー?」

彼女に答えさせるつもりなのだろうか。彼女はその言葉を聞き、私の方を見た。
最初は助けを求められているのかと思った。けれども、どうやらそうではないらしい。
私を見るその目は困っているというより、むしろ尋ねかけるような、そんな感じだった。

「あっ、ああ……」

彼女の翡翠の瞳に見つめられ、歯切れも悪く出た言葉はそんな曖昧なものだった。

「ほらほら旦那さん? ちゃんと言わないとだめですゼ?」

茶化すような口調。主を見ると、何が楽しいのか笑っていた。
しかし、気のせいだろうか。彼女も笑っている気がする。
声には出さず、しかし目つきはさっきと明らかに違う。見せたことがない表情をしていた。

「好きに頼みなさい」

そう言うと彼女はカウンターに取りつけられている、木板に記されたメニューを指さした。
ホットケーキだった。

-1.5-

名前を教えたい。私の名前を知ってほしい。でも、まだそんな指示はない。
指示がなければしてはならない。してはならないことをすると、また酷いことをされる。
酷いことは痛いし、気持ち悪い。気持ち良くなんかない。
でも今のご主人さまは、前のご主人さまと比べてすごく優しい、と思う。
だから、お財布を届けようと思った。

掃除をしてはならない。そう指示されて、家の中に一人でいた。
くつろぎなさい。そう指示されたのだから、その指示通りに家の中を歩いて回った。
思えばこうして家の中を自由に歩き回るのも、久しぶりな気がする。
前のご主人さまの時は、あまり広くないお部屋を一つだけあてがわれ、
その中から出る事が許されず、ただ窓から外を眺めてばかりだったのだから。
たまに掃除をしろと言われて掃除をしたり、相手をしろと言われて相手をしたり、
ついて来いと言われてついて行ったり、そしてまた相手をしたり。

「……暇、だなぁ……」

しゃべることができないわけではない。でも、まだしゃべって良いとは言われていない。
だから、ご主人さまの前ではずっと黙っている。

「……掃除もしてはいけない、だなんて……」

水仕事は、得意ではないが嫌いではなかった。もともと綺麗好きだったし、
自分の手で綺麗になっていくのを見るのは好きだった。
それしか楽しみがなかった、だけなのかも知れない。前のご主人さまは……。

思い出さないでおこう。そう決めて、ひとり左右に首を振る。
そんな拍子に、それを見つけた。黒っぽい、かなり古ぼけた革のお財布。見覚えがある。
ご主人さまが大事にしているもの。とっても大事そうに、使っているもの。
届けなければ、そう思った。その時にはもう準備をしていた。

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ご主人さまが働いている場所は、知っている。
昨日の夜、なにかあれば来るようにって地図を渡されたのだから。
あまり詳しく書かれていない地図だけれど、この辺りの道は知っているから、
ご主人さまが働いているところまで行けるだろうって、思っていた。
少し前に、ご主人さまが買ってくれた衣服を身に包む。空の匂いがしそうな、青いコート。
これも着けなさいって言われたから、黒色の鳥の髪飾りで髪を飾る。
正直に言うと、あまり髪になにかを着けたくはない。
でも着けろって言われたから、着けている。外したいって、思っている。

家の外は風が強く、薄手のコートだけでは少し寒い。
でもこのぐらいしか着るものがない。まさか、ご主人さまの服を着るわけにもいかない。
だから我慢して、家の外に出る。振り向いて、鍵をしめる。少し歩いて、首をかしげる。

……大事なものを忘れていた。

踵を返して、鍵をあける。中に入って、あの財布が置いていた机を探す。
すぐに見つかった。私の両手で持っても少し大きく感じる、黒っぽい革の財布。
ところどころ痛んでいて、でも大事に使われているみたいで、
何か所も補修されたあとを見つける事ができる。早く届けないと。困っているだろうから。

鍵をかける。両手でその財布を持って、街の中へと歩みだす。
昔はこの辺りを良く歩いたものだった。ご主人さまとも、よく遊んだものだった。
また遊べるだろうか。そう思いつつ、町は風に揺れていた。

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その場所は簡単に見つける事ができた。けれども風が強くて、髪が乱れてしまった。
整えるべきだろうか。赤レンガで造られた大きな建物の前で立ち止まり、少し考える。
でも、ご主人さまはきっと困っているだろうから、急いで届ける事にした。
建物の中に入る。人の数は少なく、静かなものだった。
公文書館と呼ばれる建物らしい。昨日、ご主人さまが説明してくれた。
どんな建物なのか、興味があった。そして実際に目をして、正直に言うと少しだけ、
楽しくなった。大量の本が、ガラス窓の向こうに並んでいた。

-4-

「彼は帰ったよー!」

上階に向けて声を張り上げる。そうすると、んー、と唸り声だけが返ってきた。
何を隠そうか、上の階にはあの男の前の彼女が住んでいる。
住んでいるというか、居候しているというか。
あの男に家を追い出されてからは、あたしの家に身を寄せる事にしたらしい。
もちろんあたしもそれを許した、というか男から頼まれていた。
なんというか、あいつらしい気配りの良さだと思う。
かといって放りだすのはどうかと思うが、説明できないだけの理由があるのだろう。
理解はしてあげている。

ホットケーキを食べきった少女は、何をするでもなく椅子に座り、あたしの方を見ている。
きっと、あたしの指示に従うように言われたから、指示を待っているのだろう。
元は奴隷だというし、今も身分上は奴隷らしいのだから。

「何か欲しいものはあるー?」

上階に向けて、また声を張り上げる。しかし帰ってくるのは、んー、といううめき声だけ。
寝ているのだろうか。それとも呆けているのだろうか。

「いちたすいちはー?」

んー。それ以外の言葉はない。

「だいすきだよー?」

なんて言うとようやく、バタン、と何かが倒れる音がした。それからしばらくもなく、
少しの足音と扉が開く音が聞こえた。どうやら、あの子が部屋から出たらしい。

「だからそーゆー冗談はやめてってば!」

冗談ではないんだけれどな、って苦く笑いながらその子が下りてくるのを待つ。
今はあたしのお店の手伝いをしてもらっている。
手伝いと言っても、あまり料理のできるような子ではないからお掃除が主だけれど。
そもそも手伝わなくて良いって言っているのに、何か手伝わせて、とうるさいのだから。
あたしも仕方なく、けれどもとても助かっている。
何気なく首を向けると、少女は相変わらず私を見ていた。
会わせて大丈夫だろうか。少しの不安はあるものの、優しいから大丈夫、と確信はあった。

「もー……もう少し寝かせてくれても――――……」

言いかけた言葉が、少女を目にして途切れる。
騒ぐだろうか、それとも怒るだろうか。そう思いつつも、安心して二人を見ていられた。
その子も、思った以上に落ち着いた表情で、少しの笑みさえも浮かべながら、
少女を見ていた。

-----

「名前は?」

その子、テアが尋ねる。この少女のために男から追い出され、
あたしの家に居候をしている可哀そうなテア。

「……」

少女を首を少し捻り、あたしの方を見た。

「名前を言いなさい?」

その口調は、まるで奴隷に指示するように。
今までの様子から、まだ奴隷ではないことに慣れてはいないだろうように思えた。
だから、命令することにした。その方が、きっと動きやすいだろうから。

「アーラ」

少女が名乗る。

「そう、アーラって言うんだね、貴女は」

テアがその名を口にした。少し複雑な表情は、あいつを思い出しているからだろうか。
もしくは、アーラを見て何か考えているのだろうか。
でも不穏さはない。テアは優しく、それにあいつのことも理解しているのだから。

「ねぇ、リー」

リーとはあたしのあだ名である。いつもそう呼ぶなと言っているが、一向に聞く気が無い。
だからその名で呼ばれたら無視をすることにしている。
今回も無視をするつもりだったが。

「覚えていてね、こいつの名前はリーだから」

勝手に紹介された。

「待って待って、リーじゃなくってリリム。良い? リーじゃないからね? 良い?」

念を込めて、リーではないことを強調する。テアはそんなあたしを見て笑い、
アーラはやはり首をひねるばかり。
そんなアーラを見て、テアも首を捻り、ため息を漏らした。

「……まだ、奴隷気分でいるの?」

きっとテアも、うっかり口を滑らせてしまっただけなのだろう。
その言葉を聞いたアーラはうつむき、言った本人であるテアは、
しばらくして表情を歪めた。やってしまった。
テアがそう小さく呟いたのを、あたしは聞き逃さなかった。

「……ごめん、そんなつもりじゃなくて……」

弁解しかけたテアの言葉にかぶせるように。

「もう、奴隷じゃないんですよね……」

そう、意外な言葉がアーラから発せられた。

-5-

仕事自体は不思議と捗っていた。彼女はあの主の下に預けたために、何も心配はしていない。
あの主はできた人なのだから。信頼しているし、むしろ頼りにしている節さえもある。
今となっては、無意識にあの主の元へ足を運んだのも納得ができる。
誰かに預けなければと意識の下で感じていたのだろう。
だから、また頼ってしまった。またお礼をしなければ。前の女の件といい今回といい、
頼ってばかりなのだから。だからと言って何をすれば良いのだろうか。
……考えるのは後にしよう。今はとにかく、この仕事を終わらせなければ。
頭の中では螺旋の如く同じ考えをしながらも、手と目だけは機敏に動いていた。
なるべく早く終わらせる必要のある一件は、もう片付いてしまうだろう。
今日中にもう一件に手をつけることができるかもしれない。明日には終わるだろうか。
そして今週中に終わらせる必要はあるが異常に量があるそれに、
手をつけることができそうだった。

だから、今日のところは早めに切り上げることにした。
どうしても彼女のことが頭から離れないためだった。
確かに心配はしていないが、迷惑をかけ続けるわけにはいかない。彼女も困っているだろう。

「逃げるのかよ」

席を立つと、正面の机で仕事をしていた察しの良い同僚から軽口が飛ぶ。

「ああ逃げるさ。女が待っているのだからな」

こちらも負けじと、軽口を飛ばす。
同僚は笑い「じゃあ早く帰らないとな」とまた仕事と向き合った。
どうやら、居残るつもりらしかった。

「悪いな」

本当は私も残らなければならないだろうか。しかし、どうしても彼女のことが気にかかる。
まさか迷惑をかけたりはしていないだろうが……。
席を立ち、紙と向き合う同僚に声をかける。彼は無心に文字を書き写している。
私よりも決して綺麗な文字ではないが、しかしペンの動きは段違いに速い。
だから、急ぎの仕事は彼の役目だった。

「良いってことよ」

その軽口が、今の私にとってはありがたい。
今日のところは同僚に任せ、そのまま帰路についた。足取りは、少し軽かった。

 -----

まずはあの喫茶店へ向かう……予定だった。
というのも、ガラス扉の向こうに空色のコートを纏う彼女の姿が見えたため、
ついにかの喫茶店の主の元へ向かう必要がなくなってしまったのだ。
両手には見覚えのある手袋をしている。まさか……そう思いつつも、まずは扉を開けた。

「……入って良かったのだよ?」

まだ風は冷たい。いくらコートを着ているとはいえ、寒くないはずはない。
あの時は建物の中に入ったのに……なぜ。

「わ……たし、も……いま……」

たどたどしい言葉。喋ることができないはずはないのに、ろくに声を聞いたことはない。
緊張しているのか、もしくは喋るのが苦手なのか。
……そう思いつつ両手、正確にはその手を包み込む手袋が目に入る。
紅い毛糸で、彼女の手には合わないぐらいの大きさであり、そして見覚えがある。
忘れるわけがない。前の女……テアのものではないか。

「……その手袋は……」

その手袋はどこで。そう尋ねようとしたが、言葉が詰まる。
どこで、なんてそんなことは決まっている。あの主、リリムの店にテアもいたのだろう。
迂闊だった。そんなこと、少し想像すればわかることではないか。
私の家を追い出され、次に頼るのは親友であるリリムしかありえないのだから。
いやな汗が背中を伝う。いくらテアが優しいとはいえ、
家を追い出される原因となった者を見て、普段通りにいられるわけがない。
やってしまったか。誰にも聞かれないような小さな声でつぶやく。
まだ、彼女とテアを会わせるべきではないと思っていたのに。迂闊だった。

「テアさんに、貰いました」

わかっている。わかっているが……その表情に、不安は全て吹き飛んでしまう。
思えば彼女のこんな笑顔を見るのは初めてかもしれない。
なにがあったのか尋ねたいところではあるが……我慢する。
きっと良いことがあったのだろう。やはり、ああ、テアは優しい人なのだ。

「そうか」

そうとだけ応えて、何気なく手を差し出す。
すると自然に彼女も手を伸ばし、さし伸ばした手を握り締めた。
テアに贈った手袋越しに、彼女の体温が伝わる。少し妙な感覚ではあるが、悪くはない。
そのまま一緒に帰路についた。歩幅は違うが、歩く速さは同じぐらいで。

「彼女……テアは、怒っていたかい?」

……口を滑らせる、とはこういうことを言うのだろう。
言ってから、私は何を尋ねているのだと後悔してしまう。
それは、自分が本人に対して確認しなければならないことではないか。
他の人、よりによって彼女に尋ねてどうするのだ。しかし取り消すこともできない。
もう、返事を待つしかなかった。

「楽しかったです」

帰ってきたのは、要領を得ぬ言葉。

「ご主人さまのことをたくさん聞けて、楽し……嬉しかったです」

罪悪感でつぶれそうになる言葉を、なんて軽く言ってくれるのだろう。
テアは私のことを許してはいないだろう。
本来ならば彼女に私の悪口のひとつぐらい吹き込んでいても、なにもおかしくはない。
しかし、ならばなぜ彼女は嬉しそうな表情を見せるのだろうか。
……やはり、テアは優しい人なのだ。

「そうか」

きっと、もう大丈夫だろう。
今もリリムの店にいるだろうか、近いうちに謝りにいかねばならない。
君を追い出すべきではなかった、と。

「怒られました」

繋いだ手に、力が入れられる。

「もう奴隷じゃないのに、奴隷気分でいるな、って」

そちらを見ると、私を見返していた。翡翠の瞳は大きく、私を真正面に捉えている。
足を止め、彼女の目を見る。
……いかに私がテアに頼っていたのか、思い知らされる。
私だけでは彼女を奴隷から解放することなんか、できやしなかっただろう。

「だから、ご主人……」

じゃなかった、と彼女はつぶやき、目を伏せる。私は何も言わず、彼女の言葉を待つ。
ちょうど、あの時のように。しかし今はあの時と違い、待つ時間も決して苦痛ではない。
しばらくして彼女は顔を上げた。しかしすぐに顔を下げる。
そのまま十数秒ほど、だろうか。一分ほど待たされた今朝と比べると、なんてこともない。
風は冷たいが、それは次の言葉を待つことに対し苦痛にはなりえない。
何を言われるのか楽しみである節さえもあるのだから。

「……えっと……」

ようやく顔を上げ、何かを言おうとしているのはわかるが口ごもっている。
髪を留める黒の鳥が、今は見当たらない。どうしたのだろう。

「……テアさんから伝言で、怒ってるから早く謝って、って……」

テアらしいわかりやすい呼び出し。恐らく、リリムの店に今もいるのだろう。

「わかった」

だから、この足で向かうことにした。きっと、テアもそれを望んでいるはずなのだから。

-6-

あいつの性格上、確実に今日中にはこの店にやってくる。
だからこうして用意してもらった酒も飲まず、あいつを待ち続けている。
言いたいことはたくさんある。
それこそ酒の力を借りなければ、全てを言い出すことはできないほどに。
でもあの子も近くで聞いてしまうのだろうか。そのことを考えると、少し迷ってしまう。
あの子に聞かれたくないことも言うつもりなのだ。
あいつにとって耳が痛いことも、容赦もなく言い捨てるつもりなのだ。
そのことであいつはどんな思いをするだろうか、そんなことは関係ない。
とにかく今日は、今日こそは、あいつに全てを言い放たなければ我慢できそうになかった。

「……まぁ、私は止めないけどさ」

そんなリーの言葉。リリム、だからリー。私のあいつの親友で、私の居候先。
止めない、とはどんな意味なのだろうか。
尋ねようとそちらを見て、苦く歪む表情を見て、おおよそ理解する。
言い過ぎるな、とでも言いたいのだろう。そんなの、無理に決まっている。

「追い出されたんだよ? それもいきなり! なにも言わずに!」

あの日はいつもどおり、食事を用意してあいつの帰りを待っていただけだった。
作家もどきだから私は家から出る必要はなく、
そのかわり食事は作るという約束だった。
決して得意ではないが、まぁあいつのためならばと、包丁を握った。
その日はシチューだった。白いものが好きだと言っていたから、用意していた。
出来栄えは……我ながら、微妙だった。
それでも喜んでくれるかなと、少しだけ期待していた。

「それなのに! 誰かも知らない少女を連れてきては、でていけ! だよ!
許せるわけがないじゃない!」

正確に言えば、今すぐに出ていってほしい。理由は言えない。申し訳ないとは思っている。
言い訳はしない。いつか、落ち着いたらお詫びはしたい。
でも……わかってくれ。あの子とお前は、いっしょに暮らしてはいけないんだ。
そんなことを言われて……その理由を聞かず、すぐに出ていった私も私か。

「……許せないよね、それはわかる」

リーは私の愚痴にいつも付き合ってくれる。
ここ最近は、というかあいつに追い出されてからは、
ずっとあいつの愚痴ばかり言っていた気がするけれど、それでもいつも聞いてくれている。
感謝しているし、申し訳ないとも思っている。だから最初は口癖のように謝っていた。
居候してゴメンね、と。でもそう言うと、いつも怒るのだ。
テアは悪くない。あいつも悪くない。あの子も悪くないよ。と。

「でも―――……」

リーの、その後の言葉はわかっている。

「悪いのはなにもない、でしょ。相変わらずの博愛主義者なんだから」

あははと笑い、グラスを傾ける。琥珀色の液体に、大きめの氷が二つ、涼しげな音を立てる。
強いお酒を、特別に用意してもらった。
私はあまりお酒を飲まないが、飲めないわけではない。
酔う勢いというのも知っているし、経験がある。今日はそれに頼るつもりだった。
さぁ、早くこい。言いたいだけ言ってやるんだから。
その後でお前の言い訳を聞いて、許すかどうか決めてあげる。
だから早く。言いたいことをすべて忘れてしまう前に。この思いが冷めてしまう前に。
完全に夜が更けてしまう、その前に。

ゆっくりと扉が開く。ようやくあいつが来たのか、と顔をあげる。
見えたのは、少女ただ一人だけだった。

 -----

「アイツは!?」

なぜ一人なの!? アイツはどうしたの! アイツが貴女を一人にするわけはない!
あの優しさとエゴの塊であるアイツが、貴女をこんな時間で一人にするとは思えない!
アーラの小さな両肩に手を押し当てる。

「そ……それが……」

アーラは驚いたように目を見開き、私とリーを互いに見ていた。
怯えている? これは私が鬼気迫る勢いで迫ったから、だけではないように思える。
なにがあったのだろう。

「落ち着きなさい、テア」

……息を大きく吸い、長く吐き出す。確かに落ち着いていなかった。
気づけばアーラの身体も震えている。これは、私のせいではない。別の原因がある。
直感で、そう感じた。

「……説明、できるね?」

リーが膝を折り、アーラと目線を合わした。
アーラは小さく頷き、たどたどしく口を開け始めた。

 -----

気づけば街を走っていた。アイツは、アーラの前の主人に出会ったらしい。
そこで、アーラを買い戻したいと言われた、とのことだった。
それから先は、アイツがアーラを先にリーの店へと向かわせたから、
どんな話をしたのかは知らないらしい。

……大丈夫。

そう思いながら、暗く冷える街を駆ける。

……アイツを信じろ。お前の愛した男だぞ。

そう念じても、足は速く、疾く、動き続ける。

……大丈夫。アイツはアーラを大事に思っているのだから。

でも、もしアイツが私とよりを戻したいと考えていたら……?
アイツはアーラのために私と別れた。もし、逆に私のためにと思ってしまったならば?
不安は隠せない。あいつはどこにいるのだろう。とっちめてやらなければ。

……一発、ぶん殴ってやる。

許せなくなってきた。

……こんなにも心配させて。こんなにも息を切らせて。

それでも見つからない。アイツの家には、誰もいなかった。
あと、考えられるのは……。

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二人には悪いと思っている。でもこれが、二人にとっては最良の選択だと確信している。
失うものは多いかも知れない。取り返しの付かないことなのかも知れない。
それでも、私はこの選択を間違いとは思っていない。

アーラは渡せない。たとえそれが多大な権力を持つ貴族だとしても、譲れない。
そもそもアーラは私の所有物であることに、この男は同意した。
そして金輪際、私とアーラに近寄らないと約束もした。そのために大金も支払った。
なのに、この男は今さらアーラを渡せという。そんなバカげたことがあるものだろうか。

「逆らうのか?」

ああ、逆らうとも。

「逆らったらどうすると言うんですかね? 約束を一方的に破るのは貴方ですよ」

精一杯の反抗だった。なけなしの見栄とも言えるかも知れない。
背は低く、小太りで、醜悪な顔をしていて、でこが広く、そして脂光りしている。
こんな男に、アーラを渡せるはずもない。

「そうか……ああそうそう、お前の愛人……」

……全身がこわばる。それ以上のこの男の言葉は、聞きたくない。
恐れていたことが、ついに起こってしまった。何のために、私は彼女を――――……。

「テア、と――――……」

言い終わるよりも前に、気がつけば殴りかかっていた。

奴隷の娘

奴隷の娘

友人が遺した娘。奴隷の身に落ち、だから私はその子を見つけ、保護をした。 彼女はほとんど何もしゃべらない娘だった。喋ることができないわけではないのは、知っている。

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登録日
2017-03-18

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