オムライスとカップル

彼女が玄関の扉を思い切り力を込めて閉めて行った。背中を向けていても分かる。彼女は体全体を使ってドアノブを回したに違いない。
俺はつけっぱなしだったテレビを切った。彼女の部屋に1人だけだと、時計の針の音が耳障りになる。
俺は自分のことに飽きている、と彼女は突然言い出したことが事の発端だ。
テレビを2人で見ていたら突然ポツリと、彼女はそう呟いた。
彼女が、そんなことを言うのは初めてだったから俺はどうすればいいか分からなかった。俺は緊張の汗でジトジトになった手のひらで彼女の頭を撫でた。汗が彼女の頭についてはいけないと、やけにゆっくりふんわりな撫で方になった。
その撫で方が気に食わなかったのか、彼女は僕の手を払い、立ち上がって俺を見下ろした。僕は彼女のその瞳から怒りがこぼれるのを見つけた。
撫でて欲しい訳じゃなかったっ。
彼女はそう叫んで玄関に向かって大股で歩いて行った。
そして今に至る。
彼女が大切じゃない訳がない。愛してる。付き合ってからのこの六年間、彼女への愛情やら慈しみはとどまることを知らない。泉のようにとめどなく湧き上がり、そして広がる。彼女が隣にいない人生なんて、考えられない。
でも、俺はその思いを伝えそびれ続けている。ていうか、伝える気はなかった。自分の照れを誰かに悟られるのが、極端に嫌だからだ。
昔から俺は照れ症だった。
小学生の頃、俺はみんなの前で読書感想文を読んだ。自分の視界に映る両の手は小刻みに震え、顔が熱かった。先生は僕の横で立っているだけだったし、みんなは黙って行儀よく俺の声に耳を傾けた。俺以外がみんな敵に思えた。
読み終わった後、俺は達成感に酔いしれた。口には出さなかったけど、自分で自分を褒め称えた。けど、先生が
吉岡くんは照れ屋さんなのね。
と横から声をかけたのが駄目だった。先生は良く頑張りました、の意味合いだったのかもしれない。みんなは待ってましたと笑い声を上げ俺を茶化し、先生は分かっていなかったのか、すかさず俺の頭を撫でた。こんなに頑張った俺が笑われている。俺は俯いて唇を噛むしかできなかった。
その日から俺は照れることが怖くなった。いつもクールを気取るようになった。それでも友達は俺の照れ症をすかさず見抜き、からかった。そのうち慣れて、俺も自分でそのことをチャーミングポイントだと言えるようになった。
でも彼女は駄目だった。かっこ悪いところを見られるのが嫌で仕方がない。だから、彼女の前では泣いたことも取り乱したこともない。そして、愛の言葉を囁いたことも、赤面したこともない。それほどに彼女が好きで、そして長年で培った俺たちの絆に心底安心していたのだ。

俺は台所に立ってスマホを取り出した。オムライス、簡単、で検索する。すぐに並んだレシピのサイトの多さに一瞬怯む。よく分からないのでちょうど指先に重なった文字をタップした。料理は高校の家庭科以来だ。
オムライスは彼女の大好物だ。半熟の、ふわふわしたのが好き、とデート先のカフェで言っていた。俺は別にそんなに好きでもなかったが、彼女が目を細めて言うのを見ていたら、運ばれてきたオムライスが輝いて見えた。
夕食を食べる前に出て行ったから、彼女はきっとお腹を空かせて帰ってくる。別に仲直りの材料にとは思わないが、彼女には美味しいものを食べてお腹をいっぱいにして欲しい。その後、俺に言いたいことをたくさんぶつけて欲しい。
画面にはとても美味しそうなオムライスの写真が載っていた。そういえば彼女はいつも俺たちが食べる料理をスマホのカメラで撮っている。その写真はとても美味しそうに映るから、いつも感心している。女の子はああやって料理の写真を撮るけど、みんなあんなに上手なのだろうか。
スクロールすると材料の項目が出てきた。卵、牛乳、塩、ケチャップなどなど。オムライスの中にはこんなに食べ物が入っていたのか。
彼女の家では冷蔵庫のものは自由に使っていいことになっているので、躊躇いなく冷蔵室を開けた。全部の材料がある訳もなく、とりあえず目に付いた野菜を取り出してみた。ほうれん草、水菜、小さな人参。レシピにはそれをみじん切りにするとあったが、よく分からないのでとりあえず包丁を握る。ほうれん草と水菜は、ラーメンのネギみたいに横に寝かして細かく切った。そのままだとほうれん草が縦に長いままなので、次はまな板を縦長にずらして切った。緑色の汁がたくさん出たけど放っておく。
人参は輪切りにした。さっきの緑の汁を水で洗うのを忘れたので、人参に水彩画のような緑がにじむ。そういえば猫の手を忘れていた。エプロンをかけるのも忘れていたのでそれはすぐに付ける。彼女の好きな青色のエプロンだ。
次はご飯を炒める。らしいが米を炊いていなかった。米の炊き方も分からないのでチンするご飯をレンジにかける。
その間に卵を焼いてしまおうとレシピをスクロールした。ふむ、ボウルに卵を割りいれ泡立て器で軽く混ぜる。軽くとはなんだ。
ボウルが見当たらないので味噌汁の茶碗に卵を割りいれた。混ぜようとしたが混ぜるアレがない。
半熟のふわふわしたのが好きなの。彼女のあの幸せそうな顔がふわふわ雲のように浮かんだ。卵は、頑張らなくちゃいけない。
俺は台所の引き出しを開けまくってアレを探した。皿の裏や冷蔵庫の中を探ったのに出てこない。それにさっきから混ぜるアレの名前が思い出せない。いつの間にか俺は行き場の分からない食器やら鍋やらに囲まれていた。
レンジを見るとあと50秒で炊きあがる。あったかいご飯じゃなきゃきっと美味しく仕上がらないかもしれない。混ぜるアレに意地悪されているかのような気分になる。俺は飯すらろくに作れない。
彼女の出て行く時の横顔は泣きそうだった。見下ろしていた彼女のふくらはぎは俺のよりふた回り位細かった。
こんな俺なんかより、あの繊細なガラス細工の様な彼女には、相応しい男がいるんじゃないだろうか。彼女を今より幸福にし、安心させ、飯を上手く作る何処かの誰か。その方が、彼女は幸せなんじゃないか。
でもその空想の理想の男が彼女の頭を撫でた時、嫌だと思った。止めてくれ。こっちを向いてくれ、俺は今よりもっといい恋人になるから。
俺の胸がぎゅうっと潰される。寂しいと思った時にはもう泣いていた。熱い涙が顎から落ちてフローリングを鳴らす。20も半分を超えた大の大人が泣いている。それは以前の俺にとって汚物のような光景だった。
だけど今、照れる、という感情は出ない。久しぶりで剥き出しの、感情に任せた涙の流し方だったが、気持ちがよかった。俺は寂しいんだ、という思いが目から落ちて出て行くようだった。
彼女には、こんな俺の姿も見て欲しい。
俺は彼女との絆に安心していたのではない。言わなくてもわかると思っていたわけでもなかったのかもしれない。単純に、怖かった。情けない姿を見せて、絆がふっつり切れることに怯えていた。
でも、それは彼女を不安にさせていたのかもしれない。そして、俺も不安だった。
伝えよう。この涙も、小学生の頃の苦い思い出も、彼女への愛の大きさも。
たとえ彼女が怪訝そうに笑っても、きっと俺は今より前に進める。
ガチャン、とドアノブの開く音がした。ヒールの転がる音とビニール袋の擦れる音が続く。
俺は泣き崩れたまま顔を上げていると、彼女が台所の入り口からひょいと顔を出した。ちょっといたずらっぽい顔をしていたが、すぐに目を大きく丸めて、へ?と呟いた。台所用品に埋もれるようにして泣いていた俺に驚いたのだろう。
俺は何だか決まりが悪くなって、でも鼻水はたらしたまま、
アレが見つからない。
と言って笑った。レンジがおかしげに、チーンと鳴る。




フライパンにサラダ油を熱して人参を入れた。ジュウワァーッと油が声を上げて、なぜか輪切りの人参の色が濃くなる。火が通ったらご飯を入れて、ほうれん草と水菜を混ぜ入れるようにして炒める。塩と胡椒をして全体的にしんなりしたかなという所でケチャップを多めに絞る。私はケチャップが多い方が好きなのだ。ケチャップの甘く焦げる匂いが漂う。
しかし何故またほうれん草と水菜を選んだのか。私はしゃもじで炒めながら思う。玉ねぎとかジャガイモとかはベランダに吊るしてあるのに。お米だって、冷凍室に凍らせておいたはずだけど。
炒めたご飯を彼が用意した二つの大皿にこんもりと盛る。
すぐに、これまた七つも割られていた卵を素早く菜箸で混ぜる。卵は味噌汁茶碗に溢れる様にして割られていたので、流石にボウルに移している。
アレで混ぜなくていいの?
彼が右手で楕円を空に描きながら聞いてきた。もしかして泡立て器?と聞くと、それそれ、と照れたように答えた。別にアレで混ぜなくてもコツさえ分かれば卵はふんわりするの、と教えると彼はへぇーっと感心したようにうなづいた。
いい感じに混ざった卵に牛乳と塩と胡椒を入れていく。最後に彼にばれないようにマヨネーズを少しだけ絞り入れた。これは卵がふんわり仕上がる、秘密の魔法。


帰ってくると彼は台所の床でしゃがんで泣いていた。彼の周りには手当たり次第出しましたという具合にキッチンツールが散乱していた。
彼は私を見つけるといつもみたいに照れたように顔を赤らめて笑った。私もそれにつられて笑うと彼がこちらに歩いてきて抱きついてきた。こんな大胆な事したことなかったのに、と思っていると彼の背中に回した腕がきつくなった。
優香、俺、愛してる、から。
耳元の彼の声は低く、しっかりしていたので酔っているわけではなさそうだった。暫く彼はその体制のままだったけど、多分恥ずかしがっていたのだろう。目線をずらすと真っ赤な彼の耳が見えた。ちょっとだけ、私の顔も熱くなる。
深夜にアイスを買って帰って彼と仲直りしようとしていたことも、ビニール袋が私の指を滑り落ちるまで忘れていた。
彼が照れ症だってこと、ずっと前から知っていた。彼は隠していたようだけど、私や周りからはバレバレだ。顔はすぐ赤くなるし、照れたら右手を首の後ろに回して下を向く癖なんて、私も周りもみんな知っている。昔から変わらない彼の仕草は私の心をいつもくすぐった。私といるときは特に、彼は照れていた。
だから彼が私のことを好きでいてくれる事に、疑いようはなかった。彼の愛情はいつも私の生活の中で頭を出しては幸せを撒き散らした。
でも、その愛が何かに変わることが怖かった。
いつか、もしも彼が人生の伴侶に私を選んでくれるなら、そして私が彼を選んだなら、私たちはそこからどうなるのだろう。
もう、彼は私を女としては見ないだろうか。家族となるのだから。そうしたらきっと、彼は私を今ほどには顧みない。今ほどには私を、愛さない。
もしかしたらそうはならないのかもしれない。違う未来が待っていて、愛し愛される家族を作れるかもしれない。でもその考えは背中に刺さったトゲの様になかなか手が届かず、いつまでもズキズキ痛む。そして私はしくしく泣く。
彼が信じられないのではない。自分が信じられないのだ。
私の家族がそれだった。物心ついたときから父は母を嫌い、避け、そしていつの間にか家から消えていた。母もそんな父を憎み、蔑み、そして記憶から消して死んでいった。
本当は父と母だって、昔は好き合っていたはずだった。家の押し入れに潰されていた古いアルバムの中では、若かりし頃の父と母が幸せそうに微笑んでいた。でも、私を入れた三人での写真はどこにも無かった。
私は、彼と幸せを作る自信がない。家族になった瞬間、彼は私の必死で繕ってきた綻びに気がつくかもしれない。優しくて、気さくで、いつも笑顔の私ではない、別の汚い私を見つけるかもしれない。それが恐ろしかった。
だから彼と過ごす一瞬一瞬が愛おしくて堪らなかった。
味覚は、記憶につながる大切な神経だと、昔テレビで聞いたことがある。
私は彼との食事をいつも写真に撮る。なるべく美しく、美味しそうに撮る。インスタグラムやツイッターにあげるためではない。彼がほっぺたを口角で支えるようにして食べ、そして笑う。その光景を頭に焼き付けるためだ。
愛おしく、眩しいくらいのその思い出を忘れないように。たとえ彼が私の前から消えたとしても。
飽きたのでしょ、と言って彼が慌てる様が見たかった。もちろん彼が私に飽きているならきっちり時間通りにチャイムを鳴らさないし、お土産に花束を持ってきたりしない。それでも彼を試さないわけにはいかなかった。
彼は私の頭を撫でたが、その撫で方には何か違和感を感じた。まるで汚いものに触れるかのような、恐る恐るで極力触れないような撫で方。違和感はすぐに私を飲み込み、そして揺るぎない確信に変わった。
彼は私に飽きている。
記憶の中の彼の照れた顔や低く揺れる声はもう私の心に届かなかった。チャイムの音もきれいな花束も私を騙す道具にしか思えなくなった。一度そうだと思うと、もう駄目だった。
そこからは朧げだが、何か一言二言叫んで家を出た。ズボンのポケットから小銭の跳ねる音がしたので、小一時間ほど近所のコンビニで時間をつぶした。


出来上がった彼の分の卵をご飯の上に掛けてあげると、彼が隣から感嘆の声を上げた。仕上げに二人でケチャップのハートを描く。彼の書いたハートはやけに大きく、そして力強かった。
彼はオムライスを二つ、両手に乗せて台所を出た。私はエプロンを掛け、台所を少しだけ片し、居間の卓袱台の前に座った。彼が大切そうにオムライスを置いていく。私たちの間は卵の濃厚な匂いに包まれた。なんたって卵七つ分だもんね。
いただきます。
席に着いた彼と手を合わせた。すぐに彼はスプーンでオムライスを掬ってかぶりついた。頬張って目を瞑りながら、うまいうまいと漏らした。
私もオムライスにスプーンを刺し入れた。少し固まったけどまだ半熟の卵がプルリと震えた。割りいれたそこからは湯気が立ち上る。ケチャップの焦げた、だけど野菜の甘い匂い。私の好きな、優しい匂い。
スプーンに多めにすくって口に入れた。柔らかくて温かい卵がご飯を包んでいて優しい口当たり。なめらかな卵の食感はマヨネーズさまさまだ。
噛むと、存在感の強い輪切りの人参が砕ける。すこし歯ごたえが残っていて、でもだからこそ楽しい食感になる。
ほうれん草と水菜は米に絡んで、青菜特有の濃い苦味が全体的に甘めの味付けに良い。水菜と人参がともに良い食感を作り出し、自然と噛むリズムが愉快になる。
最初はほうれん草と水菜の組み合わせはどうかと思ったが、意外にもベリーグー、だ。
ちらりと彼の方を見るとまだガツガツと食べている。でも嫌な感じはしない。幸せな光景だった。
そう言えば、私たちは喧嘩したはずなのに。喧嘩と言っても私だけが怒っていたようなものだけど、でもコンビニにいる間中、私たちはもう終わりだと思っていた。
今、私たちが同じ屋根の下でご飯を食べているのは彼が、私があの喧嘩をうやむやにしたからではない。私たちの間には見えない、けれどもちぎれない絆があるからかもしれない。私はそう思いたい。
この人になら、言えるかもしれない。どうか私を離さないでいてほしい、と。
その言葉は意外と、簡単に出るかもなとも思った。
いつか私たちだって離れたいと思うだろう。ずっと、これからずっと好き合い続けることはできないかもしれない。
でもぶつかり合うたび、ともに成長していけば良い。傷つけあうたび、笑いあえば良い。
自分の思いを溜めたまま、何も理解しあえないまま終わりに怯えるのはもう止めよう。
今日の料理の写真を撮るのを忘れた。丁度いいから写真を撮ることもやめよう。
素敵なことも、目を背けたくなることも、きっと私は忘れない。忘れることに怯えてはいけない。忘れて大変なら、二人で思い出せばいい。忘れても気にならないくらい、二人で幸せになればいい。
ゆっくりでいい。焦らなくていい。前に進みたい。
オムライス、おかわりほしいかも。
彼は満面の笑みでスプーンを握っていた。いいよ、もう一度作ろう。二人で。
私たちは急いで台所に駆け込んだ。

オムライスとカップル

オムライスねー。私大好きです。親子丼もね、好きなんです。卵焼きも目玉焼きも、卵かけ御飯も好きです。
卵がね、好きなんですよ。

オムライスとカップル

オムライスを作り、食べる話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-15

Copyrighted
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