第00話 依緒編
今日はいつもより頭が重い。
短く切りそろえた髪をかき上げてこめかみを抑える。いくつものくもったヒール音が交差するなか、それより速いペースでアスファルトの歩道を急いだ。そういえば朝食を食べたきり何も口にしていなかった。こんな働き方を続けていたらそのうちにどこかの血管が詰まるに違いない。働き始めてからは日の落ちる前に帰れたことはほとんどなく、仕事帰りの渋谷はいつも夜の顔だ。暗くなったウィンドウにちらりと目を向けると、ガラスには眩しいネオンの光に照らされた無表情な30女が映っている。もっと疲れた顔をしているのかと思っていたが、私は疲れさえ表情に出にくいらしい。そのせいで周囲の人からは何を考えているかわからない、いつも怒っているように見えると怖がられることも多いが、私は母親譲りのこの顔が気に入っている。確かにもっとにこやかであれば番組制作の取材でも役に立つだろうが、このポーカーフェイスは20年かけて身に着いたものなので仕方がない。
ヴーゥン…
バイブ音に一瞬歩みを止め、息をついてスマートフォンを取り出しつつ再び歩き出す。家をでてもう10年以上経つというのに、スマホの着信にギクッとしてしまう癖が抜けきらない。学生時代、放課後も遅くまで家に帰らず、“いつ帰ってくるの?”“心配している”と1日最低1通のメールが届いた。優しい義母のことなのできっと心から心配して毎日メールを送ってくれたのだろうが、私には負担でしかなく、毎日家族から逃げるように日々を過ごしていた。
『そろそろテストが近いんだけど、英語と数学教えてくれない?』
メッセ―ジは弟からだった。
1人暮らしを始めて、義母からの連絡は減り代わりに弟とのやり取りが多くなった。今となってはこうして数日に1回はメッセ―ジを送り、月に数回は家に泊まりに来る。高校生の思春期真っ盛りのはずだが、反抗期があったのかまだその最中なのか私に見せる顔からは窺い知れない。弟が小学生のころにはもう私は家を出ていたはずだが、なぜか3つ上の姉や母親より私を1番の相談相手にしているらしい。半分しか血がつながっていないというのに、我ながら不思議な関係だとむず痒いが、義母や妹によく似た弟をこうして大切にできていることで家族を疎んでいた自分が随分と救われていることを自覚している。
―いいよ。いつ?
『今日はだめ?』
―今日はこれから用事があります。週末なら大丈夫。
『じゃあ今週末泊まりに行くからよろしく!小説の続きも読ませてね』
―了解。食べたいものあったら考えておいて。
難しい料理でないようにと祈りつつそう返した。
私が弟くらいのとき、買い物をしたり友達と遊びに行くお金もない私の1番の趣味は読書で、次第に自分でも小説を書くようになった。家に居ても現実を忘れて空想の世界に没頭できることが好きで、一時期それを仕事にしたいと思った時期もあった。結局は現実的なことを考えて保障のある進路を選んだが、今でも小説を書くことは私の生活の一部だ。そして弟は私の小説の数少ない読者の1人だった。
そういえば、これから会う相手も数少ない気の許せる親族の1人だ。久しぶりに会う少年の顔を思い浮かべてくすりと笑みを浮かべる。弟との関係とは違い、こっちの関係はかなり私の方が優勢だ。話を聞くと真っ当な社会人として働き始めたらしいが、それまでの彼の捻くれた遍歴を丁度良い距離感で見せてもらっていた。思春期の反発を気持ちいいほど周囲に向けて発散している姿は、鬱屈して内へ内へと閉じ込めてきた私からすると実は羨ましくもあったのだが、当人は会うたびにバツの悪い顔をするからつい可愛く苛めてしまう。
待ち合わせ場所に向かおうとしたその瞬間。
ぐらり
視界が揺れて思わずしゃがみ込んだ。こめかみがきりきりと痛み耳鳴りまでする。ああ、まさか30台前半で脳血管障害か何かが起きるほど体調が悪かったとは思わなかった。こんなことならもっと自分のやりたいこともしておくんだったかな。意識が遠のくのを感じながら、私は会いたい人を思い出そうと眼を閉じる。弟、父親、仕事仲間、友人、そして母。そうして気づきたくないことに気づく。私の1番も、私が1番の人もこの世にはいない。
じゃあいいや。しがみつくほどの命でもない気がするもの。
第00話 依緒編