『聖テレジアの法悦』
1
地面に敷いた二メートル四方の赤い絨毯の上に、璃紗子は寛衣で覆われた躯を横たえ、両肘を後ろに回して上半身を支えている。顔を仰向けて、眼を薄く開いている。見物客には軽く瞼を閉じているように見えるだろう。ゲルストルは背中に羽をつけた天使の扮装をしている。左手で彼女の衣を優しい仕草で掴み、右手に持った矢をいまにも彼女の胸に突き立てようとしている。
二人ともゆったりとした純白の衣から露出した部分は顔も手も足もすべて白い化粧で塗りたてている。八月の陽射しに灼かれて、璃紗子の皮膚から汗が滲み出ている。
演技をしながら、璃紗子は自分はここで何をしているのだろうと自問することがある。大道で肌を剥き出しにするためにウィーンに来たわけではない。絵を勉強するために留学したはずなのに、なぜこんな道に迷い込んでしまったのだろう。その一方で、肉体を媒体にした人間彫像という世界に充足している自分がいる。それが諦念から生まれたものなのか、それとも表現の可能性に向けた積極的な姿勢から生まれたものなのか、自分自身でもはかりかねている。
そんな葛藤のなかで、璃紗子はいつしか自分が演じている世界に陶然と浸り込んでいた。その表情に見物客の眼は釘付けになっているだろうと彼女は感じている。感嘆の溜め息があちこちで洩れている。見物客の間を縫って、黒猫がゆっくりと歩いている。黒猫は玩具のトラックを曳いている。トラックの荷台には五十センチほどの高さのポールが立っている。それに付けられた三角旗に「聖テレジアの法悦」と赤マジックで書かれている。出し物のタイトルである。見物客のなかには、しきりに頷いている顔がちらほら見える。この出し物のモデルがローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィトーリア教会祭壇に納められているジャン・ロレンツォ・ベルニーニのバロック彫刻であることを知っているのだろう。彼女は眼の縁でそんな光景を捉えた。
そのとき、璃紗子は見物客のなかに海棠貴史らしい日本人の姿を認めた。彼は人垣の最前列まで来ると、トラックに小銭を投げ入れ、身を翻して姿を消した。彼女はその姿を眼で追った。あやうく顔を動かすところだった。
ここはウィーン旧市街の中心、グラーベンとケルントナー通りがぶつかる一角である。ショッピングセンター、ハースハウスのガラスウォールが西日を浴びて赤々と燃え立っている。その奥にシュテファン大聖堂の尖塔が聳え、狭い広場に覆いかぶさるような影を投げている。
二人はさらに十分あまり身じろぎもしないでその姿態をとり続けた。見物客の視線から緊張感が薄れ、人垣が崩れそうになった瞬間、場面が転換した。寛衣を足元に脱ぎ捨て、璃紗子はすっくと立ち上がった。純白のレオタード姿である。右足はしっかりと地面を捉えているが、左足は爪先立ちになっている。差し上げられた手には樹枝が握られている。腰布を巻いただけのゲルストルが後ろから彼女に手を差し伸べ、追いすがっている。鮮やかな場面転換に見物客の喝采はいつまでも鳴りやまない。
先ほどの猫が二人の背後に回り込むのと入れ替わりに、もう一匹の黒猫がトラックを曳き、客の方に向かっていった。旗のタイトルは「アポロとダフネ」となつている。この演題のモデルもベルニーニの彫刻作品である。
ゲルストルは好んでパセティックなテーマをとりあげる。特にイタリアバロックの巨匠、ベルニーニの作品を得意にしている。ベルニーニの彫刻はドラマチックな造形化に特徴がある。ゲルストルは何度もローマに赴き、ベルニーニのほとんどの作品にじかに触れて人間彫像の表現方法を研究したそうだ。
黄金の矢を射られて、恋心に駆られたアポロがダフネを追いかけている。逆にダフネは恋を嫌う鉛の矢を射られたので、アポロから逃げ惑う。ついにアポロはダフネに追いつき、その手はいまにもダフネの躯を捉えんばかりとなった。恐怖に駆られたダフネは父神に救いを求めた。父神はその願いを聞き届け、間一髪娘を月桂樹に変身させた。二人が演じているのは、ダフネが月桂樹に変身しようというまさにその一瞬である。璃妙子が手に持っている小枝は月桂樹の形象である。
彼女の姿態は見物客の眼には動感を与えるだろうけれども、演じる立場からは保持するのが難しい不安定な姿勢である。しかも小首を傾げたままなのだ。修練を積んだ彼女にとってもダフネは難易度の高い演題である。
集中力の限界に達しようというそのとき、あのイメージがまた湧きあがってきた。幾度となく璃紗子の意識を領するようになったイメージだ。思い起こすと、そのイメージが立ち現れるようになったのはウィーンに戻ってからのことだ。
狭い空間に男が立ち尽くしている。後ろ姿である。淡い照明のなかに真っ赤な背広が浮き出ている。両袖も朱に染まっている。やけに袖が長い。男の足元には赤黒いものが縛っている。大きな犬みたいである。誰かの叫び声がした。璃紗子は細い通路をつたって逃げ出した。気が焦るばかりで、彼女はもどかしく歩を進めるだけだ。男が背後からひたひたと迫ってくる。
いつも同じイメージである。単なる空想の産物なのか。あるいは映画か何かの一場面なのか。それとも遠い記憶の残像なのか。璃紗子は記憶の抽斗を次々と開けてみるが、思い当たるものはない。
耳元で囁かれたゲルストルの声によって、現実に引き戻された。人間彫像のパフォーマンスは終わりを迎えようとしていた。
人間彫像は二場構成にしている。一場は約二十分である。動きがないので、観客の我慢の限界はその程度である。それよりなにより演じる側の肉体的な限界でもある。合間に三十分ほどの休憩を挟んで二回演技する。午後二時頃からと夕方六時頃からの二クール、合計四時間の重労働である。
後片付けを済ませ、小路にあるカフェに入った。トイレでこざっぱりした服装に着替え、ビールを注文し一気に飲み干すと、ノイアーマルクトに向かった。そこに車を駐車しているのだ。
ゲルストルが運転する車でアパートメントに帰る途次、璃紗子は海棠のことを思い起こしていた。彼を見かけたのはこれで二度目である。最初はウィーン南駅の雑踏のなかで彼らしい男の顔を認めた。二十日ほど前のことだった。そのときは海棠だという確信は持てなかった。だが、先ほど見た男の顔立ちはまぎれもなく海棠のものだった。浅黒い肌、太い眉と大きな眼、形の整った鼻梁、やや受け口の唇。八か月ほど日本料理店で一緒に働いた仲だから、その顔は間違えようがない。海棠は不義理を犯してウィーンにはいられなくなったと、リヒャルト・ランツマンはかつて言っていたはずだ。再び舞い戻ってきたということなのだろうか。
黙り込んだ璃紗子にゲルストルが話しかけてきたので、彼女は物思いを中断せざるを得なくなった。彼は今日の演技について批評してきた。彼は絶えざる向上を目指して自分にも璃紗子にも厳しい。演技論に熱中するうちに、海棠のことは彼女の念頭から消え去ってしまった。
人間彫像は毎週火曜日と木曜日を休演日にしている。翌週の火曜日、璃紗子はプラーターシュテルン駅で地下鉄一号線に乗り込んだ。カグラン駅のすぐ横にあるショッピングセンターに行くつもりだった。地下鉄はドナウ川の鉄橋に差しかかり、中州にあるドナウインゼル駅に停まった。彼女は何気なくホームを見やった。一人の男が柱に背中を凭せかけている。海棠だった。彼はざっくりした長袖のシャツにジーンズというラフな格好である。八月の暑い盛りに長袖という出で立ちに違和感を感じた。彼は腕を上げて髪を掻いた。そのとき袖から二の腕がむき出しになり、その肌に桜の花弁が散っていた。見覚えのある絵柄だ。袖の奥には、海棠自慢の鮮やかな桜吹雪のタトゥーが隠れているはずである。璃紗子は発車寸前に降りた。
カグラン駅行きの地下鉄がホームを離れて、トンネルの闇のなかに後尾灯が消えていくのと入れ替えに、ロイマン広場駅行きの地下鉄が滑り込んできた。この路線はシュヴェーデン広場駅、シュテファン広場駅、カールス広場駅と旧市街を南北に貫いていく。璃紗子は海棠の死角に身を置きながら車両に乗った。彼は三つ目のシュヴェーデン広場駅で降りた。
海棠は広場に出て、シュヴェーデン橋を渡ると、タボール通りに入った。彼女は少し距離をあけてそのあとを追った。煤けた外壁の建物が並ぶ。海棠は振り返りもせずにずんずんと歩いていく。璃紗子は小走りで追いかけた。小さな教会が前方に見えてきた。彼は教会前の広場に差しかかった。
広場にグレーのステーションワゴンが停まっていた。スキンヘッドの運転手がドアの窓から顔を出して、海棠に話しかけた。運転手の鼻梁は人の二倍もあるくらい高い。海棠は立ち止まって応じている。道でも尋ねられているのだろうかと璃紗子は思った。その間に後部ドアから別の男が降りてきた。海棠は後部座席に乗り込んだ。というよりも押し込められたふうである。車は急発進し、璃紗子の脇を走り去っていった。後部座席には三人の男が坐っていて、海棠は真ん中だった。彼は一瞬こちらを見た。その表情はこわばっているようだった。
わずか一か月の間に三度も海棠を見たことになる。彼が意図的に璃紗子の周囲をうろついているわけではないだろう。こう何度もニアミスするなんて、偶然では済ませられない。璃紗子は海棠の動向について情報を集めようと考えた。彼女にとって、とりあえず情報源となりうるのはかつて勤めていた日本料理店KAPPAである。
早速次の日に、彼女はストリートパフォーマンスを終えてからKAPPAを訪れた。KAPPAはアムホーフ教会を越えた先、ハイデンシュスという短い通りにある。ドアの上に店名が白地に赤文字ででかでかと掲げられている。昔のままだ。窓際のカウンター席でカップルがラーメンを食べているのが見える。暖簾をくぐって店に入った。
三年七か月ぶりに足を踏みいれた店内はほとんど空席がないくらい混んでいる。日本人らしい女店員が案内に立った。璃紗子より三、四歳年下に見える。日本人かと訊ねると、店員は笑みを浮かべて頷いた。璃紗子が勤めていた当時、店員のほとんどは中国人かベトナム人だった。日本人店員が増えたのだろうか。店内を見回してみた。日本人は眼の前の店員だけのようだ。
璃紗子が席についたのは奥の隅のテーブルである。天板が木製になっている。かつては大理石のテーブルだった。もともとこの店はカフェだったので、カフェ時代のテーブルをそのまま使っていたのである。
野菜ラーメンと白のグラスワインを注文した。壁を背に座り、店内を見渡した。当時の店員は一人として見当たらない。彼女はオーダーを運んできた先ほどの日本人店員に訊ねてみた。
「以前この店で海棠さんという日本人が働いていたんだけれど、知りませんか?」
「分からないわね。あたしは五か月前から働きはじめたばかりなの」
「それじゃあ、常連で岩原さんという人は?」
「岩原昭二さんですか?店にはいらっしゃいませんが、名前は知っています。日本人留学生は岩原さんにお世話になっていると思います。あたしの友達もお金を融通してもらったり、アルバイトの口を紹介してもらったりしています。岩原さん自身が留学生で、随分ご苦労されたようですから」
店員はそう言って、テーブルを離れていった。璃紗子はラーメンを食べはじめた。味噌風味のラーメンである。少し塩味が利きすぎている感じがする。ラーメンを食べ終えてワイングラスに手を伸ばした。半分くらい飲んだとき、中国人か日本人か判別のつかない男がテーブルに近づいてきた。猪首でずんぐりしている。何かで思い切り上から叩き潰されたみたいな体型をしている。
「あんた、海棠さんを探しているのかい。どういう関係だい?」
日本語である。ただイントネーションがおかしい。中国人なのだろう。ごつい体つきの割りには柔らかい声音だった。
「あなたは?」
「質問に対して質問で切り返すわけかい。ま、いいさ。私はここの経営者だ。それでは、私の質問に答えてもらおうかな」
「昔の知り合いです。この一か月ほどに三度も海棠さんを見かけたんです。彼が以前ここで働いていたことがあるって聞いたものですから、何か分かるかもしれないと思って」
自分自身もここの店員だったことがあるとは言えなかった。
「それで訪ねてきたわけか。ところで、海棠さんを見たのはどこでだったんだい?」
「最初はウィーン南駅、次にシュテファン大聖堂の辺りを歩いていました。一昨日はプラーターシュテルン駅で見かけました」
経営者は頷きながら瞼をしきりに瞬かせている。金壺眼が抜け目なさそうな光を放っている。しゃべりすぎたかなと璃紗子は一瞬後悔した。彼女は経営者の体型と声音とのアンバランスに不安感を感じたのだ。
「そうかい。私も海棠さんには会いたいと思っているんだ。また見かけることがあったら私に知らせてもらえるかい。それと、岩原さんという人にはどういう用件?」
「いえ、岩原さんに直接の用件というのではありません。岩原さんは海棠さんと親しくしていたようですので、海棠さんの消息を教えてもらえるんじやないだろうかと考えたんです」
「岩原さんは何をしている人かね?」
「ドイツ文学専攻の留学生でした」
「それじゃあ、日本に戻ったのだろう。文学じゃ飯を食っていくことはできない。ウィーンでは所詮浮き草だ」
男はテーブルの反対側に座ろうとした。璃紗子は慌てて近くにいたあの女店員を呼んで勘定を払った。ドアに向かっていく背中に男から声をかけられた。
「またいらっしゃい。ラーメンぐらいご馳走するから」
やや年嵩の女店員がドアのところで暖簾を直していた。璃紗子が擦り抜けようとすると、店員は耳元で囁いた。
「あたしのこと覚えてる?」
中国人らしい顔立ちをしているその店員に心当たりはなかった。璃紗子は訝しげな表情を浮かべた。店員は続けた。
「あんたとは入れ替わりだったから、覚えてなくても仕方ないわね。あんた、カイドウさんのことでこの辺りをうろつき回らない方がいいよ」
2
翌週の月曜日は麻薬中毒者支援センターでカウンセリングを受ける日だった。昨年の九月にウィーンに戻ってから変化したのは、ゲルストルがドラッグに無縁の人間である点だった。彼は璃紗子のヘロイン中毒を知り、麻薬中毒者支援センターに連れてきてくれた。センターではヘロインに対する対抗療法としてメタドン療法が採用されている。
メタドンは一九四〇年にドイツで鎮痛剤として開発された合成アヘンである。メタドンには強い陶酔作用は確認されていないが、感覚麻痺作用や鎮痛作用があり、作用時間はヘロインの約四倍もある。そして、通常の使い方をしているかぎり、依存性や中毒性は弱い。
このような作用特性から、メタドンはヘロインの禁断症状を緩和する代替薬物としてヘロイン中毒者に投与されるようになった。オーストリアでは一九九七年に麻薬取締法が改正され、「処罰の代わりに治療を」という方針が導入され、医師の処方箋によりメタドン投与量をコントロールする治療法が採用された。
璃紗子は支援センターに週一回、ときには二回のペースで通った。プログラムはカウンセリングとメタドン投与がセットになっている。支援センター通いが三、四か月経った頃には、彼女の気持ちもやっと落ち着きを取り戻しつつあった。いまでは月二回のペースで通所するだけである。メタドン投与量は徐々に減ってきた。カウンセリングも世間話で終始することが多くなった。璃紗子のメタドン代替治療はスムーズに進んでいる。
この日もカウンセラーと小一時間ほど話をして、センターを出た。カウンセリングの日には夜の部しかグラーベンに立たないことにしている。ゲルストルとはプルク劇場近くのカフェで待ち合わせていた。
待ち合わせの店では歩道一杯にテーブルを出して、オープンカフェにしていた。一渡り見回したが、ゲルストルの姿はない。璃紗子は店内に入った。ゲルストルは若い男と同席していた。男はハインツ・ホルヴァートである。ホルヴァートはゲルストルの友人で、麻薬中毒者支援センターでソーシャルワーカーをしている。
「久しぶりね。今日は非番だったの?」
「そう。それなのに、きみと顔を合わしたら、非番じゃなくなっちゃうよ」
「ご免なさいね。悪いから、これで失礼するわ」
璃紗子は腰をあげかけ、拗ねてみせた。
「冗談だよ。怒らないでくれ。何か飲み物をご馳走するよ」
「お言葉に甘えて、アップルジュースをお願いするわ」
ホルヴァートはウエイターを呼んで注文した。ゲルストルはワイン、ホルヴァートはビールを飲んでいた。
「あなたたち、今まで何の話をしていたの?」
「いつもの話題だよ」
「つまり釣りってことね。どうぞ続けて」
二人は釣り仲間である。次の休日にどこに行くか、作戦を立てはじめた。そのうちに、ポイントについてああだこうだと話題は展開していった。二人は議論に熱中している。璃紗子には関心外の事柄なので、雑誌を読んでいた。やっと話題が尽きたときには、三時を過ぎていた。ホルヴァアートはそそくさと別れを告げ、出ていった。
「ホルヴァートにも言ったんだけど、支援センターではメタドンの不正処方を受ける奴らが多いらしい。きみはそんな噂を耳にしたことがないかい?」
「聞いたことはないわ。ホルヴァートはなんて言っていたの?」
「おれの詰もよく開かずに、いきなり怒りだした。平謝りしてやっと機嫌を直してもらった。あんな怒り方をするなんてあいつらしくない」
「彼はソーシャルワーカーの仕事に誇りを持っている。その誇りを傷つけられたわけだから、怒るのも無理ないわよ」
「たしかにきみの言うとおりだ。だけど、あれは尋常じゃなかった」
「そもそも不正処方ってどういうこと?」
ゲルストルは説明しはじめた。
ヘロイン中毒から抜け出すつもりもないのに、支援センターに来てメタドンを処方してもらう連中が増えている。彼らはメタドンを麻薬密売組織に売って、小遣い稼ぎをしている。密売組織はそのメタドンをヘロインも買えないようなジャンキーに売り込んでいる。治療現場だけでなく、ドラッグシーンでもメタドンはヘロインの代替物になつているわけだ。なにしろヘロインだと、一日一グラム摂取するとして六十ユーロくらいになる。それに対して、メタドンの場合は一日せいぜい二十五ユーロで、半値以下である。売り手にとってうま味は薄いが、合法だから安全確実な商品である。そこにメタドンのメリットがある。密売組織のボスは中国人だという噂であり、日本人もその組織に関与しているそうだ。
「おれには思い当たることがあるんだ。支援センターの回りで日本人や中国人の若い娘がうろうろしているのを見かけることが多くて、不思議に思っていたんだ。彼女たちがきっと手引きしているというか、介在しているんだよ。彼女たちがジャンキーを支援センターに送り込んでいるんだろう」
「だけど、不正処方で密売メタドンを調達したって高が知れてるわよ。そんな利幅の薄い 商売だけで密売組織が成り立つとも思えない」
「組織ではメタドンの密造か何かもやっている。おれはそう睨んでいる。メタドンはもともと合成麻薬なんだからな。実はおれ自身誘われたことがあるんだ。この前きみを待っているときに、支援センターの近くで日本人が誘ってきた」
「女性からということ?」
「そうだ。カフェに行きませんかと言うんだ。そのときは何とも思わなかったけれども、メタドン密売絡みだったかもしれない」
「どうも気になる話ね。今度誘いに乗ってみたら」
「ミイラ取りがミイラになってしまったらどうする?」
「そのときには、全身を包帯でぐるぐる巻きにして人間彫像をしてもらうわ。ところで、その娘を覚えてる?」
「脳裏に焼き付いているよ。可愛い娘だったから」
「日本人がそんなことをしているなんて許せない。あなたに、本当にミイラ取りになってもらおうかしら」
「じゃあ、景気づけにもう一杯飲もうかな」
ゲルストルはワインを追加注文した。カフェを出ると、二人は腹拵えに向かった。だいたいはローテントゥルム通りを挟んだ一帯のレストランや居酒屋を河岸にしている。
今日はグリーヒェン小路のレストランで食事をとった。グリーヒェン小路ははローテントゥルム通りから東に伸びる通りである。店は三層になつている。二人は一番下の地下二階までおりた。
璃紗子はトーストを、ゲルストルはザウアークラウト添えのソーセージとダラーシュスープを、それにボトルワインを注文した。彼は新開掛けからクローネン新聞を取ってきて読みはじめた。
「東洋人が殺された」
一読し終えると、彼はそう言って新聞を璃紗子に渡してくれた。一面に赤い活字の見出しが踊っている。「東洋人の死体発見」という記事である。
東洋人の若い男性の死体がアルベルン港の畔にある無縁墓地で発見された。墓地に付属している礼拝堂の司祭がある墓の脇で土が盛り上がっているのを見つけた。念のためにスコップで掘り返してみると、真新しい死体が埋められていた。司祭はすぐさま警察に通報した。鑑識課員が死体を掘り起こした結果、死体は全裸で、右腕が欠損していた。司法解剖に付され、死因は腹部刺傷による失血死と判明した。死体は二十代の東洋人である。死後数日から一週間。身元を明らかにするものは皆無だった。
記事はそんな内容である。注文の品が運ばれてきても、璃紗子は記事から眼を離せなかった。彼女は何度も読み返した。
「アルベルン港って知ってる?」
「おれも一、二度行ったことがあるだけだ。釣り場になっている。ドナウ川とドナウ運河の合流点のちょっと先だな。辺鄙なところだよ。だからこそ無縁墓地があるんだろうけども」
「プラ一ターの突端の近くね」
「そうだ。死体はたぶん中国人だろうから、警察も本気では捜査しないだろう。迷宮入りになるんじゃないか」
璃紗子は死体が海棠貴史のものではないかと考えていた。あえて理由を言うと、彼が桜吹雪のタトゥーを施していたのも右腕であり、死体から欠損していたのも右腕だということである。殺害犯は身元判明の手がかりになるものを死体から切り離したのだ。彼女の心の底には、そんな論理的な理由づけよりも直截的な確信とでもいうべきものが根ざしていた。記事では死後数日から数週間となっている。タボール通りでの出来事が先週の火曜日で、それから五日経っているから、時間的にも符合する。
「この死体、日本人だと思うの。それもわたしの知っている人」
そう切り出して、璃紗子は語りはじめた。
璃紗子が四年前の春にKAPPAで働きはじめたとき、海棠はチーフ格で客対応を仕切っていた。海棠は彼女に親切にしてくれた。恋愛関係にまで発展したわけではなかったけれども、個人的にも食事をしたり、映画を見に行ったりもした。優しい先輩だと彼女は思い込んでいた。
年が明けた一月末のことだった。勤務中にトイレに行った。階段の踊り場に使用不可の掲示があったが、我慢できずに階段を駆けおりた。トイレの前に海棠が立っていた。「海棠さん」と声をかけると、彼が振り返り大きく眼を見開いたところまでは記憶している。そこで刺激臭を嗅がされ人事不省に陥った。どれくらい時間が経ったのか分からなかったが、璃紗子は腕に鋭い痛みを感じて眼を覚ました。躯を起こそうとして、ロープでベッドに縛り付けられていることに気づいた。周囲を見回した。見慣れない狭い部屋である。四、五人の人間が自分を取り囲んでいる。その輪から離れて、海棠貴史が自分を見下ろしている。冷然とした眼差しである。なぜこんな場所に海棠がいるのかと疑問に思い、声をかけようとした。その瞬間、猛烈な吐き気に感じた。バケツをあてがわれ、思い切り胃の内容物を吐瀉した。吐き気が収まっても、発汗や悪寒に繰り返し襲われた。やがて意識が薄れていった。再び意識が回復したとき、部屋には若い男が一人いるだけだった。
璃紗子はその男に何度か注射された。男に尋ねると、ヘロインだとぶっきらぼうに答えた。そんな日が数日続いた。海棠も二度顔を見せた。一週間ほどして彼女は車に乗せられ、四、五時間走った。そこでリヒャルト・ランツマンに引き合わされた。彼は人間彫像を売り物にしているストリートパフォーマーだった。彼は白塗りでなく素面で演じていた。ランツマンはヘロインを餌にして璃紗子を人間彫像のパートナーに仕立てあげていった。彼女はヘロインなしでは一日としてやり過ごすことができない躯になっていった。表現者を志向していたとはいえ、自らの肉体を媒体にした表現に関して門外漢だったから、その修業は辛いものだった。ヘロインほしさに、璃紗子は彼の厳しい指導に耐えた。
半年ほど経ってようやくランツマンの期待に応えることができるようになった。二人はベルリン、ミュンヘン、パリ、ローマと大都市を転々としながら、人間彫像を演じた。出し物はどの都市でも人気を博した。自分をパートナーに使っているランツマンの意図は璃紗子にも分かっていた。ヨーロッパ人には、東洋人がこんな演題でストリートパフォーマンスをしているというエキゾチスムを売り込むことができるし、また、近年とみに増加傾向にある日本人や韓国人、台湾人観光客の関心を惹くこともできるからだ。そして、璃紗子の美貌が大きな商品価値を生み出すとランツマンは考えている。ともあれ、辛い思いや諦念に気持ちが浸されることが多い反面、人間彫像というパフォーマンスを通じて表現の喜びを実感できる日々でもあった。というか、そこにわずかな希望、表現者としての誇りを見いだしていたのである。ところが、昨年の九月にランツマンはヘロイン中毒の果てに死んだ。三十年来の筋金入りのジャンキーだったのだ。
璃紗子は語り終えた。ゲルストルは彼女の顔を両手で挟んでキスしてきた。彼女が話している間、ゲルストルは彼女の髪を指で梳きながら耳を傾けてくれていた。質問を差し挟むことはなかった。
「そして、あなたと出会った。あなたがいなかったら、わたしはいまでもヨーロッパを這いずり回っていたと思うわ。わたしにとって、あなたは救いの天使」
「神がおれをきみのところにお遣わしになったんだ。ただし柄の悪い天使だがね。こんなに詳しくきみの身の上話を聞くのは今日が初めてだ。訊ねようと思ったことも何度かあったが、きみの心の底には重石のようなものがある、そう感じていた。だから、きみの心が自然にほどけるのを待っていたんだ。きっと、きみは人間彫像に満足しているわけじゃない。本当は絵を描きたいんだろう。もしそうなら、無理しなくていいんだ。きみの生きたい道を進むといいよ」
「たしかに以前は迷っていた。絵を描くという夢をむりやり奪われたから、なおさら夢にこだわる気持ちを持っていた。でも、絵描きはたくさんいるわ。そのなかでわたし自身のオリジナリティを創造できるかしらと考えると、自信がなくなるの。だけど、人間彫像は違う。ここにはわたしたちの独自の世界がある。これからも表現の可能性を広げていける。まだ迷いが吹っ切れたわけではないけれど、人間彫像がわたしの生きていく道だと思っている。あなたのお陰よ」
ランツマンの葬儀に訪れたゲルストルは璃紗子のテクニックを惜しんで引き取ってくれた。彼は人間彫像の芸でランツマンの弟弟子に当たる。ゲルストルはずっとウィーンを拠点に一人で活動していた。
璃紗子がゲルストルのパートナーになって九か月後、二人は結婚した。今年の六月のことである。できればゲルストルとともに一度日本に帰り、五年前に他界した母親の墓参りをしたいと考えている。葬式の時に帰国したきりなのである。
「アルベルンの無縁墓地で発見された死体はカイドウという男だときみは考えているわけか。だとすると、きみをヘロイン地獄に引きずり込んだ男が非業の死を遂げたわけだ」
ゲルストルは冷静な口調でそう言って、ワインを璃紗子のグラスに注ぎ足した。
「そのとおりね。わたしは海棠貴史に対して恨みを晴らすつもりだった。あのとき、海棠はクロロフォルムか何かを嗅がせてわたしを失神させたのよ。そして、わたしをヘロイン中毒に引きずり込んだ。自分に地獄を味わわせた海棠にどうすれば復讐できるか。あの男を見かけてからは、グラーベンで演技していても考えるのはそのことばかりだった。わたしはこの死体が本当に海棠なのかどうか確かめたいのよ」
「手がかりはあるのかい?」
「とりあえずはKAPPAの中国人店員だわ。海棠のことで嗅ぎ回るなと警告してくれた。何か知っているに違いないわ。もう一度彼女に会わなければならない。謎をなんとしても解き明かしたいのよ」
ゲルストルは無言で璃紗子にキスをした。ワインボトルはとうに空になってていた。料理もほとんど平らげられている。
「ワインをもう一本頼んでもいいかい?」
「駄目よ。あなたは飲み過ぎるんだから」
ゲルストルはアル中ではないけれども、かなりの酒好きだ。黙っていると、ワイン二、三本くらいあっとという間に飲み干してしまう。彼は妥協してカラフェで〇・五リットルを注文した。
カラフェが運ばれてきてから、話題は人間彫像に移った。そうなるとゲルストルの独壇場だ。彼は寝ても醒めても人間彫像のことを考えている。ワインの聖霊に満たされると、アイデアが次々と湧いてきて、とめどなく語り続ける。璃紗子は相槌を打ちながら耳を傾けているしかない。
「トースト二枚だけじゃ足りないだろう」
アイデアが途切れたときに、彼はそう言い添えて、バスケットを璃紗子の方に滑らせた。彼女はバスケットからゼンメルンという丸パンを一個取り、皿に残っているグラーシュスープに浸して口に運んだ。トマトの味がしみて美味い。彼女は満足そうに頬笑んだ。ゲルストルはまた語りはじめた。
これまでは彫刻作品を主なモティーフにしてきた。特にバロック芸術の表現過剰といえる世界がゲルストルの志向に合っていた。ところが、最近はダスタフ・クリムトやエゴン・シーレ、オスカー・ココシュカといったウィーン世紀末の画家に食指を動かしているようだ。表現過剰という意味では、バロックとウィーン世紀末は彼の意識のなかで一連なりのものになっている。
ゲルストルは一時間以上熱っぽく語り続けた。カフェレストランを出てグラーベンに向かう道すがら、璃紗子はKAPPA再訪の意志を彼に伝えた。
3
璃紗子は閉店時間を見計らってKAPPAを何度か訪れた。といっても、店内に足を踏みいれたわけでない。ウインドショッピングしている振りをして、璃紗子は辺りの街路を往ったり来たりした。しかし、目当ての中国人店員の姿はなかなか見かけることができなかった。店員が店から出てきたと思ったら、仲間と連れ立っていた。その結果、一週間近く無駄にしてしまった。
中国人店員に会えないことの埋め合わせでもなかろうが、旧知の日本人二人に遭遇した。一人は岩原昭二である。
九月上旬の金曜日、璃紗子は銀行で手続きしなければならない用件があった。用件を済ませてから、一息つこうと思ってグラーベンの脇道にあるカフェに入った。二重ドアを開けると、八十を越えているだろう老婆が迎えてくれた。その老婆に案内されて、壁際のテーブルについた。ミルクコーヒーを注文した。
テーブルはほぼ満席で、タバコの煙が濛々と立ちこめている。タバコの煙に燻られたのか、太い梁は真っ黒になつている。璃紗子は壁に貼ってあるポスターやビラを眺めはじめた。ポスター類を見ていると飽きることがない。朗読会や展覧会、音楽会とジャンルも雑多である。カラーのきれいな仕上がりのものもあれば、手書きのもある。眺めているうちに、コーヒーが運ばれてきた。
美術展のポスターが目についた。三人展である。出展者の一人として日本人が名を連ねていた。会場となっている画廊の名前は璃紗子にとって懐かしいものだった。この画廊には何度も足を運んだことがある。
六年前、璃紗子はウィーン美術工芸大学留学のためにウィーンに来た。日本で美術大学を卒業後、恩師から大学院進学を勧められていた。だが、彼女はヨーロッパ留学の道を選んだ。資金は父親の病死によって得た保険金だった。とはいっても、それほど多額のものではなかった。母親は一人娘の将来に自らの希望を託したのだ。
璃紗子は美術史美術館やベルヴェデーレのオーストリアギャラリー、分離派美術館といった名だたる美術館はもとより、シュテファン大聖堂周辺にある小さな画廊にも足繁く通った。自分の作品がそのショーウインドーを飾る日が来ることを夢見ながら。三人展の会場はそんな画廊のひとつである。
物思いに耽っていると、不意に肩を叩かれた。驚いて振り返った。岩原昭二が笑みを浮かべて立っていた。
「驚かせてご免なさい。空席を探していたら、日本人らしい人が見えたので、相席をお願いしようと思ったんだ。まさか室生さんだとは思いも寄らなかった。奇遇だね。ここに坐っていい?」
璃紗子が頷くのを確認して、岩原は腰をおろすとビールを注文した。仕立ての良さそうなべージュのスーツにピンストライプのはいったワイシャツ。ケースから葉巻を取りだし、火をつけた。金張りのデュポンである。
璃紗子が知っている岩原昭二はラフな格好のイメージしか残っていない。見違えるような雰囲気だ。彼は東北の私立大学でドイツ語の非常勤講師をしていた。もともとはドイツ文学専攻であり、ドイツ文学専任講師の口を狙っていた。その実現に向けたキャリアアップのためにウィーン大学に留学していた。研究対象はレオポルト・アンドリアンとかいう作家だった。璃紗子も留学生だったので、彼とは接点があった。さらに彼女がKAPPAに勤めはじめると、常連だった岩原とは頻繁に顔を合わせるようになった。同じ志を持つ者として、彼は璃紗子にいろいろとアドバイスをしてくれた。璃紗子も岩原の落ち着いた挙措に信頼感を寄せ、年の離れた兄に対するような感情を抱いていた。
「あれから三年半以上になるのかな。突然KAPPAを辞めてしまったから、みんなびっくりしたんですよ。いつウィーンに戻ってきたの?」
大柄な躯を反響体にしたバリトンである。他人の警戒心を無意識のうちにほぐすような造作のゆったりとした顔がそこにあった。二重瞼の大きな眼と座りのいい鼻がバランスよく配置されている。もう四十を過ぎているはずである。
璃紗子は辛かった出来事を吐露したいと一瞬思った。しかし、思い止まった。そもそも三年前の一月に自分を見舞った出来事も岩原にとっては突然の退職に過ぎなかったのだ。自分が味わってきた苦難はそんな彼には想像もつかないだろう。
「みなさんには挨拶もしないで姿を消すような格好になってしまいましたものね。ヨーロッパをあちこちと旅していたんです。ウィーンには去年の九月に戻ってきました。もうすぐ一年になります」
「すっかり大人の女性になったね。一段と綺麗になった。いまも絵をやっているの?」
「いいえ、絵は諦めました。才能がないことを思い知りましたから。いまは人間彫像のストリートパフォーマンスをしています」
「グラーベンでやっているものですか?私も何度か見たことがあります。じゃあ、聖テレジアは室生さんが演じているんですね」
岩原は大仰な口振りで驚いてみせた。そのわりには視線は動かない。かつて彼の眼差しは悠揚迫らざるといった雰囲気を湛えていたのに、随分印象が変わったと璃紗子は感じた。「岩原さんはいま何をなさっていらっしゃるんですか?」
「私ですか。私も大学教師の道は断念したんです。というか、ウィーンが好きなんだな。ウィーンで暮らし続けたい。ずっとそう思っていました。それで、いまは翻訳の仕事をしています。日本語からドイツ語へ、ドイツ語から日本語へと両刀遣いです。内容は何でもござれの便利屋です。そのお陰で何とか食べていますよ。それに旅行ガイドの仕事も日本の企業などから結構あるんです。経済ミッションがよく来るんですよね。ウィーンはハンガリーやチェコなど旧東欧圏の貿易窓口になっていますから」
興に乗ったのか、岩原はガイドでのエピソードを披露しはじめた。喉を潤すためにワインを注文した。二人は一時間以上カフェにいて、グラーベンで別れた。
「また会いたいですね。パートナーの方からいろいろ詰も聞きたいし」
別れ際に彼はそう言って、北に向かって小路をぶらぶら歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、翻訳や旅行ガイドの仕事だけであんな格好ができるものだろうかと璃紗子は不思議な思いにとらわれた。
その五日後、今度は田村亜紀子に会った。マリアヒルファー通りでショッピングをしているときに、声をかけられた。彼女は日本資本のデパートに勤めていた。共通の友達を介して知り合った仲である。
どちらからともなく誘い合って、二人はカフェに入った。話題としてはまず近況報告である。亜紀子は大学を辞めたのかと訊ねてきた。璃紗子は頷き、しばらくヨーロッパ各地を旅していたこと、この六月にオーストリア人と結婚したことを告げた。詮索されるのを避けるために、璃紗子は亜紀子の近況に水を向けた。
亜紀子はいまもデパートで店員をしている。気心が知れている気安さからか、彼女は日本人観光客の傍若無人な態度や非常識を非難しはじめた。ウィーン市民のショッピングエリアであるこの辺りに日本人観光客は滅多に来ないので、日頃の鬱憤を晴らすかのように罵っている。聞き苦しいほどだった。亜紀子が一息いれたところで、璃紗子は話題を変えようとした。
「この前岩原さんに会ったわ。仕立てのいいスーツをりゅうと着こなしていた。見違えるようだった」
「岩原昭二?人間性の卑しさを外見で取り繕っているだけだわ」
亜紀子の口調は辛辣なものである。先ほど日本人観光客を罵っていたときは座興として話題にしていたのだろうけれども、いまは口の端を歪めて心の底から吐き捨てるような言い方だった。
「でもわたしなどは岩原さんに随分お世話になったわ」
「彼はすっかり変わった。身なりのことだけじやない。彼はドイツ文学者への道も捨ててしまったよ。四十近くなって先の見通しもないというのでは、見切りをつけたくなる気持ちも分からないでもない。だからといって、日本人留学生を食い物にしていいという理屈はないでしょう」
「どういうこと?」
「わたしも詳しくは知らないから、これ以上のことは言えない。でも、あの人には近づかない方がいいわよ。こんな辛気くさい話はもうやめましょう」
田村亜紀子はあえて立ち入った話を避けたようだ。二人は再び世間話に戻った。旧交を温めるのに十分な時間を過ごした。互いの電話番号を交換して、夕方に別れた。
一人になると、亜紀子から聞いた話が再び意識にのぼってきた。彼女の言葉は岩原の存在そのものを否定するものだ。
亜紀子と岩原との問には特別な関係があって、それが破綻でもしたために、あんなに激しい反応を惹き起こしているのだろうか。それとも、ウィーン生活のストレスが誰彼なしに攻撃する言動に亜紀子を駆り立てているのだろうか。
日本人留学生を食い物にしているという亜紀子の言葉が具体的に何を意味しているのか。先日会った岩原の様子からは信じられないことである。この言葉は棘のように璃紗子の心に残った。
例の中国人店員に会えたのは翌週の月曜日だった。この日はアムホーフ広場でKAPPAを見張っていた。
閉店時間の午後十一時を過ぎて七、八分経った頃、目当ての店員が通りに姿を現した。彼女はフライウングを抜けて、ショッテン小路を北に向かった。ショッテンリンク通りで地下におりた。
ショッテントーア駅からは市電が何本も出ている。店員は四十三番線の停留所に立った。ヘルナルス行きである。声をかけようかと思った。しかし、KAPPAからそれほど離れていない場所で彼女と接触を持つのは危険かもしれない。璃紗子は階段の陰で彼女の様子を見守った。この時間になると、市電の運転は間遠になる。十分以上待って、やっと市電は来た。
璃紗子は最後に市電に乗り込んだ。二両目の車両だった。店員は一番前のシートに坐った。璃紗子はその後ろに席をとった。周囲を見回した。後部座席に四、五人の乗客がいるだけだ。三つ目の停留所を過ぎたところで声をかけた。
「こんばんわ」
璃紗子の声に店員は振り返った。
「あらっ、あんたなの。まだカイドウさんについて喚ぎ回っているわけ。いい加減にやめなさい」
「少しお話しできない?一昨日のクローネンに気になる記事が載っていたのよ」
「あたしはドイツ語を読むのが苦手だから、オーストリアの新聞は見ない。一体どんな記事だった?」
「降りてから話すわ」
「あたしは次の停留所で降りるのよ」
市電は太い通りを横断した。ヴェーリンガ一環状通りである。店員は立ち上がった。璃紗子も彼女に続いた。降りたのは二人だけだった。通りには街路灯のオレンジの明かりが灯っている。
「近くにバーでもないかしら?」
「ちょっと戻ったところにあるわ」
そう言って、店員は先に立った。イエルガー通りを環状通り方向へと歩くと、薄暗い照明を通りに投げている店があった。
ドアを開けた。カウンターに客が数人坐っている。中高年の男ばかりである。ボーイも客も壁に据え付けられているテレビに見入っている。画面にはサッカーの試合が映し出されている。璃紗子たちはその脇を通り抜けて奥へと向かった。東洋人の女二人連れに排外主義が刺激されたのか、露骨な舌打ちの音が聞こえてきた。
璃紗子はグラスワイン、店員はコーヒーを注文した。二人は改めて自己紹介した。店員は陳黄華と名乗った。璃紗子はクローネン新聞の記事の内容をかいつまんで説明した。
「死体は海棠貴史だとわたしは推測している。彼は右腕にタトゥーをしていて、それが自慢だった。それで身元が判明することを恐れて、犯人は右腕を切断したのよ」
「信じられない。だけど、あんたの推測は当たっているのかもしれない。カイドウさんとは何日も電話連絡がとれなくなっているの。こんなことなかったから、心配してたんだ。あんたはざま見ろという気持ちだろうね。でも、誤解だよ」
「どういうこと?」
「あんたはカイドウさんを恨んでいるでしょう?」
「そのとおり。殺したいと思うくらい恨んでいる」
「恨むのは当然かもしれないけど、カイドウさんだってどうしようもなかったんだ。あんたは殺されていたのかもしれないんだから」
「なんですって。殺されるってどういうこと?そもそもわたしは海棠のせいでヘロイン中毒の地獄を味わったのよ」
璃紗子の声は裏返った。予想だにしなかった言葉だったからだ。一呼吸置いてから、グラスを口に運んだ。グラスを傾けすぎて、璃紗子は噎せた。
「あんたがボスか誰かの犯罪行為を目撃したからよ」
「ボスって誰?そもそもわたしはそんな場面を目撃したことはない。何かの誤解だわ」
「カイドウさんはある組織のメンバーだった。もちろんまともな仕事をする組織じゃない。中国人がボスで、麻薬密売とか中華料理店相手のショバ代稼ぎや売春を稼業にしている組織。誤解かどうかはともかくとして、ボスたちはあんたに目撃されたと考えたのよ。おそらく殺人か何かだったと思う。それであんたを消してしまおうと考えた。同じ日本人として忍びないと考えて、カイドウさんはあんたの命乞いをしたんだ。カイドウさんは必死で頼み込んだ。それでボスたちはあんたをヘロイン漬けにして、別の組織に売り飛ばすことを考えた。あんたが殺されるのを見ているか、自分の手であんたにヘロインを注射するかの二者択一をカイドウさんは迫られた。カイドウさんには選択の余地はなかったのよ」
「本当とは思えない、そんな裏事情があったなんて。でも、なぜあなたはそこまで知っているの?」
「あたしの姉ちゃんはカイドウさんの恋人だったの」
そう打ち明けて、陳黄華は話しはじめた。
陳黄華の姉は海棠と同じ組織のメンバーだった。旧東欧圏の女を使った売春の手先をしていたけれども、組織の仕事に嫌気がさしていた。海棠も同じような気持ちになっていて、組織から抜け出すチャンスを窺っていた。二人はとりあえずリンツに逃げるつもりだった。ところが、明日逃げ出すという日に姉が捕まってしまったのだ。彼は組織に忠誠を誓い、彼女の命乞いをした。けれども、ボスは命乞いというものは一度きりだと言って、許してくれなかった。海棠は見張りの隙を狙って命からがら逃げ出した。しかし、姉を助けることはできなかった。
「命乞いは一度きりというのはわたしのときのことね。あなたのお姉さんが亡くなったのはわたしのせいでもあるのね」
「そうじやない。命乞い云々は言葉の綾みたいなもの。ボスはどっちみち姉ちゃんとカイドウさんを許すつもりはなかったと思う。カイドウさんはそれっきり音信不通になつてしまった。電話がかかってきたのは三か月前のこと。二年半ぶりよ。ウィーンに戻ってきたことと姉ちゃんの仇を討つつもりであることをカイドウさんはあたしに告げた。それからあたしたちはごくたまに会った。会うたびに、ボスとその補佐をしている幹部の尻尾を何としても掴まえたいとカイドウさんはいつも言っていたわ。あんたが訪ねてきたことは結局知らせることができなかった」
「そこまでは分かったわ。でも、なぜ彼はわたしのことをあなたに話したの?」
「ウィーンに戻ってきて間もなく、カイドウさんはグラーベンで人間彫像を見たそうよ。目鼻立ちであんただと分かった。それがきっかけで姉ちゃんのこともオーバーラップしたらしく、カイドウさんは過去の経緯をあたしに打ち明けてくれたわけ。そのとき、カイドウさんはいつかあんたがKAPPAを訪ねてくることを予期していたみたいだった」
思い起こしてみれば、当時のKAPPAには日本人店員が二人しかいなかったせいか、海棠は後輩の璃紗子によくしてくれた。店にはユーゴスラビア人やチェコ人、ハンガリー人が時折来ることがあった。彼らは訛りの強いドイツ語を使う。そのため相手の言葉が聞き取れないことがあった。そんなとき、海棠はさっと近寄ってきてさりげなく応対してくれた。いままではその優しさも璃紗子をヤク中に引きずり込むための偽りの優しさだと考えていた。そんな海棠が陳黄華の説明により違った相貌を見せてきた。
さらに璃紗子は犯罪行為を目撃したという事実について考えを巡らせた。しかし、思い当たる事実はなかった。
「彼はなぜ殺されたのかしら」
「はっきりと言っていなかったけれど、カイドウさんは何かを掴んだらしいの。それをネタに強請をかけたのかもしれない」
「彼とあなたの関係は店の人は知っているの?」
「知らないはずよ」
「彼の部屋には入れないかしら?」
「合い鍵を持っているから、それは可能だけど……。まだ危険かもしれない」
陳黄華はしばらく逡巡していた。璃紗子は繰り返し頼んだ。陳黄華はようやく納得した。新聞報道でも、被害者の身元が判明したとか右腕が発見されたという記事は掲載されていない。海棠が本当に被害者だとすれば、陳黄華以外に海棠の失踪届を出す人間も考えられない。今度の木曜日に行動に移すことにした。陳黄華が休日シフトに当たっているし、璃紗子も休演日である。今後の連絡のために二人は電話番号を交換した。
4
木曜日の午後一時半、璃紗子は陳黄華と地下鉄カールス広場駅で待ち合わせた。駅地下街にはイタリアンレストランやファーストフード店、寿司屋など飲食店が軒を並べている。通路には新聞売りが店を広げている。黒人の姿が数多く眼につく。この地下街からカールス教会にかけては、ジャンキーが多くたむろしていると言われている。璃紗子は左右に目配りを怠らず、緊張しながら陳黄華を待っていた。
国立オペラ劇場側のエスカレーターに陳黄華の姿が見えた。せかせかした足取りで近付いてくる。彼女は璃紗子に軽く会釈すると、歩調をゆるめないで地下鉄の改札口に向かった。
「海棠さんのアパートメントはどこにあるの?」
「五区のヨーゼフ・シュヴァルツ小路。地下鉄四号線マルガレーテン環状通り駅の近くよ」
マルガレーテン環状通り駅の近くということはウィーン西駅から南に地下鉄一駅半ほど下がった辺りだろう。もし日本人留学生から住まいについて相談されたとしても、あまり推奨できる地域ではない。風紀がいいとは思えないからだ。もっとも西駅周辺ほどじゃないだろう。西駅から北側の一帯では、夜ともなればどぎついスタイルで男を挑発するストリートガールが跳梁しているそうだ。
カールス広場駅には一号線、二号線、四号線の三路線が交差している。四号線のホームは一番深い。エスカレーターを乗り継いで、二人は地下に潜っていった。
二人が乗った車両は空いていた。数人の年寄りが席を占めているだけだ。マルガレーテン環状通り駅は三つ目の駅である。璃紗子はこの駅に初めて降り立った。駅から南東にマルガレーテン環状通りが走っている。「二、三百メートル先よ」と言って、陳黄華は歩き出した。まっすぐ歩いていくと、ひときわ高い建物が眼についた。
「あの建物がカイドウさんのアパートメント」
正面外壁に、腕を天に突き出している男のレリーフが見えた。その下には「光、空気、太陽」というスローガンらしきものと建物の名前が刻まれている。汚れでくすんでいるが、ヒンメルプフォルテホーフという文字が読みとれる。海棠の死を考えると、皮肉な響きがする。ヒンメルプフォルテは天国の門という意味なのだから。手の届く範囲の壁にはいたるところスプレーで色とりどりの模様が描かれている。
陳黄華は先に立って右から四番目の入口に向かった。入口にはネームプレートが掲げられている。彼女は五〇八の部屋番号を指さした。オーストリア人の名前が凝った書体で書かれている。
「知り合いのオーストリア人から又借りしているの」
陳黄華はあたかも自分自身が不正をしているかのように弁解口調でそう言った。入口のすぐ奥にあるエレベーターで二人は五階に上がった。エレベーターの内部には小便の臭いがこもっている。子供たちが垂れ流しているのだろう。この地域には外国人労働者が多いと言われている。おそらくこのアパートメントにもユーゴスラビア人やチェコ人、トルコ人などが住んでいるはずだ。
五階に着くと、ドアが開くのを待ちきれずに二人はエレベーターから飛び出した。臭いが耐えきれないほどになっていたのだ。陳黄華が鍵穴をがちゃがちゃさせている。渋いようだ。やっとドアが開いた。璃紗子は彼女に招きいれられた。
ドアをはいってすぐの部屋がキッチンになっている。わりと片づいている。二人は隣りの部屋に足を踏みいれた。室内が滅茶苦茶に荒らされていた。テーブルの上のものはすべて払い落とされている。コーヒーカップや灰皿、吸い殻とともに、雑誌類が床に散乱している。惨憺たる有様に陳黄華は茫然と立ち尽くしている。
「やはりカイドウさんは殺されたのかもしれない」
彼女は呟いた。それから、床に散らばっているものを一つひとつテーブルや本棚に戻しはじめた。璃紗子も手伝った。しばらくすると、陳黄華が手を休めて何かを見つめている。璃紗子は彼女の手元を覗き込んだ。そこには一枚の写真があった。
「姉ちゃんとカイドウさんのツーショット」
写真には見慣れた海棠の顔とともに、眼の涼やかな細面の顔が写っている。陳黄華は写真スタンドの破片を集めている。璃紗子は写真を返した。陳黄華はほぼ復元できたフレームに写真をはめ込み、それを新聞紙で丁寧にくるんだ。
二人はその部屋の片付けを終えてから、隣室に移った。ベッドルームだった。シーツやマットがひっくり返されている。ベッドの脇の机に置いてあるパソコンも叩き壊されている。陳黄華はパイプイスに腰を落としている。璃紗子は話しかけた。
「この前、海棠さんが組織のボスを強請っていると言っていたわね。だとしたら、強請の証拠品を見つけるために、組織の人間が家捜ししたと考えざるを得ない。何かの拍子に第三者に発見されるのを恐れたんだわ」
「そうだね。単なる泥棒の仕業とは思えないよね」
「何を種に強請っていたかは知らないの?」
「カイドウさんもそこまでは言わなかった。とにかく、今日はこれで帰ろう。辛すぎるよ」
二人はアパートメントの中庭を抜けて、反対側から出ようとした。建物の四辺に合わせて中庭にはベンチが四脚置かれている。ベンチの周囲に潅木の茂みがある。白黒プチの猫が顔を出した。ニャーと一声啼いて、また茂みのなかに身を隠した。マルガレーテン環状通り駅で二人は別れた。陳黄華はウィーン西駅の方に行くと言って、市電に乗り込んだ。璃紗子は地下鉄に乗らずに、ぶらぶらと北に向かった。
ナッシュマルクトで野菜や果物、チーズの店を冷やかしながら気ままに時間を潰した。シュテファン広場駅から地下鉄に乗り込んだとき、十時を過ぎていた。三つ目のプラーターシュテルン駅に降りた。駅からアパートメントまでは徒歩十二、三分の距離である。治安のいい地区とは言えないので、深夜に女が一人歩きするには不安がある。
駅から北西に伸びる通りから左に折れて、小路にはいった。この辺りになると、両側に五階建ての灰色の建物が無機質に連なるだけだ。璃紗子はヒールが反響する音に追いたてられるように歩みを早めた。ヒール音に混じってかすかな靴音がするのに気づいた。スニーカーを舗石に擦っているような音である。癖のある歩き方だ。彼女は振り返った。街路灯の光に男の姿が浮かび上がった。
彼女は交差する小路の角まで小走りで急ぎ、建物の入口に身を隠した。若い男が通り過ぎていった。あとをつけられたと思ったのは気のせいのようだ。男をやり過ごして、少し時間を置いてからまた小路に戻った。そこからアパートメントまでは百メートルあまりである。アパートメントに着くと、階段を駆け上がって部屋の鍵を回した。ゲルストルはリビングルームでワインを飲んでいた。
「帰りを待っていたよ。今日ついにあのカワイコちゃんに誘われた」
ホルヴァートに会った日の翌日から、ゲルストルは毎日のように麻薬中毒者支援センターの近くに足を運んでいる。人間彫像がある日はアパートメントまで璃紗子を送ってから支援センターに向かう。そこで例の日本人女性からの接触を待っていた。
「あなたの推理は当たったの?」
「当たったような当たらないようなってところだ。カフェに行ったんだけど、彼女は所得税の対象にならない仕事をしないかと持ちかけてきたんだ。どんな仕事だと訊いたら、まずイエスと返事することが先決、それから仕事の内容を説明すると言うんだ。あなた、お金に困っているでしょうときやがったよ。可愛い顔に似合わず、高飛車な言い方なんだ」
「それでなんて返事したの?」
「少し考えさせてくれと言って、その場を取り繕ってきた。おれがその気になったら、彼女に声をかけることにしたんだ」
ゲルストルは立ち上がり、ワインを冷蔵庫から取り出してきた。璃紗子の前にグラスを置いて注いでくれた。軽くグラスを合わせてから、璃紗子は一口啜った。
「残念ながら、今日は収穫なしというわけね」
「まだ続きがあるんだよ。探偵としてはそれで引き下がるわけにいかないじゃないか。カフェを出てから、彼女の様子を探っていたんだ。彼女はまた支援センターの周辺をうろうろしはじめた。しばらくすると二十歳半ばの男に話しかけ、先ほどのカフェに入っていった。三十分ほどして男が一人で先に出てきた。カフェから離れたところで男に声をかけたんだ」
ゲルストルは得意げに語りはじめた。
ゲルストルはその男を近くのワイン居酒屋に誘った。見ず知らずにもかかわらず、男は簡単に誘いに乗ってきた。「この辺りでうろついている日本人や中国人の女には気をつけたほうがいい。あんた、さっき日本人の女に誘われて、カフェに入っただろう」
ボトルが一本空いた頃合いを見計らって、ゲルストルはこう切り出した。そのうえで、女の用件はメタドンのことじゃないのかと鎌をかけてみた。的中だった。酔いがかなり回っていた男は彼女から説明されたシステムをぺらぺらと喋った。オーストリア人男性は支援センターでヘロイン中毒だと虚偽申告をして、メタドンを処方してもらう。一回で二週間分処方されるから、それを買い取ってくれるというものだった。
「推測していたとおりね」
「メタドンに絡む組織があるとして、こんなケチな商売をするとは思えない。そこが理解できないんだ」
「女の子たちの小遣い稼ぎじゃない?」
「なるほどそうかもしれないな。もう一度あの娘を見張ってみるよ」
時計の針は午前○時半を指そうとしていた。ゲルストルはボトルに残ったワインを飲み干した。
5
火曜日、ゲルストルは例の日本人女性の動きを探るために午前中に外出した。璃紗子はソファでうとうとしていた。携帯電話の着メロが彼女を午後のまどろみから引き戻した。
「おれだ。いまグラーベンにいる。カフェ・オイローパで例の女がある人物と会っている。きみがびっくりする人物だ。オイローパの前で待っているから、すぐ来てくれ」
ゲルストルはそれだけを告げ、電話を切った。璃紗子はとるものもとりあえずタクシーを呼び、グラーベンに走らせた。カフェ・オイローパの前はオープンカフェになっていて、色とりどりのパラソルが歩行者天国にまで張り出している。璃紗子は辺りを見回した。その一つから彼女を呼ぶ声がした。ゲルストルがパラソルの下から手を振っていた。
「びっくりする人物って誰?」
璃紗子は立ったままそう訊ねた。ゲルストルはサングラスをずらして、上目遣いに彼女を見てにやにやしている。
「自分の眼で確かめてみるといいさ。壁際の一番奥のテーブルに坐っている」
彼女はゲルストルの顔からサングラスをはずして自分の顔にかけると、カフェに向かった。カフェ・オイローパは奥行きの深い店である。片側はアーケードに面していて、全面ガラス張りになつている。璃紗子はサングラスをかけると、アーケードの奥の方に歩きはじめた。曲がり角の柱の陰に立って、店内を覗いた。視線をずらして壁際のテーブルを眺めていった。
壁に掛けられた世紀末ウィーンの風景画の下で、若い日本人女性が笑みを浮かべている。眼がばっちりしていて、鼻がちょこんと上を向いている。いかにも日本人っぼい顔立ちである。この女がゲルストルを誘ったということだ。メタドンに絡んだ犯罪に関与しているとはとても思えない。その向かいに男が坐っている。斜め後ろからなので、顔立ちがはっきり見えない。璃紗子は少し移動した。男の顔が鮮明な像を結んだ。岩原昭二だった。この場にいるなんて予想だにできない人物である。ゲルストルが言っていたとおりだ。璃紗子は心底驚いた。二人は親しげに談笑している。その姿を横目にしながら彼女はゲルストルのもとに戻った。
「岩原さんはメタドンに関わっているのかしら?二週間くらい前に知り合いに会ったときに、岩原さんをひどく非難していたのよね。日本人留学生を食い物にしているって彼女は言っていた」
「じゃあ、あの娘も餌食にされたというのかい?」
「分からないわ」
「おい、あの男が出てきた。シュテファン広場の方に歩いていくよ」
カフェ・オイローパに背を向けていた璃紗子は顔を振り向けて岩原を見送った。
「彼女とは深い関係はないのかもしれない。たまたま顔を合わせて、コーヒーを飲んでいただけなんだわ」
「いや、彼女は支援センターで二、三人の男に声をかけ、それからこっちに向かったんだ。あの男とはカフェ・オイローパで待ち合わせていたと思うよ。あの男が坐っているテーブルに直行したからね。だからといって、二人が会った用件がメタドン絡みだとは限らないけれど」
そのとき、石畳を靴底で擦るような音が二人のテーブルの脇を通り過ぎた。璃紗子はその不快な音に思わず顔を上げた。スキンヘッドの若い男である。何本ものピアスが耳朶を飾っている。一瞬視界をかすめた横顔が璃紗子の記憶をくすぐった。男はカフェ・オイローパに入っていった。少し時間を置いて、彼女はそのあとを追った。ゆっくり移動しながらガラス越しに男を探した。スキンヘッドは先ほどまで岩原がいたテーブルで日本人と相対している。
璃紗子は男の横顔を捉えた。男はジーンズのポケットからポロのキャップを取り出し、後ろ前に被ろうとしている。その顔から鼻が異様なまでに突き出ている。特異な容貌である。記憶が甦った。若者は海棠が拉致された車を運転していた男だった。あのとき、運転手は一瞬璃紗子の方を見やった。特徴的なその顔が彼女の視界を過ぎった。いま眼の前に見ているのは紛れもなくその運転手の顔である。後部座席では海棠がこわばった表情を浮かべていた。その記憶とともに、三五四RMという番号も脳裏に鮮明に浮かんできた。拉致車のプレートナンバーである。
璃紗子はゲルストルの待つテーブルにとって返した。
「いま通り過ぎっていったスキンヘッドは海棠さんの殺人事件に関与しているかもしれない」
璃紗子は説明した。ゲルストルは頷きながら耳を傾けていた。
「少なくともその若い男からは事情聴取をする必要性があるわけだな。おれの友達でルーカスっているだろう。あいつはウィーン警視庁の刑事なんだよ。実は、アルベルンの無縁墓地で発見された死体について、きみの推測をあいつに伝えようかとも考えていた。しかし、根拠のない情報を提供したらかえって迷惑かもしれないので、躊躇していたんだ。だけど、いまの情報は価値が高い。きみ自身が警察に呼ばれるかもしれないけれど、ルーカスに話していいね。それとカイドウさんの住所を教えてくれ」
璃紗子は海棠のアパートメントの住所と名前、五〇八という部屋番号を伝えた。ゲルストルはビールのコースターにメモしている。
「あなたがその刑事に伝える前に、わたしから陳黄華さんに事情を説明しなければならな
いわ。ちょっと電話をかけてくる」
璃紗子は立ち上がった。テーブルとテーブルとの間を擦り抜けて、オープンカフェの外に出た。璃紗子は陳黄華に電話をかけた。電話口に出た声は低かった。別人かと思うほどである。璃紗子が名前を名乗ると、陳黄華はやっと張りのある声で応対しはじめた。璃紗子はここ数日の動きを説明して、海棠の件について警察に通報する旨を伝えた。
それに対して、警察の捜査がはいる前にもう一度ヒンメルプフォルテホーフを訪ねたいので、同行してほしいと陳黄華は璃紗子に頼んできた。陳黄華は今週ずっと遅番なので、明日午前中にヨーゼフ・シュヴァルツ小路に行くことにした。
翌日、璃紗子はカールス広場駅で陳黄華と待ち合わせて、地下鉄四番線に乗り込んだ。二人がヒンメルプフォルテホーフの海棠の部屋に入ったのは午前十時前だった。室内には湿気と饐えた臭いが籠もっていた。陳黄華は居間と寝室の窓をすべて開けた。秋風が室内を吹き抜けていった。
「カイドウさんの消息が途絶えてから、もう一か月になるのね。やっぱり殺されてしまったんだろうな」
陳黄華は自分の気持ちを確かめるようにそう言ってから、食器棚や小物入れなどを点検しはじめた。一つずつ手にとっては元に戻す。そんな作業を繰り返していた。璃紗子はその姿をただ見守っていた。
作業は本棚に移った。何冊かの本がテーブルに並べられた。タイトルを見ると、中国語の本である。音楽CDが本の横に置かれた。ダビングしたもので、ジャケットのコピーが貼ってある。三枚ともセリーヌ・ディオンの作品だった。
「本は姉ちゃんの持ち物。裏表紙にサインがしてある。それと、セリーヌ・ディオンは姉ちゃんが大ファンだった。きっと二人で聞いていたんだろうな」
そう言い残して、陳黄華は寝室へと移動した。二十分ほどごそごそやっていた。戻ってきたときにはラジカセを手に持っていた。
「本が数冊、それにCDとラジカセ、これが姉ちゃんとカイドウさんの形見ってわけ。二人が生きた痕跡がこんな形でしか残らないなんて悲しい話だよね」
陳黄華はそれらをリュックサックに収めながら語った。
「ねえ、わたしのアパートメントでそのCDを一緒に聞かない?二人であなたのお姉さんと海棠さんを偲びましょうよ」
「そうだね。一人で聞くと堪えきれなくなってしまうかもしれないものね」
二人はヒンメルプフォルテホーフを出ると、地下鉄でプラ一ターシュテルン駅に向かった。璃紗子のアパートメントに着いたとき、昼をとうに過ぎていた。ゲルストルは不在だった。体調が思わしくないと言っていたので、たぶん病院に行っているのだろう。璃紗子はあり合わせのものでピラフを作った。二人はテーブルに向かった。
「一人暮らしじやないよね?」
「六月に結婚したのよ。相手はオーストリア人」
「人間彫像はご主人とパートナーを組んでいるの?」
「パートナー兼師匠ね」
「きゃっ」
突然陳黄華が声を上げ、足元を覗いた。
「猫も同居しているんだね」
「大事な働き手。グラーベンでおひねりを集めてもらっているの」
陳黄華は黒猫の一匹を抱き上げた。ミーシャだった。ミーシャは彼女の胸に頭をこすりつけ、一声啼いた。
食事が終わると、璃紗子は冷蔵庫から白ワインのボトルを取り出した。
「飲み物はワインでいいかしら?といっても、ビールはないんだけれど」
「ありがとう」
二人は軽く乾杯した。璃紗子は一口飲んで、ミニコンポに先ほどのCDの一枚をセットした。透明感のある高音がスピーカーから流れてきた。聞く者を異次元へと誘い込むような声だ。二人は黙って耳を傾けていた。
ウィーンという異国の地で違法行為に手を染め、そして死んでいった海棠と陳黄華の姉を葬送する鎮魂歌が空間を満たしていく。陳黄華はグラスに手を伸ばすこともなく眼を瞑っている。
一牧目が終わった。二枚目をターンテーブルに置いて、プレイボタンを押した。ところが、音が出てこない。
「これには何も録音されていないみたいよ」
陳黄華が隣りに立った。CDを手渡すと、彼女はCD本体とケースを眺めはじめた。その間に璃紗子は三枚目をセットした。最初に流れてきたのはセリーヌ・ディオンの代表作で、映画主題歌として大ヒットした作品である。
「このCDって本当にブランクなのかしら?ジャケットまで貼ってあるのに、録音しないなんてこと考えられないわ」
「でも、録音しようとしていて、何か突発的なことが起きてしまったのかもしれないわ。それとも、一度録音したんだけど、別の物を上から被してしまったのということも考えら
れる」
「ひょっとして音楽ではなく、画像とか文書が保存されているんじゃないのかな。パソコンでチェックできない?」
「ちょっと貸してみて」
璃紗子はCDを手にしてテレビの横にあるライティングデスクに向かった。陳黄華もついてきた。パソコンを立ち上げ、ドライブにCDを差し込んだ。旧式のパソコンで容量が小さいので、画面展開に時間がかかる。やっと開いたディスプレイには文書のアイコンが二個並んでいる。メモというタイトルで一、二と番号がついている。
「やはり音楽じゃなかつた。開くわよ。心の準備はできてる?」
璃紗子は陳黄華に話しかけ、メモ一をクリックした。陳黄華がディスプレイを覗き込んできた。璃紗子の視線は三枚の画像に惹きつけられ、そして瞬間的にはね返された。そこに写っていたのは死体だったのだ。
璃紗子は深呼吸して眼を開けた。一枚目は頭蓋骨がむき出しになった頭部である。蛆虫に食い荒らされたのだろう。もう一枚は全身写真である。スーツから出ている手足は白骨化しつつあり、土にまみれている。片方の革靴が脱げそうになっている。最後の一枚には礼拝堂をバックにして死体を埋めている穴が写っている。
写真の下に、「KAPPAの共同経営者、莫林彪はいま白骨となってアルベルンの無縁墓地の土中に眠っている。岩原昭二はそんなことを忘れたかのごとく無為と懶惰の日々を送っている」というコメントがあった。
もう一つのメモを開くと、そこにも画像が貼りつけられていた。写っている二人の人物は予想だにできない組み合わせだった。何かの工場のような建物の入口で岩原昭二とハインツ・ホルヴァートが親しげに談笑しているのだ。隣りの画像は廃材置き場を写したものである。左隅にプレハブ事務所があり、中央奥に高い塔が姿を見せている。コメントとしては、「岩原とホルヴァート(麻薬中毒者支援センターソーシャルワーカー)。エスリングにて」と記されているだけである。
「莫林彪という人、知ってる?」
璃紗子は訊ねた。
「あたしは知らない。あんたは?」
「わたしもよ。顔を合わすのはせいぜいチーフマネージャーだけで、オーナーを見たことがないもの。それと、わたしはもぐりのアルバイトで、給料の支払い明細書ももらったことがないから、オーナーの名前すら知らないわ」
「莫林彪は殺され、アルベルンの無縁墓地に捨てられた。殺害にイワハラが直接手を下したのかどうかは定かでないけど、関与したことは疑いの余地がない。カイドウさんはそれをネタにしてイワハラを強請ろうとした。結局、カイドウさんも殺され、同じ場所に埋められた。何という因縁なのかな。二番目のメモとの関連はよく分からないけれども」
「実はホルヴァートという人物はわたしがよく知っている人。夫の友達だし、それにわたし自身支援センターで彼にお世話になっているの。彼が他人に強請られるなんて考えられない。でも、岩原さんとツーショットで写っているというのが不思議なのよね。岩原さんにはメタドンの密売に関わっている疑いがあるの」
璃紗子は岩原とメタドン密売との関連について説明した。
「ハインツ・ホルヴァートもイワハラのメタドンビジネスに荷担しているだろうな」
璃紗子の説明を聞いて、陳黄華はそう結論づけた。ゲルストルがルーカス刑事に説明するときに、このCDは重要な証拠品になると思われたので、璃紗子はCDをコピーさせてもらった。それからも、二人は行きつ戻りつの議論を繰り返した。四時過ぎに陳黄華は帰っていった。階段をおりていく彼女の肩には、遺品を入れたショルダーバッグが重たげにかかっていた。
夕食の支度をしているときに、ゲルストルは帰宅した。遅くなったことを詰ると、薬を飲んだら体調が回復したので、友達とカフェでダベっていたと悪びれずに白状した。
「のんびりしている場合じゃないのよ。ちょっと来て」
支度を途中で切り上げて、璃紗子はライティングデスクを開いた。パソコンを立ち上げ、先ほどのメモをディスプレイに展開した。ゲルストルはそれを見て、しばらく考えていた。それから携帯電話で誰かと話しはじめた。
「ルーカスのところに行ってくる。CDを借りるよ」
ゲルストルはCDをパソコンから取り出すと、ソファに投げ捨てていたジャンパーを羽織って出かけた。
6
翌朝目覚めたとき、ゲルストルはすでにテーブルでコーヒーを飲んでいた。昨晩は十一時過ぎまで待ったが、彼は戻ってこなかった。彼はその言い訳をするわけでもなく、いきなり本題にはいった。
「ルーカスが所属している殺人二係がちょうどアルベルン無縁墓地の死体遺棄事件を担当しているんだ。もう一つ別の事件も抱えていて、あの事件は捜査が難航しているところなので、おれの情報には強い関心を持ったようだ。早速上司に報告すると言っていた」
「知り合い二人を事件に巻き込むことになるかもしれないのね」
「イワハラという男はいざ知らず、ホルヴァートが殺人やメタドン密売に関係しているなんてあり得ないよ。むしろメタドンに関して何かを調べている過程でイワハラと会っただけだろう。きみに対する事情聴取があるかもしれない。今日一日ルーカスからの連絡を待ってみようと思っている」
「つまり、グラーベンは今日もお休みということね」
「こんなとき演技になんか集中できないよ」
ゲルストルの見込みは外れた。ルーカスから電話は来なかった。ゲルストルは翌日も休演にした。それでもウィーン警視庁からの連絡はない。午後三時過ぎになって、ゲルストルはグラーベンに行こうと言い出した。夜の部だけでも稼ごうというわけである。十月にはいると、グラーベンで演技するのは昼の部だけで、夜はワイン酒場などを舞台にすることになる。そして、十一月の半ばからは夜だけだ。何軒かの得意先を流して歩く。躯は楽だが、収入は三分の二程度に落ちる。
休憩を挟んで二回目の演技をはじめた。客の入りは相変わらず芳しくない。数えることができるくらいだ。背後の建物の彼方から照らしているだろう夕陽がハースハウスのガラスウォールに反射している。出し物は「聖テレジアの法悦」から「アポロとダフネ」に移った。
璃紗子が手にしている小枝の向こうに、一人の男の姿があった。突き刺すような視線が自分に注がれている。彼女は眼を開いた。そこに立っていたのは岩原昭二だった。
彼は腕を組んで立っている。唇を真一文字に結び、瞳の大きな眼でじっと自分を見据えている。岩原の姿はガラスウォールに撥ね返された返照のなかに赤く燃え上がった。璃紗子の脳裏にあのときの光景が甦ってきた。
三年前の一月末、KAPPAの地下トイレの前で見たのは血に染まった岩原昭二の姿だったのだ。岩原はナイフを握った掌から血を滴らせていた。トイレのなかには黒犬のようなものが蹲っていて、彼はそれを見下ろしていた。おそらく璃紗子は一瞬眼を瞑ったのだろう。彼女の視界の隅で何かが動く気配がした。海棠だった。彼女はこわばった声で「海棠さん」と呼んだ。その瞬間、璃紗子は意識を失った。そして、ヘロインを繰り返し注射され、急性ヘロイン中毒に陥らされた彼女は意識が混濁し、現実と幻想の区別がつかなくなり、その光景は意識のなかで溶解してしまった。ただ心の深みではそのイメージが残存していたのだ。ウィーンに戻りゲルストルとともに人間彫像を演技するようになってから、それが変形しながら間歇的に噴出するようになった。集中力が極まったときに璃紗子の意識を領するイメージがまさにそれだった。
人間彫像の演技が終わり、岩原は背中を向けた。そのあとを眼で追うと、岩原はカフェ・オイローパに入っていった。璃紗子はゲルストルに岩原のことを告げ、公衆トイレに駆け込んだ。素早く化粧を拭いとり、着替えをした。演技衣装をゲルストルに預けると、カフェ・オイローパのドアを開けた。一階を見回したが、岩原の姿は見えない。ウエイターが声をかけてきた。待ち合わせだと返事して、璃紗子は階段を駆け上がった。二階にはテーブルが六、七脚並んでいる。岩原は一人で窓際のテーブルにいた。それ以外は空席だった。璃紗子が近づいていくと、岩原は振り返った。
「あなたが店に入ってくるのが見えました」
「グラーベンで睨むようにご覧になっていたので、わたしにご用があるんじやないかと思って」
「いつも見惚れているんですよ。夢を追求できるというのは羨ましいかぎりだ」
「岩原さんはどうして夢を捨てたんですか?」
「捨てたわけじゃない。新しい夢を見つけたんだ」
「翻訳や観光ガイドが夢だとは思えないわ」
「あなたからそんな見下すような言い方をされるとは思わなかった。お高くとまっている日本人マダムと同じですね」
「わたしはそんなつもりじゃない……」
「無意識のうちに相手を傷つけているのに、そのことに気づかない鈍感さも同じだ。私は一時期日本人家庭の家庭教師で食いつないでいた。夫が公的機関の職員や大企業のサラリーマンだから、母親たちは表面上はていねいな言葉遣いをしている。しかし、どこの馬の骨かという眼で私を見るんです」
岩原はなおも言葉を継ぐ様子だった。ウィーンの日本人社会に対する鬱積が溜まっているのだろう。おそらく璃紗子もそれには共感できるだろうし、岩原の指摘することに一つひとつ頷くことだろう。しかし、いまはそんな話題にかかずらっている場合ではない。
「わたしが言いたかったのはですね、あなたの夢はメタドンじゃないかということです」
「突拍子のないことを言い出す人だなあ」
「根拠があります。海棠さんがCD-Rに記録を残しているんです。あなたは莫林彪という男を殺していますね。そして、わたしをヘロイン中毒に仕立てた黒幕もあなただったんだわ。さっき夕陽を浴びて真っ赤に染まったあなたの姿を見て、KAPPAの地下トイレでの光景が鮮明に甦ってきました」
「戯れ言を言わないでほしいな。そもそも莫林彪なんて人物は知らない」
岩原はウエイターを呼んだ。金を払うと、階段に向かった。璃紗子はウエイターに二ユーロコイン二枚を渡し、彼のあとを追った。岩原はカフェを出て、背中をそらしてゆっくりと歩を進めている。彼の背中は決して後ろを振り向くまいという意志を表明しているようだった。頑ななその背中に向かって、璃紗子は甦った記憶を語りはじめた。
岩原はグラーベンからボーグナー小路へとはいった。璃紗子は間隔を変えずに彼の背中に語り続けた。アムホーフ広場に差しかかったとき、突然彼は走りだした。不意をつかれて一瞬立ち止まった璃紗子の脇をゲルストルが駆け抜け、岩原に組みついた。二人は縺れ合い倒れ込んだ。そのとき、数人の男が反対方向から駆けつけ、二人を引き離すと、岩原を後ろ手にねじあげた。
「ウィーン警視庁だ。莫林彪殺しの件で同行してもらう」
男の一人が岩原に告げた。
十月一日、新しい演目の初演日である。ゲルストルはここ二、三か月ウィーン世紀末の画家の作品を題材にした出し物をずっと研究してきた。そのための練習も重ねてきた。その結果、ダスタフ・クリムトとエゴン・シーレの作品を題材にすることにした。最初の出し物はクリムトの「接吻」とシーレの「死と乙女」になった。いずれもベルヴェデーレ宮殿のオーストリアギャラリーに展示されている作品で、観光客にも馴染みが深い。
午後二時にグラーベンに立ったとき、気温は二十度を超えていた。日射しも強さを回復した。客の入りは上々だ。
第一場は「接吻」である。二人の躯を包んでいる薄衣は金地の絢爛たる色使いのものである。璃紗子の薄衣には円形紋が線描されているのに対して、ゲルストルのものには黒や銀の格子模様がほどこされている。二人とも両膝を絨毯につけた姿勢で抱き合っている。彼女の顔はゲルストルの腕に掻き抱かれている。唇と唇がいまにも触れんばかりである。彼女の右手は彼の首に回され、左手は彼の右手にそっとあてがわれている。演技をはじめて十分ほど経った。あの鮮烈な赤のイメージが彼女の意識に立ちのぼってきた。しかし、それは一瞬のことだった。岩原が逮捕されて数日経ち、呪縛から逃れつつあるのだろう。
あの日、ハインツ・ホルヴァートも支援センターで勤務についているところを逮捕された。璃紗子は何度か事情聴取を受けた。捜査の状況はゲルストルがルーカス刑事から聞き込んできた。
アルベルン無縁墓地で発見された死体はやはり海棠貴史のものだった。歯科医師に対する歯型照会で判明した。また、海棠が埋められていた所からほど遠からぬ場所で、白骨死体が発見された。歯型照合で死体は莫林彪と断定された。
逮捕されたのはホルヴァートと岩原昭二、鼻の大きなスキンヘッドをはじめ、中国人や日本人女性など十数人に及んだ。警察では、KAPPAの中国人オーナーが麻薬密売に深く関与しているという情報を得て、内偵を進めてきた。別々に手繰られてきた二本の線をここで合流させて、中国人組織の壊滅につなげたいとウィーン警視庁は目論んでいる。
ホルヴァート逮捕のきっかけは拉致車のプレートナンバーだった。三五四RMのステーションワゴンはホルヴァートの父親が所有していた。拉致事件の前後三日間、ホルヴァートが借りていたのだ。ステーションワゴンのタイヤ痕や足跡が墓地で確認された。足跡はタイヤ痕から海棠が埋められていた場所の周辺まで続いていた。人や車が立ち入らない場所であったことが幸いして、これらの痕跡が残っていたのである。それらの事実を突きつけられて、ホルヴァートは素直に自白した。
やはりホルヴァートはメタドン不正処方に手を染めていた。まず岩原配下の日本人や中国人女性がオーストリア人の若い男をたらし込む。日本人の大半は留学生である。アルバイト先を紹介したり、金を融通したりするなかで勧誘員に仕立て上げていくのが岩原の手口だった。男たちが支援センターに来ると、事前に連絡を受けていたホルヴァートが対応する。面接後、ホルヴァートは要支援と認定する。男たちは定期的に支援センターに通い、メタドンを処方してもらう。それを岩原の組織が安く買い上げる。
しかし、こんなケチなやり方では収益はたかが知れている。岩原はそれで満足できなくて、メタドンの大々的な市場化を狙っていた。海棠の部屋にあった写真のなかで、岩原とホルヴァートは建物の前で談笑していた。その建物がメタドン密造工場だった。岩原はホルヴァートに密造技術者の調達を指示した。ホルヴァートは知り合いの薬剤師を引きずり込んで、メタドン密造に荷担させた。当初彼はメタドン不正処方で補助的な役割をしていただけなのに、メタドン密造に荷担するまでどっぷりはまり込んでいたのだ。
ホルヴァートが犯罪行為に関与するようになったきっかけはカジノだった。ビギナーズラックでのぼせ上がった彼はカジノにのめり込み、すぐ丸裸にされ、借金をこしらえた。そこから岩原との接点ができ、メタドン不正処方、密造へと引きずり込まれたのだった。
どういう経路からだったのかは不明だが、そのような彼の違法行為が海棠の知るところとなり、強請られた。慌てて岩原のところに駆け込んで、結局、海棠殺害にまで至ったのである。
璃紗子にとって、それ以上に知りたかったのは岩原の動機である。自分と同じように夢を抱いてウィーンに来たはずなのに、どうして道を踏み外してしまったのか。
犯罪行為に手を染めるきっかけはホルヴァートと同様にカジノでの借金だった。それを返済するために、ちんぴらチンピラ中国人と組んでメタドン不正処方による密売、さらには密造にまで深入りしていった。また、ちょっととしたいざこざから莫林彪をKAPPAの地下で殺害した。岩原が淡々と自白したのはそこまでであり、中国人裏組織との関連については堅く口を閉ざしている。
警察の捜査では、莫林彪も裏親織の一員だったことが明らかになっている。警察では、メタドン密造も莫林彪殺害も岩原の個人プレーではなく、組織が関与しているものと推測している。それらに関しては、中国人容疑者の一人が断片的ながら自供しはじめている。おそらく、彼らの自供や関係箇所の家宅捜索などに基づいて捜査のメスは中国人組織にまで及ぶことだろう。ウィーン警視庁は千載一遇のチャンスと捉えている。
しかし、岩原は動機に関しては頑強に自供を拒み続けている。璃紗子には彼の気持ちが少しばかり理解できるような気がする。岩原の強すぎるプライドが彼自身を惑わしたのだ。ウィーンという街はよそ者に対して一見寛容そうでありながら、言葉や態度の端々に拒絶的な姿勢が見え隠れする。いや露骨にそれを表わす人も少なくない。ウィーンへの愛情はことのほか強いにもかかわらず、現実のウィーンには受け容れられていない。かといって、日本に岩原の居場所があるだろうか。彼はレオボルト・アンドリアンという、ドイツ文学者でさえ名前を知らないかもしれない作家を研究対象にしている。そんなマイナーな研究では、ただでさえ狭いドイツ文学研究の世界で地歩を固められるとは思えない。ウィーンで自足することもできない。日本に帰ることもできない。四十歳を間近にした岩原は焦燥感、疎外感にとらわれていたことだろう。そんなとき、カジノで大負けしてしまい、それが原因で中国人の闇組織に引きずり込まれてしまった。
自分にはゲルストルがいてくれたから踏みとどまることができたが、もしひとりぼっちだったら……。
「演技に集中しろ」
ゲルストルの囁きで璃紗子は現実に引き戻された。ゲルストルの腕に力が加わった。璃紗子は強く唇を吸われた。見物客から喝采が湧いた。ブラボーの声と拍手が石造りの街並みに反響した。璃紗子は一瞬瞼を開いた、その視線の先にシュテファン大聖堂が聳え立っている。南塔の先端で黄金球が午後の強い陽光を受けて輝いている。
『聖テレジアの法悦』