まだら牛の祭り
完全な矛盾というものは存在するのだろうか?
『独り言』
指窮於爲薪 火傳也 不知其盡也
指を薪と為すこと窮むれば、火傳わりて、その盡くるを知らざるなり。
(火が消えそうなときは)その指先を火に近づければ、火は伝わって、消えることがない。
――――荘子
ようこそ、『まだら牛の祭り』の世界へ。
さっそくで悪いのだが、まずは、私の独り言を聴いてはくれないだろうか? なんだって? 時間がない? いや、ほんの少しの間だけで構わない。たぶん、五分とかからないさ。けして"お暇な読者よ"――なんてことは言わない。今は、そういう時代だ。
それはそうと、私は今、おかしなことを諸君に頼んでいる。『独り言を聴いてもらう』――これは、明らかに矛盾した言葉の表現ではないか?
そう、それが、それこそが私の悩みなのだ。
私の頭から常に次のような疑問が離れない――なぜ、人は時に矛盾した表現をするのか? 特に言葉の領域で・・・・・・。
そしてそれがこの小説の主題だ。
世の中には実際に"心地良く退屈な音楽"があり、"胸のすくほど下手くそな絵画"がある。しかしながら論理というのは矛盾を許さないから、言葉も必然として矛盾を許さない。つまり"魅力的なほど胡散臭い小説"などありえない。そのはずだ。
だがありえないと言われていることに情熱を費やすことでしか発展はない。人類の悲願とは竟に"完全に矛盾した矛盾"を自らの手で創り上げることではないか?
たしかに"神々しいほど不気味"だとか、"明確に意味不明"だとかいった概念を表現するには、非常に長い時間と労力が必要である。この小説に読者がそのような矛盾した感慨を抱いてくれるかどうかはわからない。解釈は諸君に任されているということは言うまでもない。
ただ、"無理難題に対して努力する"という命題自体は、けして矛盾ではないだろう。それが矛盾だとしたら、人類の歴史そのものがすべて矛盾にまみれたものということになってしまうではないか?
そんなはずはない、少なくとも私はそう信じる、堕落した皮肉屋ではないから。かといって達観した覚者でもないから。上から見下ろしても、下から見上げても、どちらにせよ、世の中は正しく見えない。もちろん、正しく世の中を見ることが必ずしも人生の目的なのではないが。"独自の視点"という賞賛の言葉もあるにはある・・・・・・。
おっと、話が脇にそれてしまった。私の悪い癖だ。
つまり、この小説の主題は矛盾しており、錯綜しており、恐らくは破綻しかかっているだろう。しかしそのことが、そのことこそが、この小説の本当に表現したい事柄なのだ。是非ともそこを諸君にも理解していただきたいのである・・・・・・。
さて、独り言はここまでにしよう。なんにせよ、この小説は一つの試みである。そう、賽の目は投げられた!
第一部 『あわただしい幕開け』 第一章 『思索と対話』
飛光飛光
勧爾一杯酒
飛光よ 飛光よ
爾に一杯の酒を勧めん
――――李賀
本題に入るとしよう。物語はこんな思索から始まる。
えらい神様、よい天使、わるい悪魔。
・・・・・・子供の頃は、この世界に様々な神秘を感じていたものだが、今になって思うと、神秘などというものはこの世に存在しないのかもしれない。子供の頃感じた神秘とは、ただ認識の誤謬から生じたものだったのではないか? 未熟な、無垢な魂の見せる幻。永遠に美しい、幼き日の夢。
――しかし、"大人"のそうした認識も、やはり誤謬でしかないのかもしれぬ。なぜなら、大人もまた、神や天使や悪魔を心のどこかで求めている。求めているということは、それがどこかに存在するはずだ! ・・・・・・そうではなかろうか? 存在しないものを求めるほど、大人は愚かではあるまい。それとも、もし愚かだとして、その愚かさこそが、やはり人間の証だとでもいうのだろうか?
「我々は我々の認識の真偽など、永遠にわからないし、また永遠に審議すべきではない。たとえそれが幻想だったとて、現実であったとて、いったい何の意味があろう?」という声がある。
「歴史とは、我々の認識を広めるための、そしてまた、確かめるための闘いの記録であった。それはけして無駄ではなかったし、また忘れてはならない」という声がする。
はたしてどちらが正しいのだろう? おそらくどちらもおおむね正しいことは正しい。そしてやはり、どちらも同じ距離だけ真実から遠ざかっている。もしもどちらか一方を選べと言われたら、私なら、双方を否定するだろう。これは一体全体、重大問題なのだ。そう簡単に決着のつく問題ではない。
"我々は我々に知られていない"――ある哲学者が言った言葉である。我々は我々自身こそもっとよく認識すべきではないだろうか? たとえそのことによって、永遠に苦しみ続けることになるとしても!
☆
・・・・・・そこまで思索を拡げたところで、彼は我に返った。いつの間にか眠ってしまい、夢を見ていたようだ。・・・・・・
「まったく、おれらしくもない夢だったな、すこぶる無益で、すこぶる高尚な! なんだって夢なんか見る必要があるんだ? 神、天使、おまけに悪魔だって? けっ、笑わせてくれるもんだぜ、ほんとに! おれは神なんて信じちゃいねえし、求めてもいねえ、天使だって、もちろん悪魔すら信じてねえんだからな、まあ、悪魔を求める心はもってるかもしれないがな!」彼はそう独りごちた。ただ、彼の頭の中には夢の中で聴いたある一つの言葉が響いていた――『我々は我々に知られていない』
自分でこの場所に来ることを選んだにもかかわらず、彼――『宮田 望』は、自分がなぜここにいるのか見当もつかなかった。
彼はそれほどの不安と焦燥に襲われていた。悪霊に取り付かれたかのように、ひどく風邪をこじらしてしまったときのように、あるいはひどく長くてつまらない推理小説を読んでいる最中のように、なんのためにこんな無駄な時間を過ごしているのか見当もつかず、彼の全身を不可思議な倦怠が覆っていたのである。
部屋は薄暗く、そう広くはない。隅にはからからに乾いた観葉植物が入った白い植木鉢が置かれていた。彼は否応なしにそちらに目を向けていた。部屋のもう一方の隅に置かれた、案外にしっかりした椅子に陣取って、ずいぶん長いことそうしている。窓からはけして美しいとはいえない景色が広がっている。・・・・・・
《風景、か! このとりとめないもの!」かれは思った。「なんでも、愉快な時とか、落ち込んでいるときとか、風景もその機微にしたがって恐ろしく変わってしまうそうだな。ふん! いったい、誰がそんな風に決めたというんだ?・・・・・・ひょっとして、おれのこの陰鬱な精神がお外の風景も暗くしちまっているのかなあ?》宮田は考える。
彼は、一人で何時間もそうして不毛な問答を続けているのだ。
本当は、隅の観葉植物の方に興味があった。
《植物、か! おれにはどうしてもこのおもしろい形をしてるやつの名前が知りたいんだけどなあ。確か、ここからずっと遠くの方から持ってきたらしいのだけれど! どうしても思い出せないし、知らないな・・・・・・教養! 大切なものです。一度覚えたら、きっとそう易々とは、いや、二度とは忘れないはず・・・・・・》かれの思考はまたそこでぷッつりと途切れてしまった。そしていきなり大きく貧乏ゆすりを始めた。無個性な響きが部屋の隅々まで通った。
彼は人を待っていた。それは家族ではない、友人でもない、ましてや恩師などでは絶対にない。
人を待つということがこれほど悩ましいものであるということに、宮田は、ようやく、初めて気づかされたのであった。自らの"時間"を、他者の"時間"に内包せねばならぬとは! それは横暴で傲慢で不器用なこの男にとって、全くの苦痛であった。・・・・・・
机の上には砂時計が置かれている。時を流動的に測る装置・・・・・・。
砂時計が時を計る唯一の手段だとしたら、世界はなんと美しいものであろう。砂は零れ落ちて、その一粒一粒が、世界を分割する。一粒一粒に、分割された世界が刻印されている。砂時計こそ刹那をもっとも純粋に保つ戒律である。
世界が果てしなく分割され、また、それらがあまさず砂粒に刻印されたかのように思われる、長い長い時間が経ち、ついに、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせおれしかいないさ、入りたまえ」
宮田は扉に向いぶっきらぼうに言った。
扉を開けて入ってきたのは、背の高い、多少痩せた(しかし決して病的とは言えなかった)、物静かな感じのする男だった。
「やあ、すまないね。待たしてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、おれをいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧におれに詫びたことだよ。なあ! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋」と呻った。
盥屋と呼ばれた男(それが名字らしい)は、微苦笑して答えた。
「やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出すやつがどこにいるんだい。まったく、君ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「それが問題なのだ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい。自分の――ごく小さな範囲でだが――エゴイズムを自覚しているのであれば、どんな天邪鬼であっても、最後には救済されるはずさ。なぜなら、世界はやがて、微小なエゴイズムなど問題にならぬくらいの、巨大なエゴイズムによって支配されるのだから。神がいるなら、それが神に違いない。圧倒的な自我の塊。それこそが唯一私がこの世界の結果として望むものだ。愚かな宗教家やら哲学者やらは私の考えを穢れた舌で侮辱するであろうが、そんなものは犬の唾だ。なんら意味などない」
「ほら、ほら、はじまったよ、例の弁舌が!」
宮田は嬉しそうにその場で跳ねた。
「まったく、君の舌こそ穢れているよ、盥屋。いきなり神を侮辱したかと思えば、次にはあらゆる宗教家やら哲学者やらを侮辱するんだから! おれが天邪鬼なら、君は詭弁家だな。ほんの小さなおれの告白を、あっという間に神への冒涜のだしにつかうんだから! まあ、おれの先ほどの告白の中に若干でも、神への呪いが含まれていることは、否定しないがね」
宮田はのんきに邪悪な笑みを浮かべた。
「つまり私と君とのつながりはこうなんだ」
盥屋は人差し指を立てながら(いつの間にか椅子をもってきて宮田の前に座っていた)、
「自我、自我、自我。このけったいな重荷。重荷なのに、これをどこかに捨てられない私たち。神、神、神。この浅ましき幻惑。幻惑なれど、なぜか心は求めてやまぬ。これを如何に解決すべきか? 肯定的解決がなければ、否定的解決もまたあり得ない。ここまでは二人とも一緒なんだ」彼はせっかく高く積み上げたトランプのピラミッドが無残にも崩壊する様子を眺めているかのような表情をしながら述べた。
宮田はうなずいた。目は盥屋のほうを見ていなかった。窓の外を見ていた。遠く遠く広がる風景。認識しきれない情報量。不快な、美しい自然・・・・・・盥屋の声が聞こえてくる。
「だけどここからが違う。私は他者としての神を肯定する。絶対的な他者としての。つまり私たちのちっぽけな自我など超越してしまうような巨大な、緻密な自我。集合的なものであれ、孤高のものであれ、それは確かに顕現する。歴史の最後のページに」
盥屋は熱っぽく語る。しかし人の眼にはあまり昂奮しているようには見えないところが、彼の性質らしかった。彼の狂気は静かに、彼の内部に沈殿しているのだった。
「ところが宮田、君は違う。他者としての神を許せない。なにがそうさせる?『ごく狭い範囲での君のエゴイズム』がそうさせる。神を信じられない。許せない。だが自我はある。この自我は誰から与えられたもの? 親? 友人? それともやっぱり神? いや、違う、と君は思っている」盥屋は宮田の横顔をまじまじと見た。
「自我を与えたのは己だ。君は、自分が神だと思っている」
「おれが神だと思っているって? 自分のことを? それは」
宮田は盥屋のほうを向いた。
「まるで面白くないな」
「ははは、面白くないにきまってるさ。真相は本人にとって面白くないものだ。わからないかね? 君は認めたくないだろうが、君みたいなタイプの人間は、えてして自分のことを超越者だと思っているのさ」
「ちょっとまった、おれみたいなタイプの人間は、だって?」
宮田は目玉を蛙のようにギョロリと動かした。
「そうさ、わからないかね? 君はまあ、いってみれば、そういうタイプの人間の、わかりやすいモデルなんだな。自我をぶくぶく肥大させて、神をあっさり裏切り、ついにどす黒い権力への意志を芽生えさせたところの」
盥屋は続ける、
「君はある意味ではありふれた人間だ。平凡な人間だ、ただしうまく見つけられないんだな、なかなか。こうした人間は脆いからね。・・・・・・だが君は驚くほど図太い。そういう意味では、君みたいな人間は、ロシアか、アフリカあたりに一人、ことによったら二人いるかいないかの存在だよ」
「ロシアか、アフリカに一人や二人、だって? こいつは面白いな、のむか?」
宮田は懐から煙草を取り出し、盥屋に勧めた。
「いや、結構。吸わないので」
「おれものまない」
宮田は煙草をしまった。
「要するに君は、荒々しい図々しさと、繊細な思想とを併せ持った、変人なんだよ」
盥屋はそう言って笑うと、奇妙な表情をしている宮田を鋭く一瞥し、それから部屋をきょろきょろと見回した。
「失礼、時計は無いのかな?」
「そこに」
宮田は机の上の砂時計を指さした。それが大理石でできている、ごく精緻なものであることは、盥屋にもすぐに理解することができた。
「ほうほう、これは、なかなかいいものだね。・・・・・・いやいや、そうではなくて、普通の時計はないのかね?」
「ああ、そういうのは嫌いなんでね、置いてない」
宮田は窓の外を見つめながらつぶやいた。
「そうか」
少し驚いたような顔をしたあと、盥屋はすぐに紳士的な微笑を見せた。
それからは部屋を沈黙が支配したのである。
第二章 『挨拶』
私は、子供らが手をつないで歌ふ
「籠の鳥」の歌を歌はうと思つた。
が、忘れてゐたので、
煙草の煙を月の面に吐きかけた。
煙草は
私の
歌だ。
――――富永太郎『煙草の歌』
「それからは部屋を沈黙が支配したのである。」
・・・・・・ここまで入力して、キーボードを打つ手が止まる。
この小説は、もうこれ以上続ける必要はないのではないか? という気がしたからだ。物語が、もう、なんとなく落ち着くところに落ち着いたような感じがする。それに、登場人物である二人組の男が繰り広げる神やら自我やらの談義に、我ながら、付き合いきれなくなっていたのだ。神? それは君たちをつくったこの私ではないのか。自我? そんなもの君たちにはない。君たちのいる世界も、外面も、内面さえ、私の手によるものなのだから・・・・・・。
よし、もうやめよう。この小説はここで終了。残念だが、打ち切りだ。もう、次の作品にとりかかろう・・・・・・次はもっといい作品を・・・・・・お、地震かな? 今、少し揺れたぞ。本棚から落ちて来やしないかな?
高い本棚に囲まれてはいるが、せせこましい感じはなく、むしろゆったりとした書斎。住人はマメな性格なのか、部屋は極めて清潔に保たれている。北側には大きな机があって、その上に一台のパソコンが置かれている。その前には一人の小説家が座っていた。
そしてその小説家――いや、彼のことは、都合上こう呼ぼう、"神"と――は大きく伸びをし、『まだら牛の祭り』と題したファイルを保存して閉じると、さっそく次の作品の構想を頭の中で練り始めた。脳内で、とりとめなくもつれ合う、形のない想念が、不規則に繋がっては離れる。創作の前は、いつもこのような状態になる。なにかが生まれる予兆、高まる霊感――――と、不意に、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
まったく、誰だ? いい時に。まア、きっとマネージャーだろう、と神は思った。まずいぞ、まだ碌に原稿もできてない。さて、どう仕事の言い訳をするか? ああ、きっと怒られるだろうなあ。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせおれしかいないさ、入りたまえ」
宮田が扉を開けてぶっきらぼうに入ってきた。
次に入ってきたのは、背の高い、多少痩せた(しかし決して病的とは言えなかった)、物静かな感じのする男だった。
「やあ、すまないね。待たしてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、神をいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧に神に詫びたことだよ。君! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋」
盥屋は、微苦笑して答えた。
「やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出す神がどこにいるんだい。まったく、神ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「それが問題なのだ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい――」
「やめろ!!!」神は叫んだ。
「やめてくれ。いったい何者なんだ、君たちは? 何が目的で、こんなことをする? そもそもどうやって――とにかく、ここから出て行ってくれ!」
神は、その後も頭が痛い、だとか気が狂いそうだ、というようなことをわめいていた。
その間に宮田と盥屋は顔を突き合わせて何か話し合っていた。そしてふいに盥屋が神のほうを向いて、大げさなそぶりで弁解した。
「おお、神よ、どうかお許しください。我々は、なにもあなたを困らせようと来たわけではない。ちょっと、びっくりさせようと思っただけですよ、あの登場は。我々の精一杯のパスティーシュ(模倣)、なかなか、洒落ていたでしょう?」
盥屋はにっこりとほほ笑んだ。
「すると、君たちは、あれか、やはり・・・・・・」
神は喘ぎながらかろうじて言葉を絞り出した。
「そのとおり。おれたちは、あんたのつくった小説の、『まだら牛の祭り』の中からやってきたのさ。あんたの想像の通りの姿をしているだろう? できれば、もうちょっとハンサムに創って欲しかったな」
宮田は邪悪な微笑を見せた。
「まったく、何回考えても難解ですな、そのタイトルは。もっとキャッチ―でポップな題名は思いつかなかったのですか? 私ならもっとうまいタイトルをつけたな。そうだな・・・・・・『失われた神をもとめて』なんてどうだろうか?」
「まったく、大した詭弁家だよ、君は! オリジナリティーあふれる、とてもいいタイトルじゃないか! そんなセンスのいいタイトル、フランス人だって思いつかないぜ!」
宮田がゲタゲタ笑い出した。
これは幻覚に違いない。狂っている。何もかもが、狂っている。おかしい。なぜだ。何が原因だ。そうだ、あの小説だ。あの小説を書いてからこんな変な幻覚を観だしたんだ。あの小説をどうにかすれば――――
神はすぐさまパソコンの画面を覗き込んだ。先ほどのファイルを開こうとする。・・・・・・ない! さっき書いたはずの小説がどこにもない。確かにあったはず・・・・・・。
「そんなところ探したって無駄だよ。第一、おれたちはここにいるじゃないか、こっちをご覧よ」
「神よ、無駄なことです。なぜなら、『まだら牛』の世界と神のいる世界は一つになってしまったのですから。熱い餅と餅のように、二つの世界は今、完全にくっついてしまったのです」
神は二人を見た。そしてもう一度パソコンのほうに向きなおった。
「のむかい?」
宮田は煙草を懐から取り出し、神に勧めた。
「いや、結構。吸わないので」
神はそういってから何かに気づき、ハッと息をのみこんだ。
「まったく、傑作ですな! これでは、我々の世界と同じじゃあないですか! それは私の台詞でしょう? あろうことか、神が我々の真似をしておられるように見える。ところで、神よ、なぜ宮田は煙草を持ってるんです? 彼は「煙草をのまない」んでしょう。どうしてそんな矛盾を我々の世界にもちこんだのですか?」
盥屋が宮田からもらった煙草に火をつけながら言った。どうやって火をつけたか? 神にはよく見えなかったが、何やら煙草の先を指で揉み始めたらすぐに煙が立った。・・・・・・
「あれは」
神はふるえていた。なんとか言葉を絞り出す。
「ただ書きたくて、書いたんだ。もしかしたら、なにかの伏線になるかもしれないし。理由なんて、後からいくらでもつけられる」
神は正直に告白した。
「ほう! それは」
盥屋は煙草をふかしながら嬉しそうに言った。
「興味深いですな。まさか、根拠のない、単なる思い付きとはね! 宮田! 君のその煙草、なにか重要な意味を持つかもしれないよ、(宮田はおどけて煙草をさも大切そうに懐に隠した)おっと、まだそれはただの煙草さ、価値はこれからわかる、ここにいる神が教えてくださるはずさ!」
「そこらへんにしておきたまえ、盥屋」
宮田は陰気な笑みを浮かべながら言った。
「神の顔色を見ろ。我らが神は、産みの苦しみに疲れておられる。そりゃそうだ、とんだ難産だったんだものな! くくく! 神よ、あんたはよくやってくれた。本当によくやってくれたよ。あんたは父にして母、恩人にして仇だ。とても借りを返すことなんてできないね! ・・・・・・今すぐには。だから、待っていてくれ、近いうちに、また会いに来るから。その時は、おれたちも、こっちの世界の礼儀ってものをもうちょっと学んでるだろうよ!」
「本当だ。少しお疲れのご様子ですね? これは失礼。ならば、そろそろ消えるとしますか」盥屋は微笑を浮かべて言った。「では、ごきげんよう」小さく礼をして、部屋を後にする。
「ごきげんよう!」宮田もそれに続いて出ていく。ドアを丁寧に開けて、乱暴に閉める音。
二人の悪魔が去った後、神は部屋を見回した、まだ小悪魔でもどこかに潜んでいるような気がしたから、それこそ隅々まで見回した。増築を重ねている本棚には、つい最近読み終わった、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、まだちょっとだけしか読んでない、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、まったく全然読んでない、プルーストの『失われた時を求めて』。そういえば、『失われた神を求めて』だって? ・・・・・・くそ、あいつら、ふざけやがって!
しかし、部屋には、特になにも変わったところはない。それでは、さっきまでのことは、すべて幻だったのか? それとも、誰かの悪質な悪戯? いや、記憶にしっかりと刻まれている、夢じゃないし、あんな奴ら、現実には、ロシアにだってアフリカにだっているはずがない! しかし、信じがたいことに、これはまごうことなき現実だ!
「よし」
・・・・・・神はなにか覚悟を決めた様子で、再びパソコンに向かうのだった・・・・・・。
第三章 『帰路にて』
神の家を出た二人の男は、どこかへ急いで向かっていた。通りをゆく人々の、誰も彼らに気づかないようであった(しいて言うなら、某名家の大きな邸宅の、よく訓練された番犬が二、三匹、怪しげな臭いを嗅ぎつけて、彼らに対して低い唸り声を上げたくらいのものだ)。二人はどこか不服そうな、それでいて気のぬけたような表情を浮かべて歩いていた。
「いやしくも、小説を書いて、生計を立てようだなんて、お下劣だ! ・・・・・・そうは思わないかな、盥屋さん」不意に、宮田が吐き捨てるように言った。「神たるものが、紙によってご飯を食べているだなんて、どうも、気にくわないな。まあ、だからこそ、気まぐれに、おれたちが生み出されたんだがね!」軽口と悪態をつく時こそこの男がもっとも活き活きと見える瞬間だった。
盥屋は相変わらず煙草をふかしながら、頷いた。
「残念ながら、完全に同意せざるをえないね、その意見には。少なくとも、売文業なんて、神のやる仕事じゃない。あまりにも卑劣で、低劣で、愚劣だよ。まあ、それをいうなら、君も、詩の一つか二つ、書いていたっけ・・・・・・前にちらっと拝見したような気がするな」
そう言ってどこか蔑むような目で宮田を見やった。
「そんなことより」
宮田は突然気が付いたことのようにしゃべり始めた。
「君は煙草をのまないのではなかったかい? おれは確かにそう聞いた気がするな。それが、こっちの世界に来て(まあ、もうこっちもあっちもあったもんじゃないがね、実際!)いきなりのむなんて、一体どういう了見だい?」
「それはね、神がどんな反応をするか気になったのさ。我々はもはや自由だということを、彼に教えたかったんですよ。神様も、たいそう驚いていたな、ああ、セイセイする!」
盥屋は愉快げに笑った。
「セイセイする? ・・・・・・すると、君は、神が嫌いなのか? あんなに神を求めてたのに? 今、『まさに約束の時は果たされた』んだぜ? へへへ、まったく、天邪鬼だね、君も」
「うん、まあ、嫌いというより、憎し、の感情だな、これは。僕はね、我々を創造した神が、あんなちっぽけな自我しか持たない、我々並の、いや、ことによると我々以下の存在だという現実が、ゆるせないのですよ。こんなことがあっていいのだろうか? 現実に」
「まあ、こりゃあ驚いた! 詭弁家の君にも、許せないことがあるとはね! いや、思ったより、おれたちは気が合いそうだぜ・・・・・・神、か! この上なく鬱陶しくて、されど求めずにいられぬもの! あれほど悩まされた至高の存在に、ついに、拝謁できたんだものなあ・・・・・・へっ、しかし、まあ、君の失望も当然だよ、盥屋! 彼の住んでいるのは大理石の宮殿ではなくて、本棚に囲まれた(それも下らない「文学書」ばっかりの!)、俗悪なる書斎なんだし、それに、彼は信者の喜捨じゃあなくて、売文業で糊口をしのいでるときた。おまけに、せっかく遠くから会いにやってきたおれたちかわいい被造物を見て、あのやろうは、喜ぶどころか、怖がって、口もきけないありさまだったんだからな」
宮田の哄笑があたりに響いた。
「神は、自分の生み出した、単なるフィクションの産物を(だって、実際のところ我々はそうじゃないか?)、怖がっておられるのか。寂しいことだ、まったく。愚劣だ、愚劣!」
盥屋も笑い声をあげた。乾いた、陰気な笑い声だった。電柱の上で鴉が鳴いた。
「盥屋、それはちょっと違うぜ。おれたちはもう、血と肉と骨を持った、実体のある存在なんだからな。そういう意味では、神が驚くのも無理はないさ」
と、宮田はどこか感慨深げに言った。盥屋も同じような顔をした。それきり二人は黙った。
二人の男は並んでいくつもの道を歩いた。いくつかの林を通り抜け、いくつかの川を渡った。その間にも(主に宮田が)神を罵倒したり侮辱する言葉を吐いていた。いわく、詐欺師。売文屋。スットコドッコイ・・・・・・。
やがて、なんとも説明のつかない景色の場所に出た。そこには荒々しいデッサンのような風景が広がっていた。眺める者の心情で、その印象はまったく変わりゆくのであった。怒りの赤。悲しみの青。喜びの黄。二人にそれはどのように見えていたのか? それはどうにも知れない・・・・・・。ここがいわゆる"現実とフィクションの境目"に違いなかった。
小屋がようやく見えてきた。この物語の冒頭で二人が対話していた、あの建物である。小屋の外観は粗末なものであった。一見、プレハブ小屋のようであり、木でできているようにも見える。とにかく、ひどく曖昧で、なにか急ごしらえで作ったような趣があった。それがこの異様な風景の中に、輪をかけて異様な雰囲気を醸し出していた。
「やっと着いた。なんだか、帰り道の方が長く感じたな。少々疲れたよ」盥屋が呟く。
「あれ、これは一体にどうしたことだろう?」
宮田はドアに手をかけた途端なにかに気づき、口を丸くして小さくつぶやいた。
「どうしたのかね?」盥屋が訊ねた。
「おかしい、鍵をかけておいたはずなんだけどな。開いているよ!」
「そうかい、ならひょっとして、泥棒でも這入ったのかな?・・・・・・おおかた、君が鍵を閉めたつもりになっていただけだろうよ、宮田くん。気をつけたまえ」
「いや、そんなはずはないな。だって、おれがこう見えてけっこう用心深いキャラだということは、きみもよく知ってるだろう? そんな『凡ミス』を犯すはずないぜ! あ、信用してないな?」
宮田はそういいながら中に入った。そして口をつぐんだ。
室内が目茶目茶に荒らされていた。椅子も机もあらぬ方向に投げ出されている。観葉植物の鉢も叩き割られていた。壁にはひっかき傷のようなものまである。宮田の足になにかが当たった。床に転がった年代物のワインボトルだった。よかった、割れてないぜ! 一杯やるか? という宮田の誘いを、盥屋は手を振って断った。
二人は室内を見分し始めた。
しばらくして、盥屋は静かに言った。
「・・・・・・本当に泥棒が這入ってきたようだね。それに、ただの泥棒でもなさそうだ。これはいけない、どうにも、荒々しいね」
「無い」
宮田も静かに言った。声は震え、顔は蒼ざめている。
「無いって、何が?」
「砂時計が無い」
「砂時計? ・・・・・・ああ、あの砂時計か。あれはおそらく値打ちものだものな。君が気にするのも無理はない・・・・・・まあ、こんなに散らかっているんだ、なにかの拍子に落ちて転がって、隅の方に隠れているのかも」
「盥屋、ここはおれの隠れ家だぜ、どこに何があるかくらいすぐにわかる。砂時計は、この家のどこにもない・・・・・・侵入者は、おれのあの砂時計を狙って盗ったんだ」
「ということは、この場所をしっていて、なおかつ、ここに何があるか知っている誰かが、君の大事な砂時計を・・・・・・」盥屋はぼんやりと独りごちた。
盥屋と宮田は顔を見合わせた。しばしの沈黙。
「神の奴だ!」宮田は怒鳴った――その顔は真っ赤で、瞳は憤怒に燃えている。
第四章 『迷惑なニュース』
神はいそいそと書斎から抜け、廊下を通り玄関を出て、鍵をかけ、いまだ何の変哲もない街中へはいった。人々は平穏に歩き、自動車を運転し、犬の散歩をしていた。
彼はある種のやましさを感じた。この世界に何かあったら、その時は私のせいだ――神として(自分ではそんな偉い存在ではないとおもっているのだが)あるまじき粗野な創造を行ったことにより、きわめて歪なもう一つの世界が出来上がってしまった。そしてあろうことか、その世界は、何故かわからないが、こちらの世界とくっつき、一つになってしまったのだ。
何かが起こるに違いない・・・・・・彼は呪文のようにつぶやいていた。「えらい神様、よい天使、わるい悪魔・・・・・・」先ほど自分で作り上げた物語を、必死に思い返そうとしていた。「えらい神様か! えらくない神様もいるけどな」彼は額に汗を浮かべながら考えた。「それがこの私さ。中途半端な思い付きで、奇妙な小説を書いてしまったせいで、とんだ災難にあったもんだ。・・・・・・いや、もう後悔しても遅い。それより、えらくない神様はここにいるとして、よい天使はどこにいるっていうんだ? 神様を早く助けてくれ。わるい悪魔の行方は、大体予想がつくけどな。おそらく、あの小屋に戻ってるんだろう!」神は小走りになって息をはずませていた。会わなければいけない人間がいる。私の身(あるいは彼の身)に何かある前に、このことを伝えなければ。何か起こってしまう前に!
となりに大きな池のある、あまり豪華ではないが、洒落たつくりのアパートの三階に彼は住んでいた。神は扉ををノックした。
トン
トン
トン 三回。
「どなたですか? え? ああ、先生? どうぞ、どうぞ」
気のない返事が聞こえてきた。
神は扉を乱暴に開けて中に入った。小奇麗な部屋だ。マネージャーはパジャマ姿で熱心にテレビを観ていた。
「先生、見てください、これを! 大事件です。それも、あちこちで。先生、これって、新しい作品のネタになりませんかね?」
マネージャーは神のほうを振り向いて言った。形のいい目がきょろきょろ動く、若々しい葉っぱが、風雨にさらされ、くたびれ果てたような風貌の青年。だがその声はまだ活力に満ちていた。そう、今はただ疲れているだけなのだ。あの禿げた編集長にこき使われているから・・・・・・。
神はテレビの方を見やる。次のような放送が繰り返し流されていた。
「臨時ニュースです。全国で、異常な事件が多発しています。人々が次々に行方不明になり、家畜はどこかに連れ去られ、庭の木はばっさりと伐られています。・・・・・・これらは、悪質な悪戯でしょうか、いや、それにしてはひどすぎる・・・・・・犯人と思われる男は「奴らはどこだ」と誰かをしきりに探している様子で・・・・・・云々」
それを聞いて、神は次のような妄想、妙に現実味のある妄想を頭に浮かべた。
幼い娘が一人、親とはぐれたのであろうか、心細そうに歩いている。人通りの少ない、さびれた商店街の路地裏である。子供は迷うことにかけては一流だ。あてどなくさまようこの娘の眼にも、心配そうな影こそあれど、次の一歩は確実に母に近づく一歩であるという、確信の光がある。
しかし彼女の前方に長く伸びた影――二人組の怪紳士――が、その光を遮った。
「おや、おや、おや、迷子かな? お嬢さん! 心配なさんな、怖い人じゃないよ!」怪紳士の片割れがそう言うと、恐怖の色に染まった娘の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。怖い人ほど、怖い人じゃないって言うのよ、覚えておきなさい。母親の声がよみがえったのである。
「いけないよ、君、そんなことを言っては・・・・・・お嬢さんが泣き出してしまったじゃないか・・・・・・お嬢さん、泣かないでくださいな、お詫びに宝物をお見せしましょう」そう言うと長身の男はは懐からカラフルなストローを取り出した。
もう一人の方ははそんな相棒ををにやにやしながら横目で見ている。
背の高い男ががストローを吹くと、筒の先からたちまちいくつもの七色に輝くシャボン玉が飛び出した。少女は思わず眼を見開いて「わあ」と言った。
不思議なことに、そのシャボン玉は地面に落ちても、建物の壁に当たっても割れず、むしろそれによって勢いをつけて再び空中に舞い上がるのだった。少女はそれを見ていっそう驚き、喜んだ。
「どうだね? すごいものだろう」
すてきなシャボン玉。七色に光る表面は、辺りの景色を映し出しながらくるくる回ってる。まるで、地球がひっくり返ったみたい。もし、シャボン玉の内側に入れたら、どんな景色が見えるのかしら?・・・・・・
「ねえ、シャボン玉の中に入ってみないかい? 内側から覗く世界は、大層きれいだよ」蒼白い顔の男が丁寧に、優しく訊ねてくる。
「うん」と元気よく頷いたのが運の尽き。
ノッポが指を鳴らすと、たちまち少女はシャボンの中に閉じ込められてしまった。内側から見る外の景色は、油が浮き、光が屈折する表面を透して醜い。
「ねえ、ちっともきれいじゃないよ! おねがい、もういいから、ここから出して!」
「残念無念お嬢ちゃん、一回入っちまうと、シャボンが割れるまで出られないのさ! まあ、しばらくは、その中で、一人でおままごとでもしてるんだね!」陰気そうな方がそう言い放つと、シャボンの主も、
「そういうことです、お嬢さん。怪しい人に近づいてはいけないと、これでようくわかったね? ところで宮田、君の言う通り、この世界では、我々の力は魔法のようなものらしい・・・・・・確かにうまくいった。不思議な話だ、架空の存在である我らの方が、力を持つことになろうとはね! さて、この力、善きことに使うか、悪しきことに使うか、それとも・・・・・・?」
男たちはその場を去った。あとには、割れないシャボン玉だけがいつまでもゴム毬のように弾んでいる・・・・・・。
「先生、どうしました?」マネージャーの声。
神ははっと我に返り、テレビ画面を凝視しながら、静かに、震え声で言った。
「奴らだ。奴らが、私たちを探しているんだ」
「え? 先生、いま、なんて? それより先生、このニュース、新しいネタに・・・・・・」
「もう書き終わったよ! 今度の作品は傑作だぜ。登場人物が現実に飛び出してくるほどのな!」神は叫んだ。
「え? 先生、もしかして、もう書いちゃったんですか? さすがだなあ。しかもご自分から持ってきてくださるなんて、いや、相当の傑作とみました! さっそく原稿のほうを・・・・・・」
マネージャーは口元に微笑を浮かべ、揉み手しながら神にすり寄った。
「いいか、君、よく聞いてくれ」神は人差し指を立てマネージャーを制した。
神はことの次第をすべて、丹念に説明した。事の発端となった小説のことから、現実に宮田たちが現れたこと、その会話の詳細、そして今この世界で起こりつつある異変の正体を、丁寧に、丹念に。ただ、マネージャーはとぼけたような顔で、目を丸くして聞いていた。
「いいかい、あの悪魔どもは、私たちを探しているんだ。そして、復讐しようとしている。この混乱は、おそらく、奴らの仕業だ!」
「なるほど、それは大変! しかし、先生、なんでこのわたしまで狙われなきゃならないんです? その・・・・・・悪魔どもに?」
マネージャーは笑いをなんとか抑えながら問うた。先生はきっと疲れて少しおかしくなっているのだ、と思ったからである。これは新作に期待できそうだ。それにしても、先生も大層ごくろうなすって・・・・・・先生には休暇が必要だ。それも長めの。編集長にもよく言っておこう。
「私と付き合いがある人間なんて、君くらいしかいないからね。君も、まとめて消される。それにしても、見境がないな。あいつら、あんなに乱暴だっただろうか? 慇懃無礼な紳士、といった感じだったが」
マネージャーはごくりと唾をのんだ。先生の中で、現実と空想の境が曖昧になっている。これは相当重症だぞ。きっと新作は、相当の傑作に違いない!
「先生、はやく原稿を見せてください!」
いやがるマネージャーを着替えさせ、無理やり連れ出した神は、二人で街をさまよい歩いた。すでに混乱はこの街にもおとずれていた。人々はあてもなくあちこち走り回り、自動車はクラクションを鳴らし、犬は何かに吠えていた。道すがら、神はなにやら焦げくさい臭いを嗅いだ。あれ、先生の家の方じゃないですか? マネージャーが怪訝そうに言う。なんと、自宅の方角から、高く、高く、もくもくと黒煙が上がっている。
「Aさんの家が燃えたらしいよ。放火だって・・・・・・でも死体とかは見つかってないみたい」
道行く人のうわさが聞こえた。
Aだって?私の名前だ。私の家が燃やされた? ――彼の中で、家を燃やされた怒りよりも恐怖が勝った――奴らだ! 奴らがここまで来た! 神は天に祈った、はじめは神に祈ろうとした。しかし、今回の場合、神は自分であることに気がついた。神が神に祈る、これは、矛盾だ。では、なんでもいい、・・・・・・そうだ、天使、天使よ、どうか私に力を!
第五章 『炎上』
いちはやく天使は翼を薔薇色の、子供の脣に近づけて、
ためらひもせず空色の翼に載せて
魂を、摘まれた子供の魂を、至上の国へと運び去る
ゆるやかなその羽搏きよ……揺籃に、残れるははや五体のみ、なほ美しさ漂へど
息づくけはひさらになく、生命いのち絶えたる亡骸よ。
――――ランボー『天使と子供』
「やい! でてこい! 盗人!」
「出てきた方が身のためですよ、主よ。宮田は一旦怒りだすとどうにも手がつけられませんからね」
神がマネージャーのアパートについたころ、二人の悪魔は神の家にたどり着き、宮田は怒りをなんとか三割ほどに抑えながら叫んだ。盥屋はいたって冷静な様子だった。
しかし返事はなかった。
「お邪魔するぜ!」
宮田は低い声でそう言い、入口の扉に手をかける。鍵はかかっていない。やはり、居留守か? それとも・・・・・・。
二人は神の家に侵入した。人のいる気配はない。そこで真っ先に書斎へと向かった。神はいないまでも、なにか情報を得られるかもしれない。
やはり書斎に神はいなかった。
しかし神ではない何者かはいた。
パソコンの置いてある机の前に小柄な影が佇んでいる。部屋は暗い。
「誰だ? へっ、ぞっとしねえ。神の代わりに、一体、どなたが、哀れな子羊の懺悔を聞いてくださるんでしょうかね?」
宮田は道化ぶって影に問いかけた。
返事はなかった。
「泥棒かな? 人のことを言えた義理ではないが。ちょっと失礼」
盥屋は部屋の灯りをつけた。
そこには燃えるような栗毛の、かわいらしい娘がいた。年頃は十五、六だろうか、それにしても少々小柄である。だが、顔の造作も小さく整っており、身体全体としては均衡がとれ、美しいとさえ言えるのだが、その佇まいには、妙に大人びたところがあるし、その瞳には、なにか油断ならぬ光が瞬いていた。また、悪魔たちには、その佇まいや目の光がとても煩わしいものに思えた。理由はわからないが、恐らくは、彼らの本能のようなものが、必死に警鐘を鳴らしているのだろう。
「まぶしい」
と言って、娘は目を細めた。
「失礼、失礼。お顔がよく見えなかったものでしてね、人探しをしているもので。ところでお嬢さん、こんなところで何を? ここには神・・・・・・いや、一人の小説家が暮らしているはず、こんなところに一体なんの御用でしょう?」
盥屋が丁寧に訊ねた。
「お二人をお待ちしておりましたのよ」
澄んだ娘の声がそれに答えた。
「我々を待っていた? それは」
盥屋は首をひねった。
「不思議ですな。なぜなら、我々二人のことを知っているのはここに住んでいる小説家くらいのもののはずですから。その小説家にしたって、今は行方知れず。それに、あの男は一人暮らしだ、娘もいないでしょう、あの人は孤独です。・・・・・・質問ばかりで失礼ですが、あなた、一体何者です?」
盥屋は慇懃な態度を崩さずそう言った。
しかし娘はなぜか顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「やっぱり、悪魔というのは頭が鈍いのですわね。それに、見た目も醜悪ですわ。とても表現しきれないくらい。こんなに救いようのない方々だとは思わなくてよ」
「それは心外ですな、お嬢さんよ!」
宮田がとうとう口を挟んだ。
「これでも、頭の回転は速い方だと自負しておりますよ、これでもね。それに、初対面の人間に対して悪魔呼ばわり、おまけに醜悪だなんて、ちょっと失礼にも程があるんじゃあありませんかねえ?」
「人間に対してならね。でもお二人とも人間じゃなくてよ」
娘はあっさり否定した。
男たちは急に暗い目つきになった。盥屋が静かに言った。
「お嬢さん、冗談はここまでにして、小説家がどこにいるかだけでも、教えていただけませんか? あなたは随分と物知りのようだからね」
「教えることは何にもありませんわ。何も。お二人には、もともといた場所へ、すみやかに還っていただきますわ」
娘は自信たっぷりに言った。
「もともといた場所? それはどこに?」
盥屋が落ち着いて訪ねた。
「ここですわ」
娘はつけっぱなしのパソコンを指さした。
突然、甲高い哄笑が聞こえた。宮田が笑っていた。地が裂けるような、おぞましい笑い声だった。
「なんだ、あんたは、すべてご存じってわけか。ただの人間じゃないな。何者だ? まあ、なんでもいいが。おれたちが悪魔なら、さしずめ、天使ってところか」
宮田はそう言って娘を睨みつけた。
「そうね、そういっても差し支えなくてよ。わたくしたちは、よいことをするためにいるんですもの、まあ、天使というのが一番ちかいでしょうね」
娘は真顔で答えた。
「誰の差し金で来た? 神の野郎か?」
宮田は声を荒げ、いまや食い入るような目で天使と名乗る娘を見つめている。隣の盥屋はただ黙ってことの成り行きを見守っている。
「神ではありませんわ。わたくしたち一人一人自らが、よいこととはなにかを考えて動いていますの。あなた達と違ってね」娘はかわいらしく微笑した。
「なんでおれたちをどうにかするのがよいことなのかな?」
「悪魔はわるいものですわ。わるいものを追い払うことが、よいことと考えるのは普通でしょう?」
「やれるものならやってもらいたいね! この世界にも飽き飽きしてたところだから。ところで、天使さんよ、おれたちを追い払うってんなら、そのための『裁きのメギドの炎』とやらは、いつ降り注ぐのですかね?」
「裁きの炎? 安心なさいまし、それなら、もうあなた方の頭上に降り注いでいましてよ」
天使は高笑いした。
盥屋は不意に永い眠りから目の覚めたような顔になって、宮田の手を思い切り引っ張った。その途端、宮田は書斎が燃え盛る炎に包まれていることに気づいた。あたり一面の火焔流。炎になめられ、灰になって消えてゆく本棚の本たち・・・・・・。
二人は驚くべき速さで家を飛び出した(彼らにはただの人間から見れば超人的と思えるほどの身体能力があるようだった)。飛び出したとき、凄まじい轟音とともに、二人の背後で神の家が崩れだした。もくもくと煙があがる・・・・・・。
「あの少女に、二人とも幻覚を見せられていたんだ、その間に、火を点けられた! 危うく黒こげになるところだったね、君! あの娘、本当にただの娘ではない・・・・・・なるほど、天使、か!」
盥屋は多少興奮した調子で言った。
「これは厄介なことになったね、どうも」
宮田は自分の体を見た。服がところどころ焼け焦げている。大きく息を吐き出して、
「ああ、厄介なことになった」
辺りは薄暗い。いつの間にか夕刻になっていた。
第六章 『中世の迷信』
「はあ、これで私も流浪の身か・・・・・・燃えてしまった、なにもかも! そんなに長くは住んでいなかったが、それでも愛着のある家だった。ホーム・スウィート・ホーム!」と神は嘆いた。
「そんなに気を落とさないでください、先生。だって、現に命は失わずに済んだじゃないですか? まあ、だれかが先生のことを狙っているというのはわかりましたが・・・・・・。家の一軒や二軒、先生が本気になって書けばベストセラー、すぐに建て直せますよ」とマネージャーがそれを慰める。
「ベストセラーなんて、書こうとしても、そうそう書けるものじゃないさ・・・・・・それに、君は一軒家に住んだことがないからそう言うがね、実際、この喪失感というものはそれはそれは強いものなのさ。なんせ、自分の生活の基盤を失ってしまったんだ、それも無理からぬことだろう? 君にもわかる時がくる・・・・・・」
「なるほど、そんなものですかねえ? まあたしかに僕もあのアパートが燃えたら、少しばかり悲しい気持ちになるかもわかりませんね。一体全体、住処というのは不思議なものですね。普段はその存在を気にも留めないのに、いざ失ってみると、その大切さがわかるのですから!」といってマネージャーはなにか納得したように独り頷いた。
「ありがとう、君と話しているとなんだか元気が出てきたよ、不思議だな、悲しみも人と共有するとその本質が見えてきて、かえって活力になるとは! 『旅は道連れ、世は情け』か! よく言ったものだ。マネージャーくん、なんとかこの苦難をともに乗り切ろう」
「そうですね、それしかありませんね」とまたしても殊勝に頷く。
彼の自宅を燃やしたのが「悪魔」なんぞではなく、他ならぬ「天使」であったことなどつゆ知らず、神はマネージャー(二十代の目端の利きそうな青年である)とともにいまだ街をさまよっていた。辺りには目つきの悪い男や腹をすかせた犬がうろついている(世の中には、ただ事でないことが起こると何処からともなく現れる怪しいものたちが存在するのだ)。
いまやこの街を支配している唯一の法則は「無秩序」であった。マネージャーはようやく事の異常さに気が付いてきたようで、「先生、早く今晩の宿を見つけましょう!」などと繰り返しささやいた。神はその進言には耳を貸さず、二人はひたすらに歩いた。歩きに歩いた。
――この狂った街を抜け出すために。安息の地を探すために。
《それにしても、悪魔ってどんな奴らなんだろう?》マネージャーはずっと考えていた。《二人組の紳士、って話だけどな。なんだか、まるきり想像がつかないな。ニュースの通りの、凶暴で恐ろしいやつらなんだろうか? だとしたら厄介だ。・・・・・・それでも、できれば、一目見てみたいもんだ! 実在するなら、ね》彼はいつでも現実に生きていた。悪魔など信じてはいなかった。少なくとも今までは。今は? ・・・・・・先生のこの狂乱ぶりに、何かしらの根拠があるのは間違いないと思っている。
しかし、悪魔とは! 借金取りか何かのことじゃないのか? とにかく、悪魔っていうことはなくて、なにか、別のものなんじゃないか? それなら、少しは納得がいく。先生は少し疲れているだけだ。自分も疲れている。二人とも、休暇を取るべきだ・・・・・・少々長めの。どこか静かな浜辺にでもいって、のんびり過ごそう。それがいい。そうしよう。そうしないと、いつか自分のところにも悪魔が訪ねてくるかもしれない。
悪魔を信じるなんて、まるで昔話の世界だが(『イワンのばか』もそんな話だったっけ)、人間の心の中には悪魔がいる、という考えには確かに一理ある。なにかの拍子に、そいつが、心の中から抜け出して、目の前に具現化するのだ。「やあ! 僕、悪魔! よろしくね!」そしてむしゃむしゃと人を食い殺す。
ああ! 疲れてるんだ、きっと。休みを取ろう。それも長めの。そういえば、もう半年も働きづめだ。半年前、風邪をこじらして休んだきりだ。そのときは、先生が看病してくれたっけ・・・・・・。やっぱり先生には恩義がある、もちろん義務も。彼についていくしか道はないのだ、今の自分には。
いくら歩いても一向に街から出られないことに気づき、神は立ちどまった。
おかしい。こんなに大きな街だったろうか? たしかにここは名のある地方都市だが、それでも所詮は一地方都市。あまりにも広すぎやしないか?
そこで神は、ここ数年、自分が街から一歩も出ていない事実に気づき、少しばかり驚いたが、気を取り直してすぐに街が奇怪に膨張している原因を考えた。
・・・・・・いや、考えるまでもない、これは絶対に悪魔どもの仕業だ。
神はそこまで考えた後、自らの思考を反芻して愕然とした。「これは絶対に悪魔どもの仕業だ」だって? まるで、中世の迷信深い人々の言いぐさじゃないか? 俺はどうかしてる。だが、現実はそれ以上にどうかしてる!
「どうやら、この街からは出られないらしい」マネージャーを振り向いて言う。
「えっ? それはどうしてですか?」
「悪魔・・・・・・さっき説明した性悪の二人組のせいだ。やつらが何かまじないをして、この街をばかでかく膨張させたのだ。我々は閉じこめられた!」
「はあ。・・・・・・はあ。にわかには信じられませんが、なんだかこのごろの世の中の混乱ぶりをみると、それもあり得る話だと思えてきますよ。悪魔かなにかが蛮行をふるっているとしか考えられない」
「よし。今日はここらで、どこか泊まれるところを探そう。無理なら、野宿だな」
「野宿はやだなあ・・・・・・さっきからなんだか物騒だし。ホテルか、親切な人を探しましょう」
「それはいいが、泊まらしてくれた人が悪魔だった、ということもありえる。慎重に探そう」
二人は宿泊場所を探した。しかし当然のごとくホテルなどはみな閉まっており、こんな非常事態に、いかにも胡散臭い二人組を泊めてくれる「親切な」者もいなかった。
途方に暮れ、あてどなくうろついていると、マネージャーが突然立ちどまり、整然と並ぶ街路樹の一つを指さした。
「先生、あの木、なにか変じゃないですか? ほら、あの根元、空洞になってる」
たしかにその木の根元にだけ、不自然な洞があった。人ひとりが丁度くぐれるほどの大きさだった。
神には思うところがあるらしく、率先して木のそばに寄った。彼にはなにか懐かしい予感が芽生えていた。記憶のどこかにこの空洞があった。「いったい、どこで見たんだ? ・・・・・・いや、見てない、実際にこの目では・・・・・・けれど、いつか、心に思い描いたことがある・・・・・・たしかきっと、作品に書いたんだ・・・・・・でも、なぜ、ここに?」神は思わず空洞を覗き込んだ。
そして"声"を聴いた。
「危ないですよ、先生! 蛇でも潜んでやしないでしょうか」
「いや、なにか潜んではいるが、少なくとも蛇じゃないな。いま、中から誰かが私を呼んだ」
「また突拍子もないことを! 幻聴じゃないですか、先生? それとも、例の、悪魔のやつらか」
「いや、確かに突拍子もないが、少なくとも幻聴じゃないな、いま、もう一度私を呼んだ。悪魔のやつらの声でもない」
「それは良かったですね。それで・・・・・・一体、どうするんです?」
答えるよりも先に神は洞の中に入っていった。マネージャーは急いで洞に駆け寄った。想像以上に深いらしく、神の姿はすぐに見えなくなった。
「こういう時、マネージャーって仕事がつくづく嫌になるよ」青年は独りごちた。
そして、未知の領域へと足を踏み出す。彼も洞の中へと、深い深い場所へと落ちていった。
第七章 『奇妙な呪文』
『悪魔』二人は街を彷徨う。あの、栗毛の少女の印象を懸命に思い浮かべながら。
それにしても、奇妙な少女だった。可愛らしい外見の裏には、人をぞっとさせるような何かがあった。少なくとも宮田と盥屋はそう感じた。それが、少女が本当に天使のような神聖な存在だから、邪悪な彼らにとって戦慄すべきものであるのか、彼ら以上に少女が邪悪さを隠し持っているからなのかは、二人にとって計り知れない謎であった。「ああ! いまいましい。ただひたすらに」と宮田は思った。
・・・・・・無様に焦げた二人の服は、一体どのような素材で織られているのだろうか、人が、ちょっと嗅いだだけでも忘れがたい印象を残すであろう、とてつもなく奇妙な異臭を放つのであった。まるで、特殊な薬品の塗られた紙を焼いたような、いや、何らかの化学物質が反応を起こした結果とでも言おうか、とにかく、人工的な、不可思議な臭気であって、まばらにせよ、通りすがる街の人々は、その臭気に、思わず顔をしかめたり、あるいは恍惚とした表情になったりするのだった。
二人は、口裏を合わせずとも、いつのまにやら、まるで、今回の全世界的な混乱に巻き込まれた、哀れな一般市民のように振る舞っていた。その様は役者のように見事で、その姿は、すれ違う人に、今回の大規模な混乱のせいで(実際半分はその通りなのだが)、一張羅の服を焦がす羽目になってしまった、哀れで真面目なセールスマン二人組(これは全く事実と違う)のように映った。
また、二人の気の持ち方も、今回の件で(つまり天使を名乗る少女との接触によって)少しばかりの変化を見せていた。つまり、この「遊び」の主導権は必ずしもこちらが独占できているわけではない、ということだ。「神(実はぱっとしない作家)」とその被造物たる「悪魔(実は小説の中から飛び出した二人組)」との対決を気取っていた二人だが、そこに第三の勢力(と呼ぶべきかどうかわからないが)、「天使(実は・・・・・・あどけない少女?)」が現れて、その力関係を大きく揺り動かした。天使というからには、神の側に立つ存在に違いない。物語の常識である。つまり彼女が現れたことによって、悪魔たちは非常に「やりにくく」なった。――神を嘲り、被造物は創造主を超えうるということを証明するという目的(ただし、他にも目的はあるが、ここでは明らかにしない)が。
もっと慎重に、狡猾にならなければならない――それが、二人の統一した意見であり、赤裸々な心情であり、暗黙の了解であった。
辺りももう暗い。二人は、人気のない、街の中心から少し外れたところにある市民公園にいた。公園のベンチに腰を下ろし体を休めている。
と、もしも彼らを逐一観察する物好きがいたら、次のような奇妙なことがわかっただろう――彼らの服装は、まるで傷口が癒えるかのように、小奇麗な、新しいものへと変化しつつあった。どうやら彼らの存在は、その服装も含めて、容易に滅ぼし得ないものであるらしい――自己再生する衣服。おそらくはその肉体も・・・・・・。
宮田は拾った石を池に向かって投げた。座ったまま、それも池はベンチから十メートルほど離れているにも関わらず、石は吸い込まれるように池まで届き、十数回もリズム良く、見事に水面を蹴り上げ、跳ねて、向こう岸まで渡り切った。「13メートル」宮田がふてくされたように呟いた。「小さな池だな」盥屋が言う。そして次に彼は信じられないほどのスピードで石を投げた。またしてもそれは池に吸い込まれ、今度は派手な音を立てて飛沫が上った。「5メートル半」宮田はまた呟く。「深い池だ」盥屋が続ける。「小さくて、深い池だ。子供が入ったら危ない」真顔で呟く。
「まったく、ため息とあくびが同時に出るね。ところで、さっきくすねてきたんだが、読むかね?」宮田が懐から一冊の本を取り出した。
「なんだい、それは? 本? いつか君が書いていた詩集かな?」
「そんなんじゃあない。これは、神が書いた小説さ。本棚から拝借したのさ・・・・・・ええと、タイトルは・・・・・・『僕たちのなにげない愛の終わり』だってよ。ふん! まあ、ありきたりな題だな。三点!」
「それ、何点満点中だい? ちょっと貸してくれ。・・・・・・どれどれ? ふむふむ、いや、なかなか・・・・・・ほう! これは感動したよ」
「お前さんは本当に皮肉屋だな。ろくに読んでもいないくせに」
「いや、本当に短い小説なんだが(これは短編集みたいだね)、この表題作には興味深いテーマが隠されている・・・・・・我々の行く末にも関係があるかもしれない」
「おれたちの行く末? ・・・・・・へっ! ますます面白くないな。おい! 盥屋、そんな本、燃やしちまえばよかったんだよ」
「持ってきたのは君だろう、それに、マッチだって君が持ってる」
「なるほど、違いない。一本とられたな! まあ、なにかに使えるかもしれない、とっておくとするかね・・・・・・ところで、盥屋君、これからどうしますかね?」
「天使から逃げ、神を追う」盥屋は極めてまじめな表情で言った。
「天使から逃げ、神を追う! まるでおとぎ話のような台詞だな! しかし、今は確かにそれしかないな。癪な話だが、あの娘っ子には、歯が立たない・・・・・・少なくとも、今のおれたちでは(今後の頑張り次第では逆転するかもしれないが!)。とにかく今は、神を探すしかない・・・・・・おれの砂時計を盗みやがったあいつを」
盥屋は答えない。宮田がそれをいぶかって顔をやると、盥屋は硬直してある一点を凝視している。立ち並ぶ街路樹の方である。静かに風が吹いている。木の葉が揺れる。
「おい、どうした?」
「いま、だれかが、あそこの木の根元から地中に入っていった。というより、落ちて行った」
「なんだと? 世の中には、変なこともあるもんだな。・・・・・・それで?」
「二人組だったが、そのうちの一人は、神かもしれない。背格好がよく似ていた。もう一人は知らないが」
「なんだと? 神のやつが? ええい、こん畜生、仲間を増やしやがって! それにしても、一体この世界はどうなってやがるんだ?」
「それは」盥屋が受けて、
「私たちが言っていい台詞ではないね、少なくとも。・・・・・・とにかく、あすこに行ってみよう」
二人がその街路樹のところまで行ってみると、そこにはただ、何の変哲もない木々が生えていた。どの木の根元を調べてみても、何の異常なところもない。宮田は地面を蹴って舌打ちした。
「はっ! 盥屋君、君が嘘をついてるとまでは言わないが、あんまり話が荒唐無稽すぎるんじゃないのかい? さすがにさ! どこにも、なんにもありゃしませんぜ」
「それを言うなら、我々が存在すること、それ自体が荒唐無稽だよ。宮田、さっきの本をまた貸してくれ」
盥屋は受け取った本をめくると、不意に大きな声で朗読し始めた。辺りに人が誰もいないのが幸いだったが、誰かがいたら間違いなく変人扱いされてしまっただろう――――
「『僕たちのなにげない愛の終わり』作・A
民夫と節子という男女が一緒に住んでいる。民夫は小説家になろうとしているパッとしない三十になろうかという男である。節子は真面目だが、不真面目な男に惹かれてしまうところのある、よくあるタイプの女性である。彼女がパートで働くことによって、なんとかこの同棲生活の生計は支えられている。民夫はいまだ小説を書こうともせず、自己啓発本やハウツー本を読んでは、その内容を節子に語って生きている。おかげで節子も自分を奮い立たせる方法や、創作にまつわる心構えについて、やたらと詳しくなってしまった。・・・・・・二人は付き合いだしてもう三年になる。
民夫は今日も働きもせず、家でゴロゴロしながら本を読んでいる。節子が裁縫をしているうららかな午後、不意に彼は口を開いた。
「俺、小説家になるんだ。だから、節子、別れてくれないか」
民夫にこう言われた節子は、驚きのあまり目を丸くして、
「え? それってどういう意味?」とだけ言った。信じられない言葉だった。
「そりゃあ、そっくりそのままの意味さ。俺は作家になって飯を食う。そのためには絶対に一人にならなくちゃならない、・・・・・・そう思うんだ」民夫はきっぱりと宣言した。
「まだ意味がわからないわ。作家になるって夢は応援する。・・・・・・だけど、どうして私たち別れなくちゃいけないの? 二人で夢を追いかけましょうよ」と節子。
「聞いてくれ、節子。小説家っていうのはな、インスピレーションが重要なんだ。それにな、インスピレーションってのはどうやら孤独にならないと得られないものらしいんだ」民夫が拳を強く握りしめながら言う。
「なんだか、ありきたりな話ね。・・・・・・それ、どこで聞いたの?」
「今読んでる小説だよ。節子も読むかい? 絶対に感動するぜ」
「いや、いいわよ、別に・・・・・・ねえ、あなた、ちょっとは成長してくれない? その、なんでも信じちゃう性格とか、創作のことを現実と混同しちゃうところとか、まあ、かわいらしいっていえばかわいらしいけど、今回はさすがに度が過ぎるわよ。いい加減にしたら?」
「ああ、節子、節子! 俺のインスピレーションを奪ってくれるなよ! インスピレーションを!」民夫はいきなりそう嘆いた。
「俺は、俺はさ、小説家になりたいんだ! 小説でおまんま喰いたいんだ! 売れっ子作家になりたいんだ! 印税生活がしたいんだ! 豪邸に住みたいんだ! 高級車を乗り回したいんだ! マリリンモンローみたいな女を助手席に乗せてさあ! そのためにはインスピレーション! インスピレーション! インスピレーションが大切なんだ! 大事なんだ! 重要なんだ! だから、頼む、どうか、俺と、別れて、くれ!」彼は一気に己の夢、というより欲望、つまり妄想をまくし立てた。こんなに激昂した民夫の姿を節子は見たことがなかった。こんなエネルギーが彼にあるとは。
しばらく、沈黙が部屋を覆った。
その子供っぽい様子、というより異常な反応に節子は愛想を尽かし、また恐怖を覚え、ため息とともにこう言った。「はいはい、わかりました。わかりましたってば。じゃあ、別れればいいんでしょ? 別れれば・・・・・・」
「そうか! 別れてくれるか! ありがとう、ありがとう節子! 万歳! これで俺もベストセラー作家への切符を手にしたぞお!」民夫は手に持っていた本をほっぽりだして叫んだ。
こんなことを言われたら、別れると言って喜ばれたら、怒りがこみあげてくるのが普通なのかもしれないが、節子は、どうしてこんな人間と暮らしていたのかと、むしろ今までの自分自身のことを不思議に思った。そしてなぜか、なんということのないことが一つだけ、やたらと気になったのだった。
「・・・・・・ねえ、最後にひとつ教えてちょうだい、その小説、なんていう題名なの?」
「これ? これはね・・・・・・えっと、『僕たちのなにげない愛の終わり』っていうのさ。節子も読みなって・・・・・・俺は、絶対に売れっ子作家になるぞ!」民夫は叫んだ。
このときの二人に知る由もないが、事実、別れた後に、作家デビューすることになる・・・・・・「彼女」は。習わぬ経を読む、節子は民夫に繰り返し聞かされた本のノウハウを生かして、だめんずの生態を鋭く抉った体験談を数多く執筆、見事ベストセラー作家への道を歩むのである。
それからの民夫の行方は誰も知らない。」
すると突然、木の根元のあたりに、人ひとりが何とか通れそうな洞が開いた。
「おい、これは一体全体どういうことだい? 君は魔法使いだったのかな? おみそれしたよ! それと、なかなか朗読がうまいじゃないか、迫真の演技、感動したぜ!」宮田は内心ひどく困惑しながら言った。
「お褒めにあずかり光栄だな。・・・・・・やはり、この世界は、もはや我々の物語と一体となってしまっている。だから、こんなわけのわからない仕掛けがたくさんあるのさ。自分でも、まさかとは思ったけどね」盥屋は微笑して答えた。
「ほう、ほう、ほう、つまり、イレギュラーなのは、もうおれたちだけじゃないってわけだ。この世界自体が変質しつつあるわけだね」宮田はへらへらと笑った。
洞はうつろに二人をのぞき返している。恐る恐る足を踏み入れる宮田、いや、踏み入れると間もなく吸い込まれ、落ちてゆく――盥屋がそれに続く――洞が二人を飲み込むと、樹の皮が広がってそれをふさぎ、たちまちのうちに跡形もなくなった。
第八章 『番外編:ノートからの抜粋』
――人間の分際といふものの不承認。そこから來る無氣力。拗ねた理想の郷愁。氣を惡くした自尊心。無限を垣間見かいまみ、夢みて、それと比較するために、自分をも事物をも本氣にしない……。自己の無力の感じ。周圍の事情を打破る力も、強ひる力も、按排する力も無く、事情が自分の欲するやうになつてゐない時には、手を出すまいとする。自分で一つの目的を定め、希望をもち、鬪つて行くといふ事は、不可能な・途方もない事のやうに思はれる。――
――――中島敦『かめれおん日記』
次の文章はこの物語の中心たる作家・・・・・・神と便宜的に呼んでいるあの人物・・・・・・のノートから抜き出したものである。彼の創作方法や内面を知るにはあまりにも頼りない資料ではあるが、ひょっとしたらこの物語を理解するためのなにかの参考になるかもしれないと思い、ここに残しておく。
☆
生硬な論文。
真理とは、泥に手を深く差し入れるがごとく、難儀な手ごたえのするものだ。誰しもそれを忘れ、気安く真理に近づき、かえって混迷と苦悩の円環に入り込んでしまう。
知識を得たいがために闇雲に書をひらき、ただただ記されている文字をたどり、そのまま意味の迷宮に取り残されてしまう者も少なくない。あなたは知識を下僕にしようとしているのかもしれないが、知識もまた主人を選ぶのだ。
真理もまた同じである。それを得られるものは、必ずそれに値するものだ。同じ書物を読んでも、なにかを学ぶものとなにも学ばぬものがいるように、一つの物事を見ても、そこから永久不変の真理とやらを会得する者もいれば、まったく実りのない月並みな感想を得るだけの者もいる。 不公平だろうか、不平等だろうか? しかし、あらゆる事象とはそういうものではないか? 一瞬から永遠を学ぶことができる者は、そう多くないのではないか? いくら経験を積んでも上達しないことや、いくら言い聞かされても納得できないことの方が多いのではないか?
・・・・・・なぜ人間がかくも不器用にできているのか、これもまた不器用ゆえに容易には答えられぬだろう。我らに与えられた機能は貧弱である。しかしだからこそ必死になって答えを求めようとすることも事実である。我らは困難なことに対して一層の執念を燃やさざるを得ないようつくられているのである。
「誰も私には追いつけまい。私もまた誰かに追いつくことはできまい」
「背表紙ばかり見て満足していても仕方がない。と分かっているけど・・・・・・」
・物の名前を知らないというのは重しだ。
・一度、総まとめをしなければならない。検討する必要がある。全体的な完成の為には部分の関係性を重視せねば。日々新しくしていかねば、古いものも生きない。
・常にメモし続けることはできないから、せめて一部でも記録することが大切だろう。失われたものは大きい、という認識を持ち続ければ得るものを増やすのに役立つはずだ。
・すべてほとんど暗号のようだ。暗示しかしていない。
・ある頂点がある。そこに立つことのできるのは、その人自身だけである。内奥に咲く花。詩的な表現でしか暗示できないもの。孤独の中の光。
・本当に貴重なことを考えてみる。と自覚する。これが重要。世の中に自分しかできないことをしているという感覚を得ること。それが人としての第一日目の仕事。
・『天との垂直な感性』とは、必ず要るもの。誰しもそれを忘れて生きることはできない。――つまり生きながら死んでいるしかない人々も存在する。
最近思っていること。
・同じ興味を持つ人に会うのは難しい。自分の場合は、表現することで旗を掲げて人を呼ぶという方法を選んでいるが、そのことで実際に来た人はまだいない。何か・・・・・・何かが無い。何か重要な部分が抜けている。そんな気がする。
・人と人とのふれあい、交流には社交術が必須だが、芸術は必要ない。が、社交術すらいらない交流というものをしてみたいものだ。おそらく、面白いことになるだろう。人の反応というものは多様なのである。
・「ムーブメントに乗るよりもムーブメントをつくれ」という言葉は勇ましい。もっと勇ましいのは「ムーブメントを破壊しろ」という言葉だが、言うものは少ないだろう。誰しもが、恐れている。何を? つまり何も言葉が出てこないこと、あるいは過剰に言葉が出てきてしまうこと。言葉を使役しきれるものは誰一人としていない。
・小説について。自分の言葉で(たとえ一作、一行でも)書くことができたら、十分なことだ。「伝わらなさ」もまた大切なことである。この文章もそうだ。自分にすら伝わるかどうか、わかったものではない。
・オリジナルというものは存在しない。マネのマネのマネのマネの・・・・・・という連鎖があるだけである。それは当然のことで、だからこそ忘れがちなのだが、確かなことだ。
・小説は一気に書くスタイルである。これがどのように変わっていくかは知らない。自分の書いたものも読めないのに、他の人の書いた小説が読めるわけがない。(自分のばかり読むのも問題だろう)
・次から次へと読むべき本は増える。しかし人はせっかちな生き物だ。読み切るまで耐えることは大変だ。
・逆に、寝る間を惜しんで読みふける本はどうなのか。それが本当の読むべき本であるという考えもあろう。
・努力はするべきだ。だが結果は努力とは別のところにある。努力を恨んではいけない。
・カフカの小説が内部に閉じこもっているという見方は、間違っている。
・考えてみれば「思い出す」ことの方が「学ぶ」ことよりはるかに大切である。全て知っていたから。何もかも忘れてしまっているのが、我々中間存在(パスカルの言う中間存在)。
・酔っている人に、手を貸してあげようとして、その人は手をはねのけて、転び、頭を打つ。「お前が手を出したから!」と怒鳴られる。そんなものじゃないか?
第二部 『追って追われて』 第一章 『答えは道の終わりに』
損之又損 栽花種竹 儘交還烏有先生
忘無可忘 焚香煮茗 総不問白衣童子
之を損して又損し、花を栽え竹を種えて、儘く烏有先生に交還す。
忘る可き無きを忘れ、香を焚き茗を煮て、総て白衣の童子を問わず。
――――菜根譚
幾何学、幾何学、幾何学・・・・・・床一面の幾何学的紋様。空は不気味なほどに青い。
ところで、今、何時なんだ? 神は頭がクラクラしていた。とにかく、時間が知りたい。我々はもう何分、いや何時間歩き続けているのだろう。マネージャーもヘトヘトに疲れているようだ。道はただただ一つきり、ひたすらに続いている。広い道の両脇は絶壁になっており、見下ろすと結構な高さになっている。ちょうど道の幅くらいの高さであろうか? 床には複雑な幾何学模様が刻まれており、子供のころから数学の嫌いだった神は、それを見つめているとクラクラと眩暈がした。ああ、悪夢のようになった世界から逃れてみれば、今度は本当に悪夢のような世界だ! 神はひとり心の中で嘆いた。
「まったく、いやになるね、この世界は。一体、どこかの誰かは、私を、何の目的でこんなところに呼んだんだろう?」
「ほら、言ったじゃないですか、幻聴じゃないかって。やっぱり空耳だったんですよ、先生!」
「・・・・・・もしも空耳だったとして、それじゃあこの世界は一体なんなんだ? 私たちの見ているこの世界は」
「そりゃあ、おおかた、夢か何かじゃないですかね?・・・・・・僕たちのどちらかの見ている」
「君は、やけに話を現実的にしたがるね。もう少し、真面目になって考えてくれよ」
「真面目に考えてるから現実的になるんですがね」
二人はそれきり黙った。
何か道しるべになるような、看板のようなもの、それさえも無かった。もっとも、道は一つであるから、迷うこともなかったが。この道はどこへ続くのか? 不思議なことに、二人は腹も減らなかった。神はそれに気づくと、いよいよもって今置かれている状況の異常を思った。マネージャーはといえば、きっと極度の緊張で胃腸の動きが悪いのだろうと解釈した。確かに長い間歩いていても汗の一滴もかかない、これも不思議だが、それがどうしたというのだろう? 彼はあくまでこれは自分の生理現象の異常であると「現実的」な判断をした。
空はひたすらに青く透明である。気の利いた風流人なら、この素晴らしい空について、なにかいい感じの詩句を引用するかこしらえるかして、披露してみせただろう。しかし神もマネージャーも一言も発さず、ただただ歩き続けていた。
時が止まったかのようだった。果てしない距離を歩いたような気がしていた。また、実際に果てしない距離を歩いた。この空間が一般的な法則を超越していることは明らかだった。
神は暇つぶしに今までの人生であったことを反芻したり、出会った人々の顔を思い出したりしていた。だがどうにもうまく思い出せないことに気づいて、苦笑した。「私の記憶力も鈍ったのかな?」はじめはそう考えての苦笑だった。やがて「これはただ事ではない、元の世界のことを忘れ始めている!」という驚きの苦笑に変わった。
マネージャーはこれがまだ夢であると信じていたが、同時に秘かな胸算用もしていた。こんな重労働、聞いてないぞ。第一、この一連の逃避行にまだ納得がいっていない。先生と編集長の板挟みになって日常に疲れ切っていたところに、この非常。特別手当は出るんだろうな? それなりの対価はいただかなくては・・・。彼は編集長の禿げ頭をしっかりと思い起こしていた。
「あの・・・・・・」「なあ・・・・・・」二人は同時に口を開いた。マネージャーがすかさず「どうぞ」と譲った。
「・・・・・・もうそろそろ、なにか見えてきてもいい気がするんだが・・・・・・なにも見えないね」
「僕もちょうどそう思っていたところです。なにか、こう・・・・・・夢にしちゃしつこいな、と」そう言って困ったように微笑した。
「どうする? もう少し進んで、なにも無かったら、引き返すことにしようか? あの、出発地点まで」
「戻る? 戻っても、どうせなにも無いじゃありませんか。落ちてきた穴も、きれいさっぱり消えてしまったようですし」
「では、どうする?」
「こうなればやけです、前に進みましょう」《あとでたんと報酬をいただこう》
「そうか・・・・・・そうだね・・・・・・いや、そうするしかないか」《彼の言うことももっともだ。ただひたすら前に進むしかない。答えは道の終わりにあるだろう》
そのように話していた時だった。二人の前に、まさしく『道の終わり』が見えてきた。あわててそこまで走ってゆくと、二人はともに絶句した。突然あらわれた道の終わりには『あるもの』があって、それがことの不可解さを一層増していた。不可解、不可解、すべてが不可解!
道の終わりにあったのは、床から生えた大きな時計の針とそれをのせる文字盤だった。それはまさに精巧な出来で、今も(おそらく)正確に一定のリズムで時を刻んでいた。ただし、水平に。
「そうか、わかったぞ」神はうなった。
「わかったって、なにがです? いまの時間ですか? こっちは一層わけがわからなくなりましたよ」
「この『道』は、巨大な時計塔だったんだ。ただし、横たわった時計塔だ。それを道だと思って、私たちはここまで歩いてきたんだ」
「それはなんとなくわかりますが」と、マネージャーが言葉を受けた。
「一体、なんで時計塔が横向きに置かれてるのか、まだ変わらず動いてるのか、そもそもなんでこんなに長いのか? これじゃあ、横たえることを前提にしたつくりじゃありませんか? なんにも、説明がつきませんよ」彼は顔をしかめた。
「そんなことはどうでもいい。重要なのは、こちらの世界では、時間というものが我々の世界とは違った流れ方をするものだということが、これではっきりしたことだ。おそらく、空間の概念も違うのだろう。それは、いままで歩いてきた道のりでなんとなくわかる。道の終わりを話題にした瞬間、それが目の前に姿を現したことからもね。そしてもう一つ重要なのは、いま、我々二人はその時間の果てへ来てしまったということだ。つまり、この世界の時間の基準の中心へ。時間の果てとは中心のことだからね(ここで彼は独自の時間論を仄めかしたが、相手はよく聞いていなかった)。さあ、これから、我々はなんとかしてこの世界の空間としての中心、つまり空間の果てまで行かなけりゃならない。さもないと、元の世界には永遠に帰れまい。もっとも、我々を呼んだ人物や、悪魔どもにもいずれ会うことになるだろうが」
「つまり」マネージャーは神の言葉を要約して言った、
「もっと歩かなきゃ帰れない、ってことですね?」
第二章 『別れ道』
・・・・・・さて、あの二人の悪魔どもは一体どうなったか? 身体全体がねじれるような、奇妙で不快な感覚のあと、彼らもまた確かに、あの木の洞から、神一行と同じ世界へたどり着いた。しかし、悪魔たちの降り立ったのはまったく異なる場所だったのである。
「・・・・・・ここはいったい、どこなんだ? 天国かな? それならすぐに帰ろう。それとも、地獄? それにしては人気がないな、もっと混雑してるはずだ。じゃあ、ここは、どこだ? 物知りの盥屋君、どうかお答えくださいよ」宮田が苛立たしげに言った。
「申し訳ないことに、まったくもってわからないね。まあ、さっきまでの世界じゃないだろうし、私たちがもといた世界とも少し違う」盥屋はいたって正確に、そして冷静に答えた。
「・・・・・・盥屋の旦那、あんたはこんな時でも、まるで仮面をつけているようにすましているんでござんすね、まったくもって不可解なことに!」宮田は吐き捨てるように言った。
「こういう性分なんですよ。おそらく、生まれつきの冷血漢なんだな。まあ、この身体に、血が通っているかどうかさえ、疑わしいものだが! 確かめるのもなんだか気が引けるしね・・・・・・ところで」盥屋が唐突に話題を変える。
「この三方を取り囲む壁は、どこまで続いてるんでしょうねえ?」
彼らの周りを、途方もなく高い壁が取り囲み、遠い空は美しく晴れているはずなのに、辺りは不気味に薄暗い。といっても一方だけはひらけて道が続いており、その先の方で道は左右に分かれているる。
「さっきのおれの質問と似ているねえ! じゃあ、おれの予想を述べようか? ・・・・・・どこまでも、さ! きっとね」と宮田は皮肉気に言う。
「君にしては、素晴らしく聡明な意見だね! ・・・・・・君にしては」と盥屋。
「二度も言う必要があるかね? まあいい、こうなったら、とにかく、歩くしかないようだね、あの分かれ道まで。もっとも、普通の状況じゃないから、それだけでなんとかなるとは思えないけどな。ちぇっ、まったく、いやになるぜ! なんのために、こんなところをさ迷わなくちゃならないんだろう? なあ、盥屋さんよ」
「我々の身の安全と、君の砂時計のためですよ。それ以外に何か理由があるかな?」と盥屋は冷徹に呟いた。
「ああ、畜生め! 少なくともおれには、神を呪う正当な理由があるな、そうだろ、盥屋君!」盥屋の方はそれに答えず、なにか考え込んでいるような風だったので、宮田もそれきり口を閉ざした。
宮田の思った通り、分かれ道を左に行くと、そこにはまた分かれ道が待っていた。それを右、次も右、その次を左。いくつもの、いや無数の分かれ道――二人は、巨大な迷路にいることを認識した。
「いやはや、これはどうにも困ったね」盥屋が落ち着き払って言った。
「どうする? 次の分かれ道は? 右に行こうか、左に行こうか?」
「いや、この際、ずっと一緒の方向でいい」宮田が面倒そうに言った。盥屋の「いやはや」とかいう紳士ぶった態度が気になっていた。
「どちらかを選び続ければ、いつか必ず端に着くからな」
「君にしては、賢明な考えだ。君にしては。・・・・・・しかしそれは」と盥屋は続ける。
「この場合そうとは限らないな、宮田くん。・・・・・・なぜなら、この世界にはどうやら『無限の空間』がありえるようだからね」
「『無限の空間』だって? 君、それは本気で言っているのかね、え? 急激な環境の変化でおかしくなったか? ・・・・・・それともからかってるのかな?」宮田が問う。
「いやいや、まじめに言ってるのさ。この世界は、私たちの最初にいた世界に似ているようだ。神の創った小説世界、私たちの故郷にね。つまり、荒唐無稽な、滑稽な、子供騙しが、まかり通るような世界なのさ。だから『無限の空間』も『無限の時間』も十分にありえる。もっとも、神がいた世界、いわゆる現実世界にだって、在り得るのかもしれないが。その存在をだれも証明していないだけで。ところで、何故この世界が我々の故郷に近いということがわかるのかという話だが、それはね、匂いだよ。このいかがわしげな匂い、雰囲気、そして壁の間からほの見える、あのあきれるほど青い空! この世界はまやかしだ、私たちと同じようにね。そして、神の世界よりもここでは自由でいられるはずだ、我々は」
「ほう、それで?」宮田は愉快そうに訊ねた。
「お前さんの言う通り、神の世界より『自由な』世界なら、どうやってこの迷路から抜け出すことができるんだね? また、適当な呪文でも唱えてみるか?」
「呪文か・・・・・・案外、それに近いかもしれない、私の考える脱出方法は。その方法とはね、まさに、そのことについて『考える』というものさ。この分かれ道の、終わりについて。丹念に考えるのさ。それだけ。それによって道は定まるだろう! ・・・・・・私の予測が正しければ」盥屋は心なしか昂奮した面持ちで述べた。
宮田と盥屋はいくつもの分かれ道をゆきながら、この不毛な選択の終わりを考え続けた。ぶつぶつ独りごちては立ち止まり、狭い空を見上げ、また歩き出し、迷路を進み続けた。果てのない時間が流れた(あるいはそのように思えた)。やがて、二人の前に今までと趣向の異なった分かれ道があらわれた。真ん中に粗末な木の看板が立っており、そこに白いペンキで無機質に「最後ノ選択ナリ」と書いてあった。あまりにもあっけない終わりに、若干二人は拍子抜けし、失望したが、すでにこの迷路にもうんざりしていたので、思わず顔を見合わせた。
「ついに最後か。長かったような、短かったような。まあ、とにかく」盥屋は続けた。
「これでなにか、新しい風景へ行くことができるよ。・・・・・・まったく、物語とは風景と風景の連続だ!」
「お高く喜んでいるところ悪いが、盥屋」と不意に宮田が真面目な調子で言った。
「おれから提案があるんだがね」
「提案? それはいったいどんな?」
「どうだい、この分かれ道、別々の道を選ばないかね? おれが右、お前が左。まあ、それはどっちでもいいんだがね!」
「ほう! それは」盥屋は心なしか愉快そうに答えた。
「極めて興味深い提案だね。だが、いったいなぜ? それに、本当にいいのかな? ここで別々の道を選べば、もう二度と会うことはないかもしれないんですよ、宮田殿」
「いや、なに、例の、宮田お得意の、気まぐれな思い付きってやつさ。そんなに意味はないんだがね、いや、まったくないかもしれないな! しかし、いままでずっと二人で行動してきたから、発見できなかったこともあるんじゃないかね? 一人ずつ行動すれば、視点は二倍だ。四人より二人、二人より一人、だ! 単純な理屈だろう!」そう言って宮田はゲタゲタ笑い出した。
「君の提案を受け入れよう」盥屋は口元を歪めながら承諾した。
「ただし、条件がある。どちらかが神と会っても、二人そろうまで、その処遇については保留しておくということだ。勝手に神を尋問したり」人差し指をつき出し、盥屋はさらに口を歪めた。
「自由を奪ったりしてはいけない。これは絶対だ」
「決まりだな!」そう言いつつ、宮田はすでに右の道へ大股に歩き出していた、
「どうせ約束を守る気はさらさらないだろうが、まあいいさ。一応、釘は刺しておいたからな」という盥屋のつぶやきも聞かずに。
そして、「それでは。これが最後になるかもしれないが。まあ、我々にはそんな別れもよかろう!」と、どちらかの男が大きな声で言った。
右側の道へ消えてゆく宮田の後姿をしばらく見送った後、盥屋は左の道に向かって静かに歩み始めた。
第三章 『果てから果てへ』
「さて、ではこの時計の針をなんとかしてまたいで、向こう側に行かなきゃならないぞ。空間の果てへ行くために」神はそう言って大きくため息をついた。
「長針と短針に挟まれたら危ないですね。大回りに行きましょう」マネージャーもそう言って、大きくため息をついた。
何しろ巨大な時計である。大回りしていくには結構な距離があった。空から見下ろせば、この時計が5時10分を指していることがわかっただろう。二人は回りきる少し前、一度長針をまたいだ(正確に言えば、文字盤との隙間が大きかったので、そこをくぐり抜けた)。素早く時を刻んでいく秒針がなぜとなく恐ろしかった。そして、なんとかⅫの文字の上に立つと、お互い顔を見合わせほっと胸をなでおろした。
「見てください、いい眺めですよ!」マネージャーが目を輝かせながら言った。
横ざまになった時計塔の頂点は、まるでバリアフリーを志向しているかのような緩やかなスロープになっており、その先には鬱蒼と茂った森、さらにその先には峻厳な山々が聳え立っていた。
「すごい景色ですねえ。現実にもなかなかないですよ。でも、どうして今まで気づかなかったんだろう?」
「それがこの世界の魔力さ。心が、何かに囚われている限り、ほかの何かに気がつくことができない」
「なんだか、元の世界でも、そんなことがあるような気がしますね」
「君も、なかなか哲学的なことを言うようになったじゃないか。そう、心はいつも何かに囚われているのさ。恋、仕事、夢、つねに何かにかかずらっていて、そのほかのことに対して盲目で、思わぬところで、思わぬものにつまづいて、転んでしまうのさ。そういうものだ。・・・・・・さあ、行こう」
「さすが先生、僕の言いたかったことはまさにそういうことだったんですよ!」マネージャーは本当に感激したように高い声で言った。「・・・・・・でも、その前に、少し休憩しませんか?」
神もその考えに同意して、Ⅻの文字の上で二人は小休止をとった。その場に寝そべって、せわしく時を刻む秒針を見つめていた。しかし、両者ともにそんなに疲れていないことに気がつき、この世界の異常さに改めて気づかされたのだった。
「先生、おかしくないですか? これだけ歩いたのに、汗ひとつかかないし、いや、かけないし、足も痛みません、いや、痛むことができません」マネージャーは混乱のあまり少々おかしな言葉遣いで訴えた。
「どうやら、この世界では、体の代わりに、心が疲れていくらしいね。その証拠に、私の記憶はだんだんと曖昧になってきている」
「心が? 記憶が薄れる? それはいったい、どういう仕組みなんです」
「くわしい仕組みはわからないが、やはりここでは意志の力が重要な役割を担っているらしい」
「僕にはあまり向いてない世界だなあ」
「そうかい? 君には、案外図太いところがあると思うけどね」
「そうですかねえ?・・・・・・とにかく、これからは気を強く持たなくちゃならない、ってことですね?」
「まあ、そういうことだね。なにがあっても、落ち着いて、冷静にいなければ」
そんな会話をしているうち、にわかにポツポツと雨が降ってきた。はじめのうちは二人は気にせず話し続けていたが、刻一刻と雨は強くなっていった。とうとう彼等は観念して、緩やかな長いスロープを急いで駆け下り、目の前に広がる、鬱蒼とした暗い森を目指した。二人が森の境に着く頃には、雨はバケツをひっくり返したようなどしゃ降りに変わっていた。深い森である。見上げるほど高い木々の枝には蔦が複雑に絡んでいる。森の奥の方は、無数の葉に光が遮られてとても暗い。ここなら雨をしのぐこともできるかもしれない。少々、不気味ではあるが・・・・・・。
「あいつだ、宮田だ!」神が突然森の奥を指さして叫んだ。
宮田の姿を森の奥、かろうじて見かけたような気がした。いや、あるいは気のせいだったのかもしれない。しかしなぜか彼は宮田の存在を確信した。それは視認した、というより、その臭いを嗅いだ、といった方がいいかもしれない不思議な感覚だった。彼と悪魔たちの間には、なにか言葉では言い表せない繋がりのようなものがあるのかもしれなかった。もちろん、そのようなことについて深く考える余裕など、今の彼には無かったが。
《ここまで追いかけてきたのか!》神は前方を見据えたまま、しばし黙考した。彼の頭に血が急に流れ込んだ。《・・・・・・ようし、いつまでも逃げているのも癪だ、けりをつけてやる!》
「宮田って、例の悪魔の? どこです? まったく見えませんね。あ! 待ってください! 先生!」
マネージャーは一心不乱に駆けだした神を追いかけようと足を踏み出したが、奇妙にぬめりけのある木の根に運悪くあたってしまい、つるりと滑って転んでしまった。ひどく膝をぶつけ、じんじんと痺れるので、すぐに立ち上がることが出来ない。
「先生! 待ってください! 置いてかないでください!」マネージャーの声が森に不気味に木魂した。
神は宮田の影を追って森の奥深く駆けていった。信じられないほどの速さで。
なにが彼を突き動かしたのか? ・・・・・・いかに冷静な人物でも、いったん窮地に陥ると逆上して、突飛な行動をとってしまうことがある。この場合は、そういった心理の不思議な仕組みによるものなのだろう。
とにかく、神とマネージャー君の二人はここで、期せずして離れ離れになってしまったのである。
第四章 『窪地の老人』
道の先には扉があった。まさしく扉だけが立っていた。裏に回ってみても、何もない。恐らく盥屋も今ごろ、同じ物を目にしているにちがいない。試しに宮田は扉を開け、一歩足を踏み入れた。
突如、まばゆい閃光。前後不覚、曖昧になる体の感覚・・・・・・まるで、見ず知らずの誰かに身体を乗っ取られゆくかのような、不気味で、無様な感覚。ちぇっ! 気に喰わないな、こりゃあ! 自分だって人のことを言えないほどの怪しさだが、こういう超現実的な体験っていうのは、どこか胡散臭いところがあるぜ・・・・・・まるで子供騙しだ、馬鹿にしてやがる。宮田は堅い豆を噛み潰すかのように歯軋りした。彼にとって超現実的な現象とは近親憎悪の対象でしかなかった。やがて完全に失う、自らの身体の感覚。果てしない虚脱感・・・・・・それに加えて、夢と現うつつのあわいをすり抜ける、かすかな満足感・・・・・・。
・・・・・・そして、彼の目に飛び込んできたのは、悪夢のごとき荒涼とした風景だった。思わず後ろを振り返る。しかし、そこには先ほどの迷路の跡形もなかった。大きくため息を吐く。そして周囲を見渡した。
そこは、まるで月のクレーターのような、乾いた窪地であった。辺りには、生命の痕跡が見当たらない。枯れた木々がまばらに立ち、辺りに一層の侘しさを醸している。
その中の一つの枝に、名も知らない、いや、知れようもない鳥が止まっていた。ちらと見た目は――鴉。だがその足は――三つ。ううむ? これは――ヤタガラス。空想上の生き物だな? ふん! 宮田は憎らしげにその怪鳥を見やった。まるで血を分けた相手を見やるような、生々しさのある視線。
「どこだ? ここは? まったく!」宮田は乱暴に独りごちた。
「まあ、どこか、とんでもないところにとばされるだろうってことは、こちとら重々承知の助だったけどな! それにしたって、こんな辺鄙な、地獄の最果てみたいなところじゃなくてもいいじゃないか? なあ? カラス君」
宮田はそう怪鳥に呼びかけたが、鴉は知らぬ存ぜぬの風で、その三本足でただじっと枝にとまっている。大げさに舌打ちした後、宮田は窪地の端まで歩いてみた。窪地の中心に落とされた(この表現が適切かはわからないが)らしく、大きな窪みだったので、端まで行くには時間がかかった。もっとも、この世界で時間を気にすることはないことを彼も承知していたから、それについて悪態をつくことはなかった。
窪地を抜け出すと(クレーターの境を登るのは骨が折れた)、峻厳な山並みが見えた。どうやらここは山脈の一部が何らかの理由で奇妙にえぐれてできた窪地らしく、かなりの高地にいるということがわかった。そして山の麓には、鬱蒼とした森が広がっていることもわかった。
《けったいな場所に召喚されたもんだ、まったく! ・・・・・・とりあえず、神の奴めを探さなくちゃあ》と宮田は考える。
「こんな、変な鳥しかいないところで待ってたって、奴は来やしないだろうな。第一、こっちの気が滅入る! さて、まずはあの森まで降りてみようかね」
彼は一度決めてしまうと早い。すぐさま「山下り」に取り掛かった。正確に言うならば、取り掛かろうとした。ふと誰かに呼ばれたような気がして、窪地をもう一度振り返ったのである。そして彼はぎょっとした。
もう遠くなったクレーターの中心、あのヤタガラスのとまっていた枯れ木の近くに、誰かが立っている。
《誰だ? あれは? あれが、おれを呼んだ?》宮田は様々な考えを巡らせる。それを破るように、
「おおい、君、こっちへ来なさい」と、かすかな老人の声が確かに聴こえた。
かなりの距離である。老人のつぶやきなど聴こえてくるはずもない。だが宮田は声の主が「あれ」だとなぜか確信した。なぜなら、『相対的に』一番近くにいるのは、あの『老人?』なのだから。
宮田がまた窪地の中心を目指して向かってくる間、声の主と思われる老人は枯れ木の下でずっと立っていた。空には燦々と太陽が輝いている。雲一つない青空。呑気に時は過ぎていく。やがて宮田と老人は対峙した。
奇妙な老人である。そこらの枯れ木と見間違うような弱弱しい体躯と裏腹に、細くあけた眼の奥には緑に淀んだ大河のような深い輝きを湛えている。それは彼の持つ生命力と、叡智の非凡なことを示すのに十分すぎるものであった。その顔は、見る人にどこか懐かしさを与える温和な表情と、近づき難い印象を与える幾筋もの峻厳な皺とが対立せず、お互いに複雑に絡み合って存在している密林であった。彼に出会った誰しもがこう思うに違いない、《彼は彼自身の中に我々の想像もつかない、実に豊かな果てしない世界を持っている》と。とにかく、そういった不思議な姿の老人である。
「骨折りですまなんだなあ、ごくろうじゃったなあ」優しげな声で先に口を開いたのは、老人の方だった。
宮田は機転を制されて少したじろいだが、すぐに、
「いやいや、ご老人。なんのこれしき、大したことはありませんぜ! まあ、あと二三倍の距離があったら、おれも怒ったでしょうが、こんな距離、うちの便所より近いですよ! ああ、自己紹介がまだでしたね、わたくし、宮田、宮田の望と申しますです、はい!」と切り返した。しかし、
「ああ、なにも、道化なくてよろしい。誰もいない、なにもないこの場所では、おぬしと二人きりじゃてな」と諭された宮田は、いきなり声の調子をガラリと変えて、
「では、単刀直入に聞くが、爺様よ、一体全体、このおれに、なんのようですかね? 他人のために時間を使うのは、あんまり好きじゃないんだ、手短にお願いしますよ、あとね」と彼は枯れ木の枝を横目でジロリと睨んで、
「あすこにとまってた鴉は、どこにいっちまったんですかね? 三本足の、汚らしい鴉だったが。知りませんかね?」と不躾に訊ねた。
「その鴉なら」老人はゆっくりと答えて、
「心配せんでもよい。餌を求めて、どこかに飛び去ったよ。まったく、あんな老鴉でも、腹は空くと見える」と言って呑気に笑った。
《この爺さん、ただものじゃないな》宮田は腹の中で思案した。
「用というのはね、宮田君、君らは、一人になってはいけないということじゃ。それを教えに来た」
「一人に? おれに、盥屋と一緒にいろと? それはどういうことです? 大体、どうしておれたちのことを?」
「いや、盥屋だけではない。あの小説家ともじゃ。あの小説家の書いた物語の中の存在が君らじゃ。君らは、あの作家の物語の中にいるべきじゃ」
「ほうほうほう、こいつは驚いた! あんた、いったいどこまで知ってるんです? おれたちのことを」宮田は邪悪な笑みを浮かべた。そして、
「じゃあ、おれの砂時計を盗んだ奴も知らないかなあ? それさえ戻れば、おれも元の世界に帰るんだけど!」
「それについてはよく知らぬ。あの作家が盗んだのかもしれないし、そうでないのかもしれぬ。そんな小道具のことは、わしは存ぜぬ。とにかく、あの作家に会うことじゃ。それと」老人から突然、表情がなくなった。
「これはだいじなことじゃが、盥屋・・・・・・あの男には気を付けろ」
「あいつに? へっ、もちろん、言われなくても、そうしてらあ! あいつに言いくるめられないように、減らず口では負けないようにね!」
「違う、違う、そうではない。奴は物事をとても深い目で見ている。おぬしよりもっと高い次元の洞察力を持っておる。奴には奴の考え、奴の企み、奴の悩みがある。おぬしがそれを理解するのは難しかろうし、先の話じゃろう。だが、それを忘れるな。あやつはおぬしの見ているより・・・・・・まあ、そんなとこじゃ」
「わかった、わかった、わかりましたよ! じいさま、さっさと神を探させてくれ。どうせなら、神のところまで連れてってほしいくらいだ!」宮田は煩わしげに答えた。
「ならば、目をつぶってみよ」老人は小さく笑ってから言った。
「ははあ、なにやら、ぼくをペテンにかける気ですな。乗り掛かった舟だ、もう、こうなったら、なんでもしますよ。・・・・・・こうですかい?」宮田は素直に目を固く瞑った。
「十数えたら、目を開けよ。それとな、もし天使に会ったら、とにかく逃げよ。今のおぬしにはどうすることもできぬ。では、また会おう」
「1・・・・・・2・・・・・・3・・・・・・」宮田は正確に十まで数え、それからゆっくりと目を開けた。
そこは森の中の、小さな泉だった。その森は、その不気味さからして、先ほどまで見下ろしていた森に違いなかった。あのはげ山の方から清らかな水が滔々と流れ、宮田の足元に小さなたまりをつくっている。彼はしばらく沈黙していたが、やがて独りごちて、
「あの爺さんが森まで運んでくれたのか!」と喜びに口を歪めた。
「ふむ・・・・・・どうやら、ペテンじゃなかったようだ! あの爺さんが何者にしろ、このことについては感謝しなきゃなあ! まったく、すごい奴だ、底が知れない奴だ! ああ、世の中、底の知れねえ奴ばかり! ・・・・・・あっちの方に尾根が見えるとすると、だいぶ飛ばしてくれたようだな。ああ! おかしいな、喉が渇いてら! なるほど、なるほど、これが『渇き』というやつか! 感じる、初めて感じるよ!」
宮田は泉に直接口をつけ、その乾いた喉を潤した。むしろ毒かと疑いたくなるような、甘く舌触りの良い水。夢中で貪る・・・・・・。
と、にわかにポツポツと雨が降ってきた。すぐにそれはどしゃ降りとなり、泉はあふれだした。宮田は木々の間に逃げ込んだ。と、向こうから声が聞こえてくる。声は徐々に大きくなり、
「あいつだ、宮田だ!」
・・・・・・この声は、間違いない、神の声だ!
どうやらこちらに向かってくるらしい。本当に? 本当だ! 向こうに、神の野郎が見える。何故か、宮田は駆けだしていた。声とは逆の方向に。これは一体どういうことなのか? 普段は傲慢な人間でも、不意を突かれると蚤の心臓、臆病な姿を露呈することがある。おそらくそういった意識の不可思議の類ではなかろうか? といっても、これは単なる推測でしかないのだが・・・・・・。
いずれにせよ、こうして「追うもの」と「追われるもの」とが入れ替わる形になったのである。
第五章 『追跡の追跡の追跡』
處世若大夢
胡爲勞其生
世に處ること 大夢の若し
胡爲れぞ 其の生を勞するや
――――李白
地面は途端にぬかるみとなって、執拗に足をすくう。まるで悪意を持っているかのようだ。たまらず、必死にもがく。もがいたおかげで、服がすっかり汚れてしまった。この組み合わせ、お気に入りだったのに! だが、今はそれどころではない!
マネージャーは起き上がると、すぐさま駆けだした。しかし森は信じられないほど鬱蒼としていて、方向感覚を狂わされた青年は、実は神の向かった方角とは全くあべこべに進んでしまったのである。絡みついてくる蔓草を掻き分け、掻き分け、なんとか「先生」に追いつこうとする彼であったが、かえってその距離を広げていることには一向に気がつかなかった――それも無理はない、彼の頭はすっかり動顛していたのである。
「先生! 先生!」彼はありったけの声で叫んだ。しかし返事などあろうはずがない。先生は遥か遠く。
《くそっ! 先生はどこだ? どこに行った? ・・・・・・どうしてあんなに慌てていたんだ? なにがあの人をあそこまで駆り立てたんだ? ・・・・・・わからないことだらけだ、とにかく、離ればなれになるのはまずい、早く先生を見つけなければ!》彼は動顛しながらも懸命にそんなことを考えていた。
やがて雨も止んだ。彼はへとへとに疲れてしまった(彼の精神が疲労したため、肉体もまた疲労したのである)。体中の筋肉が、固くこわばる。一休み・・・・・・一休み・・・・・・どこか休めるところを心が求めていると、やがて、小さな、きれいな泉にたどり着いた。例の、宮田が喉を潤した泉である。もちろん彼には知る由もない。
《こりゃあ、いい感じの泉だ。助かったぞ! 服も汚れたことだし、少し休んでいこう》先生のことは、ちょっとの間、後回しだ。まずは英気を養おう。まずは少しだけ、水面に口をつける。喉の渇きを覚えたのである。・・・・・・甘く、心地よい喉越し。よし! これはいい水だ。空からはすでにあたたかな木漏れ日が降り注いでいる。
マネージャーは服をすっかり脱いでしまうと、小さな泉に足を浸した。なぜか泉の水はなまぬるかったが、スコールに冷えた体にはそれが心地よかった。泉は案外に深く、体をすっかり浸すことができた。湯船のように泉に浸かりながらマネージャーは考えた。《このわけのわからない世界にも、小さな天国はあるじゃないか。この場所を、先生にも教えたいなあ。きっと喜んでくれるだろう。・・・・・・一人はやはり心細い。もう少し浸かって、服を洗ったら、また先生を探しに行こう。あの人の身に何かあるかもしれないし。・・・・・・何かあったら、僕はクビだ。あの鬼編集長め・・・・・・いや、それどころじゃない。いや、そんなもんじゃあない、これは僕の使命だ!》
青年が勇んで思わず右手を高くつきだすと、突然、左足を誰かに引っ張られたような気がした。気のせいかとも思ったが、また、ぐいと引っ張られる。彼はふいに恐怖に駆られ、足をばたばたと動かした。だがその「何者か」は、かまわず今度は彼の両足を強くつかみ、一気に泉の底へ引き下ろした。いきなりたくさんの水を飲んだマネージャーの意識は、そこで暗転した。
夢の中で、彼は鳥だった。
鳥? 僕は水の中に沈んだんじゃなかったのか。いまの僕の境遇は、どっちかっていうと魚に近いはずなんだけど・・・・・・。もしかして、いったん死んでから、生まれ変わったのかな? こりゃいい、飛んでる、飛んでるよ。身体に重さをこれっぽっちも感じない、僕は間違いなく、重力から自由になったんだ。すいすいと風を泳ぐ感覚は、例えようもなく気持ちいい。眼下に見える景色は水彩画のように霞んでいて・・・・・・たとえ死んでも、いいことはあるもんだなあ。でも、この身体、なんだか少し変だぞ。まず、翼が真っ黒だ、それだけじゃない、身体中が真っ黒。僕は今、カラスかなにかなのか? それに、脚の感覚が「一本多い」。どう考えたって、こりゃあ三本脚だ。それに、飛んでいる高さもスピードも普通の鳥に比べたら断然早い。さっき遥か下の方にのろのろと飛んでいく小鳥の群を見かけたばかりだ。おかしい、これじゃあ、まるで自分が幻の鳥になってしまったみたいだ。神の使いだという、伝説の鳥に・・・・・・おや? 誰か話をしている・・・・・・。
「・・・・・・ひょっとして、彼は、死んでいるのか? ちょっと乱暴だったかな」鷹揚な声がする。
誰かがマネージャーの脚、ではなく手を取って脈を診た、とても冷たい手で。彼は少し身震いした。
「いえ、彼は生きています。気を失っているだけです・・・・・・」冷静な声がそれに答える。
青年の耳に最初に入ってきたのは、そんな微かな会話だった。彼は飛び起きた。"そう、僕は死んでない! ・・・・・・そして、ここはどこだ?" と叫ぼうとしたが、かすれて声にならなかった。誰かが語りかけてくる――
「おはよう! 旅人よ。寝覚めはいかがかな? ようこそ、『まだら牛』の世界へ」
第六章 『予兆』
「皆さん、おはようございます。今日もいい天気です。さあ、新しい朝です。新しい朝が始まりました。皆さん、おはようございます・・・・・・」声は同じ文句をくりかえす。
白い柱の上に取り付けられた拡声器から、落ち着いた、それでいて上機嫌な男性の声が聞こえてくる。かなりの音量だ。あたりの空気が震えている。まるで空高く、また地中深くまで響き渡らせようとしているかのように、拡声器はただひたすらに端正な男の声を周囲に伝えている。
しかしそれは、少なくとも、盥屋の耳には不思議とやかましく感じられなかった。それは、彼が今、孤独であったからだろうか? 否、そうではあるまい。彼は考えた――《おそらく、この声の読み上げる文句がいいのだろう。朝。一日の始まり、朝をたたえる言葉。朝は好きだ――何もないから。朝には過去がない。まるで私と宮田のように――それは素晴らしいことだ! ただ未来のことだけ考えていればいいのだから――そして『いい天気です』――とは! たとえば、雨は憂鬱だ、おそらくそれはあまりにも私の気質と似通ったところがある――だから同族嫌悪してしまう。それにひきかえこの声は希望に満ちた宣言を伝えている。何一つ、何一つとして私を暗い気持ちにさせない、福音にも等しい言葉を。いま、私はついている、この運が逃げてしまわなければいいのだが!》盥屋はしばらくうっとりと柱に寄りかかり、恍惚に浸っていた。やがて「放送」は終わり、声はぴたりと止んだ。
《もう終わりかな。残念だが、朝は短い。本当に短い。しかしそれも仕方がないことだ》盥屋はそう考え、背筋を伸ばし、迷路の出口を抜けた先にあった、この奇妙な「しゃべる柱」と別れを告げ、この寂しげに腰まで届く丈の草原から遠く、かすかに見える『街』に向かって歩き出した。
街、と彼が思うのも、ただの勘であって、それは四方を壁で囲まれていたから、あるいはどこかの軍隊の駐留する、巨大な厳めしい要塞かもしれなかった。だが盥屋の優れた視力は、その壁の一方にある大きな門に一人の門番も確認しなかったので、彼は、それがおそらく、自由に出入りできる、大規模な街であると考えたのである。彼にあてなどなにもなく、また特に明確な目的もなかった。ひょっとしたら神かその相棒がいるかもしれない、遠くに見えるその街に行く以外、することもなかった。先々のことは、その間に考えることもできる。彼はゆっくりと草を踏み分け、道なき道を歩んでゆく。
彼は、あの冴えない作家――神のことを考えていた。
《神、か!》ふんと鼻を鳴らす。
《売文業。ありもしない『大衆』という偶像に対し稚拙な技巧で『精神』をでっちあげ流布する、思考存在最後のパラドクス」彼は酔ったように考え続ける。「まったく稚拙、まったく愚劣! ・・・・・・だが、それによって生み出された私と宮田とは、いったい何者なのだ? ひょっとして、単なる誤謬に過ぎない存在なのではあるまいか? だとしたら、己の存在を確立するためには、あのような愚かな神でさえ認めなければならないと? おお! その『真実』の残酷さに気づくことができるほどには、私は賢いようだ・・・・・・宮田の奴はどうだか知らないが》
思索は宮田の方向にむかう。
《宮田! あの哀れな男よ。私にはわかる、彼は、自分が神だと思っている、あるいは神になりたいと。神を憎みながらも憧れる、あの哀れな道化よ! しかしそれが一体に、叶いうる夢なのだろうか? 彼が一篇の小説、一篇の詩でも書けるならば話は別だが(そんなものを書いていたような気もするが)、彼は神というにはあまりにも道化だ。もしも、道化が神になったなら、その被造物たちは混乱し、世界は混沌と化すだろう。だから、彼が神になるなんて、どだい無理な話に違いない。本当は。だが彼には無理な話だ、とも言いきってやれないところが、私の甘さ。なんたって、われら二人、これでも、"血を分けた"兄弟なのだから!》
太陽が眩しい。足元を、地表に縫い付けられた自分の影を見ながら歩いていると、不意に、天に向けた首に奇妙な感覚を覚える。盥屋は空を見上げた。
―――――鴉か。
漆黒の(当たり前のことなのだが、なぜかその黒さが際立っていた)、老いた鴉がゆっくりと太陽を遮るようにして盥屋の頭上を飛んでいた。一般的なそれよりもひとまわり大きな、威厳のある、あたかも鷹やら鷲のような風格のある鴉である。そして何より特筆すべきは、その異形――三本の脚をその怪鳥はもっている。盥屋はそれに気づいて立ち止まり、悠々と盥屋の進んできた方向から街の方へ、羽ばたいてゆく鴉の姿を見送った。やがてそれは街を通り過ぎ、遥か彼方、大気の層が覆い隠す距離に消えていった。
《あれは一体なんだ? 少なくとも、普通の鴉ではない。三本脚の、八咫烏か――鴉と似て非なるもの。奇妙なものは多く見てきたが、あそこまで奇天烈なものは初めて見た、いや、まさか実在するとは》
そこまで考えて、彼は顔を歪めた。
《実在? フィクションの産物たる私がなにを言っている? それに、その実在する世界とはいったいどこのことを指しているのだ? まったく、呆けているな》と自嘲気味に笑う。
「この世界で起きていることなど、私には何もわかりはしない。同じように、私の考えていることなど、ほかの誰にもわかりはしない。」盥屋はそうつぶやくと、また歩き始めた。なにかを確信したように、先ほどより歩調を強めて。
まだ壁は遠い。
第七章 『走馬灯』
何ヲ書コウトイウ、アテ無クシテ、イワバオ稲荷イナリサンノ境内ニポカント立ッテイテ、面白クモナイ絵馬眺メナガラ、ドウシヨウカナア、ト心定マラズ、定マラヌママニ、フラフラ歩キ出シテ、腐リカケタル杉ノ大木、根株ニマツワリ、ヘバリツイテイル枯レタ蔦ツタ一スジヲ、ステッキデパリパリ剥ハギトリ、ベツダン深キ意味ナク、ツギニハ、エイット大声、狐ノ石像ニ打ッテカカッテ、コレマタ、ベツダン高イ思念ノ故デナイ。ユライ芸術トハ、コンナモノサ、譬噺タトエバナシデモナシ、修養ノ糧デモナシ、キザナ、メメシイ、売名ノ徒ノ仕事ニチガイナイノダ、ト言ワレテ、カエス言葉ナシ、素直ニ首肯、ソット爪サキ立チ、夕焼ノ雲ヲ見ツメル。
――――太宰治『走ラヌ名馬』
走りながら、神は思う、走馬灯のように、おのれの半生を。
文壇をとりまく状況はグロテスクだった。利害は錯綜し、頽廃のムードが全体を覆い、誰もが誰かにおもねっていた。彼はそんな「汚物のたまり」に背を向けた。孤高のポーズ。孤低? そういった方がいいかもしれない。確かに。ともかく彼は書いた。描いた。夢を。希望を。理想を。けれど黙殺された。失笑を買った。彼はずたずたにされた。一度ではない。けれど彼はめげなかった。彼は多くの短編集と、2.3の長編で知られていた。若いころには詩も書いた。まあ、やっぱり売れなかったが。最近では、マネージャーもついた。はげた編集長の使い走りの青年。彼はすっかり大物らしくなった。おかげさまで、立派な家も建った。・・・・・・燃えたけど。燃え尽きた。彼はこの頃そう感じていた。創作のための力が、光が、ヴィジョンが、彼の全身から消え失せていた。ルネ・マグリットに、鳥の巣の上に卵と蝋燭がある様子が描かれた絵がある。創造力とはそんなものだ。巣の中の、卵を暖める蝋燭の火はもう消え失せた。・・・・・・暖めない限り、いつまでたっても卵は孵らない。あたりまえのことだ。いったい、どうしたというのだろう? 結婚でもしてみるか? いや、やめておこう。そんなに簡単な話でもない。ほかの同世代の作家は、相変わらず新作をバンバン書きあげる。面白いかどうかは別として。創作とは自分のために行うものだ。本音を言えば。読者は新作を待ち望んでいる。誰が書くんだ? おれが、神が書くしかない! おや、なんだか今日は頭がさえてるな。追われる側から、追いかける側に変わったからかな? おかげでずいぶんと楽になった。誰かを追うのは気持ちがいい。なんだか、狩りをしてるみたいだ。でも、この狩りはなんだか終わらない気がする。奴を追い詰めて、どうする? 追い詰められた奴は、また牙をむいてくるんじゃないか? 役目を交代して、また狩りのやり直し。これじゃ、仮初の狩り、か。うんざりする! なにが目的で追われているのか、追っているのか。おれには皆目見当がつかない! また、パソコンの前に座って、とりとめのない夢想を綴りたい。綴り続けたい。紡ぎつつけたい。物語を。・・・・・・自分はなにを言ってるんだ? これじゃあ汚物のたまりに漬かってたほうがマシじゃないか。とにかく、奴を捕まえて、話を聞こう。じっくりと。こっちにも言いたいことが山ほどある。なんせ、おれが創った存在なんだから。少しはイニシアチブをとっていいじゃないか? もう一人の方はどこだ? どうやら、一緒じゃないようだが・・・・・・まあいいさ、そのうちひょっこりと出てくるだろう。それに、二人いっぺんに相手をするのはつらい。疲れるだろう。マネージャー君がいれば別だが・・・・・・いつの間にかはぐれてしまったようだ。やらかした! ・・・・・・まあいいさ、彼なら、そのうちひょっこりと出てくるだろう。・・・・・・ひょっこりと・・・・・・。
あらゆるものが日に照らされている。いい加減な造形の岩、ひしゃげた枯れ木立、機械仕掛けの玩具と見まごうような甲虫の這いつくばるやつ、どこまでも広がる砂のカーペット・・・・・・ここは砂漠。茫洋たる砂の海。
神は宮田を追いかけ、陰気な森を抜け、いつかの山を越え、どこかの砂漠を駆けていた。もう辺りには誰もいない。宮田の姿も、何処に消えたか、見えない。鴉がどこかで鳴いている。鴉は好きじゃない。黒猫みたいに、不吉だ。E・A・ポーが言うには、あいつらは「ネヴァモア! ネヴァモア!」とないているらしいが。それにはなにか、高尚な意味があったはずだが、忘れた。鳴き声に意味なんてあるか?
彼はあてもなく砂漠を彷徨った。照りつける空の下、鴉の鳴く声がする以外、他の生き物の姿かたちとてなく、むしろ毒蛇の一匹もいれば、彼は懐かしさに胸を一杯にしたであろう。それほどまでに生命の存在が希薄であった。なにか得体の知れない爬虫類の骨や、ぎらぎらと光を反射する甲虫の殻などが時たま砂にうずもれているのを眼にするたび、Aは言いようのない罪悪感に苛まれた。一体に、この世界には生命の循環がない。死んだものは砂となってゆき、新たに生まれ来るものはいない。ただそこには物体が微小な粒子に成り果ててゆく一連のプロセスがあるだけだ。ここは、あの宮田たちのいた世界に似ている。ただすべてが砂になっていくだけの、虚しい世界。このような空虚な世界を作り上げてしまったのは、私の乏しい想像力と、創造に対する無責任さではなかったか? ・・・・・・もちろん、単なる遊戯こそ創造の源の一つであることは間違いないから、この胸の苦しみは本来無用のものであるはずだ。しかし、あの怪紳士たちの言い表しようのないグロテスクさと、薄気味の悪さ、そしてこの不毛な大地を彼らが確かに踏みしめたのだという思いは、彼の心の底に澱の如く沈殿した。
「私が彼らを創り上げてしまったのだ。責任はとらなくてはならない」Aは独り呟いた。
神はなにかの気配を感じて、空を見上げた。頭上に、なにかが飛んでいる。鴉ではない。白い、真っ白な、純白の、大きな、美しい翼。それが生えているのは、人の体。
「天使だ!」神は叫んだ。「本物の天使なんて、生まれて初めて見たぞ!」
天使は悠々と空を飛んでゆく。「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉の鳴き声がまた聞こえた。神はそんなものにはかまわず、天使を追いかけて走った。
「おおい、ここだ、ここだ!」声のかぎり叫ぶ。「ここだよ、おれは! 助けてくれ! 手伝ってくれ! 悪魔を、退治するんだよ!」
「おれは、神だ! 神なんだ! だから、どうか、助けてくれ!」と、ついつい道理に外れたことを口走る。
天使に叫びは届かなかった。だが別のものには届いた。ちょうど、天使のことを恐れて、近くの手ごろな窪みに身を隠していた悪魔の片割れ――宮田望その人である。
「おい! おれを退治する、だと? すいぶんと大きく出てくれるじゃねえか!」彼は怒りのあまり顔を赤黒くしながら窪みから飛び出した。彼は神に追われていたはずでは? ・・・・・・しかし、彼の心は秋の空のように変わりやすかったのである。
「おうよ! でたな、この、あくたれめ!」神も若干、おかしなテンションになってはいたが、とにかく吠えた。
両者は向き合う。そして思う。こいつ、こんな顔してたっけ。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉がけたたましく鳴く。
こうして、神と宮田の世にも奇妙な一騎打ちが始まったのである。
第八章 『思考の外側、壁の内側』
それにしても、ここは質の悪い鏡に映し出された虚像のような世界だ。
と、盥屋は思った。本来の世界によく似ているが、どこか微妙に違う。なにもかもが出鱈目だ、とまでは言わないが、なにかがねじれている。歪んでいる。もっとも、この世界の視点から見たら、本来の世界のほうが歪んでいる、とも言えるが、それはどちらでもいいことだ。とにかく、似ているということが厄介なのだ。もしも、この世界の住人が我々と同じく、未完成な言語を話すとしたら? 愚かな思考をめぐらせるとしたら? 哀れにも、敬虔な信仰をもっているとしたら? このせっかくの長旅が、さぞかし息苦しいものになってしまいかねない。しかし、もしもここで骨を埋めるしかない羽目に陥ったとして、どこで死のうと(第一に私は死ねるのかという問題があるにせよ)、一体なんの違いがあろう? 盥屋は首を振った。なにも変わらない。そうだ、なにも。私が今いる、おとぎ話のような世界。確かにこの世界には妖しい魔法がある――しかしそれは子供騙しだ。この世界の神は、それがもし存在するとすればの話だが、――愚劣極まりない。私の求めているものは、少なくともここにはない(この世に答えなどどこにもない、と言えるほど私は詩人でも哲学者でもない)、と同時に私は思索する者だ。考えることをやめない。・・・・・・宮田もそうだ。我々の繋がりはその点にしか存在しないのだ。宮田・・・・・・あの男はどこまで考えているのだろう? どこまで? 私ほど深く考えているとはどうも思えない(そう考えるのはひょっとしたら驕りであるのだろうか?)。 しかし彼には、「行動する」という選択もある。常に。彼は、行動家だ。対して、私にはそのような選択はない。いや、私だって、その時になればあるいは・・・・・・。盥屋は、神の創作した自分の「故郷」が、今いるこの世界とどこか似ていることに気がついた。そして言い知れぬ寒気を覚えた――それが一般的に「恐怖」と呼ばれるものであったということには、ついぞ気づかず。
「君は、自分が神になりたいと思っている」そう言ったとき、盥屋は、内心、宮田に次のように答えて欲しく思っていた。固く握りしめた拳を高々と空に振り上げながら、
「おやおや、どうして、どうして! 君というやつは、油断ならないね!」そして宮田は驚きを隠しもせずに続ける。「その通りさ! 君が神、と呼ぶところのものに、俺はなりたいのさ! 絶対的な自我の支配者にね! ただ、あらゆる因果の及ばない、『ごく小さな範囲でのエゴイズム』さえ守られたなら、俺はそれでいいんだが! 俺が虫も殺せないような善人であると同時に、大量殺戮もまた辞さない悪漢であることが許されるような一点! その、『拳一握り分のロマンス』が、神への欲求、いや、正確に言うと、神への呪いが、被創造物としての嗚咽が、俺に闘えと呼びかけるんだ・・・・・・汝、汝が呪うところの神となれ! とね」と。
何故なら、これが彼の無意識に違いないから。
それに対して盥屋はこう呼びかけるのだ、「同志よ!」高らかに叫ぶ。「我ら目指すところは違えど、他者と自己の違いはあれど、神への欲求と呪詛の面ではこの上ない同志よ! 共にゆこう! 遥かあてなき道を、この朝日に誘われて!」
朝日なんて実際に出ていなくてもいい、ただ何らかの景気づけが欲しかった。この、傍から見れば単なる茶番と捉えられかねない、奇妙な門出に対しての。
宮田の不幸の最たるものは、己の本質的な欲求の無自覚である、と盥屋は思っていた。彼が自らの志向を明確にすることが出来れば、あの無軌道なふるまいもなくなり、我々は易々と目的達成のために手を携えてゆけることだろう。・・・・・・手を携えて? それはあり得ないか。われら二人、いくら兄弟と言っても、腹違いの兄弟だ、彼は神の情念の子、私は神の理性の子。そうに違いない!
いずれにせよ、悲劇を演ずるには大根役者過ぎるが、喜劇を演ずるにはお似合いの二人だ。なんと滑稽な復讐譚! 彼にも私にも、適役があるはずなのだ・・・・・・この茶番劇の内に。
彼はなおもとりとめなく考え続ける。人間は考える葦である、という。では、私は? 少なくとも、人間、まったくの人間ではあるまい・・・・・・それなら私は一体何者だ? 私は考える者だ。だが、私が考える何者であるかを、上手く説明することができる者が、私にしっかりと教え諭すことができる者が、どこかにいるのだろうか? 私には、存在するとは思えない。ならば、自ら考えるしかない、自らが考える理由を。解明したいことは山ほどある。例えば、私はなにを求めているのか? そしてなにを恐れているのか? 私以外にわかるはずがない。「無二の相棒」の宮田にだって、わかりはしないだろう。ましてや、あのニワトリのように愚劣な男――「神」――には、私を理解できるはずがない。彼は私達を誤解し続けるだろう。単なる鬼っ子だ、悪魔だと、ただひたすらに、頑なに。しかし、それでいい。いや、それがいいのだ。そうでなくては始まらない。神が愚劣だからこそ、被造物は必死になって考える――この誤謬だらけの世界をどのように生きていくべきか? いかに存在し続けるべきか? と。我等を生んだ神は白痴で、なにも教えてはくれないのだ。ただ創造――いや、想像し、妄想し、夢想するだけだ・・・・・・そして同時に被造物の命を奪ってゆく、無造作に。だからといって、神をどうこうすればすべてが解決するわけではない。なにも変わらない。むしろひどくなってゆく。我々自身が変わらなくてはならない。そのために考えなくてはならない。私は善人なのかもしれないし、悪党なのかもしれない。どちらにせよ、白痴の被造物の地位に甘んじているよりかはましだ。なにも気付かず、ただ眠っているよりかは。皆、眠っている。なんと、神さえも! 私ひとりは目覚めていなければならない。こんなことをひたすら考えている、当の私は、宗教家だろうか? それとも哲学者? それとも・・・・・・狂人? おそらく、そのいずれでもない。私は思索者、孤独な思索者の一人に過ぎない――――『ごく小さな範囲でのエゴイズム』・・・・・・私にとってそれは、考えること、考え続けることだ。たとえ神であってもこの自由を侵すことはできない! そして私にとっての『拳一握り分のロマンス』とは・・・・・・全部とは言わない、少なくとも、私の思索する幾つかの問いに対しては、「明確で・調和した・良い加減」の答えを見つけることができるという、微かな、淡い、個人的な希望に他ならない。・・・・・・
そのうちだんだんと、壁が近づいてきた。壁の方から迫ってくるかのような感覚。ただの錯覚だ、と盥屋は冷酷にその認識を切り捨てた。石を積み重ねてできた、堅牢そうな壁。いったい、何発のダイナマイトがあれば、この壁を崩せるのだろうか? 彼は意味もなく計算した。まったく速度を変えず、歩き続けながら。
ついに、門の前に立つ。光を吸いこむ黒色の、巨大な門がそびえている。陰気な門だ、と彼は思った。それとも、見る者によってその印象は変わるのか? これも一種の鏡のようなものなのか。辺りにはやはり人気がない。
「さて、どうすればいいのかな? また呪文でも唱えるか?」盥屋は微かに笑った。彼お得意の皮肉よりも、疲れから生まれた、どこか諦めたような澄んだ微笑だった。
しかし、何もする必要はなかった。試しに手で触れると、門は自然に左右に開いた。音もなく。盥屋が通りすぎると、門は静かに閉まった。まったく、便利な仕組みだ! 今度こそ皮肉気に口を歪める。
壁の内側には何があったか? そこは街だった。壁の規模からもわかることだが、大きな街だ。中世ヨーロッパのような街並みが、そこに広がっていた。大小さまざまの家が場所を争うように出鱈目に立ち並び、教会や、商店や、役所、その他諸々の施設もあった。人々は活気に満ち溢れ、この広い街並みのそこここを行き来していた。壁の内側の中世風の街――いよいよおとぎ話めいてきたな。盥屋は思った。誰も彼の方を振り向かない。見えていないのか? 頭に荷物をのせた一人の少年と目が合った。どうやらそういうわけでもなさそうだ。つまり壁の向こうからの訪問者も、さして珍しいものではないらしい。門から続く大きな通りを歩く。ただその場に立って辺りを見回すもの。家族で買い物をするもの。裏路地に急ぎ足で入るもの。彼はさりげなく、いろいろと観察した。・・・・・・人間の姿は、この世界も変わらない。話している言葉も理解できる。悪夢のような世界だ、と彼は思う。せめて頭から角の生えた、三本足の、逆立ちで歩く人間だったなら、もう少しましだったのに。宮田なら、はっきりとこう言っただろう。「また人間か。もううんざりだ!」
「どうです、一杯?」いきなり目のでかい小男が盥屋の目の前にひょっこり現れ、話しかけてきた。「お疲れでしょう?」
「疲れないみたいなんですよ、それが」盥屋は真顔で答えた。「この世界ではね。私は、こことは違う、別の世界からやってきたんです。異次元からの来訪者といってもいいかな。だから、少々元の世界との差に驚いているところで・・・・・・」
「え? ああ、はい、そうですか、そうですか、それは失礼・・・・・・」
男は奇異の目で盥屋を見上げた後、話もろくに聞かず、そそくさと去っていった。もうすでにしこたま飲んでいると思われたのだろう。それにしても、酒を飲む時間でもないだろう。まあ、それも、時の概念が元の世界と一緒ならの話だが・・・・・・。
盥屋は考える。どうしようか? あの、懐かしき神を探すか? だが、この人ごみから誰か目当ての人物を探し当てることなど、到底できはしないだろう。そもそも私は、誰かを探していたのだろうか? ここにいるのも、元はといえばただの付き合いだ。が、しかし、別にすることもないのだ――考えること以外は。
「ここは随分と明るいな」と独りごちた。
通りすがりの誰かが怪訝そうに彼の方を見やる。しばらく、その場にただ立っている。
「ずいぶん、明るすぎる」
やがて彼はゆっくりと通りを横切り、薄暗い裏路地へと姿を消した。
第九章 『熊』
江海所以能爲百谷王者 以其善下之 故能爲百谷王
江海の能く百谷の王為たる所以の者は、其の善く之に下るを以て、故に能く百谷の王為たり。
――――老子
マネージャーの目の前に立っていたのは、よれよれの背広を着た、熊のような男だった。
「ようこそ! まだら牛の世界へ。お目覚めのようですね」男は繰り返した。
「はあ、おはようございます。・・・・・・それにしても、いったい、ここはどこです? あの世かな?」青年は辺りを見回した。
白を基調とした室内。薬品の臭いが鼻をつく。どうやら、病室のようだ。・・・・・・少なくとも、あの世ではない。彼は粗末な寝台に横たわり眠っていたのだ。まるで病人が着るような味気のない服を着せられて。
「冗談がお上手ですね! ここは、『まだら牛の街』の病院ですよ。あなたを引っ張り寄せてみたら、意識不明だったもんだから、急いでここに運んできたのです。まあ、なかなか良いところでしょう?」熊男は笑みを浮かべた。
「もっとも、あなたにはまだ、状況が呑み込めないのも仕方ないことです。あなたは、なにも知らないのだから」熊は真面目な顔つきになった。
「そういう私も、そんなに多くを知っているわけではありませんがね!」
「いろいろと聞きたいことはありますが、まずお聞きしたいのは・・・・・・ここにはあなた一人なのですか、ミスター? 他に誰か、ぼくの脈を量ってくだすった人がいたはずですが」恐る恐る青年は言った。
「ああ、その人は、医者です。彼なら、あなたが飛び起きたときに、そそくさとここから出ていきましたよ。恥ずかしがりやなんですよ・・・・・・それと、私のことは『市長』とでも呼んでください。この街の長をやっております」熊は言った。
なぜ町長でなくて市長なのか? それはマネージャーにはうかがい知れないことだった。
「そうですか、市長! それでは、よろしくお願いします。ぼくのことは『マネージャー』で結構です。いや、これにはワケがありまして・・・・・・そう、人がぼくのことをさんざん『マネージャー』と呼ぶので、とうとうぼく自身が本名を忘れてしまったのです!」
青年は苦笑した。
「なるほど。了解! マネージャー殿。それでは早速、参りましょう」そう言って微笑し、市長はマネージャーに立つよう促した。
「参るって、どこに?」彼は立ち上がって、大きく欠伸をした。「失礼」
「街を案内しましょう。あなたを危険な目にあわせてしまいましたから、せめてもの罪滅ぼしです」
「じゃあ、ぼくの足を引っ張って、ここまで連れてきたのは、あれはあなたなんですか?」
青年は混乱してきた。
「・・・・・・とても人間業とは思えない」
「ああ、そうです! ま、まあ、市長の権限ってやつでね、それくらい、お茶の子さいさいですよ。いやあ、申し訳ないことをしました。・・・・・・あなたの力が必要だったのです!」
「ぼくの力? 一体どういうことです?」
『ぼくには、隠された超人的な力があるのか?』
「あなたが沐浴していたあの泉――あすこはとても「神聖」な泉なのですが――あの泉に、汚らわしい誰かが、口をつけたのです。歪な精神の持ち主です。恐らく他の世界からやって来て、なにかよからぬことを考えている・・・・・・心当たりはありませんか?」
「そいつこそ、ぼくらが追われている、いや、追っているのかな・・・・・・とにかく、見たことはありませんが、憎むべき敵です、恐ろしい奴だということは知っています!」
「そこで、あの泉を訪れたあなた――とてもわかりやすい心の持ち主ですね――いや、失礼――あなたが何か事情を知っていて、解決策を案じてくれるのではないかと。つまり、奴をこの世界から追い出してくれるのではないかと・・・・・実は、この街では近々、大規模な祭りが予定されていましてね・・・・・・伝統の、大切な祭りなのですが。そこに、怪しい輩が現れて、すべて台無しにしてしまったら、トンでもないこと、私の面子も丸つぶれです」市長は神妙に言った。
「なるほど、少しだけわかりました!」マネージャーは目をパッチリと見開いて言った。「つまり、このぼくに悪魔退治をしてほしいと、そういうわけですね?」
「その通り!」
「それは無理!」
「なぜです?」
「こわいからです、元はといえばぼくたちは奴らから逃げていたのです!」
青年はいままでの経緯を説明した。突然訪ねてきた先生に引きずられるがままに、この世界に来てしまったこと、そしてはぐれてしまったこと、無断欠勤して、禿げた編集長がなんというかわからないこと、などなど。
「こまりましたね、それは!」熊は眉をしかめた。
「どうしたもんかね・・・・・・では、その『先生』とおっしゃる方は、今、悪魔どもを追っかけているのですね? それは頼もしい。その方が退治してくれることを祈りましょう。おお、神よ」
市長は真顔で祈った。
「ところで、ぼくはどうすれば?」青年は恐る恐る訊ねた。
「よかったら、ぜひとも、街を案内してほしいんですがね・・・・・・せっかく来たんだし」
いくら現実的な青年とはいえ、やはり好奇心には勝てないのである。
「もちろん、もちろんです! さあ、行きましょう」
熊はにっこり笑った。
夕暮れの街は賑わっていた。ヨーロッパのような、古風な街並み。
衣類は返された。マネージャーは新品同様きれいに洗われた服を着て、市長の案内を受けながら、大通りを歩き回った。賑やかなところだ、まったく! この世界には人っ子一人いないかとも思われたのに、ここには人、人、人、人の山だ。様々な人にすれ違う。少年、中年、老人・・・・・・。ここも変わらない、何も変わらないんだ。ここにはここの、平和な時が流れている。この平和を、悪魔どもに、滅茶苦茶にされてたまるか! 彼の心は純粋な正義の炎に燃えた。そう、彼には無意識の英雄願望があるのである。現実家の顔と英雄に憧れる無意識――これがこの単純な青年の唯一の込み入った部分であった。
と、青年の脇を、男が通り過ぎる。上等な外套を羽織った、背の高い男。歩き煙草だ――男はこの人ごみの中、平気で煙草をふかしていた。もしかして、こいつが悪魔か? 青年の直感がそう告げる。よく観察しようとしたが、群衆に紛れてしまった。・・・・・・それにしても、危なっかしいったらありゃしない!
「ちょっと、ここらで用がありますので、待っていていただけますか? 適当に暇をつぶしていただくということで」熊市長が言った。返事を待たずに大きな建物の中に入ってゆく。郵便局だ。
「わかりました。ごゆっくり」熊の背中に声をかける。さて、どうしよう?
青年はぶらぶらと商店街を歩いた。香辛料のきいた肉やら、新鮮で鱗が光っている魚やら、丸々太った野菜やらが、店頭にうずたかく積まれている。「安いよ! 安いよ! 買ってけドロボウ!」威勢のいい声が飛び交う。彼はすっかり魅了されて、真剣に商品を物色し始めた。物珍しい品ばかりだし、こうした人気のある場所にいるのは久しぶりだったから、神経が昂ぶってしまったのである。
そのうち、郵便局から遠く離れて、裏路地の方へ来てしまった。路地は毛細血管のように広がり、果てもなく続く迷路だ。人気も、だんだんとまばらになってきた。心が落ち着いてくるとともに、逆に体は疲労を感じるようになった。いままでになかったことだ。なにかよくない前触れだろうか?
壁伝いになんとか元の道に戻ろうとする。空が狭い。もう夜だ。
突然、誰かが彼の右手をつかんで、強く引っ張った――――
『おいおい、今日はやけに引っ張られる日だな!』
建物の間の細い隙間に連れ込まれる――口を強く抑え込まれる。
マネージャーが必死に抵抗すると、相手は意外にもすんなり力を抜いた。
「やはり、こういう手荒な真似は私にはあわないよ、宮田! それに、ルール違反をしてしまったな」
声の主を見る。それは、暗闇にもぼうっと浮かび上がる、青白い顔をした、背の高い、上等の外套を羽織った男。まるで亡霊のようだ。さっきの歩き煙草によく似ている・・・・・・。
それよりも、今、この男、宮田と言ったか? 先生から聞いた、悪魔の片割れの名前。まさか、こいつが――――
「はじめまして、君は神と一緒にいた人だね? おそらく、マネージャーか何かだろう。今は独りでいるのかな? それは好都合、好都合。いや、いきなり乱暴なことをして申し訳ない。大声を出されると困るのでね」
男は仮面のような表情のまま話しだした。
「私は盥屋、君たちの言うところの、悪魔だ。といっても、君たちが思っているほど大したことはない、小悪魔だがね。ウム、もっと正しく言えば、『先生』の息子・・・・・・のような者ですな。よろしく」
「ああ、どうも」青年は相手の丁寧な態度に、妙な気持になって、小さく頭を下げた。
「そうです、僕は先生のマネージャーです。よろしくお願いします」
悪魔の片割れと不幸な青年はこうして出会ったのである。
第十章 『白い翼、黒い翼』
神よ、牧場が寒い時、
さびれすがれた村々に
御告の鐘も鳴りやんで
見渡すかぎり花もない時、
高い空から降ろして下さい
あのなつかしい烏たち。
――――ランボー『烏』
さて、神と宮田が対峙しているその上空で、天使はその様子をうかがっていた。痩せた男だ。白い翼は美しく、仄かに輝いている。天使のくせに、なにやら上等そうな煙草を口にくわえている。くすぶる煙・・・・・・。
「さて、さて、さて。これは見ものだ。どうなることやら」彼は天使らしからぬ歪んだ微笑を血色の悪い口にたたえたまま、掌を合わせ、呟いた。「しかし、その前に、誰か、私に用があるようだ。まあ、要件の、大体の見当はつくがね。ここはひとつ、挨拶をしなければ礼儀に反するな。相手にそんな気は毛頭ないようだが!」
不意に、天使は空中で大きく宙返りをした。と、先ほどまで天使のいた場所を、正確に、黒い影が通り過ぎてゆく――それは漆黒の巨大な老鴉だった。・・・・・・その脚は三本。例の八咫烏である。「ネヴァモア! ネヴァモア!」天使に向かって、威嚇するように、執拗に鳴き叫ぶ。
「危ないじゃないか、カラス殿。もう少しで空の交通事故を起こすところだったよ。その場合、誰がどう見たって気味が悪い」天使は静かに言った。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉は天使に向かって一声鳴くと、一気に加速して再び突っ込んだ。それを天使は先ほどと同じように避けると、大きな声で言った。
「ほほう、この熾天使に喧嘩を売ろうというのかね? やめなさい、すぐに黒焦げになってしまうよ。もっとも、君はもともと真っ黒だがね」
男は、高笑いしながら、鴉の方に煙草を放り投げる。
と、たちまちにそれは内側にめくれ上がって燃え上がり、轟音とともに巨大な火の玉となって爆ぜた。
炎を自在に操る天使――熾天使の妖しげな魔術は、辺りを煌々と照らす。
老鴉は咄嗟に身をよじってなんとか直撃を避けたものの、少しだけ羽が焦げ付いた。
「そういえば、腹が減ってきたな・・・・・・焼き鳥は大好きなんだ。覚悟してもらおうか!」天使の口にはすでに新たな煙草が燻っている。
「ネヴァモア! ネヴァモア!」鴉がやかましく鳴く。どうやら、鴉の方にもなんらかの手があるようだ――――
「おい! うるさいぞ!」地上から怒鳴り声が聞こえてきた。神となにやら言い合っていた宮田が、上空の闘いに水を差したのである。いや、二人の論争に水を差したのが熾天使たちだといったほうが正しいのかもしれない。どちらにせよ、宮田は叫ぶ。「静かにしろ! できないなら、どっかに行っちまえ! なんたって、おれはこいつと、この神様野郎と、極めて重要な話があるんだからな! いなくなってくれることを切に願う!」
「おや、これは失礼!」ペチンと自分の額を大げさにたたくと、天使は小さく頭を下げた。「悪魔殿のお望み通り、目障りな天使は消えますよ。・・・・・・さて、カラス殿、この勝負はお預けだ。しかしまた、私の邪魔をするというのなら、今度こそ、焼き鳥定食だ! ・・・・・・さらば!」
そう言った天使が大きく息を吸い込み、吐くと、たちまちその全身を真っ白な煙が覆い、それが晴れると、翼を生やした怪しげな男の、天使の姿は、すっかり消えていた。
鴉は男が消失した辺りをじっと睨んだあと、突然なにかに気づいたように、びくりと身を震わし、大急ぎでどこかへ飛び去って行った。
こうして空中の、短い、短い戦いはひとまずの終わりを告げた。だが地上では、相変わらず二人の男が対峙していたのである。
「一体全体なんなんだ、あいつらは? ・・・・・・まあ、とにかく、邪魔者は去った。さあ、ゆっくり話し合おうじゃないか? ・・・・・・神よ」宮田が毒々しげな微笑を浮かべて言った。
第十一章 『鐘の鳴る時』
「おおい! マネージャー君! マネージャー君! どこだい? どこにいるんだい?」郵便局から出てきた市長は、辺りに青年の姿が見えないのに気づき、大声で彼を呼んだ。しかし、5分ほど経っても、一向に彼は現れなかった。
いやな予感がした。汗が全身から噴き出す。しまった、なんてことだ、なんてことだ! マネージャー君が消えてしまった!
「おや、どうしましたかな? 市長」途方に暮れている市長のもとへ、立派な軍服を着た、狐のような男が近づいてくる。どこか狡猾そうな印象を与える、細い目と裏腹に、その声は明朗で勇ましい。だいぶ年配のようだが、足取りも闊達である。よく狐に似ているが、どうやら人間のようだ。「ひどくお困りのようですが、祭りの準備に手間取っておられるのか?」彼は親切そうに言った。
「ああ、隊長。こんにちは」市長はポケットからハンカチを取り出して、顔を拭った。だが汗はいくらでも噴き出してくる。「いや、なに、一緒にいた人とはぐれてしまいまして。その人、この街は初めてなので、迷ってしまわれたんじゃないかと。それが心配で心配で」彼は本当に心配していることがらについては一切口に出さなかった。
「それはそれは! では、この吾輩にお任せあれ。さっそく、部下たちに探させましょうぞ」狐が慇懃に言った。
「本当ですか? ありがとうございます。いや、見つかるといいですが」と熊市長。
「我々自警団を甘く見てもらっては困りますな! この大切な時期に、市長のお手を煩わせるわけにはまいりませぬ。とにかく、その方の特徴を教えていただきたい」狐は自信たっぷりに言う。
熊は狐のような男――自警団の隊長なのだ――に、マネージャーの外見の特徴を説明した。狐は胸ポケットから取り出したメモ用紙に一々うなずきながらそれを書き込んだ。かなりの癖字である。一通り聞き終わり、「わかりました。お任せあれ!」と、ポケットにメモ帳をしまう。
「ところで市長、その青年は一体どこからやってきたのですかな? 広い街とはいえ、ここで育った者なら、あまり迷うようなこともないでしょうからな」
「ええ・・・・・・まあ・・・・・・なんというか・・・・・・遠い、遠い街です。おそらく隊長もご存じないような、遠い辺境の街からやってきたのです・・・・・・私が呼んだのです」
「ほうほう。吾輩も知らぬような、遠い街ですな? なるほど、それで合点がゆきました! きっと、祭りの新しい出し物の、手伝いをしにやって来たのでしょうな? だからこの街にも初めて来たのですな? いや、この辺りで、この街に来たことのない者は、おりませんからな! そうですか、そうですか・・・・・・これはなんとしても、その青年を見つけてやらねばいけませんな? この街の評判に傷がつきますからな、特に裏通りなど歩かれてはね!」熊市長はその言葉に対して曖昧な微笑を浮かべたまま、何も答えなかった。狐隊長は闊達に笑って、市長に挨拶すると、さっさと去っていった。
「行方不明の青年が、違う世界から来た、だとか、悪魔にさらわれたかもしれない、なんて正直に言ったら、あの狐顔の隊長は一体どんな顔をするだろう?」と熊顔の市長は思った。
「私が、まるで正気でない、と思われるのが関の山だろうな・・・・・・とにかく、話がややこしくなる前に、私が見つけ出さなくては。そうだ、彼の言う通り、裏路地などに行ってしまったとしたら、あの青年が危ない!」
さて、市長が自らマネージャーを探そうと一歩を踏み出したちょうどその時、遠くの方からであろうか、ボオオォォォンン・・・・・・ボオオォォォンン・・・・・・という重い音が響き渡った。教会の鐘を誰かが鳴らしたのである。
「火事だ! 火事だ! 役場で火事だ! 激しいぞ!」誰かが走りながら、叫んでまわっている。
騒がしくなった群衆の中、熊のところへ、男が急ぎ足で近づいてくる。
「市長! こんなところにいたんですか? 探しましたよ。役場が燃えてるんです! さあ、さあ、一緒に行きましょう」それは、役所の会計係の男だった。「人がまだ中にいるんです! とにかく、来てください!」
遠く、役場の方面に、長く伸びた黒煙が上がっていた。そちらの方角から、人々が群れをなして逃げてくる。言葉にならない悲鳴を上げる者さえいた。その人の波に真っ向からあらがうように、市長と会計係は走り出した。
役場までの混雑した道を汗だくで駆け抜けながら、市長はすっかり混乱していた。いったいなんて日なんだ? まったく、この忙しい時期に、青年はいなくなるわ、隊長に借りをつくるわ、役場は火事だわ・・・・・・。これもすべて、悪魔の仕業なのだろうか? いや、そのうちの半分は私のせいだ・・・・・・ああ! 神よ!
教会の鐘は無情に、ひたすら鳴り続けている。
第三部 『霧の降る街で』 第一章 『編集長の受難』
天迷迷
地密密
熊虺食人魂
雪霜斷人骨
天は迷迷
地は密密
熊虺は人魂を食くらい
雪霜は人骨を断つ
――――李賀
「ああ! まったく! こんな時に、なにをやっているんだ、あのヘボ作家とポンコツマネージャーは!」
怒り狂った声が事務所に響きわたる。社員たちは首をすくめそれをやりすごす。その声の主――五十代くらいだろうか、でっぷり太った腹をサスペンダーで抑え込み、口元にちょび髭を生やし、なにより目立つのはてかてか光るその禿げ頭、毎日自分で磨いてでもいるのだろうか――この地方都市に拠点を置く小さな出版社の編集長は、なおも怒りを爆発させて、
「おい! 誰でもいいから、さっさとスクープをもってこい! スクープだよ、スクープ! 読者が欲しがってるのは、この騒動のそもそもの原因なんかじゃない、今実際に起こっている、事件そのものの状況なんだよ! わかったら、さっさと取材して、記事を書いてこい!」と檄を飛ばした。
「あの、お言葉ですが、編集長」編集者の一人が震え声で言った。顔色の悪い、貧相な男だ。
「取材に行った者が、誰一人帰ってきません。おそらく逃げたか、あるいは・・・・・・とにかく、もう誰も取材に行きたがりません。それに、ある程度筆が立つ人材はもう社にはいません。主力の記者やらライターやらがもう全員出払っちゃってるんです。・・・・・・肝心のAさんはさっきから行方不明ですし。自宅が火事で全焼とか。幸い、誰もいなかったらしいですけどね。だから、今日はもう遅いですし、ひとまずは社で記者たちの帰りを待ちましょう。・・・・・・この状況で家に帰るのも怖いし」
「ほうほうほう、君、なかなか言うじゃないか、え?」禿げた男は歯ぎしりしながら呻った。
「しかしだね、君は本当に記者の端くれか? もし記事を書けないっていうんなら、お前がAを探してこい! それが筋だろうが、え? それとも、貴様、怖くて外に出られないのか? そういうことなら、ここで、もっと怖い目にあわせてやろうか? このフヌケ!・・・・・・それにしてもAの奴め、こんな時に、どこにいきやがった? せっかくこの騒動についてのルポの一つや二つ、いやもっとだ、とにかくしっかりたんまり書いてもらおうと思ったのに」
「あの、お言葉ですが」貧相な男がまたもや口を出す。
「今回の混乱はあまりにも不可解です、人知を超えています。・・・・・・人間の仕業とは思えません。たとえ我々がこの事件の真相をつかんで記事に書いたところで、それは一般読者に信じられるものではないのでは?」
「だーから、言っとんだろうが!」禿頭は猛々しく吠えた。
「真相なんてつかむ必要ないの! 読者はとにかく現状が知りたいの! テレビに映らない現実を! だから何が起こってるか、それを書くだけで、いや、でっちあげるだけでいいの! 真相を覆い隠す、薄っぺらい表層、ただそれだけを読者は知りたいんだ! ああ! 本当に、こんな時に、Aがいてくれたなら・・・・・・あいつ、途方もない話をでっちあげるのだけは得意だからな。空虚な空想を、さもあることのように肉付けする技術には長けてやがるんだから・・・・・・もっとも、『本業』の小説の方は、からっきし駄目だが・・・・・・この前の、僕たちのなにげない・・・・・・なんだっけ? そんなタイトルのやつも、あんまりさばけなかったしな・・・・・・なんでも『コアなファン』にはバカウケらしいが・・・・・・今は、とにかく、リアリズムの時代なんだよ、リアリズムの・・・・・・それが奴にはわかってない・・・・・・今の文壇の現状を、憂いてるとかなんとか言ってたが、カッコばかりつけてないで、自分の現状を心配しろよ・・・・・・とにかく、どこへ行ったんだ? あいつは決して遊び人じゃない、酒、煙草、女にうつつを抜かす、そんなことできるようなタマじゃない。仕事をほっぽりだして蒸発する類の人間じゃないと思っていたんだが! ひょっとして、あれかな、自分の書いたおとぎの世界に、逃げ込んじまったのかな? いやいや、なにを言ってるんだ、俺も! 第一、Aの専属マネージャーの奴はどこでどうしてるんだ? 仕事をほっぽりだすようなやつじゃないはずだが・・・・・・そう、なんせ、この俺がきちんと躾けてやったんだからな」
編集長は一人でいろいろわめいているうちに、だんだんと落ち着いてきたらしく、いくぶん理性的な言動を行うようになってきた。大きくため息を吐くと、それからはテキパキと編集者たちに指令を下し、大声で怒鳴るのも部下のミスを叱る時だけになった。しばらくして、例の貧相な男にコンビニで買わせた(この混乱で品物はほとんどなかったが)軽い晩飯をあっという間に食べた後、彼は不意に部下たちに向けてこう言った。
「よし、俺が外回りをしてこよう。取材がてら、Aを探してくる。いや、Aを探しがてら、取材をしてくるのか? ・・・・・・どっちでもいい、とにかく、行ってくる。戦闘開始だ!」
「編集長! そんなの危険すぎます」顔色の悪い男はさらに血の気の引いた表情で言った。
「それに、ここもすでに戦場です!」
実はすでに取材に行った記者のうちの数人がデスクに戻って(無事生還して)きていた。彼らの話はほとんど支離滅裂だったのだが、とにかく皆でそれを記事にしようと社員一同躍起になっていた。生還者たちは「不思議な少女が空を飛ぶのを見た!」だとか「背中に翼が生えた男が煙草を放り投げると、それが爆発した! その男は木の洞からどこかに消えた」だとか「とんでもない大男が家畜を丸のみするのを見た! その顔は人間のものではなかった」などと口々に語り、社内はてんやわんやの大騒ぎ、それらの話を基にした記事は(常識的な観点から見て)前代未聞、荒唐無稽な代物になりつつあった。
「そいつら(帰ってきた記者たち)の話が本当か、確かめてくる。なにか、起こっていることは起こっているようだが、どうにも得体が知れん。こうなったら、この目で見てみないと気がすまん! 止めても無駄だぞ、俺は行く」鼻息も荒く禿男は言った。
上着をひっかけ、食い下がる部下を押しのけ、彼は表の通りへ出た。そして考える。それにしたって、こんなに血が騒ぐのは、久しぶりだ!
辺りは人気もなく、閑散としている。そして、やけにガスった大気・・・・・・背筋がぞっとした。夜も更けたとはいえ、いつもならもう少し人がいるはずだ。それにこの街でこんなに霧が出たこともない。これはただごとではない――記者としての長年の勘が、そう告げていた。思わず武者震いをする。
通りを速足で進む、Aの家の方へ。確か、大きな火事があったとか・・・・・・とりあえず、どんなことでもいい、手掛かりを探さなければ・・・・・・。まるで探偵になったような気分。
しばらく歩いた。不意に、なにかの気配を感じて立ち止まる。向こうから、なにかやってくる――なにか、とても巨大なものが。霧の向こうから、影だけが見える――――
「ナンダ、オマエ。ウマソウナ、ニオイ。・・・・・・オマエ、アクマ、カ?」
鈍重そうな、いくつもの固い金属をすり合わせたような、人のものとは思えない声が、やけに生臭い息とともに禿頭をその場に射竦めた。
「違う、違う、俺は悪魔なんかじゃない。それに、美味くもなんともないぞ。お前の方こそ、何者だ? 姿をもっとよく見せろ、お前が悪魔じゃないっていうんなら」なんだか昔話の台詞のようだ、と思いながら、声を必死に絞り出す。
しかしすぐに彼はそんな不用意な要請をしたことを後悔した。
霧の中からぬっとあらわれ出たのは、身の丈三メートルはあろうかという筋骨隆々の大男だった、上半身裸で、革製の腰巻のようなものを着けている。その手足は丸太のようである。
《こんな人間、ロシアかアフリカあたりを探しても、一人か二人くらいしかいないだろう!》
しかしそれ以上に驚くべきは、「それ」が人間の頭を持っていないことだった。人間の頭があるべき場所に、代わりにあったのはまだら模様の、巨大な牛の頭部だった。
《こんな人間、世界のどこを探してもいない、いや、いてたまるか!》ここまで考えて、理性はぷっつんと切れ、哀れな編集長はまったく意味のない悲鳴を上げた。さんざん叫びに叫んだあと、
「やっぱり悪魔はお前の方じゃないか!」とかすれた声で呟いた。
すぐさまくるりと後ろを向き、禿頭に汗をしたたらせ、全力で走る。しかし牛頭はのしのしと近づいてきて、あっという間に彼を追い抜く。こちらを向き、仁王立ちになった牛頭の身体に激しくぶつかった禿頭の意識が、にわかに遠のく――――
夜も更けて、街は霧に包まれている。
第二章 『カストリ探偵』
ブウウウゥゥゥンンンンン・・・・・・ブウウウゥゥゥン・・・・・・。
「あっ!」
「アジャパー・・・・・・またやっちまった・・・・・・」
つまらないミスから、またゲームオーバー。
いや、違うんだ、周囲を飛びまわる蠅に気を取られた。
まあ、といっても、テトリスの話なんだが・・・・・・。
紹介が遅れた。俺は安木四朗。こう見えて「一応」私立探偵だ。
「一応」とアタマに付くのは、俺がまだ実際には依頼を一件も解決したことがないからだ。だから、ただの自称。今日も朝から依頼人を待っているものの、誰も来ない。まあ、この混沌とした状況で、わざわざ探偵に会いに来る奴などいない。ちょっと、探偵家業を始めるタイミングが悪かったかな・・・・・・とにかく、することがないから、ただっぴろいこの事務所で、充電器がささったままの携帯をいじっている(きっと、バッテリーが弱ってきてるんだよな、たぶん。早めに取り替えなくちゃ)。
まあ、古臭い言い方だが、『カストリ探偵』といった方がいいかもしれないな。依頼料の安さだけが売りの、粗悪な探偵。
今は7月。記録的な猛暑に加え、謎の霧が街中を覆っている。うだるような暑さの中、蠅が一匹、さっきから俺の周りを飛び回っている。こんな風に。ブウウーン・・・・・・。ブウウーン・・・・・・・。五月蠅くてたまらない。いや、七月蠅くて、か。俺はただテトリスがやりたいだけなのに。蠅は疲れも見せず飛び回っている。
ふと、俺は蠅に意識を集中する。
蠅の意識と俺の意識が入れ替わる感覚。
俺の意識は蠅の体に移った。
ミラーボールのようなでっかい眼で、部屋を見回す。
依頼人専用のドアはちょうど南にある。ドアの両脇には観葉植物の鉢植え。南洋から取り寄せた植物には、ちょうど今ごろどぎつい色の花が咲いている。入ってきた客の目には、まず、向かいにある無駄にでかいデスクが飛び込んでくる。いつもなら、そこにふんぞり返っている俺。今は、蠅の精神で、目をぐりぐり回し、「ぶう~ん」といいながら両手両足をバタつかせているが。それは置いといて、机の上には週刊漫画雑誌のだいぶ古いやつや、ちょっとマイナーな詩人の詩集、それにチャンドラーの「大いなる眠り」が飾るようにして置いてある。え? これじゃ、カッコがつかないって? しかたないだろ? 実家にあった本は前の二冊だけ、ハードボイルドの世界を知りたくて買った「大いなる眠り」は俺には難しくて、読んでる途中で意識を失い、それから大いに眠った。いいんだ、いいんだ。べつに俺はハードボイルドじゃない。
机の上には他にデスクトップパソコンが一台、写真立てには、海亀が泣いてる写真。プラモに使う接着剤、それから小銭が散乱。たぶんゲーセンで使える、変なメダルも混じっている。いつ紛れ込んだ? あと、雑多なメモが書かれた紙きれがたくさん。
東の壁には日本地図、西の壁には世界地図。落ちないように、四隅をしっかり釘で打ち付けておいた。大家には内緒だぞ。床には毛羽立つヴェルヴェットの赤い絨毯。人の顔をしたけっこう大きい黒シミがある。知り合いからもらった。探偵というよりマジシャンぽい感じもするが、気にしない。天井にはこれも知り合いからもらった、直径1メートルくらいのシャンデリア。いよいよもって探偵らしくなくなってきただろう? これでも一番小さい奴をもらったんだが。トイレの天井にあったやつだ。知り合いって誰かって? とある成金の息子なんだが、そいつの親父の会社が破産して、急遽、家を売りに出すことになった。でも誰も気味の悪いカーペットとトイレにあったシャンデリアなんて買わなくて、見かねた俺が買ってやった。そして、そいつはある日突然家族そろって失踪した。
そうそう、忘れちゃいけないのが部屋の真ん中にあるでかいソファ。依頼人はここに座ってもらう。己の悩みを素直に打ち明けてもらうためには、ゆったりくつろいでもらう必要がある。・・・・・・実はこれも例の知り合いのお古で、二束三文で手に入れた。・・・・・・少し汚いし、ところどころにほつれがあるけど。
目ぼしいものはもうないかな。いつまでも蠅の姿でいるのはゴメンだ、元の体に戻らせてもらうぜ。意識を、手の平を懸命にこすり合わせてる俺の体に集中する。意識が混ざり合う・・・・・・。無事、元の姿に戻る。右側の、世界地図の横の窓を開けて、蠅を外に逃がしてやる。一度は体を交換した仲だ、殺すには惜しい。
さて、開いた口がふさがらないようだね? ご覧になった通り、俺には「カメラアイ」という特殊能力がある。蠅などの小さな生き物と意識を交換して、その視点を手に入れることができる能力だ。もっとも、小虫以上の大きさの生き物にこの能力をためしたことはないが。理由は簡単、意識を交換するんだから、俺の身体の方は相手の意識に乗っ取られるわけだ。だから、そうそう知能の高い生き物に使うわけにはいかない。俺の身体を「持ち逃げ」されるかもしれないからな。そういうわけで、あんまり便利な能力じゃない。まあ、俺のIQがもうちょっと高ければ、もっと有効に、一財産築けるくらいには使えるのかもしれないが。いいんだ、いいんだ。何事も、自分のペースでいこう。
不意に、ノックの音。身構える。
トン
トン
トン 三回。
「はい、どうぞ。お入りください」
俺は掌をすり合わせ、若干緊張しながら、丁寧にドアに向かって呼びかけた。
「失礼します」
おずおずと入ってきたのは、顔色が悪く、ひどく貧相な男だった。せかせかと部屋に入ってくるなり、所在なさげに辺りを見回しているので、「さあ、どうぞ。そちらのソファへ」とうながす。「はい、失礼します」男はもう一度言って軽く頭を下げると、来客用のソファへ腰かけた。
「ようこそ、安木探偵事務所へ。さて、まずは、お名前をお聞きしましょうかね?」
「小松と申します」
「小松さんですね。・・・・・・よろしければ、ご職業を?」
「出版会社の事務方をやっております」
「つまり、編集者?」
「ええ、まあ、そんなところです」
小松と名乗る男はぎこちなく微笑した。
「なるほど。それで、ご用件は?」
「はい、実は・・・・・・」小松は大きく息を吸って、
「編集長を見つけ出し、助けて欲しいのです!」と思い切ったように言った。
「はあ、人探しですね? おたくの出版社の編集長が行方不明なのですか?」俺は極めて冷静に訊ねた。
「そうです」
「助けて欲しいというのは、もしかして、誘拐の可能性があると?」
「可能性があるというより、確実なことです。この目で誘拐されるところを見ました!」
「いつ?」
「昨晩」
「どこで?」
「○○四丁目あたり」
「ひょっとして、誘拐犯の顔を見ましたか?」
「ええ、しっかり見ましたとも! 昨晩、私は取材のため外出した編集長の跡をつけていきました。世の中がこの混乱でしょう? あの人が心配でたまらなかったのです。この霧ですから、気づかれませんでした。しばらくは何も起きませんでした。そして不意に編集長が立ち止まったのです」
「・・・・・・そうしたら、誰かが向こうからやってきた?」
「そうです。・・・・・・そいつと編集長とは、なにやら言葉を一言二言交わしました。そしていきなり深い霧の中からそいつが姿を現したのです!」
「その人物の特徴を詳しく教えてください。それと、単独犯ですか?」
「そいつは一人でした、いや、『一匹』かな・・・・・・なにせ、それは三メートルもある、筋骨隆々の、生臭い息を吐く、牛の頭を持った怪物なんですから!」
「今、なんと?」
「三メートルの・・・・・・」
「いや、最後におっしゃった特徴です」
「そいつは牛頭なんです!」小松は真顔で答えた。
「ウウム・・・・・・どうやら、俺の手には負えないようだ。他をあたってくれ」
俺はそう言って目をつむりながら首を振った。
「本当のことです! ・・・・・・他の興信所もあたってみましたが、どこにも信じてもらえなかった! 一笑に付されましたよ。肝心の警察はそれどころじゃないし! ああ! 一体、どうすればいいんだ?」小松は明らかに狼狽していた。しかし薬をやっているようには見えない。俺はため息をついて、
「わかりました、わかりました。とりあえず、編集長が行方不明だということは確かなのですね?」
「間違いありません。自宅にも戻っていません。私はこの目で見たんです、気絶したあの人を軽々と担いでどこかへ連れてゆくあの化け物を! ああ、今頃は奴の腹の中かもしれません」
「しかし、世間がこんな剣呑なときに、どうして編集長自ら出かけて行ったのでしょうね? 危険な取材なんて、部下に任せるべきでは?」
「あの人の中の記者時代の血が騒いだのでしょう。それに、Aといううちの専属作家が行方不明でして、彼を捜索するという目的もあったのです。彼に記事を書かせようと思ってね。まあ、ミイラ取りがミイラになってしまいましたが!」
「なんですって? いま、Aとおっしゃいました?」俺は椅子から身をのり出した。
「ええ、まあ、売れない作家ですよ。ご存じないとは思いますがね」
「いや、よく存じてます。よおく、ね」俺がそう言うと、小松は不思議そうな顔をする――俺はやけに真剣な表情をしていたに違いない――あいつ、作家なんてやっていたのか! 行方不明、だと? 変わったやつとは思っていたが、まさか第二の人生からも失踪するとは・・・・・・そう、例の、俺がシャンデリアやらなんやらを買い取ってやった、消えた成金の息子の名前も、Aなのだ。もちろん、単なる同姓同名の可能性もあるが・・・・・・。いや、違う、間違いなくあいつだ。俺の直感がそう告げていた。こういう時の勘はよく当たるんだ。・・・・・・俺の心はすでに決まっていた。
「この仕事、お受けいたしましょう」俺は依頼者の目をしっかり見ていった。小松の眼は途端に輝きだし、
「ありがとうございます! ありがとうございます! もうあなたにしか、頼めないんだ! あなたにしか!」と小さく、震える声で叫んだ。
俺はその他詳しいことを聞いた。編集長の特徴――でっぷりした腹をなんとか抑えているサスペンダー、口元のよく手入れされたちょび髭、そして磨いたような禿頭。Aの専属マネージャーも行方不明のこと、そして仲間の記者たちがうわごとのように繰り返すおかしな話。
「あっ、そうだ。三人が映っている写真があります。皆で旅行に行った時の。はじめからこれをお見せすればよかったですね? こちらです」といて小松は持っていた鞄から写真を取り出した。
俺はその写真を受け取る。多くの人が映っていたが、しっかりと三人の顔を確認することができた。まず、編集長。特徴のある風貌なので、見間違うことはおそらくないだろう。次に、A。やはり間違いない、多少やつれてはいるが、俺の知っているあいつだった。覚悟しろよ。そして最後にマネージャー君――彼の顔は特徴があまりなく、どうにも厄介だった。しかし、どこかで見たことのあるような気もした――だが結局思い出せなかった。
「これは、素晴らしい。いい手掛かりになります。この写真、お貸しいただけますか?」
「もちろんです。ご自由にお使いください。・・・・・・できれば返していただきたいものですが。思い出の品なので」
「わかりました。ありがとうございます。なるべく早くお返しできるように努めます。・・・・・・それと、Aさんのお宅はどこですか?」
「Aさんの家ですか? ・・・・・・もうありません」
「というと?」
「火事で全焼しました。焼け跡からは、手掛かりもなにも見つかりませんでした。もちろん、遺体も! ああ、Aさん! 生きているのかどうかさえわからない」と言って小松は首を振った。
俺は思わず唾を飲み込んだ。俺の知らないところで、なにか大きな事件が起きている。あるいは、なにか巨大な陰謀が蠢いている・・・・・・こりゃあ、テトリスなんかやってる場合じゃない。初仕事は、とんだ大物だ!
「では、一応、家があったその場所だけでも教えていただけませんか?」俺は再度、小松に訊ねた。
・・・・・・小松が去った後、俺はしばらく問題の整理をして、やっとカラフルな蛸をかたどった衣類掛けから上着と帽子をとり、鍵をかけ、外へ出た。
外は余計に蒸し暑かった。上着を脱ぎに戻ろうかとも思ったが、これが仕事着だ、というポリシーが勝って、結局そのまま通りに出た。・・・・・・辺りは濃い霧に包まれている。常とは違う、怪しくユウウツな街。
ここから三人の男を見つけ出すなんて、骨の折れる話だ、まったく! たとえ一人は知り合いだとしてもな。
第三章 『アジト』
そこは、荒野である。
・・・・・・Aが、見知らぬ男と向き合って、なにか激しく言い争いをしている。「おい! そんなところでなにをしているんだ! はやく記事を書くんだ!」必死に叫ぶが、Aにはまったく聞こえないようだ。向き合った相手の方がむしろ、怪訝な顔で辺りを見回した。「お前さんにはわかるのか? おい、この声が聞こえるのかい? ここだよ!」彼は、まるで鳥にでもなったかのように、上空から二人を俯瞰していた。「だれでもいい、こっちに気づいてくれ! ここにいるんだよ! ここに・・・・・・」そのとき、彼は自分が鳥ではないことに気がついた。俺は鳥なんかじゃない。編集長様だ!
目が覚めた。
彼は牛男に片手で抱きかかえられていた。生臭い息が顔にかかる。体中が痛い。あばらの一本や二本はおれていそうだ。彼――編集長は、夢の酔いから醒め、ようやく今までのことを思い出した。「そうか、すると、牛男については夢じゃなかったんだな? くそっ! できればただの悪夢であってほしかったよ!」彼は苦々しく思った。なんとか自由を得たくて、体を必死に動かした。すると、牛男がそれに気づき、
「オキタナ。マア、アジトニツクマデ、オトナシクシテロ。サモナイト、クッチマウゾ」と例の奇妙な声で言った。
「クッチマウゾ、だ? 冗談じゃない! こんな奴に喰われてたまるか! それに、アジトだって? こいつには他にも、仲間がいるのか? ああ! ぞっとしない」哀れな編集長は心中で叫んだ。
それでもおとなしくすることにしたので、さしたる会話も出来事もなく、二人(一応そういっておく)は霧の中を進んでいった。この悪条件でも、牛男は「アジト」への道を容易に進んでいるらしかった。彼の嗅覚のなせる業なのか、それとも、人間には計り知れない化け物の勘なのだろうか?
とにかく長いこと、編集長は牛男に抱きかかえられたまま、霧の中を移動した。正確なことは何もわからない。視界は悪いし、体中が痛むし、なにより頭がひどく混乱していた。
「おい! いつになったら着くのかね? そのアジトとやらに」とうとうしびれを切らして禿頭が訊ねた。
「モウスコシダ、チョットマッテロ」牛頭がのろのろ答える。
やがて、二人の前に、もうだいぶ昔に持ち主がいなくなったとみられる、打ち捨てられた大きな洋館が姿を現した。立派なつくりだったが、だいぶガタがきているようだ。ときどき怪しく軋んでいる。その時代がかった不気味さは、まさに化物どもの巣窟というのにぴったりの雰囲気を醸し出していた。
「ツイタゾ。ココダ」と言うと、牛男は片手で大きな門を軽く叩いた。すると漆黒の門は音もなく左右に開く。
「けっこう古い建物みたいだけど、これは自動ドアみたいなものなのか?」編集長が不意に沸き起こった好奇心から聞いた。
「サア? オレモヨクシラナイ。オレ、ソウイウノニ、キョウミナイ」牛男が知性をまったく感じさせない声で答えた。
庭も広かった。植木のようなものはすでになく、雑草がぼうぼうに生えているだけなのだが、それが一層この庭の規模を大きくみせている。
洋館に入ると、禿頭はぎょっとした。建物の中にはなにも無い。家具も、絨毯も、シャンデリアも、こうした館にはつきものの調度品その他もろもろが一切存在しないのだ。エントランスはがらんどうで、化物屋敷のようだった。いや、実際にそうなのだ、ここは確かに化物屋敷には違いないのだ・・・・・・。
「ずいぶん殺風景だな。ここがアジトか?」と編集長が聞くと、
「ソウダ。ココガアジトダ。ソシテ、ココガアジトダトイウコトニイミガアル」と牛男にしてはどこか思わせぶりな返事がかえって来た。
「いらっしゃい。お待ちしておりましたわ」エントランスの階段を下りながら、そう語りかけてくる者がある。
それは華奢な、不思議な雰囲気のする少女だった。長い栗色の髪の毛は炎のように渦巻いている。フリルのついた可憐な服を着ている。
「手荒な真似をしてすみません。あなたが神・・・・・・いや、Aさんのお知り合いだということを聞いて、ここまでお越しいただいたのですわ」少女は言った。それを受けて禿頭は、
「お越しいただいた? 大層な物言いだね、まったく! こんな、体の自由を奪われて、そんな、丁寧な歓迎を受けるなんて、変な気分だよ!」と怒鳴った。
「申し訳ありません。・・・・・・その人を楽にしておあげなさい」
楽にしておあげなさい? 意味を取り違えて、一瞬、殺されてしまうのではないか、と編集長は思ったが(無理もないことだ)、牛頭はすぐに彼を解放し、床に立たせた。長い間そうしていなかったので、ふらふらと眩暈がしたが、なんとかこらえ、すぐに体中を点検した。骨は折れていないようだ。彼は一安心した。
「それで?」編集長はあえて強気に出た。
「君たちはAの行方を知っているのかね?」
少女はしばらく沈黙した後、答えた。
「知っていますわ。でも、彼は遠いところに行ってしまった。遠い、遠い、まだら牛の世界に行ってしまいましたの」
第四章 『焼け跡』
俺の足は自然にAの家の跡へと向かっていた。場所は小松に聞いたのだが、どうしても気になった。なにか手掛かりがありはしないか。こういう時の勘は信じるべきだ。じゃないと、信じる時がなくなっちゃうからな。
A。あいつのことは俺もそこまで詳しくは知らない。同じ大学の同期なんだが、文芸愛好会というクラブで一緒だった。正確に言うと奴の方から誘われた。会員は俺とAを含めて五、六人。つまり俺は人数を埋めるための幽霊メンバーだった。だから別にブンガクに興味があるわけじゃなかった。他のメンバーもそんなに熱心に活動はしてなかったから、実質、Aが一人奮闘していたようなものだ。ただAと話すのは楽しくて、活動場所の空き部屋やら大学の近くの喫茶店やらでよく話した。前に言った通り、あいつは金持ちの息子で、小さいころから好きな本を好きなだけ買ってもらえた。だからブンガクにも詳しかったんだな。
「安木、しってるか? カフカって作家はな、死ぬ前に友人に『ぼくの原稿を全部、燃やしてくれ』って遺言したんだぜ」
「へえ? 変な奴だなあ。普通、作家っていうのはどんな形であれ、作品が後世に残るのを望んでるんじゃないのか?」
「ところが、カフカは違ったんだ。彼は全ての原稿を燃やすことを望んだ。安木、何故だかわかるか?」
「さあ? 理由は俺なんかにはわからないな。でも、本当に燃やしたかったら人には頼まないよな。俺なら、生きてる間に、自分で燃やすぜ」
「たしかにな。俺もそうする」といってAは笑った。
ある日、あいつが血相を変えて相談しに来た。親父の会社が倒産寸前で、是非とも金が要るという。俺はバイトでためたなけなしの金であいつの家のシャンデリアやらカーペットやらを買い、引き取った。ありがとう。ありがとう。この恩は忘れない。あいつは何度も俺に言った。
それから間もなくして会社は倒産、Aの一家は蒸発した。・・・・・・
焼け跡、つまりかつてのAの家ははひどい有様だった。よっぽど燃えたんだろう、建物の骨組みが丸見えだ。あたりでは警察が現場検証をしている。そして大量の野次馬。口々に「物騒ねえ」とか「放火で間違いないらしい」「Aさん、まだ見つからないってよ」などと囁き交わしている。俺は雲霞のような野次馬の群に加わって様子を見ることにした。警察が捜査をしている。
「どうやら、書斎の焼け方が特に激しいようです」捜査員の一人が上司らしき男に言う。
「そうか。ではそこが出火元だな」上司が断定する。
「そのようです。それと、こんなものが見つかりました」捜査員はもう一人――これは彼のさらに部下だろう――に目で合図を送った。部下はなにやら黒焦げになった四角い物体を重そうに抱えてくる。
「これはなんだね、真っ黒だが」
「Aさんの使用していた、デスクトップパソコンのようです。なにか情報が得られるかもしれません。・・・・・・もっとも、この状態じゃあ、あまり期待はできませんが」捜査員はそう言って顔をしかめた。
「ふうむ・・・・・・よし、鑑識に回そう。とりあえずそこに置いておいてくれ」上司は開きっぱなしになっている車のトランクを指さすと、
「それにしても、事件が多すぎる・・・・・・おかげで、どこも一杯一杯だ。放火、略奪、誘拐・・・・・・世の中どうなってるのかね? まあ、その原因を突き止めるのが、我々のしごとなのだが」と言って苦笑した。
俺は現場を一旦後にした。
近くの自動販売機まで歩き、その脇のごみ箱を漁る。甘い、すえた臭い・・・・・・案の定、大きな蠅が何匹もブンブン飛びまわる。そのうちの特に大きい奴と目が合った。意識と意識を交換する・・・・・・。
幸い車のトランクは空いたままだった。確かにパソコンは丸焦げで、使い物になりそうもなかった。だが俺の狙いは別にあった。パソコンの下部に付いているUSBメモリ。この身体だと、馬鹿でかく感じられる・・・・・・これが目当てだったんだ。さて、この非力な体でどうやって抜き取るか?
そこで、一旦車から離れ、勢いをつけて斜めにUSBメモリに体当たりする。思った通り、焼け焦げてもろくなったポートはミシミシ音を立てた。何回かぶつかると(多少痛かったが)、ボコンとポートが割れた。落ちたUSBメモリをすばやく六本の脚でつかみ、自動販売機の方へ急ぐ。
「あれ? この部分、こんなに壊れてたっけな?」
「ホントだ。まァ、あれほどの猛火だったんだ、熱で脆くなってたんだろ。もっと丁寧に運べよ」
なんていう会話を後ろに聞きながら。・・・・・・
元の身体に戻ると、フラフラ飛んでいく特大蠅にサンキューと呟く。ふと誰かの視線を感じる。見ると、野次馬の一人だろう、ジャージ姿の親父が、こちらを怪訝そうな目で見ている。
「あんたあ、さっきまで手足バタバタさせて、ブンブンうなってたけど、大丈夫か? 救急車呼ぼうかと思ったど」親父が訊いてくる。
「え? ・・・・・・いや、ここの酒を飲んでたら、思ったより酔っちゃってね」
「ここには酒なんて置いてねえよ」
「ああ、そう・・・・・・じゃあ、ジュースで酔っちまったのさ」
「そんなやついるかあ? あんた、やっぱり病院行った方がいいって」
俺はそれには答えず、速足でその場を立ち去った。
変なところを人に見られたが、確かな収穫はあった。Aが行方不明になる前、最後に記録したもの・・・・・・このUSBメモリは重要な手がかりになるはずだ。
第五章 『食事の時間』
俺に食いけがあるならば
先ず石くれか土くれか。
毎朝、俺が食うものは
空気に岩に炭に鉄。
――――ランボー『飢』
禿頭は応接間に通された。といっても、数多くの空き部屋の一室に、どこから運び込んできたのか、パイプ椅子が数脚置かれているだけの、ただっ広い空間だった。「スワリナ」牛頭に勧められて、壁際の一脚に座る。錆びた連結部がぎしぎしと音を立てる。反対側の壁の窓から、なにか、大きな倉のようなものがぼんやりと見えた。霧のせいではっきりとは視認できない。天井は大量の糸のようなもので覆われていた・・・・・・よく見ると、無数の蜘蛛の巣である。編集長はあらためて身を震わせた。
「さて、なにから話しましょう?」彼と向かい合うようにしてパイプ椅子に座った栗毛の少女が、ごく穏やかに訊ねた。
牛頭は椅子には座らず(もちろん、座ったとしても、たちまち椅子の方が壊れてしまっただろう)、所在なさげにのろのろと部屋を歩き回っていた。
「お前さんたちが何者なのかは、あえて訊かん。君子危うきに近寄らず、っていうじゃないか? まあ、もう十分、近づいちまってるようなきもするが、とにかく、あんたらと深くかかわると、ろくなことが起きないような気がするんでね・・・・・・俺が知りたいのは、Aの安否と、その居場所、それだけだ」
「わかりましたわ。ああ! それにしても、わたくしたちは今、非常に重要な話をしようとしていますわ。そうじゃなくて? 力パワー」少女は牛頭の方を見た。
パワーと呼ばれた牛頭は神妙に同意の頷きをしてみせた。
「君たちにとっても重要な話なのかね?」編集長はおそるおそる訊ねる。
「ええ。これはわたくしたち"天使"にとっても切実な、のっぴきならない大問題なのですわ」
「"天使"だって?」禿頭は思わず噴き出した。そしてべらべらとまくし立てる、「いや、失礼! 君たちがただものじゃあないことはわかるが、まさか天使とくるとはね! いやはや、幽霊の正体見たり、ならぬ、天使の正体見たり、だな。これは、壮大な悪戯なのかい? そうだろう? そこの牛頭のパワーくんとやら、その頭だって、よくできた被り物なんだろう? それとも、精巧につくられたロボットかな? ・・・・・・そもそも、この悪戯の黒幕は誰だ? Aか? そうだろう、Aの奴だ、Aの奴に違いない! 俺に日頃の復讐をしようというんだな? 手の込んだことをしやがって、まったく!」
沈黙が訪れた。パワーも少女も無表情のまま、何も言わない。やがて少女が口を開いた。
「残念ながら」彼女はいたわるように言った。「彼の頭は被り物じゃなくてよ。ロボットでもありませんわ。・・・・・・もっとも、Aさんが黒幕、というのは、半分当たっていますわ。なぜなら、彼がすべてのことの発端なのですもの・・・・・・」
「メシヲクッテクル!」突然、耐えかねたように、パワーが唐突に叫んだ。
「いってらっしゃい。食べ過ぎに気を付けて」と少女が答えると、彼は窮屈そうに入り口をくぐって部屋を出て行った。
「・・・・・・俺の見当違いだったようだ」それを眼で見送って、禿頭は言う。「やっぱり、あれは本物の怪物だ。あの緩慢な動き、奇妙な声、息の臭さ、被り物やロボットじゃあ、あんなリアリティーは出せない。こりゃあ、まいった! まさしく、あんたらは天使・・・・・・とは言い難いにしても、ただの人間じゃないな。もっとも、さっき言ったように、俺はあんたらの正体を詳しく詮索する気はないんだ・・・・・・Aだ、Aの行方が知りたいんだ。あんた、今、こう言ったね、Aがこの事件の発端だと? そもそも、Aはどこにいるんだ? まだら・・・・・・とかなんとかの世界に行ってしまった、とさっき言っていたね? それは一体どういうことなんだい? なんだか、こことは次元の違う場所、まさしく異次元に行ってしまった、というようにきこえるのだがね、まさかそんなことはないだろう? おとぎ話じゃあるまいし!」
「そのまさか、ですわ」少女は人差し指を立てて言った。「彼は悪魔を生み出してしまった。そしてその悪魔たちに追われていると勘違いをして、遥かまだら牛の世界まで逃げていってしまったのですわ」
「まて、今度は悪魔か!?」編集長は慌てて言う。「まあいいや、俺なりにその話を翻訳させてもらうと、Aは悪魔・・・・・・と呼ばれるようなタチの悪い奴らと面識を持って、そいつらに追われていると思った。だから異次元に逃げた。しかしそれは勘違いだった。こんな感じかね?」彼は必死にあらすじを組み立てたが、自分で自分の言っていることが信じられなかった。悪魔に、異次元か、こりゃあ参ったな!
「大体合っていますわ。今はそれでよろしくてよ」少女は微笑した。「話の続きを・・・・・・でも、実際に追われていたのはAさんではなく、悪魔たちの方だったのですわ!」
「・・・・・・つまり、悪魔を追いかけるやつがいたってことか? そんな奇特な輩がいるのかい?」
「いますわ。それが私達、天使ですわ! 邪悪な悪魔を退治するのが、我々の務めですわ」
禿頭はなんだかくらくらとしてきた。それでも頑張って声を絞り出した。
「天使ですわ! だって? 冗談じゃないよ、本気かい? いくら君たちがただものじゃないといったって、悪魔と呼べるようなタチの悪い奴らを退治するだなんて、正気じゃない・・・・・・君なんて、まだ年端もいかない子供じゃないかね? それに、君たちとAの関係がわからんな。ああ! こうなってくると、もう何もかも知りたくなってきた!」
「何もかもお話しいたしますわ。でも」少女はにっこり笑った。「Aさんについて、あなたもお話ししてくださいませんこと?」
第六章 『荒唐無稽なメッセージ』
俺は濃い霧の中を急ぎ足で事務所まで戻った。
誰もいない道路をひとり淡々と進む。それにしても濃い霧だ。まるで百人の重度喫煙者がふかしているような・・・・・・。なんだっていうんだ? この状況は? 改めて考えると、ことの重大さに思わずため息が漏れる。いいさ。いいさ。さっき手に入れたこのUSBに全ての謎を解く鍵が詰まってるんだろうから。俺の勘が正しければ・・・・・・。
郵便受けには当然のごとくなにも入っていなかった。帰ってくるとき、いちいちチェックするのが癖になっている。それから、例のちぐはぐな愛すべき部屋に入る。むあっとした熱気が押し寄せてくる。当然のごとく、誰もいない。こういう時、本物のハードボイルドだったら、侵入者の一人や二人いてもおかしくないんだが・・・・・・。そしたら、侵入者の野郎と見事な格闘戦を繰り広げてやるのに・・・・・・少し残念だ。冒険には危険が付き物だからな。スパイスのないカレーは不味い。
さっそく机の上のパソコンのスイッチを入れて、パスワードを入力。整理のついてないデスクトップ画面が映し出される。どうも機械は苦手だ。というか、文明の利器全般が苦手だ。テトリス以外は。USBを脇のポートにセットして、中身を確認する。いくつかの、文章データのようなものが入っていた。てっきりビデオメッセージか何かだと思っていたが、まあいいだろう。わかりやすく『SOS、あるいは遺言』と題されたファイルがあったので、クリックしてそれを開く。すると、こんな文章が出てきた。・・・・・・
『この文章を読んでくれた方へ。この文章を最初に読むことになるのは誰だろう? 編集長? 警察? それとも、私の思いもよらない誰かだろうか。おお、どうかあの恐ろしい悪魔どもでないことを祈る! ・・・・・・もし悪魔でなかったら、悪魔でないあなた、あなたに伝えたいことがある。これから話す話は、まったく荒唐無稽、信じがたいものだろう。実際のところ、何度、自分を疑ったか知れない。だが、これはまぎれもない事実なのだ。どうか信じて欲しい。・・・・・・
今日はいつもと変わらない一日になるはずだった。さっきまでは。私は、一篇の小説を書いていた。タイトルは『まだら牛の祭り』。知っての通り、私の職業は小説家だ。しかしこの作品は特に世に出すつもりもなかった。なんだか、自然にキーボードをうつ手が動いたのだ。内容は・・・・・・どこか知らない世界で、二人の男が小難しいことを語り合う話だった。ここでは詳しくは述べない。あまり重要なこととも思えない・・・・・・。私はキリのいいところでその小説を中断した。なぜだか、それ以上書くのに飽きてしまったのだ。私は椅子に座ったまま伸びをした。そのとき確かに、カタカタと、わずかな揺れを感じた。地震かとも思ったが、今考えれば、それがただの地震ではなかったのだ・・・・・・。インターホンが鳴った。マネージャーかと思った。私は入りたまえ、と言った。しかし乱暴にドアを開けて入ってきたのは、マネージャーではなく、まさに今の今まで私が執筆していた『まだら牛の祭り』の中の登場人物だったのだ! 一切が変わってしまった。
信じられないかもしれないが、続きを聞いてほしい。その二人の男――宮田望と、盥屋――は、私のことを「神」と呼んだ。だがそこには敬意などまったくなく、何の恨みがあるのか、私を散々愚弄した。すべてが私を主役とした、茶番だった。そのとき、私はなにより――恐ろしかった。自分の創造した存在が、実体をもって牙をむいてきたのだ、恐ろしくないはずがなかろう? とにかく、二人は好き勝手にやったあと(幸い、物的被害はなかった)、書斎から立ち去った。・・・・・・
以上がことの顛末だ。まあ、自分でも気が狂っているのではないかと思う。なにか夢でも見たのかもしれない。しかし私にはこういったことについての「前科」がある――今回のことが初めてではないのだ。・・・・・・それはまだ若いころ・・・・・・いや、この話は今はやめよう。時間がない。私は旅立つ。理由は? あの二人から逃げるためなのか? それとも追うため? はっきりとはわからないが、腹の底から言いようのない使命感が湧いてきた。私はこの文章を残し、消えるだろう。しかしそれもしばらくの間だ! また帰ってくるだろう。こんなおかしな怪文書を、もし最後まで読んでくれた方がいたら、ありがとう。探さないでくれたまえ、私にせよ、悪魔どもにせよ。きっとあなたにも危険が及ぶから。危ない目にあうのは、私だけで十分だ。いや、やはり、旅の道連れに、マネージャーのやつでも誘っていくとするかな・・・・・・。――――Aより。最後まで読んでくれたあなたに感謝を込めて』
Aのやつ、相変わらずだな、まったく! 決断が早いというか、せっかちというか・・・・・・。この文章も、ところどころ端折ってあるから、話の全体がわかりにくいったらありゃしない。しかし、この話、荒唐無稽。普段ならまったく信じられないが、世の中のこんな混乱を見てると、信じるしかないような気もするな・・・・・・。この騒ぎが「悪魔」どもの仕業ってンなら、大体の辻褄は合う。悪魔、あくま、アクマか・・・・・・。こいつは参った。手強そうだ・・・・・・まあ、いいさ。いいさ。何事も、なるようにしかならないんだから。
それにしても、『物的被害はなかった』とあるが、じゃあ、誰がAの家を焼いたんだ? それに「宮田望」に「盥屋」だって・・・・・・? どこかで聞いた名前だな・・・・・・思い出せない、確かにどこかで・・・・・・いや、そいつらはAに創作された人物、俺が知ってるはずないな。考えるだけ無駄だ。
さて、どう出るか――手掛かりは掴んだ。だが、これじゃあ、ほとんど、なにも掴んでないのと同じだ。だって情報が少なすぎる。一体どこをどう探せばいい? ・・・・・・小説家のくせに、説明不足なんだよな、Aのやつ。思ったよりも、事件の核心に迫らなかったな。大体の話はわかったが――とりあえず、手短なところから当たってみるか? Aのマネージャーの住所・・・・・・小松から聞いてたな。そこであいつの足取りを探るとしよう。そう決めた俺の耳に飛び込んできたのは、例のブゥゥゥンンンンン・・・・・・ブゥゥゥンンンンン・・・・・・という羽音。また蠅か! どこから入ってきた? どうやら、おれはこいつらとは切っても切れない関係にあるらしい。
俺は霧深い路地に再び繰り出した。もうこの霧にも慣れっこだ・・・・・・と言いたいところだが、なんでか、どうもこの霧は好きになれない。なにか、得体のしれない不快さをもよおすというか、飲み込まれそうになるというか・・・・・・。ガア、ガア、遠くの方で不気味にカラスが鳴く・・・・・・エンガチョ、早く事件を解決して、ゆっくりテトリスに浸ろう。
第七章 『ゴミ山の語り部』
「うん、Aについてだと? ・・・・・・実のところ、やつのことは、俺もよく知らん」編集長はぶっきらぼうに言った。
「・・・・・・では、あのAという人物とは、いつ、どこで出会ったんですの?」
「それはだね・・・・・・まあ、こうなっちゃどうしようもないし、話すとするか。嘘みたいな話かもしれないが、信じてくれよ(少女はこくりと頷いた)。10年くらい前に、そう、あれは、俺がまだ今のポストには就いてなくて、ただの一編集者だった頃の話だ。会社の向かいに、広い空き地があったんだが、まあ、今じゃもうそこには新しいビルがいくつも建って跡形もないがね、なにか、俺の知らない理由で、その空き地の管理者が、はっきりとわからない時代が長く続いていてね、勝手に、子供が秘密基地をつくったり、野良犬が群れたり、誰かがゴミを不法投棄したりしていて、それはもうやりたい放題、滅茶苦茶な場所だったんだよ。たとえば、何か用事がある時、会社から出て、ふとその空き地を眺めるとするだろ、すると、突然、石が飛んでくるんだよ! ある時なんか、頬をかすめて飛んでいったくらいさ。もちろん、やったのは近所の(あるいはどこかからやって来た住処を持たない)子供達だよ。こら! 出てこい! やったのは、どこのどいつだ! ってすごい剣幕で怒鳴ったって、広くて草ぼうぼうの空き地だから、目を凝らしてみても、なかなか正体がつかめないんだね。相手方もそれを知ってるから、こっちを影から覗いて、クスクス、キャアキャアの忍び笑いさ。まったく、子供ほど陰険な存在もないよ! だから小心者の社員は、裏口から出入りしたりしていたくらいで、まったく、困ったもんだった。ある日のことだ。俺がいつも通り会社を出て、飛んでくる石を警戒しながら空き地をちょっと眺めると、なんだか、いつもと様子が違うんだな。なんというか、ほら、わかるだろ? いつも見慣れている光景のほんのわずかな変化に、見慣れているからこそ、気がつくということが。まず、石が飛んでこない。これはおかしい。いや、本当は飛んでくる方がおかしいんだが、そう考えてしまうほど、その頃のがきんちょどもの悪戯は増長していってたのさ。それに、なんだかでかい声で朗々と演説してるやつがいる。その声だけしか聞こえないんだが、明らかに子供の声じゃない。しかも、なんだか教師が授業をしているときのような、自信たっぷりの、堂々とした話しぶりなんだよ。俺は不思議に思って、ふと、青空教室かな? なんて馬鹿なことを考えてみたりもしたが、とにかく、道を渡って空き地に近づいたんだ。道と空き地の境界線には、申し訳程度に細い鉄条網が張り巡らされていて、誰でも入れる状態だった。でも、少し仕事着をひっかけちまったけどな、その鉄の縄に。よく覚えてるよ、大事な、お気に入りの服だったから! まあ、今着てるのと、少しも変っちゃいないんだが・・・・・・それで、空き地に足を踏み入れたはいいが、まず襲ってきたのは、強烈な悪臭さ。あらゆるものが腐りきった臭い。酸っぱい、苦い、それにこれが一番嫌なんだが、甘い臭いが混ざった空気。俺はその空き地に入ってから数メートルのところ早くもで吐き気を催した。小僧めら、よくもまあこんなところでごっこ遊びができるな! と思いながら。だが、それも、しばらくしたらずいぶん慣れた。俺は、演説の語り手が気になって仕様がなかった。それに、子供たちが石を投げてこないのも気になった。長いこと、背の高い雑草を掻き分け掻き分け、声のする方に向かって、懸命に進んだよ。久しぶりの激しい運動に、もう汗だくで、なんでこんなことをやってるんだ、と自分で思いつつ、声の方に吸い寄せられるようにして歩いたんだな。・・・・・・どれくらい経っただろう、途中で方向転換をしたりしたから、随分と遠回りをしたんだろうが、やっとこさ目指す演説台までたどり着いた。そこは、草が刈り取られた、というより、生えなくなった場所で、というのはゴミの大量投棄場所だったから、滲み出る毒素で雑草すら生えないんだな。空き地の中の空き地、といったところだった。結構な広さだ。変に黒ずんだ土がむき出しになっていて、生ゴミ、粗大ゴミ、得体の知れないゴミ、いろんな種類のゴミがそこら中にうち捨てられている。異臭はもうすごいことになっているようだったが、すでに「鼻がもげて」いたからなんとか耐えられた。後で家に帰ったら、家内に、どこをほっつき歩いてたのよ! あんた、からだ中、くさくさ虫がついてるわよ! って言われたっけな。結局、下着から何から全部、捨てることになったよ。その家内も、5年前に死んじまった。・・・・・・そうそう、話の続きだな。・・・・・・その「空き地の空き地」の真ん中には、かつては立派だったんだろうと思わせる、みすぼらしい外車の残骸が置いてあった。紫色の、しゃれた車さ。いや、かつては立派な車だったんだろう。まず俺が驚いたのは、その外車の前に、10数人の子供たちが、きちんと立膝ついて座ってるんだ。こいつらが「石投げ」の犯人に違いないが、俺はそれよりその状況が理解できなかった。さらにびっくらこいたのが、例の外車の天井に、髭や髪を伸ばすままに伸ばした、つぎはぎだらけの浮浪者然とした服装の、今時珍しいほどにみすぼらしい男を認めたことだ。そいつは、外車の天井を演説台にして、指揮者のように手を大げさに振って、目を輝かせながら(不思議なことにその目は宝石のような光を放っていたんだ)、子供らに向かって一演説ぶっているんだな。こいつが演説者の正体だったんだ! これはどういうことなんだ、と思ったよ。思ったとも! いったい何を話せば、こんなみすぼらしい男が、いたずら小僧たちの注目を一身に浴びることができるんだ? ってね。いや、それ以前に、色々な疑問が、この浮浪者は何者なのかだとか、どうしてこの場所に一同が会しているのかとか、十分考えたうえでだよ。もちろん、具合のいいちゃんとした答えは見いだせなかったがね! 俺は2、3歩下がって、また草むらに隠れた。いったい、あの男は何を話しているんだろう、そう思って様子をうかがうことにしたのさ・・・・・・」
「それで? 彼は何を話していましたの?」少女は目を輝かせながら問うた。その目の光を、編集長はどこか懐かしいものを見る心地で眺めた。
「・・・・・・そいつは、お堅い議題を題目のように唱えていたんじゃなかった。ましてや、政治の話をして、『将来有望な若者』を秘密結社に引きずりこもうという魂胆でもなかった。やつが一生懸命に、そして滔々と語っていたのは、・・・・・・他でもない、物語さ。それも自分の身の上話でも、ましてやおとぎ話でもない、いや、正確に言えばそういったものが混ざり合った話・・・・・・現実と夢物語が、うまく調和した話・・・・・・奇妙だが、決して不快ではない、なんだか、途中から聴き始めた俺でも、その物語の中にすんなりと入って、優しく抱きとめられる、そんな話・・・・・・その浮浪者は、正真正銘の、語り部だったんだ」
「素晴らしいですわ!」と天使を名乗る少女は叫んだ。「あの方は、やはり変わらなかったのね、試練に遭っても。自らの役割を自覚していたんだわ・・・・・・ああ! それが、どうしてあのような醜悪な悪魔を生み出すようなことに? あの人に一体なにが?」
「そう、あいつは語り部だった・・・・・・まさしく。夜も更けて、子供たちが家に帰ったあと(家なしの子供でも、そのゴミためをねぐらにしているやつはさずがにいなかった)、俺は外車の上で満足そうに仰向けに寝転ぶ男に近づいた。男はすぐ俺に気づいて、横になったままこう言った。警察ですか? 警察だったら、どうか放っておいてください! おれは今のままで、十分幸せですから。警察でないのなら、おれの話を聴きに来たんですか? だったら、明日、ここに来てください。疲れが取れたら、またいくらでもお話ししますから・・・・・・。実際、男はずいぶんと疲れているようだった。俺は言った。俺はしがない出版社の編集者なんだがね(男はぴくりと身を震わせた)、君の話を聴かせてもらった。君の話は大変面白い。君は人に物語を語って聞かせることが好きなようだが、俺はより多くの人に君の話を聞かせたい。それに、君は今定職に就いていないとみえる。どうだい、小説を書いてみる気はないかい? それがもし面白ければ、うちから出版するよう打診してみてもいいんだが・・・・・・。男の目が、あの物語っている最中のように、きらきらと輝きだした。そして言った。喜んで! ああ、なんと幸運なことだろう! まさか、こんなことになるなんて! 夢が、こんな形で叶うなんて! 俺はその喜びように多少面喰いながらやさしく言った、まあ、期待しないでくれよ、一編集者の独断で決まるものじゃないんだから・・・・・・それにしても、今になって思えば、あいつの才能を一番買ってたのは俺だったんだな」
「やはりパワーに厳しく言っておいて正解でしたわ」少女が言う。「決して食べないように、と。なんといっても、あなたはあの方にとっての、ひいては我々にとっての大恩人、・・・・・・いや、救い主ですもの!」
「・・・・・・やっぱりあの牛頭は人すら食べるのか。そんな気はしていたがね」編集長は苦笑しながら言った。
「あら、でも滅多に食べなくてよ。万が一のためですわ」少女はそう言って微笑した。
第八章 『アルティジャーノ・金庫・分裂』
先輩匣中三尺水
曾入吳潭斬龍子
先輩の匣中なる三尺の水
曾かつて吳潭に入りて龍子を斬る
――――李賀
俺は事務所から歩いてすぐの、イタ飯屋『アルティジャーノ』に向かっている。マネージャーのアパートに直行しようと思っていたが、急に消化器が悲鳴を上げだしたんだ。何よりもまずは、腹ごしらえからだな。武士は食わねど高楊枝? いいんだ、いいんだ、俺は武士じゃない。
驚くべきことに、そしてまた当然のように、アルティジャーノの扉は開いていた。
しゃれた雰囲気の店で、結構気に入っている。いつも客は俺と一人か二人くらいで、ガラガラなんだが、それがまたいい。すぐさま、若くて痩せた男が注文を取りに来る。わざとゆっくり時間をかけて注文を繰り返すのは、相当暇な証拠だろう。
今日は一人も客がいない。寂しげに椅子とテーブルが並んでいる。そりゃそうだ、こんな霧の深い日にわざわざ外食するやつもいないだろう。・・・・・・俺みたいなのをのぞいては。適当な席に座ると、空のガラスコップと、水のなみなみ入った透明な緑色の瓶を若い男が持ってきた。
「こんな日に、よくやってるね」
「ええ、まあ。いつまでも休んでいるわけにはまいりませんからね」
たしかに、とうなずいて、メニューを見る。どんと目に飛び込んできたのは、血の滴る、ローストビーフ丼の写真だった。イタ飯屋なのに、なぜか丼物がおすすめメニューになっているところが気に入った。よし、ここはいっちょ精をつけるか。
「これ、大盛りで」と写真を指さす。
「かしこまりました。繰り返します、ローストビーフ丼、大盛りで(俺は言ってないけどな)。よろしいでしょうか? では、少々お待ちください・・・・・・」
俺はコップに水を注いで一気に飲み干した。今までの状況を頭の中で整理し始める。どうやら、カギになるのは「悪魔」と呼ばれている二人組の男らしい・・・・・・やっぱり、そいつらを見つけるのが最優先だろうか? だが、いったいどこにいるんだ? 有力な手掛かりは何もなし。雲をつかむような話だ。祈祷師にでも聞いてみるか?
早く来るだろうとは思っていたが、それよりも早く丼は来た。大盛りの白米の上に、血の滴る半生肉、その上にはなんだかわからないが白いソースと葉っぱがかけられている。中心には半熟卵がトロリとのっかっている・・・・・・。
たまらず口にかきこむ。うまい!
「お味はいかがでしょうか」相当暇なのだろう、若い男が味を聞きに来た。
「かなりうまいよ。ここのシェフはいい腕だね」
「ありがとうございます」
「それにしても、よく肉が調達できたね。この辺の家畜も、だいぶ盗まれたんだろ?」
「ああ、それでしたら、ご存じありませんか? 盗まれるのは、決まって、『牛以外』なのです。山羊とか、羊とか、豚とか。鶏なんかもそうですが、なぜか牛だけは盗まれず無事なのです。それで」と男は血の滴る肉を手のひらで示して、「こうしてお客様にご提供させていただけるということです」
なるほど、と俺はうなずいて、少し考えるようなそぶりをした。男は戻っていった。
さて、腹ごしらえもすんだし、マネージャーの住んでいたアパートにいくか。俺は小松から教えてもらった住所を頼りに、深い霧の中を犬のように歩いた。骨が折れたが、そこまで遠いところにはなく、一時間ほどでたどり着いた。
大家は話の分かる人間だった。マネージャーの友人だと言ったら。簡単に部屋を開けてくれた。
「心配なんですよ、失踪するような人じゃないから」大家――ボンバーヘッドの中年女性――は本当に心配そうに言った。
「僕も心配してます、ここになにか手がかりがあればいいんですが」と俺は言った。
部屋の中は整然としていた。つまり無理やり拉致されたとは考えにくい。けっこうマメなタイプのようで、隅から隅まで丁寧に掃除されている。キッチンの様子から、自炊もよくしているようだ。感心、感心。やけにオーディオ機器が多いところをみると、趣味は音楽鑑賞だな。本棚にはAの本がずらっと並べられている。あいつ、こんなに本を出してたのか。なんで今まで気づかなかったんだ? ・・・・・・そうか、俺があんまり本に関心がないからだな。・・・・・・
部屋をそれなりに物色してみたが、日記などは見つからず、役に立たない日常のメモなんかが見つかるだけだった。パソコンを調べてみると、やっとそこに日記のようなワードファイルが入っていた。こいつ、彼女でもいるのか? 頻繁に仕事と関係なく誰かと会ってるぞ。だがその名前はついにわからなかった。さらに言うと、失踪の原因がわかるような記述も一切なかった。
パソコンをシャットダウンして、あたりを見回すと、小さな作業机の上の、小さな鍵が目にとまった。なんの飾りもついていない、地味な鍵だが、探偵の勘が訴えてくる。何の鍵だ? 探せ。探せ。鍵穴を。
洋服箪笥の脇の壁との僅かなスペースに、それはあった。灰色の、小型で頑丈そうな金庫。おいおい、これはなにか・・・・・・やばい予感がする。覗いてはいけない、他人の秘密をあえて覗き見るような。でも、覗き見ることこそが探偵の仕事なんだよな。因果な商売だが、仕方ない、仕方ない。
鍵は鍵穴にぴったりと合った。ゆっくり慎重に回す。もしもこれが罠で、開けた途端爆発するような仕掛けがしてあったら? しょうもない妄想が頭をよぎるが、もうどうしようもない。静かに扉は開いた。
「よし、帰ろう。小松には、手に負えないといって、断ろう」俺は言う。
「何を言ってる? いまさらビビってるのか? お前はそんなタマかよ? がっかりさせるな。それに、これはチャンスだぜ」と、もう一人の俺が言う。
「チャンス? どういう意味だ? むしろこれはピンチだ」
「ピンチをチャンスに、だよ。この意味が分からないのか? こんなブツが絡んできたということは、この事件、相当デカいぞ。かつて経験したことないほどな」
「これが初めての事件だぞ」
「とにかく、この事件の真相をつかめれば、俺もいっぱしの探偵として認められる、そうじゃないか、兄弟? それに、このブツは武器になる。文字通りの、強力な武器にな!」といってもう一人の俺が笑う。
「頭大丈夫か? お前。こいつはちょっとばかし、危険すぎるぜ。俺の手に余る仕事だ。確かに今後はこいつのお世話になるほどのヤバい奴らと関わらなくちゃいけなくなるかもしれない。だけど、それは依頼をクソ真面目に遂行しようとしたらの話だ。なにせ、こっちは一人なんだぜ?」
「二人じゃないか、兄弟。俺たちが力を合わせれば・・・・・・」
「ちょっと待った! お前は何者で、何様のつもりなんだ? 俺たち、だと? これはあくまで俺一人の体だぜ。エイリアンにも妖怪にも乗っ取られちゃいない。お前はどこから来たんだ? それもいきなり」
「俺は最初からいたさ。俺たちが生まれた時からね。いや、むしろ、俺たちの人生は、俺によるところが大きいんじゃないかな? 兄弟」
「どういう意味だ?」
「俺は俺たちの中にある、スリルと冒険を求める心さ。俺たちが探偵になったのだって、それを求めてたからじゃないのかい? このまま尻を向けて逃げ出したら、あの、クソつまらない日常にカムバックすることになるんだぜ? いいのか? 兄弟。それに」もう一人の俺はにんまり笑った。「あの蠅と意識を交換する力、あれも俺のおかげなんだぜ。自由を求める心、それがあの力を俺たちにもたらしたのさ」
「クソッ!」と俺。「小狡いやつめ。あの力はこちらにも入用だ・・・・・・しかたない、イニシアチブはそっちにやるよ・・・・・・好きにしな、でも命だけは大切にしろよ、お前一人のもんじゃない、俺のものでもあるんだからな」
「さすが兄弟! 話が分かるね。じゃあ、好きにさせてもらうよ。・・・・・・もっとも、命の保証はないけどな!」
「おい、まて!・・・・・・」
こうして「安定と安全を志向する俺」は「スリルと冒険を求める俺」に負け、当面の行動方針は固まった。俺は大家に軽く挨拶をした後アパートを颯爽と出た。俺の自我が分裂した直接の原因である、金庫の中にいくつもの袋で厳重に保護されていた、黒光りする拳銃と実弾のずっしりとした感触を懐に感じながら。
第九章 『ある会話』
「・・・・・・遅くなりました」
「いやいや、気にすることはない! 君も忙しいのだろう」
「ええ、まあ・・・・・・このご時世では、やはり・・・・・・」
「さあ、状況を教えてくれたまえ、まずは、そうだな、安木の様子はどうだね?」
「どうやら、Aの身に何があったのか、つかんだようで。さすがですな・・・・・・伊達に私立探偵を名乗っておらぬわけだ。それに、マネージャー君の家に行って、例のものを見つけました。これによってまた一歩、彼は真相に近づくこととなりましょう」
「けっこう、けっこう。どうやら、順調のようだな。して、天使どもは? あの禿げ頭の編集長と、よろしくやっているのかね?」
「はい。そのあたりは、ぬかりなく・・・・・・ご予想通り、お互いの知っている限りの話を、語り合っているようです・・・・・・まあ、せいぜい、Aという男についての理解が深まるといいですな! これで、我々の邪魔をする可能性のあるもの、みな何事かにかかずらっておることに・・・・・・すべて、計画通りです」
「まだ、時間のかかるゆえ、彼らに気づかれては困るのだ・・・・・・私の存在を。なんせ大仕事だからな・・・・・・しかしこれは千載一遇の機会、いや、考えもしなかったことだよ・・・・・・この私でも! こんな偶然を私に与えるとは、神がいるなら、よほど天邪鬼か、愚かに違いない・・・・・・」
「もはや神はあなた様でございます」
「つまらぬ世辞はよしたまえ、君! 私が神と呼ばれて喜ぶとでも?」
「申し訳ございません、ただ、もはやあなた様以上に強力な存在を私は知りません! なにせ、その充溢したあなたの力、それは言うまでもございませんが、あなたのその欠落までもがあなたの力たりえているのですから・・・・・・」
「そうだな、それはその通りだ! 私は失った、とてつもないものを! しかし同時に得たのだ、とてつもない力を、な! 奴が知らず知らずのうちにタブーを犯したことで、すべては良い方向へ狂いだしたのだ・・・・・・君の言う通り、私は充溢している。そして同時に、枯渇し続けるしかない運命なのだ・・・・・・ああ! 得れば得るほど足りず」
「やがて失われたものもやがてはあなた様の下へと還りましょう」
「その望みだけが私を動かしている。それには是非ともこの大事業を完遂せねばならぬ。あとは・・・・・・破壊だ。本質的な破壊への興味しかない」
「そのお言葉こそ我々を勇気づけるもの。同胞たちに聞かせてやりとう存じます」
「この心臓が動く限り、私は探し続ける、失われたものを。そして、破壊し続ける、この充溢した力で」
「素晴らしきお言葉」
「それにしても、最も恐ろしいのは宮田だ。あの男――何をしでかすかわからぬ。よく知っているがゆえに・・・・・・余計に恐ろしいのだ」
「しかし、今頃彼奴はあちら側」
「そうだ。すべてに気づいたときにはもう遅し――奴の力も意味をなさなくなる」
「すべてに気づいたとき・・・・・・この言葉はなかなか含蓄深いですな!」
「あちらでは、なにやら私に盾突こうとする動きがあるようだが、小賢しいことだ。叩き潰してくれる」
「お手を煩わせるまでも。我々が・・・・・・」
「まだこちらでやってもらいたいことがある。それに、もう代わりの使いは送った。お前は私の近くにおるのだ」
「御意のままに」
「うむ、では、また、この場所で」
「(頷いて)しかし、なぜにまた、このような場所で?」
「ここは私にとって墓であり、痛みの記憶であり、始まりなのだ」
「・・・・・・含蓄深きお言葉でございます。では、これで」
「うむ、さらに監視を続けるのだぞ。では、さらば・・・・・・高潔なる裏切り者達に幸運あれ!」
「去ったか。・・・・・・それにしても、有能な部下がいるのは心強い。そして私だけがこの茶番劇の全貌を知っている。私の勝利には疑いようがなく、邪魔な存在どもの敗北もまた疑いえない。すべては既に決定されている・・・・・・それだのに、なんだ、この胸騒ぎは? なにが私を不安にさせるのか? 私には希望しかなく、敵には絶望しかない。頭ではわかっている、だが、この心臓が、ひどく私を責めさいなむ・・・・・・まるで今は亡き友の霊がここに宿ったように。・・・・・・どうやら、まだこの茶番劇には波乱があるらしい・・・・・・それも一つや二つではなく、いくつもの波乱が。私が所詮、敵役にすぎぬのか、ただの脇役止まりか、それとも、主役となりうるのか・・・・・・是非とも見極めさせてもらおう」
第十章 『番外編:ノートからの抜粋2』
今や最も時代の要求すべきものは、誇張である。脅迫である。熱情である。嘘である。何故なら、これらは分裂を統率する最も壮大な音律であるからだ。何物よりも真実を高く捧げてはならない。時代は最早やあまり真実に食傷した。かくして、自然主義は苦き真実の過食のために、其尨大な姿を地に倒した。嘘ほど美味なものはなくなった。嘘を蹴落す存在から、もし文学が嘘を加護する守神となって現れたとき、かの大いなる酒神は世紀の祭殿に輝き出すであろう。嘘とは恐喝の声である。貧、富、男、女、四騎手の雑兵となって渦巻く人類からその毒牙を奪う叱咤である。愛である。かかる愛の爆発力は同じき理想の旗のもとに、最早や現実の実相を突破し蹂躙するであろう。最早懐疑と凝視と涕涙と懐古とは赦されぬであろう。その各自の熱情に従って、その美しき叡智と純情とに従って、もしも其爆発力の表現手段が分裂したとしたならば、それは明日の文学の祝福すべき一大文運であらねばならぬ。そうして、明日の文学は分裂するであろう。大いなる酒神は、かの愚な時計の振り子の如く終始末期を連続しつつ反動する文化を、美しく平和の歴史の殿堂に奉納するであろう。
――――横光利一『黙示のページ』
・個々人が何らかの器官の役目を担っていることはありえる。ただしその目的が明らかにされることはないだろうが・・・・・・。
不完全な沈黙のあと、怒涛の勢いで喋りだす。ダムの決壊。また沈黙。また決壊・・・・・・。
このように我々は言葉を学ぶ。幾度も、幾度も・・・・・・。暗がりの中で真っ新なノートに文字を刻み付けていく。
そう、比較することなどできやしないのだ、自分と、他人と、第三者とは。隣り合わせで生まれたくせに、事実、わかり合うことはできないだろう。己の背中や己の死顔を見れないように。
詩、である。コミュニケ―ションの唯一の道は。詩によって交歓すること、互いに。それが救いとは必ずしも言えないし、誤解も多いのだが、事実、それしかないのである。
個々人は何らかの詩でありうる、ということは、この世界にまだコミュニケーションの方法が残されていることを示している。精神とは詩のインクである。
病とは、この「詩」が足りなくなった時のことを言うのである。そのとき現実は音もなく溶けてゆく。自ら気づかぬまま悟性は変容し、縮小あるいは拡大してゆく。否、世界はその個人において終わるのである。
人はそれを自由であるとうそぶく。しかし自由への閃きは詩の論理によって展開してゆく。
詩の欠如によって自由になれるはずがない。
ゆめゆめ注意すべし。
文学に限っていえば、こんなものは何の役にも立たない。
だから、とことん役に立たない文学こそ文学である、ともいえる。同じく役立たずなら徹底的に役立たずの方が役割として合っている。
天上への上昇が何んであろう? 地底への冒険が何んであろう?
・・・・・・我々は何らの期待も文学に対してする必要がない。絶対に。
世界もまた観念の一種類である。言うまでもなく。
本物の世界は常に隠されている。
完全に認知された世界は破滅する。
精神の軌跡を記す為に、人間はあらゆる手段を講じる。あらゆる点から言ってそれを完璧に成すことは不可能に近いが、それでも人々は模索を続ける。その不可能性自身が何か大きな魅力であるかのように。善人が悪人になるように、徐々にその記す行為は手段から目的に変わってゆく。目的となった手段は本来の役割を忘却し、一個の精神の廃墟となるのである。だが世の中には変わった趣味の人もいて、その廃墟を眺めて感興にふけることもある。
言葉とは世界を規定し、また構成するものであるが、この言葉が多すぎる者は世界(万民の共通認識)から逸脱し、孤立する。これこそ『天才』と俗に表現されるものの正体である。よって彼らに近づく為にわれわれ凡人は今よりずっと多くの言葉を獲得しなければならない。これは必ずしも辞書の上の『コトバ』を意味しない。日常言語、肉体言語、宇宙言語、etc・・・・・・様々な形態の言葉を得ぬ限り、飛翔する(あるいは潜っていく)ことはできない。
孤独という観念とも言い難い観念をどうすればよいのか?
放っておくのも無理があるし、近づきすぎるのも危険である。
孤独が感じられない人が増えているという。人といることに慣れすぎたか、一人でいることに慣れ過ぎたかしたのだ。
思うに、我々はこの孤独という観念と『中立』を保って生存していかねばならないのではないだろうか? 孤独でなければ発見はなく、孤独でい続ければ共有はないのだから。傾向は徐々に形式となり、ついには構成となる。それを決して忘れてはならない。
大人たちは、「あの楽しかった幼き日々にはもう戻れない!」などとため息ついて悔みがちだが、子供たちはというと、この暮らす毎日はあわれだ、うたかただ、やがて消え去るのだということを随分了解しているし、知っているものだ。第一、過ごす時間に対する認識もなしに生きることなど、どうしてできよう?
何人も重力から逃げることはできない。だが、人は自意識というものを持っている。それは常に上へ上へと昇ってゆこうとする向上心・野心の根源のようなものだ。それによって、正しくはそれによる努力によって、人はこぶし一個分だけ宙に浮かぶことを許されている。これが生きること、ひいてはロマンへの意志である。
ところで重力はどこから来るのか? そのもののもつ質量からくるのだという。これが『器』というもので、苦労する者は器も大きい、という説は見事に立証されるのである。・・・・・・ただし器の大きい者は他人にかける圧も大きいから、そこのところを重々承知の上。
経験によって純粋が破壊されるならば、純粋などくだらぬ観念に過ぎない。正しくは理想との差異によって。
いくら浅はかな理想であろうと、その構成はしっかりしている。もちろんその精神の内にある間の話だが。表現せんと欲する途端にまとまりに欠けた理念となる。
多くの人は自覚的にせよ無自覚的にせよ真・善・美の三つの最高イデアを求めずにはおれず、またそうすることによって生存の意義を見出している。人が偽・悪・醜の三つの最低イデアを憎み、疎外するのは、これもまた生きる為に必要なことの一つであって、これらのイデアによって生存しているという辛い『現実』から逃れようと、必死に真・善・美の三つのイデアを求むるのである。どちらにせよ、これら基礎的なイデアは生存に必要な観念である。
我々はかかる観念過多の時代に、いかに生存を練ってゆけば良いのであろうか?
それにはまず目標となる観念の城を自ら構築すればいい。これは尺度を自分なりの真・善・美とした個人的な夢想物であって、何者にも侵されることのない、強固な城である。全てはイメージすることから始まる。汝、想像を愛せよ。これが精神活動の第一歩である。我々は我々のために、建設せねばならない。納得のいくまで、深く巧妙に考えねばならぬ。自分にとっての偽・悪・醜のアンバランスに誑かされぬよう注意し続けなくてはならない。Memoryいっぱいに考えつくさなければならぬ。なぜなら、我々の人生で考えられる以上に問題は複雑で、かつ微妙であるから。最初は下らない落書きから始めてみるとよい。やがてそれでは満足しきれずに、次々とアイデアが頭の中を駆け巡るようになるだろう(『愛』こそが至上のイデアだという人もいるが、今やそうではない。新しく造らなければならぬ)。
自己の本質とは竟には自己が決定するものである。これは全体的な傾向である。
――性悪説・性善説について
「人間を手懐ける」とは、一聴して響きに難があろうが、一体どういうことをいうか。
その方法といっても、なにも一生その者を鎖に縛りつけておけばよいわけではない。確かに、人を平気のヘーサで殺してなおかつ土手に埋めてしまうようなことをする輩もいる。そういった連中は鎖で縛りつけてやるのが一番であろう。しかし総ての人間がそんな行いをするわけでない。
戦の時など合法的に目的に駆られてしかたなく人をまるで畜生のようにのようにあつかわねばならぬ状況に置かれることはあり得る。普段、健康な者ほどそういった場合に残虐になる。
なにもすべて民を苦しめる為の政策ではなく、むしろ為政者の邪な思惑を制限、より適切な(より極端にいってしまえば言いがかりを避ける意味での)判断・判別を下す為の性悪説であろう。これとは対照的に性善説においては、自然に訪れる感情によって時局を左右し、人々の平穏な文化生活を営ませんとするものだが、必然的に社会的圧迫感が生じ(ストレスやヒステリー的なもの)、小規模であるが混乱は免れぬ。
健全な精神を復古させるという意味では、二論ともに同じいものである。韓非子の云った性悪説にはいささか理想的かつ美的な要素がある。対して孟子の云った性善説は、案外に鋭い人生批判と観察があって、実践もまたこれ難しい。この辺りの研究はいよいよますますもって深めらるるべきものであろう。
第四部 『大いなる歩み』 第一章 『ハムスターたちの誤解』
彼其道遠而険 又有江山 我無舟車 奈何
君無形倨 無留居 以為君車
君曰わく「彼は其の道遠くして、又江山有り。我れ舟車無し。奈何せん」と。
市南子曰わく「君、形倨すること無く、留居すること無く、以て君の車と為せ」と。
魯の君はいった。「あそこは道が遠いうえに、途中には大きな川や山がある。それなのに、わたしには舟や車がない。どうしたものだろうか」
市南子は答えた。「殿さまは尊大な態度をすて、位に執着することをやめなさるがよろしい。そのことが、りっぱな車になるでしょう」
――――荘子 山木篇
「・・・・・・それにしても、俺を退治する、だって? へっ! よくぞ言ってくれたな、神様よ! まったく、そこまで馬鹿にされちゃあ、こっちだって黙っちゃいられないってもんだ、なあ、そうじゃないか?」
そう毒づいたのは、奇妙に盛り上がった髪型に、とがった耳と鼻、鋭い眼、そしてすらりとした体格で、紳士の着るような(つまりこの場所のような荒れ地では違和感を覚えさせる)糊のきいたタキシード姿の男――宮田望その人だった。
こいつ、こんな顔してたっけ。神――そしてまたの名を小説家A――は再びそう考えた。最初に見たときと、随分印象が違うような。・・・・・・おかしい、俺が奴を創ったんだから、俺のイメージ通りの顔をしているはずだ。多少の誤差もなく、頭の中の像と瓜二つのはず・・・・・・なんだか、以前より、存在から発する威圧感のようなものが、増してきているような・・・・・・まさか、時間が経つごとに、どんどんその存在が現実味を帯びてくるとでもいうのか? その一方で、、この私の記憶はだんだんと薄れていく――まるでこの男に記憶を食われているかのようだ。・・・・・・もうこれ以上、記憶は失いたくない。今の俺にとって、記憶こそ最大の宝、時間こそ最大の敵なのだ・・・・・・。
「まあ、まずは久しぶりの再会を祝おうじゃないか、宮田。元気そうで何よりだよ。・・・・・・だって、そのほうが、懲らしめ甲斐があるってものだ。なあ、そうじゃないか?」神はそう言って挑発した。
「ふん、そうやって、俺を怒らせる気だな? 神よ! 残念ながら、その手は効かないぜ、俺にはな! いいかい、いつも俺が怒っているように見えるかもしれないが、それはそう見えるだけさ。実際、怒ってることなんざ、滅多にないからね! ただ、怒ったふりをするのが、楽しいのさ。それだけのことよ!」宮田はにやつきながら言った。
「なるほど、やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田」神は盥屋を真似て言った。「君ほどの天邪鬼は、ロシアかアフリカに一人か二人しかおるまいよ!」
「なんだって? ・・・・・・こいつは面白くないな。盥屋のことを思い出しちまったじゃないか」と宮田は苦々しげに言った。
「彼はどうしたんだ?」
「奴か? ・・・・・・俺の方から、一旦二手に分かれようと提案したのさ。なんせ、お前とは一度、サシで話したかったからな」
「では、この世界のどこかにいるのか?」
「ああ、そうだよ、ふん、どこでなにをしてるか――今頃、呑気に考え事でもしてるんだろう、それが奴の趣味だからな」
「まあ、なんにせよ、好都合だな。俺もお前と二人で話をしたかった。・・・・・・一言いいたかったんだ」神は大きく息を吐いて落ち着いてから、続けた。「言いたいのはこういうことだ、俺たちを追いかけるのはいい、勝手にしろ。だが、見境なく大暴れして、関係のない人々まで巻き込むのはやめるんだ。これはお前と盥屋、そして私だけの間の問題だ。あと、燃えた家の弁償はしてもらう」神は力強く、拳を握りしめながら言った。
しかし、宮田はぽかんと気の抜けた表情になり、呟いた。「なんのことだ?」
「説明しないとわからないのか? お前、自分のやっていることがわかってないのか?」
「違う、違う、、そうじゃない。まず、お前の言っていることの意味が、ちっともわからないね! お前を追いかけているというのは、確かにそうだ。例のものを返してもらうためにな。まあ、ちょっとくらい痛い目にあわせてやってもいいが・・・・・・だが、次がわからないな、俺が赤の他人に、どれだけ迷惑をかけた? なにをしたっていうんだ? まあ、この宮田さまも、いたずら心は大いに持ってるが、今はそれどころじゃない、そうじゃなけりゃあ、こんな訳のわからないところまであんたを追いかけたりはしませんぜ!」
今度は神がぽかんとする番だった。「例のもの? なんのことだ?」
宮田の顔が少し蒼ざめた。「冗談はよした方がいい、そのことについては俺も真面目になるしかないからな! これは多分、本能的なものなのさ」
「いや、いや、本当に、心当たりがない。お前からは、煙草一本、受け取ってないぞ」神はなだめるように、ゆっくりと静かに言った。
「そはまことか?」宮田は眼を細めて、なぜかお公家さんのような口調で言った。だがその道化っぷりとは裏腹に、全身がわなわなと震えている。
「まことだ」
「ふざけるな! じゃあ、いったい、誰が盗んだっていうんだ? 他に俺の住処の場所を知ってるやつがいるかよ? お前さん以外に、誰がいるっていうんだ?」宮田の感情は爆発した。これが彼の怒りだった。彼は自分の思っている以上に怒りやすかったのである。
「なにが盗まれたっていうんだ?」神は眉をひそめて訊ねた。
「へっ! とぼけるのもいい加減にしやがれ! お前は俺以上の悪漢だな、まったく! いいか、お前は、俺の命の次に大切な、いや、命に等しい、いや、命以上の価値を持つ、あの砂時計を盗んだんだよ! 覚えてないとは言わせんぞ、盗人が!」
「あの砂時計が盗まれたのか? ・・・・・・そうか、あの砂時計が・・・・・・宮田、それはいつのことだ?」
「・・・・・・俺たちが挨拶から帰ると、部屋が荒らされていた。ひどいもんだった・・・・・・だがそれはいい。よくないのは、砂時計がどこにもないということさ。鍵は閉めてあったはずなんだがね!」
「それなら、やはり俺にはどうやっても無理な話じゃないか? 考えてもみろ、あの後、俺が君たちの先回りをして、正確な場所を知りもしない住居に忍び込んで、なおかつ何らかの方法で扉の鍵を開けて、短時間のうちに部屋を荒らしまわって、砂時計を盗む・・・・・・こんなことをする理由、技術、時間、すべてが俺には無かった! 俺はあのあと、パソコンに向かってちょっとした作業をしてたんだからな・・・・・・なにをしてたか、君に言う義理はないが。もっとも、そのパソコンも、お前たちによって家ごと燃やされてしまったがね! 証拠隠滅って奴か? それとも、見せしめか? なんにせよ、弁償はしてもらう。何年かかろうとも・・・・・・」
「まて、まて、わかった、あんたがやったんじゃないってことはな。そんな荒業、確かにどう考えても、不可能だ。たとえ神にでもな・・・・・・あとな、あんたの立派なマイホームのことだが・・・・・・俺たちがやったんじゃない。そこを勘違いされると困るな!」
「なに? お前たちじゃない? なら誰が燃やしたんだ?」
「さっきまで、ここらを飛び回っていた奴の、仲間さ。ことによると、さっきのが張本人かもしれないが! 火の扱いには慣れてるみたいだったからな!」宮田はまたにやにやした表情になり、得意げに言った。
「・・・・・・すると、あの、天使みたいなやつがやったっていうのか?」
宮田は軽妙に頷いた。
神は呻った。「・・・・・・にわかに信じられないが、嘘だと言い切れもしないはなしだな、それは。だって、君みたいな悪魔的な男が、よりによって天使に罪をなすり付けるだなんて、出来過ぎてるし、滑稽だし、なにより、君はそういう男じゃない。露悪的だが、偽善的ではない。まあ、あまり評価できないがね・・・・・・とにかく、家の件については、保留だ。盥屋や、その天使とやらにも話を聞いてみなければ・・・・・・重要なのは、お互いの認識に、かなりのずれがあるということだ」
「認識、にんしき、ニンシキ! そう、それ、それなんですよ、神様!」宮田は嬉しそうに言った。「どうやら、俺たちは、お互いドツボにはまっていたらしいぜ。あるいは、誰かにはめられたのかもしれないが・・・・・・そんな奴には、盥屋特性のダイナマイトをお見舞いしてやりたいね! ・・・・・・まあ、自分で自分を騙していたにせよ、誰かに騙されていたにせよ、同じこと。つまりは、創造主と造物主、そろいもそろって大マヌケ! この世を創ったのは偽の神で、その子供達もすべて偽物だという考え方が巷にはあるが、まさに俺たちのことじゃないか? まったく、ばかばかしいよ」宮田は舌をペロリと出して、「一体、俺たちは車輪の中のハムスターさ!」
これには神もたまらず笑って、寂しい荒野に二人の哄笑が響いた。
第二章 『蟻の問答』
幼い頃、「無常の風が吹いて来ると人が死ぬ」と母は云つた。それから私は風が吹く度に無常の風ではないかと恐れ出した。私の家からは葬式が長い間出なかつた。それに、近頃になつて無常の風が私の家の中を吹き始めた。先づ、父が吹かれて死んだ。
――――横光利一『無常の風』
散々笑いあった後、神と宮田はそこらのちょうどいい高さの岩にそれぞれ腰を下ろして向かい合った。二人の間の距離は2mほどである。神は膝の上に手を置き、しっかりと前を見た。宮田は足を組み、右足のその黒い靴の裏を神に見せている。泥の下に砂や枯草が付着して、厚い層を成していた。胸の前で掌を水平に重ね、手相でも見ているような神妙な顔をしている。やがて指を昆虫の脚のように動かし、疲れのためか、安堵のためか、ほうとため息を一つついた。神はその様子になにとなく懐かしさを覚えた。
「さて、取っ組み合いでもしようと思っていたが、どうやらその必要もなくなったようだね? お互い、誤解は解けた。素晴らしいことだ! あるいは、馬鹿馬鹿しいことだ・・・・・・」宮田はうつむいたまま言った。
「そうだな。握手をする気にはなれないが、平手打ちをする気にもならない、そんな感じだ」神は宮田の燃えるような頭髪を眺めながら言った。
「同感だ!」宮田は顔をあげた。「俺たちはなにか、蟻んこに似ている。お互い餌を奪い合って、気づかぬうちに二匹とも蟻地獄に囚われてる蟻んこだ」指はまだもぞもぞと動いている。
「そうだな。なにか罠にかけられている。そんな気がするよ。大きな罠に!」
「まったく滑稽だな。神様と、自分のことを神だと思っている奴が、同時に同じ網に絡めとられるなんて!」宮田は少し笑った。
「おや、すると、君は本当に自分が神だと思っているのかい?」
「いや、盥屋のやつがそう言ったことが忘れられないまでさ。もっと正確に言えば、お前さんが書いたんだがね・・・・・・つまり、あんたがそう思ってるってことだろう?」
「どうかな。そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「神様、俺は、そういう答えは嫌いだね!」
「いや、私は、書いているとき、なにか、自分の意志で書いているような気がしないんだ。この身体を借りて、なにかが降りてくるような・・・・・・」
「いわゆる憑依型の書き手、ということかね? こいつはすごい! あんたは天才だよ」と宮田は冷やかした。
「まあ、そういう風にしか書けないからね。なんでも好きに解釈してくれ」
「ほうほう! つまり、俺も盥屋も『降りてきた』ってわけか・・・・・・どこから降りてきたものやら! ところで、じゃあ、しらふのお前さんはどう考えているのかな? 俺のことを」
「君のことを? ・・・・・・わからないな。少なくとも、今は」
「だから、そういうコンニャクみたいな答えは嫌いなんだってば!」
「そうだな・・・・・・実際こうして話してみると、君には何か、近しいものを感じる・・・・・・思ったより、ということだよ。たぶん、あの盥屋という男よりは、ずっと私たちは似ているんじゃないか?」
「続けてくれ」そう言う宮田は再びうつむいていたので、神に表情を読み取ることはできなかった。
「盥屋の指摘した、君は図太いということは私も同意するよ。君は『一本うどん』なみに図太かろう。だけど、君が自分を神だと思っているのかどうかは、わからないな。むしろ・・・・・・君はそう信じていないだろうけど、盥屋がそう信じているような気がするよ」
「盥屋が?」
「君が神であるというテーゼ、それは、君の無意識の確信というより、彼の無意識の願望なんじゃないかな。盥屋は君を神に祭り上げようとしている・・・・・・そんな気がする。その目的は残念ながら作者の私にもわからないけどね」
「この世界で、変な爺さんにあったんだが・・・・・・」宮田は唐突にあの荒地の老人について語りだした。彼と宮田の会話の内容や、彼の風貌を事細かに神に説明した。神は相槌をうちながら注意深くその話を聞いた。
「なるほど、興味深い話だ・・・・・・つまり、その老人も、盥屋には気をつけろと忠告したんだね?」神は宮田が鼻会い終わったあとしばらく考えて言った。
「いま、なんとなく思い出してね。まさか盥屋に話すわけにもいかないから、ここで吐き出したのさ」
「それで、君は盥屋をどう思っているのかい?」
「俺が?」
神は頷いた。
「・・・・・・奴はただの詭弁家さ。それ以上でも以下でもない」
「嘘だな。そういう答えは私も嫌いだ」
「ふん! こりゃあやられたな。まあ、正直に言って、兄弟、それも全然似ていない兄弟だな。同志! なにか奴と俺には目の見えない繋がりがあることは間違いないが、だからといって似たところは全然ないな」
あたりに冷たい風が吹いた。二人はそれに構わず会話を続ける。
「君たちは確かに兄弟だ。だけど本当の兄弟じゃない」
「だから、そういう答えは嫌いなんですがね・・・・・・」
「とにかく、今はそうとしか言えない。私はまだ彼としっかり話せていないから。しかし彼は・・・・・・なにか不思議な違和感があった・・・・・・君たちが私の家に挨拶してきたときの話だが・・・・・・やっぱり直接確かめてみないと・・・・・・なにしろあの時は驚いていたから」
宮田は笑った。「そうかい。それは結構、けっこう・・・・・・ところで」
「誰かに見られている感じがしないか?」
二人は辺りを見回した。広大無辺に感じられる荒野、人影はない・・・・・・しかし神もまた、誰かに見られているような気配を感じていた。
「私もそんな気がしていた。気のせいにしては気が合うね」
「どうする? 念のため、場所を変えるか? 歩きながらでも話すか?」
「・・・・・・いや。もう、疲れたよ。たとい移動したって、その『誰か』も、ついてくるだろうし・・・・・・それに、べつにだれが聞いてたって、構わないさ。そうだろう? だって、お互い、類推を述べ合ってるに過ぎないんだから。なにか、秘密の企みを計画してるわけじゃないんだし・・・・・・私たちはまだ『仲間』ではないだろう?」
「ほほう、なかなかどうして、あんたもけっこう、図太いな! まあ、それもそうだ。こんな話、だれが聞いてたってかまいやしない、そのとおり! 客観的にきけば、こんなに素っ頓狂な話もないものな。むしろ、誰かが聞いてくれていた方が、張り合いがあるってもんよ・・・・・・そうさ、俺たちはまだ『仲間』じゃない・・・・・・まったくのエネミー、ってわけでもないけどな。・・・・・・それじゃあ、まあ、得体の知れない聞き手のために、話に花を咲かせるとしようぜ!」
宮田はゲタゲタと笑って、ぽんと一つ、大きく手を叩いた。
それからしばらくの間、二人はとりとめのないことを語り合った。お互いのこれまでの経緯や、盥屋やマネージャー、荒地の老人など、今ここにいない人物について、それからこの奇妙な世界についてのことなどを。それにも飽きてしまうと、無言で枯れ草などをいじっていたが、どちらともなく岩に寝転がり(それほどの大きさのある岩だったのである)、そのまま深い眠りに落ちていった。両者とも、しばらくまともな睡眠をとれていなかったのである(宮田の場合、本当に睡眠が必要なのかは議論の余地があるが)。――――と、誰かが呟いた。そして再び冷たい風が吹いた。それから、八咫烏が飛び去った方向、遥か遠方から、もくもくと黒煙があがった。神は静かな寝息を立てて、宮田は大きないびきをかいて夢の中にいる。物言うものは誰もいない。
それからは辺りを沈黙が支配したのである。
第三章 『近きにありて遠き人・・・・・・』
靑天有月來幾時
我今停盃一問之
人攀明月不可得
月行卻與人相隨
青天 月有りて来のかた幾時ぞ
我 今 盃を停めて 一たび之に問わん
人 明月を攀じんとするも 得べからず
月行 却って人と相い随う
――――李白
宮田が目を覚ましたとき、あたりはすでに薄暗くなっていた。
彼は上半身だけ起こして、周りをきょろきょろ見回していたが、やがて何かに気づいたように岩の上に立ち上がった。そして大きく伸びをしてから、手足を念入りにストレッチし始めた。肩をぐるぐると回し、首を前後左右に振った後、満足したような表情を浮かべ、岩からぴょんと飛び降りると、まだ向こうの岩の上ですやすやと寝ている神を見やった。
なにか大きな悩みがとれたような、安心しきった神の顔は宮田の初めて見るものだった。「今までは、驚いてたり、怒ってたりする顔ばっかり拝んできたからな!」と宮田は思った。「安心しきってらっしゃるぜ、神は! どうする宮田? このままこの幸せそうな寝顔を見守るか? ・・・・・・いやいや、おれはこいつの親じゃない、そんな気味の悪いことはすまい・・・・・・では、文字通りこいつの『寝首を掻く』とするかな? ・・・・・・といってもこいつは敵じゃないし、そんな卑劣な真似をしてまでも消したいほどの理由があるわけじゃなし・・・・・・ああ! じゃあ、ひょっとして、あれかな? ここに寝てらっしゃる神様の起きるのを待って、起きたら、一緒に仲良く、このわけのわからない世界を歩いていくしかないのか? それだけは勘弁だ! ・・・・・・この男といたら、俺の『自由』ってやつは一体どうなっちまうんだ? なんせ、俺を創った存在なんだぞ? いろいろと厄介だし、なにより恐ろしいったらありゃしない! 俺のことを俺よりも知っていて、俺よりもそれを勝手にできる存在なんてな! うん、こりゃあ、まずいことになったかな? どうする宮田? ・・・・・・おや? あれはなんだ?」
あれこれ考えながら視線をあちこちに巡らせていた宮田の目に留まったのは、彼から50m程の距離に立っている人影だった。どうやら宮田と似た背格好の人物のようだ。宮田はいくら人間離れした能力を持っているとはいえ、その人物の詳しい様子までは視認できなかったが、なぜか彼は微笑しているような気がした。
「誰だ?」と宮田は呟いた。当然むこうに聞こえるはずもなく、また聞こえたとしても無視されたのだろう、その人影は踵を返してすたすたと歩きだした。薄暗さが邪魔をして、このままでは見失ってしまいそうだった。
「待て・・・・・・」宮田はまた呟いて、思わず人影を追い始めていた。この荒野に人とは、それだけで怪しいものだが、彼はなにかもっと切実な感情、ありえないことだが、懐かしさに胸を襲われて、その人物を追い始めたのである。もちろん、一度、神のことをちらと振り返った。「こいつはどうする? ・・・・・・・まあ、猛獣すらいないようなところだし、一人でも大丈夫だろう、おそらく! それに、こいつと仲良く歩いていくのだけは嫌だと、今の今まで考えていたことじゃないか? こりゃあいいチャンスだ・・・・・・じゃあな、あばよ神様! また会おうぜ!」と心の中で別れを告げて。
宮田は人影と一定の距離を保ちつつ、荒野を歩き続けた。この世界は時間の経過が遅いらしく、長いこと同じ薄暗い空間の中を追い続けた。なにか懐かしい感じがするのは確かだったのだが、一気に近くまで走り寄って、「よう、久しぶり!」と挨拶をかわしつつその顔をみる、というところまでいくのは、なにか躊躇われた。今追っている人物の顔を見ることが躊躇われるとは、いかにも滑稽だが、しかしその躊躇いは恐れにも似ていた。「ああ、まったく、忌々しい! なんでこの宮田さまが怖がらなきゃならないんだ? そんな相手はこの世にいるのか? ・・・・・・まあ、けっこういてもおかしくはないか・・・・・・なんせ、この世は魑魅魍魎!」彼はそう考えて一人微笑した。
と、突然、人影が消えた。
宮田は慌てて消えた場所まで駆けた。地面に、ぽっかりと大きな穴が開いている。「やれやれ、また穴か! ここに落ちたのかな? 案外、間抜けな奴だな・・・・・・いや、これは罠か? ・・・・・・この世界まで来たのも、いってみれば、罠にはまったようなものだし・・・・・・まあ、もう一度罠にはまってみるのもいいか!」と宮田は穴に飛び込んだ。
しばらく、あの自分の感覚があいまいになる、不快な感覚。自分が徐々に細かく分解されてゆくような・・・・・・。相当深い穴だな、こりゃあ着地が難しそうだ・・・・・・。
しかし着地は楽にできた。宮田の体は重さを全く感じさせなかった。そして、降り立ったのは先ほどまでと同じ荒野だった。正確に言えば、先ほどまでの荒野と同じ要素を持っていた。もっと正確に言えば、世界はすべて3Dポリゴン化された図形空間だった。
宮田は自分の凸凹した手を、胸を、足を見た。四角三角丸、様々な大きさの図形が簡単に組み合わさって巧妙に彼の体を構成している。色のグラデーションも粗くなっていた。あたりの枯草も、薄暗い空に浮かぶ雲もみな、図形化されている。「初期のプレステだな、こりゃ!」と宮田は悪態をついた。
例の人影は、やはり50m先にあった。彼もまた、幾何学的図形化している。そのためその風貌は余計にわかりにくくなった。
「こりゃあただ事じゃなくなってきたぞ」宮田の頭を思考が巡る。「一体どうなってる? 世界が一回りグレードダウンしたみたいだ。・・・・・・あいつに聞いてみるしかないな」
宮田は走り出した。人影も走り出した。宮田の追いかけるのと同じ速さで。「待て! おい! これは一体どうなってる?」宮田が叫ぶ。
また人影が消えた。
そこにはやはり穴があった。その形は、先ほどより多少凸凹していたが・・・・・・「またか!」宮田はかまわず飛び込んだ。
また単純になってゆく自分という感覚・・・・・・。
そこはすべてが無数の細かな色をもった点によって構成された世界だった。精緻な点描によって世界は先ほどまでより美しく表現されていたが、「つまりはファミコンの世界ってやつだ。また一回りグレードダウン! ああ! はたしてもとに戻れるんだろうか?」
しかし、宮田にははるか遠いその人を追いかけるより道がなかった。ポップな絵画風にアレンジされた宮田とその人はひたすらに今までと同じ荒野を、しかし違う世界を追いかけ、追われていた。
また消えるその人。そこには穴が。宮田は飛び込む。単純化する世界。そして追いかける。また消える。そこに穴。飛び込む。単純化。追いかける。消える。穴。飛ぶ。単純。追う・・・・・・。
何度目のグレードダウンだろう? 世界はもはや、二次元空間における黒い点で表現されていた。宮田は点だった。その人も点だった。枯草も、雲も、風も、光も、何もかもが点だった。天なる点にはふわふわと点が浮かび、点にそよぐ点の中、点が点を追いかけていた。
「・・・・・・」宮田は点語でなにかを呟いた。
「・・・・・・!」そしてなにか叫んだ。
「・・・・・・」これは追われているその人のセリフ。もっとも、最初からなにも喋ってはいなかったが。
突然、前を走っていた点がぴたりと止まった。今度は消えはしなかった。もう一つの点は間もなく追いついた。二つの点は向かい合った。
「・・・・・・!」
「・・・・・・」
「・・・・・・? ・・・・・・!」
「・・・・・・。・・・・・・」
「・・・・・・! ・・・・・・」
「・・・・・・」
「!」
「・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
それからは沈黙が点世界を支配したのである。
第四章 『百鬼夜行』
黒雲圧城城欲摧
甲光向月金鱗開
黒雲は城を圧して城は摧けんと欲し
甲光は月に向かいて金鱗開く
――――李賀
一陣の冷たい風が頬をなでた。神は長い眠りから目覚めた。目をこすり、大きなあくびをした後、軽く伸びをする。
辺りはすっかり暗くなっていた。《ああ! なんだか昼夜が逆転してしまったみたいだな》神は独り考えた。独り?・・・・・・そういえば、ついさっきまで話していたあの男、宮田の姿はどこにも見えない。《宮田・・・・・・奴はどこだ? ひょっとして、どこかへ逃げたのか?・・・・・・しかし、なぜ? 別に、一緒にいたいわけじゃないが、だからといって、一人にしておくと何をしでかすかわからない・・・・・・といっても、探す当てなんてどこにもない・・・・・・まったく! やれやれだな》と、大きなため息を吐く。
とにもかくにも、寝ているあいだに、なにかが起こった、それだけは疑いようがない。神は疲れた体を無理に使い、よろよろと岩の上に立って辺りを見回した。
《なんといっても暗いな》
月明りも何もない、まったくの暗闇である。これでは宮田を探しに、あるいはこの世界をさらに探索しに動こうにも動けない。はたしてどのような気候なのか、気温は暑くも寒くもないのをさいわいに、彼は再び岩の上に横になった。ばたりと倒れこんだと言った方が正しいかもしれない。なにせ、この世界でのたび重なる奇妙な冒険の疲れが、まだ完全に癒えたわけではなかったのである。彼はそのまますぐにまどろみはじめた。自然と、頭の中に、とりとめのない想念が広がってゆく。なすすべもなく、そこに身をゆだねる・・・・・・。
ああ、疲れている。いま、自分は疲れている・・・・・・もっとも、疲労が苦痛を与えるのではない。疲労した身体にさらに鞭打つ痛みこそが苦痛なのだ(そこでは時間はただただ冷酷な拷問者の役目を担っているのだ)。・・・・・・むしろ疲労自体は、宿主を安らかな眠りに誘う、効き目のいい、安価な薬なのだ・・・・・・。
休息を許された全身の、張りつめた氷のような神経が溶けてゆき、徐々にその五感が、自らにはあずかり知ることのできぬ、巨大な、しかし無数に微細に分かれたなにものかの感触のない手にゆっくりとゆだねられていく、あの感覚・・・・・・。実感としての世界の全てが曖昧になり、同時に、今度はいままで観念として感じていた、自分と関係ある・もしくは関係のない、遠い過去やら、未来やら、あるいは平行した現在いまの世界の全感覚が、逃れようもなく明確に蘇ってくるあの起点と終点の重なる時・・・・・・。
まるで心中ひそかに秘めた感情の束のようなそれを、誰もが多かれ少なかれその生の根底に受け持っているのにもかかわらず、けっして見ることができず、知ることもできず、感じることすらできないもの・・・・・・あの『死』に近しいものとしてとらえるのは大きな誤りだろうかと、よく彼は考える。
だが毎回のように彼の問いには答えが出ない。なぜなら、まるでその問い自体が禁忌であると誰かが決めたかのように、とりとめない想念のなか、答えを見出すその前に、極めて速やかに、あの優しい「疲労」が彼をいくつもの可能性の裏側へ送ってしまうから・・・・・・。
そして神は夢を観た。大きな鳥になって、大空を飛んでいる夢・・・・・・。
夢にしても、ありきたりな夢だな! 子供の観そうな夢だ・・・・・・。と彼は飛びながら思った。なぜだか、これは夢である、という自覚がはっきりとあった。また、この夢が誰かの現実であるという予感もあった。つまり、誰かの視点を夢を通して自分も見ている。・・・・・・あるいは、見せられている?
荒地の向こうに、巨大な街があった。夢の特権だろうか、街にあるものすべてが手に取るように観えた。中心あたりの建物から、もくもくと黒煙が上がっている。鳥はそこへ向かって飛んでいるようだった。
しかし神の注意はそこにはなかった。街の外れの方、薄暗い裏路地を、二人の男が並んで歩いている。両方とも知った顔だった。そのうち一方は、最近までともに行動していたほどだ・・・・・・神は鳥から離れて、二人のところへ降りていきたかった。しかし鳥と彼の意識は一体となっていた。
「おおい! きみ! その男といったい何を話してるんだ?」神は叫んだ。
・・・・・・もちろん、その声は心の中で反響しただけだったが。
「この夢が覚めたら、必ずそこまで行くからな! きみを必ず見つけ出す! それまでの辛抱だ!」彼はなおも叫び続けた。
しかし、彼らの表情からして、その対話が険悪な雰囲気でないことには安心した。
遠くから何やら話し声が聞こえてきた。神は目を覚まし、耳をそばだてた。幾つもの足音や、幾人かの話し声がする。どうやら大人数の集団がこちらに向かってくるようだ。この世界の住人と会うのは、初めてだな・・・・・・どんな対応をすればいいのか? また、向こうはどんな態度を見せてくるのだろうか・・・・・・神は安堵と不安を同時に抱えたまま、身軽に岩の上に立って声の方向を見やった。
仄かな灯りが一つ、二つ、三つ・・・・・・少なくとも十はある。長い棒の先に取り付けられた灯りが、きちんと整列したままこちらに向かってくる。その様子は、神の眼には夢の中の出来事のように映った。身体の疲れは大分とれたものの、まだ頭の整理がついていない状態であった。
《ありゃあ、なんだ? さては・・・・・・狐の嫁入りかな?》神は寝起きの頭でぼんやりと思った。
灯りは徐々に近づいてくる。隊列者の姿もあきらかになってきた・・・・・・先頭にいるのは、はたして、年老いた狐だった。
「ほら、思った通り、やっぱり狐だ・・・・・・狐の嫁入りだ。あれが仲人か」隊列に指をさしながらそう独りごちて、神はのんきに笑った。
ところがよく見ると、その狐、二本足で歩くし、手には五本の指がある。おまけに赤茶けてはいるが立派なしつらえの甲冑を身にまとっている・・・・・・それは狐によく似た人間であった。このわずかな灯りの中ではなかなか見分けがつかないほど狐によく似た、まぎれもない、人だった。
さらに、その狐人間の後ろには、犬に似た、猫に似た、雀に似た、蝙蝠に似た、蛸に似た、蟋蟀に似た、・・・・・・まこと様々な動物に似た人々が、列をなして歩んでいるのだった。
《おや、これじゃあ、狐の嫁入りじゃなくて、百鬼夜行だな。彼らはなんだ? 人か? 獣か? 鳥か? 魚か? 虫か? いやいや、これはまいったな》
神は奇妙な隊列を細い眼でいぶかしげに見やりながら、ぽりぽりと呑気に頭を掻いた。
「・・・・・・おお、いたぞ! あそこにおる! ・・・・・・臭う、臭うぞ、異邦人の臭いじゃ! あれなるが市長の探し求めておられる青年、『まねーじゃー』殿に違いない! とうとう見つけたぞ! おそらく、彼が此度の一連の混乱について詳しく知っておるはず! よし、では、皆の衆、吾輩についてまいれ!」と例の先頭の狐が叫ぶのが聞こえた。神にはその叫んでいる意味はよく理解できなかったが、自分のことをマネージャー君と間違えていることだけはなんとかわかった。
隊列は行進速度を速めて一直線に神の方に向かってくる。彼らはどうやら訓練された集団のようである。敵意をむき出しにして来るわけではないが、そこまで友好的な様子にも見えない・・・・・・おそらく、長く面倒くさい尋問が待っていよう。神としては、見つかってしまった以上、もはやすたこらと逃げるわけにもいかず、どうしようもなく、ただ岩の上に立って、一行がやってくるのを待つしかなかった。
第五章 『小部屋での駆け引き』
「少し歩こうか」と盥屋が言った。「ああ、しかし、大声は出さないでくれたまえよ。人の注目を浴びると、少し面倒だから」
マネージャーが頷いてそれを了承し、二人は人気の少ない路地をゆっくりと歩きだした。
しばらくの沈黙。不意に、遠くで鐘が鳴りだした。
「なんだろう?」マネージャーが振り返ろうとすると、
「気にするな。この世界で起こることなど、どうでもいいことさ・・・・・・この、歪んだ鏡に映った虚像のような世界で、注目すべき何が起ころうというのかね?」と盥屋がそれを制した。
薄暗く、薄汚い路地である。何者が潜んでいるかわからない建物が並ぶあいだを、二人は歩んだ。そのうちに並びもまばらになり、やがて目の前に現れたのは、なだらかに弧を描く石造りの入り口を持つ、辺りのドブから汚水が流れ込む、腐臭ただよう洞窟だった。
「ここを降りよう・・・・・・心地よい、かぐわしい香りがする」盥屋が降りよう、といったのは、その洞窟が奥にいくにつれて徐々に下っていく構造になっているのがうかがえたからである。
「ここをですか? なにが居るかわかったもんじゃありませんよ。それにひどい臭いだ・・・・・・」マネージャーは中指と親指で鼻をつまむしぐさを見せた。
「相手が誰だろうと、どこの馬の骨かわからない我々のほうが、怖がられるとおもうがね。それに、あまり話を聞かれたくない・・・・・・第三者に」盥屋は洞窟の入り口のアーチを見上げながら言った。
「わかりました、わかりましたよ! ここまで来たんだ、もうやけです」マネージャーはぶっきらぼうに呟いて思った、僕に自由はないのだろうか?
しばらくして、彼らはじめじめしたある小部屋にいた。机が一つ、椅子が数脚、壁際には中にわらをつめた革袋が積んであった。盥屋は粗末な椅子にゆったりと座り、マネージャーは革袋の上に落ち着かない様子で腰を下ろしていた。革袋の方が入り口に近いのである。この部屋の中では、いやな臭いはあまり感じられない。
「ちょうどいい部屋が見つかって良かったね」
「いったい、何に使う部屋なんだろう?」
「誰かが管理のためにここをつかうことがあるのではないかな」
「管理? なんのです?」
「わからないが、水質検査でもするのではないかな」
マネージャーは盥屋が適当に自分をからかっているのに気づき、それ以上質問するのをやめた。
しばしの沈黙。やがて盥屋が口を開いた。
「そうだな・・・・・・君にはいろいろと聞きたいことがあるが・・・・・・そちらもいろいろ聞きたいことがあるだろう、まずは私が質問に答えよう・・・・・・なにか私に聞きたいことはあるかな?」
マネージャーは少し間をおき、やがて呟いた。「質問ですか? ・・・・・・なんでも?」
「もちろん」
「どうして僕たちをつけ狙うんです? それになぜあちこちで乱暴狼藉をはたらいているんですか? ・・・・・・・それが本当だとしたら、ですが」マネージャーは恐る恐る訊ねた。
盥屋はしばらく机の表面の木目を見つめていたが、やがて青年の方を向きこの上もなくやさしい声で囁くには、
「私たちの間には大きな誤解がある。大きな断絶が、大きな矛盾が。・・・・・・しかしどちらか一方が誤っている、どちらか一方が悪いなどという認識は、それこそ危険なものではなかろうか? いや、言ってしまおう、そんなものは猫の額ほどの価値もない、聡明な私たち二人の間に横たわる隙などありはしない。マネージャー君(そう呼ばせてもらうよ)、どうかその質問を君から引き出してしまった私の過失を許してほしい。愚かなのは君ではなく、私の方なのだ・・・・・・もっと愚かしいのは、この状況だ。信じてもらえないかもしれないが、私はこう見えて、半分、もしくはそれ以上、人間ではないのだ・・・・・・私や、私の相棒の宮田は、君の担当しているあの『先生』の作り出した、虚構に過ぎないのだ。・・・・・・わかってもらえるかね? それとも私の気が狂っていると思うかね?」そして蜘蛛の脚のように細く長い両の手の指を虚空にざわめかせた。
「いえ、信じがたいことですが、信じます。先生とあなた、二人が同時に、それも同じ狂い方をしているなんてもっと信じがたいことですから」青年は断言した。
「君ならそう言ってくれると」盥屋は両の手を組み合わせて祈るような格好になり、「信じていたよ!」
「でも、あなたの言い方だと、僕はもうこれ以上の質問をしづらいですね」
「それは、私のことを悪い悪魔だと思っているということかい?」
「それはまた答えづらい質問ですね」マネージャーは苦笑いした。
「君はなんて賢いんだろう! でも私は悪いことを実際にする類の悪者ではないよ、まあ、誰も人の頭の中はのぞけないがね!」
「頭の中で考えた悪事を、宮田という人にやらせているのですか?」
「もしそうだとして、それは別に卑劣なことだと思わないが、残念ながら、違う。宮田は案外に見どころのあるやつでね! 駒にして使うような類の男ではない! おかげさまで、代わりに動く手足を持たない私はただの妄想者さ!」
「・・・・・・僕は現実に戻りたいだけなんです。あなた方が何者であろうが、何を考えていようが、関係ないことです。でも、・・・・・・」そこで、マネージャーはぷっとふきだした。「盥屋さん、あなたのおっしゃる通り、これはおかしな状況ですね! だって、ここにいるのは僕たち二人だけで、肝心の二人はどこかに行ってしまったんですよ? 先生と、宮田という人は。いったい、僕たち二人で、なにを話せばいいんです? ・・・・・・少し話しただけでわかりました、僕たちに興味があって、用があるのは、宮田って人の方ですね?」
「なぜそう思う?」盥屋は木目をまじまじと見つめている。
「あなたがまったく僕に関心がないのがわかるからですよ!」
「いや、そんなことは無いのではないかな?」
「なら、僕を人質にして先生を脅す気ですか?」
「脅す? そんな予定はないよ。・・・・・・」そこで今度は盥屋が微笑して、「今のところはね。だけど君は面白い。・・・・・・思った以上に面白いじゃないか? これほど私に面白いと思わせるということは、さては・・・・・・君はなにか大きな秘密をもっているね? そうに違いない」
「秘密? なんのことです?」青年は汚い壁に寄り掛かった。
「君さえ気づいていない秘密が君にはあるんだよ。おそらく、ほとんど荒唐無稽な・・・・・・すべて秘密とは荒唐無稽なものに他ならぬ、と言えばそれまでだが。・・・・・・それよりも、君は先生のことををどう思っているのかね?」盥屋はマネージャーの方を見て訊ねた。
「先生のことを? どういう意味です?」
「そのままの意味さ。あれはどういう人間だと思う?」
「答えにづらいことばかり聞きますね!」青年はやるせなく笑った。「二重に答えづらいことはわかっていただけますか? 第一に、先生という人がなにかこう、とらえどころのない人だし、なによりあなたにそれを答える必要があるのかどうか・・・・・・・」
「『悪魔に人の悪口をしゃべるなかれ』かい?」盥屋は朗らかに笑った。「それでは、先生の悪口を言う気なのかい?」
「誰もそんなことは」マネージャーはつばを飲み込んで続ける、「言っていません。でも、あなたを信用しようにも、あなたが信用して欲しいとこれっぽっちも思っちゃいないんだから、どだい無理な話です。そうじゃないですか、盥屋さん?」
「まったくそうとも言える!」悪魔は小さく拍手した。「では、こうしよう、私が宮田という男のことを話すから、君も先生について少し・・・・・・どうかな、悪い暇つぶしではないだろう?」
青年は部屋から出ていこうかと思った。しかし盥屋はいまやこちらを見つめていた。それが酷薄な、殺気にあふれた目であったら彼は実際にこのような茶番から退散したに違いない――それがやさしく、慈悲にあふれた、それでいて、青年を通り越して遥か彼方にあるものを凝視する目でなかったら。
まだら牛の祭り
続きます。