酸素が足りない街で 第四章 音の洪水からたった一つの音を聞き分ける話
「古書光陰堂」は耳鼻科で言われた通り、街の西のはずれにあった。
夕日に照らされた店内はひっそりとしていて、本棚が所狭しと林立していた。どの棚にも題名もわからないほど変色し擦り切れた本が並んでいた。僕は試しに近くにあった本を手に取ってみた。埃が舞ってキラキラ光った。表紙には薄くなった字で『時間を巡る物語-「酸素が足りない街で」他4篇』と書いてあった。妙に心が惹かれたのでその本もついでに買うことにした。
店内は意外と広く、入り組んでいたので店主を探すのに時間がかかった。店主は店の一番奥のカウンターの向こうにいた。むさくるしい無精ひげを生やし、団子鼻に時代遅れの眼鏡を乗せ、ずっと動いていなかったのではないかと思うほど埃まみれの服を着ていた。
「すみません」
僕が声をかけると「あぁい?」と無愛想な返事をした。
「光陰の書を読みたいんですが」
そう言った途端、店内に音があふれた。最初は何の音かわからなかったが、耳が慣れてきて、たくさんの時計の音だと気づいた。振り返ると古本の棚は全部消えて、形も大きさも年代も様々な時計が壁にも床にもびっしりと展示されていた。一つ一つに値札がついていた。
「勝手に見な」
店主はそう言ったが、あまりにもたくさんありすぎてどこから見たらいいのかわからなかった。
僕はとりあえず一番安そうな時計を手に取り、「これください」と言った。
「おっと、それを売るわけにはいかねえよ」
「どうしてですか?」
「そいつには中毒性があるからさ。それを一度やるとどんどん時計を欲しがって、しまいにゃ自分が時計になっちまう」
「どうしてそんな危ないものを売っているんですか?」
「いけすかねえ奴に売るためさ」
「いけすかない奴ってどんな奴ですか?」
「俺みたいな奴さ」それだけ言って黙ってしまった。
僕はふと耳をすませた。店内は時計のチクタク言う音で満ちていたが、その中になぜか他と違って聞こえる音があった。しかし店内を見回してもそのような音を立てそうな時計はなかった。僕はカウンターの横のカーテンで隠された区画に目を向けた。僕はつかつかとそこに歩み寄り、さっとカーテンを開けた。安楽椅子に17、8の少女が座ったまま俯いて眠っていた。椅子は規則正しく揺れていた。安らかな寝息の代わりに聞こえてきたのは例のチクタク音であった。少女は赤いポンチョを着ていて、まっすぐな黒い髪はそれを切りそろえた刃物の鋭さを物語っていた。肌は陶器のように白かった。いや、下手をすると本当に陶器かもしれない。首筋に文字盤が埋め込まれていた。僕はゾッとした。
「この子が、あなたに似てますか?」
「似てるよ。そっくりだ」
「どこが?」
「俺の娘だからだ」彼はそのまま泣き出した。大粒の涙が無精ひげを濡らした。僕は店主の前に駆け寄ると跪いた。
「お父さん!」僕が呼んでも彼はまだ泣いていた。
「お父さん!」彼はこちらを見た。
「お父さん!お嬢さんを僕にください!必ず幸せにします!」僕は床に手をついて頭を下げた。
「顔を上げてください」彼は震える声でようやくそう言った。顔を上げると目の前に彼のひげ面があった。彼が口をあけるとやにだらけの前歯がドアみたいに大きく見えた。
「ふつつかな娘ですが、よろしくお願いします」彼はひどい口臭とともにその言葉を吐き出した。僕らは抱き合って泣いた。
僕はマネキンのようにカチコチになっている少女を抱き上げると、店主が押さえてくれているドアを通って外へ出た。外はもう暗かった。
「時間のない世界に行けば、時計は時を刻むことをやめて自由になれる」店主はすれ違いざまにそう言った。
酸素が足りない街で 第四章 音の洪水からたった一つの音を聞き分ける話
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