酸素が足りない街で 第三章 空気マンボウを殴る話

僕はむしゃくしゃしながら家に帰った。玄関を開けると、飼っている空気マンボウが間抜けな顔で浮かんでいた。酸素が足りないかのように口をパクパクさせているのが何とも間抜けで、僕は急にそいつを殴りたくなった。殴った。しかし、拳が触れるか触れないかのうちにそいつは拳の風圧に流されていってしまい、まるで手ごたえがない。何度も殴り、とうとう壁際まで追い詰めたとき、もう一度殴れば、今度は逃げ場がないからこいつを殺せるのだと思った。僕は空気マンボウを力いっぱい殴る。壁と拳の間に挟まれてバチッと空気マンボウの浮き袋がはじける音がする。冷たい体液が滲み出し、僕の拳を濡らす。そこまで考えて、僕は空気マンボウを殴るのをやめた。
僕は空気が抜けたように万年床に横たわった。大の字になっている僕の胸に空気マンボウが降りてくる。僕はいつものようにそいつを抱きしめた。
「不思議な奴だな、お前も」
さっきまでは殺されそうになっていたのに、今は信頼しきっている。
このまま飼いつづけていたら、またさっきみたいに、殴りたくなってしまうかもしれない。その時こそ殺してしまうかもしれない。そんな考えが、何周も何周も頭の中をぐるぐる回った。ついに耐え切れなくなり、僕は立ち上がって窓を開けた。僕がこれまでに何度も飛び降りようと思った6階の窓を。
「さあ、逃げてくれ」
空気マンボウは動かなかった。僕は空気マンボウを後ろからそっと押して窓から出そうとした。しかし空気マンボウは足でも生えたかのように動かなかった。僕はあきらめてまた寝そべった。
多分、さっき殺してしまっていたとしても、僕はちょっと掃除がめんどくさいだけで、涙を流すこともなく、何事もなく過ごしてしまうのだろう。大切なものをなくしても、意外とやり過ごせるものだ。大丈夫、大丈夫、と思って手放し続けるうちに、いつか取り返しのつかないことになるのだろう。

酸素が足りない街で 第三章 空気マンボウを殴る話

続き→第四章 音の洪水からたった一つの音を聞き分ける話http://slib.net/70617

酸素が足りない街で 第三章 空気マンボウを殴る話

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-10

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