死行列車

咲良カノン

ゆっくりと、ゆっくりと、夢の中に落ちる。


彼女の思い描いた世界がそこに見える。

希望だけが、そこに、あるはずだった。


規則的に耳に入る、錆びた鉄に擦れる車輪の音。
意識を取り戻したようにゆっくりと瞼を開いていくと、無数の人間が視界に立ちはだかる。
そこにいる人間は誰一人として彼女の事を知ることはなかった。
それが心地良いようで、同時に居心地の悪さも感じていた。

通勤電車だ。仕事帰りのサラリーマン達が狭い空間を圧迫している。
座席の壁にもたれかかりながら、夢と現実の狭間で、ただ静かにそれを見つめていた。
景色は灰色だった。地下を走るその鉄の塊は、ただ暗い暗いトンネルを窓の外に映している。
輸送でもされているような気分だ。

彼女を蝕む仄暗い闇が、世界を灰色に変えていた。


「おはようございます」
感情の欠片も篭もらない小さな声が、周囲の人間の耳に入る。果たして入ったのだろうか。
数人が挨拶を返してくる。一応聞こえていたのだろう。彼女は黙って自分の席に座る。
次に言葉を発するのは夕刻であろう事は明白だった。
黙々と目の前に壁のように立ちはだかるモニターを見つめる。
ブラインドで閉ざされた大きな窓は、外界を映すことすら許さなかった。
その日がどんな天気だったのか、知るのはこの大きな檻から抜け出せるその時だ。
つまらない、と心の中で呟くと同時にため息が漏れる。
退屈だろうが楽しかろうが、この檻から出ることは許されない。それが社会だった。

彼女はこの空間に、社会に不満を感じていた。
皆が前ならえで周囲に合わせなくてはならない。どんな理不尽が起きようとも上の言う事はいつでも絶対だった。
それでいい、と言う仲間達に心の底から吐き気にも似た嫌悪感を抱いていた。
同時に、この閉鎖空間に馴染めない自分を心苦しく思っていた。
普通に生きていたら、このひと達のようにただレールの上を走るだけで良かったのに。
「このひと達とは一緒になりたくない」
触れてしまえばすぐに壊れてしまうようなくだらないプライドが彼女を蝕んだ。

思えば昔から周囲に馴染めないでいた。
それでも自分がおかしいのだと思ったことは一度もなかった。
気がつくのが遅すぎたぐらいだ。もっと早く気がついていれば、自分の道を歩めたのに。
そんなくだらない夢想をしながら無為に過ごした何年もを悔やんでいる。

『人生をやり直す方法』

デスクに置かれたスマートフォンを指先で弄りながら、検索にその言葉を入力する。
読んだところで無駄だと頭ではわかっているが、今の状況をどうしても変えたかったのだ。
やがてページを読み込み終えた画面が検索結果を写し出す。

―ヤリナオシマスカ?―

見たことのないポップアップがYESとNOのボタンを光らせている。
これを押したら私は、本当に人生をはじめからやり直せるのだろうか?
周囲が怪しまないよう首を小さく横に振った。そんなものがあるわけがない。
こんなスマートフォンの小さな画面に写されたボタン一つで人生が変わるなら、誰だってそうしているはずだ。
大体こんな極めてチープな、漫画や小説で見たようなものが存在するはずがない。ウイルスか何かだろう。
薄気味悪い画面を凝視したまま、小さく震える手でブラウザを閉じた。
元通り、いつもの私のスマートフォンだ。
安堵の息をつくと、仕事に戻った。

「具合悪そうだけど、大丈夫?」
手を止め、俯いていると頭上から不意に声をかけられた。彼女にとって先輩にあたる人物だった。
「大丈夫です。少し、疲れてるだけで」
「そう、ならいいけど」
愛想笑いをしながら怪訝そうな相手を見送り、心の中で小さく舌打ちをした。
構わないでくれ、どうせ、助けてくれないのなら。助からないのだから。

彼女の身体はすっかり病で満たされていた。
原因はわからない。内蔵も、心も、身体のすべてが病に冒されているのではないかと錯覚してしまうぐらいには、彼女の身体は健康ではなかった。
ここまで来ると原因を調べる気も起きないし、何より金がかかる。
自らの中に抱え込んだものから来る病なのだとしたら、余計に金銭を支払う事に抵抗を感じるのだ。
日に日に増えていく薬の量にもうんざりしている。こんなに沢山、一度に飲めるわけがない、と。
病で自由に動けない身体はいつしか自分の趣味すらも奪っていった。

「…今日は、ついてないな」
そう呟きながら、寄り道一つせずに家路についた。
空は暗雲が立ち込め、僅かに雨音を立てていたが、気にせずにそのまま歩んでいく。
「ただいま」
生活感の見当たらない部屋のドアを開けると、留守番をしていた猫が出迎える。
彼女が生きるたった一つの理由。それがこの猫だった。
真っ白い柔らかな毛をそっと撫でてやる。彼女にとっては暗闇を照らす太陽だ。
重たい荷物を質素なベッドに放り投げ、愛猫へと向き直る。この時間だけは、自分が生きている心地がした。
「リヒト」
リヒト――"光"と名付けられたその猫は機嫌よく鳴いていた。つられるように静かに微笑む。

彼女がこの世界からいなくなってしまおうと思ったのは数回ではない。
彼女は毎日息を吐くように「消えたい」と呪いにも似たその言葉を密かに口にしていた。
消えたかったのに、どうしてこの猫と共生して、自分が死ぬことを止めたのだろう。未だに不思議でならない。

食欲も消え失せ、味もしないのに空腹を訴える身体に仕方なく適当な食べ物を放り込む。
最早家事をする気力もなく、いつもインスタント食品で凌いでいた。
「リヒトが幸せに生きてくれたら、私はそれで幸せだからね」
猫に向かって声をかけるが、それは自分自身に言い聞かせる為の言葉だった。
この猫が居なくなった時こそが自分の終わりだと決めている。しかし猫の寿命は案外長く、後に肩を落とした。
「10年以上もあるじゃない…」
猫の寿命を幾度も確認しては、霧で覆われたように見えもしない未来を見つめ嘆いた。


『人生 ヲ ヤリナオシタイ ノ?』


不意に聞こえた知らない声に驚いて顔を上げ、部屋を見回す。自分と愛猫、それ以外には誰もいないし、いてはならない。
ゆっくりと視線を落とすと、猫が彼女を見つめ小さな口を開いた。
『人生 ヤリナオス?』
声の主は猫だった。いや――厳密にはそうではないはずだが、彼女に問いかけているのは猫だった。
「どうして?」
『イヤ ナンデショ? ゼンブ』
「…………」
首を横には振れなかったが、縦にも振れずそのまま彼女は硬直している。
『ラク ニ ナレルヨ』
甘い誘惑のような言葉は彼女の心臓をきつく締め付けた。

そうだ、嫌に決まってる。こんな人生。思い通りにならない人生。
ひとりぼっちで、みじめで、どこにいっても空気みたいな存在にしかならない人生。
あったはずの夢も、どこか遠くに捨ててしまった人生。

咄嗟にスマートフォンを手にする。昼間目にした画面が映し出されている。
――YESと、YES?
NOという選択肢が消えていた。目を瞬かせながらじっと画面を見つめる。
自身の指先が、誘われるようにボタンへと伸びていく。

はっと我に返る頃には、指先はボタンを押していた。


視界が白く眩い光で満たされていく。
それと同時に意識が段々と薄れていくのを感じた。

再び目を開けると、彼女は見知らぬ椅子に座り壁にもたれかかっていた。
ゴトンゴトンと揺れる音。聞き覚えがある。
―――電車?
目覚めるとぎゅうぎゅうに人が詰め込まれた電車の中にいた。
人々は一言も言葉を発する事なく、圧迫感に眉を顰めることもなく、黙って満員電車の中佇んでいる。
やっぱりあれは夢だったんだ。疲れていただけに違いない。

ひとつひとつの駅に止まると、車内の人々は少しずつ減っていった。
しかし、自分がいつも降りるはずの駅が一向に来ない。

慌てて車内を見渡すと、車内には彼女一人だけが残されていた。
窓の外には綺麗な緑の景色が広がっている。地下を抜けてしまったのだろうか。
「電車、間違えた?」
次の駅で降りようと決めた彼女は、車掌のアナウンスをじっと待った。
次第に外の景色がオレンジ色に染まっていく。刺さるような夕日が彼女を照らした。
ゴトンゴトンと錆びた鉄の揺れる音だけが静かに響き渡っている。

『わたし、将来は――になりたいんだ』
突如聞こえた声には聞き覚えがあった。…これは、自分の声だ。
目の前の窓がスクリーンになったようにうっすらと過去の自分が映し出されていた。
将来の夢を叶えるために頑張っている自分の姿だ。思わず視線を逸らす。
夢に向かって頑張った自分を捨てた自分自身をひどく後ろめたく感じてしまったのだ。
『有名に、なるからね』
そう言い残した過去の自分の姿は霧散していった。それを見て彼女はほっと胸を撫で下ろす。

『もっと現実を見なさい』
間髪入れずに聞こえてきたのは母親の声だった。
ずきりと心臓が痛むのを感じる。どうせこれも窓に映し出されるのだろうと彼女は咄嗟に視線を床に落とした。
するとそれを読んだかのように床に母親の姿が浮かび上がる。目を閉じることは許されず、彼女は強制的に過去の光景を見せつけられる羽目になった。
『安定した将来のほうが大事に決まっているでしょう』
『そんな専門学校じゃなくて、大学に行きなさい』
厳しく言いつける母親の横には、昔の自分が悲しげに俯きながら立っていた。
「いやだ……いやだ」
どうやら声を発することは許されていたらしい。ついでに耳も両手で覆ってやった。
聞きたくない、見たくない――気付けば床には、昔必死に集めた参考書が散らばっていた。

恐る恐る顔を上げると、向かい側の座席には今の自分が座っている。

『自分の意思を貫き通せばよかったのに』
『所詮はそこまでだったんだよね』
『醜態晒して生きてて楽しいの?』
『はやく死んじゃいなよ』

「やめて!!」
耳を塞いでもなお聞こえる自分の言葉に心を抉られていくような感覚を覚えた彼女は必死に叫んでいた。
"自分"は口元を歪ませながらくすくすと肩を揺らして笑っている、ようだった。
「私には夢なんか、ない!」
『うそつき』
嘘じゃない、と何度も何度も言い放つ。その度に"自分"は嘲笑するような笑い声を上げている。
そもそもこれは人生をやり直すためのものじゃなかったのだろうか。
過去を振り返っているだけじゃないか。
結局、そんな都合のいい話はなかったんだ。
窓の外はすっかり暗くなり、月の明かりがぼんやりと窓に反射していた。

「もう、降りる」
『どうして?終点まで行けば、"私"はやり直せるよ』
「…いくらやり直しても、私が私なら、意味なんかない」
『本気で言ってんの?』
「本気だよ」

耳を塞ぐ手を下ろすと"私"はやれやれと呆れたように肩をすぼめて息をついた。
揺れる電車の音だけが、再び響いたが、"私"は消えずにそこにいる。
自分自身なのにどうしてこうも鬱陶しく感じてしまうのだろう。―いや、"自分自身"だからだ。
弱々しい癖に口だけは達者でいつも高圧的だった。
良く言えば一匹狼。悪く言えばただの孤独な人。
一人で過ごすことは苦ではなかったし、むしろ一人のほうが気楽だった。

『――まもなく、終点、終点です』

突如アナウンスが聞こえる。"私"の言葉通りなら終点で降りれば、人生はやり直せる。
彼女はごくりと息を呑んだ。乗ってしまった以上、やはり降りるほかないのだろうか。
『ほら、もうすぐ。私の夢が叶うよ』
目の前の"私"が機嫌よく足をぶらつかせては終着地点を待ちわびていた。
夜の闇がやがて夜明けを呼ぶように空に明るさを増していく。
つまりは夜が明けてしまえばそこに終点があるのだろう。
正直なところ、半分迷っていた。
はじめからやり直したとしても、また同じ道を歩むかもしれない。
病気がちな体とも、弱い心とも、別れることができるなら、あるいは―。

「……リヒトは、どうなるの?」
不意に愛猫のことが脳裏によぎり、問いかける。
やり直せたとしたら、違う道を歩むことになるんじゃないかと不安になった。
『さあ。生きてるだろうけど、会わないかもね』
「…………」
軽率に言い放つ"私"に僅かに苛立ちがつのった。
仮にも"私"なら、あの猫は生き甲斐なんだから。そんなに冷たい扱いはしない。
別に生き甲斐がなくても生きて行けるという事なんだろうが、それにしても腑に落ちない。
彼女にとっては唯一無二の家族なのだから。

『終点、終点です。まもなくこの列車は回送に――』

もやもやとしたものを心に抱えたまま、電車は終点へと到着し、音を立てながら扉を開く。
"私"が立ち上がり扉へと歩を進めようとする。
『ほら。早く行こうよ』
顔を上げると"私"は彼女に向かい手を差し伸べていた。
扉の向こうは白く輝き先が見えない。希望をそこに感じるのがわかった。
しかし、彼女は首をはっきりと横に振った。それを見て、驚いたように"私"は目を見開く。
『クソッタレな人生なんてなくなるのに』
「……いいの」
彼女は猫のことを考えていた。
支えがなければ、リヒトがいなければ、私はやっぱり生きていけない。

『……そう。じゃあ、私も帰るね』
"私"はそう言うと、彼女の目の前に立ち、彼女の手を掴み掌を重ねた。
それと同時に、光の粒子になるように"私"の存在が消えていく。
気付けば彼女の掌には、スマートフォンが握られていた。

――ヤリナオシ マスカ ?

同じ問いだが、これは違う。そう思った彼女は躊躇いなくYESのボタンを押した。


目を開ける。
彼女は自室のベッドに横になっていた。

「夢………?」

上体を起こすと、目覚めた愛猫が彼女に『おはよう』と言いたげに鳴いた。
その姿を見るなり彼女はほっと胸を撫で下ろした。

「……自分のやり方で、ちゃんと生きる。リヒトと一緒に」

小さな決意を抱き、弱々しく細い腕を撫でてはベッドから降り、いつものように歩みだした。
今の自分が嫌なら、変えればいい。
他人のせいにして生きてきた自分は、もうここにはいない。

「…ありがとう、私」

死行列車

死行列車

過去に戻ってやり直す事を果たして「死」と呼ぶのか。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
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