滲む朝
夜中に外をであるくなんて、熊に襲われてもしりませんよと、慈雨さんは叱るでも諭すでもなく、たのしげにそう言った。わたしは灯りのひとつもついていない道で、じんとつめたい銀色の携帯電話を耳にあてる。濃紺のスカートはアスファルトと同化して、わたしと夜は結ばれる。
「熊って、このへんにいるんですかねえ」
「サラのまわりには、いきもの全般、自然と寄ってくるでしょう」
慈雨さんの声はあたたかく心地よく、わたしの頬をぬくもらせる。
海の底はきっと慈雨さんの声のように、柔らかく熱をもっているのだろうと、夢想する。
「くまなら、しろくまがいいなあ」
慈雨さんが電話越しに、シロクマは体温がうんと低いのできけんですよ、だいじょうぶですか、と
うそぶいた。
「わたしは、しろくまよりもなによりもいちばん、慈雨さんがいいです」
シャッターの閉まった煙草屋の前で、ゆるゆるとしゃがみながらつぶやく。
夜がすこしずつ明けてきて、わたしはとたんに心細くなる。決意をもって空を見上げると、馬鹿みたいにうつくしい空がひろがっていた。
あざやかですこやかな、黄色と水色と、ほんのすこしの燃えるような赤色。
「サラは、私のほんとうの名前も、うまれた季節も、左利きか右利きかも、なにひとつ、しらないでしょう」
いちども会ったことはないのに、こまったように眉をさげる慈雨さんの顔、首のうらに手をやるしぐさ、こどもみたいにたよりないてのひらを、わたしはいっぺんに分かってしまった。
「慈雨さんは、慈雨さんじゃないんですか?」
「サラは、サラ自身なのですか」
「だって、慈雨さんは慈雨さんでしょう。やだ、いやです、いじわる言わないで」
慈雨さんがなにを言わんとしているかが、わたしには一寸も分からなかった。
慈雨さんはいつだってやさしかったのに、わたしはこのひとに、なにをかえしたのだろう。駄々をこねて、こまらせて、なにをしているのだろう。
そう思うと、視界がぼやけた。目の奥が熱い。
なみだがぼろぼろ、はずかしげもなく流れる。
目の前にふわりと佇む椿のらんらんとした朱が、心をいっそう煮立たせた。
はあ、という慈雨さんの深呼吸が漏れ聞こえる。
それだけで、夜の底から滲む朝の空気は、もっとしんと冴え渡った。かじかんだ指先がふるえる。
「私はもうじき、私でなくなるかもしれません。
ですが、サラはきっと、愛しいままのあなたでいてください。どうか、朝をこわがらないで」
ぷつ、と通話が途切れた。
慈雨さん。慈雨さん。
なんべん呼んでも、その声は虚しく靄に溶けるばかりで、あのひとへは届かない。
夜はかんぺきに姿を消して、あかるく際限のない
朝を連れてくる。
きょうとあすは地続きで、いやでもまた朝がやってきて、わたしはこの世界をゆるさないといけない。
朝露に濡れた椿を、白濁してゆく瞳にぼんやり映しながら、わたしはそんなことを、思った。
滲む朝
あなたの朝が安息であれと、願います。