禁じられた仕事
一旦定時で退社した奥村は、喫茶店で三十分ほど時間をつぶし、また会社に戻った。正面の出入口はすでに閉まっている。奥村はそのままビルの裏手に回った。周りに人影がないことを確認すると、一気に外壁の非常階段の下に走った。そこで呼吸を整え、足音をたてないよう慎重に階段をのぼり始めた。見咎められないよう姿勢を低くし、時々頭を上げて周囲の様子をうかがいながら少しずつのぼって行く。奥村の所属する原価管理課のある5階に着いたときには、さすがに汗だくになっていた。
「さて、と」
非常扉に手をかけ、ゆっくり手前に引いた。ロックが掛からないようラッチに貼りつけて置いたセロファンテープを剥がし、そっと中に入った。腕時計を見ると、警備員の巡回まであと十分しかない。非常灯の緑色の明かりに照らされた廊下を進み、『原価管理課』と書かれたドアの前に立った。いずれこんな日が来るだろうと予想していたので、合いカギは事前に作ってある。部屋の中に入り、ドアを閉めると内側からロックした。照明を点けると廊下に光がもれてしまうから、真っ暗な中をゆっくり移動する。手探りで自分のデスクに座ると、手元灯のスイッチを入れた。
「やっぱり暗いな」
奥村は軽く舌打ちすると、引き出しから伝票の束と電卓を取り出した。使用履歴が残るからパソコンは使えない。また舌打ちをして、カチャカチャと電卓で計算を始めたその時、パッと部屋の照明が点いた。
「はい、そのまま、そのまま。動かないで」
奥村は反射的に「強盗か!」と叫んでしまったが、隣の資材課のオフィスから入って来た男たちを見て、愕然とした。男たちが着ている黒っぽいジャンパーには『労働基準警察署』という黄色いロゴが印字されていたのだ。
リーダー格らしい一人が一歩前に出た。
「奥村次郎、労働者時間外労働全面禁止法、すなわち、残業禁止法違反の現行犯で逮捕する。ああ、テレビやネットのニュースで知っているとは思うが、この法律の施行に合わせ、我々も労働基準監督署から労働基準警察署に変わった。脅かすわけではないが、銃の携行も許されている。きみが逃げたり抵抗したりしなければ、我々も手荒なことをしなくて済む。もちろん、きみには黙秘する権利があるよ」
「ど、どうして」
「わかったのかと聞きたいのかね。通報があったのだ」リーダーは振り返り「ええと、財前課長でしたか、もう出て来ても大丈夫ですよ」と呼びかけた。
皮肉な笑みを浮かべて入って来たのは、直属の上司である課長の財前だった。
「悪いね奥村くん。今日あたりきみが残業するんじゃないかと思い、コッソリあとをつけていたんだ」
「すみません、どうしても定時までに終わらなくて」奥村はそう言いながら下げかけた頭を跳ね上げ「っていうか、ここ数日、ぼくにだけ処理しきれないほどの仕事を回したのは、課長、あんたじゃないか!」
「ふん。だからといって、残業をしてもいいという理由にはならん。自主的に残ってでも仕事をするのが美徳とされたのは、もう昔の話さ。いつまでたっても労働時間が減らない日本に業を煮やし、外国の大統領から猛烈な抗議があったことはきみも知っているだろう。おかげでこんな法律がスラスラと国会を通った。時代は変わったんだ。今や残業は法律で厳しく禁じられている。本人だけの問題じゃないぞ。社員の残業を見逃したら、会社も処罰されるのだよ。さあ、神妙にしたまえ」
だが、恐れ入るどころか、今度は奥村の方がニヤリと笑った。。
「ははあん、わかったぞ。ぼくが部長に気に入られているから、自分の地位が脅かされるんじゃないかと勘ぐって、罠にはめたな!」
「失敬な。わしはそんなセコイ男じゃないぞ。すべては会社のためだ」
「語るに落ちたな。会社のためにぼくのあとをつけて通報したというのは、立派な残業じゃないか。労基のおまわりさん、こいつこそ逮捕すべきですよ!」
「何を言うか!」
二人が言い争っている横で困ったもんだという顔をしていた労働基準警察官たちだったが、彼らの腕時計のアラームが一斉に鳴りだした。リーダーはワザとらしく天を仰ぎ、肩をすくめて見せた。
「すまないが定時になった。我々はこれで帰る。我々は遅番専門班だから、明日の朝、早番の連中に事情を説明してくれたまえ」
財前が不安な顔でリーダーに尋ねた。
「こいつを逮捕しないのか」
「申し訳ないが、残業はできない。こうして説明することも、本当はいけないんだ。ああ、もちろん、我々から明日の早番に申し送りもできない。残業になってしまうからね。あとはきみたちが自分でやってくれ。以上だ!」
労働基準警察官たちは脱兎のように帰って行った。
残された二人は気まずそうに、「帰ろうか」「そうですね」とささやきあった。
(おわり)
禁じられた仕事