太平洋、血に染めて 【完全版】
★全タイトル(一部を除く)を一冊にまとめた完全版です!
最近わかったことなのだが、野良猫の祖父の兄弟の方が「雲龍」という空母に乗っていたそうだ(艦名は不明だが、雲龍に配置されるまえはべつの空母に乗っていたようです)。飛行機の整備士だったらしいです(戦死)。
親戚の方にも戦艦「陸奥」や重巡洋艦「鳥海」に乗っておられた方がいるようです。
鳥海に乗ってた方は三等(二等?)機関兵曹で、はじめは陸奥に乗っていたようです。この方は戦死してしまったのですが、休暇をもらったときは実家に帰省してたらしいです(ちなみに妻帯者でした)。
もうひとりの陸奥に乗ってた方(父方の祖母、つまり野良猫のおばあちゃんの兄になる方で、すでに故人です)は、戦艦「大和」を見たって言ってました。やや沖合のほうに停泊していて、前日の夕方は艦首を港に向ける格好だったのが、朝になると潮に流されて横を向いていた、なんてこともあったとか(笑)。とにかく大和はデカい艦(ふね)だった、と言ってました。陸奥では主計課に配属されて飯炊きや伝令など、いろいろなことをやっていたみたいですが、この方はミッドウェー海戦がはじまる直前に陸奥を降り、昭和十七年の七月に海軍航空隊に転属したらしいことがわかりました(高校卒業後の昭和十五年六月一日に横須賀海兵団に入団、陸奥乗組になったのが昭和十五年十月十五日)。とは言ってもパイロットではなく整備兵のほうで、「航空兵器術練習生(雷爆兵器)」を経て昭和十八年の九月に第53航空基地に配属(国内なのか国外の基地なのかは不明)。そして昭和十九年の四月に第203海軍航空隊(厚木海軍航空隊)に転属。昭和二十年の五月には、一時的に九州海軍航空隊に派遣される。そして、原爆投下(広島)のだいたい一週間まえに船で呉に入港。そこから汽車でべつのところへ移動(目的地は不明)。昭和二十一年九月一日復員。最終階級は「上等整備兵曹」とのこと(ポツダム進級かどうかは不明)。と、いうことで、この方は陸奥を降りてからは軍艦には乗ってないことがわかりました(笑)。
ところで、鳥海で戦死した方は「昭和十七年三月 戦艦陸奥乗艦」、「昭和十八年五月 重巡洋艦鳥海乗艦」と記録にはありますが、この「鳥海」に転属した時期は、ちょうど陸奥が爆沈するひと月まえのことでした。
ちなみに、鳥海にはカイ・シデンやピッコロ役で知られる声優・古川登志夫さんの兄も乗っていました(この方も戦死)。
そういうわけですので、この「太平洋、血に染めて」を国籍問わず、海に散った
すべての男たちと船乗り猫に捧げたいと思います!
【鎮魂歌】・・・悲しいときはいつも(松田博幸)
https://www.youtube.com/watch?v=7f7PCryRO2Q
*** 金曜ロードショー「太平洋、血に染めて」 ***
https://www.youtube.com/watch?v=wCDiRGUTfq0
★この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件など
には、いっさい関係ありません!
・プロローグ用BGM
https://www.youtube.com/watch?v=qGWAjxkbLlo
https://www.youtube.com/watch?v=zDG0_txuy-Q(予備)
*オープニング
https://www.youtube.com/watch?v=gad8PwSXl8Y
https://www.youtube.com/watch?v=CVRnprIVl-8(予備)
*** プロローグ ***
一九九九年七の月。天空より舞い降りし恐怖の大王によって人類は滅ぼされるだろう。かつて、ある偉大な預言者はそう断言した。そして運命の一九九九年が訪れ、いよいよ人類滅亡のカウントダウンが始まった。核戦争、あるいは巨大隕石の衝突か。根拠のないデマが飛び交い、パニックに陥る人々。だが結局、何事もなく一年が過ぎ、さらに一年、また一年と月日は流れ、やがて恐怖の大王の名は人々から完全に忘れ去られるのであった。
しかし、人の心から完全に悪が消えることはない。恐怖の大王は独裁者の弱き心に宿り、世界征服という巨大な野望に目覚め、ついに動きだした。
欲望。憎悪。狂気。冥府の鬼ならぬ、人が自らの手によって造り上げた地獄。大地は火の海となり、海は血の朱に染まる。恐怖の大王が、世界を焼き尽くす。終わりのない戦いに、人々は絶望する。そして、大五郎たちも太平洋をさまよいながら希望の光を探しつづけているのであった!!
――太平洋、血に染まる!――
「泣けるぜ」
葉巻の紫煙をゆっくりと吐きだしながらハリーが首をふった。
およそ三百人を乗せたこの病院船は、ただいま太平洋のド真ん中を航行中である。船内にはテレビもあるが、どのチャンネルも真っ暗で、なにも映らない。ラジオも、聞こえてくるのは砂嵐の音だけだった。
「なけるぜ」
大五郎もハリーの真似をしてため息をついた。
ハリーは渋色のくたびれたカウボーイハットの下で眩しそうに目を細めながら窓の外を眺めている。大五郎もハリーの傍らで窓の外を眺めていた。蒼く、そしてどこまでも広い大きな海。水平線には、まるで綿アメのような真っ白い夏雲が浮かんでいる。空はどこまでも晴れ渡り、とてもいい天気だった。しかし、ハリーの表情は曇っていた。
「やれやれ。石器時代からやりなおし、か」
「マンモスをつかまえて、たべるんだね?」
大五郎がそう言うと、ハリーは口もとでかすかにほほ笑んだ。
マンモスの肉はどんな味がするのだろうか。そんなことを考えていたら、なんだか腹が減ってきた。大五郎はハリーのとなりでヒザをかかえ、窓の下に座り込んだ。
横須賀港に向かうため、両親と三人で電車に乗っていた。大きな戦争になりそうなので国外に脱出する、と両親は言っていた。大五郎がトイレに行ったとき、電車の外で大きな爆発があった。近くに爆弾が落ちたのだ。爆風で電車は吹き飛び、大勢の乗客が犠牲になった。トイレにいた大五郎は、奇跡的に軽いケガだけで済んだ。空爆がつづく中、大五郎は必死に両親を探しまわった。しかし、けっきょく見つけることはできなかった。
大五郎は、ぐっと歯を食いしばって涙をこらえた。両親は、まだどこかで生きているにちがいない。大人になったら、きっと探しに行こう。大五郎はそう決心するのであった。
「おお、あれはまさしく」
何者かの声がレクリエーションルームにひびき渡った。少しはなれたところで、窓に手をついて海を眺める老人がいた。肩まで伸びる白髪、しかし、頭頂部はハゲている。そして、仙人のような白く長いあごヒゲ。
「ニューネッシーじゃ!」
長老である。
「いや、あれはウバザメですな」
否定したのはメガネをかけた白髪あたまの老人、ムツゴローである。この老人は大の動物好きで、図鑑にすら載っていない動物の名前も知っているのだ。
「いいや、あれはたしかにニューネッシーじゃ!」
そして長老は熱狂的なUMAマニアなのだ。
「あれは、どうみてもウバザメですよ。おじ~いちゃん」
小馬鹿にするような口調でムツゴローが笑うと、長老はうんざりしたようにため息をついて首をふった。
「やれやれ。あんたは、なにもわかってないようじゃな。あれは、まちがいなくニューネッシーなのじゃ!」
人差し指で窓をドンドンとつつきながら長老が強い口調で怒鳴った。
大五郎も窓の外に目をやった。海面ちかくを、大きな魚が泳いでいる。それがサメであることは、大五郎にもひと目でわかった。
「よ~しよしよし」
穢れを知らない無邪気な笑みを浮かべながらムツゴローが長老のハゲあたまをはげしく撫でまわしはじた。
「いい子だから吠えない。はい、おすわり!」
長老に笑顔を向けながらムツゴローが床を指差した。彼は狂犬のしつけも得意なのである。
「むだじゃっ!」
狂犬が吠えたてた。
「半人前の技では、 わしは倒せんぞ!」
狂犬、いや、長老は頭上に構えた杖を、まるでヘリコプターのプロペラのように両手でふり回しはじめた。
「おのれの無力さを思いしらせてやるわ!」
長老がムツゴローに躍りかかる。かくして、ふたりの戦いがはじまった。
きっと、この戦争もこういう些細なことが原因ではじまったのだろう。大五郎はハリーと顔を見合わせながら、ふたりで肩をすくめた。
「おいら、おしっこでる!」
「トイレか。ひとりで行けるか、ぼうず?」
「うん!」
大五郎は駆け足で部屋を飛びだした。長い、まっすぐな通路をひたすら駆けてゆく。そして突き当りの角を右に曲がったとき、奥の角の手前に白いスーツ姿の男が見えた。その奥の角を右に曲がればトイレだ。
大五郎が角の手前で男を追い越こそうとしたときである。
――ガッ!
とつぜん、大きな音とともに通路のカベがくだけ散り、粉々になった破片が大五郎のあたまにパラパラと降り注いだ。いったいなにごとかと思い、大五郎はおどろきながら頭上を見上げた。
「あっ?!」
通路のカベ、それもちょうど角の部分が大きくえぐれ、そこに一本の太いウデが食い込んでいた。どうやら、スーツの男はふり向きざまに手刀を繰り出したらしい。なぜこんなことをしたのか知らないが、男の手刀は大五郎のはるか頭上をかすめてカベに深くめり込んでいるのだった。
それにしても、危ないところであった。もし、この手刀をまともにくらっていたら、まちがいなく首の骨が折れていただろう。大五郎はそう思うと、恐怖のあまり小便を少しちびってしまった。
はたして、この男はいったい何者なのだろうか。大五郎は、マユの下から恐る恐る男の表情をうかがった。
角刈りの男は無言で右の手首を押さえながら背中を丸めている。一文字に引き結んだ意志の強そうな口。つり上がった太いマユの下で、カミソリのような鋭い目が血走っている。打ちどころがわるかったのだろうか。男はフーッ、フーッと鼻で苦しそうに荒い呼吸をしつつ、額に玉のような脂汗をにじませていた。
「おっ……おじちゃん、だいじょうぶ?」
大五郎がねぎらうように声をかけると、男は涙堂をピクピクさせながらカミソリのような鋭い眼でギロリとにらんできた。
「……ぼうず……」
そうとう激しく打ちつけたのだろう。男は話すのもつらそうだ。しかし、大五郎は小便がもれそうなのだ。こんなところでのんびりと立ち話をしているヒマなどないのである。
「ようけんをきこう!」
大五郎はイライラした口調で叫んだ。
すると、男は手首をかばいながらスッときびすを返し、肩越しにジロリとふり向いた。
「……まちがっても……オレのうしろに立つんじゃない……」
それだけ言って、男はゆっくりと立ち去って行くのでした。
トイレからもどる途中、大五郎は長い通路を駆け抜けながら、ふと窓の外に目をやった。
「あっ?!」
大五郎は立ち止まると、両手を窓について海面に目を凝らした。病院船のすぐよこ、だいたい五十メートルほどはなれたところの海面から、なにか細長いものが突き出している。先っぽが小さく折れ曲がった、銀色の鉄パイプのようなものだ。遠くてよくわからないが、ネッシーの首のようにも見える。
「あっ」
大五郎は、さっき長老が言っていたニューネッシーのことを思いだした。長老が指差したのは、ウバザメではなかったのだ。長老は、この鉄パイプを見てニューネッシーだと思ったにちがいない。
「にゅーねっしーだ!!」
ネッシーとニューネッシーがどうちがうのかよくわからないが、大五郎はとりあえずよろこぶのであった。
部屋にもどると、ハリーは葉巻をくわえた格好で窓の外をながめていた。その傍らで、長老が足をのばして座り込んでいる。窓の下でカベにもたれかかり、ハンカチで口もとを押さえて「ゴホ、ゴホ」とせき込んでいた。
「お……おのれ、あのくそジジイ。こんどこそぶっころしてやる」
長老の目のまわりには青アザができている。そして両方の鼻の穴に丸めて詰めたティッシュは赤く滲んでいた。
やれやれと呆れつつ、大五郎はふと窓の外に目を向けた。
「あ! でっかいフネだ!」
大五郎は左舷側の海を窓越しに指差した。
少しはなれて病院船と並走するその船は、大五郎がいままで見たことのない形をした船だった。
「ああ、あれは空母だ」
眩しそうに細めた目でハリーが言った。
「くうぼ?」
「飛行機を飛ばすための艦さ」
「あのフネに、のってみたいね。おじちゃん」
大五郎は笑顔ではしゃいだ。しかし、ハリーは「オレはごめんだね。豪華客船なら乗ってもいいが」と、肩をすくめて苦笑した。
「おいらのとうちゃんも、でっかいフネつくってたんだよ」
大五郎の父は横須賀の造船所に勤めていたのだ。工場は横須賀港からちかいところにあるので、この病院船が数日まえから寄港していることも知っていたのだ。
「そうか。それでボウズは船が好きなのか」
ハリーが大きな手で大五郎のあたまをぽんぽん、と撫でながらつづける。
「パパとママ、無事だといいな。いや、きっと無事さ。きっと元気にしている。だから、ボウズも元気をださないとな」
そう言って励ますと、ハリーは葉巻をくわえた顔で目を細くした。
大五郎はこみ上げてくる涙をようやく堪えると、無理に笑顔をつくって大きくうなずいた。
父さんと母さんは、きっと生きている。ハリーの言うとおり、きっとどこかで元気にしているはずだ。父さんは約束してくれた。いま造っている大きな船が完成したら、そのときは母さんとおまえの三人で進水式を見に行こう、と。
窓越しにじっと空母を見つめながら、大五郎はぐっとくちびるをかみしめた。
「そろそろ昼メシの時間だ。食堂に行こうか、ボウズ」
ハリーが窓からはなれてドアに向かった。
大五郎の腹の虫もグウグウ鳴いている。
「じいちゃん、めし!」
長老は聞こえているのかいないのか、床に座り込んだまま、なにかブツブツとつぶやいている。
「くそじじい!」
腹の虫がイライラしている。大五郎は長老を無視して食堂のほうへ駆けだした。
「コーンスープにコッペパンひとつ、か。泣けるぜ」
ぼやきながらハリーがコッペパンをかじっている。大五郎もハリーのとなりに座ってコッペパンをほおばっていた。船の最後尾にある食堂はとても広く、左舷と右舷、そして艦尾側のカベには大きな窓がいくつかあった。左舷側の窓からは、遠くを航行する空母の姿が見えた。
船首側の窓のないほうのカベ、食堂の入り口の脇に、さっきの角刈りの男が立っている。肩幅の広い、がっしりとした男だ。右手をポケットにつっこんで、カベを背にして立ったまま、男はコッペパンをかじっている。そして、やはり右の手首には包帯がまかれているのであった。
「へんなおじさん」
大五郎は角刈りの男を指差した。
「トーゴーだ」
ハリーがカウボーイハットの鍔で顔を隠しながら小声で言った。
「とーごー?」
「あいつに近寄っちゃだめだ。あいつは……殺し屋なんだ」
ハリーは青い顔をこわばらせながら大五郎の耳元でささやいた。
「あいつに狙われて無事だったやつは、ひとりもいないのさ。逆に、あいつを抹殺しようと狙ったやつも大勢いたが、結局だれも果たせなかった。国家でさえも、やつを倒すことはできなかったんだ」
パンをちぎるハリーの手が小刻みにふるえている。大五郎の思った通り、あのトーゴーという男はとんでもない悪党だったのだ。
「やつは、正真正銘のバケモノなのさ」
そう言って目のはしからトーゴーをにらむと、ハリーは口の中のパンをゴクリとのみ込んだ。
「さて、それはどうかな」
聞き覚えのある声が大五郎のとなりに座った。
白く長いアゴひげ、そして肩まで伸びる白い髪。しかし、頭頂部はツルツルにハゲている。
「あっ、じいちゃん」
長老である。
「凄腕の殺し屋といっても、所詮は人間。南極ゴジラには勝てまいて」
悟ったような表情でそう言うと、長老はコッペパンを小さくちぎって口に放り込んだ。
「なんきょくごじら?」
大五郎は首をかしげた。ゴジラはUMAではない。映画に出てくる怪獣だ。
「〝ツムラヤプロ〟の話さ」
ハリーは大五郎の耳元でささやくと、呆れた笑みを浮かべて首をふった。どうやら長老のくだらない話のおかげで、ハリーはすっかり緊張がほぐれたようだ。
大五郎もヒマつぶしに少しだけ長老の話につき合ってやることにした。
「うるとらまんのほうが、きっとつよいよ」
すると、長老は口もとに笑みを浮かべながら首をふった。
「よいか、ぼうず。ウルトラマンはテレビの話じゃ。実在はせん。じゃが、南極ゴジラは実在するのじゃ」
コーンスープをスプーンでかきまぜながら長老がつづける。
「ウルトラマンの中に入っておるのは、わしらとおなじ普通の人間。南極ゴジラを倒すことなどできんのじゃ」
「ふーん……」
よくわからないが、大五郎はわかったフリをした。ハリーもパンをちぎりながら、ばかばかしい、というように首をふっていた。
――そのときである!
「あっ!」
突然、船首のほうで大きな爆発が起こった。船全体が大きく揺れる。大五郎は椅子から投げだされ、床に尻もちをついた。
長老は熱いスープを股間にこぼしたようだ。股の間に両手をはさんで、唸り声をあげながら床の上を転がっていた。
「大丈夫か、ぼうず?」
ハリーが大きな手を差し伸べてきた。
「おいらは、へいきだよ」
ハリーの大きな手につかまりながら、大五郎は笑顔でうなずくいた。
警報が鳴り響く中、みんながうろたえている。大五郎は、ふと食堂の入り口のほうに目をやった。
「あれ?」
トーゴーがいない。ひょっとして、この爆発はトーゴーの仕業なのだろうか。あるいは、トーゴーを狙う何者かの仕業なのか。もしくは……大五郎は「はっ」とした。
「あのくうぼが、こうげきしてきたんだ!」
大五郎は左舷側の窓のほうに目をやった。空母はさっきとおなじところを、同一方向に向かって航行している。
「いや、これは空母からの攻撃じゃない」
差し迫った表情でハリーがつづける。
「この爆発は……おそらく魚雷。潜水艦からの攻撃だろう」
警報のベルの音、悲鳴、船内が騒がしくなってきた。
「潜水艦だ! 潜水艦に攻撃されている!」
通路のほうで、だれかが叫んだ。
「ちがうな。潜水艦が狙ってるのは、この病院船じゃない」
左舷側の窓の外をにらみながら、ハリーが葉巻に火を点けた。
「空母に放った魚雷が外れ、この病院船に命中した。おそらく、そんなところだろう」
「ち、つくしょう。なめやがって」
長老が股間を押さえながらヨロヨロと立ち上がった。
「大丈夫か、じいさん?」
ハリーが杖を拾って長老に渡した。
「う、うむ」
「屋上に救命ボートがあるはずだ。それで脱出しよう」
「また攻撃を受けるかもしれんのじゃぞ。いま外に出るのは危険じゃ」
「おなじことだ。ここでじっとしていても、いずれこの船は沈む。だが、ここに残るのはあんたの勝手だ」
長老は押しだまって思案顔になった。ハリーは唇にはさんだ葉巻から紫煙を立ちのぼらせながら長老の返事をまっている。
しばし考え込んで、長老が決心したようにうなずいた。
「よかろう。わしも行こう」
三人で病院船の屋上に向かった。船の外に出ると、船首のほうから黒い煙が立ちのぼっているのが見えた。左舷側に広がる海には、空母の姿も見える。
大五郎は、ふと後部甲板のほうをふり向いた。
「あっ」
後部船体側面に吊り下がる救命ボートのところにだれかいる。トーゴ―だ。
「へんなおじさん!」
大五郎はトーゴ―を指差しながら叫んだ。
「あのやろう、ひとりで逃げるつもりだな」
ハリーが舌打ちをした。
「サノバビッチ!」
長老も中指を立てて罵った。
救命ボートは一艘のみ。だいたい二十人は乗れそうなボートにひとりで乗り込むと、トーゴーは滑車を緩めてボートを下ろしはじめた。
「万事休す、じゃ」
長老は杖に寄りかかり、弱々しく長い吐息をついた。
ギシギシと悲鳴を上げて病院船の船首が徐々に傾きはじめた。乗員乗客も悲鳴を上げながら屋上に押寄せてくる。
「ちくしょう。このままでは確実に沈む」
ハリーがこぶしを握りしめて歯噛みをした。
「おや?」
「おや? あの大きな軍艦が向きを変えた……。どうやら、こっちへ向かってくるようじゃ」
長老が空母のほうを杖で指し示した。
「艦の側面に縄梯子が見える。救助に来たんだ」
照りつける日差しを右手でさえぎりながらハリーが言った。空母が病院船の船首側からゆっくり侵入してくる。
――そのとき、とつぜん空に銃声がひびき渡った。
「やつか?」
長老が銃声のしたほうをふり向く。大五郎も、おなじほうに目を向けた。
病院船の後方、およそ百メートルのところにトーゴーのボートが漂っている。しかも、ボートの後部からは黒い煙が立ちのぼっていた。
「どうやらエンジンが故障したらしい」
ハリーが眩しそうに細めた眼をボートにむけながら葉巻に火を点けた。
また銃声がした。トーゴーが海に向かって拳銃を発砲している。いったい、トーゴーはなにを狙っているのだろうか。
「あっ、サメだ!」
大五郎は指差しながら叫んだ。トーゴーのボートの周りを、三角形の黒い背ビレがぐるぐると回っている。トーゴーはサメに向かって発砲しているのだ。しかし、なかなか命中しない。やはり手首の調子が悪いせいなのだろうか。やがて弾を撃ちつくすと、やけくそになったトーゴーは黒い背ビレに向かって拳銃を投げつけるのであった。
「あっ!」
三人で声を上げた。ちょうどトーゴーのボートの真下から、なにか細長いものが突き出してきたのだ。
「やつじゃ!!」
長老が杖で指し示しながら叫んだ。
「ニューネッシーじゃ!!」
先っぽが小さく折れ曲がった銀色の鉄パイプ。大五郎がトイレからもどる途中に見たものとおなじやつである。やはり、長老はこれを見てニューネッシーだと思っていたようだ。
しかし、ハリーは冷静に否定した。
「あれは潜水艦の潜望鏡だ」
ボートを下から突き上げてひっくり返すと、潜望鏡はクルクルと回りはじめた。
海に投げ出されたトーゴーが、黒い背ビレから必死に泳いで逃げまわっている。潜望鏡は、その様子をじっとうかがっていた。はたして、トーゴーは黒い背ビレから逃げきれるのだろうか。
「おや?」
長老がマユをひそめた。
「……消えた」
ハリーも眩しそうに目を細めている。トーゴーが消えたのだ。黒い背ビレも、どこにも見えない。
「くわれた!」
大五郎は飛び上がった。トーゴーは、きっとサメに食べられたのだろう。大五郎はそう思ったのだ。
「泣けるぜ」
ハリーが首をふると、〝ニューネッシー〟も同情するようにキコキコと首をふった。
「四十パーセントの運ってのは、こんなもんか」
紫煙を吐きだしながらハリーがしみじみとつぶやいた。はたして、四十パーセントの運とは、いったいなんのことなのか。大五郎は首をひねった。
「おや? 急に暗くなったのう」
長老が空を見上げた。
たしかに暗い。さっきまであんなに天気が良かったのに、いったいどうしたのだろうか。大五郎も空を見上げてみた。
「あっ、くうぼだ!」
大五郎は面食らった。クジラよりも、旅客機よりも、そして、この病院船よりもはるかに大きな航空母艦。病院船の左舷にそびえる巨大な空母を、大五郎は呆然と見上げていた。
大きくせりだした空母の甲板で太陽が隠れ、病院船の屋上が夜のように暗くなった。空母の左舷後部の縁から大きな縄梯子が垂れている。網目状で、よこ幅が三十メートルほどはある。
「はやく上がってこい! この縄梯子をつかってこっちに乗り移るんだ!」
甲板の上から空母の乗員が叫んだ。
みんなが縄梯子を上りはじめると、病院船の船首のほうからまっ黒なけむりが流れてきた。
「あまりのんびりしてるヒマはなさそうだな」
ハリーが葉巻を足もとに落としてふみ消した。
「ぼうず、おんぶしてやる。しっかりつかまってろ」
「うん!」
縄梯子を登るハリーの背中に、大五郎は必死にしがみついていた。病院船の屋上から空母の甲板までの高さは、だいたい七、八メートルぐらいだろうか。ハリーの下から、長老もつづいて登ってくる。空母の乗員たちも、自力で登ることのできない患者を背負って救助していた。
沈みかけた病院船から、何十という数の人間が、ハリーの横に並んで登って行く。彼らの下からも、つぎつぎと登ってくる。まるでソロバンの玉のようだ、と大五郎は思った。
ほどなく、ハリーの肩越しに空母の甲板が見えてきた。平らで、とても広い甲板だ。
「ついたぞ、ぼうず」
ハリーの背中からおりると、大五郎は甲板を見渡した。
「ひろいね、おじちゃん」
サッカー場よりも広い。大五郎はそう思った。しかし、あまり飛行機はないようである。
「願いが叶ってよかったな。ぼうず」
そう言って苦笑すると、ハリーは新しい葉巻に火を点けた。
病院船の乗員は、なんとか全員救助されたようだ。空母はどんどんスピードを上げて病院船から遠ざかってゆく。
「あっ、さかだちした!」
病院船を指差しながら大五郎は叫んだ。
まるで茶柱のように、病院船がまっすぐ海の上に立ったのだ。船尾部分を空に向けて、船首のほうからゆっくりと沈んでゆく。
「やれやれ。危機一髪じゃったのう」
長老が安堵のため息をもらした。
「そいつはどうかな」
声のほうをふり向くと、黒いマントの男が立っていた。右のマユから左の頬にかけて流れる三日月形の大きな傷痕のある顔。そして凪いだような冷たい瞳。世界的に有名なヤブ医者、羽佐間九郎である。
「まだちかくに潜水艦がいるかもしれないんだ。油断はできないぜ」
「あんたも無事だったか。ドクター・ブラックジョーク」
あいさつ代わりにハリーが言うと、九郎は冷たい瞳で〝きっ〟とにらみつけた。
「そ、そう尖がるなよ。ドクター・ハザマ」
怯んだハリーは小声で訂正した。九郎はブラックジョークと呼ばれるのがあまり好きではないらしい。
「ケガはなかったか、ぼうず?」
「うん!!」
笑顔でうなずいた大五郎に、九郎は「そいつはなによりだ」と、冷たい瞳でほほ笑んだ。
じつは、大五郎を病院船に乗せてくれたのは、このブラックジョークこと羽佐間九郎なのである。両親とはぐれたあと、たまたま車で通りかかった九郎に大五郎は助けられたのだ。
「救助された者は全員食堂に集合せよ!」
空母の乗組員の男が難民たちを艦首左舷のタラップのほうに誘導している。
大五郎たちも食堂に向かうと、ドアを入っていちばん奥の席に三人で座った。
「それにしても、やけに乗組員が少ないな。空母ってのは――」
ハリーが言い終わらいうちに甲板のほうから大きな爆発音が聞こえてきた。つづいて、艦尾のほうでも大きな爆発がおこった。警報が鳴り響き、艦全体が激しく揺れる。ハリーが椅子から投げだされ、うしろのカベに背中を打ちつけながら床に尻をついた。そして大五郎も、椅子から投げだされて尻もちをついた。
「ぎゃふん!」
床を伝わってくる爆発の振動。そして悲鳴。避難民たちは、みんな床を転がっていた。
「はうぁ!」
長老もイスに座ったままうしろに倒れ、テーブルの角で後頭部を強打した。そして、そのまま床に倒れ込み、口から白い泡をブクブクと吐きながら痙攣をはじめた。どうやら長老は気絶してしまったようだ。
「いったい、なにが起こったんだ?」
カウボーイハットを被りなおしながらハリーが立ちあがった。
そのとき、ハリーのうしろをひとりの男が小走りで通り抜けようとした。
「おっと」
ハリーがよろめいた。男がハリーにぶつかったのだ。甲板作業員の黄色い作業服、そして、ヘッドフォン付きの黄色いヘルメットを被るメガネの男。見たところ、どうやら日本人のようである。
「また攻撃を受けるかもしれないんだ。あまり動きまわらんほうがいいぜ?」
迷惑そうな顔でハリーが言った。しかし、男は返事をしない。そのままだまってハリーに背を向けると、男は足早に食堂から出て行くのであった。
「不愛想なやつだぜ」
ハリーが不愉快そうに鼻を鳴らした。
「へんなおじさんだね」
大五郎がそう言うと、ハリーは肩をすくめて苦笑した。大五郎も、ハリーの真似をして肩をすくめた。肩をすくめた。をして肩をすくめた。
――金曜はカレーの日!!――
――ブリッジにミサイル命中!!
――操舵室に被害、操艦不能!! カタパルトも使用不能です!!
艦内通路を飛び交う喚呼。そして轟音と振動。けたたましく警報が鳴りひびき、艦内が赤く点滅する。
――艦長は!?
――ブリッジにいた者は、ほとんど戦死しました! おそらく艦長も……。
また爆発音。艦が大きく揺れる。
――艦尾に魚雷命中!!
――被害はどれぐらいだ!?
――船体の損傷は軽微!! ですが、スクリューをやられました!! はやくカタパルトの修理をしないと、このままでは……!
――もう対潜ミサイルは一発ものこっちゃいないんだ。丸腰の戦闘機を飛ばしたところでどうにもならん。それより援軍を要請するんだ!
――しっ、しかし、あの爆発に巻き込まれて味方の艦隊は全滅。司令部とも、いまだ連絡がとれない状況でして……。
核戦争。
――いいから呼びつづけろ! 救難信号をだすんだ!
空母乗組員たちが慌ただしく通路を行ったり来たりしている。食堂に集まった避難民たちは、みんな不安そうな表情を浮かべていた。
「あの潜水艦が攻撃してるんだ」
ハリーが忌々しそうに紫煙を吐きだした。
「わしらの病院船を沈めたやつじゃな」
長老もこぶしを震わせながら、ぐっと唇をかみしめていた。
「どうやらオレたちは、死神に肩を叩かれたらしい」
苦笑しながらハリーが肩をすくめた。
「ちょうどいいわい。少し肩が凝っていたのでな」
首を左右にふってボキボキ鳴らすと、長老は不敵に笑った。
「おいらは、たたかれてない!」
自分は、だれにも肩を叩かれてはいない。大五郎はハリーの言ってることが理解できなかった。
「オレも叩かれた覚えはないがね」
「え?」
うしろの声にふり向くと、パイロットスーツの男が立っていた。
「おじさん、だーれ?」
「チャーリーだ」
男がサングラスを外しながら名乗った。
「おいら、だいごろー!」
「そうか。よろしくな、大五郎」
白い歯を見せてチャーリーが笑った。
ハリーが名乗りながらチャーリーと握手を交わした。
「どうなんだ。沈むのか、この艦は?」
疑わしい表情で目を細めながらハリーが尋ねる。
「それは、オレにもわからん」
他人事のような口ぶりでチャーリーが肩をすくめた。
「だが、オレはここで死ぬつもりはない」
そう言ったチャーリーの眼は真剣だった。もちろん、大五郎も死ぬ予定はなかった。
「警報が止んだな」
眩しそうに細めた目でハリーが天井をにらんだ。
「さてと。オレはもう行くが、あんたらはここから出ちゃいけない。復旧作業の邪魔になるんでな」
チャーリーがドアのほうに足を向けた。
「おいら、おしっこでる!」
大五郎は股間を両手で押さえながらチャーリーを呼びとめた。
「トイレか。よし、オレがつれてってやろう」
「あの~……」
長老がモジモジしている。
「わし、うんち出る」
と、長老は照れくさそうに舌を出して笑った。
「そ、そうか。こいよ。つれてってやる」
戸惑いつつも、チャーリーは快く承った。
軍人は、みんな恐い人たちばかりだ。大五郎は、そう思っていた。でも、チャーリーはとても優しかった。両親と生き別れになったことを話すと、こんど一緒に探してやると言ってくれた。大五郎は、まるで自分に兄ができたみたいで、とてもうれしかった。
翌朝。
大五郎は右舷舷側でヒザをかかえながら海を眺めていた。傍らにはハリーとチャーリーもいる。ブリッジ側に佇んでいるのはチャーリーだ。呑気そうに口笛を吹きながら双眼鏡を覗いていた。
チャーリー越しに大きなヘリコプターが見える。ブリッジの少し手前だ。見た目は無傷だが、エンジンが壊れていて飛ばないらしい。そのヘリコプターの奥にそびえ立つブリッジは上半分がミサイルで吹き飛んでおり、まるで王冠のようにギザギザになっていた。
甲板のいたるところにブリッジや戦闘機の残骸が転がっている。大五郎は、ふと近所にあった廃車置き場を思い出した。なんの変哲もない、どこにでもあるような景色。廃車置き場のとなりには、大きな工場があった。工場の周りに広がる田園風景。田んぼの中を通る一本道。川のせせらぎ。白い太陽。セミの声。カレーの匂い。我が家のほうから。笑い声の絶えない食卓。父さんの笑顔。母さんの優しい顔……。海と空が、混ざって歪む。大五郎は、グッと涙をこらえた。
「カモメ一匹飛んでやしない」
大五郎のとなりでハリーがつぶやいた。ハリーはホットドッグをかじりながら、カウボーイハットの下で眩しそうに目を細めている。大五郎は、ふたりの間でひざを抱えて座っていた。
「なにか見えるかい? チャーリー」
水平線のほうに目を向けたまま、ハリーが言った。
「なにも見えん。陸地も、船も……」
そう言って双眼鏡を下ろすと、チャーリーは青空を見上げて吐息をもらした。
「今日は絶好の飛行日和、だな」
清々しい横顔。しかし、空を見上げるチャーリーのまなざしには哀しみが潜んでいた。きっと、この空で死んでいった仲間たちのことを思い出しているのだろう。大五郎は、なんとなくそう思うのであった。
「呑気じゃなあ。このまま野垂れ死にするかもしれんというのに」
そう言って笑った長老も、ハリーのよこであぐらをかきながら釣り糸を垂らしていた。
「じいさんこそ、呑気に釣りなんかしてる場合じゃないだろう」
ハリーも呆れた口ぶりになる。
「わしはな、まだ刺身というものを食したことがないんじゃよ。新鮮な魚じゃないと、刺身はつくれんのじゃろう、ぼうず?」
「うん!」
大五郎が笑顔で答えると、長老もハリー越しに笑顔でうなずいた。
「それにしても、釣れんのう」
まっ白な長いアゴヒゲを撫でながら長老が唸った。肩まで伸びた白髪が、さわさわと潮風でなびいている。そしてハゲた頭頂部は太陽のように強い光を放っていた。
「サメのせいさ」
のこりのホットドッグを口の中に放り込みながらハリーが言う。
「このあたりの魚は、みんなヤツに食われちまったのさ」
――そのときである!
「フィッシュオン!!」
とつぜん叫び、長老が立ち上がった。竿が大きくしなる。ものすごい勢いで、長老がリールを巻き上げる。
「やったな、じいさん。これで刺身が食えるぜ?」
チャーリーが親指を立てて笑った。
「オレはスズキのバターソテーが食いたいぜ」
葉巻に火をつけながら、ハリーが言った。
みんなの話を聞いているのかいないのか、長老は一心不乱にリールを巻き上げていた。
「おいらは、すしがたべたい!!」
大五郎が叫んだときである。
「ぎィヤッほほホ~ォウ!!」
とつぜん雷鳴のようなすさまじい悲鳴を上げながら長老が飛び上がった。おどろいた大五郎も、思わず「どヒャーッ!!」と叫びながら飛び上がった。
いったい、長老の身になにが起こったというのだろうか。
「ギギ ギ ギガ デ イ ン!!」
長老は両手で竿をにぎりしめたまま呻き声をあげている。そしてハゲ頭をピカピカと点滅させながら、まるでタンピングランマーで地盤を締め固める土木作業員のように激しく全身を痙攣させているのでした。
「お、おい。どうした、じいさん」
ハリーが恐る恐る長老に手を差し伸べる。そのとき、チャーリーが「まて! さわっちゃいかん!」と、慌ててハリーの肩をつかんで制した。
「これは、たぶんシビレエイだ」
「しびれ……えい?」
大五郎は首をかしげた。シビレエイとは、いったいなんなのか。
「電気ウナギみたいなやつだよ。そいつにさわると、こうなる」
まるで電球のように激しく点滅する長老のハゲ頭を指差しながらチャーリーは言うのであった。
「どうするんだ。これじゃあ、じいさんを助けられないぜ?」
眩しそうに目を細めながらハリーが首をふった。
「オレにまかせろ」
チャーリーが竿の先から垂れる釣り糸に向かってナイフを投げつけた。
「――エ レ キッ……テル!!」
糸が切れると同時に、長老が勢いよくうしろに弾け飛んだ。そして背中から甲板に倒れ込み、後頭部を強打した。
気を失ったのだろうか。長老は白目をむいたままうごかない。まるでカニのように口から白い泡を吐きながら、長老はピクピクと痙攣しているのでありました。
「やれやれ。寿司を食べそこなったな、ぼうず」
ハリーが苦笑混じりに肩をすくめた。
「おいら、カレーがたべたい!」
大五郎が笑顔で手を上げると、ハリーは不思議そうな顔になった。となりでチャーリーもおなじ表情を浮かべながら、ハリーと顔を見合わせた。
「ようし。今日の晩メシはカレーにするか」
チャーリーが白い歯を見せて笑った。
「うん!」
大五郎も笑顔でうなずくのであった。
※ギガデイン・・・・・某ロールプレイングゲームに登場する
サンダー系の魔法。
――蒼穹の騎士――
左舷のタラップを駆け上がると、太陽の光が目に飛び込んできた。
「まぶしい!!」
大五郎は掌で陽射しをさえぎりながら空を仰いだ。透き通った大きな蒼い空。吹き抜ける風も柔らかく、心地よい。今日もいい天気である。
ふと艦首のほうに目を向けると、大勢の老若男女が車座になっていた。その中央で、右手に杖をにぎった老人がひとり、あぐらをかいていた。長老である。なんの話をしているのかわからないが、彼らは長老の話を熱心に聞き入っていた。
甲板の上には、ほかの難民たちの姿もあった。ときどき笑い声も聞こえるが、なかなか笑顔は見つからない。青く晴れ渡った空とは対照的に、みんなの表情は曇っていた。大五郎は、反対側の右舷にそびえる大破したブリッジに目をやった。潜水艦の攻撃で大破したブリッジ。操舵室もやられ、舵も失った。無線機も故障してるので、救助を呼ぶこともできない。飛行機も、みんな壊れてしまったので脱出は不可能だった。
大五郎はブリッジに背を向けると、つま先立ちになってまわりを見渡した。水平線の向こうには、大きなまっ白い夏雲が広がっている。どこを見ても、陸地は見えない。ちかくを航行する船もない。カモメの鳴き声すら聞こえない。聞こえてくるのは、波の音と風の声だけ……。
大五郎は、なんだか急に両親が恋しくなってきた。
(おかあさん、おとうさん……!!)
涙で視界が霞む。
(泣いてたまるか)
大五郎は、ぐっと奥歯をかみしめて蒼い空を見上げた。
きっと、だれかが救助に来るはずだ。きっと、だれかが見つけてくれるはずだ。かならず助かる。母さんや父さんも、きっとどこかで生きているにちがいない。だから、最後まであきらめてたまるか。目に溜まった涙がこぼれないよう、大五郎はじっと蒼い空をにらんでいた。
ガラン……ガラガラ……
しばらくすると、艦尾のほうからなにか音が聞こえてきた。なんの音だろうか。大五郎は、音のするほうをふり向いた。
「あっ!」
フライトスーツ姿の若い男。
「おじちゃんだ!」
後部左舷のデッキサイド式エレベーターのそばでガラクタを漁っているのはチャーリーである。
「おじちゃん、なにしてるの?」
大五郎はチャーリーに駆け寄ると、笑顔で声をかけた。
「やあ、ぼうずか」
チャーリーも明るい笑顔で応えてくれた。
「ちょっとな。使えそうな部品を集めてるのさ」
「あつめて、どうするの?」
「あいつを修理するんだよ」
チャーリーはエレベーターの手前にある一機の戦闘機を親指で指しながら言った。
「あっちに、こわれてないひこうきがあるよ」
ブリッジのほうに、一機だけ無傷で残る戦闘機があるのを大五郎は知っていた。まっ赤に燃え上がる炎のような鬣をもつ白い一角獣が尾翼に描かれている戦闘機。だが、あの〝一角獣〟は空母のカタパルトが壊れてるので飛べない、とチャーリーは言った。大五郎には、どういうことなのかよくわからなかった。
「ほんとうになおせるの?」
「ああ。なおせるとも。おまえさんも手伝ってくれるかい?」
「うん、てつだう!」
大五郎は部品を集めるのを手伝った。
「こいつはハリアーといってな。戦闘機だが、ヘリコプターのような飛び方ができるんだ」
チャーリーが戦闘機を修理しながら語りはじめた。
「どういうふうにとぶの?」
「空中で静止したり、そのまま左右に移動できるんだよ。それに、滑走しなくても垂直に離陸することができる。着陸するときも、ヘリとおなじで垂直に降りることができるんだ」
身振り手振りを交えながら、チャーリーは丁寧に説明してくれた。完全には理解できなかったが、大五郎はなんとなくわかった気がしていた。
「まっすぐとんだら、はやいのかな?」
「いや、こいつは亜音速機だからな。スピードはそんなに出ないんだよ」
チャーリーはいろいろ教えてくれた。だが、友達をたくさん亡くしたようで、戦争の話はあまりしなかった。大五郎も、戦争が終わる直前に両親と生き別れになってしまった。ひょっとしたら、もう生きていないのかもしれない。そんなことを考えると、とても淋しくなるのだ。だから、チャーリーが話したくない訳も、大五郎にはよくわかっていた。
「よし。これで飛ぶはずだ」
「なおったの?」
「ああ」
「でも、あなだらけだよ?」
機体の装甲にはギザギザの穴がたくさん空いている。
「中はちゃんと直ってるから大丈夫さ。手伝ってくれてありがとうよ、ぼうず」
チャーリーが親指を立てて笑った。大五郎も親指を立てて笑った。
そのとき、ひとりの男が左舷中央のタラップを上がってきた。カタパルトオフィサーのイエロージャケットを羽織り、おなじくカタパルトオフィサーを示す黄色いヘルメットを被ったメガネの男。
「ヨシオだ」
大五郎の耳元でチャーリーがささやいた。
訝しそうな目をヨシオに向けながらチャーリーがつづける。
「あいつは、なにを話しかけても返事をしないんだ。きっと頭がイカレてるのさ」
ぎこちない笑みを浮かべながらチャーリーが肩をすくめた。
「へんなおじさんだね」
大五郎も、舳先へ向かうヨシオの背中を見ながら肩をすくめた。
あのヨシオという男は、大五郎たちがこの空母に救助された日、食堂でハリーとぶつかった男だ。それにしても、いったい彼は何者なのだろう。見たところ日本人らしいが、なぜカタパルトオフィサーの格好をしているのだろうか。やはり、チャーリーが言うように頭がイカレているのかもしれない。大五郎は、やれやれ、というようにため息をつくのであった。
ヨシオの足が止まった。空母の舳先。仁王立ちになって、ヨシオは腕組みをしている。うしろ姿でよくわからないが、彼は舳先の示す水平線のほうをじっと眺めているようだ。
大五郎も海を眺めた。水平線には夏雲が浮かび、蒼い空には太陽が白く輝いている。世界が核で消滅したことが嘘に思えるほど、爽やかな景色だった。
「蜃気楼だ」
右舷のほうでだれかが叫んだ。野次馬たちが右舷舷側に集まりはじめた。大五郎もチャーリーと一緒に人だかりのほうへ行ってみた。
水平線の少し上のほうに、大きな四角い建物のような黒い影が三つ、揺らめいている。たぶん燃料貯蔵タンクかなにかだろう、とチャーリーは言った。
大五郎は、ちらりと舳先のほうをふり向いた。ヨシオは腕組みをしたまま、じっと水平線を眺めている。いったい、彼は何者なのだろうか。
「おお! あれはまさしく!」
うしろのほうから、強引に人混みをかきわけながら長老がやって来た。そのとき、艦の端のほうに立っていたひとりの若い男が、長老に押されてよろめいた。
「おわっ! あっ、あぶっ……」
体を前後に揺らしながら、若者が両手を回している。その傍らに立ち、長老はまっすぐ蜃気楼を杖で指し示した。
「海坊主じゃ!」
長老が叫んだ。
「ギャああァァァ……!!」
若者も叫びながら海へと落ちてゆくのであった。
艦内には航空機用の広い格納庫がある。そして空母の左右の舷側には、合計四基のデッキサイド式エレベーターが設置されていた。
船体側面に沿って上下に動くエレベーターのよこ幅は二十六メートルで、奥行きが十六メートル。これは、航空機を運ぶための巨大な装置なのだ。しかし、この空母のエレベーターは後部右舷と左舷のふたつしか使えなかった。艦首右舷にあるふたつのエレベーターは故障していて動かないのだ。
航空機を格納庫に収容する場合は、主に艦首右舷の二基のエレベーターを使う。逆に格納庫の航空機を甲板に上げるときは、後部右舷と左舷のエレベーターを使うらしい。その格納庫の搬出入口には扉もカベもないので、船体の側面にはエレベーターとおなじ幅の大きな楕円形状の口がぽっかりと空いていた。
海に落ちた若者は、艦首右舷側の格納庫に空いた〝口〟からロープで助け出された。短いロープしかなかったので、甲板の上からでは三十メートル下の海面まで届かなかったのだ。しかし、格納庫の口からなら海面までは十メートル前後。十分ロープが届く高さだった。
甲板には、まだ大勢の難民や空母の乗組員たちが残っている。大五郎とチャーリーも、右舷舷側に立ちながら水平線をながめていた。
「蜃気楼、か」
両手を腰に当てた格好でチャーリーが唸った。
「ひょっとしたら、ちかくに陸地があるのかもしれんな。よし、オレが見てきてやろう」
チャーリーがハリアーに乗り込み、エンジンを始動させた。
「どうだ、ぼうず。ちゃんとなおってるだろ?」
「うん! なおってる!」
「それじゃ、いってくる。グッドラック!」
チャーリーが親指を立てて笑った。
「ぐっどらっく!!」
大五郎も笑顔で親指を立てると、風圧で飛ばされないようハリアーから離れて見守った。
「あがった!」
いよいよハリアーが上昇をはじめた。少しずつスピードを上げながら、どんどん天高く上昇していく。
「変だぞ。どこまで上がっていくんだ?」
うしろのほうでだれかが言った。
いったいどうしたことだろうか。ハリアーは垂直に上昇するばかりで、一向にまっすぐ飛ぶ気配がない。
「やっぱり、なおってなかったんじゃないのか?」
大五郎のよこでハリーが言った。カウボーイハットの下で怪訝そうに目を細めながら上昇をつづけるハリアーを見上げている。そのとき、上空のハリアーからとつぜん爆発音が聞こえてきた。
「おじちゃんがとびあがった!!」
大五郎はハリアーを指差しながら叫んだ。やはり、ハリアーは故障していたのだろう。チャーリーは機を捨てて脱出したようだ。
「まずいぞ。パラシュートが開かないみたいだ」
葉巻をはさんだくちびるのあいだから紫煙を吐きだしながらハリーが言った。左手を腰に当て、右手でカウボーイハットの鍔をもちあげ、眩しそうに細めた眼で上空の様子をうかがっている。大五郎も日差しを掌でさえぎりながら空に顔を向けていた。
ハリアーは、まだ上昇をつづけている。まるで脱出したチャーリーを追いかけるかのように。
「あ?!」
みんなが同時に声を上げた。上昇してきたハリアーのコクピットにチャーリーがふたたび収められたのだ。
「ぶるーえんじぇるすだ!」
大五郎は感動した。いまのがアクロバット飛行というやつなのだろう。大五郎は、以前テレビで観たブルーエンジェルスを思い出したのだ。
「ブラボー!!」
長老も盛んに拍手を送りながら歓喜の声を上げている。
「泣けるぜ」
ハリーはため息混じりに首をふると、左舷のタラップのほうへゆっくりと去っていった。
ハリアーのエンジン音が、徐々に遠のいていく。はるか上空。海よりも蒼く、海よりも深い大きな空に、ハリアーが沈んでゆく。やがてハリアーはキュピーンと輝き、ひと粒の小さな星になってしまいました。
「おじちゃーん!!」
大五郎はちからいっぱい叫んだ。蒼天に浮かぶチャーリーの笑顔に向かって……。
――炎のサムズアップ――
昼食を済ませると、ハリーは食堂の隅にあるベンチで昼寝をはじめた。なにもやることがないので、大五郎もとなりのベンチに座ってボーっとしていた。空母の中には子供が遊べそうなものはなにもないし、自分と年がちかい子供も乗っていない。
大五郎は、ふと幼稚園の友だちのことを思いだした。みんなは、先生は生きてるのだろうか。無事に脱出できたのだろうか。みんなと最後に会ったのは、戦争がはじまる二日まえの遠足の日だった。雲ひとつない、よく晴れた日。先生や友達と一緒にカブトムシをとったり、小川で小魚をつかまえたり、みんなでお弁当を食べたり……。とても楽しい遠足だった。また、みんなと一緒にあそびたい。母さんのつくったお弁当が食べたい。大五郎は、こみ上げてくる涙をぐっとこらえた。みんなは、きっと生きている。父さんや母さんも、きっとどこかで元気に生きているにちがいない。だから、もう悲しむのはやめよう。大五郎は、みんなの思い出をそっと胸の奥にしまいこんだ。
「どうした、ぼうず。元気がないのう」
長老がニコニコしながらやってきた。
「おいらは、げんきだよ」
大五郎もニコリと笑った。
「じいちゃん、ヒマか?」
「うむ、ヒマじゃ。なにもすることがないんでな、釣りでもしようかと思っとる。どうじゃ、ぼうずもやるか?」
「やる!」
あまりにもヒマなので、大五郎は長老とふたりで釣りをすることになった。
甲板に向かう途中、倉庫に立ち寄ってリールつきの釣竿をひとつ調達した。
「やれやれ。まるでアリの巣じゃな」
杖の音を通路にひびかせながら、長老は息を弾ませていた。幅が百センチあるかないかの細い艦内通路は、まるで迷路のようである。うっかりすると、乗組員でさえ迷子になってしまうこともあるという。艦内には陽の光が差し込まないので、通路や部屋の電灯は常に点いている状態だった。長く入り組んだ通路をひたすら進むと、ようやく甲板に通じる左舷側のタラップまでたどりついた。
「しかし、デカい艦じゃ。ひょっとしたら、わしの村より大きいかもしれんのう」
長老はその名の通り、中東の小さな村の長老だったのだ。しかし、こんどの核戦争でほとんどの国家は消滅。長老、そして大五郎たちは、帰るべき故郷を失ったのである。
「ぼうずは、疲れておらんか?」
「うん!」
「若さ、か。うらやましいのう」
長老はハゲあたまを汗で光らせながらゆっくりとタラップを上がりはじめた。しかし、ハゲているのは頭頂部のみで、長老の白髪は肩のあたりまで長く伸びているのだ。
出口の向こうに、青い空がのぞいている。釣竿を肩にかつぎ、大五郎も長老のあとにつづいてタラップを上がりはじめた。
「まぶしい!」
大五郎は掌で日差しをさえぎった。右舷中央にそびえるブリッジは上半分がミサイルで吹きとび、まるで王冠のようにギザギザになっている。その王冠の真上で、太陽が白く輝いていた。
「いい天気じゃな」
青空を仰いでうなずくと、長老はゆっくりとした足取りで舳先のほうへ歩きはじめた。大五郎は長老のあとを飛び跳ねながらついていった。舳先の向こうで、水平線が見え隠れしている。波で空母が浮き沈みしているからだ。大五郎は、ふと足を止めてうしろをふり返った。ブリッジのまわりや甲板の端には、飛行機の残骸が散乱している。
大五郎たちの乗る病院船が潜水艦の攻撃を受けて沈没したのが四日まえのことだった。運よく、ちかくを航行していたこの空母に、大五郎たちは全員、無事に救助された。しかし、空母は潜水艦の追撃を受け、ブリッジにミサイルが直撃、操舵室が吹き飛んだ。スクリューや舵も魚雷攻撃により破損、航行不能に陥った。かくして、空母は生き残ったわずかな乗員と避難民たちを乗せたまま、当てもなく太平洋を当をさまよいつづけているのだった。
「ぼうず」
舳先のほうで手をふりながら長老が呼んでいる。
「なにをしておるのじゃ。はやくせんと魚が逃げてしまうぞ」
「マグロがにげる!」
大五郎は全力で舳先のほうへ駆けだした。
そろそろ釣り糸を垂らして二時間がたつ。しかし、魚はまだ一匹も釣れていない。あぐらをかきながら竿をにぎる長老のとなりで、大五郎はつまらなそうにひざを抱えて座っていた。
「つれないね、じいちゃん」
大五郎は大きなあくびをした。
「なかなか釣れんのう」
舳先の示す水平線に目を向けたまま、長老もあくびをした。肩まで伸びた長い白髪を、さわやかな潮風でなびかせている。そして、ハゲた頭頂部は陽の光を受けて白く輝いていた。
「おいらに、いいかんがえがある!」
大五郎は立ち上がってズボンを下ろすと、釣り糸の先に向かって小便をはなつのだった。
「まきえ!」
「なるほどのう。撒き餌、か」
長老は白いヒゲを撫でながら、のん気そうにほほ笑んでいた。
「あっ、にじだ! じいちゃん、にじができた!」
大五郎は小便を指差しながら、満面の笑みを浮かべて長老をふり向いた。
「ブラボー!」
長老も親指を立てて歓喜の声を空にひびかせた。
きらきらと七色に輝くの美しい光の帯。大五郎は生まれてはじめて小便に感動していた。
――そのときである!
「フィッシュオン!!」
長老が吼えながら立ち上がった。竿が弓なりに大きくしなる。そしてリールは悲鳴を上げ、すさまじい勢いで道糸が海に引きずり込まれていく。
「マグロだ!」
きっと、マグロにちがいない。甲板に両手をついて、大五郎はじっと海の上に目を凝らした。
「こいつは大物だな」
うしろのほうで声がした。甲板に手をついたまま、大五郎はふり向いた。カウボーイハットの下で眩しそうに目を細めながらホットドッグをかじる男。
「手伝おうか?」
ハリーである。
しかし長老は返事をしない。聞こえているのかいないのか、長老は一心不乱にリールを巻き上げていた。
「マグロだよ!」
笑顔でハリーを見上げながら、大五郎は片方の手で釣り糸の先を指し示した。
「なにか浮いてきたぞ」
水面に目を細めながらハリーが言った。大五郎も海の上に視線を戻した。青い海の下から、なにか丸い、大きな黒いものが浮かんでくる。
「れおなるどだ!」
水面に向かって大五郎は叫んだ。鉢巻きと刀は装備してないようだが、あれは〝レオナルド〟にちがいない。大五郎は、そう確信した。
「あ~。あれはアオウミガメだね~」
いつからいたのかわからないが、大五郎のとなりで白髪あたまの老人が海をのぞき込んでいた。動物マニアのムツゴローである。
「釣ったら、ちゃんと逃がしてやらないとだめだよ~?」
ムツゴローは甲板の上に両手をついて大五郎とおなじ格好になっている。黒縁メガネの奥で目を細めながら、ムツゴローは無邪気な笑みを浮かべていた。
「あっ!」
大五郎と長老は同時に声を上げた。長老が竿をにぎったまま、勢いよくうしろのほうに弾け飛んだ。釣り糸が切れたのだ。
「はうぁ!」
長老は背中から倒れ込んで後頭部を強打した。口から白い泡を吹きながら、長老はピクピクと痙攣していた。
「マグロじゃなくて残念だったな、ぼうず」
やれやれというように肩をすくめると、ハリーは残りのホットドッグを口に放り込んだ。
「かわいそうにね~」
ムツゴローが言った。長老のことではない。アオウミガメに言ったのだ。アオウミガメは、まだ空母のそばに浮かんでいる。まるで助けを求めるかのように、じっとムツゴローの顔を見上げていた。
「いま針を抜いてあげるからね~」
そう言って立ち上がると、ムツゴローは飛びこみ選手のように体を大きくまえに倒し、あたまを海面に向けて腕をまっすぐに伸ばした。
「とう!!」
ムツゴローが飛んだ。まるで本物の水泳選手のような、すばらしいフォームである。しかも途中で体を丸めてひざをかかえ、みごとな前転まで披露してくれた。もちろん、着水もじつにあざやかなものだった。とても老人とは思えない身のこなしである。
立ち泳ぎをするムツゴローの元へ、アオウミガメが自ら近づいてゆく。
「よ~しよしよし」
アオウミガメのあたまを軽く撫でまわすと、ムツゴローはさっそく針を外しにかかった。
「どうかしてるぜ、あのじいさん」
呆れた口ぶりでハリーが首をふった。
「よ~しよしよし。よくがんばったね~。痛かったね~。もう大丈夫だからね~」
どうやら針が抜けたようだ。
ムツゴローは目尻にしわをつくりながらアオウミガメのあたまを撫でまわした。
「よ~しよし。それじゃあ、おうちに帰ろうね~」
ムツゴローがアオウミガメの甲羅に跨った。
「あっ、うらしまたろーだ!」
大五郎は絵本で見た浦島太郎を思いだしたのだ。
「う……ここは、いったい……」
どうやら長老が覚醒したらしい。杖につかまりながらヨロヨロと立ち上がった。
「さてと。オレはもう行くぜ」
ハリーが葉巻に火を点けた。
「じいさんも来いよ。食堂でポーカーでもやろうぜ」
「そうじゃな。それじゃ、ワシらも行こうか、ぼうず」
「おいらは、もうすこしここにいる!」
「海に落ちないように、気をつけるんだぜ?」
口もとに笑みを浮かべながら大五郎にうなずくと、ハリーはもういちどポセイドンをチラリと見やった。アオウミガメの背に乗るムツゴローが、波に揺られて、ゆっくりと空母から遠ざかってゆく。ハリーはくわえた葉巻から煙を立ちのぼらせながら、呆れたように首をふった。
「それじゃ、あとでな。ぼうず」
葉巻をふかしながら、ハリーが左舷のタラップを降りていった。長老もハリーの後につづき、ゆっくりとタラップに向かってゆく。両手で杖をにぎりしめ、寄りかかるように歩いている。まだ、あたまがハッキリしていないのだろう。その足取りはふらふらとおぼつかず、なんだかゾンビが歩いているようで気味が悪い。
はたして、長老は無事にタラップを降りることができるのだろうか。
「あっ……!」
あぶない、と大五郎は叫ぼうとした。長老がタラップを踏み外したからだ。だが、もはや手遅れである。
「ぅわラッ……ば!」
断末魔と共にタラップを転げ落ちる長老。その様子は、さながら山の斜面を転がってゆく落石のようでした。
「なけるぜ」
大五郎は大きなため息をつくと、ハリーの真似をして肩をすくめるのでした。
しずかになった。甲板にいるのは大五郎だけである。舳先でひざを抱えながら、夕焼け空の下で朱く燃える海をながめていた。はるか水平線の向こうに、紅い夕陽が半分沈みかけている。アオウミガメの背に跨るムツゴローの影が、夕陽の中に黒く浮かび上がっていた。
しばらくボーっと朱い海をながめていると、背中のほうから何者かの足音がちかづいてきた。大五郎は、ひざを抱えたままうしろをふり向いた。
「あっ」
カタパルトオフィサーのイエロージャケット、そしてカタパルトオフィサーを示す黄色い甲板作業員のヘルメットを被るメガネの男。ヨシオである。
大五郎のとなりに立つと、ヨシオは腕組みをして舳先の示す水平線のほうをながめはじめた。いや、夕陽を見つめているのだろうか。ヨシオのメガネは、陽の光を受けて白く輝いていた。
大五郎がヨシオに声をかけようとしたとき、もうひとつ足音が聞こえてきた。
「いい夕陽じゃな」
うしろの声にふり向くと、シワだらけの顔でスミスじいさんが笑っていた。産毛のような白髪あたまは地肌が見えており、右のこめかみには大きな茶色いシミができていた。
大五郎のとなりに立つと、スミスじいさんは夕陽に目を細めた。
「夕陽を見ると、思い出すのう。わしらの国を……世界を焼きつくした、あの忌まわしい炎の色を」
ふたりの間でひざを抱えながら、大五郎も夕陽をながめていた。核の炎は、人々に地獄の闇をもたらした。しかし、夕陽の炎は人々に安らぎの夜を与えてくれる。そして朝の陽射しは、人々の心に希望の火をともしてくれるのだ。そんな太陽に、大五郎は両親の温もりを感じているのであった。
「おや、なんじゃあれは?」
スミスじいさんがムツゴローを指差した。
空母の前方、およそ五百メートルのところを、アオウミガメの背に跨るムツゴローが漂っている。紅く燃える水平線のほうへ、ゆっくりと遠ざかりながら。
「あっ!」
スミスじいさんと一緒に大五郎は叫んだ。
とつぜん、海の中から大きなサメが現れたのだ。まるでクジラのように巨大なサメは、ムツゴローのまわりをぐるぐる回りながら品定めをはじめた。はたして、ムツゴローの運命やいかに?!
「ああっ!」
大五郎はまたスミスじいさんと一緒に叫んだ。
口を大きく開けながら、巨大なサメがムツゴローめがけて高く飛び上がったのだ。
「くわれたーっ!」
大五郎も飛び上がって叫んだ。ムツゴローとアオウミガメは、ひと口で巨大なサメに飲み込まれてしまった。浦島太郎よろしく、ムツゴローたちは皮肉な最期を迎えたのであった。
おどろいて口を大きく開けすぎたのだろう。スミスじいさんの口から入れ歯が飛びだした。
「ばっちい!」
大五郎は足もとに落ちてきた入れ歯を海に向かってけり飛ばした。
「ああっ」
スミスじいさんが慌てて海に身を乗りだした。まっすぐに伸ばしたスミスじいさんの右手が入れ歯を追いかける。
「あっ」
大五郎は大げさな声を上げた。スミスじいさんの足が甲板から離れたからだ。入れ歯と共に、スミスじいさんは朱い海へと落ちていった。
「じいちゃんがおちた!」
大五郎はヨシオを見上げた。しかし、ヨシオは動かない。ヨシオは腕組みをしたまま、じっと水平線のほうを見つめていた。
「じいちゃん!」
大五郎は甲板に両手をついて海をのぞき込んだ。白い波紋の中に、スミスじいさんのあたまが浮かんでいる。スミスじいさんは両手で宙を、そして水面をかいて、叫びながら助けを求めていた。
「じいちゃんがおぼれてる!」
甲板に両手をついたまま、大五郎はヨシオを見上げた。ヨシオは水平線に目を向けたまま、だまっている。まるで気にしていない様子だ。舳先のほうから差し込む夕陽の光を正面に受けながら、ヨシオは黄昏ているのであった。
「あっ」
大五郎が海の上に視線を戻すと、さっきまで見えていたスミスじいさんのあたまはすでになく、右腕だけが、まっすぐに海面から突きだしていた。しかも、天に突き上げたそのこぶしは、なぜか親指を立てているのであった。
大五郎は「はっ」とした。ある映画のワンシーンを思い出したのだ。スミスじいさんは、きっとあのシーンを再現しようとしているにちがいない。
「じごくであおうぜ、べいびー!」
大五郎も親指を立てて叫んだ。
すると、海面から突きだしたスミスじいさんの腕が、ゆっくりと沈みはじめた。力強く親指を立てたまま、スミスじいさんは朱く燃える海の底へと沈んでゆくのであった。
スミスじいさんを見送ると、大五郎は立ち上がってヨシオを見上げた。
「おじさんは、さっきからなにをみてるの?」
ヨシオは返事をしない。腕組みをしながら、じっと夕陽を見つめている。いったい、ヨシオはなにを考えているのだろうか。
「あっ」
まぶしい。ヨシオのメガネが燃えている。夕陽の光を受けて、メラメラと燃えている。大五郎は目を細めてしばたきながら、白く燃えるヨシオのメガネをいつまでも見つめていた。
大きな戦争があった。
世界は核の炎に包まれ、国家という国家は消滅した。
生き残ったわずかな乗組員と避難民たちを乗せたまま、大海原をあてもなく漂う一隻の航空母艦。
ここは太平洋のド真ん中。
羅針盤の針がくるくる回る。天国と地獄を交互に指しながら、くるくる回る。
今日も夕陽は真っ赤に燃える。
空と海を朱に染めて……。
――ぐっどらっく!!――
「小僧、名は?」
「だいごろう!」
「大五郎、か。いい名だ」
ヨシオは水平線をじっと見つめたまま話していた。空母の舳先で仁王立ちになり、腕組みをしながら。大五郎も、ヨシオの傍らでひざを抱えて青い海を眺めていた。
「おじさん。このふねは、どこにむかってるの?」
大五郎はひざを抱えたままヨシオを見上げた。
「さあな。空母の動力はまだ生きているらしいが、スクリューは魚雷で破壊されている。おまけに、操舵室もミサイルで吹き飛んでしまった」
舳先の示す水平線に目を向けたままヨシオが言う。
「この空母がどこに向かっているのか。どうしても知りたいのなら、海にでも訊くんだな」
ヨシオのメガネが朝陽を受けて白く輝いている。その輝きの奥で、彼はいったいなにを見ているのか。大五郎にはわからなかった。
「よう。なにしてんだ、おめえたち」
酔っぱらいのトーマスじいさんだ。ウィスキーのボトルを大きく傾けながら、左舷のタラップを上がってきた。
「今日も朝から酔っているのか。トーマスじいさん」
舳先の示す水平線に目を向けたままヨシオが言った。
トーマスじいさんはいつも酔っていた。彼の素面の姿を見た者は、おそらくだれもいないだろう。
「もう食料だって底を尽きかけてんだぜ? おまけに艦の舵もイカレちまってる。これが酔わずにいられるかってんだ」
グチをこぼしながら、トーマスじいさんは大破したブリッジのそばにある戦闘機のほうに千鳥足で歩いていった。唯一、奇跡的に無傷で残っていた一機の戦闘機。そして、その尾翼には、まっ赤に燃え上がる炎のような鬣をもつ白い一角獣が描かれている。赤く鋭い眼をした、白い一角獣。とくに殺気のようなものは感じないが、どこか近寄りがたい雰囲気の漂う不思議な絵だった。
ちかくに転がるガレキで足場をつくると、トーマスじいさんは〝一角獣〟のコクピットによじ登りはじめた。いったい、あのじいさんはなにをやろうとしてるのだろうか。
「おーい」
トーマスじいさんがコクピットの中から手をふってきた。ウイスキーのボトルをかたむけながら、げらげら笑っている。大五郎はため息をつきながら赤い顔に背を向けた。
「あっ」
大五郎は海を指差しながら叫んだ。
「クジラだ!」
空母の前方、およそ百メートルのところで大きなクジラが潮を噴いた。こんなにちかくでクジラを見たのは初めてだった。
「おじさん、ほら! クジラだよ!」
クジラを指差しながら大五郎はヨシオを見上げた。しかし、ヨシオの表情は変わらない。彼はマユひとつ動かすことなく、じっと水平線の向こうを見つめていた。腕組みをして、仁王立ちのままで。
そのとき、とつぜん背後でなにかが爆発した。おどろいてふり向くと、トーマスじいさんが乗っていた戦闘機のキャノピーが吹き飛んで、コクピットから白い煙が立ちのぼっていた。
「トーマスめ。脱出装置のレバーをいじったな」
風で右舷の方向に流されるパラシュートをにらみながらヨシオが言った。
「だっしゅつそうち?」
ヨシオの顔を見ながら大五郎は首をひねった。
「~~!! ~~っ!!」
風に流されながら、トーマスじいさんがなにかを叫んでいる。まるで風に舞うタンポポの綿毛のように、ふわふわと流されながら叫んでいる。
「~~っ!! ……」
トーマスじいさんの叫び声が消えた。
右舷の方角、およそ三百メートルの地点。波間を漂うパラシュートに向かってヨシオが右腕をまっすぐに突き出し、親指を立てた。
「グッドラック!!」
ヨシオが手首を回して親指を下に向けた。
「ぐっどらっく!!」
大五郎も、おなじ格好になって叫んだ。そしてヨシオを見上げ、ニコリと笑った。
陽の光でメガネを白く輝かせながら、ヨシオもニヤリと笑った。
翌朝。信じられないことに、トーマスじいさんは空母にもどってきていた。彼の話によると、なんとクジラに助けられたというのだ。そのクジラは溺れているトーマスじいさんをあたまの上に乗せると、ゆっくりと泳ぎはじめた。そして空母のそばまでくると、クジラは勢いよく潮を噴きだした。トーマスじいさんは潮と一緒に空高く噴き上げられた。そこまでは覚えているが、そこから先の記憶はハッキリしていないらしい。空から甲板に落ちたときに激しく後頭部を打ちつけて気を失ったからだ。ちなみに彼の話を信じている者はだれもおらず、所詮は酔っぱらいのたわごとだと相手にされていなかった。だが、大五郎だけは信じていた。トーマスじいさんを助けたのは、きっとあのときのクジラにちがいない。大五郎は、トーマスじいさんがうらやましかった。自分もあの大きなクジラと遊んでみたかった。あのクジラのつくった虹の橋を歩いてみたかった。大五郎は、秘かにそんな夢を見ているのであった。
――黒い背ビレ――
今日も空は蒼く、そして日差しも強い。大五郎は空母乗組員のキャップを被って舳先に座り、釣り糸を垂らしていた。そのよこで、ヨシオが仁王立ちになって腕組みをしている。いつものように、じっと水平線を見つめているのだ。
「よう、ぼうず。景気はどうだい?」
声にふり向くと、渋色のくたびれたカウボーイハットの男が立っていた。釣竿を肩にかつぎ、葉巻をプカプカとふかしながら、眩しそうに目を細くして笑っている。
「あっ、かうぼーいのおじちゃん!」
ハリーである。
「なんだ。まだ一匹も釣れてないのか?」
「うん。ぜんぜんつれないや」
「なあに、もうすぐ釣れるさ」
「どうしてわかるの?」
「そろそろお昼だからさ」
そう言って大五郎のとなりに腰をおろすと、彼はさっそく釣り糸を垂らしはじめた。
「さかなも、ひるごはんをたべるじかんだね」
「そういうこと」
ハリーが葉巻をくわえたまま大五郎にほほ笑んだ。でも、ハリーはいつも眩しそうな顔をしているので、笑っていても大して表情は変わらなかった。
「あんたは釣らないのかい? 大将」
正面を向いたままハリーが言った。彼はヨシオに訊いたのだ。しかし、ヨシオは応えない。彼には、ハリーの声が聞こえなかったのだろうか。
「オレは、あんたに訊いてるんだぜ」
ハリーが大五郎越しにチラリとヨシオの顔を見上げた。怪訝そうにマユをひそめ、カウボーイハットの下から静かにヨシオの顔をにらんでいる。だが、ヨシオはハリーを無視しながら、じっと水平線をながめているのだった。
「ムダなおしゃべりはハラが減るだけ、か」
ハリーが苦笑混じりに鼻を鳴らした。彼は水平線に視線を戻して「やれやれ」というように何度か小さく首をふった。
海は静かだった。風もなく、波も穏やかである。しかし、いまだ魚の釣れそうな気配はない。
「やっぱり、つれないね」
大五郎のハラの虫が鳴いた。
ハリーが手首を回して腕時計を見る。
「やれやれ。一時間ねばって収穫なし、か。泣けるぜ」
泣けるぜ。それがハリーの口癖だった。だが、実際にハリーが泣いているところを、大五郎はまだ見たことがなかった。
ハリーは陽気に鼻歌を交えながら、甲板に片ヒザをついて竿を片づけはじめた。そして、大五郎も竿を片づけようと思ったときである。
「魚料理は当分お預け、ってわけか」
ふいにポツリとつぶやき、ヨシオがほくそ笑んだ。ハリーの手が止まる。彼は、無言のままカウボーイハットの下からヨシオをにらみ上げていた。ヨシオは仁王立ちで腕を組み、水平線に目を向けたまま肩をゆらしている。ハリーは口に葉巻をくわえたまま、冷たい視線をヨシオのよこ顔に向けている。彼は鼻とくちびるの隙間からゆっくりと紫煙を吐きだしながら、ばかばかしい、というように首をふった。
しばし不愉快そうな顔でヨシオをにらみつけると、ハリーは竿をもって立ち上がった。
「食堂に行く。ぼうずも来るか?」
ハリーが大五郎に笑顔を向けて言った。
「いく!!」
大五郎も笑顔で手を上げながら応えた。
「あんたは、来ないのか?」
ヨシオに背を向ける格好でハリーが訊いた。しかし、案の定、ヨシオは答えない。ハリーはうんざりしたようにため息をつき、首をよこにふっていた。
「おじさん、さきにいってるよ?」
大五郎も声をかけたが、彼は返事をしなかった。やはり、この男はイカレてるのかもしれない。大五郎もハリーの真似をして首をふった。
大五郎はハリーとふたりで左舷のタラップに向かって歩きはじめた。そのとき、ふいに遠くで叫ぶ人の声のようなものが大五郎の耳に聞こえてきた。
「あっ!」
大五郎は左舷正面の海を指差した。
「なにかくる!」
「ボートだ。人が乗ってるぞ」
カウボーイハットの鍔をもち上げながらハリーが言った。
それは小型のカッターボートで、乗っているのは年配の男がひとりだけだった。
「たすけてくれー!」
こちらに向かって両手をふりながらボートの男が叫んでいる。
「エンジンが故障したか。あるいはガス欠か」
足もとに落とした葉巻をふみ消しながらハリーがつづける。
「とにかく、このまま見殺しにしたんじゃあ寝覚めがわるい」
「たすけるの?」
「ああ」
そう言ってひとつため息をつくと、ハリーは舳先に立つヨシオをふり返った。
「あんたも手をかしてくれ。ロープを探すんだ」
ヨシオは肩越しにハリーを一瞥し、無言でブリッジのほうへ歩きはじめた。右舷中央にそびえる大破したブリッジ。その根元にころがるヘリコプターの残骸を目指しながら、ヨシオが歩いてゆく。ハリーは彼に視線を向けたまま、静かに口もとで笑った。
ハリーが左舷に転がる残骸を漁りはじめた。大五郎も、ハリーと一緒にロープを探した。
左舷後部の縁に備えつけられていた縄梯子は、もう使えなかった。潜水艦の攻撃を受けたときに被弾した戦闘機の燃料をかぶり、そこに炎が引火して焼き切れてしまったのだ。
ボートが潮の流れに乗って空母に近づいてくる。ときどきやってくる高い波が船底をもち上げ、ボートが大きく浮き沈みする。
「おーい! たすけてくれー!」
「まってろ! いま助ける!」
ハリーがボートの男に向かって叫ぶ。
ボートは、もう空母のすぐそばまでやってきていた。白い船体の船首部分には黒い塗料で「K・G・B 1564」という番号が大きく描かれている。乗っている男の齢は、だいたい七十ぐらいだろうか。いささか神経質そうな顔をした〝バーコードハゲ〟の男で、どことなくハゲタカにそっくりだ、と大五郎は思った。
「あっ、ろーぷだ!」
大五郎はブリッジのほうを指さした。ヨシオだ。ヨシオが救助用のロープを肩にかついで歩いてくる。
「でかした、大将」
ハリーがよろこんだときである。
「ぎゃーっ!!」
男の悲鳴だ。
「あっ!」
大五郎が悲鳴にふり向くと、男のボートがひっくり返っていた。空母のすぐよこで、ボートが転覆している。そして男は、ボートのそばで溺れているのであった。
「なんてこった」
ハリーが舌打ちした。
まもなく大五郎の傍らにヨシオがやって来た。
「どうやら、このロープでは海まで届きそうにないな」
ヨシオが海を見下ろしながらつぶやいた。
海面から甲板までの高さは、少なくとも三十メートル以上はあるだろう、と大五郎は思った。
「よし、エレベーターで降りよう」
ハリーが左舷後部のデッキサイド式エレベーターに向かって駆けだした。大五郎もヨシオと一緒にエレベーターに向かった。
航空機用のデッキサイド式エレベーターの幅は、だいたい二十六メートルで、奥行きが十六メートル。格納庫の外側に設置されていて、普段はいちばん上まであがった状態になっていた。エレベーターが格納庫の床の高さまで下がっていると、甲板の端の一部が欠けた状態になる。この大きな変形五角形のエレベーターは、甲板の一部を利用した装置なのである。
エレベーターを動かすための操作盤は、甲板の淵の足場のところにあった。その操作盤のよこにあるタラップは、下の格納庫へ通じていた。
「下げるぞ」
ハリーがエレベーターのスイッチを入れた。一瞬、フワッと体が浮く感じがしたかと思うと、あっという間に甲板が見えなくなった。そして甲板が見えなくなると、すぐに格納庫が視界に広がってきた。格納庫の搬出入口には扉もなく、カベもない。エレベータの幅に合わせて、船体側面にぽっかりと空いた楕円形状の大きな口。その口を半分ほど沈むと、こんどは格納庫の向こうに海が見えてきた。反対側の、後部右舷エレベーターの搬出入口である。この空母には、合計四基のデッキサイド式エレベーターがある。しかし、艦首右舷のブリッジ前方に設置された二基のエレベーターは故障しているので使えなかった。
海面から十メートルぐらいのところでエレベーターが止まった。大きさの割に動作は速く、だいたい十秒前後で移動できた。
「大将、はやくロープを」
ハリーが格納庫のほうから駆けてきた。
「たっ、たすけてくれぇーっ!」
海面に突きだしたあたまが叫んでいる。しかし、ヨシオは一向にロープを投げようとしない。丸めたロープを肩にかついだまま、エレベーターの淵から無言で〝あたま〟を見下ろしていた。
「はやく投げろ、大将。ここからならギリギリ届くはずだ」
ヨシオのよこであたまを指さしながらハリーが言った。
エレベーターの右前方。距離は、約十メートル。男は逆さまになったボートの船底にしがみつきながら、ヨシオのロープを待っている。
「おーい! わ 私は大統領だ! 礼は十分にする。だから、たっ……たのむ。たすけてくれぇーっっ!!」
なんということでしょう。おどろくことに、ボートの男の正体は大統領だったのです。
「聞いたか、大将。太平洋のド真ん中で、まさかこんな大物が釣れるとは思わなかったぜ」
ハリーが冗談めかして笑った。しかし、ヨシオの顔色は変わらない。男を見下ろす彼のメガネが、陽の光を受けて白く輝いている。その輝きから、大五郎は殺気のようなものを感じていた。
「なにをしている。なぜロープを投げないんだ?」
ハリーが怪訝そうな目をヨシオのよこ顔に向ける。すると、ヨシオはハリーをジロリと一瞥し、ようやく海に向かってロープを投げるのであった。
「あ!?」
大五郎はハリーと一緒に声を上げた。ヨシオはロープを投げたのではない。投げ捨てたのだ。ロープはボートの手前に落ちて、螺旋状にほどけながら、ゆっくりと海の底へ沈んでいった。
「なにをする!」
とがめるような口調でハリーが言った。だが、ヨシオは答えない。無言のまま、じっとボートのほうに目を向けている。
「なぜだ。なぜロープを捨てたんだ。いったい、どういうつもりなんだ」
ハリーが戸惑った表情でヨシオの横顔に問いかけた。しかし、やはりヨシオは答えなかった。彼はハリーを無視して、ゆっくりと格納庫のほうへ去ってゆくのであった。
ハリーは遠ざかってゆくヨシオの背中を唖然とした表情で見送っていた。
いったい、なぜヨシオはロープを捨てたのか。大五郎もハリーのよこに立ちながら、格納庫の通路の奥に消えてゆくヨシオの背中を呆然と見送っていた。
「おーい!」
大統領の声だ。大五郎は格納庫に背を向け、海に向きなおった。
「はっ、はやく! はやくたすけてくれぇーっ!」
大統領がボートにつかまったまま波に流されてゆく。しかし、大五郎たちにはどうすることもできない。大五郎たちがまごついてる間に、大統領は見る見る空母から遠ざかってゆくのだった。
「あっ、またなにかきた!」
大五郎は大統領にせまる三角形の黒い背ビレを指差した。
「まずいぞ。あれはサメだ」
ハリーが絶望的な表情でつぶやいた。
海面から突きだした三角形の黒い背ビレは、溺れる大統領のまわりをぐるぐると走りはじめた。
大五郎は「はっ」とした。もしや、ヨシオはサメの気配に気づいていたのではないか。だから、彼はロープを捨てたのだ。大五郎は、そう確信するのであった。
「あっ!」
大五郎は思わず声を上げた。大統領の姿が消えたからだ。
ボートのよこで、海面が大きな渦を巻いている。
「くわれた!」
大五郎はゴクリとつばをのんだ。
「逃した魚は大きい、か。泣けるぜ」
ため息混じりにつぶやくと、ハリーは渦に背を向けて格納庫のほうへ去っていった。
「おいらも、ひるごはんをくおう!!」
大五郎も格納庫の通路を駆け抜けて食堂に向かった。
――トリトン――
「おい、あれを見ろ!」
舳先のほうで、だれかが叫んだ。艦首右舷の船縁でヨシオと一緒に海を眺めていた大五郎は声にふり向き、男の指差すほうを見やった。空母のおよそ三百メートルほど前方に、赤い、大きな柿の種のようなものが浮かんでいる。
「あかいクジラだ!」
赤い物体を指差しながら大五郎は叫んだ。
「いや、あれは軍艦だ」
静かな口調でヨシオが言った。
「でも、たいほーがついてないよ?」
「ひっくり返ってるから見えないのさ」
そうつぶやくと、ヨシオはゆっくりと舳先のほうへ歩きはじめた。大五郎も、ヨシオのうしろをついて行った。
カタパルトオフィサーのイエロージャケット、そして、おなじくカタパルトオフィサーのヘルメット。しかし、この空母の乗組員でヨシオのことを知る者は、ひとりもいない。いったい、ヨシオは何者なのか。ヨシオは、なぜそんな格好をしているのか。大五郎は不思議そうにヨシオの背中を見つめながら思うのだった。
舳先に立つと、ヨシオは腕組みをして軍艦の赤い船底をにらみつけた。転覆している軍艦の全長は、海面に出ている部分だけでもこの空母の三分の一ぐらいはありそうだ。ヨシオのよこに立ちながら、大五郎はそう思った。
「まずいぞ。このままじゃあ、ぶつかっちまう!」
空母の乗組員らしき男がうろたえている。舳先のほうに、野次馬たちがぞろぞろと集まりはじめた。
「おお、あれは!」
うしろのほうから強引に人混みをかき分けるようにして長老がやってきた。
「シーサーペントじゃ!」
長老は大五郎のよこに立つと、赤い船底を杖で指示しながら叫んだ。
転覆した軍艦のそばに、大きな黒い影が浮かんでくる。
「モーガウル……いや、チェッシーか」
差し迫った表情で長老がなにかつぶやいた。ハゲた頭頂部を汗できらきらと輝かせ、カッと見開いた眼は血走り、まるで生まれたての仔馬のようにガクガクブルブル震えている。この老人は、その名の通り、以前は小さな村の長老だったのだ。中東の、小さな村だ。しかし、その村はもう存在しない。世界は核の炎で焼き尽くされ、長老の村も消滅してしまったのだ。
「む!」
ヨシオのメガネが強く光った。
「あっ!」
指差しながら、大五郎も声を上げた。現れたのはシーサーペントなどではない。いつぞやのクジラだった。クジラは潮を噴きながら、軍艦のまわりをゆっくりと泳ぎはじめた。いったい、これからなにがはじまるのだろうか。ヨシオのズボンを右手でぎゅっとにぎりしめながら、大五郎はじっとクジラの様子をうかがった。
「あっ、艦に体当たりしたぞ!」
舳先の隅で、だれかが叫んだ。
艦尾の方向から軍艦に体当たりしたクジラは、そのままあたまを押しつけるようにして泳ぎはじめた。
「あっ、ぐんかんをおしている! ぐんかんをどかそうとしてるんだね、あのクジラ」
大五郎はクジラを指差しながらヨシオを見上げた。ヨシオは腕組みをしたまま、だまってクジラを見つめている。
みんなも不安げな表情で静かにクジラを見守っている。クジラは大きな尾ビレを上下に動かしながら、必死に泳いでいる。しかし、軍艦はなかなか動かない。赤い船底は、すでに空母の前方、およそ百メートルのところまで迫っていた。
「だめだ。やっぱり、オレたちはここで死ぬんだ」
ひとりが弱音をもらすと、にわかに甲板中が悲観的なムードに染まりはじめた。
「どうせ救助は来ないんだ。遅かれ早かれ、こうなる運命だったのさ」
「助かったところで、もう帰る場所はないんだ。これ以上地獄を見るぐらいなら、死んだほうがマシだ」
そのときである。
「いいかげんにせぬか!!」
長老が杖を甲板に突き立てながら声を荒げた。
「みなの気持ちはよくわかる。ワシも、故郷を……あの生まれ育った村は、もう思い出の中に消えてしもうた。じゃが、まだ消えずにのこっている物が、ひとつだけある」
長老はいったん言葉を切ると、赤い船底にゆっくりと向きなおった。
「それは……希望、じゃ」
静かに、だが、力強い口調で長老がうなずいた。みんなも神妙な面持ちで長老の話に耳をかたむけている。ヨシオは聞いているのかどうかわからないが、落ちついた表情で腕組みをしながらじっと赤い船底をにらんいた。
長老も赤い船底をにらみながらつづける。
「まだ死ぬと決まったわけではないのじゃ。最後の最後まで、希望を捨ててはならんのじゃ。あきらめてはいけないのじゃ。見るがいい、あのクジラを」
長老が杖の先でクジラを指し示すと、みんなが「あっ」と声を上げた。
「うごいた!!」
大五郎も赤い船底を指さしながら叫んだ。はじめはゆっくりだった。そして、動きはじめると徐々に勢いがつき、赤い船底は見る見る空母からはなれてゆくのであった。
「希望……か」
ヨシオがポツリとつぶやいた。
「やった! 助かったぞ! オレたちは助かったんだ!」
青空にひびき渡る歓喜の声。ようやくみんなの顔に笑顔が戻った。だが、長老だけは、なぜか複雑な表情をしていた。
「野生の動物たちは、一瞬一瞬を全力で生きているのじゃ。真剣に生きておるのじゃ。自ら命を断とうとするのは……人間だけじゃ」
ひとつため息をついてうつむくと、長老は何度か首をよこにふった。
「あっ、クジラもよろこんでるよ!」
大五郎は笑顔でクジラを指さした。
クジラは軍艦を押しのけると、まるでみんなを励ますかのように空母のまわりを一周するのであった。
「……ありがとう、トリトン」
クジラを見つめたまま静かな口調でヨシオが言った。
「ありがとう!! トリトン!!」
どういう意味なのかよくわからないが、大五郎もクジラに向かって叫んだ。すると、トリトンは大五郎に応えるかのように空高く潮を噴き上げながら、ゆっくりと海の中へ帰ってゆくのであった。
「あっ、にじだ!」
トリトンが噴いた潮が虹になった。
「おじさん、トリトンがにじをつくったよ!」
大五郎は虹を指差しながらヨシオの顔を見上げた。しかし、ヨシオはやはり返事をしなかった。この男は、いたい何者なのか。そしてなにを考えているのか。それを知る者はだれひとりとしていなかった。
「さよなら、トリトン!!」
水平線の向こうにとどくぐらい大きな声で大五郎は叫んだ。
太陽がまぶしい。水平線には夏雲が浮かび、空はどこまでも青く晴れ渡っている。そして蒼い海には、大きな虹の橋がかかっていた。
「きれいだね、おじさん」
ヨシオは腕組みをしてだまっている。でも、きっと胸の中では返事をしているにちがいない。ヨシオのメガネに映る虹の橋を見上げながら、大五郎はそう思うのであった。
――ばるす!――
甲板を疾走する赤いトレーラートラック。その行く手を阻むように立ちはだかる銀色の拳銃。トラックは、まっすぐ拳銃に向かって突っ込んでゆく。そして、ぶつかったと思った瞬間、トラックのまえから拳銃の姿が消えた。
トラックは急ブレーキをかけ、甲板のまわりを注意深く見まわした。だが、どこにも拳銃の姿は見えない。トラックは、にわかに慌てはじめた。いったい、やつはどこへ? そのとき、何者かの黒い影がトラックの頭上をよこ切った。はっとして空を見上げる。太陽にかさなる黒い拳銃の影。やつだ。そう思った瞬間、とつぜん黒い影の形が変わった。さっきまで拳銃の形をしていた黒い影は、こんどは人間の形に姿を変えたのだ。やつめ、ついに正体を現したな。
「こい、デストロン!!」
赤いトレーラートラックも人間の形に姿を変えて迎え撃つ。
「ゆくぞ、サイバトロン!! こんどこそ決着をつけてやる!!」
デストロンが猛スピードで太陽から突っ込んでくる。サイバトロンはよこに飛び退き、かろうじて攻撃をかわす。だが、やつは空中を飛びながら、ふたたびアタックをかけてきた。反撃、いや、まにあわない。サイバトロンは攻撃を避けるため、天高く飛び上がった。だが、デストロンはすさまじいスピードで追撃してくる。させるか――サイバトロンは間一髪のところでデストロンの攻撃をかわす。そして、勢いあまったデストロンは、そのまま小高い山に激突するのだった。
「ぐわっ!!」
青空にひびき渡る悲鳴。
やったか――サイバトロンが山のほうをふり返る。雪でまっ白に染まった、大きな山だ。しかし、山頂付近は大規模な雪崩により、きれいに禿げ上がっている。そしてやつは、デストロンは、無傷のまま山の頂に堂々と立っていた。
では、いま悲鳴を上げたのは、いったいだれなのか。サイバトロンが戸惑っていると、とつぜんデストロンの足もとで山がグラグラと揺れはじめた。噴火か――サイバトロンがそう思った瞬間だった。大きな山がグルリとよこに回転した。そして、その裏側から巨大な顔が現れたのだ。
「きさまは、ユニクロン!」
デストロンが慌てて山からはなれ、身構える。そしてサイバトロンもビームライフルを構え、ユニクロンに狙いを定めた。そのとき、一本の長い大きな手が山の下から現れ、天に向かってグングンと伸び上がった。ついに動きだしたユニクロン。はたして、彼らの運命やいかに――?
「これ、痛いではないか」
山頂を撫でまわしながらユニクロンが言った。
肩まで伸びる長い白髪。だが、頭頂部は額の生え際から禿げ上がっている。そして、胸元まで伸びた、まっ白なアゴひげ。まるで仙人のような老人でる。
「いけない子じゃ」
そう優しい声で叱ったのはユニクロンではなく長老だった。
「おいらじゃない。ですとろんが、やったんだ」
大五郎は片方の手にもったおもちゃを長老の顔のまえにかざして見せた。
「なるほど、デストロンか。わるいやつじゃな」
あたまに大きなたんこぶをつくった顔で長老がニコリと笑った。
たしかに、デストロンは悪者である。
「めっ!!」
大五郎はデストロンのあたまをちからいっぱい掌で叩いて叱りつけた。
「まだ釣れないのか、じいさん?」
ハゲあたまのよこで言ったのは、渋色のくたびれたカウボーイハットを被る男。ハリーである。
「やはり、エサがわるいみたいじゃな」
「たしかに、コッペパンで海の魚を釣ろうなんて、おかしな話かもしれないな」
長老は艦首右舷にあぐらをかいて座り、釣り糸を垂らしていた。ハリーは長老のよこに立って葉巻をふかしながら、ぼんやりと水平線をながめている。
大五郎は長老の傍らで遊びながら、すぐそばの舳先にふと目をやった。甲板作業員の黄色いヘルメットを被り、カタパルトオフィサーを示すイエロージャケットを羽織った男。大五郎たちに背中を向ける格好で仁王立ちになり、腕組みをしているのはヨシオである。彼は、いつものように舳先に佇み、じっと水平線を見つめていた。しかし、日本人である彼が、なぜカタパルトオフィサーの格好をしているのか。彼は、いったい何者なのか。いつからこの空母に乗っているのか。彼の正体を知る者は、だれもいなかった。
長老が釣竿をにぎったまま、うとうとしはじめた。やはり、海の魚はコッペパンなど食べないのだろう。
大五郎は、ふたたび赤いトレーラートラックと銀色の拳銃のおもちゃで遊びはじめた。このおもちゃは格納庫の隅に無造作に置かれた木箱の中にあったのだ。とうぜん持ち主をさがしてみたが、だれも名乗り出ないので大五郎が預かることにしたのである。
このおもちゃは、とても複雑な仕組みになっていて、ふたつとも人型ロボットに変形できるようになっていた。大五郎は、さっき人型に変形させたサイバトロンを、もういちどトレーラートラックに変形させることにした。
「とらんす――」
――そのときである!
「フィッシュオン!!」
いきなり叫んだのは長老である。彼は甲板に立ち上がると、竿を大きくしならせながら、ものすごい勢いでリールを巻き上げはじめた。
「こっ、この手ごたえは……やつじゃ! リヴァイアサンじゃ!」
長老は熱狂的なUMAマニアなのである。
「しっかり巻き上げろ、じいさん」
ハリーは慌てて葉巻をふみ消すと、長老の竿に手を添えながら手伝いはじめた。
「サメだ」
釣り糸の先をにらみながらハリーが言う。
「こいつはサメだ」
「くわれる!」
大五郎がおどろいて飛び上がると、ハリーは陽気に笑った。
「こんどはオレたちが食う番だ」
だいたい百センチ前後だろうか。黒い背ビレの主は、まるでパトカーの追跡をふり切ろうとする暴走車の如く、海面の下を激しく暴れまわっていた。そして、黒い背ビレの主が大きく飛び跳ねたときである。とつぜん、ハリーと長老が弾かれたようにうしろへ吹きとんだのだ。
「はうぁ!」
長老が背中から倒れ込んで後頭部を強打した。そのよこで、ハリーも尻もちをついて転がった。
「痛てて……」
先に起き上がったのはハリーである。彼はカウボーイハットを被りなおしてからゆっくりと甲板の上に立ち上がった。
「やれやれ。糸を切られちまった」
ハリーは掌をもち上げて苦笑した。
「御馳走に逃げられたサメも、さぞ悔しがってるだろうな」
皮肉交じりに嘲笑するヨシオの背中を見てハリーがマユをひそめる。
「それじゃあ、あんたをエサにして釣ってみようか? あんたを食ったサメで作るフカヒレスープは、さぞうまいことだろうよ」
「サメ肉ソーセージのホットドッグも、なかなかいけるぜ?」
そう言ってヨシオが肩をゆらすと、ハリーはカウボーイハットの鍔を下げて呆れたようにため息をついた。
「食えないやつだぜ、まったく」
新しい葉巻に火を点けながら、ハリーも肩をゆらしていた。
長老は、まだ起き上がってこない。甲板の上に仰向けになったまま、ピクピクと痙攣している。長老は口から白い泡を吹きながら、気を失っていた。
大五郎は気を取りなおしてさっきのつづきをはじめることにした。
「とらんす――」
――そのときである!
「ヒャッホーゥ!!」
けたたましい奇声が青空にとどろいた。後部甲板のほうからだ。いったい、なんの騒ぎだろうか。大五郎は甲板に座ったまま声のするほうをふり向いた。
右舷中央にそびえる大破したブリッジ。そのよこから左舷舷側にかけて散らばったブリッジの破片や航空機の残骸。その隙間の向こう側を、なにかがものすごいスピードで走りまわっている。あれは、トーイングカーだ。飛行機を駐機場までけん引するための作業車両である。トーイングカーはティッシュペーパーの箱のような形をしている平べったい車で、むき出しになった運転席にはフロントガラスもドアもなく、最高速度は三十キロ程度だった。しかし、残骸の隙間を走りぬけるその影は、それ以上のスピードが出ているようだ。
「あっ」
ブリッジのそばにある真ん中から〝くの字〟に折れた戦闘機の残骸の向こうから、一台のトーイングカーがものすごいスピードで飛びだしてきた。運転しているのは、モヒカンあたまの男。スネーク率いる謎のモヒカングループである。モヒカン男のトーイングカーは大五郎たちのそばでタイヤを鳴らしながら急ハンドルを切り、ふたたび残骸の向こうに走り去って行った。
やつらのリーダーであるスネークは、かつてギャングのボスだったらしい。その立場は空母に来てからも変わらないようで、彼はいまでも大勢の手下を従えている。この空母にいる彼の手下は、およそ数十人。彼らはグループの一員であることを証明するために、みんなモヒカンあたまになっていた。だが、リーダーであるスネークはドレッドヘアを肩まで伸ばし、口のまわりからアゴにかけてヒゲを蓄えていた。
「やつら、トーイングカーを改造しやがったな」
ハリーが忌々しそうに紫煙を吐き出した。
「ろぼっとに、へんけいするの?」
大五郎が赤いトレーラートラックのおもちゃを見せながら訊くと、ハリーは肩をゆらして笑った。
「エンジンのリミッターを解除したのさ」
やつらのトーイングカーは通常の三倍のスピードはでるだろう。大五郎にはよくわからないが、ハリーはそう言った。
「海のギャングのつぎは、陸のギャングか。やれやれじゃな」
長老が杖につかまりながらヨロヨロと立ちあがった。
「やっぱり、ですとろんはきらいだ!」
大五郎は銀色の拳銃のおもちゃを左舷の甲板から海に投げすてた。
お昼になった。
食堂の入り口を入ると、大五郎はいちばん奥のテーブルに向かった。入口正面から奥に向かって並ぶ長テーブルの、いちばんうしろの席だ。そして、いちばん端にカベを背にして座るヨシオのとなりに腰をおろした。テーブルをはさんでヨシオの正面にハリー、大五郎の正面には長老が座っていた。昼時なので、食堂はにぎやかだった。どちらかというと、空母の乗員よりも難民のほうが多いように見える。なにがあったのかは知らないが、大五郎たちが救助されたときには、すでに正規の乗組員はほとんどいなかったのだ。もっとも、舵を失ったこの空母は海の上をさまよっているだけなので、人手不足の心配はないのだが……。
大五郎はコーンスープをひと口飲んでからコッペパンに手を伸ばした。食事は一日三食だが、いつもコーンスープと小さなコッペパンがひとつだけだった。ただ、朝食にはときどき野菜サラダが添えられることもあった。食料が不足しているのである。質素な食事だが、口に入るものがあるだけマシだと思わなくてはならない。この海の向こう、壊滅的な被害を受けたであろう地上には、飢えに苦しむ人々が大勢いるのだ。それにくらべると、大五郎たちはまだ恵まれているほうだった。
「いただきます!」
大五郎が大きく開けた口の中にコッペパンを押しこんだときである。
「みなの者ぉぉ!! よおく聞けぃ!!」
食堂にひびき渡る、けたたましい叫び声。
大五郎はコッペパンにかじりついたまま声のしたほうをふり返った。食堂の入り口のまえに、たくさんのモヒカンあたまが並んでいる。まるでどこかのヘヴィメタルバンドのように、みんなそれぞれ顔に派手な隈取りのメイクを施している。そのうちの何人かは、長さ百センチほどの白い鉄パイプのようなものを肩にかついでいる。その鉄パイプは変わった形をしていて、片方の先端部分がやや太く、そこだけ赤い色で塗装されていた。
モヒカンたちの先頭に立っているのは、口ヒゲを蓄えたドレッドヘアの大男、スネークである。いま叫んだのも、おそらく彼だろう。はたして、彼らはなにをしようとしているのか。大五郎はコッペパンをかじりながら考えた。モヒカンあたまに隈取りのメイク。ヘヴィメタル。歌。大五郎は「はっ」とした。ライブだ。まちがいない。だから、みんなメイクをしているのだ。ヘヴィメタルバンドよろしく、過激にライブでもはじめるつもりなのだ。大五郎も歌いたい。みんなで、思いっきり歌いたい。ひさしぶりの余興である。大五郎は、ワクワクしながらコンサートがはじまるのをまっていた。
「ヒャック!」
スネークの声におどろいた長老が〝しゃっくり〟をした。大五郎の向かいの席で、コップの水を少しづつ口に含みながら胸を叩いている。
スネークが親指で自分の胸を示しながらつづける。
「いいかぁ! たったいまから、この艦はオレたちが支配することになった! 逆らうやつは容赦なく海に叩き込むから覚悟しやがれ!」
にわかに食堂がどよめき立つ。
はたして、やつらの目的はなんなのか。この艦を乗っ取ってなにをするつもりなのだろうか。いずれにせよ、難民たちにどうにかできる相手ではなさそうだ。おそらく、ヨシオでも勝ち目はないだろう。大五郎がそう思ったときである。
「きさま ヒャック ら~!」
ふいにひとりの男がイスから立ち上がった。
「きさまらの血は、な ヒャック に色ぢゃぁ~!!」
しゃっくりをしながらスネークを指さしたのは長老である。
「なぁにぃ~?」
スネークが眉間にしわを寄せて長老をみらみつける。
「キサマぁ~、このオレに――」
「ヒャック」
「うるせぇジジィ! 話してる途中でシャックリすんじゃねえ!」
「やめら ヒャック れない、と ヒャック まら ヒャック ない」
「ジジイ」
スネークの眼が冷たい光を帯びはじめた。
「長生きしたかったら、オレをあんまりイライラさせないことだ」
スネークがすごむと、みんな怯えた表情をしながらだまってうつむいてしまった。唯一、落ちついた様子で他人事のように食事をつづけているのはヨシオだけだった。
大五郎が口の中のコッペパンを飲みこみ、コーンスープの器に手を伸ばしたときである。
「おい、そこのメガネの男」
ヨシオを指差したのは赤いモヒカンあたまに丸い黒縁メガネの男。
「テメェ、カシラの話を聞いてるのか」
コバヤシである。
大五郎は、となりに座るヨシオをふり返った。彼はコバヤシを無視しながら、マユひとつ動かさずに食事をつづけている。
「ヤロォ、いい度胸してるぢゃねえか」
赤いモヒカンあたまの眼が血走った。
「まあ、まて」
スネークがコバヤシの肩をつかんで制した。コバヤシはおとなしく引き下がったが、丸い黒縁メガネの奥で血走った眼はヨシオをにらんだままだった。
不敵な笑みを浮かべながらスネークがヨシオを指差した。
「テメーはたしか、ヨシオだったな。どうだ、オレと勝負してみるか? 勝ったほうがこの艦の支配者になるんだ」
すると、ヨシオはいったん食事を中断し、横目でスネークをにらみつけた。
「勝負の方法は?」
「チキンレースだ」
「チキンレース?」
「そうだ。車はオレたちが用意する。どうだ、受けて立つか?」
スネークを横目でにらんだまま、ヨシオはしばし沈黙した。スネークは鋭い眼でヨシオをにらみながら返事をまっている。
「……いいだろう」
ヨシオの返事を聞くと、スネークは黄色い歯を見せてニタリと笑った。大五郎はコーンスープの中に目をおとして顔をしかめた。そしてスネークの黄色い歯をにらみながら、手にもったコーンスープの器をそっとテーブルの上にもどした。
「勝負は明朝十時。甲板でまっている」
そして、スネークは最後にこうつけ加えた。
「逃げるなよ」
もういちどニヤリと笑い、彼は手下どもを引き連れて食堂のドアを出ていった。
「やれやれ。面倒なことになってきたぜ」
そう言ったハリーも、どこか他人事のような口調である。
「ところで、ハリー」
コッペパンをちぎりながら、ヨシオがハリーに声をかけた。
「ほう。あんたから声をかけてくるなんてめずらしいな」
意外そうな表情でハリーが笑った。
ヨシオはメガネを軽く押し上げると、静かに話をつづけた。
「おまえに手伝ってもらいたいことがあるんだが、協力する気はあるか?」
「まずは話を聞こう。手を貸すかどうかは、それから決める」
「ヒャック」
しゃっくりをしながら長老が指をボキボキ鳴らした。
「わしにも遊ば ヒャック せろや」
首を左右にふってボキボキ鳴らすと、長老は不敵に笑うのであった。
いったい、ヨシオはなにをたくらんでいるのだろうか。そして、チキンレースとはいったいなんなのか。よくわからないが、なにか面白いことがはじまりそうな予感がする。大五郎も、ヨシオたちの話にまぜてもらうことにした。
夜になった。
夕食が済むと、大五郎はヨシオとハリー、そして長老たちと格納庫へ向かった。格納庫は、ちょうど甲板の真下に位置しており、ほぼ甲板の上とおなじぐらいの広さがあった。艦首から艦尾までつづくこの広いスペースには、本来なら戦闘機やヘリコプター、それに甲板作業用の車両でうめつくされているはずだった。しかし、この空母には動く航空機は一機も残されていなかった。みんな戦争で失われてしまったのだ。
格納庫のいちばん奥に、フレアパターンの塗装が施されたトーイングカーが二台並んでいる。後部左舷エレベーターの搬出入口のすぐよこである。トーイングカーは航空機を駐機場まで運ぶための作業車両で、ティッシュペーパーの箱のような形をしていた。フロントガラスやドアなどはなく、遊園地にあるゴーカートのような乗り物なのだ。
「あっ、だれかいるよ?」
大五郎はトーイングカーのほうを指差した。男がふたり、それと女性がひとり。
「オレが呼んだんだ」
応えたのはヨシオである。
「カタパルトの修理は、彼らにしかできないからな」
「ふーん……」
そういえば、チャーリーもそんなことを言っていたような気がする。たしか、カタパルトが壊れているから飛行機を飛ばすことができないんだ、と。でも、飛べる飛行機はもう残っていないのに、カタパルトを直してどうするのだろうか。明日のチキンレースで使うらしいが、いったいヨシオはなにをたくらんでいるのだろうか。そして、トーイングカーのところにいる三人は何者なのか。みんな知らない顔ばかりである。大五郎はヨシオのうしろに隠れながら、恐る恐るついていった。
「よう、きたかヨッシー。ビビッて逃げ出すのかと思ってたぜ」
赤い作業服の太った男が両手を広げて歓迎した。正面に「M」のマークが入った赤い作業帽を被り、先端がカールした〝ハの字〟の口ひげを生やした男。
「時間がない。さっそく作業に取り掛かってもらいたいんだが……そのまえに自己紹介でもしておくか?」
相変わらずそっけない態度のヨシオに、マルコは「なんだよ。あんたが紹介してくれるんじゃないのかい?」と苦笑しながら肩をすくめた。
「まあいい。おれはマルコだ。よろしくな」
赤い作業服の男が気を取りなおして名乗ると、ハリーも握手をして名乗った。長老も「よろしくのう」と笑顔で握手をした。それからマルコは大五郎の顔のまえにあたまをかがめると、口ひげの下から白い歯を覗かせてニヤリと笑った。
「よう、ぼうず。よろしくな」
マルコが白い手袋をはめた大きな手でポンポン、と大五郎のあたまを撫でまわした。大五郎はヨシオのズボンを掴んでマルコに横顔をむけると、恥ずかしそうに無言でうなずいた。
マルコがつづけて「こいつはルチオだ」と、もうひとりの緑色の作業服の男を親指で示しながら紹介した。色はちがうが、ふたりの着ている作業服はヨシオの作業服とおなじデザインだった。
ルチオはマルコよりもあたまひとつ分ほど背が高く、やせている。そして、マルコとおなじ〝ハの字〟の口ひげを生やしており、緑色の作業帽には「L」のマークが入っている。空母の乗組員は、作業服の色でそれぞれの役割が決まっていた。マルコの赤い作業服はミサイルや爆弾などの火器類担当、ルチオの緑色の作業服はアレスティング・ワイヤーやカタパルトの担当なのだ。そして、航空機の誘導や発艦の指示を出すのがイエロージャケット。ヨシオがいつも羽織っている作業服である。
「なかよくやろうぜ、兄弟」
ルチオがハリー、そして長老と順番に握手を交わした。
「ぼうずも、なかよくやろうな」
「う、うん」
大五郎は傍らに立つハリーの顔を見上げてルチオと握手をした。
マルコがつづけて女性のほうを紹介する。
「んで、あいつは――」
「ローザよ」
女性は自分で名乗った。
「よろしく」
青い瞳に金色のロングヘア。背丈は、ちょうどマルコとルチオの中間ぐらいだ。ルチオはヨシオやハリーとおなじぐらいだろうか。三人の中でいちばん背が低いのは、赤い作業服のマルコだった。ちなみに長老はマルコよりもあたまふたつ分ほど低かった。
この三人は兄弟で、マルコが長男、ルチオが弟。ローザはいちばん年下で、ふたりの妹だった。
「それじゃ、はじめようか」
ヨシオがトーイングカーのほうに向かった。
明日、スネークというモヒカングループのリーダーとチキンレースをやるのである。そのチキンレースで使うトーイングカーを、これから改造するのだ。といっても、エンジンをパワーアップするのではない。戦闘機の前脚部分にある射出バー(カタパルトのシャトルに接続させる部分)を車体前面に取りつけるのだ。つまり、トーイングカーもろともスネークを海に叩き込もうというわけなのだ。
「それじゃ、おれたちはカタパルトの修理に取り掛かるとするか。いくぜ、ルチオ」
マルコはルチオを連れて後部右舷の航空機用デッキサイド式エレベーターで甲板へ上がっていった。
格納庫の側面にぽっかりと空いた大きな口の向こうに、まっ黒な海が見える。格納庫の搬出入口は扉もカベもないので、船体側面にはエレベーターとおなじ幅の大きな楕円形状の口が空いていた。
そとの海と空はまっ暗だが、格納庫の天井には丸いライトがたくさん並んでいるので、中は昼間のように明るかった。
「こいつは使えそうだ」
ハリーが格納庫のはしにあるスクラップの中から射出バーを見つけたようだ。長老が手伝い、ふたりで台車に乗せて運んできた。
「おいらも、てつだう!」
大五郎も手伝おうとしたが、長老は「危ないからダメじゃ」と首をふった。
「ぼうずは、そこの飛行機で遊んでいなさい」
長老が後部左舷エレベーターの搬出入口の右側に転がっている戦闘機の残骸を指さした。翼もエンジンもなく、キャノピーもない。ほとんどコクピットの部分しかないが、この戦闘機は大五郎がいつも遊んでいる〝おもちゃ〟なのである。
「ろっくおん!」
大五郎はコクピットに潜り込むと、操縦桿のトリガーや赤いボタンを人差し指と親指で押しまくった。でも、大五郎はシートに座りながらコクピットの外を見ることができなかった。操縦桿を握ると、まっ黒な計器盤に囲まれてしまう。大五郎は、まだ子供で背も低い。どんなにがんばって首を伸ばしたところで、とても照準器を覗くことはできなかった。
トーイングカーのほうからローザの話し声が聞こえてくる。大五郎はシートのまえに立って計器盤に両手をき、照準器を覗き込んだ。正面にトーイングカーが見える。搬出入口の左のカベ際だ。二台とも、車体後部をカベに向けた格好になっている。ヨシオたちは、大五郎から見て手前にあるトーイングカーのボンネットのまえによこ並びになって作業している。ヨシオを中心にローザが左、右がハリーである。長老は、ちかくのスクラップ置き場で乞食のように部品を漁っていた。
「ねえ、ヨシオ。あなたは、どうしてカタパルトオフィサーの格好をしているの?」
ヨシオの左側で作業をしながらローザが訊ねた。しかし、ヨシオは答えない。ローザによこ顔を向けたまま、だまって作業をしている。
腑に落ちない、といった表情でローザがつづける。
「みんな言ってるわ。この空母には、日系人のクルーはいないはずだ、って」
ヨシオが何者なのか。それは大五郎にもわからなかった。いや、この空母で彼を知る者はだれもいないだろう。ところでヨシオの名前はチャーリーから聞いてはじめて知ったのだが、なぜチャーリーは彼の名前を知っていたのだろうか。もっとも、それを知るチャーリーは、もうこの空母にはいないのだが。
数日まえ、チャーリーは蜃気楼の謎を暴くため、ハリアーに乗って飛び立った。だが、操縦系統の故障でハリアーは制御不能になってしまったのだ。そして、まっすぐに上昇をつづけるハリアーは、チャーリーを乗せたまま青い空の中へと消えていった。あのときのことを思いだすと、いまでも胸が痛む。グッドラック、チャーリー。エレベーターの外に輝く星空に向かって、大五郎はそっと親指を立てるのだった。
ローザは、まだヨシオにむかって話しかけている。
「あなたがいつからこの空母に乗っているのか。それは、だれにもわからない。けど、あなたはカタパルトの故障原因と破損個所を知っていた。そして、その修理方法も。不思議ね。カタパルトの内部構造は軍事機密になっているのよ。それを、どうしてあなたが知っているのかしら?」
好奇心を隠さないローザは確信をつく。だが、ヨシオは顔色ひとつ変えずに作業をつづけている。相変わらず他人事のような態度である。ハリーも、あまり関心がないのだろう。カウボーイハットの鍔で表情を隠したまま、だまって作業に集中している。
「ねえ、聞いてるの?」
ローザはうんざりした表情でヨシオのよこ顔をながめたまま二、三度小さく首をふった。だんまりを決め込むヨシオに歯がゆさを感じているようだ。
ローザはひとつため息をついて気を取りなおすと、作業をしながら話をつづけた。
「とにかく、あなたが空母乗りであることは、あなた自身の行動によって証明されたわけよ。でも、さっきも言ったように、この空母には日系人のクルーは乗っていないし、ほかの空母から移乗したクルーもいないはずなの」
ローザは手を止めると、ふたたびヨシオのよこ顔をふり向いた。
「ねえ、よかったら教えてくれない? あなたは、いったい――」
「やめときな」
ローザの声をさえぎったのはハリーである。
「人には、いろいろ事情ってもんがあるのさ。それに、ムダなおしゃべりはハラが減るだけだぜ?」
そう言ってハリーが肩をすくめると、ローザも苦笑混じりに手の平を持ちあげた。
「……そうね。ごめんなさい。立ち入ったことを訊いて」
ヨシオはローザを無視して作業をつづけている。無表情で、喜怒哀楽を忘れたような、冷たい瞳。ヨシオの雰囲気は、どことなく九郎に似ている、と大五郎は思った。
大五郎はコクピットのよこに転がっているタイヤに腰かけながら、みんなの作業を見守っていた。このコクピットの残骸は、艦尾側に機首を向ける格好でカベ際に放置されている。後部左舷側のエレベーターのすぐよこである。格納庫の中から見てエレベーターの右側にコクピットの残骸があり、左側のカベ際に彼らのトーイングカーはあった。
「これでいい」
ヨシオが静かに立ち上がった。彼は、ローザとハリーのうしろをゆっくりと通りすぎてエレベータのところへ歩いて行った。そして、カベに空いた口のまえで立ち止まり、腕組みをした。ヨシオは口の外に広がる黒い海を、無言のままじっと眺めていた。
「あいかわらず不愛想ね。おつかれさまぐらい言ったらどうなの?」
ローザが呆れ顔で軍手を外し、床に放り投げた。それから彼女はくさくさした態度で髪をかき上げながらトーイングカーの運転席に回り込み、車体の外に足を放り出す格好でシートに腰を沈めてタバコをふかしはじめた。
どうやら射出バーの取りつけは終わったようだ。だが、モヒカングループにもトーイングカーがあるのだ。しかも、彼らのトーイングカーはエンジンのリミッターが解除されているので、通常の三倍近いスピードが出るようになっているらしかった。
「やつらの車は?」
ヨシオがハリーに訪ねた。
「甲板にある。ブリッジのそばだ」
ハリーがトーイングカーのボンネットに腰をおろし、葉巻に火を点けた。ハリーとローザは、大五郎から見て手前側のトーイングカーに腰かけている。
「たしか、ぜんぶで三台……だったな?」
ヨシオはハリーに背中を向けて話している。視線は黒い海に向けられたままだ。
ハリーが葉巻の煙をふーっと吐きだす。
「細工するのか?」
「点火プラグを抜くだけだ。すぐに終わる」
どうやら、ヨシオたちはモヒカングループのトーイングカーに細工をするつもりらしい。
ヨシオが立っているエレベータのよこに、トーイングカーのタイヤがいくつか転がっている。そのひとつに、なにやら思案顔で長老が腰かけている。
「しかし、もしやつらに見つかりでもしたら、ただではすむまい。そのときは、どうするのじゃ?」
「心配ないわ」
長老に答えたのはローザだ。
「連中は朝まで起きてこないわよ」
「ドクター・ハザマが、やつらの酒に睡眠薬を仕込んだのさ」
ハリーはそう言うと、肩を上下に揺らして笑った。
「ねえ。ところで、いま何時?」
ローザがハリーに訊ねる。
手首を回してハリーが腕時計を見た。葉巻をくわえながら、カウボーイハットの下で眩しそうに目を細めている。
「そろそろ十二時になる」
大五郎は、そろそろ眠くなってきた。とくに手伝うこともないし、部屋に戻って休もうか。そう思ったときだ。
「みんな腹減っただろう。夜食作ってきたぜ」
艦尾の通路から、キッチンワゴンを押しながらマルコがやってきた。ルチオも一緒だ。
「すぱげってぃーだ!」
あまりにもいい匂いなので、大五郎はすっかり目が覚めてしまった。
ローザがパスタの皿をふたつ持って、大五郎のところにやってきた。
「ぼうやは、パスタ好き?」
そう言って優しくほほ笑むと、ローザは大五郎にパスタの皿を差し出した。
「うん! だいすき!」
大五郎はパスタの皿を受け取りながら嬉しそうに言った。
「そう。よかった」
ローザは笑顔のままうなずくと、大五郎のよこにある木箱の上に腰をおろした。
トーイングカーのほうから、みんなの話し声や笑い声が聞こえてくる。ハリーはボンネットに座ったまま、パスタの皿をひざの上に置いている。マルコとルチオは、トーイングカーのそばにあるガラクタの上に座っている。長老も、さっきとおなじところに座っている。ヨシオはエレベーターのすぐよこ、長老のとなりに立っている。彼はカベに背をつける格好で立ったまま、ゆっくりとパスタを口に運んでいた。
「いただきます!」
大五郎は、口いっぱいにパスタを頬張った。キノコのクリームチーズパスタである。マルコとルチオは料理が得意なのだ、とローザは言った。ローザは料理はしないのか、と大五郎がたずねると、彼女は苦笑しながら首をふった。いつだったか、自分がつくった料理を兄に出したところ「どうして新鮮な材料を使ってるはずなのに生ゴミの臭いがするんだ?」と、不思議な顔で言われたらしい。それ以来、彼女はキッチンに立ったことがないという……。
「おねーちゃんも、このフネでしごとしてるの?」
大五郎はパスタを頬張りながらローザに訊いた。
「ううん。おねえちゃんはね、パイロットなの」
そういえば、ローザが着ているのはチャーリーとおなじオリーブドラブの耐Gスーツである。
「じゃあ、ひこうきにのってたんだね?」
ローザは無言でうなずいた。
「甲板に、まん中から〝くの字〟に折れて壊れたジェット機があるでしょ?」
ブリッジのそばにある大破したF/A-18戦闘機。
「うん、しってる」
「あれが、おねえちゃんの飛行機なの」
ローザは戦闘機のパイロットだったのだ。もともとは別の空母に所属していたらしいのだが、核戦争による混乱で味方の空母とはぐれてしまい、たまたま近くを航行していたこの空母に緊急着艦したのだという。おかげで、この空母の乗組員である兄たちに会うことができたのでよかった、とローザは言った。
「この空母には、飛べる飛行機はもうのこっていないし、ボートもない。操舵室も、ミサイルでやられてしまった」
ローザが不安そうな顔でパスタの皿に目を落とした。
「ぼうやは、怖くない?」
ローザがなにを言おうとしているのか、大五郎にはわかっていた。
「うん。みんながいるから、へいきだよ!」
すると、ローザが「はっ」としたように顔を上げた。
「……独りじゃない。みんながいるから……」
ローザがパスタの皿をわきに置いて立ち上がった。
「みんながいるから……怖くない」
そうつぶやいて大五郎の顔にほほ笑むと、ローザはゆっくりとした足取りでエレベーターのほうへ歩いて行った。
「おねえちゃん……」
口ではあんなことを言ってしまったが、本当は大五郎も恐いのだ。本当は、ただ強がっているだけなのだ。自分のちからでは、ローザを励ますことはできない。元気にしてやることはできない。ごめんなさい、おねえちゃん。大五郎はローザの背中を見ながら、心の中で謝った。
ローザがエレベーターのまえでふと足を止めた。それから祈るような表情で夜空を見上げると、彼女は両手を胸の上に重ねて静かに歌いはじめた。まるでオペラ歌手のように、とてもきれいな歌声である。さわさわと野に咲く花を優しくなでるそよ風のように、あたたかい澄んだ歌声。しかし、どことなく哀しい雰囲気の歌だ、と大五郎は思った。
マルコ、ルチオ、ハリー、長老、そしてヨシオ。みんな静かな表情でローザの歌を鑑賞している。大五郎はひざを抱えて目を閉じた。生き別れになった両親の顔が、ふとまぶたに浮かんだ。国外に脱出するため、両親と横須賀港へ向かう途中、乗っていた電車が空爆に遭い、吹き飛んだ。空爆のつづく中、必死に両親を探したが、とうとう見つけることはできなかった。ひょっとしたら、あの空爆で、もう……。いや、両親は、きっとどこかで生きているはずだ。両親も、きっと自分を探しているはずだ。きっと逢える。それまでは死ねない。ハリーや長老も、一緒に探してくれると約束してくれた。はやく逢いたい。父さん……。母さん……。
あたたかくも寂しいローザの歌声が、両親のぬくもりを呼び起こす。じわじわと沸き上がる熱い涙を、大五郎は必死にまぶたの奥で塞き止めていた。
翌朝。約束の時間である。
大五郎は長老とふたりで先に甲板に上がっていた。ヨシオとハリーは準備があるので遅れてくるらしい。スネークたちは、すでにブリッジのまえに集合している。そして左舷側の甲板には、大勢のギャラリーが集まっていた。
大五郎と長老は、艦首左舷のタラップのそばでヨシオたちをまっていた。
「ヨシオはまだかぁ!!」
ドレッドヘアの男がイラついた口調でがなりたてた。スネークである。まわりのギャラリーたちも、不安そうにざわめきだした。
――そのときである!
「あっ! エレベーターが動きだしたぞ!」
左舷のほうで、だれかが叫んだ。左舷後方の大型エレベーターが上がってくる。これは、航空機を格納庫から飛行甲板に上げるための装置なのだ。
「あっ」
大五郎はエレベーターの下から現れた黄色いヘルメットを指差しながら叫んだ。
その瞬間、とつぜん甲板のあちこちから悲鳴が上がった。みんな掌でカベをつくり、眩しそうに顔を背けている。いったい、なにが起きたのだろうか。
「うおっ!」
スネークも両腕で顔をかばうように身構える。
「ぐわっ!」
ほかのモヒカンたちも、にわかにうろたえはじめた。やつらも、やはり顔のまえで掌のカベをつくっているのであった。
「ぬおっ!」
長老も体を丸めるように身構えながら、慌てて着物の袖で顔を隠した。
そして、つぎの瞬間。
「まぶしい!」
大五郎は掌で顔を覆いながら尻もちをついた。まるでカメラのストロボのような眩い閃光が、大五郎の眼に突き刺さったのだ。
まちがいない。ヨシオだ。これは、ヨシオのメガネが陽の光を反射したのだ。そうにちがいない。
「ソッ、ソロモンが……焼かれている?!」
すぐよこで長老が呻いている。だが、呻き声はひとつではない。甲板のいたるところから聞こえてくる。どうやら、みんなも〝ソーラ・システム〟の直撃を受けたらしい。
まだ目がくらんでいるので、大五郎には周りの状況がわからない。目が開かないので、立ち上がることすらできない。小刻みにまばたきを繰り返しながら、ゆっくり目を馴らしていく。両手で顔を覆い、指の隙間からのぞき込むようにまばたきをする。しばらくそれをつづけていると、徐々に周りの景色が見えはじめてきた。
大五郎は、ゆっくりと顔から掌をはがした。甲板に尻をつけたまま、じっとエレベーターのほうに目を凝らす。
「ああっ!」
陽の光――いや、闘気だろうか。メガネが燃えている。まるで灼熱の砂漠に照りつける太陽のように、白く、激しく燃えている。その黄色い人影は、堂々と仁王立ちになって腕組みをしていた。
「おじさんだ!」
ヨシオである。
はじかれるように立ち上がると、大五郎はヨシオのそばに駆け寄った。
「またせたな、ぼうず」
言ったのはヨシオではない。こちらに背を向ける格好でトーイングカーに寄りかかる男。
「あっ、かうぼーいのおじちゃん!」
ハリーである。彼は肩越しにふり向くと、葉巻をくわえた顔でニヤリと笑った。
「見ろ、ヨシオたちだ」
にわかに周りが騒がしくなってきた。どうやら、みんなも視力がもどってきたようだ。
ヨシオがスネークたちのほうへ向かって歩きはじめた。ハリーもあとにつづく。大五郎も、ふたりの間に入り、ついて行った。
「よく来たな。てっきり逃げ出したのかと思ったぜ」
スネークの声が甲板にひびき渡ると、ヨシオは甲板の真ん中で足を止めた。彼はスネークと少し距離をとって対峙し、仁王立ちになって腕組みをした。
「ここは太平洋のド真ん中だ。たとえ泳いで逃げたとしても、フカのエサになるだけさ」
落ち着いた口調でヨシオが言った。
「くわれる!」
大五郎もスネークに向かって叫んだ。
すると、スネークが眉間にシワを寄せてギロリとにらみつけてきた。
「ひえっ!」
とっさにヨシオの足にしがみつく。大五郎は、そのままヘビににらまれたカエルのように固まった。
「おい、そいつはなんだ!」
スネークが指差したのは大五郎ではない。彼の人差し指が示しているのは、左舷のエレベーターに並ぶ二台の黒いトーイングカーである。
「あのクルマのことか?」
スネークを見たままヨシオが言った。彼らのトーイングカーには、それぞれ車体前面にフレアパターンの塗装が施こされている。
「そうだ。このチキンレースはオレたちの車でやるんだ。勝手なマネは許さねえ」
どうやらスネークが気に入らないのは大五郎ではなく、ヨシオたちのトーイングカーだったらしい。
やれやれ、おどかしやがって――安堵した大五郎は、ホッと胸をなでおろすのであった。
「でも、オレたちの車のほうが性能はいいぜ?」
ハリーが親指でトーイングカーを示しながら言った。
「このゲームの主催者はオレだ。オレのルールに従ってもらう」
用心深いスネークは、なかなかヨシオたちを信用しようとしない。
「者ども! クルマの準備をするんだ!」
スネークが号令をかけたときである。モヒカンのひとりが、なにやら慌てた様子で彼のほうへ駆け寄ってきた。モヒカンがスネークの耳元でささやきはじめると、ハリーはヨシオをチラリとみてうなずいた。順調に作戦が進んでいるということだろう。一方、スネークはアゴをさすりながら、疑わしい表情でモヒカンの話に耳をかたむけている。そして、彼の獲物を狙うライオンのような鋭い目は、じっとヨシオの顔をにらみつけていた。
モヒカンあたまはなにを話していたのだろうか。こんどはスネークがコバヤシとなにかを相談しはじめた。ふたりとも、ブリッジのそばにある自分たちのトーイングカーをチラチラと気にしながら話している。
「点火プラグを外してあるんだ。動くわけないさ」
大五郎の右に立ちながら、ハリーが小さくつぶやいた。彼はくちびるに葉巻をはさんだまま、カウボーイハットの鍔で顔を隠してほくそ笑んでいた。ヨシオはずっと大五郎の左で仁王立ちになり、無言で腕組みをしている。とても静かな表情だが、彼の冷たく光るメガネからは、なにやら殺気のようなものが感じられた。
やがて相談が終わると、スネークは鋭い眼のままヨシオたちのトーイングカーを指さした。
「おい、そのクルマは本当に速いんだろうな?」
「もちろんだ。おまえさんのクルマより速いぜ」
ハリーが眩しそうに目を細めながら答える。
「通常の五倍のスピードは出るはずだ」
そうつけ加えると、ハリーは「ふーっ」と紫煙を吐きだした。
「ハッタリじゃねえだろうな?」
スネークが探るような眼でハリーをにらみつけた。
すると、ヨシオがスネークを挑発するように嘲笑を浮かべて肩をゆらした。
「どうした。怖いのか?」
「なっ……!!」
スネークの鋭い眼が、にわかに血走った。
「キ、キサマぁ~……」
彼は拳をブルブルと震わせて顔をまっ赤に紅潮させながら、沸々と怒りをたぎらせている。それでもなお、ヨシオは腕組みをした格好で嘲笑を浮かべていた。スネークの赤い顔のうしろで、丸い黒縁メガネの男がじっとこちらをにらみつけている。コバヤシだ。彼は、スネークが最も信頼を寄せる腹心なのだ。ほかのモヒカンたちは、スネークから少し距離をとってブリッジのまえに控えている。彼らの手には、それぞれ鉄パイプや角材などの凶器がにぎられていた。
艦尾のほうにできた人だかりは、みんなヨシオたちを応援するギャラリーだった。彼らもスネークたちが怖いのだろう。みんなできるだけ遠くに離れて見守っているのであった。
「……面白しれぇ。見せてもらおうか。テメェらのクルマの性能とやらを!」
口のまわりにヒゲを蓄えた顔でスネークがすごんだ。
スネークたちのトーイングカーは動かなかった。もちろん、故障ではない。ゆうべ、ヨシオたちが細工したからだ。
「よし、ぼちぼちはじめようじゃねえか。おい、クルマをまわせ!」
相変わらずスネークは偉そうに仕切っている。ヨシオとハリーはエレベーターまで歩いて戻ると、トーイングカーに乗って引き返してきた。
「おーらい、おーらい!」
大五郎は彼らのトーイングカーを、さり気なく艦首のカタパルト射出位置に誘導した。舳先に向かって並ぶ、二本のカタパルトライン。右舷側のラインにヨシオ、そして、ハリーは左舷側のラインにそれぞれトーイングカーを駐車した。
カタパルトの射出位置から舳先までの距離は、およそ八十メートル。
「スタート地点は、ここでいいか?」
ハリーはトーイングカーを降りると、スネークに向かってそう尋ねた。
「それじゃ距離が短すぎる。もっと手前からだ」
「このクルマは、かなり無理な改造をしたんでな」
ハリーの傍らに立ちながらヨシオが腕組みをした。
「これ以上の距離は、おそらくエンジンがもたないだろう」
「たいりょくの、げんかい!!」
大五郎も腕組みをして叫んだ。
甲板の上には、まだ戦闘機などの残骸が散乱していた。それに、甲板にもダメージを受けている。ほとんど無傷の艦首以外は、デコボコしていてとてもまっすぐ走れそうになかった。
「まあ、いいだろう。そんなに早死にしてえんなら、好きにするがいい」
そう言うと、スネークは不敵な笑みを浮かべながら肩をゆらした。コバヤシもニタニタと気色悪い笑みを浮かべている。ほかのモヒカンたちも、マヌケ面でヘラヘラと笑っていた。
「笑ってないで、さっさと乗ったらどうなんだ?」
冷めた目でスネークを見ながらヨシオが言った。
「そう慌てるな」
スネークは傍らにコバヤシを呼びつけると、なにやら言い含めてから「行け」というようにアゴで指図した。
コバヤシがこちらを見てニタリと気色悪い笑みを浮かべる。
「レースをはじめるまえに、テメーらのクルマを調べさせてもらう!」
コバヤシがそう叫ぶと、ハリーは俄かに表情を曇らせた。彼は葉巻をくわえたまま足もとに目を落とすと、カウボーイハットの鍔を下に引っ張って顔を隠した。
「どうする、大将?」
横目でヨシオを見ながらハリーがささやく。
ハリーは、いささか動揺しているようだった。しかし、ヨシオはまだ冷静さを保っている。彼は、相変わらず堂々と仁王立ちになって腕組みをしているのであった。
「ついに彼の出番が来た、というわけか」
かすかにうつむくと、ヨシオは口もとで薄く笑った。
「彼?」
「うしろを見てみろ」
ハリーが妙な顔をしながら肩越しにチラリとうしろをふり向く。
「なっ……!」
ハリーの顔が恐怖に引きつる。
「い、いつのまに……?!」
いったい、ハリーはなにを見たのだろうか。大五郎も、恐る恐るハリーの視線の先をたどった。ゆっくりと、ゆっくりとトーイングカーをふり返る。
ゴゴゴゴゴゴ……
冷たい殺気を放つ謎の影。大五郎は、いったん動作を止めてゴクリとつばをのみ込んだ。
「なむさん!」
ふたたびハリーの視線を追いはじめる。ゆっくりと、ゆっくりと……。
ゴゴゴゴゴゴ……
視界のはしで、なにかが揺れている。白いなにかが、風に吹かれて揺れている。これは――。
ゴ……!
「いたっ!」
ついに、大五郎は「彼」を目撃してまうのだった!
肩まで伸びるまっ白な髪をなびかせながら、「彼」はこちらに背を向ける格好でトーイングカーのボンネットに立っていた。
「……勇気とは、怖さを知ること」
うしろ姿のまま「彼」が語りはじめる。
「――恐怖を我が物とすることじゃあッ!」
どこかで聞いたことのあるようなセリフを叫びながらふり返えると、「彼」は視線の先をビシッと杖で示しながらポーズをとるのであった。
「なまはげじゃあーっ!!」
鬼の形相で凄む「彼」を指さしながら大五郎は尻もちをついた。
「落ちつけ、ぼうず。じいさんだよ」
ハリーが「彼」をアゴで指しながら言った。
「え?」
大五郎は尻もちをついた格好のままボンネットを見上げた。
額から頭頂部にかけて禿げあがった白髪あたま。そして、胸元まで伸びる白く長いアゴひげ。よく見れば、ただの長老であった。
「やれやれだぜ」
大五郎はガッカリしたようにため息をつくと、掌を持ちあげて肩をすくめるのであった。
コバヤシの指示のもと、ふたりのモヒカンがトーイングカーを調べはじめた。大五郎たちは、右舷のカタパルトラインから少しはなれたところに立ちながら、彼らの様子をうかがっていた。
「抜け目のないやつらだぜ。くそっ」
ハリーが葉巻を足もとに落としてふみ消しながら舌打ちをした。長老は甲板に横になって腕枕をしながら、のんきに昼寝をしている。
大五郎は、ハリーのとなりに立っているヨシオの表情をうかがった。彼は、太陽を背にし、堂々と仁王立ちで腕組みをしている。いつものように、舳先の示す水平線を静かな表情でじっと見つめていた。
コバヤシは二台のトーイングカーの間に立ってモヒカンたちを指揮している。
「車体の下も調べるんだ」
コバヤシはモヒカンたちに指示を出すと、丸い黒縁メガネの奥からギョロリとヨシオの顔をにらみつけた。ヨシオの反応を見ているのだ。少しでもヨシオが動揺したり、おかしなそぶりを見せれば、この作戦は失敗するだろう。しかし、その心配はなかった。ヨシオはいつだって、なにが起きても他人事のように落ち着いているのだ。たぶん、この世にはもうヨシオを驚かせることなどなにもないのだろう。大五郎は、なんとなくそう思った。
「アニキ、これはなんですかね?」
コバヤシを呼んだのは、右舷側のトーイングカーを調べているモヒカンだ。
「どうした?」
コバヤシは車体のよこに立つと、もういちどヨシオの顔をにらみつけた。
だが、ヨシオの表情は動かない。彼は、堂々と仁王立ちになって腕組みをしているのであった。
「なにか、言うことはないか?」
ヨシオをにらんだままコバヤシが試すように訊く。
「オレを気にせず、つづけるんだ」
「ハッタリかましやがって」
見下すような態度で鼻を鳴らすと、コバヤシは車体の下にあたまを潜らせた。
「ローンチ・バーだな」
ヨシオがなにかつぶやいた。
「まずいな。あれを外されたら、もうカタパルトで射ち出すことはできなくなっちまう」
心配顔のハリーとは対照的に、ヨシオの表情は静かなままだ。
ヨシオが言ったローンチ・バーとは、艦載機の前脚部分に取りつけられている射出バーのことである。空母から発艦するときは、この部分をカタパルトのシャトルに接続させて射ち出すのだ。
「ようやくカタパルトも直ったってのに……なんてこった。ちくしょう」
「落ちつけ、ハリー。やつが見ている」
ヨシオはブリッジに背を向けているが、スネークの冷たい視線は感じているようだ。
トーイングカーを見たままヨシオがつづける。
「案ずるな。カタパルトに頼らずとも、なんとかなる。あのトーイングカーは、一定以上のスピードに達するとアクセルがもどらなくなるんだ。おまけにブレーキも作動しなくなる。つまり、ローンチ・バーを外したところで結果はおなじ、というわけだ」
「それはわかってるが、まだテストもしてないんだぜ? もし正常に作動しなかったらどうするんだ?」
「そうだな。そのときは、うしろからぶつけてムリヤリ海にたたき落としてみるか」
ヨシオが冗談めかして肩をゆらすと、ハリーは呆れた顔で首をふった。
ちょうどヨシオたちが話し終わると、コバヤシが車体の下から顔を出した。
「おい、こいつはなんだ?」
コバヤシがトーイングカーのよこをつま先で小突きながら言った。
「こいつとは、どれのことだ?」
ヨシオがとぼける。
「この前輪の間にある棒みてえなやつだよ。こりゃあ、いったいなんのためについてるんだ?」
コバヤシが言うと、大五郎のよこでとつぜんハリーが吹きだしながら笑いはじめた。
「ひょっとして、てめえの股の下にぶら下がってるやつのことを言ってるのかい?」
からかうような口調でハリーが言うと、甲板中からドッと笑い声が上がった。モヒカンたちも、みんなゲラゲラ笑っている。だが、ヨシオとスネークの表情は、相変わらず渋いままだ。
大五郎は、コバヤシのほうをチラリとふり向いた。彼の肩もふるえている。だが、コバヤシは笑っているのではない。丸い黒縁メガネの奥で血走しる三角の眼。彼は額に青筋を立てながら、メラメラと怒りの炎をたぎらせていた。
「静まれィ!!」
笑い声をかき消したのはスネークである。
「ごまかそうとしても無駄だ。さあ、答えてもらおうか」
スネークがギロリとヨシオをにらみつける。しかし、ヨシオはふり向かない。彼は舳先の示す水平線を、じっと見つめていた。
鋭い眼でヨシオの背中を捉えたままスネークがつづける。
「答えられねーんなら、そいつは外させてもらうぜ?」
すると、ヨシオは舳先に背を向けてスネークに向きなおった。
「ブレーキだ」
彼はメガネを白く輝かせながら答えた。
「なにィ? これがブレーキだと?」
コバヤシが胡散臭い顔で片方のマユを上げながら言った。
「そいつは緊急停止用のブレーキでな。エンジンに直接つながってるんだ。もし無理に外せば、エンジンが〝おシャカ〟になるだろう」
ヨシオはスネークに目を向けながらコバヤシに忠告した。
「カシラ。野郎はこう言ってやすが、どうしやす?」
コバヤシには答えず、スネークは腕組みをしながらじっとヨシオの顔をにらみつづける。殺気を宿した彼の眼は、鋭い刃物のように冷たく光っていた。しかし、ヨシオの様子は変わらない。マユひとつ動かすことなく、堂々と仁王立ちになって腕組みをしているのであった。
すると、スネークがとつぜん大きな声で笑いはじめた。
「なかなか肝が据わってやがる。気に入ったぜ」
スネークがコバヤシたちを呼びもどした。
「あとはオレがカタをつける。オメェらは下がっていろ」
「ですが、カシラ。いいんですかい? もし罠だったら……」
「バカヤロウ、ビビってんじゃねえ!」
弱気なコバヤシをスネークが叱りつけた。
「久しぶりに楽しいゲームになりそうなんだ。邪魔するんじゃねえ」
スネークがこちらに向かって歩き出した。
「いよいよか。血が騒ぐぜ」
緊張した面持ちでハリーが言った。
「ちがさわがしいぜ!」
大五郎も、ハリーのよこで身構えた。
ヨシオも舳先に背を向ける格好で仁王立ちになり、腕組みをしながらスネークを待ち受ける。長老は大五郎たちのうしろで控えている。右舷側のトーイングカーのそばに立ち、静かに出番が来るのを待っていた。
スネークがゆっくりと近づいてくる。まるで獲物を狙うライオンのような鋭い視線をヨシオに向けながら、近づいてくる。
「じいさん」
ヨシオは長老に背中を見せたまま合図した。
「御意」
小さくうなずき、長老は静かにトーイングカーからはなれてゆく。いったい、長老はなにをしようとしているのか。そして、ヨシオはなにをたくらんでいるのだろうか。
「来るぞ」
ハリーがゴクリとつばをのみ込んだ。いよいよレースがはじまる。はたして、ヨシオたちの作戦は成功するのだろうか。
ヨシオまで、あと数メートルというところでスネークが足を止めた。大五郎はそそくさとハリーのうしろに隠れると、彼の足の陰からそっと顔をのぞかせた。
「終わりだ。スネーク」
ヨシオがゆっくりとスネークを指差した。
「てめえは長く生きすぎた」
「ほざきやがれィ!」
スネークもヨシオを指差した。
「死ぬのはテメエのほうだ」
スネークがヨシオとにらみ合っている隙に、ハリーはそっとトーイングカーまで後退りした。おそらく、ローンチ・バーをシャトルにセットするのだろう。大五郎も、ハリーと一緒に後退りした。だが、まてよ、と大五郎は思った。スネークは舳先を向いた格好で立っている。いま動けば、確実に気づかれてしまう。いったい、ハリーはどうやってローンチ・バーをセットするのだろうか。
ハリーはトーイングカーのそばに立つと、ブリッジのほうにチラリと目をやった。どうやら、なにかの合図をまっているらしい。大五郎も、ブリッジのほうに目を向けた。すると、まもなく事件は起こった。
「あっ、テメエ!」
ズボンのポケットを抑えながらコバヤシがうしろをふり返った。
「このジジィ! よくもオレのマリファナを……!」
コバヤシのズボンからマリファナを抜き取ったのは長老である。
「マリファナ? タバコじゃないのか。ふん、どおりでマズいわけじゃ」
長老がコバヤシの顔に紫煙を吹きかけて挑発した。
「ヤ、ヤロウ、なめやがって!」
コバヤシは傍らのモヒカンから瓶ビールをひったくると、大きくふりかぶった。
「くたばれジジィ!!」
そして彼は、長老のあたまをめがけておもいっきりビール瓶をふりおろした。
「真剣白刃取り!!」
長老はコバヤシの攻撃を受けとめるため、あたまの上で両手をかまえた。
はたして、長老の運命やいかに?!
「……ぬかったわ」
長老が血まみれの顔で不敵に笑った。ハゲあたまから、噴水のように血が噴き出している。長老は見事にドリフのコントを再現してくれたのだ。
スネーク、そして甲板に集まっている全員が、このさわぎに注目していた。その隙に、ハリーは無事、ローンチ・バーをシャトルにセットすることができたようだ。
「つぎの一手で、ケリがつく」
ハリーが新しい葉巻に火を点けた。
「あとは〝発艦命令〟を待つだけだ」
パーキングブロックほどの大きさのシャトルは、まるで口を大きく開けた魚のような形をしている。しかし、車体下部のローンチ・バーに接続してあるので、外からは確認できなかった。もちろん、どちらにスネークが乗り込んでもいいように、二台ともシャトルにつないであった。無論、射ち出すのはスネークが乗るトーイングカーだけである。
「好きなほうに乗れ」
ヨシオはスネークが先にトーイングカーに乗るよう促した。彼を警戒させないためである。
「おなじことだ。テメエが死ぬことには変わりねえんだからな」
スネークはそう言うと、左舷側のトーイングカーに向かって歩きはじめた。同時に、ヨシオも右舷側のトーイングカーに向かい、乗り込んだ。
「今日は、絶好の海水浴日和だぜ」
トーイングカーのシートにケツを押し込みながらスネークがつづける。
「心行くまで、たっぷりと楽しんでこい」
スネークが運転席で腕組みをするヨシオの顔を見ながらニタリと笑った。
「こんな日は、ビーチで日光浴にかぎる」
ヨシオが舳先に視線を向けたままスネークに返す。
「おまえが泳いでこい」
ハリーがヨシオのトーイングカーにやってきて、運転席のよこに回り込んだ。
「それじゃ、オレは管制室でスタンバイしている」
ハリーが運転席のヨシオにこっそりと耳打ちをして親指を立てた。それから彼は、左舷に集まるギャラリーの中にまぎれ、こっそりと左舷のタラップを降りていった。ハリーは統合カタパルト管制室に向かったのだ。カタパルトラインの間、ちょうど艦首中央に管制室が見える。およそ二メートル四方の半地下になっているドーム型の構造物で、甲板にでている部分は、だいたい大人のひざ下ぐらいの高さしかない。天井部分以外はガラス張りになっていて、外側に扉はなく、艦内からしか入ることはできないのだ。そして、ふだん使用しないときは甲板の下に収納されていた。大五郎も、管制室にはよく遊びにいくのでよく知っていた。
トーイングカーの運転席は、車体の左側にあった。大五郎はヨシオのトーイングカーの右側に立ちながら、レースがはじまるのを待っていた。
「シートベルトを締めろ」
ヨシオがスネークに促した。もちろん、ヨシオも自分の腰にシートベルトをまわしている。しかし、スネークは鼻で笑い飛ばして拒否しやがった。
「そんなもんは必要ねえ」
だが、ヨシオは言う。
「臆病風に吹かれて逃げだされると困るんでな。いちおう締めてもらおうか」
ヨシオはそう言うと、スネークを横目で見ながら薄く笑った。
すると、スネークはハンドルに手をかけたまま肩をゆらして笑いはじめた。
「面白れぇ。いいだろう」
スネークは、まんまとヨシオの口車に乗せられるのであった。
トーイングカーにフロントガラスやドアなどはない。もちろん、助手席もない。そして運転席はむき出しになっており、シートの背もたれも腰の少し上ぐらいまでしかない。言ってみれば、遊園地にあるゴーカートのようなものだ。ちなみに、シートベルトはヨシオたちが改造して取りつけたものである。
「さて、準備はよろしいかな?」
長老が血まみれの顔でヨシオのトーイングカーにやってきた。どうやら、スタートの合図をだすのは長老らしい。大五郎はヒマなので、長老と一緒に合図をだすことにした。
ヨシオがメガネの奥から統合カタパルト管制室をうかがった。大五郎も、スネークに背中を向ける格好でチラリとうかがう。数メートル先のカタパルトラインの間。管制室の青みがかったウィンドウガラスの中に、ぼんやりとカウボーイハットの影が見える。この青いガラスは透明度が低いので、ちかくまで行かないと中の様子はほとんど見えないのだ。
「じいさん。合図をたのむ」
ヨシオが腕組みを解いてハンドルを握った。
「スタンバイ!」
長老は彼らのトーイングカーの間に立って掛け声を上げた。
「すたんばい!」
大五郎も長老のよこで叫んだ。
長老が大五郎にうなずき、スネークのほうを向いてスタンバイする。大五郎も長老と背中合わせに立ってヨシオのほうを向き、スタンバイした。トーイングカーのエンジンが激しく唸る。大五郎は長老と動きを合わせて周囲を指差しながら安全を確めた。後部甲板、左舷、右舷、そして、トーイングカーの周辺も異常はない。大五郎は、最後にブリッジのほうを指さした。上半分が吹きとんだブリッジのまえで、コバヤシたちが冷笑を浮かべている。どうやら、みんなハリーが管制室にいることに気がついていないようだ。
「レディ……」
長老が左足をよこに伸ばすようにして姿勢を低くし、左手を腰のうしろに回して待機した。顔は血まみれのままである。そして、大五郎も長老とは逆の右手を腰のうしろに回して待機した。そのまま長老の合図をまつ。つぎに長老が合図したとき、もう片方の手を舳先に向かって水平に上げたとき、すべての工程が完了する。そして、それを合図にハリーがカタパルトの射出ボタンを押すのだ。これは、カタパルトオフィサーが戦闘機を発艦させるときに行う動作なのである。
「少しスピードが出すぎるんでな。あまり強くアクセルを踏み込まないことだ」
舳先を見たままヨシオが言うと、スネークもまえを向いたまま鼻で笑った。
「テメエのほうこそ、ブレーキを踏み外すなよ」
青空にひびき渡るエンジンの咆哮。
「グッドラック!!」
長老の右腕が舳先を示す。
「ぐっどらっく!!」
大五郎も張りきって舳先を示す。
その瞬間だった。
「――ホントだ速ぇエェぇェー?!」
スネークが運転席でのけ反りながら絶叫した。彼を乗せたトーイングカーは、まっ白な蒸気の煙を引きながら、すさまじいスピードで遠ざかってゆく。舳先を目指し、どんどん遠ざかってゆく。一方、ヨシオのトーイングカーは動いていなかった。彼は腕組みをしながら、運転席に座ったままスネークを見送っていた。
「あっ、目にゴミが! 目が痛てェ!」
スネークが掌で顔を覆いながら悲鳴を上げている。
「あぁァ~、目が……目がァ!」
「カシラ、あぶねェッ!!」
ブリッジのまえからコバヤシが叫んだ。その瞬間、スネークのトーイングカーが甲板を飛びだした。
「目がぁァぁァ~!!」
甲板に悲鳴だけをのこし、スネークは空高く飛んでゆくのでした。
「ばるす!」
大五郎は飛び上がってよろこんだ。
大きく弧を描いて白い尾を引きながら、スネークのトーイングカーが海の上に落ちてゆく。滑走時間は、わずか二秒。あっという間の出来事だった。
スネークが走り去ったあとのカタパルトラインからは、まだ白い煙が立ちのぼっている。そしてコバヤシたちは、ただ呆然とブリッジのまえに立ち尽くしていた。
スネークを見送ると、ヨシオはトーイングカーからゆっくりと降りてきた。そして、そのままトーイングカーのよこで仁王立ちになった。彼は腕組みをしながら、静かに舳先のほうを見つめはじめた。
「外道の最期は、こんなものだ」
ひとり言のようにヨシオがつぶやいた。
「どうやら、うまくいったみたいだな」
ハリーが管制室から戻ってきた。彼はヨシオのそばに立つと、葉巻をはさんだ指で舳先のほうを指さし示した。
「カタパルトの圧力をフルパワーにセットしたんだ。奴さん、小便をちびるヒマもなかったろうぜ」
ハリーはそう言って葉巻をくわえると、まぶしそうに目を細めて肩をゆらすのだった。
「英雄じゃ」
長老が小さくつぶやいた。
「英雄じゃ」
天に杖を掲げながら、もういちどつぶやく。
「英雄じゃ……英雄じゃ!」
徐々に声を大きくしながら、長老は繰り返し唱えつづけた。
すると、ギャラリーたちも艦首に集まってきた。みんなで大五郎たちを囲むように輪をつくり、長老と一緒にヨシオを称えはじめる。
――英雄だ! 英雄だ!
青空には、いつまでもヨシオコールが轟いていた。
「そろそろ最後の仕上げといくか」
ヨシオがハリーにうなずいて合図した。
「全員、左舷舷側に整列!!」
ハリーが大声で指示をだすと、みんなは歓喜を上げながら左舷に殺到した。海を正面にして立つ格好で、よこ一列に並ぶ。列の先頭、空母の舳先にはヨシオが立った。
「あっ、カシラ!」
ギャラリーの中に交じってコバヤシが海に叫んだ。
大五郎も、ヨシオとハリーの間に立ちながら海を見やった。空母の左側。海面に突きだしたあたまが、波に揺られて流されている。スネークだ。彼は、必死に両手をふり回して波をかきわけている。しかし、どう見ても泳いでいるようには見えない。
「お~い! 助けてくれー!」
海面を叩きながらスネークが叫んでいる。やはり、彼は溺れていたのだ。
「おっ、オレは〝カナヅチ〟なんだーっっ!!」
すると、ヨシオは傍らのハリーにうなずき、最後の指示を出した。
「帽ふれ!!」
みんなに号令をかけると、ハリーはカウボーイハットを頭上で大きくふりはじめた。そのよこで長老も杖を大きくふっている。みんなも、スネークに向かって帽子や手拭いをふりながら見送っている。なにも持っていない者は、両手を大きくふって見送っていた。大五郎も、ハリーのとなりで大きく手をふりながらスネークを見送った。
――そのときである!
「きた!」
大五郎は叫んだ。スネークの背後に迫る三角形の黒い背ビレを指差しながら。
※ばるす・・・・・古より伝わる滅びの呪文。
――13日は何曜日?!――
大きな爆発音。床を伝わる激しい振動。艦全体が大きく揺れる。艦内が赤く染まり、警報が鳴りひびく。部屋の外、通路のほうからたくさんの悲鳴とともに水の音が聞こえてくる。ザザザーッ……という水が押し寄せる音。艦が沈む。早く逃げなくては。いそいでドアに向かう。開かない。反対側からものすごい力で押さえつけられているようだ。ふと足が冷たいことに気がつく。足元に目を落とす。水だ。足首まで浸っている。もういちどドアノブをまわす。叩いても押してもドアは開かない。見る見る水かさは増えていく。もうひざ下まで上がってきている。ドアを叩いて叫ぶ。大声で助けを呼んだ。なんども必死に叫んだ。しかし返事はない。だれも助けに来ない。また叫ぶ。ドアが破られる音。となりの部屋だ。まるで氾濫した川のような勢いで押し寄せる黒い水。目線の高さに水面が見える。顔を上に向けないと呼吸ができない。口を大きく開けて息を吸い込む。口の中に水が入ってきた。顔が沈む。水の中に引き込まれる。だれかの手。足首をつかんでいる。右足。左足。たくさんの手がつかんでいる。動けない。息ができない。苦しい――。
「わっ!!」
びっくりして飛び起きた瞬間、大五郎の額になにかがぶつかった。
「ぅブっ!!」
同時に、大五郎のよこでだれかが悲鳴を上げた。見覚えのあるハゲた頭頂部。そして肩まで伸びる長い白髪。口元を押さえながら片方の手を床についてうずくまっているのは長老である。
しかし、いったいどうしたのだろうか。長老のハゲあたまは脂汗でびっしょりである。しかも、長く伸びたまっ白なヒゲを鼻血でまっ赤に染めているのであった。
「じいちゃん、ころんだの?」
「い、いや、なんでもない。なんでもない……」
長老はぎこちなく笑うと、ハンカチを取り出して口元をぬぐった。
「そ、それよりボウズ。なにやらひどくうなされていたようじゃが、悪い夢でも見ておったのか?」
「え?」
そうだ。たしか昼食を済ませたあと、そのまま食堂の隅にあるソファで眠ってしまったのだ。
「ずいぶんと怖い思いをしたからのう。まあ、無理もなかろうて」
大五郎のよこに腰かけると、長老は丸めたティッシュを鼻につめながらつづけた。
「もし、あのとき……この空母が助けに来なかったら、ワシらは病院船とともに沈んでおったところじゃ」
ポタリ、と床の上に一滴の赤い雫がこぼれ落ちた。鼻につめたティッシュが赤く滲んでいる。長老は神妙な顔をしながら、両手で杖をぎゅっとにぎりしめていた。
あれから何日が経ったのだろうか。大五郎たちの乗る病院船が潜水艦に狙われ、魚雷攻撃で沈められてしまったのだ。しかし、幸いなことに近くを航行していたこの空母によって、病院船の乗員乗客はすべて救助されたのであった。
「じゃが、この空母も舵を失い、自力では動けなくなってしもうた」
床に目を落としたまま長老がため息をついた。
「これも、宿命というやつなのじゃろう。けっきょく、ワシらは……」
長老はそれ以上つづけようとはしなかった。
それにしても、さっき額にぶつかったのは、いったいなんだったのだろうか。大五郎はたんこぶのできた額を指先でさすった。
食堂の奥のテーブルで、マルコとルチオがポーカーをしている。ローザも一緒だ。それに、ほかの空母の乗組員も何人かいる。大五郎もまぜてもらおうと思ったが、あいにくとポーカーのルールはわからない。
退屈だ。なにもやることがない。大五郎はソファに腰かけたまま、ただボーっとしていた。そして長老も、大五郎のよこに腰かけてボーっとしていた。
「じいちゃん、かくれんぼ!」
大五郎はヒマなので、とりあえず長老と遊んでやることにした。
「かくれんぼか。いいとも、いいとも。それじゃ、ワシが最初に鬼をやろうかの」
「じゃあ、これ!」
「なんじゃな、これは?」
「おめん!」
「なるほど。鬼だから鬼の面をつけるのじゃな?」
長老が感心したように笑った。
「ところで、これはボウズがつくったのか?」
「うん!」
格納庫でみつけたダンボールの切れはしに、赤いクレヨンで鬼の顔を書いて切り抜いたのだ。
「いや、よくできておるのう。それじゃ、さっそくつけてみるかの」
被り方は簡単だ。鬼の面の両端にある輪ゴムを耳に引っかけるだけでいいのだ。
「どうじゃな、似合うかの?」
「おいら、かくれる!」
似合ってるかどうかはどうでもいい。大五郎は、早く隠れたいのだ。
「それじゃあ、十数えるあいだに隠れるんじゃぞ」
「じゅうじゃない! ひゃく!」
「よしよし。それじゃあ、百まで数えるとしよう」
長老はちかくのテーブルに向かうと、大五郎に背を向ける格好で席についた。それからテーブルの上で組んだ両手の中に顔を埋めて数えはじめた。
大五郎は食堂を飛びだすと、駆け足で格納庫へ向かうのだった。
飛行甲板の真下にある格納庫は、主に航空機や特殊車両を収容する場所になっていた。およそ空母の全長の三分の二を占める広々とした格納庫では、機体の整備やエンジンの試運転も行っていたらしい。だが、この空母には、もう飛べる飛行機は一機ものこっていない。格納庫にある機体も、みんなスクラップばかりだった。
大五郎は艦尾の入り口から格納庫に入ると、高く積み重ねられた木箱とカベの間を通り抜け、後部左舷のデッキサイド式エレベーターのまえで立ち止まった。
「きょうも、いいてんき!」
格納庫そとに広がる蒼い空と碧い海。格納庫の搬出入口には扉もカベもないので、船体の側面にはエレベーターとおなじ幅の大きな楕円形状の口がぽっかりと空いていた。
エレベーターのまえを通りすぎると、カベ際に一機の大破した戦闘機が転がっていた。格納庫の中から見て搬出入口のすぐ右側に放置された機体。それは翼も胴体もないコクピットだけの残骸で、機首を艦尾に向ける格好で床の上に転がっていた。
「すたんばい!」
大五郎はガレキで作った足場を上ると、はりきってコクピットに飛びこんだ。見た目はボロボロだが、コクピットの中は意外ときれいなのだ。この機体は、大五郎のお気に入りの〝おもちゃ〟なのである。
「ろっくおん!!」
操縦桿を動かしたり、いろんなボタンを押したり、気分はもうパイロットだ。でも、唯一の問題は、まえがまったく見えないことだった。まだ子供の大五郎の背丈では、まっ黒な計器盤の上にある照準器を覗くことができないのだ。
「……あっ!」
大五郎は長老と隠れんぼをしていたことを、すっかり忘れていた。もうとっくに数え終わってもいいころだが、長老はどこを探しているのだろうか。まさか、あのまま眠ってしまったのではないだろうか。そんな心配をしていると、艦尾側にある入り口のほうから人の足音が聞こえてきた。
「きた!」
大五郎はコクピットの中にあたまを伏せた。
コツ……コツ……コツ……
足音は、まっすぐこちらへ近づいてくる。長老だろうか。いや、ちがう。足音はひとつではないようだ。それに、なにやら話し声も聞こえる。声の調子からすると、どうやら若い男らしい。もうひとつの声も、やはり若い女のようだ。
ふたつの声が、コクピットのよこを通りすぎてゆく。
――大丈夫だって。だれも来やしねーよ
――でも、こんなところじゃ、あたし……
――しかたねーだろ。ほかにテキトーな場所がね―んだからよ
なんだかヤンキーみたいな話し方だが、いまの会話の様子から見て、おそらくこのふたりは恋人同士なのだろう、と大五郎は想像した。
しかし、いったいだれなんだろうか。大五郎は、そっと首を伸ばして外を覗いてみた。
「あれ?」
いない。どこへ行ったのだろうか。
ガラン……ガラ……
うしろのほうで、なにか音がした。少しはなれたところに、木箱がいくつか積んである。ちょうど大五郎の戦闘機の斜めうしろ。木箱のまわりには、飛行機のエンジンなどの残骸が散乱している。
ガラガラ……
また音がした。木箱の向こう側からだ。しかし、ここからではふたりの姿は確認できない。ちょうどふたりを囲むように木箱がカベをつくっているからだ。
ジャリ……ジャリ……ジャリ……
ふたりとはべつの足音。入り口のほうからだ。しかも、これは長老のサンダルの音だ。
「き、きたっ!」
大五郎は慌ててコクピットにあたまを引っ込めた。
ジャリ……ジャリ……ジャリ……
サンダルの音は、コクピットのほうへまっすぐ近づいてくる。ときどきカツーン、カツーン、と杖の音を交えながら、まっすぐに近づいてくる。
――悪ぃ子はいねぇがァ?!
とつぜん、長老の不気味な声が轟いた。
(ひぃィぃぃ!!)
大五郎はガタガタとふるえながら、声をたてないように両手でしっかりと口をふさいでいた。
ジャリ……ジャリ……ジャリ……
(ゴクリ)
足音はすぐそこまで迫っている。
ジャ……
「……!!」
来た。コクピットのすぐよこ。
――悪ぃ子は……
ガラン……
――ぬ?
「……」
――フッ。そこじゃな
ジャリ……ジャリ……ジャリ……
足音がはなれていく。どうやら長老は、あのふたりのところへ向かったようだ。
「ぷくく……」
アホなジジイだ。大五郎は肩をふるわせつつ必死に笑いをこらえるのであった。
ジャ……
木箱のそばで足音が止まった。
大五郎は、そっと首を伸ばして木箱のほうをうかがった。
――悪ぃ子は……いねぇがァ!!
ガラガラ、と瓦礫が崩れる音。
――きゃっ!
――わっ、びっくりした!
そしてふたりの悲鳴。
はたして、彼らの運命やいかに?!
――おや? ぼうずじゃなかったか
――なっ、なんだぁ? テメーわ
――いや、ちょっと鬼ごっこ……じゃなくて、かくれんぼを……
――うるせー! なにが〝悪ぃ子はいねぇがァ?!〟だ。いかにも悪そうなツラしやがって。おまえが言うな、おまえが
――ばかもの。これはお面だ
――へっ。テメーにァ、面よかヅラのほうが似合うんじゃねーのか?
――なっ、なぁに~ィ?
――マエダくん、やめなよ
――おめーはだまってろ、チアキ
――おのれ~、言わせておけば図に乗りおってからにして
徐々に怒りをつのらせる長老。
――これが悪党の顔に見えるかどうか……両の眼開いて、とっくりと拝みやがれぃ!
長老が片足を一歩まえへ踏みだした。そして堂々と鬼の面を脱ぎ去ったときのことである。
――しらねーよハゲ!!
長老の顔面にマエダの鉄拳がメリ込んだ。
――ぶべらっ!!
長老がスピンしながらふっ飛んだ。そしてそのまま床の上をゴロゴロと転がり、勢いよくカベに激突するのであった。
――ぐわっ!!
「じいちゃん!」
大五郎はコクピットの中から叫んだ。が、長老は仰向けに倒れたまま反応しない。おそらく後頭部でも強打したのだろう。長老は口から白い泡を吹きながらピクピクと痙攣していた。
「クソが」
マエダがコクピットのよこを通り過ぎながら「チッ」と舌打ちをした。
「もうケンカはしないって約束したじゃない、マエダくん」
「うるせーな。べつに好きでやってるわけじゃねーよ。向こうが先にしかけてきたんだろーが。ったく」
マエダはブツクサ言いながらチアキを連れて立ち去っていった。
「じいちゃん!」
大五郎がコクピットから降りたときである。
「よう、ぼうず」
赤い作業服の男が黄色い歯を見せながらやってきた。デッキクルーのマルコである。傍らには緑色の作業服の男、マルコの弟でおなじデッキクルーのルチオの姿もあった。
「また〝コイツ〟で遊んでたのか」
ルチオがコクピットのよこをポン、と叩いた。
「せっかくカタパルトが直ったってのにな。飛べるのが一機もねえとは、なんとも皮肉な話だぜ」
やれやれ、というようにマルコが肩をすくめた。
「ああ。まったくだ」
ルチオも作業帽を被りなおしてため息をついた。ふたりが着ているデッキクルーの作業服は色こそちがうがおなじものだった。そしてマルコの作業帽には「丸にMの字」のマーク、ルチオにも、おなじく「丸にLの字」のマークが入っていた。
「ところで、ぼうず。今日は〝ヨッシー〟と一緒じゃないのか?」
マルコが指先で口ヒゲをいじりながら言った。先端のカールした口ヒゲ。弟のルチオもおなじヒゲを蓄えていた。
「おじさんは、かうぼーいのおじちゃんとうえにいる!」
大五郎は天井を指差しながら答えた。
マルコが言った〝ヨッシー〟とは、ヨシオのことである。ヨシオはいつも空母の舳先に立って水平線を見つめているのだ。ちなみにカウボーイとはハリーのことである。ハリーはいつも渋色のくたびれたカウボーイハットを被っているからだ。
「ああ、ハリーのダンナと一緒か」
マルコが口ヒゲをいじりながらうなずいた。
「ところで、なんでヨッシーはカタパルトオフィサーの格好をしてるんだろうな?」
ルチオが不思議そうな顔でマルコに訊いた。
「さあな。見たところ日本人のようだが、この空母に日系人のデッキクルーはいなかったはずだ」
「そもそも、いつからこの空母に乗ってたんだ? ヨッシーは」
「病院船がやられたあとだろ。ぼうずたちを助けた直後からだよ。たぶん」
マルコはそう記憶していたようだが、ルチオは首をふって否定した。
「いや、ローザの話じゃあ、そのまえから乗ってたらしいぜ」
ローザは戦闘機のパイロットで、このふたりの妹である。
「ホントかよ。人違いじゃねーのか? ローザだって、ここにきたのは最近のことだしよ。あいつの空母は撃沈されて、帰るところがなくなっちまったからな」
「やっぱり、本人に聞くのがいちばん早いんじゃねーか?」
そう言ってルチオがタバコに火を点けると、マルコは鼻を鳴らして肩をすくめた。
「そいつはムリだね。このまえローザが直接訊いたらしいんだが、ヨッシーはなにも答えちゃくれなかったようだぜ」
「ふむ……」
ルチオがむずかしい顔で鼻から紫煙を吐きだした。
「う~む……」
マルコも思案顔で腕組みをした。
「むむ!」
大五郎もコクピットのよこに作った足場に腰かけながら、むずかしい顔で腕組みをした。
「ま、ヨッシーの話はいったん置いといて、だ」
ルチオが話題を変えた。
「あのカウボーイのダンナよ、イーストウッドってより、あの人に似てねーか? ほら、なんていったっけ? あのプライベート・ライアンのフレッド・ハミル大尉役の……」
「テッド・ダンソン?」
「そう、テッド・ダンソン」
「言われてみりゃあ、たしかに似てるよな。まあ、イーストウッドとテッドを足して二で割ったって感じか?」
「そんな感じだな」
ルチオが紫煙を吐きながら肩をゆらした。
「あのじいさんは、あれだよな。パトリック・マクグーハンに似てるよな」
ルチオが言うと、マルコは肯定するようにうなずいてから「マッグハーンだろ?」と訂正した。
「いや、マクグーハンだよ」
「マッグハーンだって」
「マクグハーンだ」
「マッグハーンだ」
「マク――」
「――ジェームズ・ディーンと呼んでもらおうか」
何者かがルチオの言葉をさえぎった。はたして、その正体とは?!
「あっ、じいちゃん!」
謎の声にふり向くと、血まみれの顔で長老がカベにもたれかかっていた。
「どうしたんだ、じいさん。大丈夫か?」
マルコが長老に駆け寄った。
「出血がひどいな。こいつぁ、たぶん鼻が折れてるぜ」
タバコをくわえたままルチオが首をふった。
「なあに、ただのかすり傷じゃ。心配いらんて」
白いヒゲを鼻血でまっ赤に染めながら長老が笑った。
「ムリすんなよ、じいさん。おい、ルチオ。ドクター・ハザマを呼んできてくれ」
ルチオがうなずき、タバコをふみ消した。
「ああ、大丈夫じゃ。医務室までなら、歩いていける」
「ひとりで行けるか? 手を貸そうか?」
ルチオが心配そうな顔で言う。
「いや、大丈夫。大丈夫じゃ。すまんのう、気をつかわせて」
「おいらが、つれていく!」
大五郎は堂々と胸を張って請け負った。
マルコはルチオと顔を見合わせると、肩をすくめて笑った。
「そうか。それじゃ、ぼうずにたのむとするか」
「そんじゃ、あとはよろしくな。ぼうず」
ルチオが大五郎のあたまをポンポン、となでた。
「がってん!!」
大五郎が敬礼すると、マルコとルチオも笑顔で敬礼して去っていった。
「いくぞ、じいちゃん!」
大五郎は急かすように長老のうでを引っ張った。
「ぼうずは元気じゃな」
小走りで駆けながら「ふぉっふぉっ」と長老が笑った。
「せんせー! くらんけ!」
大五郎は長老の手を引きながら、片方の手で医務室のドアを押して飛びこんだ。
「ぐわっ!」
長老が悲鳴を上げた。いったいなにごとだろうか。
「あっ」
ふり返ってみると、閉まりかけたドアに長老の顔面がめり込んでいたのであった。
「っ……て~~」
長老が掌を鼻に当てながらうずくまった。ハゲた頭頂部に光る大量の脂汗。そしてプルプルと震える指の間からはポタリ、ポタリと赤い雫がしたたり落ちているのであった。
「クランケってのは、じいさんのことか? ぼうず」
声にふり向くと、大きな傷のある顔が冷たい笑みを浮かべていた。
「あっ、せんせー!」
ドクター・ハザマこと羽佐間九郎。またの名をブラックジョーク。世界的に有名なヤブ医者である。
「じちゃんのはながおれた!」
「鼻が折れた?」
そう言ってマユをひそめると、九郎は凪いだ瞳を長老に向けた。
「どれ、見てやるからそこへ掛けなさい」
九郎がデスクのよこのイスに座るよう促した。
「いったいどうしたんだね? その傷は」
九郎がデスクの上のカルテに書き込みながら長老に訪ねた。
「なあに、ただのかすり傷なんじゃが、みんな大げさに騒ぎたてての」
ハンカチで鼻を押さえながら長老がイスに向かう。
ガチャン!
「ぐわっ!」
イスに座りそこなってひっくり返る長老なのであった。
「どうやら足に来てるようだな」
九郎がデスクの上に視線を落としたまま「ククッ」と喉の奥で笑った。右のマユから左の頬にかけて流れる三日月形の大きな傷跡。そして、感情が凪いだような冷たい瞳。それに服もマントもまっ黒だった。医者というより、むしろ葬儀屋といった感じである。
「なるほど。たしかに折れてるようだが、いったいだれにやられた?」
九郎が長老の手当てをしながら言った。
「ごーけつ! ごーけつ! かんぜんむけつのだいしゅーけつ!!」
大五郎はくるくる、とつま先で回り、ピンと立てた右手の人差指をまっすぐ天井に向けてポーズを決めた。
「ぐ、グレるりん……じゃ」
鼻の穴に丸めた脱脂綿をつっこまれた顔で長老の目がキュピーンと光った。
「グレルリン? なんだい、そりゃあ?」
当然ながら九郎には何のことかわからない。
「まえだ!」
大五郎は下手人の名前を白状した。
「ああ、マエダか。あの腕白め。こまったやつだ」
「せんせー、いぼんこ!」
「イボンコ? ああ、あれならそこの棚に置いてあるから持っていきなさい」
九郎がデスクのよこの棚を目で指しながら言った。黒い三段のカラーボックス。そのいちばん上の段にある、赤いトレーラートラックのおもちゃ。このまえ診療所を尋ねたとき、大五郎が忘れていった〝コンボイ司令官〟である。
「あった! おいらのいぼんこ!」
このトレーラートラックのおもちゃは人型のロボットにも変形するのだ。
大五郎は長老の手当てが終わるまでコンボイ司令官と遊ぶことにした。
「とらんす……」
――そのときである!
「よし、これでいいだろう」
どうやら長老の手当てが済んでしまったようだ。
しかし、相変わらずの早業である。これほどの腕を持ちながら、いったいどうして九郎はヤブ医者と呼ばれているのか。大五郎は腕組みをして不思議そうに首をかしげるのであった。
「これが痛み止めの薬だ。食後に一錠、一日三回飲むように」
「いや、どうもお世話になり申した」
鼻に大きなガーゼを張りつけた顔で長老があいさつをした。
「お大事に」
九郎は長老に背を向けたまま、デスクの上でペンを走らせながら返事をした。
「さて、行くか」
長老がドアを開けようとしたときである。
「――む?! こっ、これは……!!」
ドアノブに手をかけたまま長老の動きが止まった。なにやら入り口のよこのカベのカレンダーをじっとにらんでいるようだ。
「どうした、じいちゃん?」
「金曜……十三日……」
カレンダーをにらんだまま長老がつぶやいた。
「そうか。そういうことじゃったかぁ~……っ!」
肩をブルブルと震わせながら長老が唸った。
はたして、そういうこととはどういうことなのだろうか?!
夕食の時間になった。
「じゅうさんにちの、きんようび?」
コーンスープの器を両手で包みながら大五郎は首をかしげた。
「そうじゃ。十三日の金曜日じゃ」
大五郎の向かいの席で長老がうなずいた。
「じいちゃんの、たんじょうびか?」
「いや、そうではない」
コーンスープの器をトレイの上に置くと、長老は大五郎のまえに身を乗りだしてつづけた。
「よいか、ぼうず。今日は、イエス・キリストが処刑された日。つまり、神様が天に召された日なのじゃ」
「かみさまが、しんだ?」
大五郎も、思わず身を乗りだした。
「うむ。今日は不吉な日なのじゃ」
そう言ってうなずくと、長老は深いため息をついて何度か首をふった。
「どおりで朝からついていないわけじゃて」
そういえば、大五郎も昼寝をしたとき、とても恐ろしい夢を見たのを思いだした。やはり、十三日の金曜日と関係があったのだろうか。
「おいおい、まさかそんな迷信を本気で信じてるのか? じいさん」
長老のよこでカウボーイハットの男が鼻で笑った。ハリーである。
「信じるも信じないも、現にこうしてワシは死にかけておるではないか」
興奮した口調で長老が言った。
「鼻が折れたぐらいで大げさな」
呟いたのはハリーではない。ハリーの向かい側。カタパルトオフィサーのイエロージャケットを羽織り、おなじくデッキクルーの黄色いヘルメットを被ったメガネの男。大五郎のとなりでせせら笑っているのはヨシオである。
コッペパンを小さくちぎりながらヨシオがつづける。
「キリストは神などではない。所詮はただの人間。だから死んだのさ」
ヨシオが言うと、ハリーも肯定するようにうなずいた。
「たしかに。神様が死ぬってのも変な話だよな」
「もうよい。それがおぬしたちの哲学と言うのなら否定はせん。じゃが、ワシは神の存在を信じておる。それがワシの哲学じゃからな」
いよいよ長老はへソを曲げてしまったようだ。
「それは哲学ってより宗教だろ?」
とぼけた顔でコーヒーをすするハリーの横顔を長老がジロリとにらみつけた。
「まあよい。あと五時間もすれば日付が変わる。この忌まわしい一日が終わるのじゃ」
長老が懐から痛み止めの薬をとりだした。そして口の中に一粒放り込み、コップの水を呷ったときのことである。
「じいさんはいるか?」
なにやら慌てた様子で九郎がやってきた。
「ああ、そこにいたか」
「なにか御用ですかな、若先生」
「じいさん。さっきの薬だが、まだ飲んでないだろうね?」
「いや、たったいま飲んだところじゃが」
長老の返事を聞くと、九郎の顔色がにわかに変わった。
「遅かったか」
沈痛な面持ちで九郎がため息をついた。
「じつはな、じいさん。あの薬は……」
心配を装いつつも九郎は興味深そうに長老を観察しながら説明をはじめた。
九郎の話によると、じつは、あの薬は痛み止めではなく強力な下剤だというのだ。おなじ場所に保管していたので、うっかり間違えてしまったらしい。
肝心なところで些細なミスを犯すとは、九郎らしくもない。しかし、彼がヤブ医者と呼ばれている理由は、きっとそこにあるのだろう。大五郎は、ようやく合点がいくのであった。
「こいつはいい」
ハリーが腹をかかえて笑いだした。
「じいさん、やっぱりあんたが正しかったぜ。これがキリストの祟りってやつなんだろ?」
「……!!」
長老は絶句して固まっている。
「どうした。信じる者は救われるんじゃなかったのか?」
ヨシオも皮肉を言って肩をゆらした。
「そ、そうじゃ! 下痢止めじゃ!」
長老が必死の形相で九郎のマントに飛びついた。
「若先生、下痢止めを! はやく下痢止めの薬を!」
すがるような目で悲願する長老に九郎は冷たい瞳で首をふった。
「いまさら下痢止めを飲んだところで効果はないだろう」
「そっ、そんな! じゃあ、ワシは、ワシは……」
「残念だが手遅れだ」
九郎はそうつぶやくと、黒いマントを翻して長老に背を向けた。
「お大事に」
それだけ言って、九郎は食堂を立ち去ってゆくのでした。
「神め……!!」
長老はギリギリと歯ぎしりをしながら血走った眼で九郎の出ていった入り口のほうをにらんでいた。
長老のうしろでハリーが「今日って土曜じゃなかったっけ?」とヨシオに訪ねた。
ヨシオは「さあな」と気のない返事をしてコーヒーをすすった。
ギュルルるルぅ~……
「フッ。どうやらお迎えが来たようじゃ」
まるで死人のように青白い顔で長老がほほ笑んだ。
「おむかえでごんす!」
なにが迎えに来るのかわからないが、とりあえず大五郎も言ってみた。
深夜のトイレ。あと二時間ほどで日付が変わる。こんな時間にもかかわらず、入口には「清掃中」の看板が立っている。
長老のために集まったのはヨシオ、ハリー、マルコ、ルチオ、そして大五郎の五人である。
「じいさん。これを……」
ハリーがトイレットペーパーを二つ、長老に手渡した。
「苦しいときの〝紙〟頼み……か。世話をかけるのう、カウボーイ」
長老はトイレットペーパーを受け取ると、青白い顔でニヤリと笑った。
「紙が足りなくなったらいつでも呼べよ、じいさん」
マルコが笑顔で励ますと、ルチオも「芳香剤も用意した。異臭騒ぎは起きねえよ」と口元に笑みを浮かべて親指を立てた。
「ふたりとも……かたじけない」
長老も青白い顔に笑みを浮かべてうなずくと、ヨシオのほうにチラリと視線を流した。大五郎もうしろをふり向き、ヨシオを見上げた。カベに背中をつけて腕組みをしている。ヨシオはだまったまま、静かに目を伏せていた。
「さて。ぼちぼち行くとするかのう」
長老がトイレのドアに向かったときである。
ゴロゴロぴぃ~……
「――くっ!」
長老がよろめいて片ひざをついた。
「じいさん!」
ハリーが駆け寄る。
「来るでない!」
長老は掌を突きだしてハリーを拒んだ。
「来るでない……。来ては……なら……ぬ」
そして肩で荒い息をしながらヨロヨロと立ち上がった。
「今日も……海の向こうをながめておったようじゃの……大将」
長老が背を向けたままヨシオに言った。
しかし、ヨシオは応えない。ぼんやりと冷めたような弱々しい光でメガネを曇らせながら、ヨシオはだまって腕組みをしていた。
「そうか……まだ見えぬ、か……」
長老がゆっくりと肩越しにふり向く。
「運命……とやら……は」
長老は肩で息をしながらフッと笑った。
「……達者でな。じいさん」
ヨシオは長老の問いには答えず、代わりに別れのあいさつを言うのだった。
「たっしゃでな、じいちゃん!」
大五郎も元気よく親指を立てて最後のあいさつをした。
「うむ。ぼうずも……元気でな」
青白い顔でようやく笑顔をつくると、長老も親指を立ててうなずいた。
「では、皆の衆……さらばじゃ」
ドアの向こうに、長老の青白いほほ笑みがゆっくりと消えていった。
それにしても、いったいだれが長老を迎えに来るのだろうか。まさかキリスト、いや、神様が迎えに来るとでもいうのだろうか。そもそも神様はどんな姿をしているのだろうか。よくわからないが、きっとナメック星人のような姿なのだろう、と大五郎は考えていた。
――ぴブぅ~……――
ドアの中が騒がしくなってきた。いよいよお迎えが来たのだろうか。
――ブッッ……!――
極端に短い大きな爆発音とともに、すさまじい衝撃波が大五郎の体を駆け抜けた。そしてベチャベチャッ、とドアの中で飛び散る異臭。まるでどぶ川の底にたまったヘドロのような臭いである。大五郎は、胃からこみ上げてくるものを必死にこらえていた。
長老の肛門から発せられたソニックブームが、いつまでもトイレの中でエコーしている。
「鼻が曲がりそうだぜ」
大五郎のよこでハリーが嘔吐いた。
ハリーは鼻にしわを寄せながら、顔のまえでカウボーイハットをパタパタさせている。マルコとルチオも、おなじ顔で作業帽をパタパタさせている。ヨシオは腕組みをしたまま、顔をよこに背けていた。
――ガリガリガリ~……――
ドアを引き裂く鋭い爪の音。
「じゃっく・とらんす!!」
あまりの恐怖に大五郎は飛び上がって絶叫した。斧で破ったドアの裂け目からイカレた笑みをのぞかせるジャック・トランスを思いだしたからだ。
「……マダ……ン……テ……」
まるで悪魔のうめき声のような長老の断末魔。
――ドサッ……――
かくして長老は謎の訪問者と共に去ってゆくのであった。
「じいさん……」
気の毒そうな表情を浮かべつつ、ハリーが胸のまえで十字を切った。
「グッバイ。ジェームズ・ディーン」
マルコは哀しい眼をしてトイレのドアを見つめていた。
「墓前に供える花はねえが、ラベンダーの香りだぜ」
ルチオが芳香剤の瓶をドアのまえにそっと供えた。
「〝紙〟は非礼を受けず、か」
それだけ言って、ヨシオは去ってゆくのであった。
「泣けるぜ」
ハリーもヨシオにつづいて入り口を出ていった。
「オレたちもいくか、ルチオ」
「やれやれ、とんだ日曜だったぜ」
「今日は土曜だろ」
「いや、日曜だよ」
「土曜だよ。さっきハリーのダンナも言ってたんだ。まちがいねえよ」
「そりゃあ、ハリーのダンナが勘違いしてるのさ。今日は日曜だよ。たぶん……」
マルコとルチオの話し声がトイレから遠ざかってゆく。
大五郎も、なんだか眠くなってきた。そろそろ部屋に戻って休もう。そう思って入り口に向かおうとしたときのことである。
「あっ?!」
大五郎はギョッっとした。長老が立てこもっているドアの下から、なにか得体のしれないドロドロとした〝茶色い水〟が、ゆっくりと床の上を這うように流れてくる。その茶色く濁った川は、まるで意思をもった生き物のように、まっすぐと大五郎を目指しながら流れてくるのだった。
「さわらぬかみに、たたりなし!」
紙だか神だか知らないが、大五郎は悲鳴を上げながらトイレの入り口を飛びだすのであった。
一方そのころ――――
「バファリンよりは、ロキソニンのほうがいいだろう」
薬の包みをチアキに渡しながら九郎が言った。
「一日二回、朝晩に一錠ずつ服用するように」
「……どうも」
恥ずかしそうにうつむきながらチアキが薬を受け取った。
「なあ、センセー。ホントに大丈夫なのか? 急に死んだりしねーだろーな」
疑うような表情でマエダが言った。
「生理痛ぐらいで死ぬわけないだろう。大げさなやつだな」
九郎が喉の奥で「ククッ」と笑った。
「でもよ、チアキ。そんなに痛てーもんなのか? 生理痛って」
「……!」
チアキが頬を赤く染めて背を向け、入り口に向かって駆けだした。
「お、おい。チアキ」
「……マエダくんのバカ!」
チアキは怒って医務室を飛びだしてゆくのであった。
「な、なんで怒んだよ」
マエダは要領を得ない表情であたまをかいた。
「これが若さか」
九郎はもういちど「ククッ」と笑った。
「けっ。わかんねーこと言ってんじゃねーよ」
マエダはふてくされてドアに向かった。
「ん?」
ふとドアのよこのカベのカレンダーに目が止まる。
「おい、センセー」
「なんだ」
「このカレンダー、先月のままだぜ」
「ああ、うっかりめくるのを忘れていたようだ」
九郎がカレンダーをめくった。
「今日は……十三日の月曜日、か」
……と、いうわけさ。
※グレるりん・・・まじめな人もワルにしてしまうという恐ろしい妖怪
だニャン!
※マダンテ・・・某ロールプレイングゲームに登場する呪文(詠唱者の
全魔力を放出して大爆発を巻き起こす究極の呪文)。
――エキストラにさようなら――
渋色のくたびれたカウボーイハットにドライシガー。テレビのモニターに映るその男は、表情まで自分とそっくりだった。もちろん、演技力だって負けていない。自分ではそう思っている。だが、なにかが足りなかった。彼にあって、自分にないもの。灯の消えた真っ暗な部屋でひとり、ハリーはじっとモニターをにらみながら考えた。いったい、なにが足りない? オレと〝やつ〟のなにがちがうというのだ?
ジャリ……ジャリ……
やつがモニターの奥から近づいてくる。街の通りの向こうから、一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。真昼の決闘か。おもしろい。ハリーはレザージャケットの内ポケットから葉巻をとり出し、くちびるに挟んで火を点けた。
――ジャリッ
通りのまん中でやつが立ち止まった。
ハリーは葉巻の煙をふーっと吐きだし、静かにパイプ椅子から立ちあがった。口にくわえた葉巻。渋色のくたびれたカウボーイハット。スクリーン越しに、おなじ顔がにらみ合う。
『――抜け』
やつが腰の拳銃に手を伸ばした。ハリーも右の拳の人差し指と親指を開いて指鉄砲をつくり、ゆっくりとした動作で腰のよこに構えた。一筋の冷たい汗が、すーっと頬を流れ落ちる。やつも額に汗を浮かべている。しばしの間、無言でにらみ合う。やつの右手の中指がピクリと動く。反射的に、ハリーのマユもピクリと動いた。お互いの鋭く光る冷たい眼が、じっと相手の隙をうかがっている。ヒュルリと風が吹きぬけ、砂塵が舞い上がる。ころころと跳ねるように転がりながら、ふたりの間をタンブルウィードがよこぎる。一瞬の静寂。そして教会の鐘の音を合図に、やつとハリーは同時に動いた。
――バン!
「――!?」
一瞬、心臓が止まった。胸を押さえながら、勢いよく背中から倒れ込む。もちろん、これは演技などではない。演技で心臓を止めることなどできるはずがないし、それができるぐらいならとっくにハリウッドスターになっているだろう。そもそも、オレを吹き飛ばしたのは〝やつ〟が放った銃弾ではないのだ。部屋の入り口に立っている人物。そいつがオレを吹き飛ばした犯人だ。ハリーは床の上に起きあがると、肩越しにドアをふり向いた。暗い床の上にできた光の道をカウボーイハットが転がっている。ドアの外に立つ黒い影に向かって、まっすぐ転がってゆく。そして黒い影の足にぶつかり、床の上にパタリと倒れて止まった。
「……ぼうず。ドアを開けるときは、もうちょっと静かに頼むぜ」
苦笑混じりにハリーが言うと、大五郎は床の上からカウボーイハットを拾い上げ、自分のあたまに乗せてニコリと笑った。
「おじちゃん、ひるめし!!」
「はやいな。もうお昼になるのか」
「またひとりでテレビみてたの?」
「なにもやることがないからな」
そう言って自嘲すると、ハリーはよこを向いて葉巻の煙をふーっと吐きだした。テレビのモニターが視界の端に見える。床に座り込んだまま、ふと肩越しにモニターをふり返る。腰にぶらさがるホルスターのよこでクルクルと拳銃が回っている。そして拳銃がホルスターに収まったつぎの瞬間、〝やつ〟は葉巻をくわえた顔でニヤリと笑った。
「泣けるぜ」
ふてくされたように鼻を鳴らすと、ハリーはヨロヨロと床から立ち上がり、やおら部屋の隅にある小さな机に向かった。
「このテレビ、このまえのとおなじやつだね」
「ああ。このまえのつづきを観てたんだ」
「さいごまでみたの?」
「いま、ちょうど終わったところさ」
もう何百回と観ている映画だ。どのシーンだろうが、自由にあたまの中で再生できる。わざわざ観るまでもないさ。胸の中でつぶやきながら、ハリーは机の上のリモコンに手を伸ばした。
「……締まらねえ結末だぜ」
ハリーはモニターから顔を背けて電源を切ると、大五郎の待つ入り口のドアに向かって静かに歩きはじめた。
「さあ、食堂へ行こう。みんなが待っている」
「うん!」
元気よく返事をすると、大五郎は駆け足で部屋を出ていった。
ハリーはドアのまえで立ち止まり、こっそりとモニターによこ目を向けた。所詮、オレはエキストラ。セリフも役名もない、ただのエキストラ。スクリーンの中に映る、ただの背景。これがオレの実力。これが現実。
「おじちゃん、ぼうし!」
はっとしてドアに向きなおると、大五郎が頭上高くカウボーイハットを掲げながら立っていた。
「ああ、すまん」
ハリーはカウボーイハットを自分のあたまにもどすと、大五郎の明るい笑顔にうなずいた。オレには、もうこんな笑顔は一生作れないだろう。ハリーはカウボーイハットの鍔を下に引っ張り、ほほ笑みを忘れた顔をそっと隠した。
娯楽室を出て、うしろ手にドアを閉める。ふと床に目を落とし、吐息と共に口と鼻から紫煙を吐きだす。ハリーは何度か小さく首をふると、静かに艦内通路を歩きはじめた。ハリウッドスターの夢など、もう忘れよう。どうせ、生きてこの太平洋を渡れるかどうかもわからないのだ。かりに生き延びれたとしても、オレはもうスクリーンの中へ戻るつもりはない。もう、こんなみじめな生き方はまっぴらだ。もし、生きて故郷の土を踏むことができたら、小さな牧場でもはじめよう。スクリーンの中のカウボーイは、もう卒業だ。これからは、本物のカウボーイとして生きるんだ。そうだ。そのほうがいい。通路を歩きながら、ハリーは自分に言い聞かせていた。だまって大五郎のうしろを歩きながら、夢を忘れようとしていた。奥歯をぐっとかみしめ、こみ上げてくるものを抑え込みながら。ハリーは娯楽室をふり返ることなく、だまって通路を歩きつづけた。
二時間ほど昼寝をすると、大五郎はヨシオたちのいる甲板にまっすぐ向かった。
「あっ」
タラップを上がって甲板にでると、舳先にはヨシオとハリー、そして長老とコバヤシが立っていた。みんなで集まって、いったいなにを話しているのだろうか。とにもかくにも、大五郎は舳先に向かって駆けだした。
「おいらも、まざりたい!」
大五郎はヨシオとハリーの間に滑り込んだ。そして仁王立ちになって腕を組み、とりあえずヨシオとおなじ格好をしてみた。
「今日は、少し曇ってるな」
大五郎のとなりでハリーが空を見上げた。太陽は出ていないが、カウボーイハットの下で眩しそうに目を細めている。
長老もヨシオのとなりで灰色の空を見上げている。
「風も出てきたのう。こりゃあ、ひと雨来るかな」
肩まで伸びた白髪が、ゆらめく炎のように風でなびいている。しかし頭頂部はハゲており、アゴには白く長いひげを蓄えていた。長老は、まるで絵本に出てくる仙人のような老人だった。
「それにしても、アニキはいったい、なにを見てるんです?」
ハリー越しにヨシオに声をかけたのは赤いモヒカンあたまの男、コバヤシである。
「……」
コバヤシに返事をせず、ヨシオはだまって水平線のほうを見ている。
「相変わらずクールでやすね、アニキは」
コバヤシは黒いカーゴパンツのポケットに手をつっこんだまま肩をすくめた。
スネークの一件以来、コバヤシは別人のようにおとなしくなってしまった。彼は、ヨシオをアニキと呼び慕っているのだ。
「そういや、ダンナ」
コバヤシがハリーに声をかけた。
「アッシは以前、ダンナに会ったことがあるような気がするんですがね。いや、どこで会ったかは思い出せねえんですが、アッシはたしかにダンナの顔を見たことがあるんでさァ」
そう言って腕組みをすると、コバヤシは不思議そうに首をかしげた。
「オレを見ると、なぜかみんなおなじことを言うんだよ」
ハリーは右手で指鉄砲をつくると、コバヤシの眉間を狙うように構えて見せた。
「……あっ! ダンナは俳優の……」
「〝元〟俳優、だ」
ため息混じりに苦笑すると、ハリーはカウボーイハットの鍔で顔を隠した。
ハリーが俳優だったことは大五郎も知っていた。いつも悪役や死体役ばかりで、セリフのある役をもらったことは、いちどもなかったらしい。
「じつを言うと、アッシは西部劇のファンなんでさァ。もちろん、ダンナのこともよぉく知っておりやす。いや~、みごとなやられっぷりでやした」
コバヤシは褒めているのか貶しているのかわからない言い方をした。
「おいおい、茶化すなよ」
「茶化しちゃいやせん。ダンナはまちがいなく名脇役。主役級の脇役でさァ」
コバヤシとハリーが映画の話で盛り上がっている間、ヨシオは腕組みをしたままジッと水平線の向こうを見つめていた。カタパルトオフィサーのヘルメットにイエロージャケット。いったい、ヨシオはなぜそんな格好をしているのか。それを知る者はだれもいない。
「おや? あそこでなにか光ったようじゃ」
長老がヨシオの背中越しに右舷のほうを杖の先で示した。
大五郎はハリー越しに右舷のほうをふり向いた。空母の右舷、およそ二百メートルほどのところを、なにか銀色の物体が波間に見え隠れしながら漂っている。
「ありゃあ、飛行機の翼でやすね」
丸い黒縁メガネを押し上げながらコバヤシが言った。
飛行機の翼。大五郎は、ふとチャーリーを思い出した。あの翼は、ひょっとしてハリアーの残骸なのでは。銀色で、細長い翼。……ちがう。あの翼はハリアーのものではない。ハリアーの翼は、あんなに長くはなかったはずだ。チャーリーは、きっとどこかで生きている。大五郎はそう信じることにした。
「オレも、昔はもっていた」
波間を漂う銀色の翼を遠い眼で見ながらハリーが言った。
「いったい、なにをです?」
コバヤシが尋ねる。
「翼だよ」
ハリーは鼻と口から紫煙を吐きだすと、海に向かって葉巻を指で弾き飛ばした。
細長く伸びた白い煙が、黒い海の中へと吸い込まれてゆく。
「オレにも夢があった。夢に向かって、羽ばたいて……」
「ダンナ……」
同情するコバヤシに小さくうなずくと、ハリーはクルリと踵を返した。
「でも、もう飽きちまったぜ。夢の中で飛び回るのは、な」
陽気に冗談を言いながら、ハリーはゆっくりと右舷のタラップのほうへ去っていった。
「おじちゃん……」
陽気に笑っていたが、ハリーの背中は泣いていた。大五郎だけではない。みんなもわかっているのだ。
「ハリウッドスターの夢。やはり、捨てきれぬか」
長老はタラップを降りてゆくハリーの背中を静かに見送っていた。
「でも、アッシらは素人。演技のことなんてわかりゃしねえ。アッシらには、どうすることもできねえ」
コバヤシは己の無力さに苛立っている。もちろん、大五郎もおなじ気持ちだった。できることならハリーのちからになってやりたい。でも、大五郎には、なにもいい考えが思いつかなかった。
こういうときに頼れるのがヨシオだった。彼はスネークを倒した男。この空母の危機を救った英雄なのだ。彼なら、ハリーのちからになれるはずだ。きっと、なんとかしてくれるはずだ。だが、ヨシオはなにも言おうとしない。腕組みをしたまま、じっと黒い海を眺めている。
嵐になった。
空母の乗組員、そして難民たちは、みんな食堂に集まっていた。全員ではないが、およそ百人ぐらいはいるだろう。もちろんヨシオもいる。食堂のはしにある、小さなテーブル。そこでハリー、長老、そしてコバヤシの四人でポーカーをしているのだ。大五郎はポーカーのルールがわからないので、ただ見ているだけだ。
「なあ、ぼっちゃん」
コバヤシが声をかけてきた。
「そこのカウンターでスコッチをもらってきてほしいんだが。それと、瓶ビールを一本」
「うん!」
カウンターでスコッチのボトルと瓶ビールをもらうと、大五郎はコバヤシのところへもっていった。
「おう。すまねえな」
赤いモヒカンあたまがニタリと気色悪い笑みを向けてきた。大五郎は無視してヨシオのとなりに座った。
「ささ、アニキ。一杯どうぞ」
コバヤシが傍らのヨシオにスコッチを勧めた。
「じいさんも、一杯やれや」
コバヤシは向かいに座る長老にも勧めると、そのとなりのハリーのグラスにもスコッチを注いだ。
ハリーは掌の中に広げたカードをながめながら、ぼんやりとしている。くわえた葉巻からゆらゆらと立ちのぼる白い煙も、どこか寂しげだ。翼の話をしてから、ハリーはずっとふさぎ込んでいるのだ。
大五郎はハリーの様子を気にしつつ、ヨシオのとなりでコーラを飲んでいた。相変わらずヨシオはふだんと変わらない表情でグラスを傾けている。ヨシオ越しにコバヤシに目をやると、彼は豪快に瓶ビールをラッパ飲みしていた。
「ハラが減ったな」
ボソリとつぶやき、ハリーが席を立つ。
「ホットドッグを食ってくる」
ハリーが大五郎のよこを通りすぎてカウンターのほうへ歩いてゆく。
「おじちゃん……」
いつもとちがうハリーの様子に、大五郎はいささか戸惑った。いったい、今日のハリーはどうしたのだろうか。どこか具合でもわるいのだろうか。大五郎は、心配そうにハリーの背中を見送っていた。
「慮外者!!」
とつぜんカミナリのような大声が食堂に轟いた。
「わっ?!」
大五郎は掌を耳に当てながら叫び声にふり向いた。どうやら声の主は長老のようだ。いったい、なにが起きたというのか。
「このわしにイカサマが通用すると思うてか!!」
激昂しながら席を立ち上ると、長老はコバヤシにカードを投げつけた。
「な、なぁにィ~? イカサマだと? ふざけんなジジイ!!」
コバヤシもテーブルを叩いて立ち上がり、長老につめ寄った。
にわかに周りがざわめきだした。食堂にいる全員が、このふたりに注目している。ハリーもホットドッグをかじりながら様子をうかがっている。ヨシオは、あいかわらず他人事のように落ち着いている。席に座ったまま、静かにグラスを傾けていた。
コバヤシが長老の胸ぐらにつかみかかった。
「それともなにかい? アッシがイカサマをやったってェ証拠でもあるのかい?」
相手の目を睨んだまま長老がテーブルの上に転がるビール瓶に手をのばす。
「くせえ息を吐くのは、それぐらいにしておけや!!」
そしてコバヤシのあたまに勢いよくふりおろした。
粉々に砕け散ったビール瓶の破片が、キラキラと床の上に降り注ぐ。
「――ラリッ!!」
まるで首ふり人形のようにあたまをフラフラさせながらよろめくコバヤシ。
「ホー……」
赤いモヒカンあたまが、まっ紅な血の花を咲かせながらエビ反る。
「……マ」
まるで伐採された大木のように、コバヤシはゆっくりと仰向けに倒れるのであった。
「ヤ……ヤロウ。マ、マジでやりやがったな~……」
ちかくのイスにつかまりながら、コバヤシがヨロヨロと立ち上がった。顔は血まみれ、目は血走っている。
「外道の最後はこんなものじゃ。いさぎよく天に帰るがよい!!」
長老は頭上で構えた杖を、まるでヘリコプターのプロペラのようにふり回すのであった。
「ほざきやがれ!!」
コバヤシがズボンのポケットから拳銃を取りだすと、食堂にみんなの悲鳴が響き渡った。
「天に帰るのはテメーのほうだ!!」
コバヤシが長老に銃口を向ける。ヨシオ。手刀。コバヤシの手から銃が落ちる。
「あっ!」
コバヤシが、慌てて銃を拾おうとする。
「ハリー!!」
そうはさせまいと、ヨシオが銃を蹴る。
床の上を回転しながら、銃が滑っていく。ハリーの足元。ホットドッグを頬張りながら、ハリーが銃を拾う。
コバヤシはヨシオから素早くはなれると、ポケットからもう一丁の銃を取りだした。
「ばかめ! 銃は一丁だけじゃねえ!」
コバヤシがハリーに銃口を向ける。
「よせ!」
ハリーもホットドッグをゆっくりと咀嚼しながら銃口を構えた。
「ダンナを撃ちたくはねえ。どうかその銃を捨てておくんなせえ」
コバヤシが銃の撃鉄を起こす。
だが、ハリーは首をよこにふる。
「よすんだ。銃を捨てろ、コバヤシ」
眩しそうに細めたハリーの眼が冷たく光る。
「たのむ、ダンナ。アッシに引き金を引かせねえでくれ」
コバヤシもハリーに銃口を向けたまま首をふった。
「銃を捨てるんだ、コバヤシ。オレは本気だぜ」
ハリーも撃鉄を起こした。
凍りついたように静かな食堂。ふたりの冷たい目が、ジッとにらみ合っている。大五郎は長老とふたりでカベ際に下がった。ヨシオも動かない。どうやらふたりの勝負に手を出すつもりはないらしい。まるで石像のように固まったまま動かない三人。ヨシオとハリーとコバヤシの位置関係を線で結ぶと、ちょうど正三角形になる。
「バミューダトライアングルじゃ」
大五郎の耳元で長老がささやいた。
なんの話か知らないが、いまはそれどころではない。大五郎は長老を無視してハリーたちの戦いに集中した。
――パリン!――
床の上でグラスが割れる音。
――パ パン!――
重なる銃声。
時間が止まったように、だれも動かない。
――ゴトリ――
床の上に、ひとつだけ銃が落ちた。
「……ダンナ……」
コバヤシがヒザから崩れ落ちる。右手で胸を押さえながら、コバヤシはゆっくりとうつ伏せに倒れこんだ。
ハリーが口の中のものをゴクリと飲み込んだ。それから何度か首をふり、ゆっくりとコバヤシのところへ歩きはじめた。銃口はコバヤシに向けたままだ。
「さ……さすがだぜ、ダン……ナ……」
薄く開いた眼でハリーを見上げると、コバヤシは血まみれの顔でニヤリと笑った。そして、静かに息を引き取った。
「……ばかやろう……」
ハリーは口の中でつぶやくと、カウボーイハットで顔を隠すようにうつむいた。銃口をコバヤシに向けたまま、ハリーはすべてを否定するように首をよこにふっていた。
「ばかやろう……」
かすれた声で、もういちどつぶやいた。
銃を下ろしても、ハリーは首をふりつづけた。怒り。後悔。悲しみ。セリフはいらない。ハリーは表情だけで、それらの感情をみごとに表現しているのであった。
パチ……パチ……パチ……
ふいに、だれかが手を鳴らした。
「素晴らしい演技だったよ、ハリー」
ヨシオである。
「演技だと?」
ハリーが不愉快そうな表情でにらみつけると、ヨシオはニヤリと皮肉な笑みを浮かべた。
「さすがだよ。まさに、アカデミー賞ものの名演技だ」
「ふざけるな」
ヨシオの態度に怒りを見せるハリー。だが、ヨシオは笑みを浮かべたままだ。
「オレは褒めてるんだぜ。もっと素直によろこんだらどうなんだ?」
ヨシオの言葉はハリーの神経を逆撫でするだけだ。
「きさま、いい加減にしろ!」
ものすごい剣幕でヨシオに詰め寄るハリー。いままで見せたことのない激しい表情だ。
ハリーがヨシオの胸ぐらにつかみかかる。
「きさまは……きさまというやつは、こんなときにまで――」
「カーット!」
ハリーをさえぎる声。
「まるで本物のハリー・キャラハンを見ているようでしたぜ、ダンナ」
ムクリと起き上がったコバヤシをハリーがふり返る。コバヤシが血まみれの顔でニタリと笑う。そしてギョッとするハリー。
「なっ……?」
ハリーは驚きと戸惑いが入り混じった表情をヨシオの顔に向けると、何が起こっているのかわからない、というように首を小さく何度かふった。だが、ヨシオは答えない。ヨシオは胸ぐらをつかまれたまま目を伏せている。なにも言わず、ただ静かに薄い笑みを浮かべているだけだった。
ハリーは、まだ状況がのみ込めない。もういちどコバヤシをふり向く。なにか言いたそうだが、うまく言葉がでてこないようだ。ハリーは戸惑った表情のまま、コバヤシに説明を求めるような目を向けていた。
「いや、ダンナをだますつもりはなかったんでやすがね」
そう言って立ち上がると、コバヤシは気まずそうにあたまをかきながらつづけた。
「あの銃は、どっちも〝空包〟だったんでさァ」
「……と、いうわけだ」
ヨシオが言い添えると、ハリーはようやく胸ぐらから手をはなした。そして両手を腰に当ててガクリと頭をたれると、緊張をほぐすように「ふーっ」と長い吐息をつき、何度か首をよこにふった。
「やれやれ。つまり、オレは一杯食わされた、ってわけか」
呆れた口ぶりで苦笑するハリー。
「それにしても、いい芝居だった。いいセンスもってるよ、おまえら。まさにアカデミー賞ものの名演技、ってやつだ」
「いやいや、おまえさんも、なかなかの演技じゃったぞ」
長老のやわらかい声。
「おまえさんには才能がある。もういちど羽ばたいてみなされ」
長老は穏やかな表情で目尻にしわをつくっていた。
「……じいさん……」
ハリーは目に涙を溜めていた。
「これでエキストラは卒業、だな」
ハリーに背を向け、ヨシオが席にもどる。
「いまの感覚を……忘れないことだ」
それだけ言って、ヨシオは静かにグラスを傾けた。
「やれやれ」
ハリーがカウボーイハットの鍔を下げて顔を隠した。
「……泣けるぜ、ちくしょう」
肩を揺らして笑っている――いや、ハリーは泣いているのだ。カウボーイハットで目は隠れているが、頬がかすかに光っている。みんなの拍手の中で、ハリーは本当に泣いていた。
「なけるぜ!」
頬を濡らしながら、大五郎もちからいっぱい手を叩くのであった。
※ラリホーマ・・・某ロールプレイングゲームに登場する魔法(催眠
効果)。
――紅の棺――
ミサイルが直撃した空母のブリッジは上半分がふきとび、まるで王冠のようにギザギザになっている。その王冠の上に、今日も太陽が白く輝いているのであった。
大五郎はヨシオとふたりで舳先に立っていた。腕組みをして仁王立ちになり、いつものように舳先の示す水平線をだまってながめていた。波で空母が上下し、水平線の位置が高くなったり低くなったりしている。空母は、ゆっくりと波に運ばれていた。操舵室のあるブリッジは大破し、舵やスクリューは潜水艦の魚雷攻撃を受けて破損していた。つまり、この空母は自力で進むことができないのである。
甲板にいるのは自分とヨシオのふたりだけ。とても静かである。青空の下には、見渡す限りの碧い海が広がっている。ちかくに陸地はないのだろうか。水平線の先に見えるのは、大きく真っ白な夏雲だけだった。
腕組みをしたまま、大五郎は傍らののヨシオをふと見上げた。
「きょうもいいてんきだね、おじさん」
ヨシオは返事をしない。いつものことなので大五郎は気にしなかった。仁王立ちで腕組みをしながら、ヨシオはだまって水平線の向こうを見つめている。波で空母が上下するたびに、ヨシオのメガネがきらきらと光っている。彼は、いつもカタパルトオフィサーのイエロージャケットを羽織り、おなじくカタパルトオフィサーのヘルメットを被っているのだ。なぜヨシオがそんな格好をしているのか。その理由を知るものは、だれもいないのだ。
ピピ……ピピ……ピピ……
ヨシオの腕時計が鳴った。
「昼になったか」
水平線に顔を向けたまま、ヨシオが言った。
「おじさん、ひるめし!」
大五郎が飛び跳ねると、ヨシオは腕組みを解いて踵を返した。
「コッペパンとコーンスープ!」
駆け足でヨシオを追い越すと、大五郎は張りきってタラップを降りていった。
食堂は難民や生き残った空母の乗組員であふれかえっている。どちらかといえば、難民のほうが多かった。三週間まえ、大五郎たちは空母ではなく病院船に乗っていた。その病院船が、いきなり潜水艦の攻撃を受けたのだ。病院船に一発の魚雷が命中。沈みかけてるところに、ちょうどこの空母が通りかかった。大五郎たち難民は、無事に救助されたのである。だが、脅威はまだ去ってはいなかった。大五郎たちが救助された直後、空母は潜水艦の攻撃にさらされた。ブリッジがふきとび、魚雷攻撃によりスクリューが破損。かくして、空母は航行不能に陥ったのだった。それから三週間、大五郎たちはあてもなく太平洋をさまよいつづけているのであった。
コッペパンにコーンスープ、それに野菜サラダをのせたスチール製のトレイを運びながら、大五郎はいつもの席に座った。入口正面から奥に向かって並ぶ長テーブルの、いちばんうしろの席だ。そして、大五郎のとなりには、いつもヨシオが座っていた。
「今日も朝から海を眺めておったのか、ぼうず?」
のん気そうな笑みを浮かべながら向かいの席に長老が座った。
「うん!」
「どうじゃ、なにか見えたか?」
大五郎は首を大きく横にふった。
「そうか。なにも見えんかったか」
長老はしみじみとうなずいてコーンスープをすすった。
長老のとなり、ヨシオの向かいにカウボーイハットの男が座った。ハリーである。
「今日もコッペパンひとつにコーンスープ、それに野菜サラダか。泣けるぜ」
グチをこぼしながら、ハリーが肩をすくめた。ハリーは、いつも眩しそうに目を細めていた。その表情は確かに泣いているようにも見える、と大五郎は思った。
「おいらは、コッペパンだいすき!」
大五郎が笑うと、ハリーは不満そうな顔でコッペパンを小さくちぎった。
「オレはホットドッグのほうがすきだ」
ハリーは以前、俳優の仕事をしていたと言っていた。長年やっていたがまったく売れず、主役はおろか、セリフのある役をもらったことはいちどもなかったらしい。いつも通行人や死体役のエキストラばかりで、クレジットに名前が載ることも滅多になかったという。
彼がホットドッグを好んで食べるのにもわけがあった。役者時代、ハリーはいつものチーズバーガーではなくホットドッグをかじりながら通りを歩いていた。そのとき、彼は見知らぬ若い女性に声をかけられた。ひょっとしてクリント・イーストウッドさんですか、と。彼は一瞬戸惑ったが、迷わずこう答えたのだ。
―― イエス! ――
記念撮影にも応じ、おまけにサインもしてやった。いつだったか、そんな話をしてくれたことがあった。ハリーは話している間、ずっと無邪気な笑みをたたえていたのを大五郎は覚えている。ハリーは、ほんの一瞬だがスターの気分を味わうことができた。ハリーにとって、ホットドッグは幸運を呼ぶ食べ物なのだ。いわゆる〝まじない〟である。自分もいつか〝彼〟のようなスターになれるように、と。
ハリーのとなりに、赤いモヒカンあたまの男が座った。
「やれやれ。あいかわらずシケた昼メシだぜ」
丸い黒縁メガネをかけた男。コバヤシである。数日まえ、彼は元ギャングのボスだったスネークと共に、この空母を乗っ取ろうと反乱を企てた男なのだ。だが、スネークの野望はヨシオの活躍によって見事に打ち砕かれたのだった。以来、コバヤシは改心し、ヨシオをアニキと呼び慕うようになっていた。
丸い黒縁メガネを押し上げながらコバヤシがため息をついた。
「寿司が食いてえなあ。ラーメンも食いてえ。アニキも、食いてえとは思いやせんか?」
「あきらめるんだな」
スプーンでコーンスープをかき混ぜながらヨシオが言う。
「大陸がどうなっているのかわからんが、もし無事にたどり着けたとしても、ここで出される食事よりマシなものは食えんだろうな」
コーンスープの器の中に目を落としたまま、他人事のようにヨシオは語った。
「寿司、か」
大五郎の向かいの席で長老が唸った。
「いちど食べてみたかったのう」
独りごとのように長老がつぶやいた。長老の故郷は、中東の小さな国だと言っていた。小さな国の中の小さな村。その村も、ひと月まえにはじまった核戦争で消滅してしまったのだ。長老の国だけではない。この戦争によってほとんどの国家は消滅し、計り知れない犠牲が出たのだ。
「生き残れただけマシってことか。やれやれ」
「安心するのはまだ早いぜ、コバヤシ」
小さくちぎったコッペパンを口に運びながらハリーがつづける。
「たしかに、オレたちは生き残ることができた。だが、艦は故障して動かなくなっちまった。それも太平洋のド真ん中でだ。いまだに救援が来る気配もないし、無線も通じない。おまけに食糧も底をつきかけている。つまり……」
「げーむおーばー!」
手を上げながら大五郎が答えると、ハリーはやれやれというような表情で首をふった。
「たしかに、いまのわしらは無力じゃ」
長老はコーンスープの器を静かに置くと、みんなの顔を見渡しながらつづけた。
「じゃが、まだあきらめてはいかん。わしらが生き残ったのは、ここで死ぬためではないはずじゃ。信じよう。神を」
「おとぎ話でもあるまいし」
ヨシオが嘲笑を浮かべながら席を立った。
「もし、神様とやらが本当にいるのなら、核戦争なんぞ起こりはしなかったろうよ」
そう言いのこして、ヨシオは食堂のドアを出ていった。
「かみさまも、せんそうでしんじゃったのかな?」
大五郎が言うと、ハリーは肩をすくめて苦笑した。
故郷を脱出するとき、大五郎は両親とはぐれてしまった。あれから故郷がどうなってしまったのか、大五郎にはわからない。はたして、両親は無事なのだろうか。いや、きっと無事のはずだ。きっと、神様が守ってくれたにちがいない。
「おいらは、かみさまをしんじる!」
勢いよく席を立つと、大五郎は駆け足で食堂のドアを飛びだした。
食堂を出ると、大五郎は甲板に通じる左舷のタラップのほうへ向かった。
「あっ」
大五郎はトレーニングルームのまえで足を止めた。中からだれかの話し声が聞こえてくる。入り口のドアから中をのぞくと、部屋の奥に黒いマントの男の姿があった。世界的に有名なヤブ医者・羽佐間九郎、通称ブラック・ジョークと呼ばれている男だ。
九郎の傍らに、もうひとり男が立っている。全身が筋肉の塊のような男だ。身につけているのは、黒いポージングトランクスのみ。まるで水泳選手のようだ、と大五郎は思った。
「せんせー!」
大五郎はドアを入って九郎に駆け寄った。
「やあ、ぼうず。今日も元気そうでなによりだ」
九郎が大きな傷痕のある顔でほほ笑んだ。
右のマユから左の頬にかけて三日月形に流れる大きな傷痕。そして彼の瞳は、まるでマネキンのように感情が凪いでいるのであった。
「せんせー、ここでなにしてたの?」
「ちょっとな。彼と薬のはなしをしてたんだよ」
「くすり?」
大五郎は九郎の傍らに立つ筋肉男をそっと見上げた。体はゴリラのように大きく、顔はモアイにそっくりである。はたして、この男はいったい何者なのだろうか。
「おじさん、かぜひいたの?」
心配そうに尋ねた大五郎に、モアイはニコリと笑って首をふった。
「カゼなんかひくもんか。おじさんがたのんだ薬というのは、アナボリックステロイドのことだよ」
「あなぼ……りっく……?」
「筋肉がたくさんつく薬さ」
「でも、もういっぱいきんにくついてるよ?」
「いや、まだ鍛えていないところがあるんだ」
「どこをきたえるの?」
「そっ、それは、なんというか……つまり、その……」
言葉に窮すると、モアイは咳ばらいをしながら九郎をチラリと見やった。
九郎が冷たい瞳で大五郎にほほ笑みかける。
「おちんちんだよ」
「きっ、きみィ」
予想外の九郎の言葉にモアイが戸惑う。
「いくら〝玉〟だからといって直球はいかんよ、直球は。せめて股間と言いたまえ」
モアイは迷惑そうな顔で人差し指を立てながら言うのであった。
しかし、どうして股間を鍛える必要があるのか。大五郎は不思議に思った。
「なんでそんなところきたえるの?」
「いいかい、坊や。股間というのは、どうやっても鍛えることができないんだよ。急所……つまり、弱点というわけだ。おじさんは、その弱点がどうしても気にくわなくてね。おじさんは……最強の体を手に入れたいんだよ」
モアイが顔のまえで握りこぶしをつくった。全身の筋肉がメキメキと音を立てながら引き締まってゆく。
「とっちゃえばいいのに」
「だめだ!」
モアイが目をむきながら吠えた。
「もし、そんなことをしたら……おじさんは……とにかく、簡単にとったりしてはいけない物なんだよ」
なんだか歯切れの悪い口調である。
「でも、さいやじんも、じゃくてんのシッポをとったらつよくなったよ?」
「サ、サイヤ……?」
モアイが掌をもち上げて首をふった。どうやらモアイはサイヤ人の存在を知らないようだ。
「よう。なにしてんだい先生」
コバヤシがドアを入ってきた。ハリーも一緒である。
「あ!」
コバヤシがモアイを指差しながら声を上げた。
「あんた、もしかしてターミネーターの?」
大五郎は「はっ」とした。そうだ。どこかで見たことのある顔だと思っていたのだ。この男は、ターミネーターにそっくりなのだ。
「よく言われるんだよ。道を歩いていると、記念撮影やサインを求められてね」
はにかみを見せながらターミネーターが肩をすくめた。
「それで、サインはしたのかい?」
ハリーが興味深そうに尋ねると、ターミネーターは照れくさそうに首をふった。
「ちょっと迷ったけどね。ことわったよ」
「オレはしたぜ。記念撮影にも応じたよ」
「そういえば、どこかで……」
ターミネーターは怪訝そうにマユをひそめると、あたまをかがめてカウボーイハットの下に隠れたハリーの顔をのぞき込んだ。そして、しずかに口もとで笑った。
「やあ、キャラハン刑事。調子はどうだい?」
「絶好調さ」
ハリーもニヤリと笑った。
「ジュリアスだ」
ターミネーターが名乗りながら右手を差しだすと、キャラハン、もといハリーも右手を差しだし「ハリーだ。よろしく」と名乗り、握手を交わした。
「あんたも体を鍛えてるのかい? ドクター・ハザマ」
あいさつ代わりにハリーが言うと、九郎はノドの奥でククク、と不気味に笑った。
「まさか。彼に薬をたのまれただけさ」
軽くハリーと会話を交わすと、九郎はマントを靡かせながらドアのほうに足を向けた。
「それじゃ、私はこれで失礼するよ」
「ああ、ドクター」
ジュリアスが九郎を呼びとめた。
「例の薬は、いつ……」
「もう出来てるよ。試作品だが、じゅうぶん効き目はあるはずだ。あとで医務室まで取りに来たまえ」
「わかりました。のちほど伺います」
九郎は世界的に有名なヤブ医者である。彼のつくった薬が予定通りの効果を発揮したことなどいちどもない。彼の薬を使うなら、ドラッグストアの安物の薬を使ったほうがマシ。彼の患者は、口をそろえてそう言うのだ。むろん、大五郎もそう思っていた。数日まえ、大五郎は彼からもらった下痢止めを飲んだところ、効果がありすぎて便秘になったのだ。あれでよく医者がやっていられるものだ、と呆れる大五郎なのであった。
「おじさん、じゅりあす、っていうの?」
大五郎がたずねると、ジュリアスは優しくほほ笑んだ。
「ああ。おじさんの名前はジュリアスだ。坊やは、なんて名前なんだい?」
「だいごろー!」
「ダイ、グロウ?」
「ちがうよ。だいごろーだよ」
「ダ、ダイ……グ……?」
「だ い ご ろ う!」
「ダイ……ゴロウ。ダイ、ゴロウ。ダイゴロウ」
ジュリアスはおぼつかない口調でくり返した。
「そう、だいごろー!」
大五郎は親指を立てて笑った。
「オー、イエス! ダイ ゴロウ!」
笑顔でうなずきながら、ジュリアスも親指を立てた。大五郎は、またひとり新しい友達ができた。
両親とはぐれて独りぼっちになったとき、大五郎はとても不安だった。毎日、ずっと泣いていた。そんなとき、病院船でハリーや長老と出会った。ふたりに慰められ、そして励まされて、大五郎は少しづつ元気を取り戻していったのだ。友達が増えるたび、哀しみが減ってゆく。しかし、両親の無事をたしかめるまで、大五郎の胸の中にある哀しみが完全に消えることはないのである。
「しかし、なんでそこまで筋肉にこだわるんスか? ジュリアスのダンナ」
両手のダンベルを脇腹のよこで上下させながらコバヤシが尋ねた。
穏やかな表情が急に曇り、ジュリアスがうつむく。
「……小さいころ、私はいじめられっ子だったんだよ」
ジュリアスはベンチに腰をおろし、ひざの上で両手を組んだ。大五郎もとなりに腰かけてジュリアスの話に耳をかたむけた。
「生まれつき体が弱くてね。よく病気もした。スポーツも苦手だった」
床の上をじっと見つめながらジュリアスがつづける。
「でも、強くなりたいと思っていた。私は強くなりたかった。私は……弱い自分が嫌いだったんだ」
ジュリアスが吐息をついて首をふった。弱い自分が嫌い。大五郎もおなじだった。
「おじさん」
大五郎はジュリアスの顔を見上げながら、慰めるようにほほ笑んで見せた。ジュリアスも顔をよこに向けてかすかにうなずき、大五郎に笑顔を返す。
「私は自分と戦いつづけた。自分の中の弱さと」
ジュリアスがゆっくりとベンチから立ち上がってコバヤシのほうへ足を進めた。
「そして体を鍛えはじめると、内気な性格も直ってね。自分に自信がもてるようになったんだ。鍛えられたのは体だけじゃない。心も鍛えられたんだ」
ジュリアスはコバヤシからダンベルをひとつ借りると、脇腹のよこで右腕を上下させた。
「いじめっこは、やっつけたの?」
大五郎が尋ねると、ジュリアスは口もとに笑みを浮かべながら首をふった。
「いいかい、ダイゴロウ。おじさんが強くなりたいと思ったのは、いじめっ子に復讐するためじゃないんだ。自分に負けないために、おじさんは強くなりたかったんだよ」
「じぶんに、まけない?」
「ダイゴロウには、まだむずかしかったかな」
ジュリアスが大五郎に笑顔を向けたままコバヤシにダンベルを渡したときである。
「――ベギ!」
とつぜん、コバヤシが裏返った声で大きな悲鳴を上げた。どうやらダンベルを受け取りそこなって、足の上に落としたらしい。
「おっと、失礼」
大五郎に顔を向けたまま、ジュリアスが含み笑いをした。大五郎も、両手で口もとを押さえながら笑った。
コバヤシが右足を両手でかかえながら飛び跳ねている。
「ラ……ッ!」
赤いモヒカンあたまが足を滑らせた。
「ゴン!」
ベンチに後頭部を打ちつけながら床に転がるコバヤシなのであった。
「こうならないために、強くなるんだ」
ジュリアスが口から白い泡をふいて痙攣するコバヤシを指差した。
「おいらも、つよくなる!」
大五郎も、力強くジュリアスにうなずくのであった。
「なあ、ハリー。ちょっと頼みがあるんだが」
ハリーのとなりを歩きながらジュリアスが神妙な面持ちで言った。
「頼み?」
「ああ。聞いてくれるかい?」
「べつに遠慮はいらんさ。オレにできることなら、なんでも言ってくれ」
「ありがとう。じつは……」
ジュリアスはうしろを歩く大五郎たちをちらちらと気にしながら、ささやくような小さな声でハリーと話している。大五郎はそんなジュリアスを気にすることなく、コバヤシのとなりをぴょんぴょんと飛び跳ねながら歩いていた。
「なんだって?」
おおげさな声を艦内通路に響かせながらハリーが立ち止まった。いったい、ふたりはなんの話をしているのだろうか。大五郎は傍らのコバヤシと顔を見合わせた。
怪訝そうに細くした眼でハリーがつづける。
「どうかしている。本気で言っているのか?」
ジュリアスはうろたえた表情で大五郎たちを一瞥すると、落ちつきを取り戻すように大きく息をすってハリーにうなずいた。
「ああ、本気だとも」
「なあ、ジュリアス」
ふいにハリーが立ち止まってジュリアスに向きなおった。なんだかよくわからないが、大五郎も通路のまん中で立ち止まった。コバヤシも大五郎のよこにボーっとした顔で突っ立っていた。
ため息混じりにハリーがつづける。
「わるいことは言わん。やめたほうがいい」
「もちろん、危険なのはじゅうぶんわかっているさ。でも、どうしても試したいんだ。試してみたいんだ」
切羽詰まった表情でジュリアスがハリーにつめ寄る。
「たのむ、ハリー」
ジュリアスの力強く燃える視線を避けるように横を向くと、ハリーは両手を腰に当てて首をふった。
「あんたの気持ちはよくわかった。だがな、ヘタをすりゃあ性別が変わっちまうかもしれないんだぜ?」
まぶしそうに細くした眼をジュリアスに戻してハリーがつづける。
「きっと後悔することになる」
そしてハリーはもういちど首をふった。
ジュリアスはガッカリした表情で床に視線を落とすと、重い吐息をもらしてハリーに背を向けた。
「ここで逃げたら、それこそ後悔することになってしまう」
ジュリアスが小さくつぶやいた。そして二、三歩ほどゆっくりと足を運び、決心したように立ち止まってクルリとふり向いた。
「おねがいだ、ハリー。YESと言ってくれ!」
すがるような表情でジュリアスが哀願した。
だが、ハリーはまだためらっている。両手を腰に当ててなんども小さくうなずいたり、ときどき小首をかしげる仕草をくり返していた。大五郎もアゴに手を当ててハリーと一緒に考えた。コバヤシは両手をポケットに突っ込んで、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけだった。
ジュリアスはポージングトランクス意外、なにも身につけていなかった。きっと、あまりにも筋肉がつきすぎているので服のサイズが合わないのだろう。大五郎はそう思った。
固い表情のまま、ジュリアスはだまってハリーの言葉をまっていた。
ハリーはひとつため息をつくと、おもむろに葉巻を取りだしてくちびるに挟んだ。
「……甲板でまってる」
そう言って葉巻に火を点けると、ハリーはジュリアスの顔を見ながら煙を吸い込んだ。
「準備ができたら上がってきてくれ」
「ハリー、それじゃあ……?」
にわかに和らいだジュリアスの顔にハリーがうなずく。
「かならず、生きて帰ってくるんだぜ」
ハリーは、くちびるの隙間からゆっくりと紫煙を吐きだしながらほほ笑んでいるのだった。
「アイル・ビー・バック!」
そう言って親指を立てると、ジュリアスも口もとで不敵に笑った。
よくわからないが、なにかとんでもないことがはじまろうとしている。大五郎は、なんだか妙な胸騒ぎをおぼえるのでありました。
甲板に上がると、空がまっ赤に燃えていた。とてもきれいな夕焼けである。そして空母の舳先には、やはりヨシオが腕組みをしながら仁王立ちになっているのであった。しかし、夕焼けの中にいるのはヨシオだけではなかった。ヨシオの傍らでハゲ頭を輝かせる老人。長老である。ただ、ハゲているのは頭頂部のみで、長老の白髪は肩まで伸びているのだ。そして、アゴにも白く長いヒゲを蓄え、右手には杖をもち、その姿はまるで絵本に出てくる仙人のようだった。
大五郎たちはヨシオと長老の立つ舳先に向かった。
「いい夕陽だ」
長老の傍らに立ってハリーが夕陽に目を細めた。
「あいかわらずヒマそうじゃな、カウボーイ」
夕陽をよこ顔に浴びながら長老がほほ笑んだ。
「ここにヒマじゃねーヤツなんているのかよ」
そう言って鼻を鳴らしたコバヤシのアホヅラを長老がギロリとにらみつけた。
「おい、そこのモヒカン。キサマは口の利きかたを知らんようじゃな」
「テメーのほうこそ、あんまりいい年のとりかたをしてねーようだな。くそジジイ」
「おっ、おのれ~。言わせておけば図にのりおって」
ふたりのケンカはいつものことである。大五郎はジュリアスと顔を見合わせ、ふたりで肩をすくめた。
「よせよ、ふたりとも」
見かねたハリーが仲裁に入った。
「ところで、ヨシオ。じつは……」
ふたりをなだめると、ハリーはなにやらヨシオと相談をはじめた。
口には葉巻をくわえ、両手を腰に当てて、まぶしそうに目を細めながら話し込んでいる。いったい、ハリーとヨシオはなにを話しているのだろうか。
「……と、いうわけなんだ」
ハリーが話し終えると、ヨシオはジュリアスに冷たい視線を向けた。
「本気なのか?」
「あ、ああ。本気だ」
いささか気恥ずかしそうにジュリアスがうなずいた。
「下手をすれば、二度と男に戻ることはできんのじゃぞ? おぬしは、それでもやると言いなさるのか?」
長老も心配そうに言う。
「私はドクター・ハザマを信じています。彼のつくった、この薬を」
ジュリアスの掌の上で金色の小さなカプセル剤がキラリと光った。この「タマランYゴールド」という薬は、股間がダイヤモンドのように硬くなる効果があるのだ。もちろん、予定通りの効果は保証できないのだが。しかし、ジュリアスは九郎を信じていた。あの人は、私にとって神のような存在なのだ。ジュリアスは、そう言った。
たしかに、医者として人の命を救っている九郎は神と言えるのかもしれない。ただ、どちらかといえば九郎は死神だろう、と大五郎は思った。
「おじさん、こわくないの?」
「あ、ああ。平気さ。恐いもんか。ハハハハぁ……」
ジュリアスは腰に手を当てて高笑いしているが、その笑顔は緊張でこわばっていた。
無理もない、と大五郎は思った。空母の舳先、カタパルトラインの終点に仰向けで寝そべり――頭は舳先のほうに向けて――大きく股を開く。ジュリアスがこれからやろうとしているのは、カタパルトからうち出されたシャトルを股間で受け止めるという命がけの実験なのだ。長老の言うように、一歩まちがえば性別が変わってしまうかもしれないのである。だが、はたしてその程度ですむのだろうか、と大五郎も不安に思うのであった。
「私は、いま……弱い自分を倒す!」
ジュリアスが薬を含み、ゴクリとのみ込んだ。彼は本気でやるつもりだ。
「とめても無駄、というわけか」
腕組みを解くと、ヨシオはゆっくりと夕陽に背を向けた。
「ハリー、管制室でスタンバイしろ」
カタパルトの射出位置に向かいながらヨシオが指示をだすと、ハリーは不安そうに目を細めて鼻から紫煙を吐きだした。
「あの薬はヤバイ気がする」
そう言って足もとに落とした葉巻をふみ消し、「もし本当にあの薬が効いたら、オレは神様を信じてやるよ」と請け負った。
「あーめん!」
大五郎も請け負い、胸のまえで十字を切った。
「さてと。行くか」
カウボーイハットの鍔で顔を隠すと、ハリーはだまってジュリアスのよこを通りすぎた。
「ハリー」
ジュリアスが呼び止める。しかし、ハリーは歩きつづける。このままだまって行ってしまうのだろうか。大五郎がそう思ったとき、ハリーがふいに足を止めた。
「あんたのことは信じている」
背中を見せたままハリーがつづける。
「薬なんかに頼らなくても、あんたはじゅうぶん強いさ」
そう言ってジュリアスを励ますと、ハリーはゆっくりと左舷のタラップのほうへ去って行った。
「ありがとう。ハリー」
ジュリアスは静かな眼でほほ笑みながらハリーの背中を見送っていた。
ハリーが向かったのは統合カタパルト管制室である。甲板上には二本のカタパルトラインが舳先に向かって並んでおり、その二本のラインの間、艦首中央部分に統合カタパルト管制室はあるのだ。ちょうど大人のひざ下ぐらいの高さで、およそ二メートル四方の半地下になっているドーム型の構造物だ。
「おじさん、ぐっどらっく!」
大五郎は傍らのジュリアスを見上げて親指を立てて笑った。
「ああ。グッドラック!」
ジュリアスもニコリと笑って親指を立てると、いよいよ舳先に立ってスタンバイした。
「うっ、ウおォお……オ!!」
とつぜんジュリアスが夕陽の中で両手を広げ、ブルブルと震えはじめた。いったい、なにが起きたのだろうか。
「股間が……股間がビリビリしてきやがった。こ、こいつぁ、バイアグラより効くぜ」
はたして、バイアグラとはいったいなんのことなのか。大五郎にはジュリアスの言ってる意味がわかりませんでした。
だんだん薬が効いてきたのだろうか。ようやく自信をとりもどしたジュリアスの表情は、じつに清々しく輝いていた。
「よし、いけるぞ。やってくれ、ヨシオ!」
ジュリアスが空母の舳先、左舷側のカタパルトライン上で仰向けになって股を大きく広げた。衣服はポージングトランクス以外、なにも身につけていない。
ヨシオは大破したブリッジを背にしてシャトルのよこにスタンバイしている。大五郎も、シャトルをはさんでヨシオの向かい側にスタンバイした。長老は数メートル先の統合カタパルト管制室の上に腰かけている。コバヤシも長老のよこに立って腕組みをしている。舳先の向こうでまっ赤に燃える夕陽に照らされながら、ふたりは静かにジュリアスを見守っていた。
カタパルト管制室の青みがかったウインドウガラスの向こうにカウボーイハットの影が見えた。ハリーだ。ウインドウガラス越しにハリーが親指を立てた。ヨシオも親指を立てて応えると、すぐにシャトルのチェックをはじめた。戦闘機の前脚部分の射出バーをひっかける場所である。ちょうど駐車場にあるパーキングブロックほどの大きさで、よこから見ると口を大きく開けた魚のような形をしていた。
じつに三トンをこえる重さの戦闘機を、一瞬で時速三百キロちかくまで加速させることができるカタパルト。そんなものを股間で受け止めたら、いったいどんなことになってしまうのか。大五郎には、恐ろしくてとても想像することができなかった。
シャトルのチェックを終えると、ヨシオは周囲を指差しながら安全確認をはじめた。それから左足をよこに伸ばして腰を落とし、左手を腰のうしろに回して右手を甲板の上に下ろした。大五郎もヨシオとは逆の右足を伸ばしておなじ格好になった。ヨシオの右手がまっすぐに舳先を示したとき、ハリーがカタパルトの射出ボタンを押すのだ。
空が紅い。海も紅い。ジュリアスまでの距離は、およそ百メートル。シャトルは大きく口を開けてジュリアスの股間を狙っている。潮風が静かに吹きぬける。そして舳先のほうから差し込む陽の光が、ヨシオのメガネを紅に染めた。
「うけとれ、ジュリアス!!」
ヨシオの右手が、まっすぐに舳先を指した。
「うけとれ!!」
大五郎もヨシオの向かい側で左手を伸ばした。
「アイル・ビー・バック!!」
ジュリアスは仰向けに寝そべったままパンツをモッコリさせた。
プシューッ、という大きな音とともに〝魚〟が泳ぎだした。まっ白な水蒸気を噴きあげながらカタパルトラインを泳ぐキラーフィッシュ。その疾駆する様は、まるで水面を黒い背ビレで切り裂きながら獲物に襲いかかる人喰いザメのようだ、と大五郎は思った。
すさまじいスピードで泳ぐシャトル。ジュリアスの股間までの距離は、あと二十メートル。
「アイル・ビー・バック……アイル・ビー・バック……」
ジュリアスは自分自身を励ますかのように不思議な呪文を唱えている。
インパクトまで、あと十メートル。
「アイル……」
……五メートル……四……三……
「ビー……」
……二……一……インパクト、ナウ!
「――バッ?!」
「――はねた!」
大五郎はジュリアスを指差しながら叫んだ。仰向けのまま、ジュリアスが三メートルちかく跳ね上がったのだ。まるでカウンターショックで強力な電流を流された患者のようだ、と大五郎は思った。
「バッ、バ……シ……」
ジュリアスが呻いている。般若のような形相で苦しそうに呻いている。甲板の上に跪く格好で、両手を股のあいだにつっこみながら呻いている。
「ルゥゥ~……」
腹の底からしぼりだすような低い声で呻きながら背中を丸めるジュリアス。血走しった眼をカッと見開き、まっかな顔で歯を食いしばりながら呻きつづけている。大五郎も、思わずこぶしをにぎりしめて歯を食いしばった。ジュリアスの体がキラキラと輝いている。まるでシャワーでも浴びたように、全身脂汗でびっしょりだ。
「……ラ」
ジュリアスが甲板の上に顔をうずめて丸まった。全身の痙攣もおさまり、呻き声も聞こえない。まるでダンゴムシのように丸まったまま、ジュリアスはピクリともうごかなくなってしまった。
「あっ」
大五郎は左舷のほうをふり向いた。足音が聞こえたからだ。左舷のタラップを、何者かがゆっくりと上がってくる。
「せんせーだ!」
甲板へ現れたのは死神、もとい九郎である。
「ああ、ここにいたのか」
まるでアンティークドールのような薄気味わるい顔でほほ笑みながら大五郎の傍らに九郎がやってきた。
「じつは、さっきの薬のことなんだがね。あれは服用してから効果があらわれるまで、最低でも一時間はかかる――」
そこまで九郎が言いかけたとき、舳先のほうからスススーッとシャトルがもどってきた。大五郎の股の下をゆっくりと、ゆっくりとシャトルが通過してゆく。九郎は不思議そうにマユをひそめながらシャトルを目で追っている。やがてトンネルを抜けたシャトルは、まるで駅に到着した新幹線のようにピタリと九郎の足元で止まるのだった。
「ごりんじゅうです!!」
大五郎は元気よくジュリアスを指差した。
九郎が凪いだ瞳を舳先に向ける。九郎の顔を夕陽が照らし、潮風がひゅるりと吹きぬける。黒いマントが、ばさばさと哀し気に靡いている。凪いだ瞳のまま口を半開きにしながら、ばさばさとマントを靡かせている。喜怒哀楽を忘れ去った蝋人形のような顔を夕陽に染めながら、九郎は無言でフリーズしているのでした。
ヨシオも舳先を向いたまま、無表情で腕組みをしている。メガネを茜色に染めながら、丸まったジュリアスを冷静に観察していた。
長老とコバヤシも動かない。カタパルト管制室のそばで、夕陽を背にしてうずくまるジュリアスをじっとながめていた。
長老たちの足元の青みがかったウインドウガラスに浮かぶカウボーイハット。カタパルト管制室の中で、ハリーは自分自身を否定するようにあたまをふっていた。
それにしても、ジュリアスが最後に言いのこした「バシルーラ」とは、いったいなんのことだったのか。母の名を呼んだのか、あるいは恋人の名前だったのか。よくわからないが、たぶんなにかのおまじない――痛いの痛いの飛んでいけ、みたいな――なのだろう、と大五郎は思った。
「あすた ら びすた べいびー!!」
ジュリアスの背中に沈んでゆく紅い夕陽に向かってちからいっぱい叫ぶ大五郎なのであった。
*ベギラゴン・・・某ロールプレイングゲームに登場する炎系の攻撃魔法。
*バシルーラ・・・某ロールプレイングゲームに登場する敵を遠くへ飛ばす
魔法。
――死闘! 海上決戦!!――
「コーンスープにコッペパンひとつ、か。まるで囚人の朝メシだぜ」
赤いモヒカンあたまに丸い黒縁メガネ。不満そうにグチを言ったのはコバヤシである。
「しかたないさ。食糧は限られているんだ。オレの気に入っているホットドッグも、きのうで品切れになっちまった。まったく、泣けるぜ」
コバヤシのとなりの席で、ハリーも不機嫌そうにコッペパンをかじった。
朝は大抵、コーンスープにコッペパンだ。昼は、これに野菜サラダがつくこともある。そして夜は、ちょっとした肉料理やトマトスープなどがでるのだ。
大五郎はテーブルをはさんでハリーの向かい側に座っていた。
大五郎から見てハリーの左にコバヤシ、右の席に長老が座っている。
「けさのスープは、ちょっとすくないね」
コーンスープの量がいつもより少ない気がする。大五郎はそう感じた。
「どうやら、飲料水も不足しているようだな」
大五郎のとなりでヨシオが言った。彼はいつもカタパルトオフィサーのヘルメットを被り、おなじくカタパルトオフィサーのイエロージャケットを羽織っていた。ヨシオの向かい側で長老もおとなしくコーンスープをすすっている。長老は、けっして食事のことで不平不満を言ったりはしないのだ。
「このまま野垂れ死になんてのはごめんだぜ。ちくしょう。だれも助けに来ねーのかよ」
しかめっ面でパンをかじりながらコバヤシがぼやいた。
「核爆発の影響で無線の調子がわるいんだ。従って、救助を呼ぶことはできない。運がよければ、ほかの船に発見してもらえるだろう」
淡々とした口調で、まるで他人事のようにヨシオは言うのであった。
食事を終えると、ハリーは葉巻をふかしはじめた。
「無事に、陸地にたどり着けるといいんだが……」
「みんなぶっ飛んじまって、大陸にはなんにも残っちゃいませんぜ、ダンナ」
投げやりな口調でコバヤシがスープの器を呷った。
陸地には、本当になにも残っていないのだろうか。もう、だれも生きてはいないのだろうか。父さんや母さんも死んでしまったのだろうか。大五郎は両手で包んだコップの中にそっと目を落とした。
「……」
コップの水に両親の笑顔が浮かぶ。涙をこらえながら、大五郎はコップの水を一息に飲み干した。
甲板の下の階は航空機の格納庫になっている。まるで広い立体駐車場のようだ、と大五郎は思った。
「ここにあるのはフォークリフト、それにトーイングカーが十数台。飛行機は一機もありやせんね」
両手をズボンのポケットにつっこんで歩きながらコバヤシが言った。
「カタパルトは修理して使えるようになったってのにな。皮肉な話だぜ」
ハリーは葉巻に火を点けると、ため息混じりに紫煙を吐きだした。大五郎はふたりの間を歩きながら話を聞いていた。
「やれやれ。空母が聞いて呆れまさァ」
コバヤシがぼやくと、ハリーは肩をすくめて鼻を鳴らした。
「飛行機さえあれば、助けを呼びに行けるのにな」
「そういや、ブリッジんとこに飛べるやつが一機ありやしたね?」
まっ赤に燃え上がる炎のような鬣をもつ白い一角獣が尾翼に描かれたF/A-18戦闘機。
「あれは〝おしゃか〟になっちまったよ」
飲んだくれのトーマスじいさんが、酔ってスイッチ類をいじってる内に、誤って射出座席のレバーを作動させてしまったのだ。
口と鼻から紫煙を吐きだしながらハリーがつづける。
「いずれカタパルトが直ったら、あの飛行機で助けを呼びに行くつもりだったんだ。それを、あのじいさんがぶっ壊しちまったんだよ」
「しかし、ダンナ。キャノピーと座席だけなら、なんとか修理できるんじゃないんスかね?」
「複座型のキャノピーはいくつかあるが、単座のキャノピーは、もう残ってないんだよ。それに、射出座席が飛び上がったときの衝撃で、あちこち細かいところがイカレちまったらしい。あの一角獣は、乗り手を選ぶって話だからな。ヤツのせいで、完全に機嫌を損ねちまったのさ」
ハリーはそう言って紫煙を吐きだし、「泣けるぜ」と肩をすくめた。
三人で格納庫のはしを歩いていると、艦首側の奥にある動物用の檻のまえにブラックジョークの姿が見えた。世界的に有名なヤブ医者・羽佐間九郎である。
一辺が二メートルほどの四角い鉄の檻。その中にいるのは、小さな子ブタが一匹だけだ。こちらに背を向ける格好で、九郎はじっと檻の中の子ブタをにらみつけている。
「よう、先生。なにしてなさるんで?」
コバヤシが声をかけると、九郎がジロリとふり向いた。右のマユから左の頬にかけて流れる三日月形の大きな傷跡。そして、感情が凪いだような冷たい眼。医者より葬儀屋のほうが似合っている。大五郎は、そう思うのであった。
「もうすぐ食料が底をつく」
九郎の言葉に檻の中の子ブタがビクリと反応した。まだ成犬の柴犬ほどの大きさで、鼻の頭から頭頂部にかけてカットしたピザのような逆三角形型の白い模様のある黒い子ブタだ。
「それで、こいつを食おうってわけか」
ハリーが呆れた顔で鼻を鳴らした。
「しかし、こいつはまだ子ブタだ。ミートボールにしたって、とても全員にはいきわたりやせんぜ?」
そう言って肩をすくめたモヒカン頭に、九郎は「ミートボールどころか、全員にステーキを食わせてやる」と、冷たい瞳でニヤリと笑った。
「ポーキーをたべちゃうの?」
じつは、大五郎は子ブタにポーキーという名前をつけて秘かにかわいがっていたのだ。
「なあ、ぼうず」
感情のない九郎の瞳が大五郎の眼をのぞき込んできた。
「ブタ肉の入ってるカレーと、入ってないカレー。どっちを食べたい?」
大五郎は悩んだ。豚肉は食べたいが、ポーキーは食べたくない。でも、豚肉の入っているカレーは食べたい。
「はいってるほう!」
大五郎は笑顔で決断した。
「それを聞きたかった」
九郎も冷たい瞳でほほ笑みました。
高さ、そして横幅も二メートルの四角い檻。その中にいるのは一匹の黒い子ブタ、ポーキーだけだ。
九郎が檻の扉を開け、中に入った。ポーキーは檻の奥で怯えたようにふるえている。
「では、はじめよう」
九郎はポーキーの首のうしろを消毒すると、マントの下から注射器をとりだした。いったい、九郎はなにをしようとしているのか。
「いたい!」
ポーキーが注射をうたれるのを見て大五郎は飛び上がった。
「さがってろ」
すばやく檻から出てくると、九郎は扉を閉め、錠をおろした。
「いったい、なにがはじまるっていうんだ? ドクター・羽佐間」
檻の中のポーキーを不安そうに見ながらハリーがたずねる。
「なあに、ちょっとばかり成長を早めてやっただけさ」
顔を伏せながら九郎が不敵に笑った。
「あっ、ふくらんできた!」
ポーキーを指差しながら大五郎は叫んだ。少しずつ、ゆっくりとポーキーがふくらんでいく。
「これで豚肉入りのカレーが食える」
九郎が喉の奥でククク、と不気味に笑った。
「お、檻がこわれそうですぜ、先生」
コバヤシは檻と九郎の顔を交互に見ながらうろたえている。
檻いっぱいにふくらんだポーキーは、背中を丸めて窮屈そうにしている。格子の間からは、黒い肉がはみ出していた。
―― ブッ、プギーッ!! ――
「ポーキーが、ないている!」
大五郎にはポーキーが泣いているように見えたのだ。
「な、なあ、先生よぉ。こいつぁ、いったいどれぐらいの大きさになるんで?」
引きつった表情でコバヤシがうろたえている。
しかし、九郎は満足そうに冷笑を浮かべている。
「まあ、だいたいゴジラぐらいかな」
まるで日常的な会話でも楽しんでいるかのような口調で九郎が言った。
「じょうだんじゃない! そんなバケモノが暴走でもしたら、空母が沈められちまう!」
ハリーが慌ててトーイングカーに飛び乗った。
「檻を海に落とすんだ」
「海に落とすって、ダンナ。いったいどうやって?」
赤いモヒカンあたまは状況がのみ込めない。
「エレベーターから落とすんだ」
艦の後部にある航空機用の大型エレベーターである。空母の格納庫はエレベーターの部分だけ外壁がないのだ。
「ポーキーを、すてないで!」
大五郎がハリーに叫ぶと、コバヤシが肩に手をまわしながら「安心しなせえ、坊ちゃん。ブタは泳ぎが上手なんでさァ」と、丸い黒縁メガネの奥で目を細くしやがった。
それにしても、まさかブタが泳げるとは知らなかった。というより、むしろそれをこのモヒカンあたまが知っていたということのほうが大五郎にはおどろきだった。
「ぐっどらっく! ポーキー!」
大五郎はポーキーに向かって笑顔で親指を立てた。
これでポーキーは食べられずに済んだ。無事に海を渡ったら、しあわせに暮らせるのだ。しかし、このあたりの海には獰猛な人喰いザメが潜んでいる。はたして、ポーキーは無事に太平洋を渡ることができるのだろうか。
「おまえ一匹のために数百人の乗員を死なせるわけにはいかないんだ。わるく思わんでくれ」
いよいよハリーがトーイングカーで檻を押しはじめた。
トーイングカーはティッシュペーパーの箱のような形をした平べったい車で、ドアやフロントガラスもなく、運転席はむき出しになっている。この作業車両は航空機を駐機場まで運ぶための乗り物で、最大速度は三十キロ程度である。しかし、馬力はそこそこあるようだった。
檻を押すトーイングカーのスピードは人の歩く速さより遅い。めざすエレベーターまでは、まだかなりの距離がある。
「ハンバーグにソーセージ。それに豚汁」
九郎はひとりで妄想しながらブツブツつぶやいている。
「あっ!」
大五郎はコバヤシと一緒に叫んだ。檻の格子が二、三本、弾けるように吹きとんだのだ。
「くそったれめ!」
それでもハリーは押しつづける。エレベーターまでは、あと五十メートル。ポーキーの体は、まだふくらみつづけていた。
「カツカレーもわるくない」
冷たい瞳を檻に向けながら、九郎は静かに喉の奥で笑っているのでした。
ポーキーの頭にある三角形の白い模様が、とつぜん赤く変わりはじめた。
「あっ」
大五郎は思いだした。奥羽山脈に生息すると言われる巨大人食い熊の伝説を――。
「あかかぶとだ!」
黒い体に赤い頭。伝説の人食い熊、奥羽山脈の魔王は実在したのだ。大五郎は恐怖のあまり、パンツの中に少しちびってしまった。
檻の格子が、さらに三、四本吹きとび、ポーキーの赤い頭が檻の中から突きだした。
「まに合ってくれ!」
ハリーが吼える。左舷側のエレベーターまで、あと二メートル。檻の格子が一本、また一本と吹きとんでゆく。
「あっ!」
大五郎は指差しながら叫んだ。エレベーターに乗ると同時に、ポーキーが檻を突き破ったのだ。
「あぶねえ、ダンナ!! 逃げろ!!」
コバヤシが叫ぶ。ポーキーがトーイングカーを踏みつぶす。ハリーがトーイングカーから飛び降り、床を転がった。
「エレベーターのスイッチを入れろ、コバヤシ!」
ハリーがカウボーイハットを押さえながらポーキーから逃げてくる。
「はやくしろ!」
ハリーが急かす。
「ちくしょう」
コバヤシが慌てて掌をボタンに叩きつける。そして上がりはじめたエレベーターから、ハリーが飛び降りてきた。
「やれやれ。なんとか間に合ったようだな」
ふーっと長い吐息をつくと、ハリーは新しい葉巻に火を点けた。コバヤシはホッとした表情で甲板へ上がってゆくエレベータを見上げながら、手の甲で額に浮かぶ汗をぬぐっていた。
「安心するのはまだ早いぜ、コバヤシ」
きびしい表情で目を細めながらハリーが紫煙を吐きだした。
「もし、あいつが暴れだしたら、もうオレたちだけのちからじゃあどうにもならん」
「で、でも、そんときゃあ、またヨシオのアニキがなんとかしてくれまさァ」
「そういや、大将はどこだ? まさか……」
ハリーが天井をチラリと見上げてゴクリとつばを飲み込んだ。
「ああ、彼なら、さっき甲板で見かけたよ」
やけに落ち着いた口ぶりで九郎が言った。
「じいさんとふたりで舳先に立って、なかよく海を眺めていなすった」
九郎は事の重大さを理解していない。
「しまった」
ハリーが「はっ」としたように後部左舷のエレベーターをふり向いた。およそ十秒で昇降できるエレベーターは、すでに甲板に到着していた。
「ふたりが危ない。急ごう」
ハリーは後部右舷側のエレベーターに向かって駆けだした。コバヤシもハリーにつづく。大五郎も、ふたりのあとを駆け足で追いかけた。
エレベーターが動きだした。左舷側のエレベーターは、すでに甲板に到着している。
「はやくしろ……はやく!」
焦るハリー。
甲板までは、あと三、四メートル。右側にブリッジが見えてきた。上半分が大破し、まるで王冠のようにギザギザになっている。潜水艦のミサイル攻撃でやられたのだ。その王冠の上には、太陽が白く輝いていた。
エレベーターが止まった。
「ああっ!」
甲板を見ながら三人で声を上げた。
「でっ、でけぇ。ホントにゴジラだぜ、こりゃあ」
コバヤシが引きつった笑みを浮かべた。
甲板のまん中にそびえる黒い巨体は空母のブリッジよりも大きく、乗り物で例えるならマンモスダンプ、いや、ジオン軍の試作型モビルアーマー〝アッザム〟ほどはあるだろうか。とはいえ、巨大化したといっても所詮はブタ。まるい体に短い脚、そしてまるまった短いシッポ。ゴジラというよりミニラにちかい感じだ。
「これで当分、ホットドッグの心配はしなくて済みそうだ」
ハリーも皮肉な笑みを浮かべながら肩をすくめた。
「ポーキー!」
大五郎はポーキーに向かって叫んだ。しかし、ポーキーは反応を示さない。あたまの白い模様は赤く変色し、眼も鋭くまっ赤に光っている。もう、あの無邪気な子ブタの面影はどこにもない。ポーキーは、本当にアカカブトになってしまったのだろうか。もう、二度と子ブタには戻れないのだろうか。もう、自分のことは覚えていないのだろうか。大五郎は、変わり果てたポーキーの姿に恐怖よりも悲しみを覚えていた。
「ポーキー、おすわり!!」
大五郎は試しに叫んでみた。しかし、やはりなんの反応も示さない。ポーキーは狂ったようにまっ赤に燃える鋭い眼であたりを見回している。
「あっ、アニキたちは無事ですぜ、ダンナ」
コバヤシが舳先を指差した。
ヨシオと長老は、舳先のほうからこちらをうかがっている。やはり、彼らはただ者ではないようだ。この巨大化したポーキーを目の当たりにしても、まったくうろたえた様子は見せなかった。
―― ブイ……? ――
ポーキーが低く唸った。どうやらヨシオたちに気がついたようだ。
「まずい! 逃げろ、はやく逃げるんだ!」
ヨシオと長老に向かってハリーが叫ぶ。そして、ポーキーがゆっくりと歩きだす。その鋭く光った赤い眼は、ヨシオたちのいる舳先のほうをにらんでいた。
「図体がデカい分、動きはにぶそうだ。よし、アッシらで注意をひきつけやしょう!」
コバヤシがちかくに転がっていた長い鉄パイプをひろい上げた。長さ百五十センチほどの鉄パイプだ。
「やれやれ。怪獣映画は好きじゃないんだがな」
ベルトを外して構えると、ハリーはぎこちなく笑った。
「まるでインディ・ジョーンズみたいですぜ、ダンナ」
「あの映画には、エキストラで出たことがある」
「ホントですかい、ダンナ?」
コバヤシがおどろいた表情でハリーの顔を見た。
「全然気がつきやせんでしたねえ。いったい、どのシーンに出てやしたんスか?」
「オレのシーンは、全部カットされたのさ」
そう言って肩をすくめると、ハリーは皮肉な笑みを口もとに浮かべた。大五郎も、コバヤシと一緒に肩をすくめて笑った。
「そんじゃ、ぼちぼち撮影といきやすか」
鉄パイプを肩にかつぐと、コバヤシはポーキーをチラリとにらんだ。
「いきなりNGは出すんじゃないぜ?」
カウボーイハットの鍔をつかみながらハリーもポーキーをにらみつけた。
「よっしゃあ! いくぞオラァ!!」
鉄パイプをふり上げながらコバヤシが駆けだした。
巨大化したポーキーは、ゆっくりとした足取りでヨシオたちのほうへ向かっている。
「こんなことになるんだったら、ツムラヤプロと契約しとくんだったぜ」
ハリーがポーキーのまえに回り込んだ。ベルトを鞭のようにつかって甲板を叩き、ポーキーの注意を引きつけている。その隙にコバヤシが背後に回り込んだ。まるで像の足もとをうろつくネズミのように、コバヤシが小さく見える。
「成敗っ!!」
ポーキーの右のうしろ足めがけてコバヤシが鉄パイプをふり下ろした。しかし、ポーキーはまるでダメージを受けていない。
―― ブイッ!! ――
天に轟くポーキーの咆哮。巨大化したポーキーの目が、怒りでまっ赤に光った。
―― ブイィ~…… ――
怒ったように呻ると、ポーキーはプルプルと体をふるわせながら踏ん張りはじめた。いったい、ポーキーはなにをしようとしているのか。
だが、これしきのことで怯むコバヤシではない。彼は、もういちど鉄パイプをふり上げてポーキーに躍りかかった。
「隙ありゃアー!!」
そのときである。とつぜんポーキーの尻の穴がピカッと強く光り、落雷のような轟音が空にとどろいた。
「――あ?」
コバヤシがポーキーの尻を見上げたときには、すでに茶色い弾丸は発射されていた。ポーキーの尻が射撃の反動で大きく跳ね上がる。まるで戦車の砲撃のようだ、と大五郎は思った。
「――イオッ!!」
コバヤシの顔面に茶色い弾丸が命中した。直撃である。茶色い弾丸は細かく砕け散り、まるでクラスター爆弾のごとく甲板の上にびちゃびちゃと降り注ぐのであった。
鉄パイプをふり上げた格好で赤いモヒカンあたまが大きくのけ反っている。
「……ナ……」
コバヤシの手から静かに鉄パイプがすべり落ちる。激しくエビ反ったその姿は、斬られ役で有名な某時代劇俳優を彷彿とさせるものがあった。
「……ズン」
まるで爆破解体された高層ビルのように、ゆっくりと肥溜めの中へと沈んでゆくコバヤシなのであった。
「いきなりNG、か。泣けるぜ」
ハリーが顔のまえで手をパタパタさせた。
「ばっちい!」
大五郎も、顔のまえで両手をパタパタさせた。
甲板のまん中で巨大化したポーキーが雄たけびを上げている。ヨシオと長老が、ゆっくりとした足取りでブリッジのほうへ向かってくる。大五郎たちもブリッジのところまで移動した。
「ふむ。はじめて見るタイプのUMAじゃ」
白いあごヒゲを撫でながら、長老は興味深そうにポーキーを眺めている。
「ゆーまじゃない! あかかぶと!」
ポーキーを指差しながら大五郎は叫んだ。
「アカカブト?」
なるほど、と長老がうなずいた。
「東洋のUMA、か」
長老はブツブツひとりごとを言いながら、じっとポーキーを観察していた。
「どこから来たんだ? あのバケモノは」
ポーキーに目を向けながらヨシオが言った。腕組みをして、あいかわらず他人事のように落ち着いている。
「じつは……」
ハリーが説明する。
「……と、いうわけさ」
「あのヤブ医者め」
ポーキーをにらみながらヨシオが舌打ちをした。
「ダ、ダンナ。ど、どうか、アッシの仇を……。アニキ、あ、アッシの仇を……」
コバヤシは全身にフンを浴び、まるで泥人形のような姿でハリーの足元に転がっていた。丸い黒縁メガネは、フンの直撃でレンズが割れたらしい。フレームの部分も干乾びたミミズのように歪んでいるのであった。
「わしにまかせろ」
自信ありげな口調で長老が一歩まえにでた。
「まさか、あの技をつかう日が来ようとはな」
肩まで伸びる白髪が潮風でなびいている。そして、ハゲた頭頂部は陽の光を受けて輝いていた。
長老はヨシオになにかを準備するように指示をだした。ハリーはポーキーの注意を引いている。カタパルトライン上に、やつをおびき寄せろ。長老は、ハリーにそう指示を出したのだ。
ヨシオが甲板の端に転がる残骸の中から台車を見つけてきた。百センチ四方の四角い板で、四隅にキャスターがついているものだ。彼は台車後部の取っ手をはずすと、そこにロープを通して結び、輪っかをつくった。
「これでいいだろう」
ヨシオがカタパルトのシャトルと呼ばれる部分に台車の輪っかを接続した。シャトルの大きさは駐車場にあるパーキングブロックほどで、よこから見ると、口を大きく開けた魚のような形をしていた。
「ぼうず」
台車の上から長老が見下ろしてきた。
「ボタンを頼む」
そう言ってカタパルトステーションを指差した。大人のヒザほどの高さで、およそ二メートル四方の半地下になっている構造物だ。甲板上に並ぶ二本のカタパルトラインの間にあるカタパルトステーション。航空機をカタパルトから打ち出すための操作をする部屋だ。
「じいちゃん」
大五郎は長老を見上げて右腕を突き出し、親指を立てた。
「ぐっどらっく!!」
そして手首を回し、親指を下に向けた。
「うむ。グッドラック」
ニコリと笑って長老も親指を立てた。
左舷側のカタパルトに接続された台車の上で、長老が腰を低くかがめた。まるでスキーのジャンプをする選手のようだ、と大五郎は思った。
左舷のタラップを降りると、大五郎は艦内の通路を走り抜けてカタパルトステーションに向かった。三百六十度ガラス張りの小さなせまい部屋。中に入ると、青みがかったガラスの向こうに長老の姿が見えた。ヨシオは長老の右側に立ち、舳先のほうを向いている。ヨシオが見つめる先には、巨大化したポーキーを引きつけるハリーの姿があった。ちょうど左舷側のカタパルトライン上だ。
ヨシオが周囲を指差しながら安全の確認をはじめた。それから左手をうしろに回し、左足をよこに伸ばす格好で腰を落とした。右手は甲板に下ろしている。長老も台車の上で腰を落とし、前傾姿勢で待機していた。いったい、これからなにがはじまろうとしているのか。
ヨシオの右手が上がり、まっすぐに舳先を示した。発進の合図である。
「ポチッとな!」
大五郎が掌でボタンを叩くと、台車に乗った長老が、すさまじいスピードで目のまえを滑っていった。前傾姿勢で、ヒラヒラと白髪をなびかせながら。大五郎は以前、これとまったくおなじ光景を見たことがあった。タイトルは忘れたが、宇宙で戦うロボットのアニメだ。
「さがるのじゃ、ハリー!!」
長老が叫ぶと、ハリーはよこに飛んで転がった。
巨大化したポーキーが長老をふり向き、立ち上がった。
「やっぱり、あかかぶとだ!」
大五郎は戦慄した。うしろ足で立ち上がり、二本のまえ足を頭上で高く構える巨大化したポーキー。それは、まぎれもなく伝説の人食い熊・アカカブトの構えであった。
「ああっ!」
大五郎は叫んだ。台車の勢いを利用して、長老がジャンプしたのだ。
長老は握りこぶしをつくった腕を胸のところで〝×の字〟に重ねると、まるでドリルのように体を激しく回転させた。
「天に滅っせい!! アカカブトーッ!!」
カタパルトのパワーを利用した強力なスピンキックである。
「烈・滅流豚!!」
空母全体が激しく震えている。稲光を発しながら巨大な竜巻と化した長老は、巨大化したポーキーめがけてまっすぐに飛んでいく。すさまじいスピード。すさまじいパワー。まるで戦艦の主砲から撃ちだされた砲弾のように、風を切り裂きながら飛んでゆく。
「伏せろ!!」
甲板に伏せながらヨシオが叫ぶ。カウボーイハットを押さえながら、ハリーも伏せる。
迸る閃光。
爆発音。
―― ピギーッ!! ――
そしてポーキーの断末魔。
「ポーキーがとんだ!!」
大五郎は叫んだ。ポーキーが、遠く空の彼方へと飛んでいく。
「ポーキー……」
ひとすじの流れ星になって、ポーキーが落ちていく。はるか水平線の向こうへと、流れ星になって落ちていく。さよなら、ポーキー。さらば、アカカブト。ひとすじの熱い雫が、大五郎の頬を流れているのであった。
大五郎が甲板に戻ると、カタパルトステーションのそばでヨシオが腕組みをしていた。
「やったね、おじさん!」
大五郎は笑顔で親指を立てた。ヨシオも親指を立てながら、口もとでかすかに笑っていた。
「怪獣映画も、わるくないな」
葉巻をくゆらせながらハリーがやってきた。疲れ切った顔で、ハリーは笑っていた。
「やっぱ、カレーは牛肉にかぎりやすね」
強烈な臭いを放ちながら赤いモヒカン頭が近づいてきた。
長老は舳先のほうで仰向けに倒れている。おそらく着地に失敗して後頭部を強打したのであろう。口から白い泡をふきながら、長老はピクピクと痙攣していた。
「余計なことを」
いつの間にきたのだろうか。大五郎のうしろに九郎が立っていた。黒いマントに身を包み、氷のような冷たい瞳で舳先に倒れる長老をにらみつけていた。
「きさまら、カツ丼を食いそこなったな」
そう吐き捨てると、九郎はマントをなびかせながら左舷のタラップを降りていった。
「コーンスープとコッペパン。それでじゅうぶんだ」
ハリーはそうつぶやくと、唇にはさんだ葉巻から紫煙を立ちのぼらせながらタラップを降りていった。
「なけるぜ」
そう言って、大五郎はコバヤシと顔を見合わせて肩をすくめた。
ヨシオは腕組みをしながら蒼い空を見上げていた。
※イオナズン・・・某ロールプレイングゲームに登場する爆発系の魔法。
※メルトン(滅流豚)・・・某ロールプレイングゲームに登場する魔法
(敵・味方すべてに大ダメージを与える)。
【最終回・前編】 ――蒼い砂漠――
水平線が明るくなってきた。また、新しい朝がやって来る。大五郎は空母の舳先でヒザをかかえながら、朝陽が顔を出すのをまっていた。ヨシオも一緒である。彼は、相変わらずカタパルトオフィサーのヘルメットを被り、おなじくカタパルトオフィサーのイエロージャケットを羽織っていた。そして、いつものように腕組みをして仁王立ちになり、じっと水平線の向こうを見つめているのであった。
「でてきた!!」
大五郎は立ち上がって水平線を指差した。
夜が地球の裏側へ帰ると、海はキラキラと輝きながら目を覚ました。そして、空も明るく太陽にあいさつをするのであった。
「おはようございます!!」
大五郎も元気よく大声で太陽にあいさつをした。
「――ああ、おはよう」
「え!?」
大五郎は、おどろいて顔を上げた。いまのはヨシオの声ではない。まさか、本当に太陽が返事をしたのだろうか。それとも、ただの幻聴だったのか。大五郎が不思議そうに太陽を見ていると、背中のほうから足音がちかづいてきた。
「あっ」
ふり向くと、黒いマントの男が立っていた。右のマユから左の頬にかけて流れる三日月形の大きな傷跡。羽佐間九郎である。
「ブラックジョークせんせー!」
「おいおい、その呼び方はかんべんしてくれ」
九郎が居心地わるそうに笑った。九郎はブラックジョークと呼ばれる世界的に有名なヤブ医者なのだ。しかも、九郎は医師免許を持っていないという。挙句の果てに、目玉が飛び出るほど高額な治療費を請求するのである。しかし、無免許の医者に高額な治療費を払う患者などいるはずもなく、彼の収入は正規の医師よりも少なかったという。
九郎がヨシオのとなりに立った。
「今日も、いい天気になりそうだな」
そう言ってヨシオをジロリとにらんだ。しかし、ヨシオは答えない。だまって腕組みをしながら、朝陽でメガネを輝かせていた。
朝陽に目を向けながら九郎がつづける。
「いま我々が洋上で見ているこの朝陽を、この蒼い砂漠の向こうで見ている人間がいるかもしれない。だが、はたしてどれだけの人間が生き残っているのか。おまえさんが見ている水平線の向こうにあるのは、楽園ではなく地獄かもしれないな」
皮肉を言って苦笑すると、九郎はマントをなびかせながヨシオの傍らをはなれていった。
結局、ヨシオはひと言もしゃべらなかった。
九郎の背中を見送ると、大五郎は舳先の示す水平線に向きなおった。はたして、あの水平線の向こう側はどうなっているのか。九郎の言うように、核の炎で焼き尽くされ、なにも残っていないのだろうか。この地球上で生き残っているのは、自分たちだけなのだろうか。母さんや父さんは、もう……。
朝陽に目を細めながら、大五郎は歯を食いしばった。そんなはずはない。母さんや父さんは、きっとどこかで生きているにちがいない。いまこの瞬間、あの水平線の向こう側で、この朝陽を見ているにちがいない。大五郎は、白ばみはじめた空に父と母の面影を浮かべた。まだ、世界は終わっていないんだ。かならず、あの水平線の向こう側にたどり着いてみせる。生き残って、おまえよりも輝いてみせる。大五郎は、心の中で太陽に誓った。
「おじさん、あさごはん!!」
大五郎は気を取りなおしてヨシオに笑顔を向けた。ヨシオは返事をしない。ヨシオは太陽に背を向けると、無言のまま左舷のタラップへ足を進めた。大五郎も、だまってヨシオのうしろをついていった。
「あっ」
大五郎は慌てて足を止めた。ヨシオが急に立ち止まったからだ。
「楽園など、この世には存在しない」
太陽をふり返り、ヨシオがつぶやいた。
「たとえあったとしても、人が住めば、たちまち地獄へと変わるだろう」
ヨシオがなにを言っているのか、大五郎にはわからなかった。だが、めずらしくまともなことを言っているのかもしれない。大五郎は、なんとなくそう思うのであった。
朝食を済ませると、大五郎はヨシオとふたりで甲板へ上がった。舳先の示す水平線の上で、太陽が白く輝いている。ヨシオはだまったまま、舳先のほうへ向かって歩きはじめた。日差しがあったかいね、と言おうとしたが、大五郎は言葉をのんだ。彼はきっと返事をしないだろう。大五郎は、ヨシオの背中を見ながらこっそりとため息をついた。
舳先に立つと、ヨシオは腕組みをして仁王立ちになった。いつものポーズである。大五郎も、ヨシオのよこでおなじ格好をした。
「まぶしい!」
太陽がまぶしい。あたりまえである。生まれたときから、ずっと変わらず輝きつづけているのだ。月だって、生まれたときからずっと夜空を照らしつづけている。地球も、生まれたときからずっとまわりつづけている。それがあたりまえのように。
大五郎は、ふと思った。人間にとってのあたりまえとは、いったいなんなのだろうか。朝起きて、朝食を摂って、仕事に行って、昼食を摂って、仕事から戻って、夕食を済ませて、それから風呂に入って寝る……。でも、これではあまりにもつまらない人生である。夢のかけらもありはしない。しかし、それがあたりまえなのかもしれない。
大五郎は、ちらりとヨシオの顔を見上げた。この男は、いったいどんな人生を歩んできたのだろうか。ヨシオが自分の過去を語ったことはいちどもない。彼の過去を知るものは、だれもいないのだ。しかし、大五郎は思うのである。彼にとってのあたりまえは、きっと普通の人のあたりまえとはちがうのだろう、と。
「あと三日」
黒いマントをなびかせながら九郎がやってきた。
「あと三日で食糧が底をつくらしい」
ヨシオのとなりに九郎が立った。ヨシオは水平線に目を向けたまま、だまっている。
九郎が朝陽に目を細めながらつづける。
「水も……飲料水も、不足している。せめて雨でも降ってくれればいいんだが……」
白いシャツに黒いベスト。スラックスも黒い。そして、九郎はいつも黒いマントを羽織っていた。
「人は、いつかは死ぬものだ」
ふいにヨシオが語りはじめた。九郎は目を伏せている。ヨシオの話を最後まで聞こうとしているのだろうか。水平線に目を向けたまま、ヨシオがつづける。
「むかし、ある友人が重い病気で入院してな。オペは成功したが、予後不良で根治が見込めない、と言われた。だが、そんな友人に対し、医者は延命治療を施すことを決定した」
腕を組んだまま、ヨシオが天を仰いだ。
九郎はだまって目を伏せている。黒いマントが、潮風でバサバサとなびいていた。
「死ぬとわかっている人間を、なぜ生かそうとする?」
ヨシオが九郎のよこ顔に問いかける。
「無駄だとわかっているのに、なぜ助けようとする? 医者とは、いったいなんなのだ?」
ヨシオは九郎のよこ顔をじっとにらんだまま、彼が答えるのをまっていた。
「五体満足で健康なのに、つまらないことで自ら命を絶つやつもいる」
水平線に浮かぶ太陽に目を向けながら、九郎が静かに語りはじめた。
「だがな。病気になって、しかも余命いくばくもないとわかると、大抵の人間は必死に生きようとするもんだぜ? 自分には、まだやり残したことがある。恋人、そして家族と、もう少し一緒に過ごしていたい、ってな」
ヨシオも太陽をにらみながら、じっと九郎の話を聞いている。
「生きる理由は、それだけでいい。むずかしく考える必要はないのさ」
九郎も氷のような冷たい瞳で太陽を見つめていた。感情が凪いだような、しかし、どこか寂しそうな冷たい瞳。そういえば、ヨシオもおなじような瞳だった。このふたりは似た者同士なのかもしれない。大五郎は、なんとなくそう思った。
「あんたも、むかし死にかけたんだってな」
朝陽でメガネを白く輝かせながらヨシオが言う。
「いっそのこと、死んで楽になりたいとは思わなかったのか?」
「死んだほうがマシだ。たしかにそう思ったこともある。じつは、いまでもときどき死にたくなることがある。急患の依頼で休暇が中断されたり、手術料を踏み倒されたときとかにね」
冗談めかして笑う九郎のよこ顔を、ヨシオは腕組みをしたままジロリとにらんだ。
ヨシオによこ顔を見せながら九郎がつづける。
「だれだって一度や二度ぐらい、死にたいと思うときはあるものさ」
九郎は目を伏せたまま静かに口もとでほほ笑んでいた。そのよこで、ヨシオは腕組みをしながら太陽をじっとにらみつけていた。
大五郎は甲板の上にひざを抱えて座りながらふたりの話を聞いていた。もっとも、むずかしい話なので大五郎にはよくわからなかった。
カラン……
ブリッジのほうで人の気配がした。ふり向くと、三人の若者がブリッジの近くにある大型のヘリコプターの中へ入っていくのが見えた。三人とも若い男である。ヘリコプターは風防が割れている程度で、ほかに目立つ破損個所は無いように見えた。しかし、エンジンや電気系統が故障しているので動かなかった。
ミサイルの直撃を受けて上半分が吹き飛んだブリッジの側面には、艦番が白くペイントされている。ほとんど消えかかっているが、数字で「88」と大きく記されてあった。そして、ブリッジのちかくにある一機の戦闘機に、大五郎は以前から興味をひかれていた。この戦闘機の尾翼には、まるで燃え上がる炎のようにまっ赤な鬣をもった白い一角獣がマーキングされているのだ。とてもきれいな絵である。しかし、なぜか人を寄せつけないオーラのようなものを感じる不思議な絵なのだ。でも、いちどでいいからこの一角獣が自由に大空を飛んでいる姿を見てみたかった、と大五郎は思った。
ふたりの話は、まだつづいている。内容はむずかしくてよくわからないが、大五郎はとりあえず最後まで聞くことにした。
「ところで、おまえさんの友人とやらは、その後どうなったのかね?」
朝陽に目を細めながら九郎が訊ねる。
「死んだよ。オレが……殺したんだ」
「殺した?」
九郎が冷たい瞳でヨシオをふり向く。ヨシオは水平線を見つめたまま、腕組みをしながらつづける。
「あいつの主治医は、最後まで安楽死に反対していた。だから、オレが殺したんだ。その道のプロを雇って」
「その道のプロ?」
「ドクター・キコリの名は、あんたも知っているだろう?」
「ドクター・キコリだと!?」
その名を聞いた途端、九郎の顔色がにわかに変わった。
ドクター・キコリのうわさは大五郎も聞いたことがある。枯れてもいない丈夫な木を切る樵の如く、助かる見込みのある患者を平気で安楽死させてしまう、死神のような医者なのだ。
「やつに頼んだのさ。あいつを楽にしてやってくれ、と」
「ばかなことを。私なら救えたかもしれないというのに……」
ため息混じりに九郎があたまをふった。
「べつにあんたが気にすることはないさ」
静かな口調でヨシオがつづける。
「オレは、あいつを苦痛から解放してやったんだ。あいつも、きっとあの世で感謝してるにちがいないさ」
「――きさま!」
いきなり九郎がヨシオの胸ぐらにつかみかかった。
「いったい、なに様のつもりだ。思い上がるんじゃない!」
九郎は陽の光をよこ顔に受けながら、殺気の宿った冷たい瞳でヨシオをにらみつけた。
しかし、ヨシオの表情は変わらない。相手の眼を、ただじっと見ているだけだった。
「せんせー、おちつけ!」
大五郎は九郎のマントを掴んで引っ張った。
九郎がヨシオをにらんだまま手をはなす。
「医者は神ではない。私にも治せない病気はある。救えなかった命もある。だが、私はつねに全力を尽くしてきた。おまえさんのように、簡単にあきらめたりはしなかった」
ふたりの真剣な眼がにらみ合っている。だが、あいかわらずヨシオは冷めた表情のままだった。
しばし無言でにらみ合うと、ヨシオはメガネを押し上げて太陽に向きなおった。
「……生と死は表裏一体。この世に生を受けた瞬間から、すでに死は約束されている。だれも……死神からは逃げられないのさ」
死神なら、もうここに来ているだろう。そう思いながら、大五郎は九郎の顔を見上げていた。
「まだ三日ある。私はあきらめない」
さわさわと潮風が吹きぬけ、九郎のマントがふわりとなびく。
「かならず逃げきってみせる。かならず」
しばし太陽をにらみつけると、九郎はマントを翻して左舷のタラップのほうへ歩きはじめた。そのとき、ヘリコプターがとつぜん爆発し、まっ赤な炎に包まれた。
ヘリコプターから立ち上る黒煙が、大きなドクロのかたちになっている。
「おしおきだべー!!」
大五郎は、あの三人がヘリコプターの中にいることを九郎におしえてやった。
「なんてこった」
九郎は黒いマントをなびかせながら、まっすぐに黒煙が立ちのぼるヘリコプターのほうへ駆けだした。ヨシオはヘリコプターに背を向ける格好で、肩越しに立ちのぼる黒煙を見上げている。関心がないのか肝が据わっているのか、相変わらず無表情である。大五郎は、とりあえず九郎のあとを追い駆けだした。
はたして、三人の若者たちは無事なのであろうか。
黒煙を上げて燃え上がるヘリコプターのそばで九郎が片ひざをついた。大五郎は、そっと九郎の背中越しにのぞき込んでみた。男がひとり、うつぶせに倒れている。そのすぐちかくには、もうひとり仰向けに倒れていた。
「こいつはひどい」
ひとりは虫の息、もうひとりは左足に火傷を伴う複雑骨折。重傷だが、まだ間に合う。九郎はそう言った。それからヘリコプターの中をチラリとて「あの男は手遅れだ」と、ため息混じりに首をふった。大五郎もヘリコプターの中をのぞこうとしたが「おまえさんは見ないほうがいい」と、漆黒のマントで視界を遮られた。
まわりが徐々に騒がしくなってきた。ふと大五郎が顔を上げると、いつの間にか大勢の野次馬たちがまわりを囲んでいた。
「重症のふたりだけオペ室へ運ぶんだ。急げ!」
九郎が野次馬たちに指示を出した。
「助かるのか?」
いつの間にか大五郎の傍らにヨシオが立っていた。
九郎がゆっくりと立ち上がる。
「ひとりは虫の息、むずかしいだろう」
燃え上がるヘリコプターの炎に目を細めながら九郎がつづける。
「だが、もうひとりのほうは助かる。かならず助けてみせる」
そう言うと、九郎は迷いのないまっすぐな眼をヨシオに向けた。
ヨシオは九郎の視線を避けるように顔を背ける。
「あんたは……まだ、商売をつづけるつもりなのか?」
「私は医者だ。たとえ世界がどう変わろうとも、私は変わらない」
九郎は目を逸らさない。ヨシオは腕組みをしながら立ちのぼる炎をじっと見つめている。
「……もし、助けられなかったら?」
試すようにヨシオが訊くと、九郎も炎に向きなおった。
「そのときは医者をやめるさ。二度とメスは握らん」
「たいした自信だな」
「賭けるか? もし助かった場合は、おまえさんが手術料を払うんだ」
「たとえ手術が成功したとしても、おなじことだ。三日以内に救助が来なければ、オレたちは死神に追いつかれるんだからな」
ヨシオが言うと、九郎は顔を伏せて肩をゆらした。
「なにがおかしい?」
口もとに嘲笑を浮かべる九郎のよこ顔を、ヨシオがジロリとにらみつけた。
「死神が怖いか?」
顔を伏せたまま九郎が言う。ヨシオはなにも答えず炎に視線を戻した。
「まだ生きている。まだ、希望はある。私も、おまえさんも、まだ死んじゃいない」
九郎はマントを翻しながらヨシオに背を向けると、左舷のタラップのほうへ二、三歩進んで立ち止まった。そして肩越しにヨシオをふり向く。
「それとも、こんどは自分で安楽死を試してみるかね?」
ヨシオのマユがピクリと動いた。そしてみじかい沈黙のあと、ヨシオは静かに口を開いた。
「手術料は……いくらだ?」
「七千万だ。命の値段にしちゃあ、安いもんだろう?」
そう言って静かに笑うと、九郎はマントをなびかせながら左舷のタラップを降りていった。
ヨシオは腕組みをしたまま、ジッと炎に視線を注いでいた。
【最終回・後編】 ――さらばヨシオ!――
いよいよオペがはじまった。患者はひとりである。虫の息だった若者は、やはり手遅れだったのだ。
空母の乗組員や難民たちは、ほぼ全員が食堂に集まっていた。ヨシオは入り口のよこで腕組みをしながらカベに寄りかかっている。なにか思いつめた表情で、じっと足元を見つめていた。
ハリーたちは、入り口のちかくにある丸いテーブルでポーカーをしている。大五郎は、ヨシオの傍らでヒザをかかえながらハリーたちのポーカーを見学していた。
「アニキは、まざらねぇんですかい?」
テーブルのほうからコバヤシが声をかけてきた。
「どうした、ヨッシー。そんなシケたツラしてねえで、一緒にやろうぜ」
カードをいじりながらマルコも誘う。しかし、ヨシオは返事をするどころか、ふり向こうともしない。さっき九郎とケンカをしたから元気がないのだろうか。ヨシオの顔を見上げながら大五郎が心配していると、ふいにだれかがテーブルを強く叩き、イスを蹴って立ち上がった。
「イカサマじゃ!」
吠えたのは長老だ。ひどく興奮した様子でコバヤシを指差しながら何事かわめいている。
「これで三連敗だな」
鼻先で笑い飛ばしたのは赤いモヒカンあたまの男、コバヤシである。
「このイカサマ野郎めが。もうだまされんぞ!」
長老の怒りはおさまらない。
「おちつけよ、じいさん」
ハリーが迷惑そうな顔でなだめながら長老を座らせた。コバヤシもやれやれ、というような表情でマルコと目を合わせてから首をふった。マルコは先端がカールした〝ハの字〟の口ひげをたくわえている。そして正面にMのマークが入った赤い作業帽をかぶり、赤い作業服という出で立ちだ。となりには弟のルチオの姿もあった。ルチオもおなじような口ひげをたくわえ、正面にLの字の入った緑色の作業帽をかぶり、そして作業服もやはり緑色である。このふたりが着ているのはデッキクルーの作業服で、ヨシオの黄色い作業服とおなじデザインのものだった。
ルチオのとなりにオリーブドラブの耐Gスーツ姿の若い女性が座っている。金髪のロングヘアに青い瞳。マルコとルチオの妹で戦闘機パイロットのローザである。ローザはもともとべつの空母に所属していたのだが、味方の位置を見失ってしまい、この空母に緊急着艦したらしい。そして、自分の所属する空母が撃沈されたことを艦長から聞かされたのだ。大五郎たちの病院船が潜水艦に撃沈され、ちかくを航行していたこの空母に救助されたのは、それから三日後のことだった。
「あら、ダーリン。ここにいらしたの」
「ぇ?」
ハリーがびっくりした顔でカウボーイハットの鍔をもち上げた。コバヤシも丸い黒縁メガネの奥で目を丸くしながらハリーの傍らに立った〝大男〟を見上げている。まるで野生のゴリラのようなたくましい筋肉をまとった大男。しかも、身につけているのは一枚のポージングトランクスのみ。ハリーに声をかけたのはジュリアスである。彼女……いや、彼はカタパルトのシャトルに股間を噛みつかれて性別が変わってしまったのだ。
「わたしもカード好きなの。まざってもいいかしら?」
「あ、ああ。べつにかまわないさ」
ハリーは引きつった笑みでとなりに座るよう促すと、小刻みに手をふるわせながら葉巻に火を点けた。
「ありがと」
ジュリアスは気色悪い笑みをハリーに向けながら腰をおろした。それから反対側をふり向いてコバヤシにも笑顔であいさつをした。コバヤシは戸惑った表情で笑いながらあいさつを返すと、やはり反対側をふり向き、となりの長老となにやらひそひそと話しはじめた。なんだかみんなギクシャクしているようだ。
「よ、よう、ジュリアス。調子はどうだい?」
和やかな雰囲気を壊さないよう気をつかったのだろう。ハリーの向かい側の席で、マルコは精一杯のつくり笑いを浮かべながらジュリアスにあいさつをした。すると、ジュリアスは親指を立てて「もちろん、絶好調よ」と、とびきりの笑顔でウインクをした。
「あなたは、どう?」
目をしばたかせながらジュリアスがマルコを見つめる。
「まっ、まあまあかな」
ぎこちない笑顔でそう答えると、マルコは顔をよこに向けた。それから手の中で広げたカードで顔を隠し、さりげなく存在感を消していたルチオに「なあ?」と、同意を求めた。
「え?」
ルチオの大きな眼玉がカードの陰から現れた。なぜオレに振る?――恐怖と怒りで血走ったルチオの目は、そう語っていた。一瞬マルコをにらみつけると、ルチオはジュリアスにつくり笑いを見せながら「え? あ ああ。まアまアだ。オレも、すこぶる絶好調さ」と、なんとかとりつくろった。
ローザもルチオのとなりで迷惑そうな顔をしながらスコッチのグラスを傾けている。あまり関わりたくないのだろうか。ローザはジュリアスと目を合わせようともしない。しかし、ジュリアスは空気が読めないらしい。
「いい香りね、お嬢さん。イヴリンローズかしら?」
ちょうどグラスに口をつけたタイミングである。ローザはスコッチをふきだしてむせ返った。
「あら、大丈夫? だれか、ハンカチもってない?」
ジュリアスがあわてて立ち上がると、ローザはせき込みながら「大丈夫。大丈夫だから」と掌を見せてむりやり笑顔をつくった。
「ほら、拭けよ」
マルコから借りたハンカチを口もとに当てると、ローザは大丈夫だ、というように笑顔でみんなにうなずいた。だが、ローザの正面の席で長老の顔も濡れていた。ローザがふきだしたスコッチをまともにかぶってしまったからだ。長老は掌の中でカードを広げたまま怒りをこらえた表情で目を伏せていた。
ハリーが「じいさんを拭いてやれ」とコバヤシにハンカチを渡しながら「そうなのか?」とローザに訪ねた。
「え?」
ローザは要領を得ないといった表情だ。
「香水の話さ。イヴリンローズなのか?」
「ああ、そうね。そうだった」
ローザはそう言って笑うと、落ち着きをとりもどすようにいちど軽く深呼吸をした。
「そう。イヴリンローズよ。クラブツリー&イヴリン」
そう答えてハリーに笑顔を向けると、ジュリアスが身を乗りだして「ほんとにいい香りだわ。ねえ、よかったら、こんどわたしにも貸してくれなぁい?」と、おぞましい笑顔でローザにせまった。
「え、ええ。いいわよ」
ローザは笑おうとしていたが、顔は引きつっていた。
そのとき、ふいに廊下のほうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「輸血用の血が足りない!」
血相を変えながらドアを入ってきたのは九郎である。
「だれか、ОのRHマイナスの者はいないか!」
食堂の中を見まわしながら九郎が叫んだ。
O型のRHマイナス。その血液型をもっているのは、およそ七百人にひとり。以前、九郎がそう言っていたのを大五郎は思い出した。
「先生。おれ、OのRHマイナスだ」
食堂の奥で難民の男が手をあげた。
「輸血に協力してくれるんだな?」
「ああ、いいとも」
「助かった。感謝する」
難民の男が先に食堂を出ていった。
九郎は踵を返すと、ヨシオのよこで立ち止まった。ヨシオは腕組みをしたまま、だまって顔を伏せている。九郎もだまってヨシオによこ目を向けていたが、やがて静かにドアを出ていった。
三時間ほどが経った。
大五郎は、ヨシオと一緒に手術室の外でまっていた。ヨシオは手術室の入り口のよこで腕組みをしながらカベに寄りかかっている。大五郎も、ヨシオのとなりでひざをかかえていた。
はたして、若者のオペは無事に成功するのだろうか。
「終わった」
九郎が手術室のドアから出てきた。
「助かったのか?」
足もとに目を落としたままヨシオが訊いた。
「もちろんだ。私が失敗するはずないだろう」
九郎は血で汚れた青いサージカルガウンを脱いで丸めると、通路のカベ際にあるベンチの上に放り投げた。
若者は助かった。左足は修復不可能なので切断し、手遅れになったもうひとりの足をもらい、つなげたようだ。爆発の原因もわかった。どうやら手榴弾の安全ピンを、うっかり抜てしまったらしい。
大五郎は、ヨシオと一緒に手術室のドアを入った。部屋の奥にあるベッドの上に、まるでミイラ男のような姿の若者がよこになっていた。
「せ……先生」
若者が苦しそうにかすれた声をしぼり出した。手術は終わったばかりである。まだしゃべるのもつらそうだ。
「どうした」
ベッドのほうに向かいながら九郎が返事をした。
「先、生……た、助けてくれたのは、あ、ありがたいんですが……そのう……」
あたまだけ起こすと、若者は足のほうに目を向けた。
「あっ!」
大五郎は思わず声を上げた。
「ちっちゃいあしと、おっきいあし!」
つないだ左足が右足よりも長く、そして大きかった。
「こ、これじゃあ、み、右と左で……く、靴のサイズが、合いません」
若者は、いまにも泣き出しそうな声で九郎に訴えた。
九郎はそんな若者を無視するように背を向けると、淡々とした足取りでデスクに向かった。
「なるほど。それでブラックジョークと呼ばれているのか」
皮肉を言ってヨシオが笑った。九郎は、こちらに背を向ける格好でデスクの上のカルテにペンを走らせている。さっきとは、まるでちがう反応だ。他人の命に対しては、怒ったり、悲しんだり、喜んだりもできる。だが、自分のことになると、たとえ口汚く罵られてもまったく気にしたりはしないのだ。ヨシオといい、九郎といい、このふたりがなにを考えているのか。大五郎にはさっぱりわからなかった。
「オペは失敗、だな」
ドアに向かいながらヨシオがつぶやいた。
「――だが、命は助った」
九郎の言葉にヨシオが足を止めた。約束は足を治すことではない。若者の命を助けることだ。賭けは、九郎の勝ちである。
「たしか、七千万だったな」
九郎に背を向けたままヨシオが訊いた。
「そうだ」
キャスター付きのオフィスチェアから立ち上がると、九郎はヨシオに向きなおってこうつづけた。
「ただし、円ではなくドルで、だ」
冷たい瞳で九郎が薄く笑う。ヨシオは肩越しにふり向き、相手の顔をジロリとにらみつけた。
七千万ドル。日本円に換算すると、いったいどれぐらいの金額になるのか。大五郎には想像もつかなかった。
しばし九郎をにらみつけると、ヨシオはドアに向かって歩きはじめた。九郎は呼び止めようとしない。ただじっとヨシオの背中を見つめているだけだ。ヨシオが部屋を一歩出る。そして廊下でふと立ち止まった。
「命の値段、か」
背中を見せたままヨシオがつぶやく。
「まあ、いいだろう。陸に上がったら、請求書を送ってくれ」
そしてヨシオはふり向くことなく、静かに去ってゆくのであった。
ヨシオの背中を見送ると、九郎はオフィスチェアに腰をおろしてデスクに向かった。
「それを聞きたかった」
やわらかい声で九郎がつぶやく。カルテにペンを走らせながら、九郎は穏やかな顔でほほ笑んでいた。大五郎も、廊下を遠ざかってゆくヨシオの足音を聞きながら、嬉しそうにほほ笑むのであった。
ちかくを通りかかった軍の輸送船に大五郎たちが救助されたのは、その翌日のことだった。だが、輸送船が空母を発見したのは、たんなる偶然ではないのだという。
輸送船の艦長はこう語った。
ちょうど任務を終えて帰還する途中のことだった。われわれのまえに、とつぜん大きなクジラが一頭現れて、潮を噴きながら海面をぐるぐると泳ぎはじめたのだ。最初はただ遊んでいるだけだと思っていたのだが、どうもちがうらしい。われわれがクジラをよけて目的地へ向かおうとすると、船の進路を塞ぐように立ちはだかって、動こうとしないのだ。いったい、このクジラはなにをしようとしているのか。不思議に思いながらもしばらく観察していると、私はあることに気がついた。このクジラは、ひょっとしてわれわれをどこかへ案内しようとしているのではないか、と。私は自分の勘を信じ、そのクジラのあとについていくことにした。
クジラは背中を海面に出しながら、われわれを先導するように泳ぎつづけた。夜になっても、休むことなく泳ぎつづけた。そしてわれわれも、夜通し船を走らせた。星空に輝く満月が夜の闇を照らし、キラキラと光る静かな海を、一頭の大きなクジラが泳いでいる。船乗りになって三十余年。夜の海は見慣れているが、こんな幻想的で神秘的な光景は見たことがない。まるでおとぎ話の世界を旅しているようだ、と私は思った。
やがて夜が明け、水平線が白みはじめたときだった。さっきまで目のまえを泳いでいたクジラの姿が、いつのまにか消えていた。はたして、あのクジラは幻だったのだろうか。私は、なんだかキツネにでもつままれたような気分になった。そして、そんなふうに考える自分に、思わず笑ってしまった。陸の上ならともかく、ここは太平洋のド真ん中だ。いくらキツネやタヌキでも、クジラにまでは化けられないだろう。しかし、仮に化かされたのだとしても、あまり悪い気分はしなかった。むしろ感謝したいぐらいだった。あの不思議な夜の出来事は、おそらく一生忘れることはないだろう。私はクジラの消えた海を、しばしジッと見つめていた。
空はすっかり明るくなり、水平線の上には太陽が顔を出していた。いつまでもぼんやりしているわけにもいかないので、気を取りなおして引き返そうと思ったそのとき、私は太陽の中に小さな黒い影がひとつ浮かんでいるのに気がついた。もしや、あのクジラだろうか。私は掌で陽の光をさえぎり、黒い影に目を凝らした。そして、その影がクジラではないことは、すぐにわかった。あれは船だ。それも、かなり大きな船のようだ。そのとき、伝令の声が私の耳に入ってきた。その船は、どうやらわが軍の空母らしいという監視員からの報告だった。それを聞いた瞬間、私は確信した。あの空母だ。数週間まえに横須賀港を出たまま行方不明になっていた、あの空母にちがいない。きっと、あのクジラは空母を助けるために、われわれをこの海域まで導いてきたのだろう、と。
そして艦長は、最後にこうつけ加えた。
――ひょっとしたら、あのクジラは海神の化身……トリトンだったのかもしれない――
そして大五郎も思った。そのクジラは、きっと〝あのトリトン〟にちがいない、と。
(ありがとう、トリトン!!)
大五郎は胸の中で叫んだ。さよなら、トリトン。またどこかで会おう。この広い太平洋のどこかで、いつかまた……。
救助作業は順調に進められ、昼過ぎには全員の移乗が完了した。最後に空母をはなれたのは羽佐間九郎だった。彼は全員が救助された後も空母に残り、しばしヨシオとふたりきりで話し込んでいた。そして、輸送船に乗り込んだのは、九郎だけだった。
――オレは〝こいつ〟と旅をつづける。自分の運命を見極めるために――
そう言ってヨシオは独り、空母に残ったのだった。
空母が夕陽の中へと消えてゆく。小さな黒い影となって、まっ赤な夕陽の中へと消えてゆく。
「おじさん、さようならーっ!!」
大五郎は叫んだ。輸送船の甲板から、ちからいっぱい叫んだ。
三週間、あの空母で海の上を彷徨った。一日一日が、とても長かった。とても不安だった。この空母から早く逃げ出したいと思っていた。そして、ようやくあの空母から脱出できた。なのに、あの空母が慕わしくてたまらないのだ。あの空母に帰りたくてたまらないのだ。もういちど、ヨシオと一緒に夕陽を見たい。あの空母の舳先に立って、夕陽に叫びたい。なぜそんなふうに思うのか。どうして涙が止まらないのか。大五郎には、自分の気持ちが理解できなかった。
「おじさん、さようならーっ!!」
空母が見えなくなっても、大五郎は叫びつづけた。水平線の向こうに向かって、ちからいっぱい叫びつづけた。
夕陽が紅く燃えている。まっ赤な血のように。空と海を朱に染めて……。
―― さらば! ――
太平洋、血に染めて 【完全版】
*エンディング
https://www.youtube.com/watch?v=1gFds5YCyFc
https://www.nicovideo.jp/watch/sm15638324(予備)
・太平洋、血に染めて DVD発売告知CM
https://www.youtube.com/watch?v=RRTpp-UQJsE
【映像特典】
https://www.youtube.com/watch?v=nw0gjw1XIIk
https://www.youtube.com/watch?v=PXJXqW3P9Iw
https://www.youtube.com/watch?v=z6KbdoPu5qQ
https://www.youtube.com/watch?v=wVuKdbImdgY
https://www.youtube.com/watch?v=SBkwQJqvKXc
【作中での太陽の位置について】
作中でヨシオが夕陽と朝陽を見ているのは、いつも空母の「舳先から」で
あるが、これは決して空母がおなじところをまわっているわけではない
のだ。
空母は動力と舵を失い、潮の流れに乗って漂っている。つまり、必ずしも
同一方向にまっすぐ進んでいるわけではなく、波で舳先の向きを変えな
がら流されていたのだ。
なので、朝陽や夕陽を「舳先から」望むシーンがあるのです!
……と、いうわけさ。
太平洋、血に染めて
野良猫
©NORANEKO 2017
2017年3月6日 第一刷発行
発行者――野良猫
発行所――株式会社 ガット・エランテ
野良県クジラ市マグロ町一丁目2番22号 〒222-2222
電話 出版部 5656-22-××××(ゴロゴロ・ニャーニャー)
販売部 5625-22-××××(ゴロニャーゴ・ニャーニャー)
業務部 2020-22-××××(ニャオニャオ・ニャーニャー)
デザイン――ストレイ・キャット
本文データ制作――ガット・エランテ プリプレス制作部
印刷――珍獣印刷株式会社
製本――珍獣印刷株式会社
printed in japan