主役


著名な小説のワンシーンを思い浮かべる必要まではないと考えるが,取り敢えずは,似たような形で絢爛豪華に催されているパーティーを遠目に眺めている場面を想定する。眩い輝きに,尽きない歓声。そのパーティーに参加している人達が感じること,思うことがあるだろう。反対に,それを遠目に眺めている人達が感じること,思うこともあるだろう。その先後は問わない。タイミングが重なってもいい。その人達が感じて,思った事実があればいい。その事実が,この文章において指摘される主役となる。
簡潔明瞭に済ませるためにも,次のことを直ちに記す。それは,催したパーティーが楽しいものかどうかを決定することが出来るのは,そのパーティーに参加した人達であるということであり,それと同じく, 催されているパーティーが,参加したくなるぐらいに,または参加していていないことを悔やんでしまうぐらいに,楽しそうなものであるかどうかを決定することが出来るのも,そのパーティーに参加していない人達であるという点である。その根拠となるのは,その評価内容自体である。楽しいか,楽しそうかという評価が,ある特定の立場にあることを要求する。したがって,催されたパーティーに対して下される個々の評価に対して,異議を申し立てることが出来るのは,基本的に同じ立場にある者であると言える。翻って,その立場にない者が下す評価は,それ自体が許されることであったとしても,その評価内容の当否に関して,その立場にある人達が行なった評価に比して低い評価を下されることには,理由があると言わざるを得ない。何せ,パーティーに参加していなかったのであり,または参加していたのだから,参加していた人達が口にする「楽しかった」という評価についても,参加していなかった人達が口にする「楽しそうだった」という評価についても,同じ立場から当然に批判できるとは言い難い。ここでは見事に経験がモノを言う。楽しかったか,楽しそうであったかという評価がそれを求めるのである。
よって,仮に明け方に渡るまで,夜な夜な繰り広げられるとあるパーティーがあるとして,かかるパーティーに関しても上記と同じことが言える。参加した人達が心の底から満ち足りるのは自由であり,それに勇気付けられて,実に大胆な行動を取ることも,その行動自体が法的にまたは道徳的に問題があるかどうかは別にして,責任とともに,それを行うのもまた自由ではあると言えるだろう。しかしながら,そのパーティーの「効果」について,パーティーに参加していない人または人達が,何の感想も抱かず, また,いかなる影響を受けていなかったとしても,参加者は,先ずはそれを認めなければならない。パーティーの参加者は,パーティーに参加しなかった人達ではないからである。それ以上にモノを言える立場にない,と言わざるを得ないからである。パーティーを心の底から楽しんだ人達が,そのリアクションの有無に対して不満に感じ,それを解消するための行動をするのも自由であるが,先に記した通り,その責任は負うことになる。それすら不満に思って取る行動の関しては,何も記すことはない。それはこの文章の主役ではないし,また主役に値するものとも思わないからである。よって省く。
ここで,もう一つ仮定を置く。先のパーティーがオープンなものであり,その参加者だけでなく,参加者以外の者も含めて,パーティーとして成功させることを目的としているとする。すなわち,参加者を楽しませることは勿論,パーティーに参加していない人達にも参加したい,または参加していないことを後悔させることまでをも,そのパーティーは目的としているとする。この場合,パーティーに参加していない人達が感じること,思うことについて,その人達以外に何かしらの意見を述べることが出来る主体がいるとすれば,それはかかるパーティーの主催者であると言える。なぜなら,パーティーの主催者は,パーティーの参加者だけでなく,現にかかるパーティーに参加していない人達もその射程に収めた上で,パーティーの催し物を実施しているからであり,その実施する催し物に関して,参加者及び参加者以外の人達の感想を聞き,それに対して主催者側としての考えを述べ,またその考えに対する参加者及び参加者以外の人達の意見を聞き,また主催者側の意見を述べ,というやり取りをお互いに行うことは,その目的に沿うものと言えるからである。ただし,ここで注意すべきは,あくまで主催者と参加者及び参加者以外の人達の立場はあくまで対等であるということである。したがって,参加者及び参加者以外の人達が口にした感想や意見について,それを聞き取った主催者側はそれを否定することは例の如く自由であるとしても,それを参加者及び参加者以外の人達に押し付けることに正当な理由を見出すことは実に困難となる。よって,主催者側が正当に行えるのは,参加者及び参加者以外の人達の感想や意見については,それを参考にすることが出来ることに止まる。そして,それを不満に抱いた主催者が,それを次の機会に活かすことだけに止まらずに,その解消のために何かしらの行動を取ったとしても,やはりこの文章では取り扱わない。人を惹きつけたいのなら,それだけの努力や工夫を施すのは,エンターテイメントを催す側の責務である。その内容が健全なものであってもなくても,その責務は等しく主催者に課せられる。それを果たしてこそのエンターテイメントであることは,これに携わってきた先達が見事に示してくれているはずである。それが見事に結実した時,それによってもたらされる喜びは,主催者側並びに参加者及び参加者以外の人達の間で等しく分かち合えるものとなる。魅了する力は,だからそこに生まれる。それはまさに,周りを巻き込むパーティーである。心地よい疲れと,空っぽになった不満の跡形を残してくれる。そしてまた,次回も開催されることを期待させてくれる。そういう繋がりを見せてくれるし,感じさせてくれるのである。
そのパーティーに参加している人達が感じること,思うこと。反対に,それを遠目に眺めている人達が感じること,思うこと。この文章で指摘してきた主役は,お互いに関係のない所で堂々と振る舞う。それが許されてこそのパーティーである。そうして守られる可能性が人の目を引く。共に踊るのか,そうでないのか(結果はどちらでもいい,というのは既に記してきたところである)。エンターテイメントはそれを踏まえる。反対に,それを感じ,思う『人達』の方がこのことを忘れる。したがって,パーティーを楽しみたいのなら,開催時間が何時であろうと,そのことを忘れないようにしなければならない。
これは主役を引き立たせるために,この文章における脇役たる『人達』が果たすべき努めである。ドレスコードより普遍性を有する,最低限のマナーである。
そうして初めて,パーティーは夢のような時間となるである。

主役

主役

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted