森をあるく
あおい はる
森をあるいた。
森をあるいて、みずうみをおよいだ。
みずうみをおよいで、川をわたった。
ローファーを片方なくしたけれど、足を失ったわけではないからいいやと思った。
かばんにつけていたキーホルダーを落としたようだけれど、そのキーホルダーをおそろいで買った親友とはきのう縁を切ったので、未練はなかった。
スカートの裾が、ほつれている。
リボンは、みずうみをおよぐときにほどいて、捨てた。
もう、学校には行かないと決めたので、制服がぼろぼろになろうと、しったこっちゃなかった。
家にも帰るつもりはなかったので、森にきたのだった。
海でもよかった、と思っている。
森を選んだ、とくべつな理由などはない。
木を隠すなら森、ということばが、あたまにふと思い浮かんだので、森にした。
あしたになっても、わたしは森にいるつもりだ。
あさってにもなっても、
しあさってになっても、
一週間、
一ヶ月、
半年、
一年、
五年、
十年、
一生、
しぬまで、
わたしは森にいるつもりだから、みずうみをおよぎ、川をわたった。
くつをなくしても尚、あるかなければならなかった。
森でいきてゆく術を、わたしは身につけなくてはいけない。
鳥が鳴いている。(けれどわたしは、鳥のなまえをしらない)
野うさぎがいる。(かわいい、親子野うさぎだ。けれどわたしは、森でいきてゆくためにも、この子たちをたべなくてはいけないのか)
右手、中指の爪がはがれている。(気づいたのは、今しがたである。からだじゅうの感覚が麻痺をしている。寒さのせいか、みずうみの水はつめたくて、逆にあたたかく感じた)
樹木の陰から、ときおり、親友が顔を覗かせる。(きのう縁を切った、例の親友である。けんかの原因は、わたしなのかもしれないし、わたしではないのかもしれなかった。わたしは親友のわるいところを注意しただけなのだけれど、余計なお世話だったようだ。わるいところを、わるい、とはっきり指摘しあえるのが親友なのでは、と思ったのだけれど)
左の膝頭が、血で汚れている。(もちろん、わたしの血だ。あるいている途中、雑草で隠れていた小岩につまづいて、ころんだ。右手、中指のはがれた爪よりは、痛みが薄い。血はすでに止まり、かたまった血で赤黒く汚れている。スカートの裾もほつれ、ブレザーもところどころが破けているのだから、今さら膝頭の汚れなど、気にもならなかった。ローファーを失った右足の白いくつしたなど、茶色く染まっているのだから)
学校にはもう行かないし、家にも帰らないのだから、制服がどうなったってかまわない。
かばんなんかとっくに、川をわたるときに投げ捨ててきた。教科書や、ノートや、ペンケースや、きょうもらった進路調査票や、かわいくて安い化粧品や、生理用ナプキンや、おとといコンビニで買った新商品のチョコレートなんかが、かばんといっしょに川を流れていって、海でそのまま沈んでしまえばいいのだけれど、万が一にもかばんからでてきて、いきものたちがそれらをたべてしまって、生態系に影響が出たら嫌だな、なんて、かばんを投げ捨ててから思った。
森は、昼でも、薄暗かった。
わたしは、恋をしていた。
三年生の先輩だった。写真部のひとだった。そのひとの写真の被写体は、花か、かえるだった。花か、かえるしか撮らないひとだったけれど、その写真は鳥肌が立つほどに、美しかった。足が震えるほどに、鮮明だった。そのひとに撮られた花は、生命力に満ちていたし、反対にかえるは、まるでいきているようには思えなくて、誰もが置物だとかんちがいするほどだった。陶磁器のようなつやが、かえるにはあった。先輩は花も、かえるも、雨が上がったあとに撮影していた。校庭のすみっこで、カメラをかまえてしゃがんでいる先輩のうしろ姿を、ときどき見かけた。先輩のかたわらにはいつも、強引にまとめられてふくらんだ透明なビニール傘が、あった。
「先輩いわく、水に濡れたものは、なんでも美しいんだって。なかでも、花とかえるは格別らしいよ」
おしえてくれたのは先輩とおなじ写真部の、親友だった。
(いまのわたしを、先輩に撮ってほしい)
みずうみをおよぎ、川をわたったあとのわたしは、さぞ美しいことではないだろうか。
鏡がないから、確かめようもないのだけれど。
森は、ますます暗くなり、それから騒々しくなった。
わたしの目の前を、りすが駆け抜けていった。
のそ、のそ、と、くまがやってきて、わたしのことを一瞥して、
「早く家に帰りなさい」
と言った。学校の先生みたい、と思った。
そのあとを、一頭のシカがついていった。
シカは、やさしい声で、
「にんげん、キミはにんげんなのだから、にんげんの世界におかえり」
と言った。
なんだか少しだけ、先輩に似ていると思った。
もちろん先輩は、シカではないのだけれど。
やわらかい口調でいて、他人をよせつけない素っ気なさを含んだ物言いなんかが、似ていた。
わたしはブレザーのポケットからスマートフォンを取り出して、電源をいれた。
これだけは捨てられなかったのだから、わたしの覚悟なんてそんなもんだ、と自嘲しながら、親友がやっているブログを開いた。
新しい日記は、書かれていなかった。
スマートフォンには誰からの電話の着信も、メールの受信も、なかった。
素性もしらないひとの、いまからごはんをたべます、とか、ただいま、とか、それに対する、おかえり、とか、わたしの小説なんてほんとつまらないし、なんてネガティブな発言に、そんなことないですよぉ的な本音か社交辞令か判然としない返しとかを、適当に読み進めていって、いちばん最後(つまり、いちばん新しい、ものの一、二分前)の、いまから家帰る、というつぶやきを見て、ページを閉じた。
わたしはカメラを起動し、フラッシュをたいて、自分の顔を撮影して、
(うわっ、ブス)
と思ってから、スマートフォンを置いた。
ちゃんと土に還りますように。
そう祈りながら、わたしはふたたび、あるきはじめた。
森の夜は、長い。
森をあるく