こだわらない「意味」が生まれるとき


若すぎる、未熟すぎることは
とても素晴らしいことだ


若さは自然と
抗いようはなく失われていくが


「未熟」とは
死ぬ その瞬間までの 人生の伴侶なのだ



己の 未熟さを 知るときほど

ひとを奮い立たせるものなど あろうか



いま この瞬間からも

ぼくらは

何を 吸収する

何を 学ぶ

何に 感化される



ただ流れる日常のなか

ゆるやかさも
うとましさも

怒りも 悲しみも 愛おしさも

ひとは いかなるときも

なにか を感じとり 考え


それぞれ 変化を遂げていく



そのために

ときに 制約であり
ときに 限りのない 自由である

「時間」というものは与えられたのだ



ひとは

真新しくてもいい

使い古しだっていい


ただただ

ただの スポンジであり



そして


永遠の幼虫だ



変化が ある故に 世界がある



太陽の日差しが

同じ陽である日など
ないことと 同じくして


しかし


己が 己を愛せる
「理由」である「核」は
永遠に変わらなくて 変えなくて


良いものだ


譲ることも 選ぶ必要は ない

譲るという 概念も 必要が ない


生きていくことを選んだ

だから今も ここに そこに

あなたも ぼくも 居ますから


選んだ ぼくらは


「今」が過ぎた時点で

ぼくらは未来に存在しようとする



それを 選んだ ぼくらは


あしたかも しれない

三年後かも しれない

10秒後かも しれない



先に待ちうける

想像を絶する出来事や

自分の無力さを
まるで地獄に堕ちたように
知ってしまうこともあるだろう


そのときは

そのときも

苦しい だろう

ナマモノのこころを

持って生まれたかぎり



たとえば

いま

ナニカ について考える

ナニカ と 向き合う


そこには 愉しさが 勿論ありながら

苦しみも 伴うことばかりだが



苦しみは

苦しみで 終わらせては損だ



苦しみは


己の力に 変えていくべきだ


いつか

ふと

あの日の苦しみが

いまの ちから へと

変化したと 気付き


そこにて

苦しみの意味は 初めて生まれるのだから




生きるのは いつだって苦しい


苦しみの種類なんて 存在もしない


そんなこと 知っているだろう




見ないふりを 選ぶのも



向き合う意志を 貫くことを 選ぶのも


すべてを 選ぶのは



いつも 自分であることを



忘れては ならないよ




流木のように流れついたような人生を

悲観していても


流された のでは なく


流される ことを 選んだ 自分が


かならず どこかに

居た はずだ


その選択の

ひとつの 責任を


思い出し



流れついた 更地からでも


方向を

選んで

歩いてごらん


自分が 選択をした 道を


空を見ながらでも いいから

自分の

意志で 歩いてごらん


なにかの

「せい」

に したくなるのが ひとの性であっても


なにかの

「せい」


に してしまったら


どこへ 向かうかの


選択を 誤り



ときに 責任を転嫁しようとも

するだろう



それはちがう


えらんできたんだ


ぼくたちは


つねに なにかを




ひとの すべての 選択


そして


感情 には

必ず 意味があるものだ



生きる意味や定義は

決まってはいなくとも


そのひとのこころに

芽生えた感情には


その瞬間 だろうが

遥か先の 未来だろうが


意味がある



えらんで かんじた いみがある



生きることへの 正解は なくとも


生きてさえ いれば



あらゆる変化を くりかえし


「自分」という生き物に近付けるのだから





生きるということは



自分になることなのだと

こだわらない「意味」が生まれるとき

こだわらない「意味」が生まれるとき

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-03

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