Klagend ―哀悼―

 うっかりしていた。それはもう、呪いのように。
 バイトで些細な切欠の、しかし大きなミスをした。部活への連絡事項の日取りを間違えた。何の気なしに買ったお菓子を開ける前にどこかへ置き忘れてきた。その日の曜日を失念して、約束を一つすっぽかした。
 一つ目が些細な事とは呼べなかったから、意識はしていたつもりだった。それでもそんな諸々が、たった一週間のうちに続いたものだから、薄々危惧はしていたのだ。
 今の私の危機察知能力は壊滅的で。
 近々取り返しのつかない事をやらかすのでは、と。
 だから青信号の瞬く横断歩道で、私に向かって突っ込んでくる乗用車を見て。私は思ってしまったのだ。
 ――ああ、やっぱり。
 それを最後に、私の意識はしばし途切れることになる。

 ***

 幸運にも、一度途切れた私の意識は、そのまま途絶えはしなかった。
「……眩しい。」
 それが私の目覚めの言葉で、部屋のカーテンを開けていた看護師さんから不本意にも失笑を買う事になった。
 それから担当医師が来て、遅れて家族もやって来て。皆が口を揃えて言うには、私はかなり悪運が強かったらしい。乗用車に轢かれた瞬間、私の身体は上手くボンネットに乗っかって、バンパーが脚に当たるだけで済んだという。そのまま弾むように投げ出された後も、背負っていたリュックが丁度頭の下に入り、中のジャージ共々クッションの代わりを果たしてくれたとか。結果、私は脚の骨にひびを入れて全治一週間という、何とも無難な所に収まった。
 一応頭の検査のため、一日だけ入院をして。タイミング悪く訪れたゴールデンウィークを享受して。
 連休明けの月曜日、久し振りに訪れた高校は当然ながら何も変わっていなかった。
 幸か不幸か私は登校時間が早い方で、大抵の知人は私の後から登校する事になる。何の前触れもなく復活している私に最初は皆ぎょっとするようで、それが何となく面白い。そしてどうやら私が元気そうだと分かると、以前と変わらず話し掛けてくれる。それまで接点が無かったような生徒も数人、こちらを気遣って声を掛けてくれたりした。全くもって有り難い。
 やがていつもの友人達もやってきて、私の机の周りが賑やかになる。連休は何をしたとか、授業はどこまで進んだとか、そんな世間話が途切れたのを見計らって、私は時計を窺った。教室に着いてから随分時間が経ったような気がして、HRの時間が気になったのだ――大丈夫、あと十分はある。色々な人と話したから、体感時間が長く感じたのだろう。
 その時ふと、教室に入って来た男子に目が留まった。
 見覚えのない生徒だった。うちのクラスの男子に混じって談笑している。比較的小柄で、色白で、短い黒髪は収まりが悪そうに跳ねている。
 何より目に付くのは、喪服のように黒い、学生服。
 ウチの高校は私服通学可という今時突飛な高校で、生徒の殆どはその恩恵にあやかっている。唯一野球部員は学ランを着るのが暗黙の了解だったが(部の伝統か何からしい)、彼の白い肌は、野球部はおろかあらゆる運動部と疎遠に見える。
 そうした物珍しさで彼を眺めている内に、ふと、彼がこちらを向いた。
 目が合って、そうして。
「――え?」
 一瞬だけ、表情を消した。
 いや、消したのではない。
 あれは、悼む表情だ。
 ぱちりと一つ瞬きをした――と同時に予鈴が鳴った。まだ鞄を下げたままだった生徒が慌てて自分の席へと散っていく。そして例の男子は、何故かこちらへと進んできた。当然そうに私の隣の席に荷物を置いた彼に、当然そうに私の友人が声をかける。
「おはよー狐塚君。」
「おう。」
「え?」
 思わず声を上げた。そんな私を怪訝がる友人の顔を見て、読めない無表情の彼の顔を見て、もう一度友人の顔を見る。
「……えっと。」
「どしたの菊谷ちゃん、狐塚くんが何か?」
「え、あ、いや。」
 聞き覚えのない名前だった。その筈なのに、どうやら知っていないとおかしい名前であるらしい。呆然とする私を別の友人がくすくすと茶化す。
「何、頭打ったからどっかおかしくなっちゃった?」
「い、やあ……あはは。」
 冗談にならない。とは、流石に言わなかったが。
 程なくして響いた本鈴とやって来た先生のお陰で、友人関係に亀裂が入ることは避けられた。しかし、狐塚なんて名前に覚えがないという事実は変わらない。始業の礼をしながらちらりと隣を盗み見る。知らない顔だ。その、筈だ。
 席に着く瞬間、狐塚が視線を投げて寄越した。
「――あんたは正しいよ。」
「え?」
 椅子を引く音に紛れるほど小さな呟きは、聞き間違いではないのだろう。
 その一瞬、彼はあの悼むような眼で、私を見ていた。

 ***

 三限の体育は流石に見学する事にした。
 ウチの高校の体育では例年、春先の一か月ほどの間、高校周辺の道に出てマラソンをすることになっている。見学者は校庭で、帰って来た生徒のチェックをするという大役を仕りつつの留守番だ。
 どんよりと重たい空模様の下、本日の見学者は二人。
 私と、膝にサポーターを巻いた狐塚だった。
 校庭の隅のベンチに腰かける。チェック用の名簿をぱらぱらと捲り、二年×組、私のクラスの男子の名簿を探し当てる。黒沢と小森との間に、その名前はあった。
 狐塚方也――こづかまさや。
 その本人は、さして大きくないベンチの向こう端に腰かけていた。手持無沙汰でいるものの、黒目がちな瞳は大きく、表情も朝の顔が嘘だったみたいに生き生きしている。
 しばしその様子を観察していれば、ふと狐塚がこちらの視線に気づいて片手を挙げた。
「よ。」
「……どうも。」
 挨拶を交わすほど親しかったのだろうか。分からない。私は何も覚えていないのだから。彼のことだけ。
 そんな私の様子を狐塚は興味深そうに眺める。そして脈絡なく謝った。
「まあ、あれだ。何かごめんな。」
「……何が?」
「久し振りに学校来たら、初めて見る異物が当然の顔してそこに居て。」
「どういう事?」反射的に聞き返して、一限の号令の事を思い出す。「『お前は正しい』って、それ?」
「そう。正しいのはお前の記憶で、間違ってるのは他の奴等だ。」
 因みに俺は間違ってない、と狐塚方也は笑って見せる。脳天気そうな、屈託のない笑いだ。
 対して話が見えずに言葉に詰まっていた私は、恐らく物言いたげにしていたのだろう。狐塚が宥めるように片手を上げた。
「まあ順を追って説明するとだ。」ぴ、と狐塚が人指し指を立てる。「あんた、一週間くらい前に事故に遭ったよな。それで学校を休んでた。その時どう思った?」
「その時?」
「事故に遭う瞬間だ。アンタ、死ぬことに納得しなかったか?『ああ、やっぱりここで死ぬのか』って。」
 びっと勢いよく向けられた人指し指に、肩が震える。
 気圧された訳ではない。ただの、図星だ。
 そんな私にしてやったりと目を細め、狐塚は諭すように指を揺らす。
「で、轢かれたアンタが起きたのが次の日の朝。俺はその時からここに在る。」
「……良く、分からないのだけど。」
 話が飛んだ。少なくとも、私からはそう見えた。だってその言い方ではまるで、私の死の受容と狐塚の存在との間に、因果関係がある、ような。
 しかし、狐塚にとって話は破綻していないらしい。つまり、と先を続ける。
「『死に納得した奴は、須く死ななければならない』――そういうルールが、あってだな。お前はそれに引っ掛かった。それなのに、何かの弾みで生き残っちまった。だから俺が湧いて出たんだ。」
 そんな理不尽なルールがあるか――と思ったのは、狐塚の話に瞬間的に納得してしまってからだ。反射のようなその承認が、この法則は事実であると主張する。
 そんな馬鹿な、とは、思えない強制力。
 例えばそれは、今ここに世界があって、私がいるという事。そういう、普段は意識の外にある当たり前の事実を指摘された時のようなもので。そう言えばそうだった、どうして忘れていたのだろうと、疑問の方が先に立つ程だ――そんな法則、聞いた覚えは無いというのに。
 では。
その直観を、信じるのなら。狐塚の言葉を、信じ難いその言葉を、それでも信じるのだとしたら。
「……私、死ぬの?」
 呟いてから、自分で驚く。
 私は、死ぬのか。死ぬかもしれないのか。
 そうして湧いてきたのは、今までにない感情だった。
 血の気が引くほどの恐慌と、胃が焼けつくような焦慮。全身にぶわりと怖気が走る。目が眩んで、息が詰まって、今すぐこの苦しさから解放されたくて、何処かへ逃げ出したくて堪らない。けれど身体は言う事を聞かないし、逃げる場所だってありはしないのだ。もしかしたら、こういうものを人は絶望と呼ぶのかもしれない。指先一つすら、凍り付いてしまったかのように動かせなかった。
 そうしてひとしきり悪寒をやり過ごして、ふと、気が付く。
 恐怖。焦燥。絶望感。
 けれど――死にたくないとは、思わなかった。
「……分からない。」
 小さな狐塚の呟きに、私ははっと我に返る。狐塚は迷うように目を伏せて、ゆるりと頭を振った。
「お前がどうなるかは、今の俺には分からない。けど、」
 そう言葉を切った狐塚が、私を見る。
「もしそうなら、きっとあんたを殺すのは俺だ。」
 それはもう、悼む表情ですらなかった。
 ふと、遠くから声が聞こえる。狐塚の向こうに目を遣れば、グラウンドの端の方から先頭集団が戻って来るのが見えた。私の視線につられた狐塚も背後を振り返る。
「おーっす! はっやいなー、鶴岡。」
 まだ遠いクラスメイトに向け、笑って手を振る狐塚の様子はもう普通の生徒と変わりない。だが、そんな狐塚にほっとしたのも一瞬の事だ。
「続きは放課後。図書室で良いだろ?」
 こちらを振り向かずに放たれた台詞に、何とも言い難い寒気が走る。
 今の今まで意識に上りもしなかったが。
 私は確かに図書委員なのだ。

Klagend ―哀悼―

Klagend ―哀悼―

エタりぎみ未完。続きのプロットはあります。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-02

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