花たちが咲うとき 番外編 一
花たちが咲(わら)うとき (番外編)
君影の章・一 ~うそ寒の花~
吐き出された息は、まだ白くは無い
しかし早くなった呼吸を繰り返すたびに、冷たい空気が喉を裂くようだった
体育の授業では出さない本気の全力疾走の後、背後をもう一度振り返って只の道が伸びているのを確認すると、僕は大きく溜息をついた
途中でススキがはびこる売地を横切ってきたせいか、制服のブレザーに穂や蜘蛛の巣がまとわり付いている。それらを掃い、ネクタイを緩める
「……しつけぇな」
言葉と一緒についつい舌打ちがでて、遠回りに遠回りの末ようやく帰路に着くべく歩みを再開しようとした時
「大丈夫か? 少年」
「あ、あぁ。だいじょ――」
そこで息が詰まった
声のしたほうに振り返ってあったのは木の幹だった
正確には幹のデコボコが人の顔を為している木の幹だ
丁度口に当たるところが微かにうごめくのが視えて、再び暴れ始めた心臓を落ち着かせようと唇を強く結んで逃げるようにひたすら足を動かした
―― 言葉を返しちまった……
相手は木だ。あの場からは動けないはず。大丈夫、大丈夫
そう自分に言い聞かせて早足で家に帰った
※※※
「お帰りなさいませ。艸様」
門をくぐって何分歩いただろうか、その声にハッと顔を上げると遠かった家が大分近くまで来ていた
かなり長い時間、心ここにあらずの状態で歩いていたようだ
落ち葉を掃いていた箒を胸の前に持ち直して、キャメル色の頭を下げた彼女は、麗 春花
家の使用人の中では一番若く、僕と歳も近いと言うことで僕の面倒を押し付けられた可哀想な女だ
常に下がりっぱなしの眉尻に、垂れ目がちな麗の瞳は微笑みをたたえている
何となく顔を合わせにくくて、下を向いたまま返事だけ返す
「あぁ……」
「そこは「ただいま」ですよ。艸様」
遠慮気味なその言葉を無視して進む僕に、麗は慌てた様子で枯葉を押し込んで風船のように膨らんだゴミ袋を持つ
そして数歩後に続く
それが僕にはたまらなく嫌だった
「後ろにつくな」
「も、申し訳ありません」
家の人間は信頼していいと親父は言ったが、家族がいくら信頼している人間だろうが何だろうが、他人に後ろに付かれるのは気分がよくない
学校で整列したり、見知らぬ人とたまたま進む方向が同じで後ろを歩かれるのですら嫌悪が湧き上がる毎日だ
出来る限り、僕は一番後ろに居たい
「出来れば付いて来るな。出来ないなら僕の横か前を歩け」
「は、はい」
おずおずと申し訳なさそうに横に並んで歩く麗を極力気にしないようにして玄関のドアを開ける
「お帰りなさいませ。艸様」
「お帰りなさいませ。艸様」
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
―― うるさい
眉間にシワがよるのが自分でも分かる
しかし僕以上に眉間にシワを寄せ、まなじりを裂いたのが給仕長だった
「麗。何をしているのですか、艸様のお荷物を持ちなさい」
「は、はい。そ、そそれは分かっているのですが」
年配の使用人に睨まれ俯いてしまう麗の両手には落ち葉の詰まったゴミ袋と箒が握られており、これ以上はどう頑張っても持てない
「そんなものは他の者に任せておけば良いのです。貴方は主人から直々に艸様を任されたのですよ。優先すべきものを見誤らないことです」
「は、はい!」
ゴミ袋と箒をどこに置いておくべきか辺りを見回し始める麗に、給仕長の目じりが更に吊り上がって般若の形相になってきている
―― 面倒だ
「……自分の鞄くらい自分で持てる。がなるな、耳障りだ」
「はっ。申し訳ありません」
「もも、もう申し訳……」
麗の謝罪は閉まったドアに遮られ、最後まで聞こえなかった
豪奢な長い廊下と、並ぶように置かれた花瓶の花たち、窓の向こうに広がる温かそうな木々の色合い
―― 窓ガラスの手形、埃のように舞う白い何か、床に広がる染みとも何ともいえぬ黒
土地が悪いのだろうか、この家はこんなのが多い
しかし、家族や使用人の誰かに直接的な被害は在ったことが無いというのが不思議なところだ。ただし僕は例外、いたずら程度の被害は受ける。おかげで昔ほどでは無いまでも家族からは病人扱いだ
だから極力この家に居たくなくて、学校が終わってもブラブラ外を歩いてから帰るのだ
早足で自分の部屋に向かっていると、頭に響くような不愉快な騒音が耳に付いた
「ケケケケッ、機嫌ガ悪イナァ! マダ追イカケラレテンノカァ?」
やり場の無い苛立ちを拳にこめて声の聞こえる壁を叩き付けた
直ぐにその喧しい声は消えたが、変わりに聞きなれた声がその壁から聞こえてきた
否、そこは壁ではなかった
そろりと開いたドアの向こうから、部屋の主である兄の萱《かや)が怪訝そうに顔を覗かせた
「……艸か? 今叩いたの。もう少し静かに叩いてくれ」
「……悪ぃ」
「何か用か?」
「……いや」
「……そうか」
そう言うと兄はドアを閉める
「ケケケッ」
こいつにすっかり馬鹿にされたらしい
こいつらはつくづく腹立たしいが、短気すぎる自分の性格も情けない
ドアに下品な笑みを浮かべたそいつを無視して部屋に逃げ込んだ
ドアを少しだけ開けて滑り込むように中に入る
この入り方がすっかり体に染み付いてしまった
ドアに鍵をかけ、鞄をベッドに投げ出すと机の一番下の引き出しの鍵を開ける
その中から塩と霧吹き、新しい小皿を取り出すと、ドアの近くに置かれた盛り塩を新しいものに取り替える作業を始めた
始めはたかが盛り塩と思っていたが、これで結構役に立っている。おかげでこの部屋は家の中ほど酷くはない
毎日これを盛っては、人目の付かない時間に古い盛り塩をシンクに流すという作業が日課になっていた
塩を盛り終えると、鞄からメモを取り出した
今日学校帰りに寄ってきた市立図書館で、とある事柄を調べてきた
妖怪とか、怪奇現象とか――
そういった、人にはおおっぴらに話せないこと……
本を借りて帰るとそういった履歴が残るし、何より家族や使用人たちにそんな本が見つかったら何を言われるか分かったものじゃない
図書館で知り合いや図書館員にそう言った姿を見られるわけにも行かないので、重要そうなことだけメモにとっておき、覚えたら燃やして捨てる
面倒なことだが、こういった思想の持ち主だと勘違いされればのちのちもっと困る
自分も、家族も――
それくらい僕の苗字は面倒を背負っている
「……はぁ」
出た溜息は部屋の空気すら重くしてしまったように感じ、僕は気だるい体をベッドに横たえてメモに目を通し始めた
※※※
食事は僕だけ部屋に運んでもらっている
昔は親父達と家族四人で食卓を囲んでいたが、とうの昔に止めた
家族と長く居るだけ、自分の変な言動を見られてしまう可能性が増すから
机に向かって宿題を済ませていると、控えめにドアが叩かれた
「艸様、お食事をお持ちしました」
麗の声だ
二年ほど前から僕に関することは麗が全てやるようになった
「ドアの前に置いといてくれ」
「……はい」
弱弱しい声の後に小さな足音が遠ざかる
しっかり五分待ってからドアを微かに開けて廊下に誰も居ないことを確認すると、様々な食事の乗ったワゴンを部屋に入れてドアを閉めた
食べ終われば空の食器をワゴンに置いて、部屋の外に置いておく
そうしておけば勝手にワゴンを下げていく
「艸様、お食事をお下げしますね」
「……」
「……失礼します」
麗は極力僕に声をかけるように言われているのか、些細なこと一つ一つに声をかけてくる
始めはそれを煩わしく思っていたが、今では慣れた
宿題を終えると夜も更けた
そろそろダイニングからもキッチンからも人がはける時間だ
僕は古い盛り塩を片手に部屋を出た
人が居ないことを確認しながらダイニングルームにたどり着くと声が聞こえた
親父と兄貴のようだ
まだ居るなんて珍しい
少し遠回りになるが迂回してキッチンを目指す。中を覗くが使用人は折らず食器もすっかり片付けられているので、親父達は食事を終えながらもまだダイニングに居座っているようだ
あんなところで話しているのだから仕事の話ではないだろう
音を立てずにキッチンへ入ると静かに水を流す
一つ隣のダイニングルームから声が数かに漏れていた
「最近、少し様子が変ですかね」
「変?」
「今日も思いっきり部屋のドアを叩かれました」
思わずドキリとしてしまって、慌てて水を流すのを止めた
「イライラしているようですし」
「それは、ほら。思春期だからな」
「そうかもしれませんが、艸には前がありますから」
「そういう言い方はやめろ。昔のことだ」
―― 昔のこと
この家には昔からいろんな人ならざるものが居た
それを視る度に親父に泣きついた自分を、始めは親父もおふくろも構って欲しさからだろうと思っていただろう
しかし歳を重ねても気味の悪いことを言い続ける僕に、ついに親父は秘密裏に医者を呼んだ
精神科医だ
僕は『虚言癖』もしくは『統合失調症』の烙印を押された
病人として扱われ始めてから、僕は全てが面倒になった
理解の非共有も、視界の現実も、全て自分の欠陥とすることにした
確かに僕は病人なのかもしれない
そう思うと意外と楽で、こうして生きていくうちに家族内の不和も無いことになった
しかし、こうしていると昔以上に自分が病人になってしまった気がするのは何故だろう
普通を装う、嘘に憑かれてしまったからだろうか
今の僕こそ『虚言癖』に犯されてしまっているような。そんな気がしつつも考えるのやめる
僕は綺麗に洗い流された手元の小皿を親指の腹でひと撫でして、何かを拭った
静かにキッチンを出る僕の遥か彼方で、声は未だ聞こえていた
※※※
「あー、君影くん。少しいいかな?」
授業が終わって机で荷物の整理をしていた僕に、担任が声をかけてきた
ちなみに、この先生が男子生徒を「くん」付けするのは僕だけだ
どうせ前髪が長いとかそういうことを指導するように、生徒か他の先生に指摘されたのだろう
「すみません。〝父〟に早く帰るよう言われているので」
嘘ではない
しかし、それは学校が終わった後に時間をつぶして遅い時間に帰ってくる僕に対して言われた言葉だ
授業が終わって直ぐに帰って来いと言われたわけではない
しかし、担任は僕の〝父〟という言葉に一瞬身じろぎしてぎこちなく笑った
「そ、そうか。なら仕方ないな。また次でいい」
「……さよなら」
僕は鞄を肩に担いで教室を出た
別の用件なら聞くだけ聞いてもいい。遅く帰る言い訳の一つにもなる
しかし前髪を切れという話は長引くとは思えないし、指導した事実があってもなお切ってこないと親父の耳にも届く可能性があるので避けるようにしていた
指導した事実が無ければ担任も親父も強くいえない
嘘をつくのも、もう何とも思わなくなってきてしまっていた
※※※
今日は隣町まで行ってみようかと、歩き始めた
隣町と言ってもそう遠くは無い
今日はあの絵本の発売日でもあるから、本を探すついでに新しい本屋でも探してみようか
またアイツに見つからないように気をつけながら、僕は家とは反対方向に歩き出した
案外早く本屋は見つかり、僕はそこに足を踏み入れた
本屋は良い
図書館と違って強制されているわけでもないのに店内は静かで、店員も商品を進めてきたりしない。どんな本棚の前に居ても他の客も本を読んでいたり探していたりと夢中で他人をあまり気にしない
僕は児童書付近の棚に向かうと例の絵本を探した
僕が小学校の時くらいに全盛期だった錯視の絵本は、今はさほど有名ではなくなった
大々的に売らなくなったため、少しばかり探すのに手間取ったが何とか本棚から一冊見つけた
最新刊であることを確認すると、ついでにいくつかの棚を回ってからレジに向かう
店員は客の買う物にあまり意識をそそがないようにしているのか、僕が絵本をレジに持っても顔色一つ変えず本をレジに通すと、さっさと袋に入れた
僕にはそれが好印象で、店を出てからもう一度店の看板に目をやって名前を覚えた
シソの葉のような赤紫色の袋は、本屋ではあまり見ないものだなと思いながら道を歩く
気ままに道を曲がりながら最終的に家にたどり着くように道を歩いていると、学生服を着た人たちが目に付くようになってきた
近くに学校があるのだろうか、セーラー服の女子学生も学ランの男子学生も僕には物珍しくてついつい横目で追っていた
思えば僕の学校もその周辺の学校も皆ブレザーだったと思い至る
―― 学ランは、僕には似合わないだろうな
そう思っていた時だ
「チョーダイ……」
その声は一番聞きたくなくて、聞き覚えのあるものだった
汗がどっと溢れてそれが冷えて凍えるように体が震えた
手元の袋がグシャリと悲鳴を上げる
「メ……、チョー、ダイ」
逃げるしかない
僕は振り返らずに走った
追ってくる声は遠いような近いような
それが不安を煽った
この周辺の土地勘はあまり無い
途中飛んで行きそうになる思考を留めながら走っていた僕は、あっという間に現在地を見失った
とにかく逃げねば
もう一週間も前になるというのに、アイツの声に振り返って視てしまったあの顔が鮮明に思い出される
人とは思えない
しかしかろうじて人の形を保った真っ白な顔に開いた二つの穴
その黒い穴の向こうから涙のように流れ出ている黒い何か
日が暮れて路地に入った艸を覆う濃い影に、一層心臓が痛みを訴えた
向こうから差す光に何故か希望のようなものが見えた気がして、飛び込むように路地を抜けた
―― あ。
そう思ったときには遅すぎて、真っ黒な瞳とかち合った
しかしその色には不思議と恐怖は沸かなくて、受け止めねば。そう思った
思った時には、背中に強い衝撃があって耳元で何かが散らばる音がした
背骨にコンクリートがぶつかった衝撃と、肺を押しつぶすような圧し掛かる重みに一瞬意識を手放していたのかもしれない
「ご、ごんなさいっ! 大丈夫!?」
その声になけなしの意識を叩き起こした
目の前の黒髪の黒目の少年は年下だろうか、死に目を見かけた僕より死にそうな顔でこちらを覗き込んでいた
こういう時、「大丈夫」と言うのも嘘くさいし、どうせ気まずくなる。当然罵倒する気にもならないし、そうこう考えているうちに少年は落ちたものを拾い始めていた
足元は思った以上に悲惨だった
少年の持ち物らしいパンフレットの他に自分の私物もばら撒いてしまっている
先程本屋で会計を済ませた後、鞄のチャックを閉め忘れていたのかもしれない
そこでハッとした
両手が空いている
先程まで持っていたはずの本屋の袋が無い
慌てて見渡すと、少年の目線の先にそれはあった
よりによって袋から中身が飛び出してしまっている
僕は慌ててそれをひったくると、本を袋に押し込んで他の物を拾うことに専念しようとした
「その絵本、新しいのが出てたんだ。俺も買って帰らないと」
その声は先程謝ってきた少年のものとは思わせないほどに柔らかかった
思わず人が変わったんじゃないかと顔を上げてしまったくらいだ
その表情は声のまま柔らかく笑顔を作っていた
僕はこれほどまでに『笑顔』を完璧に体現する人間を初めて見た
「俺も好きなんだ、その絵本
いつも弟たちが先に読んじゃってて俺はちゃんと目を通したことがないんだけど」
「……」
「人の目って不思議だよねぇ」
以前微笑みを浮かべたその真っ黒な瞳には、どういった世界が見えているのだろう
―― 幸せそうだな
そう思った
自分とは正反対のものに見えた
「あ!」
声をあげたのは少年で、不覚にも僕は驚いてしまった
「手! 血が出てる!」
そう言われて両手を見れば、転んだ時に擦りむいたのでろう左手の側面に血が滲んでいた
「ちょっと待ってて!」
そう叫ぶように言うと、少年は近くのベンチにリュックとパンフレットを置いてどこかに走り去ってしまった
どうしたものか、と悩んだがここで立ち去るのも不自然な気がしたし、この状態では家に帰るしかないが、まだ時間が早い
あの家に早々帰ってもいいことが無いことを悟っている僕は、大人しくベンチに腰を下ろした
荷物を整理するついでに、血で汚さないように少年の持っていたパンフレットを少しめくった
高校のパンフレットだ
僕も来年は受験生だが、この時期から持ち歩いているとなるとまさか自分より年上なのだろうか
ただの童顔の可能性もあるが百歩譲って同級生にしか思えない
そうこう考えていると少年はハンカチを片手に戻ってきた
そのハンカチが濡れていることを理解した時には、少年に左手を取られていた
驚きはあったがしみるような痛みに咄嗟に口をつぐむ
少年は要領よく傷の手当を終えると満足げに笑った
「……手際がいいな」
正直な感想だった
我が家の使用人並みの手際の良さだった
少年は少し照れくさそうに首の裏に手をやる
「弟妹がやんちゃ盛りでな。よく怪我したりするから道具一式持ち歩いてるんだ」
兄弟。という言葉に兄貴の顔が浮かんだが、年上と言うこともあるだろうが、あの澄ました顔に「やんちゃ」という言葉は当てはまらなかった
黙っている僕は少年にはどう見えたのだろう。急に眉尻を下げてしまった
「あ、いや、ごめんな。俺が走ってきたせいで怪我までさせちゃって」
「……いや、こっちも周りが見えていなかった……」
咄嗟にそんな言葉が出て、我に返った
―― そうだ、アイツ……
顔を上げて周囲を見回すと、道路の向こう側にアイツは居た
この時は何故か逃げるという行動は頭に浮かばなくて、強気なまでの舌打ちが出た
追っ払うという意識は無かったと思うが、僕の行動にアイツは景色に溶けるように消えていった
隣に居た少年が小さく身じろぐのが分かって、先程の会話の流れから悪い印象を与えたと気づく
「お前じゃない。気にするな」
「あ、うん……」
少年は向こうの道路に目を向けている
しかし何も捉えられなかったのか少し不思議そうな表情のまま遠くを見つめていた
僕は、何故だろう
やはりその瞳に映るものが気になった
どうしてこんな気持ちになったのか、自分自身でもわからない
優しげな笑顔だろうか、この本を好きだといってくれたからだろうか、歳が近いからだろうか、全くの赤の他人だから逆に気楽だったからだろうか
気づいたら僕は少年に絵本を差し出していた
※※※
―― 変な奴だった
そんな事を考えながら盛り塩を積み上げる
まるで初めて触れたと言いたげに絵本の角を指でつついたり、僕なら一秒も見ずにめくる目次のページに見入ったりと行動がどこかずれていた様に僕は思える
それでも不思議と嫌な感じはなくて、僕は物珍しい生物を見つけた気分だ
それに……――
「なんか、初めて会った気がしないんだよな……」
そう言葉にしてみるがしっくりこなくて首を軽く振った
いや、会ったことは無い
それは確実。しかし、あの顔を僕はどこかで……
そんな事を考えていたらドアがノックされて塩を少し零してしまった
そのノックの音が麗のものではないと気づいたからだ
いつも遠慮気味にされるノックと違ってそれは力強かった
「艸。いるんだろう?」
「……何?」
僕は盛り塩を部屋の隅に隠し、塩と霧吹きを引き出しにしまった
親父が僕の部屋に来るなんて珍しい
「お前な。親とドア越しに会話する気か?」
別に言いたいことがあるならその場で言って帰ってくれればいいのに、と思ったがこのまま開けないと後が怖いのでドアをほんの少し開けた
ヤクザ顔負けの親父の顔があった
同時にあの少年の顔が浮かんだ
親父とは欠片も似ていない少年の笑顔が浮かんで、自分自身が酷く驚いた
親父はそんな僕の様子に気づいているのかいないのか、少し怪訝そうに眉をひそめた
「……なんでそんな隙間からなんだ」
「……別に。で? 何?」
「いや、最近お前と話していないなと思ってな。少し、話さないか?」
「……」
「そう嫌そうな顔をするなよ……」
そんなに嫌そうな顔をしていただろうか
親父はやれやれと言いたげに呆れた顔をした
「部屋に入ってもいいか?」
「……」
これは正直嫌だった
横目に部屋の隅に追いやられた盛り塩を見やり、床に少しばら撒いてしまった塩の残骸を見下ろす
返事に困っていた僕に、父は身じろぎひとつせず立ったままだ
何かしら返答しないとこのままずっと居るだろうと容易に想像がつき、僕は誰にでもいいから助けを求めたい気分だった
そこへゴロゴロと聞きなれた音が聞こえて、親父は廊下の先に目をやった
僕の場所からでは廊下を確認できなかったが、その声で大体の状態はつかめた
「あ、も、申し訳ありません。あの、艸様にお食事を……」
いつも以上に緊張した声色で麗のか細い声が聞こえた
夕食のワゴンを押してきたらしい
「いや。いつもすまないな」
「い、いえ……」
「親父。話なら食事がてらでいいか?」
僕の言葉が意外だったのか、親父も麗も少し驚いたようだった
「下でか?」
「ん」
下、というのはダイニングルームのことだ
職場も部屋も一階以上にある親父にとっては、ダイニングルームは一番下に位置する場所なのだ
正直僕だって気は進まないが、この状況で親父を部屋に入れる気にもなれなかった
親父は軽く頷いて麗にワゴンをダイニングに持っていくように指示した
「待ってるぞ」
麗を見送ってから親父はそう言って部屋の前から去っていった
僕は慎重にドアを閉めてようやく息をついた
言った後からこれでよかったのか考えることが多い
しかし、親父の顔を見た瞬間。何故かあの少年の顔が浮かんだのだ
もしかしたら、あの少年と親父何か関係があったのかもしれない
確信はないが、何か聞き出せるかもと思ったのは事実だ
僕はルーズリーフを一枚鞄から取り出すと、適当な大きさにちぎってそれに塩を少し包んだ
それを胸ポケットにしまう
―― 何も、起きませんように
僕には、そう願うしかなかった
※※※
ダイニングのドアを開いたのが僕だと気づいて、兄は少し驚いた表情を見せた
僕は正直それどころではなく、壁の染みやテーブルクロスの下から見える白い腕を見ないように席に着いた
「まー君と食事なんて何年ぶりかしら。母さん嬉しいっ」
なんて笑うおふくろにどんな顔を返したか分からない
ただただ食欲の失せるこの空間はやっぱり来るんじゃなかったと艸を後悔させた
「母さん。その呼び方はいい加減やめたほうが……」
「えー。気に入らない? かー君」
「いや、その。気に入らないとかではなく、もう私達も幼くありませんし……」
かー君、僕の兄貴である萱は少し困ったように肩を落とした
兄貴ももう直ぐ大学生だ。その呼ばれ方は流石に嫌なのだろう
そこをはっきり嫌といわないのが兄貴らしい
「まあ、それはとにかく。頂こうじゃないか」
親父の言葉におふくろは「はーい」と女学生のごとく返事をする
手を合わせる三人に、僕は吊られる様に合掌した
「お前も、来年からは受験生だな」
「……ん」
「あー、勉強はどうだ?」
「……そこそこ」
「そうか」
親父はこんなたわいも無い会話を投げかけて来てばかりだ
結局何の話がしたくて僕の元に来たのだろうか
僕はやはり食欲がわかなくて、ちびちび食事を口に運んでいた
僕は今日会ったあの少年について考えていた
「……、なあ。親父」
どうしてか親父の顔を見た瞬間に思い出したあの少年の顔
親父に聞いてみたら分かるかもしれないと思ったのだが、少年の名を聞き忘れていたことを思い出した
「あいつ知ってる?」なんて聞いても親父はその少年に会っていないのだから分からないのは必然だろう
「ん? 何だ?」
「……や、なんでもない」
「そう、か」
僕は何かを押し込む様にグラスの水を喉に流し込んだ
―― バンッ
ガラスを叩く音が聞こえた
本来なら辺りを見回して確認すべきなのだろうが、僕はグラスを片手に固まってしまっていた
声が、聞こえた気がしたのだ
親父も、兄貴も、おふくろも。皆食事を続けている
カチャカチャと必要最低限の食器が擦れる音がする
僕は背中がジットリ濡れるのを感じながら、顔を動かさないように目だけで音のほうを追った
「メ.チョー、ダイ」
―― バンッ
その音に驚愕の表情を向けられたのは僕だった
親父が、兄貴が、おふくろが。突然テーブルに両手を着いて立ち上がった僕を凝視する
顔を上げられない
「どうした。艸」
親父は出来るだけ平然を装って声をかけてくる
何か言わねば
何か
「部屋。戻る……」
「お、おい! 艸っ!」
親父の制止など知ったことでは無い
ついに家まで来てしまった
連れて来てしまった
どうしよう
どうしよう
どうしよう
部屋に飛び込んで鍵をかける
カーテンを全て閉め切って、部屋の電気という電気を全てつけた
盛り塩をドアの前に置く
ついでにもう一つ作って窓の近くに置いた
ドアを叩く音がしたが、それに答える気力は無く僕はベッドの上で眠るように意識を手放した
※※※
声が、聞こえる
歌?
―― あめ……、ま、め……
何?
聞こえない
―― か……に、ど……、……さい
誰だ?
歌とも言葉ともいえぬ音は、波のような、木の葉が吹かれるような音でかき消されていた
―― だ、……、め……。か……
聞こえない
聞こえないっ
今まで目を閉じていたのだろうか
急にあの少年の顔が僕を覗いた
にっこりと深く笑って、あの黒い瞳は瞼に覆われている
少年が握った拳を差し出すように艸の前に持ってきた
一瞬意味が分からなくて、直ぐには手を差し出すことが出来なかった
少年の拳の下に手のひらを差し出す
すると少年は嬉しそうに拳をゆっくり開いた
僕の手のひらにコロンと落ちた二つの球体
その二つと僕の視線がかち合った
※※※
小さく扉を叩かれる音で、視界が開けた
部屋は煌々と明るく、カーテンの隙間から差し込んでいる朝日をも打ち消していた
再び控えめなノックが聞こえる
「ま、艸様? 艸様?」
「……」
寝すぎたせいか、昨日の事があってか、頭が重たい
声が聞こえるほうへ歩いてドアを開けた
「あ、ま、艸様っ! おおはようございます!」
ペコリと下げられた頭を見て、どうしてドアを開けたのか自分でも分からなかった
いつもなら夕食の時同様開けないのに
「あ、あの。昨日は気分が召されない様子とのことだったので、お、おかゆをお持ちしました」
「……ん」
「あ、あの。学校のほうは、いかがいたしましょうか?」
僕は相当酷い顔をしているのだろうか
先程から麗の表情が優れない
いつも以上におどおどとして、こちらを痛々しそうに見上げてくる
「……休む」
「か、かしこまりました!」
「……親父達は、何か言ってたか?」
麗は少しキョトンとして思い出そうとするように、顎に手を添えて言葉を探しているようだった
「いえ、艸様の体調を気にしておられましたが……」
「……そう」
変に思われていないなら良いのだが
食事を受け取るとドアを閉めた
カーテンをそっと開き、外の様子を眺めるが特に異変は無い
食事をしようと椅子に座った時、ようやく自分が制服のままだったことを知った
※※※
いつの間に紛れ込んでいたのだろう
昨日買ってきた絵本の袋の中に、まだ色変わりしてない木の葉が紛れ込んでいた
それを指でつまんで机の上に捨て置く
代わりに本棚に並んだ同じシリーズの絵本を一冊取り出して袋に入れた
―― あの変な夢
僕は小さく身震いをして手のひらを掃う様にこすった
そうだ、どうして疑わなかったのだろう
絵本を手にした時の少年の不可解な行動
まるで生まれて初めて絵本を手にしたかのような喜びよう
見た目の年齢とは相容れない行動の数々
もしかしたら
もしかしたらあの少年は
「人間じゃ、無かった……?」
そう思い始めるとどうしようもなく落ち着かない
あの時、僕は本当に二人で居たのだろうか
僕が見ていたものは他の人には見えていなかったのではないか
僕は今まで人間に、他人に好意的な意識を向けられたことが無い
それは僕の性格も要因の一つだろうが、どちらかと言えば人間でないものに好かれる。いや、からかわれる事が多かった
浮かれていたのかもしれない
一見人間だった彼に優しい笑顔を向けられて
僕は何かを見誤ってしまったのではないか
僕は一度脱いだ制服をもう一度着込んで、廊下に誰も居ないことを確認すると袋を片手に部屋を出た
※※※
確かめなければ、と思った
それ以上の別の感情は気づかないフリをした
もし、あの少年が人間でなかったとき、僕はこの感情を持て余すと思ったから
日が傾き始めて、僕は昨日少年とぶつかったあの緩やかな下り坂を訪れた
昨日と同じベンチに腰を下ろす
少年が再びここを訪れるかなんて分からない
僕のように昨日は偶然ここを通っただけかもしれない
もし今日会えなかったら、もうここには来ないつもりで僕はベンチにじっと座っていた
遠くでチャイムの音が聞こえた
僕の学校とは違う音
膝の上に載った袋の上でせわしなく両手の指が動く
結んでは開き、開いては結び、このまま来ないでくれと思う反面、待ちわびているような
そんな気持ちでじっと座っていた
「あれ? もしかして昨日の……」
その声に慌てて顔を上げた
昨日と何一つ変わらぬ様子で、頭から足先まで真っ黒な少年が立っていた
昨日はじっと見ることが無かったが、真っ黒な髪に瞳。学ランを首元までしっかりとめていて一昔前の優等生をそのまま体現しているようだった
「昨日の怪我はどう?」
「……あぁ。……」
そういえばそんな怪我もしたなと少年が絆創膏を貼ってくれた左手を確認すると、僕の手を見て少年は少し表情を険しくした
「昨日のままなのか? 絆創膏は貼り変えたほうがいい」
そう言いながら少年は僕の隣に腰を下ろすと、昨日と同じように僕の手を取った
少年の冷たい手が僕を緊張させた
昨日もこんなに冷たかっただろうか
この肌寒い季節のせいであると思いたい
「古いものは剥がすけど、自分でやるか?」
「あ、あぁ……」
絆創膏をめくれば多少の痛みがあり、血なのか膿なのかまだかさぶたにはならず湿り気があるように見えた
「ほら、手出して」
まるで子供を扱うように少年は手を伸ばす。その手には昨日とは違う色柄のハンカチと消毒液を持っていた
再び僕の手を取って着々と治療をこなす少年の手は、僕の体温が移ったのか彼の体温が戻ってきたのか、先程よりは冷たく感じなかった
意識しないうちに少年の手元をじっと眺めていたらしい
不意に少年が動きを止めたので顔を上げれば、やはり暗い表情の顔がこちらを見ていた
「なんか、具合が悪そうだけど。大丈夫か?」
「……、別に」
「でも、早退したか、最悪学校にも行ってないんじゃないか?」
その言葉に僕は驚きを隠せず少年を見返すと、少年は少し困ったように笑った
「鞄を持たずに学校に行く人はそうは居ないぞ。君の通う学校からここまではまぁまぁ距離があるから、六時間目が終わってからこの時間にここに居るのは難しいし」
「……」
そう言われてみれば、絵本意外のものは必要ないと思って持ってこなかった
確かに教科書も筆記具も持たずに学校に来る人間は中々居ないだろうし、少年の言うことは正しかった
少年は僕の手元にある袋を一瞥すると、申し訳なさそうに視線を下げた
「俺が、無理をさせてしまったかな……」
「違う」
少し強い口調になってしまって、少年は少し怯えたように見えた
僕の顔は親父似で強面だ。睨んだつもりは無いのにヤンキーと呼ばれる類に「ガンつけんな」と絡まれることもしばしばだ
そこらへんの奴に負けるほど柔な教育は受けていないが、この顔にあまりいい印象は持ってもらえない
僕は依然と表情の暗い少年を前に何と言えばいいのか分からなくなって、謝罪と言い訳の言葉が頭の中をぐるぐる回っていた
言葉はいくらでも浮かんでくるのに一つも音として出て行かない
車が数台通り過ぎていった
「ごめん」
その声はあまりにも小さくて、隣に居た僕以外には聞こえなかっただろう
「ごめん。気を、悪くしないで……」
彼は消毒液で濡れたハンカチをぎゅっと握って俯いてしまっていた
そこでようやく気づいた
彼は僕の顔ではない何かで怯えているのだと
さっきまでの社交的で友好的な少年はどこに行ってしまったのかと思うほどに、今の彼は別人に見えた
もしかしたらこっちが本物の彼なのかもしれないと思った
常に何かに怯えている
かなり勝手なことだが、僕は彼に似たものを感じていた
「怒ったんじゃ、ない。今日は、僕が、確かめたくて、来た……」
「……? 何を?」
―― お前が人かどうか
なんて言う訳にもいかず、僕は少し迷った末に少し唇を下で濡らしてから言葉を紡いだ
「な、まえ……」
「え?」
「僕は、艸《まぐさ)。お前の、名前は?」
キョトンとした彼は、少し情報を整理する時間を設けた後に花がほころぶように笑った
「香。〝香り〟と書いて〝香〟
男にしては変わってるだろ?」
「僕には負ける」
「〝まぐさ〟ってどう書くの?」
「え、とな……」
手のひらに指で書いてみせると、博識の香は直ぐに「草」の本字であると言い当てたが「まぐさ」とは読まないと首をかしげた
僕はあの目新しいものが大好きなおふくろの顔を思い出しながら、ため息混じりに吐き捨てた
「ただのキラキラネームだ」
※※※
大きな一歩に思えるようで、僕は半歩も前に出ていなかったのかも知れない
僕は結局名乗れなかった
僕の大部分を占めている『君影』の姓を――
知られたら、この『普通』が壊れてしまう気がして
香とは、ただ平等で、対等で、横に並んだところに居たかった
僕が卑下する必要も無く、香が謙遜することも無い
そんな『友達』のようなものでありたかった
もう人間か否かどうかなんてどうでもいい
いや、知るのが怖くなっただけだ
昨日よりもずっと、恐ろしくなっただけだ
僕はどこまでいっても臆病者だったらしい
今日は早く返ったほうが良いと、明日もここに居るからと香に言われて早々家に戻った僕は、人目に触れないようにこっそり部屋に戻った
制服を脱いで盛り塩を盛る
そして大人しくベッドに入った
まだ外は夕日で明るいが、僕は急に力を抜かれるように眠りについた
※※※
声が、聞こえる
歌か言葉か、分からない
―― あ……、め、ま……
聞こえてきている
―― ……り、ふた……、もちな
聞き覚えが、ある?
波。いや、木の葉が吹かれる音が耳障りだ
―― 取られるぞ
※※※
急に鮮明に聞こえた声に体が痙攣した
一気に覚醒した意識に冷たい風が頬を叩いた
―― 風?
どこから?
そう思って身を起こせば部屋の悲惨さに目を疑った
一瞬部屋の中か疑うほどに、床一面が枯葉に埋もれていた
自分がかぶっていた布団の上にも積もっている
慌てて部屋を見回せば窓が開いている
そこから冷たい夜風が吹き込んできていた
それにしてもこの枯葉の量はおかしい
誰かが持ち込んだとしか思えないほどの量だ
そもそも誰が窓を開けた?
昨日あんなことがあったのだ。無防備に窓を開けるようなことはしないし、部屋を出る前に施錠はしっかり確認した
帰ってきたときも異変は無かった
何が……――
「少年」
「!?」
声のほうへ慌てて顔を向けると、勉強机があった
正確には勉強机だったと思われるもの
しっかりカットされて組み立てられていたはずの木の机は、息を吹き返したかのようにでこぼこと幹をつくり、枝を伸ばし、天井を埋め尽くしていた
その枝から枯葉がひらりと落ちてくる
「お、前……」
以前声をかけられた木に浮かんでいた顔とおそらく同じ顔が、勉強机だったものから浮き出ていた
もごもごと幹のシワがうごめく
「お主に鬼難の相が出ておる」
「……きなん?」
「代わりを手に入れるのだ」
「……?」
僕は少しずつ距離をとる
ドアのほうへ壁に背をつけたまま移動し、ドアの鍵をゆっくりはずした
しかしドアノブをいくら押しても壁のように動かない
木の枝がドアの開閉を邪魔しているらしい
「このままでは、いずれ取られるぞ」
カサカサと床に降り積もった枯葉たちが、小刻みに揺れ始めた
地震でも風でもない、枯葉たちがカサカサと鳴き始め部屋の中で竜巻が起こっているかのように葉が宙を舞い始めた
思わず身構える
枯葉の舞う音が煩くて他の音が全く聞こえない
僕はきつくつぶった目を何とか少しだけ開いたが、砂嵐のように視界がハッキリしない
しかし僕の視線はひきつけられるようにあの顔へ導かれる
あの顔の口元が微かに動いている
何か言っている
「何だって?」
「――。――」
「何だ! 聞こえねぇ!」
―― ガチャッ
背後から聞こえた音に、体が固まった
全ての音が消えた
僕の後ろにはドアしかない
先程までは全く開かなかったはずのドアが開いた音
僕は恐る恐る振り返った
そこには目を大きく見開いた麗が居た
僕の目をまっすぐ見返して、そして僕の部屋を一瞬見て、見てはいけないものを見てしまったように僕へ視線を戻した
「あ、ああ、あの。艸様の声が、き、聞こえたので。その、つい。気になって……
何度か、外から、声をおかけしたんですが……。その……」
もじもじと戸惑いながら言葉を探す麗に、僕は自分の部屋を振り返った
勉強机はいつの間にか何事も無かったかのように机の体裁を取り戻している
しかし、部屋を埋め尽くす枯葉はそのままで、夢ではないことを告げていた
「……麗」
「は、はいっ! 申し訳ありませんっ!」
「……誰にも言うな」
「は、はい……」
「おふくろにも兄貴にも、もちろん親父にもだぞ」
「は、はい……」
麗はうつむいたまま力なく頷いている
僕はそっとドアを閉めて、鍵をかけた
ドアの向こうから麗の声が遠慮気味に聞こえる
「あの、お掃除……。お手伝いは……」
「いらねぇから。仕事に戻れ」
「……はい。……」
しずしずと足音が遠ざかっていく
僕はとりあえず手短なところから枯葉をすくって窓から投げ捨てた
何度かしゃがんでは投げ、しゃがんでは投げを繰り返しているうちに、ふと机の上にまだ青い木の葉を見つけた
いつの間にか絵本の袋に入り込んでいたので机の上に置いたはずのそれは、先程の騒動など無かったかのように置かれたままだ
僕はそれを指先でつまんで舌打ちを一つすると、窓の外へ投げ捨てた
※※※
学校を訪れても、授業中も昼休みもまったく別のことを考えていた
あの木の言ったこと。「取られる」と「代わりを手に入れろ」
「取られる」と言う言葉には少なからず思い当たる節がある
目をくれと言って追いかけてくるアイツ
捕まったら目を取られてしまうのだろうか
それは困るな。そう思って少し考えた
困る、のか?
目が見えなくなれば視たくないものも視なくてすむのでは。そう考えて止めた
盲目というのはやはり困る
視えている今より別の方向に大変な目に会うことは想像が付いた
もうこれ以上見える見えないについて考えるのは止めて、「代わり」とは何か考えた
目の代わり、そんなものは存在するのだろうか
それとも……
―― 身代わり
その言葉が頭をよぎった瞬間に指からシャーペンが滑り落ちた
そういえば家族と久しぶりに夕食をとったあの日以来、アイツの姿は見ない
そうだ、香と会うようになったくらいから……
授業中だったせいもあってシャーペンが床に落ちる音はやけに教室に響いた
教師も生徒数人も一瞬そちらに気を取られるが、僕はそれどころではなかった
「君影くん? 落ちたよ?」
「……」
「ど、どうした? まだ具合がよくないのかい?」
僕は担任の言葉にハッと意識を呼び戻されたような感覚を得た
急いでシャーペンを拾い上げると、荷物を鞄に詰め込む
生徒達は僕の様子にざわざわと騒ぎ始めたが、担任はチョークを片手に呆然としている
「え、えっと……」
「早退します」
「え? あ、はい」
ざわめく教室を背に、僕は学校を後にした
※※※
急いで向かったところで香の学校の授業が終わらなければ会うことは出来ない
それは分かっていたのだが、言いようも無い不安に背中を押されるように僕は早足になっていた
遠くで僕の学校とは違うチャイムの音がした
僕は走っていた
香は既にベンチに座っていた
手作り間あふれるブックカバーのかかった文庫本に目を通している
僕が道路を横切って向かって行くと少し手前で香が僕に気づき、リュックに文庫本をしまった
「走って来なくても……」
「……」
「とりあえず座ったらどうだ?」
香が隣を指すので、僕は息を整えながら腰を下ろした
ゆっくり呼吸を整えている僕の隣で、香はまだリュックの中を漁っていた
それが終わったと思うと、僕の目の前に香の握りこぶしが差し出される
ぐっと握られた白いこぶしは、あかぎれでぱっくり割れた指の関節が痛々しい
何故か、不安がよぎった
アレは夢だ――
僕は香の拳の下に手のひらを差し出す
香は嬉しそうに笑うと、ゆっくり拳を開いていく
ついついその動作を凝視してしまう
―― コロンッ
「うわっ!」
思わず手を掃ってしまった
僕の手のひらから投げ出された丸いものは、カンッと小さく音を立てて道路の向こうへ転がっていく
―― 「カンッ」?
想像していたものなら決して出さない音に、艸は一瞬呆けてしまった
「ご、ごめん。驚かせるつもりは……」
香は慌ててベンチを立つと、僕が投げ捨ててしまったそれらを拾いに走る
道路脇に転がったそれを拾おうと身をかがめた香の背中が、一瞬消えた
―― 違う
香と僕の間に何かが割り込んで、香を隠したのだ
ソレは、ソイツは。そのまま手を伸ばし、香の背中を押した
「わっ」
香の短い声と、そこに迫る鉄の塊
僕はただ、手を伸ばした
――――
「危ねぇだろうがっ! ガキ共っ!」
その声に僕の視界はゆっくり晴れた
それでも暗かったのはアスファルトにうつ伏せていたかららしい
顔を上げた頃には、その車は走り去ってしまっていた
車が去って、その向こう
さっきまで香の居たところにはあいつがいた
しゃがみこんで、香が拾おうとしていたものを拾った
球体の両端にピラッとしたものが付いたそれは、包み紙に包まれた飴玉だった
あいつは包み紙から飴玉を器用に取り出し、乳白色のそれを満足げに眺めると、僕たちのことなど見えていないように背を向けて消えてしまった
その背中を呆然と見送っていた僕を引き戻したのは、呻くような声だった
「お、重い……」
「あ、悪ぃっ」
すっかり存在を失念していたが、倒れていた香の背中に乗っかっていたらしい
慌てて立ち上がったせいで少しふらついた足を、叱咤して踏ん張る
香はまだ状況がいまいち理解できていないようで、地面に手を付いたまま辺りを見回している
「立てるか?」
「あ、うん。ありがとう」
香の腕を引っ張って立ち上がらせると、車に気をつけながらベンチに戻った
落とした飴玉が見つからないのを香は不思議そうにしていたが、適当にごまかした
貰ったものを投げ捨てるという所業をなした僕に、香は気にした様子も無く改めて飴玉をくれた
「こうやって渡すと、弟が喜ぶから。ついな」
そう言ってさっきのように拳を差し出すフリをして、照れくさそうに笑った
「今度からは気をつけるよ」
「いや……、悪かった」
「さっき助けてもらったみたいだから、おあいこな」
それを言うと、僕のほうが全然返せていないのだがここでぶり返すのはやめにした
包みを開いて、飴玉を取り出す
口に入れたそれは甘ったるくて、少し困った
香はそれをおいしそうに口の中で転がしていて、時折頬がぽこっと膨らんでいる
見た目も幼いが、それ以上に幼い中身を垣間見せる香だったが、帰り際に持っている飴玉を押し付けるがごとく渡してくる姿はどこぞの年寄りのようだ
―― 本当によく分からないな
子供も年寄りも、男も女も、全てまぜこぜにしたような謎の生き物
僕の中で、香はそういう立ち位置に置かれたのである
※※※
「なぁ、親父。香って知ってる?」
「……今日?」
「香りって書いて香って読むんだけど……」
食卓を囲んだ兄貴とおふくろは何の話だろうと、不思議そうに僕と親父をみやった
親父は顎の髭を少し撫でて、首を横に振った
「……いや、知らんな」
「まー君の彼女?」
おふくろが嬉しそうに笑うので僕が訂正しようと口を開くが、それよりも早く父が笑いを零した
「はは、それは無いだろう」
「もー、何でそういうこと言うのぉー! そうかもしれないじゃない!」
「違う」
「照れなくていいのよ! まー君!」
「ホントに違う」
僕はそう吐き捨てると席を立つ
兄貴が僕を見上げた
「ここで食べないのか?」
「部屋で食う。そのほうが落ち着く」
僕は白いテーブルクロスの上をちまちまと歩き回る黒い何かを一瞥し、きびすを返した
「気が向いたらいつでも戻ってらっしゃい」
おふくろの声を聞きながら、静かにドアを閉めた
奥のキッチンからワゴンを押して出てきた麗と丁度鉢合わせた
「あ、艸様。ほ、本日はダイニングでお召し上がりですか?」
「いや、部屋に持ってきてくれ」
「は、はい。かしこまりました」
僕の後ろで麗が押すワゴンの車輪の音が絨毯に吸い込まれて鈍く廊下に響いた
「あ、ああ、あの。艸様?」
「……なんだ」
「そ、その。私の勘違いかもしれませんが、今日はなんだか嬉しそうでございますね」
歩みを止めずに麗を振り返ると、麗はハッと緩めていた顔を引き締めなおした
再びゴロゴロとワゴンの車輪の音だけになる
僕の部屋の前に着くと、麗はワゴンを廊下の隅に寄せてペコリと頭を下げる
「どうぞ、ごゆっくり」
「あぁ」
直ぐにこの場を去ろうとする麗に、僕は声をかけた
「待て」
「は、はいっ!」
怒られるとでも勘違いいたのか、酷く上ずった声をあげて姿勢をぴんと張った麗に僕はポケットから出したものを一つ投げて寄越した
「きゃっ。……あ、あの?」
何とかそれをキャッチした麗は、手の中のものを確認して不思議そうに目をしばたかせている
「やるよ。余るほど押し付けられた」
「え、あ、は、はい。ありがとうございます」
未だに理解が及ばない様子の麗を尻目に、僕は部屋のドアを閉めた
―― 嬉しそう?
僕はポケットに詰め込まれた飴玉達を机の上にばら撒けると、隅にまとめて置いた
夕食を机の上に並べ、手を合わせる
―― そうか、嬉しかったのか
僕はあの運転手の罵倒を思い出していた
―― 『危ねぇだろうがっ! ガキ〝共〟っ! 』――
僕だけでは無かった
僕の下手な勘ぐりはただの杞憂だった
それが
―― 嬉しかった
僕は机の隅に詰まれた飴玉の一つを軽く指で弾いた
何となく顔がつっぱったような感覚がして、僕の部屋には無い鏡の代わりにカーテンを少し開けて窓ガラスを覗いた
そこに映ったみっともない顔
それが僕だと理解するのに少し時間がかかった
―― 家族が見たら何て言うか……
勢い良く閉めたカーテンに、もう僕の顔は見えない
見えなくていいもの
僕の世界には多いのだ
そう思うと、少し気が楽になった気がした
花たちが咲うとき 番外編 一
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