真贋1
1.園
その時僕はほどよく暖房の効いた園舎の中で絵本を読みながら気持ちのいい午睡に入りかけているところだった。
お遊戯会に向けての練習から解き放たれた園児たちは、冬真っ盛りの今日この頃、まるで理性のネジがどこかへ飛んで行ってしまったかのようにはしゃぎまわっていた。
つい2時間くらい前から雪が降り続けていて少しばかり積もっている。一年を通してほとんど雪の降らないこの土地だから、その景色はまだ5年ほどの人生しか歩んでいない子供たちを、おそらくは自分たちが幻想小説の世界に迷い込んだかもしれないと錯覚させただろう。
そんなわけで僕の他に園舎に残っている子供は、ひどい潔癖症で鉄棒をした後に手に残る金属のにおいすら耐えられないタイスケ君と、暗い色合いのグロテスクな絵を書くのが大好きなヨリコちゃん、いつも切迫した様子で竹馬に乗り、一人園庭を何周もしているカツミ君くらいだった。さすがに雪の積もった上を周る気にはならないらしい。もっとも雪遊びに興じている子供達の中に、彼のためのサーキットを開けておこうとするよく出来た子供は、少なくともここからみては皆無であるように思われたが。
どんなに普段室内遊びしかしない子供だってこんな日には外に出るものである。僕だって普段は外にでて遊んでいる。ほとんど毎回採用される鬼ごっこという遊びは僕らを普段の生活では決して到達できないような領域までいざなってくれるし、毎度毎度お決まりのように起こる誰かしらのズルに対しても多くの場合寛容になれた。
しかし今日に限ってはなんでか非常に眠かった。特に体の調子が悪かったわけではないのだけれど、この世の悲哀とか哀愁とか、とにかく哀と名の付く感情が胃の中に溜まっているような気がした。それはいつも一緒に遊んでくれる仲のいい子供たちが、僕が部屋にいるのに気づいて遊びに誘ってくれないからかもしれない。
そして僕は少し孤独な気分も感じていた。しかしそれは気持ちのいい孤独だった。まるで遠足のバスから見える街路沿いの商店街を歩く主婦が僕らに全く関心を寄せないように。
こんなことを考えてしまうのも僕を取り巻く環境が過保護的であるからかもしれない。母にしたって未だに赤ちゃん言葉が抜け切れていないところがある。最近大人の、それも特に女性によるあの甘ったるい言葉遣いに少々違和感を覚える。それは僕らの尊厳に対しての冒涜とまでは思わないけれど、端的に言って必要のない行為であった。だけれども周りの子供たちはそれを甘んじて受け入れている様子だったし、少々気になるということ以外には特に不都合を感じることもないから見逃している。それにそういう態度に対して僕が合わせることで、世界は健全なまま保たれているのだとも思っていた。
とりあえずもし僕がここで寝てしまったら、多分クラスで特別僕に目をかけてくれている美人のはるみ先生が膝枕をしてくれるかもしれないと、自分がまだ子供であることによる特権を存分に発揮できる状況を想像しながら夢の世界の扉を開きかけていたところ、誰かに話しかけられた。
「ともだちになりましょう」
返事をするものに有無を言わせない、そんな調子の声だった。
寝ぼけ眼だったから最初はだれが話しているのか全然わからなかった。次第に視界が鮮明になってきてようやくその声の主がヨリコちゃんだということに気付いた。その時僕は少々驚いてしまった。おそらくは小学校低学年までの子供にしか使用が許されていない魔法の言葉を、この世の中で最も自分が使用するのにふさわしいとでも思っているようなそぶりをして僕に放ってきたからだ。
その言葉を発する資格のある者を僕は簡単に頭に思い浮かべることが出来る。それは体の内に今にも破裂しそうなほどの無邪気さを詰め込んでいて、それが無意識のうちに大気に流れ出ていて絶えず彩度の高い暖色を周りの空気にまとわせている天使みたいな幼女。さすがに理想が高すぎるきらいはありそうだが、彼女にはその資格があるとは到底思えなかった。通常10歳前後にかけて漏れ出す量のほうが多くなりいずれ失われる輝かしさを既に彼女は失っていたから。
「別にいいけど、どうして?」
たっぷり20秒間の沈黙ののち、半ば狼狽気味で僕はその言葉を絞り出した。それだけその言葉は彼女にとって異質極まりないものだった。
「だって友達にもなってないのにあなたの絵をかくなんてやっぱり失礼じゃない」
「ということは君は僕を絵のモデルにしたいのかい?」
「いつも描いてるわよ」
僕がその事実を知らないことがあたかも不思議だという感じだった。
「僕をぉ?」
ヨリコちゃんはよく突飛なことをいう子だっていうのは知っていたけれど、いざそれが自分に向かって言われてみるとやはり拍子抜けしてしまう。何より彼女がそんなに僕に対して興味を持っていることに対してもびっくりした。
「君はよくその真っ黒でよくわからない抽象画みたいなのを描いてるけれど、だいたいそれはなんなんだよ。そんな調子で僕の顔なんて描いていたとしても、僕は100パーセント気づくことはできないさ。」
「でも、私このクラスになってからあなたの似顔絵しか書いてないわよ」
「やれやれだぜぇ」
こんなことになるのだったら折角気持ちよく寝かけていたのにわざわざ意識を深淵から呼び覚ます必要もなかった。いや、そうするべきではなかった。僕には先生の膝枕が待っていたかもしれないというのに。
「僕だからいいものの、他の女の子に言ったらたぶんみんな泣くぜ」
そう言って半ば強引に話を終わらせて再び眠ろうとした。
おそらくはそれは夢だったのだろう。ただ今となってはその真偽に対してはっきりとした断定を下すことはできない。何故なら僕の体験する世界は常に一つではあるのだけれど、消失と再生を繰り返していくものだから。
その時僕は家の前に立っていた。同じマンションの隣に住んでいるユウ君が僕の家に遊びに来ていたのだけれど、今日はどこかに出かけるというので彼の母親と駅で待ち合わせをしているらしかった。
母親がなぜ家の前まで迎えに来ないかという疑問は抱きつつ、僕はマンションの下まで見送ろうとしていた。この階は二階だからわざわざエレベーターを使う必要はないのだけれど、僕は普段母が人を送る際にしているのにならって使うことにした。
結局下の階までは下りなかった。ユウ君がここでお別れで構わないよといったから。本当によくできた子だなと思い、僕はそれに従うことにした。
どうにか頑張って廊下から身をほんの少し乗り出してユウ君が駅への道を曲がっていくのを見届けて僕は家に戻ることにした。
その時不意にメーターボックスが目に留まった。普段ならそれを開けることはしない。なぜなら何がそこに存在しているのか知らなかったし、そういうものに対しては母に相談するのが僕の中で暗黙のルールみたいになっていたから。
だけれども今回は開けてみようと思った。それは好奇心がルールに勝ったということかもしれないし、支配者たちへのささやかな反抗かもしれなかった。そこにはいつもと変わらぬ家庭がそこにあった。ただいささか真実味を欠いていることを除いては。
次の瞬間には僕はもとの園舎の中に戻っていた。急に天候が悪化しひどく吹雪いてきたので、子供たちは半ば強制的に園舎の中に戻されたがまだ浮足立っているようだった。園舎は再び騒がしくなり、僕は先ほどの気持ちのいい孤独を懐かしく思った。読みかけの絵本の続きを読もうとも思ったけれど、この喧騒の中ではそれも無理そうだ。
向かいにあるピアノの上の窓からは隣りの敷地にある図書館が見える。かなり閑散としている様子で、本を読んでいるものは3人ほどしかいなかった。汚い身なりをした男の隣で、司書が退屈さをおくびにも隠さず本の整理をとりあえず行っている。できることなら図書館へ移動したいが、そんなことは許されていないので仕方なく本を閉じる。僕は騒音を気にせず本に集中できるほどの我慢強さを備えていない。
先生たちが出席を取り始める。名簿に沿って男子から順番に下の名前で呼び始める。女子も中盤に差し掛かった時、返事が途切れた。
「ヨリコちゃんどこぉ?」
やはり返事はない。彼女は子供たちを見渡した。雑然と集まっている彼らを一人一人確認していく。カーテンの裏とかピアノの下とかそういった隠れやすいところも丹念に探していく。しかしそこには誰の気配もない。
「誰かヨリコちゃんの場所知らない?」
そういっても誰にも思い当たる節はないみたいだった。お絵かき仲間のミッちゃんにしても全然心当たりがないようだ。
そうなると先生にとってはただ事ではない。駆け足ですぐに隣のクラスに行って彼女を探しに行った。
全てのクラスを回っても彼女はどこにもいなかった。とりあえず最後に彼女を見た子がいないか聞かれたので僕は昼休みに彼女と短い会話をしたことを告げた。
少なくともいなくなってからまだ30分はたっていないことが分かったので何人かの先生たちは園の周囲を捜索し始めた。
事の重大さがようやく伝わってきたのだろうか、つい先ほどまで部屋の中を走り回っていた子達も静かになり、部屋には僕の求めていた静寂が訪れつつあった。絵本の続きを読もうとも思ったが、彼女の失踪も騒音と同じくらいに僕の心をかき乱す。しかも最後に話したのが僕であるというのなら、あの時の会話には何かしら重要な事実が含まれていたのかもしれない。彼女の足取りを頑張って想像してみたが、どんなに考えても検討はつかなかった。
一日捜索しても彼女は見つからなかった。18時頃になってヨリコちゃんのお母さんがやってきたが、そこに自分の娘がいないことを知って頭が真っ白になっているみたいだった。しかしそれはショックによるものではなく、ただ単純に相手の言っている言葉の意味が理解できていないような感じだった。ヨリコ母は次第に怒りに身を震わせるといったこともなく、最後まで冷静だった。園側を責めることも全くなかったし、むしろ先生の方が落ち着かない様子であるくらいだった。
話を終えると彼女は警察へ連絡をしたらしく、10分後には近所の交番の警官がやってきた。ことの次第を今度は彼女の口から説明し、捜索願を出すために二人は交番へ向かった。
入れ違いに僕の母が迎えにやってきて僕は家路についた。
真贋1