一人で食べるごはんほど美味しくないものはない。

料理って難しいよね、いつも作ってくれる人がいるとどうしても甘えちゃうよねって話。なるべくかわいい感じにしたかった。

朝、漂ってくる朝食の匂いで目を覚ます。
家に帰ってくるときもまた、夕食の香りを追いかけてしまう。
毎日、星野弓は間違いなくこの台詞を言う。
「今日のごはんは?」

昼休みの最中、携帯が震えた。箸を止めてスマホを手に取り、メッセージを確認すると、共に過ごしている同居人からのものだとわかった。そこには今日は残業確定だという旨が書き添えられている。今日は急な仕事で残業だから、一人で食べていてくれ、と。イコール、ごはんを作っていてくれ、ということだ。弓は小さく溜息をついて「わかった」と返す。今晩は彼の作る夕食はお預けのようだ。

弓は食が細くない。寧ろ一日の食事を楽しみにして過ごしている。最近は女性の先輩と職場近くに旨い定食屋を見つけて二人で感動したほどだ。その細く小さな体のどこに入るのだと言われても、通勤でかなりのエネルギーを消費するのだから仕方がないと弓は常々思っている。いかんせん、自宅から会社まで遠く、往復でざっと二時間はかかる。逆に、その恩恵といえば食べてもあまり太らずに済むということだろうか。
もう一度小さく溜息をついて今日は何を作ろうかと思案する。きっと彼は馬鹿正直に夕食を食べずに帰宅するだろう。彼のように凝った料理はあまり作れないが、まあまあ普通のものぐらいはできる。実家暮らしだった学生時代よりかは遥かに上達しているのだ。冷蔵庫に何が入っていたっけ、と一瞬考えるも、よくわからなかった。最早、キッチンは共に生活する恋人の城なのだ。休憩が終了したチャイムが耳に届いて、弓はとりあえず目前の仕事を終わらせることに専念しようとキーボードを叩く。

夕刻、弓は一時間ほど残業して退社した。外の冷たい風が肌を掠めて行き、思わず身震いする。春はもう近いというのにこの時間帯はとても寒い。冬はまだ終わりを告げてはくれないらしい。駅までの道を歩いていると、例の定食屋が目に止まったが、今日は無視を決め込む。自分は大人しく帰って、遅く帰る恋人のために夕飯を作らなければならないのだ。
駅にようやく着いて改札をくぐり、少し遅れてやってきた電車に乗り込む。それからたっぷり二十分電車に揺られる。そういえば、彼と付き合い始めたのも丁度冬の終わりの季節だったことに今更ながら気づく。

大学一年生のとき、友人の頼みで彼女が所属しているという大学の演劇を観に行った。演目はロミオとジュリエット。主演の二人ではなかったが、友人の台詞合わせを何度か手伝っていたため彼女を面白可笑しく目で追っていた。やはり名作はそれなりに面白く、マキューシオらは勿論、ロミオとジュリエットは台本通り死んでいった。
けれどそれ以上に、弓はロミオ役の男に目を奪われてしまった。背の高い痩身と長い脚、しなやかな腕や台詞を紡ぐ声が、単純に美しいと思った。無論、一人の観客としてだ。
そういう感想を友人に伝えると、彼女はにやにや笑って、ロミオ役の男との飲み会をセッティングしてくれた。いわゆる合コンである(余計なお世話だ)。そのロミオ役の男も役と似た気障ったらしい性格なのではと、ロミオに失礼極まりない邪推してしまったのだが、意外と話しやすく快活な男だった。実際に彼が目の前に現れたとき、Tシャツとジーンズという服装だったのが何故か酷く安心したことをよく覚えている。まるでロミオには似つかない。その男は、三つ歳上の、守矢恵人といった。
「守矢さん」と「星野さん」から「恵人君」と「弓」に呼び方が変わるのはそう時間はかからなかったし、彼が大学を卒業する頃には自然と恋人同士になっていた。それから弓の就職を境に同棲することになった。
一緒に暮らし始めるとき、いくつかのルールを作った。朝食を作るのは交代制ということも、夕食は先に帰ったほうが作るということもそのルールの一部だった。意外だったのが恵人が料理上手だったことだ。どうやら大学生のとき彼がバイトしていた居酒屋で覚えたらしい。気付いたときにはルールは破綻して恵人が炊事担当、弓がその他の家事担当となっていた。

寒さに打ち震えながら自宅に辿り着き、ああごはん作らなきゃと漠然とそう思う。さっさとスーツから部屋着に着替えてキッチンに向かう。一八◯センチの図体のデカい男が料理をしたいがために選んだ広いキッチンだったが、その男の頭一つ分小さい弓にはこのキッチンは広すぎる。弓は買い置きの焼きそばの麺があることを思い出し、袋を開けた。キャベツやもやし等も冷蔵庫にあることを確認して、麺を解していく。あとは適当に野菜を切ってフライパンにつっこんでしまえばいい。野菜を洗ってサクサクと切っていく。フライパンの上に解した麺を入れて付属のソース粉末を振りかける。それでもまだ足りないと思って某犬種のソースをさらにかける。ザク切りにしたキャベツをフライパンに放り込み、細切りにしたピーマンも投下する。今朝残って冷蔵庫に入れっぱなしだったウインナーも追加した。ふわりと漂ったソースの香りが鼻腔をくすぐる。
炒め終わって皿に盛ると、時刻は七時半を回っていた。恵人君なら副菜も作ったんだろうなあ、と弓は一人考えながら椅子に腰掛ける。焼きそばを口に含み、それなりに美味くできたことを確認する。テレビをつけてみるも今日はあまり面白いものがない。その音だけが虚しく空気に溶けて、自分が今一人だということを思い知らされる。一人の夕飯なんて今まで何度もあったのに、一人になりたい時間もないわけじゃないのに。
そんな気持ちを振り払うようにさっさと食事を終えて食器を洗う。水道から流れる水が氷のように冷たい。ぼうっとしたままそれもすぐに終えてしまうと、どっと疲れが押し寄せてきて思わずソファーに身を預ける。同時に睡魔も襲ってくる。風呂を洗わないといけないのに、洗濯をしないといけないのに、と思いながら抗えきれない眠気に身を任せて弓は目を閉じた。

気がついたら毛布が掛けられていて、恵人が帰ってきていたことを悟った。慌てて辺りを見回すと時刻は八時半。きっちり一時間眠ってしまったらしい。彼は一人でキッチンでビールを開けていた。こちらの視線に彼は気付いたようで、ソファーに向かってくる。弓は一席分場所を開ける。
「おはよ、疲れてたの?」
「まあ、それなりに。⋯⋯おかえり」
最後はなぜだか尻すぼみになってしまったが、その言葉を聞いた彼はにんまりと笑ってただいま、と言ってくれた。どうにも格好がつかなくて思わず俯く。その笑い方はロミオには似合わない。
「ごはん作ってくれてありがとな。ちゃんと美味かったよ」
しかしその言葉で弓は心を許してしまうのだ。ずっと締め付けられていたような気持ちが、するすると解けていく。そんな自分に単純で馬鹿みたいだと自嘲して、けれどそれが心地良くて、弓は小さくありがと、と零した。

一人で食べるごはんほど美味しくないものはない。

一人で食べるごはんほど美味しくないものはない。

同棲してるカップル。料理の苦手な彼女が料理の得意な彼氏を待ちながら奮闘する話。

  • 小説
  • 掌編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-28

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